W伊丹市内歴史散策 有岡城〜郷町〜猪名野神社〜伊丹廃寺・御願塚古墳
阪神・伊丹 (五万図=大阪西北部)
有岡城の惣構え/郷町/伊丹街道の歴史散歩 H15年07月12・19日
郷町 伊丹の酒  師直塚/伊丹廃寺 御願塚古墳 伊丹街道/多田街道
つかしん(尼崎市塚口)

近畿の山城:伊丹城(有岡城) 惣構えの出城(砦)群

兵庫南部地震で県外疎開していたが、西宮へ戻れる可能性の高い斡旋住宅を申し込み西宮市田近野町に戻った。伊丹西昆陽の一部だったか!!?、尼崎市域だった事もある。通勤圏は宝塚市仁川・前の武庫川を隔てて隣は伊丹市で 西宮市が遠く感じます!!。直線なら2.km程で昆陽の里、さらに2kmでJR伊丹なのですが、伊丹市側へは途中に橋が無く 北か南へ1.2km以上も迂回。仁川が武庫川に合流する地点の不思議な!!??一角だが、入居した部屋も半壊状態で風呂も水が漏れて使えず2ヶ月足らずで 更に高い家賃を無理して広田神社近くに越した。R171沿いというより西国街道沿いを西宮神社から昆陽 ・北村・軍行橋を渡って京都を繋ぐ歴史と伝説・文化遺産も多く 山陽道や京伏見街道と名を変えても、古くより九州・太宰府から京都を結ぶ基幹道路です。
伊丹城(有岡城)

自動車免許更新の度に訪れるJR伊丹駅前にある小さな丘陵が国史蹟・有岡城です。明智光秀・羽柴秀吉・柴田勝家と共に織田信長の四天王の一人となった荒木村重の居城にしては余りに小さい。しかし城下町の侍屋敷や 町家をも取り込む惣構えの城・安土城より古い石垣・比較的古い天守を持つ城である事が分かってくると、壊され失われたものの大きさと、反逆者・村重が築き上げ完成させた城域に僅かに残る遺構に、取り残された一族の悲惨な末路を重ね併せると、 目前の有岡城がその縮図となって見えてきます。鉄道や道路の建設などで分断され、ほんの一部しか残っていない人っ気の無い曲輪跡に立てば、車の喧騒と周囲の明るさとは隔絶された敗者の悲哀さえ感じます。



郷町・旧岡田家住宅
(国指定重要文化財) 旧石橋家住宅(県定重要文化財)

有岡城が織田信長に攻められ落城後、残った城下・郷町は江戸時代・寛文元年(1661)近衛家領となって、 その庇護のもと伊丹の酒造業は盛んになります。当時の酒蔵は本町筋(現在の産業道路)を中心に立ち並び 旧岡田家住宅も延宝2年(1674)に建てられたもので正面に店舗・奥に酒蔵、その間に釜屋・洗い場が並んでいます。
郷町・旧岡田家住宅(国指定重要文化財)

酒蔵は正徳5年(1715)頃と考えられ、 酒造で栄えた郷町の歴史を伝え、県内最古・全国的にも数少ない17世紀の町屋で貴重な文化財として平成4年1月・国の重要文化財指定を受けています。 昭和59年(1984)までは大手柄酒造の北蔵として酒造りが行なわれていました。
旧石橋家住宅は江戸時代後期に建てられた商家で、虫籠(むしこ)窓や出格子窓、正面の摺り揚げ式の大戸出入口(三田の旧九鬼家住宅の玄関も摺り揚げ大戸だったが特別な時用だが、 此処は道路に面しており、
郷町・旧石橋家住宅 (県指定重要文化財)

跳ね上げ式では通行等の邪魔になるからでしょう)の他にも、バッタリ床几や揚見世など、当初の店構えが残っており平成13年に県指定重要文化財にしていされています。石橋家は猪名野神社の門前通り北少路村にあった紙と金物の小売業の商家でしたが、 明治以降は酒造業を始め日用品の雑貨商を営んでいました。
(みやのまえ文化の郷 案内板参考)


伊丹の酒(鴻池家と小西家)

戦国時代の武将・山中鹿之介幸盛(尼子十勇士のひとり)が天正6年(1578)毛利氏との合戦に討死し、 長男・新六(二男・幸元とも!!)が遠縁を頼って伊丹の北部・鴻池で、荒木村重家臣で叔父の山中信直に育てられ 鴻池家の始祖とされます?…が鹿之助に男子は無かったとも云われ直系ではなさそうです?。鹿之介の弟が三蔵山城主 (宝塚市)だった事もあり、山中氏一族・縁者ではあったのでしょう!!。鴻池山中氏が酒作りを始め、慶長5年(1600)双白澄酒(もろはくすみざけ=清酒)の製法を 初めて発見して清酒の醸造を創めます鴻池新六の居宅跡に「鴻池稲荷」があり、其処に建てられている鴻池稲荷祠碑(伊丹市指定史跡)の碑文には、
鴻池稲荷祠碑

