洛中の山城から比叡山如意岳〜中尾城・瓜生山(北白川城)〜てん子山〜比叡山延暦寺
京都洛中 (五万図=京都東北部)
哲学の道から辿る山城 大文字山・瓜生山〜比叡山延暦寺へ 2004.03.27
近畿の山城 : 大文字山城(如意岳城) 中尾城  勝軍山城(北白川城)
 
東山新城(北白川城の北城)

大文字(火床)から京都市街地を望む
ふるさと富士 : 比叡山
校歌の山  :第四錦林小学校 ♪如意を登りて朝日影xxx・・♪
         〃   
♪…xxx終えつつあおぐ 比叡高し♪
   近衛中学校 
♪…xxx如意岳比叡 遥かしのぎて…♪
   洛北中学校 
♪大比叡を 朝夕べに仰ぎつつxxx…♪
   大原小学校 
♪比叡の雪の空清くxxx…♪
   岩倉北小学校
♪仰ぐ 比叡の空はれてxx…♪

和歌山・奈良・京都・滋賀へと行きたい所は 枚挙にいとまなしですが、今日が阪神間を起点とする山と山城のフィナーレとなるかもしれない最後の山と山城も、兵庫丹波への帰郷準備に追われ時間ばかり過ぎてしまいます。何とか昼近くなって時間の都合をつけ 京都方面へ向かいます。2度目の西国薬師霊場巡拝も丁度・比叡山延暦寺で満願となる機会でも有ったので出町柳〜比叡山コースを 念頭に京阪三条から鴨川沿いに、高野川と賀茂川の合流地点 ・出町柳へ歩き出したが洛中の東の山を眺めていて、ついその山裾を鹿(しし)ヶ谷に向かっていた。
哲学の道(霊鑑寺分岐点)

観光コースの霊監寺から哲学の道を銀閣寺へ進み、此処から大文字山を往復してから目的の一つ、 北白川城(将軍山城)の瓜生山〜てん子山〜比叡山延暦寺を目指す京都一周トレイルのコースです。出立ちが遅くなったうえに、城の位置もよく知らず縄張り図が無いので遺構捜しに時間を費やし、比叡山延暦寺付近も瓜生山から 遠望した感じとは違って遠く、詩仙堂から狸谷不動尊〜瓜生山(北白川城)〜一本杉〜比叡山へ2時間を要し、根本中堂のみ詣って納経を済ませたのが4時半過ぎ、帰路は八瀬側ケーブル乗り場から雲母坂経由で曼殊院 〜一乗寺へ降りてきた。短時間で思わぬ長距離を歩いたようですが吉田山(吉田神社)付近では スッカリ暗くなった御所の横を通って河原町へと戻ってきます。



哲学の道〜銀閣寺⇔如意ヶ嶽 (大文字山)〜中尾山・瓜生山〜てん子山〜比叡山 H16.03.27

哲学の道から銀閣寺に至る疎水縁には桜もチラホラ咲き、西洋石楠花や柳桜、みつまた等多くの草花が目を楽しませてくれます。 観光客の間を縫って銀閣寺門前を左折し小さな八神社側の駐車場の先から大文字山へは竹垣を廻らせた銀閣寺境内東端の谷を隔てた広い登山道から始まります。軽装で歩いている人が多いのは大文字の火床まで往復の散策者の様です。

狸谷不動尊参道から瓜生山(北白川城・勝軍山城)


登り初めて直ぐの地点に水場中尾の水があり「中尾城本丸から…」と但し書きがあった。ハイキング道は其の先で左手の小谷から小川を渡って延びていくが明確な道がある。中尾城への登城口探しついでに大文字山に向かうので 要チエックポイントです。尾根筋に出てくると、ハイキング道と谷を隔てた東の枝尾根(中尾)への取付は分かり辛くなってくる。 送り火の火床に積み上げる木枝が束ねて用意されているのを見て程なく、京都市街地を眺望出来る大パノラマの展望台の大文字に着く。大文字の頭部から、更に続く尾根道は 最後の急登で2〜3段の平坦地を越えて大文字山(点標名:鹿ヶ谷 3等三角点 465m)に着く。
寺の狸谷不動尊参道入口から瓜生山(勝軍山城)遠望

