尼崎市内の歴史散歩   尼崎城〜富松城〜水堂陣屋跡
阪神 (五万図=大阪西北部)
尼崎市・尼崎城/富松城/寺町等の歴史散歩  H15年06月21日
近畿の山城:尼崎城 (琴浦城・尼丘城)  水堂代官屋敷(陣屋)
   七松城  大覚寺城 富松城 塚口城
大浜橋側から北堀運河とシンボルの塔

尼崎市の古墳 大井戸古墳 水堂古墳
尼崎市のお話 雉ガ坂伝説地

尼崎市編 北堀運河〜寺町〜尼崎城〜水堂陣屋〜近松の里〜富松城  2003.06.21

丹波高城山(八上城)への城山オフ前日ですが、梅雨時 ・滅多とない良い天気なので山行きは控えて市内散歩に出かけます。 甲子園から武庫川を渡って 国道 2号線を尼崎に入り西大島からセンタープール前(尼崎競艇場)を経て南下しR48号線を越せば海が近い風情が感じられます。
城址公園の模造石垣と尼崎図書館

尼崎市南部臨海地域の武庫川と蓮川に挟まれた元浜町・道意町・大浜町 ・中浜町をを縦横に走る西堀運河・北堀運河や水路を活用して、 水と親しめる場所づくりが推進され、運河に張り出したテラスや遊歩道が蓬川へ繋がり、木を敷き詰めた桟橋風やカラーセラミック舗装の道にはレトロな街灯が建ち、3方向から北堀運河??で交う合流点には「北堀であい橋 」が架かり、交差部のシンボルゾーンにはモニュメント風の塔!!が建ち「リフレッシュポートあまがさき」事業の一環 「遊水ゾーン」の”水と親しめる空間づくり”として整備されています。場所柄まだまだ地元以外知られていない??隠れスポットのようです、近くにある尼崎城外郭の水掘りのイメージが強い一角です。
尼崎・寺町界隈

道意町から阪神出屋敷駅へ向い沿道を 東へは尼崎城築城での城下町建設で散在していた寺院を城の西に集めた寺町が甍を連ねています。此処を抜けて尼崎城にも行ってみます。 尼崎駅南側には尼崎城の別名を持った「琴城ヒノデ阿免本舗」がありました (現:別の洋菓子店舗!)。この店は駅を中央公園側に出て西の信号を渡った三和商店街入口に老舗の看板が掲げて有り、義母の好物だった此処の"ランプ飴"を土産に買ったものですが先日通ったときには気付かなかった。移転したのか ??間口の小さな店だったが、黄金に光るランプをイメージした形が懐かしく思い出された・・・
赤レンガ造りの阪神電鉄車庫(変電所跡・・!!??) (城址公園から)

阪神尼崎駅の西大阪線ホームから眺めるだけだった尼崎城域は 西側の外堀だった庄下川を渡ると古めかしい赤レンガ倉庫があり 以前は多くの碍子が外側にあったような・・・??阪神電車の送電所だったと思うのですが今は・・・・!!??その南側に拡がるのが城址公園で 市図書館には水掘に姿を映す石垣と塀が一部イメージ復元されて在りし尼崎城を彷彿とさせます。その尼崎城の本丸跡は 城内小学校、城内中学校となり、城郭遺構は残っていません。ただ城内高等学校の西、図書館駐車場の北側には復元された石垣塀と続く土塁があって、壁とフエンスに囲まれた一角ですが二の丸跡の遺構でしょうか ??城公園として整備されれば分かることかも知れませんが・・・(^^;
伏見門址に建つ尼崎城址碑(城内中学校・43号線下)

護岸工事を終えた庄下川を渡ると北に図書館を見て直ぐ南側に"学問の神 "の看板が有り、堀に沿った小道の横の境内への北口に"尼崎市発祥の地"尼崎城址の石碑が建っています。西三の丸跡の此処が桜井神社で、護岸工事の際・堀の石垣遺構が発見されたのもこの附近の様です。 桜井神社は藩主・桜井(松平)信定公他歴代の尼崎城主が祭神としてお祀りされています。桜井神社の狭い境内の至るところに由緒書きま案内板が建っており、 本殿・拝殿は県教育委員会により平成9年 (1997)文化的建造物として指定されたもので明治15年(1883)竣工したものです。亀文と号した12代城主・忠告の歌碑や、 天守閣に使われていたといわれる九曜紋(戸田氏の紋)の棟瓦が飾られています。巽櫓の鯱瓦は社殿の柱に写真で添付、尼崎市市章の原形となった槍の鞘等の文化財が保存されています。
尼崎市発祥の地"尼崎城址の石碑(桜井神社)

「日本赤十字社」は此処 ・尼崎が発祥の地だとする説明板もあり、旧尼崎城の石で建てられた石碑があります。明治10年(1877)明治政府軍と西郷隆盛軍との間で西南戦争が勃発し、尼崎範最後の藩主・桜井忠興が私財で医師・看護婦を現地に派遣し、 敵味方の区別無く負傷兵の治療に当たったといわれ、救護団体「博愛社」が結成され、後にこの功績が明治政府に認められ明治 20年(1887)5月20日「日本赤十字社」と改称され、その事務所が東京都千代田区の桜井邸に置かれました。創始者・桜井忠興を日本赤十字社の祖神として祀る神社でもありました。
尼崎城模造石垣と白壁塀

尼崎城の次は富松城ですが此処で寄るべき所は両城に関連する細川高国の 大物くずれ戦跡蹟ですね。ロードマップを見ながら北摂にもある名月姫の墓へ寄ってか 近松門左衛門所縁の里を訪ねた。何故か尼崎にもいた、茨木童子が保存を訴える中世の居館城富松城 へ向います。西宮への帰りルート途中には阪急武庫之荘の南に大井戸古墳・さらに南下してJR立花駅近くには水堂陣屋跡があります。 私が子供の頃は親戚が水堂烏林に居たので附近を散策したはずだがウッカリすると通り過ぎてしまう路地の入口に、何度か移築された門が残されていました。