清酒発祥の地と江戸時代の豪商・鴻池山中氏の歴史が詳しく記されています。 碑は天明4年(1784)頃のもので、中国の古代貨幣の形をした砂岩で、花崗岩の亀趺(亀形台石)の上に立てられています。小西家も宇土城主(熊本)でキリシタン大名だった小西行長の後裔といわれる 小西新右衛門が薬種商から清酒「富士白雪」の醸造に進出します。近松門左衛門・頼山陽 ・井原西鶴等の著名な文人墨客が訪れるようになり、伊丹からも俳聖・松尾芭蕉に並び称される 上島鬼貫(おにつら)が頭角を現わし伊丹文化が花開きます。
当時"濁り酒"が主流の日本酒の中にあって、伊丹は透明な清酒発祥の地とされ "丹醸"・"伊丹諸白"と呼ばれ、珍重され需要の多い「江戸積み」には樽廻船で運ばれて、その流通の革命と杉樽の香りと芳醇・辛口が 江戸で大評判となり、将軍家の御膳酒になります。伊丹郷町の酒造業は量産にも対応できたようで元禄時代(1688〜)には全国一の生産量を誇り、 鴻池家は此の清酒を販売し、江戸に運ぶ海運業や金融業にも進出して隆盛を極め巨万の富を築いたと言われます。

郷町・旧岡田家住宅の釜屋

しかし享保年代(1716〜)頃より灘五郷の生一本が台頭して、清酒王国・伊丹の名は徐々に衰退し、灘に座を譲ったが全国ブランドの白雪(当時は富士白雪)と剣菱や大手柄、老松が名酒の座を保っています。 寛政12年(1800)秋の彼岸から春三月まで篠山では百日稼ぎの禁制を市原清兵衛の直訴により 解除され丹波杜氏達は 各村の地区毎にグループを成す酒造職人(蔵人)を連れて、決まったルートで其々・伊丹や灘の杜氏と契約している蔵元に向かいました。やがては技術と勤勉さがかわれて、明治頃には全国に丹波杜氏の名は拡がります。直訴により捕らえられ獄中生活を送っていた市原の清兵衛父子は文化8年 (1811)伊丹の酒造家に迎え入れられたといいます。
郷町・ブルワリービレッジ長寿蔵(小西酒造)

伊丹の酒造は西宮で酒造に最適な宮水の発見・天保11年(1840)や陸と海の交通の便が良く、より大きな樽廻船で 大量に運べる良港があること、享保末(1736)頃の大豊作で幕府による酒造の統制が緩和された事で、灘五郷に主導権を明渡す結果になったようです。当時の酒造り行程や歴史・杜氏達の役割等は・伊丹の岡田家や灘五郷の白鶴 ・菊正宗・福寿・沢の鶴等では無料で見学できますよ・・・(~ё~)
(灘五郷歴史散歩・春木一夫 伊丹(城と酒と俳諧と)・安達文昭 伊丹市の現地案内板参照)


上島鬼貫 1661〜1738

東の松尾芭蕉、 西の上島鬼貫と並び称された鬼貫は万治4年(1661)伊丹の酒造家・上島宗次の三男として生まれ、 武門を先祖にもつ鬼貫は仕官を志し諸藩への武家奉公を繰り返し25歳頃大坂に出て、筑後国三池藩や大和国郡山藩等に仕えました。 俳諧は余技だとして門人が存在しない為に知名度も低かった。西宮(戎)神社の南大門を入ると直ぐ右手に松尾芭蕉の句碑「扇にて酒くむかげや ちる桜」が建ち、其処から本殿 とは反対に東の赤門へ進むと手前に芭蕉と上島鬼貫の共句碑があっています。 句碑の裏側には天保14年(1843)建立と10数名の句が並びます。
「はるもやゝ けしきとゝのふ月と梅」 芭蕉 / 「によっほりと 秋の空なる富士の山」 鬼貫
芭蕉と鬼貫の共句碑(西宮市:西宮神社境内)