三角点石標の南側には高さ1m程の菱形基線も設置されていますが展望は余り優れません。縦走路はさらに「如意越え」で 如意ヶ岳を経て長等山へ延びています。此処・最高点が大文字山城跡なのですが、 此の先約1.5kmに如意ヶ岳があることで如意岳城の名と所在が曖昧になっているようです。 同じ城か??二つの城が有ったのか…??城名も山名も 混同される山ですが私は「大」文字=如意岳(城)=大文字山(城)と考えます。登山口に有った案内板の送り火由来に有る、五山の送り火の代表「大」文字が地図上の如意ヶ岳に灯っても京都側から見えるのかな?大文字山にも灯れば二つの大文字が…!!地図上からではなく、昔から火床のある 「大」文字の背後の山を 如意ヶ岳と呼ばれてきたと…大文字山から先「如意越え」道を下れば空掘や堀切が確認できたのかも知れませんが、
狸谷不動尊

山頂部の本郭や北に複数段連なる曲輪群を見て引き返し次の中尾城に向かう。 尾根途中の大きな"火の用心" 看板の側から東の谷側へ下る道を見つけた。 流れの無い谷筋を登り返し中尾の枝尾根を目指したが、鞍部近くに2箇所の石積がある。2段目の西側は広い平坦地だが南側は切り立つ岩場。しかし石切場跡の様子もなく砂防用の石積でも無さそうだ。本郭部にも近い鞍部の谷に向かう 絶好の位置なので、近世の城遺構と考えたいが 綺麗に残り過ぎているのでそのままスキップして 藪の少ない尾根に這い上がった。後で地形を思い出したが谷筋を素直に !!詰めれば堀切に出たのかも…そしてこの城の目玉・土橋に出会えたのかもしれないが本郭部を通り、少し先で銀閣寺側への踏み跡を辿った。
勝軍地蔵石室跡

尾根を直進する踏み跡もあったので登山口の八神社まで続いていると思えます。 銀閣寺を後に比叡山を目指すのに、普通は一乗寺か赤山禅院から雲母(きらら)坂経由ですが如意岳城中尾城 と共に足利将軍と三好長慶の戦いの舞台となった北白川城 (勝軍山城 )のある瓜生山へは遠廻りですが詩仙堂〜狸谷不動尊から奥の院へ向かい、 其処から京都一周トレイルコースで、てん子山を経て比叡山延暦寺を目指します。 徳川家康の近侍として大坂夏の陣に出陣し功名を得たが 軍令に反し先駆けした事を咎められ浪人となった石川丈山(漢詩人)の居・詩仙堂の前から傾斜を増した車道が狸谷不動尊奥の院へと続きます。
叡山閣前の一本杉

本堂からは宮本武蔵が修行したという滝 !!!??のある堂から本堂脇の石段上に出ると、 こんがら童子・せいたか童子と続く三十六童子を巡りながら瓜生山(301m)に向かいます。北枝尾根との稜線に着くと”北白川史跡と自然の道”として整備された叡山に向かう縦走路で近江を結ぶ "白鳥越"の分岐となります。 瓜生山へ寄った後は此処へ引き返し、瓜生山東の峰にある東山新城(北白川城の北城・砦)を経て"滋賀越え"の旧道を眼下に、てん子山へと進みます。東山新城側から滋賀越えの道に出る地蔵谷へは、崩壊か!!工事の為か知らないが下山禁止の注意書きがあった。 白鳥越分岐を見送って直ぐに数段の曲輪を左手に見て 瓜生山山頂(301m)の狸谷不動尊奥の院に着く。