寺町
尼崎駅から出屋敷駅に向う阪神電車の高架の南側に寺々の堂宇や塔が建ち並ぶ風情は、車道を一筋中に入るだけで、 周囲の喧騒や普段イメージしている"尼崎"とは隔世の感がします。本興寺の開山堂・三光堂(大物浦から移築された神社)・大方丈・長遠寺の本堂と多宝塔等の桃山時代の建造物は 国指定の重要文化財7件をはじめ、県・市指定の文化財も多く残されています。元和3年(1617)尼崎藩主戸田氏鉄(うじかね)が幕府から命令を受けて尼崎城の築城にとりかかり、神 崎川河口付近の大物から蓬川河口付近: 出屋敷辺り一帯を城下町として建設 【町割り】するにあたり散在していた寺院を 尼崎城下町の西北に集めて寺町をつくります。
南朝の忠臣・秦武分の遺跡碑がある善通寺


寺町の区画は当初から殆んど変化が無く現在約3.9ヘクタールの区域に11ヶ寺が集中し、阪神電車の車窓からも尼崎駅に着く直前、 甍を連ねる寺町の様子は城下町の面影を今に伝えています。「秀吉由緒の寺 」・「南朝忠臣:秦武文遺跡」・「佐々成政公墳墓之地」を示す石碑が山門脇に立てられているのを見かけます。 町の防備上の要地を塀で囲われた寺院で固める事で、臨戦時には堀や土塁代りの砦として機能する出城の様にも見えます。平成元年に都市美形成地域に指定して、石畳風の舗装など修景整備が進められて 寺町地域散策道が出来ています。
寺町入口や阪神尼崎の中央公園西にある 「寺町案内」板

南北朝期には2代将軍足利義詮が半年間在陣し大覚寺城と呼ばれた、月峯山大覚寺では例年2月3日の「節分祭」には大覚寺狂言が行なわれ、実演中の狂言を見ている人も 疎らだった昔・息子を連れて見学に行った事があります。永禄年間(1558-70)覚阿上人開基を伝える平陽山安谷院善通寺(時宗)の本堂は宝永3年(1706)大修理を受けているが、移築当時の様式を其のまま伝えているようです。 後醍醐天皇の皇子:尊良(たかなが)親王が土佐に配流された時、南朝方の忠臣:秦武文がお供しましたが、妃を土佐に迎える途中尼崎で海賊に奪われ、遂に自決したという秘話を伝えています。
(寺町各寺 尼崎教育委員会案内板等参考)


伝説の城下町・大物 T

大物(だいもつ)くずれ戦跡碑
「大物くずれ」の戦跡碑が阪神大物駅の西北の駐在所隣に建っています。 応仁の乱の後、室町幕府の実権を握った細川氏一族の内紛が続き、 永正年間(1504〜1520)細川政元の養子、 高国と澄元が対立して尼崎を中心に合戦を繰り返されていた永正16年(1519)細川高国が柵や土塁、 石垣で構築した砦を築いたのが尼崎城ですが大物城との区別が???、只この地で度々尼崎で戦火を交えています。 大永6年(1526)高国が細川伊賢に命じて同規模?の邸城を築かせたのが尼崎城ならば高国が享禄4年(1531)大敗して最後に逃げ込んだのが尼崎城だったと思えるのですが・・・・(^^;
「大物くずれ」戦跡碑

大永7年(1527)桂川の戦で高国は敗北し近江へ逃れたが、 澄元が病役し内戦は数年間休戦状態が続き、再起を期した高国が澄元の後を継いだ甥の晴元と対立して戦うが、大敗する享禄4年(1531)迄の間の戦いは殆んどが兵庫の地が戦場となり、両者が対決では連戦連勝の高国政権が 意外な戦いに敗れ総崩れとなり、 高国が居城としていた大物城(尼崎城か?)へ逃げ込む程の大敗となったが、晴元勢の追撃は激しく高国は城下の紺屋(染色業)にかくまわれていたが三好山城守康長に捕らえられ大物(現:寺町に移転 )の広徳寺で切腹させられます。この戦いを「大物くずれの戦い」とよんで伝えられてきました。大物城は遺構も其の所在も不明です!!??? 地名「大物」の由来には種々な説があり、平安時代既に港町として栄え、 河口は筏に組んで運ばれてきた材木の集積場だったのか!、其の取引される巨材の大きさを意味する「大物」からきているという説もあるようですが、創建は古く・尼崎市内における最古の神社である「一の宮」が大物主神社であり、 大物の名に起因すると思えます。
(尼崎市教育委員会の現地案内板)


伝説の城下町・大物 U
義経伝説「船弁慶」と皿屋敷「お菊井戸」

阪神電鉄大物駅高架沿い北西にある派出所横に「大物くずれ」戦跡碑が立つ。攝津守護:細川高国が 晴元の追われ逃れた居城の尼崎城や、更に隠れた城下の紺屋は現:大物に有ったと思われます。大阪湾や瀬戸内海へ繋がる 神崎川河口の三角州に拓け海ヶ崎:海ヶ幸:海士ヶ幸(尼崎)とも呼ばれ、水陸交通上の要衝に有った大物に細川高国が屋形屋敷(居館)の尼崎城(大物城)を築き、
大物主神社