酒造家達が中心となり池田宗旦の俳諧塾「也雲軒」を拠点に、西山宗因や井原西鶴ら諸国の俳人、文人が集い自由奔放・奇抜で逞しい伊丹風俳諧が流行します。其処に育った上島鬼貫は16歳ごろ 「也雲軒」に学び若手として活躍しますが、伊丹風俳諧の遊戯的・享楽的な作風に「誠の外に俳諧なし」と主張して、より文学性の高い俳諧を求めて独自の俳風を樹立します。 「行水の捨て所なし虫の声」 鬼貫 松尾芭蕉の俳風に先駆となったのが山口素堂と上島鬼貫と言われます。芭蕉は高名な門下生をもち、没後も師の遺志を継いで優れた俳諧書を出し 「蕉風」を後生に伝えた元禄文化の巨峰で俳諧の宗匠だが、下級武士で後継者も無く著書等・評価や知名度に劣る鬼貫は没後も忘れられた存在となっています。享保9年(1724)3月の大坂での大火では自宅が焼け、同年10月まで伊丹に疎開しており 鵯塚砦に立つ「鵯や世の囀りも石の花」慶応元年(1865)の碑はこの時の句といわれます。元禄13年1月には長男、永太郎を亡くし「土に埋て子の咲花もある事か」 と嘆いた伊丹・墨染寺の墓には元文3年(1738)8月大坂で没した鬼貫の毛髪か分骨が納められ墓と、天王寺区の鳳林寺にあります。
( 伊丹(城と酒と俳諧と)安達文昭 近代文藝社を参照)


師直塚と 崑崙山・昆陽寺
崑崙山昆陽寺市バス停「昆陽里」  昆陽寺は寺本2-169

奈良時代の高僧・行基により天平3年(731)畿内49院の一つとして 昆陽寺(こやでら)を開創したと伝えられ摂津の仏教文化の一中心地として栄えました。天正7年(1579)織田信長の兵火にかかって 一山の堂塔を焼失したが観音堂は寛永3年(1626)に山門は明暦年間(1655〜58)に再建されという。山門は旧西国街道(現171号線)に面して建っている。江戸時代中期における豪壮な山門(山門と観音堂が県指定文化財)は 県下でも類例が少なく貴重な構造である
昆陽寺の山門

高師直塚   池尻1T目
県道42号(尼宝線)が昆陽の里でR171と交差する北西側に一基の石碑が建っています。高師直(こうのもろなお)は元弘3年(1333)尊氏挙兵の際、既にその側近にあって足利家の執事として、北畠顕家を倒し河内の南朝方を弟・師泰と共に制圧し、 楠木正行(まさつら)を敗死させる等の功績があった。南北朝期・観応2年(1351)足利尊氏の武将・武蔵守高師直・師泰(もろやす)兄弟が足利義直 (尊氏の弟)の誘いで須磨・松岡城を出て京都に向かう途中、
昆陽の里高師直の碑

此の地で待ち受けた上杉重能(しげよし)の子顕能 (あきよし)や畠山直宗らに討たれ高一族は滅びます。【説明板には上杉能憲の待ち伏せにあって・・となっている!! 西宮の鷲林寺で討たれた話もあるようですが・・!!???】この碑は村人達がそれを憐み、師直等の魂を鎮める為大正4年(1915)供養塔が建碑されました。 その後、耕作の妨げになると塚が崩されたり、国道の拡張工事で現在の地に移されました。

(伊丹市の現地案内板参照)

伊丹廃寺跡 (国指定史蹟史跡)昭和41年3月22日指定

伊丹市の北部・鴻池稲荷から端ヶ池に出て東に向うと緑ケ丘の陸上自衛隊総監部。 正門前の車道を挟んで向かいに国指定となった伊丹廃寺があります。飛鳥時代後期!!〜には法隆寺式伽藍配置をもつ大規模寺院(寺院名が不明のため伊丹廃寺と仮称、龍レン寺廃寺との見解もあり)がこの地に建てられています。 以前から礎石や瓦なども発見されていたが昭和33年 ・耕作中に水煙の残欠が偶然発見されたことから俄かに 考古学上の関心が高まり、 甲陽史学会による8ヶ年にわたる発掘調査の結果・幻の寺はその全貌を明らかになった。
伊丹廃寺・金堂跡

東に金堂跡、西に塔跡、これをめぐって回廊跡、さらに西門、北門跡が確認された。また自衛隊駐屯地内に講堂らしい遺構も認められた。これによって法隆寺の伽藍配置とほぼ同じ規模で奈良朝前期の建立と推定されるが、その配置は現法隆寺とは異なる伊丹廃寺独自の様式をもっているようです。寺跡は国の指定史跡となって史跡公園として保存されることになりました。 水煙・川原・風鐸・九輪・摶仏等の出土品は伊丹市立博物館に保管展示されています。この寺は法隆寺とほぼ同じぐらいの年代に創建されたのでしょうが、
伊丹廃寺・金堂跡