一本松付近から望む比叡山

此処が勝軍山城(北白川城)の本丸跡で、室町時代・永正17年(1520)細川高国が築城以来、幾度と無く戦乱に巻き込まれ 破壊と再構築が繰り返されていますが、中尾城や如意ヶ岳城と 共に将軍足利義晴・細川管領と三好長慶・松永久秀らが京都を奪い又奪還の為、攻防を繰り返した事で知られるところです。奥の院の祠の裏には石室が有り勝軍地蔵が安置されていました。近江の戦国大名・六角 定頼が戦勝祈願して此処に地蔵堂を建てたものですが、北白川の門跡寺高院の忠誉法親王が 山路の険岨を案じて宝暦 12年(1762)勝軍地蔵山【東山9峰・北白川山(パブテスト病院の西山)】に石像を移されました。瓜生山奥の院から更に西へ下っていく尾根は童子巡りの参道らしく石像が建つ。此処から東北方に叡山が 大きく望まれるが2時間程であそこまで行けるか!!?と思うと少し遠くに感じられる。(山頂案内板 北白川愛郷会より)
「水飲対陣の跡」碑

見晴し台へと下って行く道は見張所や曲輪があることが想定出来ますが時間に余裕が無いので、 白鳥越をトレースします。緩やかな下降で鞍部に至り北へ屈曲する地点に虎口が有って削平された小場が北白川城の北城で雑木がなければ京都側の眺望は良さそうです。 眼下に"滋賀越"の旧道が走り地蔵谷沿いの東の枝尾根上に、曲輪が連なっているようです。京都一周トレイルコース途中 に"てん子山←"のテープを見つけてん子山(443m 無傷の綺麗な3等三角点標石)から石鳥居のある林道に出て、なおも尾根筋に道をとってNHK比叡山テレビ放送所前の橋を渡ると 一本杉のあるホテル叡山閣に着く。ドライブウエーに沿っての道を料金所前で東側に渡り変えて林間の道(此処からは東海自然歩道の標識となっている)に入ると琵琶湖が眼下に見えてきたが、直ぐ薄暗い樹木の中をドライブウエー側の 尾根山腹を縫う様に進む。
「千種忠顕戦死の地」碑
 

道は明確だがドンドン下降していく山道に不安を感じ始めた頃、寺域に入り根本中堂への案内標を見て安堵する。4時を少し過ぎてしまったが納経の「西国薬師の御軸」"を持っていたので拝観料金所では係りの人がそのまま往けとのサイン。 薬師霊場の御軸も延暦寺を残すのみだったので、今回の機会を是非満願にしたかった。納経と下山を考えれば観光を兼ねて、ゆっくり各所を廻るゆとりは無く、根本中堂のみ奉拝して八瀬ケーブルの比叡駅に向かいますが1km余りの道が結構長く感じる。 疲れている証拠かも??しかし此のコースでは叡山中唯一の湧水井戸[弁慶の水]があった。 ケーブル比叡駅から八瀬へは降りられない??との表示を見て雲母坂への道を進みます。
東海自然歩道に入ると琵琶湖を望むPOINTが・・

もともと南北朝期には後醍醐天皇方に付いて信任厚かった千種忠顕を頭中将に任命し六波羅管領を攻略するべく京都へ進軍させ、延元元年 (1336)足利直義軍と比叡山山麓の水飲で戦い多くの将兵の血に染まった所です。千種忠顕(ただあき)戦死の地水飲対陣之跡の碑を巡り、厳めしい宮内庁・皇居!?警察の文字が目に付くフェンスに沿って下る道は修学院離宮の境界の様です。且つ修学院や曼殊院へと下る雲母(きらら)坂は平安時代より叡山と京の都を結び、 法然・親鸞聖人等の名僧をはじめ都からの勅使も通った主要路で勅使坂とも呼ばれます。
音羽川に架かる雲母橋と雲母坂碑(右端)