戦国時代に現:尼崎城が築かれ江戸時代初期:戸田氏が藩主となって整備された頃には阪神尼崎駅南西方に 寺院を集めて寺町が整備されたものでしょう。大物城の所在や規模等は不詳ですが、河川か河川の水を引いて濠を巡らし土塁を積んだ程度と思われますが、城は現:尼崎城に移っても城下町として繁栄していたと思えます。 嘗ての城下町中心部!の町場だったところ。大物川(埋め立てられ”歴史の道”として緑地公園化されている)大物浦へと、 大物駅南約250m東側の大通り!をR43号線に向って南下すると右手に大物主神社があり、
旧大物川沿い緑地公園の”着船橋”石碑

社殿前の西隅に「義経・弁慶隠家の跡」の石碑が立つ。此れより西方100m程には深正院が有りお菊井戸の奇談が残ります。大物主神社の南 50m程には大物橋の碑があり、大物川河川跡を公園化整備された”歴史の散歩道”が、 其の先のR43号に平行して東西に延びています。大物橋西方の公園内に着船橋の石碑が立つが、この辺り兄・源頼朝の追討から 都を逃れた義経が尼崎の大物浦まで落ちて大物橋近くの宿に一時身を潜めていた際、 同行していた静御前が義経との別離を惜しみつつ見送ったという創作上の「伝:静なごりの橋」(史実?とは異なるが石碑は 辰巳八幡神社に移設)や、義経主従が西国へ逃れる途中攝津国大物浦から船出するが烈しい風浪に押し流され、 海上に壇の浦に滅亡した平知盛をはじめ平家一門の怨霊が現れ行く手を阻むが、武蔵坊弁慶が祈り退けるという謡曲「船弁慶」の舞台となったところとされています。
謡曲”船弁慶”所縁の大物主神社

【義経・静御前の別れは、大物浦を出航し吉野山において悲劇の別れを迎える事に・・なるのですが !】文治元年(1185)11月6日の事といいます。 謡曲『船弁慶』の石碑も現在では辰巳八幡神社の境内に移され保存されている様です。
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大物主神社      尼崎市大物町2-7-6
大物主大神を主祭神として、市杵嶋姫命 ・湍津比賣命・田心比賣命を配祀し、 天照皇大神・住吉大神・春日大神・荒神・菅原道眞(天神社)・惠比須大神が合祀されています。創建は古く、
社伝によると平安時代中期: 平治元年(1159)平清盛が 安芸厳島神社参詣の際に当地を訪れ、 市杵嶋姫命の分霊を勧請したとされています。崇神天皇の御代、大神神社の祭神を大和三輪山に祀られたとき、大神の八世の御孫大田田根子命(おおたたねこのみこと)の後裔鴨部祝 (かもべはうり)が祖神大物主大神を、 ここ大物の地に奉斎したのが創祀で、
大物主神社「義経・弁慶隠家跡石碑」

別名:三輪明神で大国主神の別名でもあり、大国主神が自らの和魂(にきみたま)を大物主神として祀ったとされます【日本書紀】。運河を下り此の地:大物浦を通って 大阪湾や瀬戸内海へと出帆する人々にとって住吉大神等を祀る大物主神社は守護神だったのでしょう。大物浦から船出する前日に義経と弁慶等主従がこの大物主神社に潜んだのにも、航海の無事を祈願したものと思われます。 この時の脱出劇が謡曲「舟弁慶」として能:歌舞伎:狂言に上演される人気演題ですが、節分会に行われる大覚寺狂言には同じ尼崎を舞台の「船弁慶」も演目に加えてあるのかな・・・?
(大物主神社縁起等現地案内板 参照)


深正院    尼崎市大物町2丁目8-26 
阪神電鉄大物駅を南西へ約200m、大物主神社の西方・住宅地の中に白塀に囲まれ、厳重に山門の扉を閉ざした深正院が建ち、中を窺い知る事が出来ません。 山門を入って直ぐ西側には石鳥居が建ち従4位XXXXXの碑が立てられている様です。此の寺は尼崎藩主:桜井松平氏の菩提寺で、正徳元年(1711)尼崎に入封した松平忠喬が先代忠倶の菩提を弔うためその院号を寺名として 建立した浄土宗の寺院境内には松平氏一族や家臣の墓があります。 五代の城主達とその妻子の墓などがあります。尼崎城主で桜井松平氏:七代目桜井松平忠興の墓碑もあります。また 「お菊井戸」が有ることで良く知られています。 番町皿屋敷(東京)・播州皿屋敷としての姫路城・そして此処にも ”お菊さん”の怪談話が伝わります。姫路城は小寺家・青山家との騒動の様ですし、尼崎の場合も藩主青山播磨守が怪談:番町皿屋敷に登場の”お菊”の恋人青山播磨とが重なってのお話の様です。
深正院

元禄9年(1696)尼崎藩主5代目:青山播磨守幸督(よしまさ)の時 ・家臣・喜多玄番の屋敷に奉公に上がっていた侍女お菊が、御膳の中に針が混じっていた事を理由に、折檻され井戸に投げ込まれたといい、其れ以後・怪しげな事やたたりが続いた為に誰も住まなくなったとか。また 100年近くたった文化5年(1808)城下にはお菊の最後の姿に似ているという【お菊虫】が大量に現れて、玄蕃の家を呪い滅ぼしたと・・・。尼崎藩10代(青山8代目)藩主青山忠宝(ただとみ)は「お菊虫は蛹(さなぎ)であって 菊の亡霊でないから平静になれ」との”おふれ”を出しており、此の伝説と城下の混乱ぶりが騒動出来ます。お菊虫の姿を見て大騒動となった史実に近いものか?、創作なのか、深正院の付近には伝説との繋がりは判りませんが、 実在の家老貴田玄蕃の屋敷がありました。藩主青山氏の子が生まれ、当時:生まれた子を一度道端に捨てると幸運に恵まれるという迷信があり、仮に捨てた子を百姓が拾いました。其の手柄で成功した百姓が、 藩主の座を狙う家老玄蕃の侍女”およね”の引受人だったところから、玄蕃は侍女”およね”を憎み皿か、上記の様に御膳を虐めの道具に使ったものか、折檻して吊るしたという井戸が深正院にあります。
(ひょうごの城紀行・尼崎市教育委員会 参考)