文献記録が無く寺の名前も来歴も一切不明です。伊丹廃寺の礎石といわれる巨岩が臂岡(ひじおか)天満宮の境内・本殿に向かって右側の木立の中に伊丹廃寺の礎石が置かれています。平安時代:菅原道真が太宰府に流される途中 ・この岡で休憩された。その時疲れて臂(ひじ)を枕に昼寝をされたことから、この名前がついたということです。
(伊丹市教育委員会 現地案内板等参考)


御願塚古墳 (県指定史蹟史跡)昭和41年3月22日指定  伊丹市御願塚4

「つかしん」…懐かしい文字を目にした。 関東系の百貨店が進出してスッカリ周囲の様子が一変したが、撤退して新たな「つかしん」を出て阪急(阪神と統合し名称は ?)伊丹線稲野駅の西北100m程には県道(御願塚線)に面して平成11年頃に完成した御願塚(ごがづか)古墳公園があります。
御願塚古墳:前方部(手前)と造り出し部

御願塚古墳:以前は伊丹市南部から尼崎市北部の此の付近は温塚(ぬくめづか)・掛塚(かかりづか)・破塚(やぶれづか)・満塚(みちづか)といった、御願塚古墳を主墳として形成された猪名野古墳群があり、此の五つの塚を「五ケ塚」 (ごがつか)と呼ばれていました。御願塚古墳は古墳時代中期(5世紀後半頃)と推定されています。これらのの他・県の遺跡マップにある御願塚古墳の西約800mに平塚古墳(方墳:安堂寺街6丁目!?・・不明)・同じく御願塚古墳の南約700mに柏木古墳 (周濠あり?:若菱町と柏木町境を探したが高さ6〜7mの丘全体が墓地の円形丘陵部が古墳の墳丘だったか?)を訪ねてみたが、何れも壊滅 ・消滅したのか不明。市街地内に遺跡保存されているのは御願塚古墳以外は各種遺構・遺物が発見された分散地は無論・資料に何も残らない無名の古城跡は開発・造成の中では・此の地がどんなところであったのか、存在していた事を知ることも無用と思えた。
御願塚古墳解説案内板

南神社が建つ墳丘からは形象埴輪・円筒埴輪・須恵器片等が出土しており、墳丘の周囲には幅 7〜11mで馬蹄形の水を湛えた周濠が廻ります。昭和62年(1987)第二次調査において周壕外側一帯の発掘調査が行われ、 墳丘東側の外堤部に小規模な濠【幅4〜5m・深さ30cm・内側の周濠と同じ馬蹄形で巡る】が発見され、埴輪列と小規模な壕が廻っていることが確認され・二重の周濠だった事が判りました。
御願塚古墳:後円部 (手前)から前方部と周濠

前方部の短い帆立貝式の前方後円墳【全長52m・後円部の径39m・高さ7m・前方部は長さ13m・幅19m・高さ2mを測ります】で、 平成10年(1998)の第8次発掘調査で発見された、前方部と後円部のくびれにある突き出た造り出し部【約5u古墳時代中期(5世紀頃〜)に見られる埋葬施設で、被葬者を祀る祭祀壇と考えられており、幅5.8m・高さ1.4m・発掘調査では長さ5.2mにわたり検出された 】をもち、造り出し上には円筒埴輪が2列に並べられていたほか多数・須恵器の破片が出土しており、稲野地方に勢力をもつ古代豪族の墳墓と考えられています。
(現地:御願塚古墳案内板 兵庫県教育委員会H14.11 参照)


つかしん
      尼崎市塚口本町

御願塚古墳から阪急伊丹線を東へ渡って「つかしん」に戻ったら此処は尼崎市。 此処に紹介するのは場違いですが「五ケ塚」の古墳探訪には判り易いポイント?。伊丹と尼崎の市境に在って、 尼崎市郊外の住宅地 ・グンゼ塚口の工場跡地に昭和60年(1985)オープンした大型商業施設は西武百貨店を中核にしてレストラン街・映画館・大型ショッピングセンターで構成されつかしんの名で親しまれ、長い?斜行エレベーターや、 川の流れる風景(阪急梅田三番外が趣向を継承していますネ?)の規模に驚き・珍しさ楽しさが加わって、幾度か行った事があるが、
木造りのクリスマスピラミッドは日本唯一!!?