比叡山の山法師が日吉神社の御輿を担いで都に強訴に押し掛けたのもこの道だったとされています。雲母坂の名は付近の花崗岩に含まれる雲母のキラキラした輝きから 呼ばれるようになったとも言われます。雲母坂の石標近くでPM5:30頃、その皇居 !?警察官が専用警備用の車道!!を引き返していくところでした。また雲母坂に平行して流れる音羽川は昭和47年(1972)9月の台風20号による水害を契機に砂防ダムを整備し平成4年度から砂防学習ゾーンとして環境整備されています。
弁慶の水

その雲母坂の登り口に設置された橋は雲母橋と名付けられています。橋を渡って右手には浄土真宗の開祖 ・親鸞聖人が9歳で出家し修行の為最初に比叡山に登られた道であり20余年の修行を積まれて後、遂に比叡山を降りられたのも此の雲母坂と伝えられるものです。その後は六角堂(我が国最初の伽藍というより華道・池坊で知られる 紫雲山頂法寺)に百日参篭、95日の暁・聖徳太子の示現を得て法然の念仏に帰依したと伝えられます。

比叡山延暦寺・根本中堂

音羽川沿いの道から曼殊院へ細い地区内の車道を抜け延々・白川通りを出町柳〜河原町まで歩き続けて出足が遅れた今日一日の山と城の旅を終え、観光地・戦乱の都の山城・諸々の歴史に彩らる京都の夜の街を後した。 色んな角度から見つめ直し何度と無く訪れた(歴史・文化・観光、今回は初めて山城を)深い思いを真っ暗な車窓の外に時折流れる光に託して、一つまた一つと心残していくようです。何時か又・これ等を拾い集めに来る事を祈念じて…!!
(雲母坂と雲母橋 京都土木事務所(H12年)修学院郷土史同好会(H6年)の現地案内板・参考)



如意岳城 中尾城  北白川城(勝軍山城)と東山新城(北白川城の北城)

大文字山城(如意岳城)
 大文字山 465m  左京区鹿ヶ谷大黒谷町

先に山行レポートにも記した様に (少しクドイ程ですが)此処で紹介の大文字山城と如意岳城は同じ城と考えます。如意岳城は地図上に記載されている名前からも、大文字山の東約1.5kmの滋賀・長等山との中間点にある如意岳 (472m)にあるとされているようです。滋賀県境の此の山には山岳寺院があって一時期城郭化され城として機能したかもしれません。それに遺構が尾根上に有ったとすれば 林道工事で消滅したのでしょうか ??根拠の無い想像だけなので此処は専門家に任せます。
銀閣寺道から望む大文字の火床

「大」 文字の起源については、室町時代足利8代将軍義政の子義尚が若くして病死したのを悲しみ如意ケ岳・大文字山に大の字を書き・送り火とした…と、銀閣寺登山口側の案内板に説明されていた。如意ヶ岳に”大文字”が灯っても市街地からは 大文字山の山影で見えない?(山科方面なら一部で見えるかも?)近江へと白鳥越が通じる北白川城が北側から、大文字山城(如意岳城)が南側から挟み込むように、眼下を通る滋賀越や東海道の要衝を抑える位置に在り、城史不詳ながら 城としての使用は古く、室町時代・応仁の乱(1467〜)の頃から城塞化され文明の乱・文明元年(1469)では多賀豊後守高忠が此処に陣を敷いたといわれます。大永年間(1521-28)〜享禄年間(1528-32)頃は細川高国が天文年間(1532-55)には六角氏が12代将軍足利義晴と 入城し隣接する尾根続きに中尾城を築きますが翌年には三好長慶に落とされます。
大文字山(如意ヶ岳)山頂の本丸と一段下の曲輪(北の腰曲輪から)