尾浜八幡神社と名月姫
尾浜町で庄下川を渡った所に尾浜八幡神社があって名月姫公園となっています。うっかり通り過ぎるところだったが樹陰の看板に「名月姫・・・」の文字。 名月姫の墓は北摂にもあり、以前の山行レポート名月峠〜竜王山【北摂・寒天の里と名月姫伝説の峠から・・】で 伝説等由緒を参照してください。此処では省略します。

近松門左衛門の墓  国指定史跡(昭和41年9月2日)  尼崎市久々知1丁目3-17

近松の里廣済寺は江戸時代・正徳年間(1711〜16)に、日昌上人が法華道場として再建した際、 近松門左衛門が建立本願人として貢献しました。その後も度々廣済寺を訪れ此処で作品を執筆したと伝えられます。
近松公園の近松記念館前にある銅像

境内には高さ48cm・緑泥片岩の自然石を墓石とした近松門左衛門の墓があり享保9年(1724)11月12日の没年が刻まれており、昭和41年国指定史跡に指定されています。 近松門左衛門の墓は他に、大阪市の妙法寺にも有って共に国指定史跡となっています。 廣済寺の東が広さ約2ヘクタールの 近松公園で南入口には近松博物館があり池を廻って、せせらぎや東屋を配した回遊式の日本庭園で、木陰で囲碁・将棋に興じたり、子供の散歩にと四季折々の風情を楽しみながらの地元に人気のスポットです。
近松門左衛門の墓

近松門左衛門は江戸時代初期に始まった 人形浄瑠璃の脚本家として、竹本義太夫と協力して「曽根崎心中」「女殺油地獄」「冥途の飛脚」など数多くの名作を残し東洋のシェークスピアとも言われます。世話物として丹波柏原には近松の「大経師昔暦」による おさん茂兵衛の悲恋物語を実話としたおさんの森があり、篠山市には「篠山節」「丹波馬子唄」の丹波与作を題材にした 丹波与作待夜小室節があります。


大井戸古墳  南武庫之荘3ー425

市バス「北図書館」近くの大井戸公園内に古墳が保存されています。直径約13m程の円墳は古墳時代後期(約1400年前)のもので、この時期の古墳は丘陵上に 多くの小古墳をかためる「群集墳」の形態をとるのが普通で、単独で平野部に造営されることは珍しいとのこと。
大井戸古墳

昭和43年(1968)の調査により石室は花崗岩の自然石による横穴式石室であることが確認され約長さ6m・幅1.5mで南を入口としています。石室内部調査は行なわれなかったので、 封土から須恵器が出土した以外は不明とのことで現在は古墳上に盛土して遺構保存されています。
(尼崎市教育委員会の案内板参考)
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水堂古墳  水堂町1丁目25−7

水堂代官屋敷(陣屋)から一つ西の道を北へ進むと水堂宝筐印塔のある常春寺があるが、更に北へ2分程進むと水堂須佐男神社に着く。 天正年間(1573-92)の創起と伝えられ須佐男命(天照大神の弟神)を祭神と する当地の氏神。樹木に囲まれた境内の本殿裏手の小高い丘は古墳時代前期(4〜5世紀)の築造と見られる前方後円墳で、 墳頂部の建物は出土品の保存館の様です。既に前方部については原形が著しく損なわれていますが、南北に主軸をおく全長約60m・後円部径約30mと推定される古墳時代前期の前方後円墳です。
水堂須佐男神社本殿裏手・水堂古墳の後円部の墳丘

昭和37年の発掘調査で、後円部から 粘土槨に覆われた長さ約7m、幅約0.7mの割竹形木棺が出土しています。 木棺の内側には一面に朱が敷かれ、中央部には骨粉状になった人骨と歯があり、其の両側に鉄刀2、短剣1が置かれ、足下の位置には鉄槍1、 頭部には三角縁三神四獣鏡(径23cm:奈良県黒塚古墳、京都府芝ガ原11号墳と同型鏡)、 ごろく(矢筒)等の副葬品が置かれていました。これ等の出土遺物は昭和60年(1985)3月30日尼崎市指定文化財となっています。
(現地・水堂古墳案内板 尼崎市教育委員会 等を参考)
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水堂宝篋印塔水堂町1丁目24−27 

JR立花駅の北側を沿線に沿って西方へ約400m地点に水堂代官屋敷(陣屋) 跡があり、 更に50m程・西一つ目の細い道を北へ進むと直ぐ常春寺がある。道に面した角に水堂宝筐印塔の 案内説明板が立てられていて、山門を潜った左手には笠の隅飾り突起の先端部が一部欠けているところがあるが古色蒼然とした重厚な宝筐印塔は、平成6年(1994)現在地の北約50mの位置の建てられいたのを現在地の常春寺境内に 移転されています。水堂古墳(前方後円墳)に極接しているため、古墳の杜や丘陵を祭祀の適所として建立されていたのでしょうか?
水堂宝筐印塔