いつのまにか遠のき・不快な噂もあって西武閉店の話題も遠くに聞いていた。
西武百貨店撤退後・敷地内の源泉発掘による関西最大級浴場を併設して平成18年(2006) グンゼタウンセンター つかしんの名称で 大規模リニューアルオープンし、尼崎市と姉妹都市ドイツ・アウグスブルク市【イタリア・フランスに挟まれた南欧部!?】の町並みをモチーフにしたテーマパークの様な造りが特徴で「ひがしまち」と「にしまち」を分けて流れる伊丹川からは、夫々の絵になる町並み風景が望めるのですが…。
西側教会?前のパテイオ

川を渡って「ひがしまち」のロマンチック広場へ。今日(11月14日)設置されたばかり …旧東ドイツのエルツ地方、ザイフェン村(ドイツの木製おもちゃ作りで有名)の工房で作られた18世紀頃から伝わるドイツの伝統的なクリスマスピラミッド(高さ10mの木のオブジェ)が登場です。 (Wikipedia 参照)


伊丹街道/多田街道

R171号の北村から県道1 3号線(通称:産業道路の尼崎池田線)を南下すると直ぐに辻村のバス停、東側には震災後も疎水沿いに 昔の面影が漂よう多田街道の細い道か続き、源満仲の建立(912〜997)と伝えられる自然石の古碑・辻の碑(いしぶみ)に着きます。此処は西国街道と多田街道との交差点でもあり、 足下に天保7年の摂津国地図のタイル板が埋められています。
多田街道の面影が残る

辻の碑の表面には「従東寺拾里 」下半分は風化し剥げ落ちてしまっているが「従関戸七里 従須磨七里 従天王七里 従大小路七里」と刻まれていたとのことで、東寺=京都教王護国寺・関戸 =島本町 大山崎関戸院・須磨=神戸市須磨・天王=丹波三田市母子天王嶺の峠・大小路=和泉との国境、 堺市大小路町を示していて、 丹波国境へ通じる摂津中央の辻にあたることから辻村と呼ばれました。伊丹段丘の急斜面「伊丹坂」を登って南下すれば伊丹郷町へ、 北上すれば川西や能勢方面に向い多田源氏発祥の地・多田神社へ1里半・元禄14年 (1701)と刻まれた石碑も建っています。
辻の碑

「伊丹坂」の上 (県道伊丹坂トンネルの西側付近)には、平安時代後期「恋多き女・情熱の歌人」といわれ奔放な生き方が語り草となっている和泉式部の墓と伝えられる五輪塔があり市指定史跡となっています。丹波にも我が子と別れた 別れ路の橋が金山の麓、鐘ヶ坂大山側に残り、また小倉百人一首「大江山 いく野の道の遠ければ…」と詠った細野峠と小式部内侍和泉式部の娘である事はご存知でしたか・・・「津の国の こや(昆陽)とも人を いふへきに ひまこそなけれ 芦の八重葺」和泉式部 地中に埋もれていたのを掘出されたという花崗岩の五輪塔の残欠は鎌倉時代後期の様式を示し、
和泉式部の供養五輪塔

五輪の部分のうち「火輪(屋蓋)」「地輪(基礎)」を除く空輪(宝珠)・風輪(請花)・水輪(塔身)の三輪だけが現存しているが完形なら225cm以上の大型五輪塔だったと考えられており「和泉式部の墓」「五輪さん 」と呼ばれ祀られています。平成12年5月・市文化財指定となり、石塔のある土地は所有者から寄贈を受け、木造本瓦葺きの草堂が建立されました。全国各地に残された墓や供養塔で、この石塔もその一つですが、彼女が和泉守橘道貞に嫁ぐが離婚後、 摂津国河辺郡平井の藤原保昌と再婚していたので此処にも存在するのでしょう。
(伊丹市の現地 教育委員会の案内板参照)


荒村寺
有岡城跡近く南への車道を大手町の交差点側に城主・荒木村重に因む荒村寺(曹洞宗)がある。JR伊丹駅の東から望むと伊丹台地の崖線上にあって、付近は伊丹字古城と呼ばれ有岡城(伊丹城)の南郭の一郭に あたるところ。天正7年(1579)織田信長に攻め落とされ城跡だけになっていた。境内には江戸時代の伊丹の俳人上島鬼貫が有岡城を訪ねたときの句碑 「古城や 茨(いばら)くろなる 蟋蛭(きりぎりす)」慶応元年(1865)が建っている。
荒村寺