…永禄年間(1558-70)に入ると 13代足利義輝と三好長慶との間で幾度と無く熾烈な戦いが中尾城北白川城 を舞台に繰る返されます。大文字山山頂を本丸に、北側には10数段の腰曲輪を廻らされ、空掘りや土塁で堅められた今に残る遺構は足利状軍義晴・義輝と三好長慶の合戦以降のもののようですが、三好氏が奪取した大文字山城は 北面に曲輪を開き、中尾城や北白川城の向城として機能した様ですが、滋賀越えを眼下に叡山を望む城は中尾城や北白川城と共に織田信長の比叡山攻めにも使用されたと思われます。

中尾城   中尾山 280m  左京区浄土寺大山町・打越町

中尾城は銀閣寺東の背山にありました。この城一押しの見所 ・空掘と土橋は素直に??谷を詰上がれば出会えたのかも知れないが、枝尾根上を北に採って曲輪らしい!!平坦地を 2〜3過ごして本丸と思える場所に辿り着いた。大文字山城(如意ヶ岳城) から西北方に延びる支尾根・中尾の峰にあって、北白川城(勝軍山城)と呼応して、三つの城は共に機能しあっています。中尾城は京の都と近江を結ぶ"志賀越"の要衝を抑える軍事的目的をもって天文18年(1549)12代将軍 足利義晴が細川晴元や六角定頼等の協力により築城され三好軍との戦いに備えます。
「嗚呼!! 中尾城」の案内板

銃撃戦による備えを考慮し"尾根を三重に堀切、 二重に壁を付て其間に石を入れたり、是は鉄砲の用心也…(万松院殿穴太記)"とあるように城は補強されます。しかし翌・天文19年 (1550)春に義晴は病死し、息子・義輝が細川晴元や六角定頼の勢力を率いて中尾城に入り三好軍と戦いますが、この時・細川軍の鉄砲隊が活躍した様で、畿内で鉄砲が初めて実戦に使用されたといわれます。同年11月、篭城する足利義輝は 三好長慶の大軍に囲まれ僅か1年余で落城してしまった山城は、案内板の説明と共に、その遺構も自然地形に 溶け込んで!!??探しても分かり辛い。本丸から北へ続く尾根道を辿れば遺構に 堀切くらいは見つかると思うのですが、左に銀閣寺への下降点があり大文字へのハイキング道入り口に降り立った。銀閣寺側の大文字山登山口の 駐車場側に建つ「嗚呼 中尾城!!」の案内標の文字が鮮烈に目についた。
中尾城主郭

八神社前から"大"文字の火床へ続く 広い京都一周トレイルを辿る多くの登山者には、此の中尾城が将軍足利義晴の築城(入城することなく近江で病死)その子義輝が細川・六角勢を率いて中尾城に入り 三好長慶軍と戦い、滋賀越の街道を挟んで対峙する北方の峰・瓜生山にある勝軍山城(北白川城・瓜生城)と共に、"古文書に悲しい人骨の山"と有るように、将軍足利義晴親子・細川軍と三好長慶軍が 幾度となく合戦を繰り広げ、義輝も此の中尾城で斃れ、数多くの将兵が切腹殉死した激戦の城が有った事等、案内板が登山口に背を向け山に向かって立っているので益々気付く人もいないようです。中尾城自体、ハイキング道と小谷を隔てた東側の 枝尾根上なので関心も希薄ですが、登山口にある「銀閣寺々領」の大文字・霊山の案内板にも不滅の名城「中尾城址」永正17年城完成 如意岳城址 第12代将軍足利義晴公 中尾城…」と記されているのですが分かり難い。

(中尾城址 現地案内板等 参照)