この宝篋印塔は総高約240cmの花崗岩製で、尼崎市内に残された宝篋印塔としては基壇から宝珠までほぼ完全な姿を留める唯一の例として貴重な資料となっています。 基壇と基礎の上には蓮弁の反り花を刻み出し、 基礎三面の格狭間(こうざま)は素面ですが、正面の文様には輪郭内に宝瓶に活けた三茎蓮が掘り出されたもので、輪郭や格狭間が目立って深く彫り込まれており、 其の面が輪郭いっぱいに張っているなどの特徴がある。丹波や阪神間では珍しい文様と思えます?。月輪(がちりん)に金剛界四仏の種子(梵字)が彫られた塔身・四隅に隅飾りを付けた笠・伏鉢に請花が九輪を挟み 宝珠を載せた相輪部へと積上げた方形一重の塔で、格狭間のデザイン・塔身の幅が広い・笠の隅飾りの反りの外傾・相輪の伏鉢が背の高い円筒形になること等の形態から南北朝期中期(14世紀中頃)以前の築造と推定されています。
(現地・水堂宝筐印塔案内板 尼崎市教育委員会 等を参考)



雉ガ坂伝説地  大庄西町2−1 武庫川橋東詰北

西宮から旧西国街道を通り中国街道(2号線と43号線の間)沿いを東へ向い、 武庫川橋を渡って直ぐ北側に武庫川堤防沿いの道と分かれて緩やかに住宅内に下っていく雉ガ坂が伝承地です。主君・織田信長が本能寺に於いて明智光秀の謀反「本能寺の変(天正10年1582/6月2日)」によって殺害された事を知った羽柴秀吉は、中国攻めで備中(岡山)高松城の毛利氏と戦いに苦戦していたが和睦して急ぎ引き返します。
雉ヶ坂・正面は武庫川堤防

本能寺の変を知り、 決戦を間近にして毛利氏と和解して、岡山〜京都へ戻り且つ光秀に勝利するのに僅か5日間は脅威で、裏の裏話がわかれば面白いところですが・・・一方・光秀勢は尼崎の武庫川近くで秀吉を討とうと待ち討ちの陣を構えていました (旧地名の松内町がその由来とか)。 秀吉勢が西宮・鳴尾と中国街道を東へ進み小松の岡太神社附近に到着すると、 武庫川近くの一農夫の注進があり、武庫川を見ると未だ夜明けに間があるのに対岸の竹薮から、慌しく雉が飛立つのが見えたので、 光秀勢の待伏せを悟った秀吉勢は西昆陽方面(西国街道)に進路を変え、 背後から攻め勝ち京へと進みます。
雉ヶ坂 ・武庫川橋側から

主君の無念を晴らし、 やがて太閤となった秀吉はその時の農夫の功績を称える為に探したがわからなかったので、 此の附近の雉の捕獲を禁じ、土地の人々には田と池を与えたといわれます。今も中国街道が武庫川の堤防にさしかかる、 なだらかな坂道を「雉ヶ坂」・かつての坂下の池を礼田池(いやでん)と呼んで言い伝えています。
(現地案内板【伝説 雉が坂】 参考)


尼崎城 水堂代官屋敷 七松城 富松城 塚口城

尼崎城(琴浦城・尼丘城)  尼崎市北城内・南城内)   阪神尼崎駅南東約600m

阪神尼崎駅の南口から東へ約100m程進むと 尼崎城の外堀だった庄下川を渡って城址公園に出ます。 水堀や石垣と白壁がイメージ復元された尼崎市立中央図書館が城郭の西三の丸にあり、その南側にある桜井神社には 尼崎城址の標柱が建ち戸田氏の九曜紋が入った天守鬼瓦が2枚保管されていてユニークな案内板が側に立てられています。
尼崎城址公園

尼崎城跡は北城内・南城内の約300m四方の城域に三重の堀をもって築城され庄下川も西の外堀として利用されていますが現存する遺構が殆んど残されてません。 城内小学校・中学校が本丸跡でR43号線側に"四角堀・伏見門跡"の説明板と尼崎城址碑が建てられています。 兵庫南部地震被害による立替工事の際に本丸御殿跡の遺構や、また庄下川にも堀の石垣遺構が発見されています。
城址の棟瓦(戸田氏の九曜紋)

応仁の乱後、実権を握った細川氏の内紛時、細川高国が永正16年(1519)に柵城を築いたのが始まりで、その後・大永6年(1526)細川伊賢 (ただかた)に命じて尼崎城を整備させ居館城としたようです。豊臣氏以来、建部高光が尼崎の郡代となり、 高光の孫建部政長が元和元年(1615)大坂夏の陣で徳川家康に属した為、大坂城落城後は尼崎藩主となったが 元和3年(1617)年少を理由に播磨国林田(姫路市)に移封され、代わって近江膳所城(大津市)より戸田氏鉄 (うじかね)が入封し徳川幕府の命により、 元和元年(1615)の一国一城令に基づき富松城はじめ、領内の他城を廃し 尼崎藩の本拠として 荒廃していた高国の!!尼崎城(大物城!)を拡張、
市立図書館に出現したイメージ復元の水掘・石垣・白壁土塀

大修築し元和 4年(1618)四層の天守をはじめ、多数の櫓や門で固めた厳重な輪郭式平城の近世城郭を築き大阪城の”西国の備え”としての重要拠点となります。側を流れる庄下川を濠として取り込み、海に面した尼崎城は水城でもあり、水に浮かぶ優美な姿から「琴浦城」の別名を持っており、城内からは濠と川を使って船で出入り 出来るようになっていたと言われます。
市立図書館に出現したイメージ復元の水掘・石垣・白壁土塀

大阪城普請奉行として大阪城修築にも従事した氏鉄も、寛永12年(1635)在城18年で美濃大垣城(岐阜市)に移り、遠江掛川城(静岡県掛川市)から青山播磨守幸成(よしなり)が入封以後、 青山氏は4代続いて幸秀が郡上八幡へ移封となった後、 正徳元年(1711)遠江掛川から松平(桜井)遠江守忠喬(ただたか)が入封して以後、松平氏7代に及び、明治6年(1873)1月には藩主・松平忠興は東京へ居を移し、 尼崎城は廃城令により解体破却され明治維新を迎えます。
(ひょうごの城紀行・尼崎市教育委員会 参考)