荒村寺の由来記によると伊丹郷町の木綿屋徳三郎が禅宗に深く帰依し、郷町の堺町にあった閑室に、嘯山(しょうざん)虎渓和尚を招いて、参禅したのが始まりで、ついで法国尼僧らがこの庵室をまもった。寛政12年(1800)堺町の都塵を避けて、現在の城跡に移された。 人々はこの庵室を城山庵とよびならわしていたが、荒木の古城の由緒をもって、荒村庵と改名され現在の寺号のもととなった。

(伊丹市教育委員会 現地案内板等参考)


 伊丹城址(有岡城)  国指定史跡(昭和54年1979・12月28日)

伊丹城(有岡城)   伊丹市殿前

播磨 ・摂津と京都を結ぶ西国街道と、有馬温泉への湯山街道や尼崎と池田を繋ぐ 伊丹街道が西国街道とも交差する交通の要地にある伊丹の荘は、鎌倉時代末期・此処を統治していた有力国人で 守護代的重役にあった伊丹氏が代々居館を構えており文明4年(1472)伊丹但馬守が城を大修築し、わが国初の「天守台」を築いたとされています。 戦国時代にかけて勢力を拡大して摂津の戦国大名にのしあがってきます。
有岡城・北郭西隅の土塁と石垣

細川澄元・高国の管領をめぐる両家の抗争が拡がってくると永正5年(1508)伊丹城主大和守兵庫助元扶は高国に付き以降、伊丹城は幾度となく澄元側と 戦火を交えることになります。伊丹台地の起伏を利用しただけの無防備に近い城域だが、永正17年(1520)には城下町を取り込んだ土塁・環濠による惣構え構造の兆しが見られ、その後一向宗との合戦等数々の戦いの中で強化されていきます。 此れほどの城を持ち歴史に翻弄される伊丹氏を 語る資料がなく不明な所が多いようです。大永7年(1527)には晴元側の柳本賢治兄弟が伊丹城攻撃に登場するが既に「天守台」があり、その祖形は北摂の笑路城等に見られます。城跡発掘調査に基づき 一部に野面積み石垣復元や土塁・建物の礎石・2つの井戸跡・城跡の北側から西側にかけては堀跡が残り、史蹟は公園整備され国指定史跡となっています。
北郭南の枡口

永録11年(1568)織田信長が15代将軍足利義昭を奉じて入京、摂津を制圧して芥川城の和田惟政・池田城の池田勝正・伊丹城の伊丹親興(!?忠親)を「摂津の三守護」に任命し大名となったが、元亀4年(1573)信長が義昭を追放して 室町幕府が倒壊すると、将軍家側近の伊丹氏は信長に馴染めず池田勝正の家臣:茨木城の荒木村重を摂津の新守護に任命し天正2年(1574)伊丹城主伊丹大和守親興を滅ぼした荒木村重は、嘗て仕えた池田城主:池田勝正を追放して織田信長のもと摂津守として入城し、 手狭な城を整備し新しい城造りに着手、有明け岡の故事に因んで、名も有岡城と改め壮大な城郭建築に着手した。南北1700m・東西800mに及ぶ伊丹台地の地形と特徴を良く利用した城の周囲には侍屋敷や町屋、 要所には 岸の砦(渡辺勘太夫)・上臈塚砦・鵯塚砦(野村丹後守)を配置し本城・侍町・城下町を幾重にも堀や土塁を廻らして包み込んだ防禦帯を設け、要害堅固で巨大な総(惣)構えの城を築き今も、 その痕跡が伊丹市の街角にも至る所に残っています。信長の本願寺攻め ・上月城や三木城の攻撃にと、各地に転戦し功名をたて明智 光秀・羽柴秀吉・柴田勝家と共に信長の四天王といわれる荒木村重の、余りに早い出世が光秀等より嫉まれ、部下が密かに兵糧米を売っている等「村重謀叛」の噂が流れ, 安土の信長へ釈明に行くことなく有岡城に立て篭もって叛きます。
北郭の石垣にみる宝篋印塔の基礎

「謀反人にされてしまった為止む無く天正6年(1578)信長の中国征伐の最中、荒木村重は別所長治(三木城)に呼応して毛利方に付き信長に叛旗を翻すことになります。心配した羽柴秀吉の命を受けた 黒田官兵衛孝高が単身有岡城に乗り込んで説得に当たるが、天正7年(1579)10月に助け出されるまでの一年間、土牢に幽閉された話は有名。激怒した信長は同年有岡城を攻めるが籠城すること10ヶ月、 戦況不利と見た荒木村重は毛利に援軍を求めるため、 密かに脱出した村重は嫡子・新五郎村次 (村安)が大将で紀州党が入城していた尼崎城へ逃れます。有岡城は篭城戦の末、総攻撃を受けて天正7年(1579)落城し、 村重は尼崎城・花隈城を経て備後の毛利方に落ち延びます。このため有岡城に籠もる家老荒木久左衛門は降伏を申し入れたが 信長はこれを受け入れず、主無き城に残された最高責任者の池田和泉守も 自決します。残されて 織田方に捕らえられた村重の妻子をはじめ 一族郎党1200余命は惨殺され 信長の三大虐殺【比叡山延暦寺の焼討ちT元亀2年(1571)・伊勢長島の一向一揆 天正2年 (1574)】の一つとされます。
北郭西面の堀と土塁