勝軍山城 と 東山新城
勝軍山城(北白川城・瓜生城・東山御城)  瓜生山(勝軍地蔵山) 300m 左京区一乗寺松原町

勝軍山城(北白川城)のある瓜生山に至る訪城ルートは上記・山行レポートを参照してください。詩仙堂から続く坂道の行着くところ狸谷不動尊の背山・瓜生山の山頂に本丸を置く勝軍山城が有りました。 此の城は都と近江を結ぶ白鳥越が通じ、眼下に滋賀越を望む戦略的にも重要な位置にあるため、室町時代・永正17年 (1520)将軍足利義晴を戴く管領・細川高国が近江守護・六角定頼の援助を受けて、近江より入京する際に陣地を築き、瓜生山に六角定頼が戦勝を祈願するとともに陣守護として勝軍地蔵を此処に 勧進して地蔵堂を建てたので勝軍山城と呼ばれます。
勝軍山城(北白川城)本丸北から叡山を望む

此処に入城して細川澄元軍を撃破したが細川氏の内紛では細川晴元に政権を奪取され高国が近江に逃れると、被官内藤彦七が六角定頼の援助を受けて護るが享禄4年(1531)東山新城と共に 焼失して細川晴元に奪取されます。天文15年(1546)細川晴元と対立した将軍足利義晴は勝軍山城を修築して籠城するが翌16年には戦わず城に火をつけて出奔してしまいます。次いで晴元とは表向き 和議していたが、その晴元に叛旗を翻した三好長慶・松永久秀に京都を追われた足利義晴 ・義輝父子は翌・天文19年(1550)には義輝が中尾城を築いて拠点を移した後と、永禄元年(1559)にも相当期間篭城しその間にも城は再整備されたようです。
勝軍山城本丸・狸谷不動奥の院

この様に細川氏・足利将軍・三好長慶等の政権奪取の為に複雑に集脱対立する紛争では 大文字山城(如意岳城)中尾城と共に幾度となく城は焼失・再建を繰り返すことになります。元亀元年 (1570)比叡山に拠った浅井・朝倉の軍勢に叡山を尾根続きに臨んで対峙し、叡山への主要路・雲母坂をも監視出来る勝軍山城には織田信長が津田信広・足利義昭等の陣城として、また翌年・叡山焼き討ちでは明智光秀が2ヶ月余り駐在して 比叡山の監視にあたり、その後に廃城となったようです。
北白川城出丸ー北城ー 北白川愛郷会現地案内板 参照)

東山新城(北白川城の北城・出丸)  xxx 311m 左京区北白川蓮ヶ谷町

北白川本城(勝軍山城)から比叡山へと西南尾根を辿る「京都一周トレイルコース」は白川から近江側に通じ白鳥越が北白川城の出城・出丸、砦として機能した東山新城の中央部を通っており関所城の趣です。 北白川城本城のある瓜生山東方の約 400mの峰にあって都富士・比叡山の眺めは勿論のこと、
東山新城(北白川城の出丸・北城)主郭

北の岩倉方面に瓢箪崩山や箕裏ヶ岳、西から南にかけては今辿って来た瓜生山や大文字山、京都市街地から蒼く霞む大山崎方面の眺望が得られます。 滋賀越を眼下に抑え出城(東山新城)から地蔵
谷に 派生する枝尾根上の曲輪群の末端は滋賀越の旧道付近まで通じるようです。登山道は地蔵谷を通って滋賀越に出ますが現時点では通行禁止になっています!!。応仁の乱最中の文明2年(1470)若狭守護・武田信賢(!!東軍の多賀高忠)が分国への 輸送路を確保する為此処に砦を築いたのが始まりです。
東山新城(北白川城の出丸・北城)主郭の説明板

高国が近江国へ逃れた後は被官内藤彦七が六角定頼の援助のもとに守護したが享禄4年(1531)東山新城と共に焼失して細川晴元に奪取された。ついで天文15年(1546)12代将軍足利義晴と晴元の対立で義晴は勝軍山城と此処・ 東山新城に大規模な修築を行っていますが翌16年義輝や近衛稙家と籠城しますが、味方の池田・薬師寺らが晴元に降伏し、六角定頼にも見放された将軍親子は当城を自焼して近江に出奔しています。
(北白川城出丸ー北城ー 北白川愛郷会現地案内板 参照)
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