大覚寺城   尼崎市寺町9

阪神電鉄尼崎駅から 南西へ約5分ほど歩くと尼崎歴史の道・城下町の寺内町風情を残す寺町に入ります。この一角に現存する尼崎最古の名刹:月峯山大覚寺(律宗)は節分に行われる念仏会では大覚寺狂言が演じられ、最後に 「炮烙(ホウラク)割」が、檀家の衆によって午前1回・午後2回演じられていた様な?。いろんな演目があるのかも知れませんが「土蜘蛛」は演じられていた様な?、尼崎所縁の「舟弁慶」が有れば良いのですが?、今回訪れた時には立派な狂言の舞台が本堂に接して新造されていました。創建は推古13年(605)聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて、 夜々瑞光に輝く長洲の浦(今の大物・東本町)に建立した燈炉堂を母体として成立したと伝えられています。
大覚寺

鎌倉時代以降:大覚寺は東大寺円照上人の弟子の琳海上人が建治元年(1275)石清水八幡・大乗院座主を辞して 大覚寺の住持となってやってきたとき、思圓上人(奈良西大寺叡尊)が僧衆120人を連れて菩薩戒を興行する程の宗教道場でした。また南北朝期には足利二代将軍義詮が半年間在陣し大覚寺城と呼ばれ、 後伏見上皇の中宮ご安産の祈願を行い量仁親王(光厳天皇)がめでたく誕生せられ「貴坊の効験」と大がかりな祝典をあげられるなど一時期:宗教・政治・経済・文化・軍事の中心となる等、 大覚寺境内の市庭を起源として中世の水都尼崎が形成され、其の発展に大きく貢献しています。

(現地大覚寺城址案内板 参照)


水堂代官屋敷(水堂陣屋)   尼崎市水堂町1丁目23-4

JR立花駅から線路沿い北側の車道を西へ約400m程、歩道側の面した路地に数m入った所に古いが重厚な瓦葺き門の建つ水堂代官所跡があります。寛永12年(1635)美濃国大垣藩に移った戸田氏鉄に代わって、 遠州掛川から尼崎藩主として入封した青山幸成(よしなり)が5万石で領有していたが、江戸幕府に分家願いを出し 寛永20年(1643)幸成の死後、遺言により許可され尼崎藩領の一部が四人の男子に分配されます。 このうち二男丹後守幸通に分割相続された領地3千石を統治するために水堂に設けた地方代官の役所跡です。
水堂陣屋(代官屋敷)跡

幸通の領地はここ水堂をはじめ潮江・次屋・浜・水堂等尼崎市内の他、 西宮市域の下大市・樋口新田・久右衛門新田・中村等武庫川沿いの村や神戸市域の平野の一部も支配下に置かれています。また此の地の地方代官は貴田氏が代々勤めてきました。代官屋敷は明治期まで 青山氏が在城していたが其の後、大正・昭和に行なわれた鉄道建設や道路整備によって移築され、当初南を正門としていたが西正面に改築したり建物を北側に移す等、度々の移転後・平成元年12月に解体され、 現在では僅かに門の一部だけが残され当時の面影を伝えています。
(現地:水堂屋敷跡案内板 尼崎市教育委員会 参考)



七松城(七松環濠・七松陣所)   尼崎市七松町3-10

JR立花駅の南東 ・福祉会館から踏切を渡り右折して道なりに進んだが、尼崎市役所の西・七松小学校の北側一帯と説明した方が判り易いのかも?。 住宅街のなかに望楼風の鐘楼と 山門?を持つ真宗 弘誓寺【享禄4年(1531)開基】と路地を隔てた向こうに七松八幡神社の看板が見えてくる。平安時代中期:代68代後一条天皇の寛仁3年 (1019)源頼信によって創建され、御祭神に応神天皇を奉る七松八幡神社があります。
神社脇の緩やかなカーブに環濠や区割り?の溝跡を想像

武庫川と神崎川が大阪湾に流れ出る 尼崎市の河口一帯は広大なデルタ地帯が拡がり、集落近くに丘城や山城を築く事が出来ない平野です。 合戦が絶える事のなかった戦国時代・領主の城郭とは別に”村の城”として自衛防御するための手段として、 集落の周囲に環濠を廻らせて集落そのものを自衛防御する環濠集落が発達しています。
七松八幡神社

近在には正玄寺を中心とした寺内町の塚口城や、 栗山環濠・武庫環濠・次屋環濠・東富松環濠・西富松環濠等がありました。七松環濠集落も其の一つで、七松城とも云われ戦国時代には合戦の陣所ともなっています。室町時代末期:永正年間 (1504-20)の細川家内紛の頃は尼崎地方を中心に合戦の舞台ともなり、 細川高国方は池田城・伊丹城 ・尼崎城に入って兵を集め、対する澄元方の三好之長が難波(尼崎市)に本陣を置き、富松・生嶋・七松・浜田・新田や伊丹市の小屋(昆陽)に陣を置いています。
弘誓寺と七松八幡宮


天正6年(1578)信長に叛した荒木村重の 有岡城(伊丹城)攻めの時には、有岡城の支城として荒木村重の嫡男:村次の拠る尼崎城攻撃のため、 織田信忠が七松環濠を付城とし、有岡城の出城となっていたが平城のため荒木軍が撤退した塚口城と共に、 織田方の付城として使用されたといいます。花隈城(神戸市)の荒木元清・三田城の荒木重堅との連絡を絶ち分断孤立化させる目的もあったのかも!。
七松城落城の慰霊碑