家族や一族郎党は見殺しになったが荒木村重は戦国の乱世が終わっても生き延びる。放浪の末・信長の死後は堺に住み、豊臣秀吉に起用され落髪して 茶道の道に入り茶人 ・千利休の七哲の一人に数えられ号を「道薫」と言ったが、自分自信を蔑み自らを「道糞」(道端の糞)と呼んだそうです。利休らとも交遊して堺に居を構え、茶人として天正14年 (1586)5月4日生涯を終えた。 時に村重52歳。有岡城は翌・天正8年(1580)池田恒興(信輝)に与えられ、再び「伊丹城」と呼ばれるようになったが再興はされず、本能寺の変後天正11年(1583)池田氏は美濃国(岐阜県南部)に転封され悲劇の城有岡城は廃城となります。 徳川幕府直轄地となったあと寛文元年(1661)近衛家の領地となり酒造の産業都市伊丹郷(郷町)として発展し明治を迎えます。
(ひょうごの城紀行・きょうどの城ものがたり・伊丹市教育委員会現地城址案内板及び資料参考)

有岡城の「惣構え」・砦群の遺構

天正2年(1574)村重は伊丹城を拡張した有岡城は、伊丹段丘の高低差を利用して周囲 (南北1.7km・東西 800m)にいくつかの砦を配置して 堅固なものとしていきます。今でも"惣構え"の城の遺構は残片的に、寺社の境内・神域や街角や私有地内に残されており、 幾つかは訪ねることが出来るようです。宅地開発等で遺構が消滅したり、発見されても 調査後埋め戻された堀跡を残念に思い、鵯塚砦附近の産業道路(県道池田線)側に続く石垣の様子にオヤッと思いドキドキしながら 窺がってみたり、
有岡城の堀跡碑

所在不明??の出城(砦)についても 興味を持って附近を散策してみます。三軒寺前プラザ広場へ出る手前南側・白壁を背にしたスペースに案内板がある。街並整備の際の発掘調査で幅3.8m〜4.5m深さ1.5m〜1.7mの堀跡が発見された所で、 確認された堀の総延長は140m当時・此処は城下町の町家にあたるところ、有岡城の"惣構え" 貴重な遺構を埋め戻さず一部でも広場に復元残存できなかったのでしょうか・・!!??有岡城が 主郭部を失い瀕死の状態ながらも石垣遺構の発見と保存で体面を保っています。日本で最も古い"惣構え"の城として且つ、 今もその貴重な遺構の様子が僅かでも 残されているのですから。南本町では旧大坂道沿いの駐車場(住宅建設予定地)で有岡城址遺蹟の発掘調査がされており、
野々宮砦・猪名野神社の土塁と石垣

敷石らしい残石に混じって壷が顔を出しています。 鵯塚のすぐ近くなので、先の伊丹城重臣・:北河原氏か、砦を守っていた野村丹後守や雑賀衆の居住区だったのでしょうか??今後の調査結果に期待出来そうです。伊丹本町の小西酒造の冨士山蔵跡地(旧ブランド名・富士白雪)でも 発掘調査されていたので有岡城や郷町の町家の様子が分かってくるかもしれません。(H15.7.12)

岸の砦(北の砦?の誤記とする説が有力で 「惣構え」北端にあたる野々宮砦の別名とされているようです!!)猪名川の西に並行して流れる駄六川がJR伊丹駅の東で合流し、神津大橋て藻川と猪名川!?に分かれて神埼川へと流れ出ます。 この川を外濠にして廻っている外郭として、北の伊丹街道や多田街道・池田道が交差し池田方面に通じる要衝を抑える位置にある北之口町辺りに野々宮砦の他にも「岸の砦」が有ったにではと、勝手に思っています。 渡辺勘大夫が守備していたが伝承地は無いとのこと。産業道路の東側に当るので遺構は壊滅的でしょうね。
野々宮砦と猪名野神社 (岸の砦と同一視されたいるのですがはたして・・??) 伊丹市桜崎 
猪名野神社(野々宮牛頭天王)は有岡城"惣構え"の最北端に 位置する砦で岸の砦?(野々宮砦・城主は河原村越後守)と呼ばれています。境内の鳥居から本殿の横に今も石垣跡、北と西境の隅に土塁跡が残り、 さらに本殿裏から北へ続く伊丹緑地の散策道は外郭濠の痕跡のようです。境内に鬼貫の句碑が有り「鳥は未だ 口もほとけす 初桜」嘉永7年 (1854)が建てられています。伊丹小学校(伊丹市船原)の東側の道路沿いにも石垣が見られるようです(未確認)。
野々宮砦・猪名野神社の北西部土塁

上臈塚砦(女郎塚砦)  伊丹市本町 
上臈(じょうろう)塚砦(女郎塚砦)は 村重研究会資料によると第一ホテルそば、 伊丹郵便局敷地と南側の発掘調査現場から、古い酒蔵の遺構と同時に砦の濠跡も発見されています。 また砦が此処の古墳跡を利用している事も明確になっています。上臈(じょうろう)塚の南隣に「墨染寺」があって「女郎塚」があるので女郎塚砦とも呼ばれるようですが、寺のあたりも古墳だったようです。 規模等未詳のようですが堀跡の延長線上にあり、より外環濠に近い伊丹第一ホテル附近が主郭となっていたのでしょうか。此処は中村新八郎が部下と雑賀の鉄砲衆を率いて守備していた。新八郎は池田勝正に属していたが 村重が池田城主勝正を追放した際に降伏して許されたが 、天正7年(1579)10月織田信長の伊丹城攻めで篭城戦では、
墨染寺・女郎塚や鬼貫の墓と句碑が建つ

毛利へ援軍要請の使者にも発った家臣だったが、 総攻撃を前に既に信長方の滝川一益から村重の脱出を聞かされ 不信感を募らせていた新八郎は、副将・宮脇平四郎と図って一益に寝返り砦は開かれ落城しています。


墨染寺 墨染寺は源満仲の創建・天正年間(1590年頃)創建にかかる曹洞宗の古刹です。有岡城落城後、天正18年頃に山城深草の墨染寺を移したといわれ上島家の菩提寺となっていて境内には鬼貫と長男・永太郎(6歳で早世)の父子墓や 「秋は物の月夜鳥はいつも鳴」弘化2年(1845)句碑が建ち、また有岡城落城の際に捕らえられ惨殺された婦女子の供養に建立された「女郎塚」もあります。荒木村重の墓と伝える九層石塔は、もと鵯塚の上に建っていたのを 近世後期に此処に移したと伝えられています。

鵯塚砦  伊丹市植松町
荒木寺からさらに東や南へは車道を外れると、 住宅内の細い路地の坂を上り下リしますが、南へ向って旧大坂道を歩くと格子に、虫篭窓の町家を見かける古い街道筋の景観が残されています。南端附近で下り坂となるところに有岡城"惣構え "の最南端に位置する砦でがあるのですが、私有地で且つマンション内なので見学出来ず、旧大坂道側からは雑木の茂る砦の 上部が確認出来るだけ。天正6年(1578)野村丹後守を中心に雑賀衆が守備していた鵯塚砦です。
鵯塚砦址(中央上部に薬師堂)

鵯塚と呼ばれ伊丹城重臣:北河原三河守長勝の塚があり伊丹丘陵の南端なので眺望も良い要害の小山(薬師山)に有って、頂部に薬師堂が建ち、伊丹の俳聖・鬼貫の句碑が 建てられていますが個人所有地なので資料で確認出来るだけです。坂の南下部の民家の路地奥から、ソッと覗いてみたが雑木藪の中薬師堂の屋根が少し見えるだけ。砦を囲むように堀と砦の切岸の様子は僅かに窺がえます。 此処は中西新八郎の寝返りで女郎塚砦が破られた為、支えきれずに落城した鵯塚砦です。遺構が残った因縁話も有りましたっけ…。 南側の産業道路へ出てくるとGSの裏手から細い水路が走り、それに沿って長く続く石積みは"惣構え"の外郭遺構かと一瞬思い込み!!??気になる風景です。

昆陽口砦  未確認の為MEMOのみ
伊丹市昆陽口
文化会館付近・西正面の昆陽寺方面への出口に設けられていたと考えられ池田和泉守が守備していた。法厳寺(2522創建)の西境の盛り上がりは土塁の跡か ?? 昆陽口坂附近か!! 旧昆陽口村の北、西宮に至る街道の入口附近か!!
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