住宅密集地に有って環濠集落や陣城・付城の遺構はないが、境内に 「七松城陣所故六百二十余人之碑」と彫られた七松城落城に関わる慰霊碑が建てられています。永正年間から続いた細川家内紛は享禄4年(1531) 大物くずれの大敗で高国は自害させられますが、隣の弘誓寺も同年の創設です。この頃の多くの戦死者を祀ったものか?天正期・織田軍に攻められた荒木村重一族郎党が、 此処でも処刑され其の慰霊塔とされたものか?
(現地七松八幡神社由来案内板/ひょうごの城紀行 神戸新聞総合出版センター 等参照)


富松城 (東富松城)
   尼崎市富松町2丁目(バス停・富松北口)

富松(とまつ)城は尼崎市の北部・阪急武庫之荘の東へ約900m程のところ、 城址の西側をJR立花駅から伊丹市へ道意線が、 東西には園田・西武庫線道が交差する富松北口交差点の東南角から、通りに面して小さな森があります。中世(室町〜戦国時代)の城郭の原型をとどめる堀跡と、 その内側には竹薮と樹木が茂る城域の西側にだけは南北に47m・高さ約4m・幅10mの土塁遺構の一部が残されています。 北側の角附近で崩されてはいますが此処が富松城(館城)です。城域の南西側は駐車スペースとなっておりフエンス越の北側には八幡社を祀る小さな祠があります。
富松城・城域の西を南北に延びる大土塁

保元年間(1156-59)頃から富松荘が置かれ 長享元年(1487)以前から荘園管理を任されていた豪族・薬師寺氏の構居(館城)と考えられ、15世紀前半には南北180m・東西150mに堀と土塁を廻らせた、瓦葺きの館城だったことが分かっていますが、 周囲には住宅が達ち並び、園田・西武庫線車道の工事により城域の北部分が破壊されてしまっています。応仁の乱(1467〜77)後、摂津国は細川勝元の領地でした。勝元の子・政元には子がなく、 細川一族による後目相続の内紛となり細川澄元に味方した池田城主・池田貞正が永正5年(1508)細川高国に殺され、これが戦国期にかけて幾度となく富松城が戦火に見舞われる発端ともとなります。 伊丹城と尼崎城・大持城との中間に位置し、西国街道筋の西宮の越水城・瓦林城とともに境界防衛や連絡用の城として攻防の要となっているからです。 再び尼崎を舞台の細川両氏の戦いは 永正16年(1519)細川澄元が瓦林政頼の越水城(西宮市)を攻める為、神呪寺に本陣を置き、高国も瓦林城を助ける為、丹波・山城・摂津の兵を集めて池田城を本陣とし、 この時・富松城も陣が置かれ高国方の武将が在城したと思われます。しかし越水城も落城し高国は近江国へ逃れ、 富松城へは代わって澄元方の武将が入城します。
富松城
交差点から北側と西側の堀と高さ4mの土塁

澄元が阿波で病死後、大永6年(1526)高国が摂津支配として水陸交通の要衝となっていた尼崎に城を築きますが、 高国と澄元の子・晴元の宿命の対立が表面化し享禄3年(1530)晴元軍は尼崎城を中心に陣を敷き、富松城には薬師寺三郎左衛門国盛が立て籠ります。神呪寺城に陣を敷いていた高国軍が富松城を攻め落とし、 その日のうちに富松城に入って本陣とし晴元方の本陣となっていた大物城を落し伊丹城も攻めます。連戦連勝を続ける高国軍に寝返った薬師寺国盛によって大勝利したがこの後、四国から細川持隆・三好元長の救援、 さらに播磨の赤松政村が叛いて一挙に形勢は逆転し、翌享禄4年(1531)高国は広徳寺(尼崎市)で切腹します。富松城はその後、天文10年(1541)晴元方の伊丹衆と瓦林対馬守が西富松城に入り、 三好長慶方の越水城を攻めるが逆に伊丹城へ退却しています。天文18年(1549)には三好長慶方が拠る東富松城を晴元方が攻めるが失敗し逆に三好方が伊丹城を攻めます。天文19年(1550)三好長慶が 富松城に入って本陣とします。富松城の廃城時期は不明ですが、織田信長の摂津侵攻により 三好方が越水城を棄てるまでは、その属城として三好方の武将が拠っていたと思われます。天正7年(1579)伊丹城主・荒木村重が織田信長に叛いて伊丹・有岡城に立て籠もったときは伊丹の城の、 向城(付城)の一つとして此処に瓦林(河原林)対馬守が拠ったとされます。
富松城・大土塁の内側

富松のバス停に「富松城跡」の説明板があるが、それより遥かにデカイ看板が建てられています。 アニメの茨木童子(此処・富松の里では親孝行な鬼として伝わる)が中世の城・富松城跡を守ろうと語りかけているのです。市街地の中に取り残された荒れた小さな森が、 かつては細川両氏の争いや三好長慶に、また織田信長に背いた荒木村重を攻める向城にと関わり歴史の舞台に浮上する富松城ですが、西部と北部に堀と土塁を残すだけで城域の大部分が欠け、 個人から国に所有権も移ったようで取り壊しの危機に瀕しているといわれます。僅かに残された貴重な遺構は文化財として後世に伝えるべく「富松城跡を活かすまちづくり委員会」が民間レベルで保存活動されています。 そして今日(H15.6.25)は富松城址博物館がオープンしたのを夕刊記事で知りました・・!!。
(郷土の城ものがたり 阪神編 兵庫県学校厚生会 尼崎市教育委員会の城址説明板等参考)


塚口城(塚口御坊)    尼崎市塚口町本町1丁目・2丁目

阪急電鉄神戸線【H18.10より阪急阪神は統合され阪急阪神ホールディングスに名称変更 ・歴史を重ねた郡・町村・字名が簡単に改称され消滅する中、銀行等での統廃合で複数社名を残す意 味が判りませんね(^^ゞ】の塚口駅の北出口から東北一帯が塚口城です。 塚口城は元・塚口御坊とも呼ばれた室町時代:応永7年(1400)【応永16年(1409)か?】
塚口城東端・県道沿いの外堀跡


興正寺第11世:性曇堯経上人が布教で尼崎に来たとき病気で1ヶ月余り滞在した際・入門してきた祐信が発起人となり、上人の許しをえて堂舎を建てたのがはじめといわれます。当時は水田や湿地が拡がる平野の沖積地の中の段丘に在って、遠く離れた所からでも目立つ存在だったようです。 堀はその沖積層や旧河道上の地盤の柔らかい部分に巡らされていたようです。
塚口御坊(正玄寺

性曇上人を開基とした塚口御坊【現在の円融山正玄寺(浄土真宗興正派塚口別院 本尊:阿弥陀如来)は塚口御坊廃城後に 正玄寺として復興した】を中心に七松城と同様に環濠集落から発展したもので、一向宗徒の一揆を契機として寺内町に発展します。 寺内町への四方の街道出入口となる要所には木戸が設けられ、其の門跡:土塁跡に地神さんや 愛宕社を祀る祠がある事等は、寺内町で知られる宝塚市の小浜城と同じ現状保存状況で、 市街地の中に遺構の名残を感じさせるものが在るだけで満足しなければ・・・開発と保存の現実を実感させられます。
塚口城外掘・阪急神戸線?南側

塚口城域内の町名は変わったところもあるようですが、現在の東町・清水町・北町・南町の四地区に分かれて、 堀と土塁で囲まれた木戸(城門)跡が各々に残ります。阪急塚口駅(阪神との統合後の新名称が判りません ?)から梅田方面に向う線路に沿って進むと、民家の塀の中庭に「従是西北尼崎領」の石標を見ます。塚口城の南門が在ったとされる場所の近くです。線路架橋を南側に出ると線路に沿って 真っ直ぐ側溝が延びていますが、そっくり外堀跡の跡の様です。
塚口城内掘・南東角付近

後で判ったことですが、 四つの木戸口(門跡)の探索には各々に地区会館が隣接しており、南門以外には祠が祀られているのが目印になりますよ。 知っていれば殆ど苦労せずに探し出せたでしょうが。県道41号との交差点付近くに内掘跡らしい護岸が石積された溝、 県道沿いには部分に外堀跡らしい溝が現われます。そんな中で西に入る狭い車道を見つける。 内掘跡を渡ると側に塚が有る。此れが塚口城東門跡(塚口本町1)土塁の一部でした。此処に「塚口城跡 東門・土塁」と城域を示す案内説明板が建てられ、 西側の民家角には「道しるべ」の石標が舗装のコンクリートに埋もれるように取り残されています。神崎川を渡って尼崎から北方の伊丹・宝塚を経て有馬へ向う有馬街道で、 市内に残存する「道しるべ」では唯一自然石に彫り込んだものだそうです。
塚口城・東門土塁のある愛宕社

”右・昆陽中山 左・西之宮”とあり最後の 一文字がコンクリートの下に埋もれて見えない。此処から約4kmで昆陽の伊丹城・更に約6km程で西国観音霊場:第24番の中山寺があって、巡礼道としても利用された様ですが、更にこの道を北に向う土塁 (崩され遺構は残らないが)の延長線上の直ぐ先には、 塚口城の清水町門跡(塚口本町2)で「従是南尼崎領」の石標が建ち、木戸を東へと堀切を出ると尼崎領、淀川の沿って京都に向う第一級の京街道へと通じます。

塚口城・東門土塁側の堀跡


西へは西ノ宮を経て姫路へと西国街道・山陽道へと繋がる交通の要衝の地で、城内が其の交差点となっていて旧道も残っています。狭く迷路のように入り組んだ家並みと道路は、 嘗ての塚口城内を区画・区分していたものかどうか…?。現在塚口城の遺構や雰囲気!を比較的を良く残しているのが東門周辺です。僅かながら残る堀の跡や 土塁の一部を残して祠の建つ位置には木戸を護る番小屋か櫓が在ったのかな?自然石の道標を見て、西への道路は「尼崎都市美形成建築物指定」のプレートが玄関に付けられた矢野邸の前 を通りますが何の会社だったか忘れたが?。大正初期の建てられたもののようですが、 先日は丹波の田舎で明治〜昭和初期の洋館を見てきた後だけに、 都会の中で見る昭和初期の和風建築には、むしろ洗練された重厚さと新鮮な感じさえ覚えます。若い子が懐メロを斬新と感じるように・・!。
塚口城東門に西向に有る自然石の道標

この通りの先に塚口御坊(現:正玄寺)が建っています。 往時は四方が掘で囲われた塚口城の核心部ですが住宅地の中に在って遺構も城跡の雰囲気さえ消滅しています。周囲を歩いてみて北方に辛うじて”西の口公園”の名が城域を表わしているだけです。
城域とされる北の堀外に報徳寺と須佐男神社(現:塚口神社で天平年間の 創建を伝える)が在り、其の東約50m程には昆陽(こや)川とカッチャ川?の合流地点が有り、二重堀の様相を見せています。川は旧城内と直ぐ東側の県道41号(大阪伊丹線)に添って其のまま二重堀が南へ並走しています。
塚口城東門近く:矢野邸

カッチャ川橋を渡って住宅地内を南へ進めば、また清水町門跡に出た。室町時代:管領細川晴元と山名(宗全)持豊が争った応仁の乱(応仁元年〜文明9年1467-77)の時には広根(川西市)の最徳寺、 多田(川西市)の光遍寺、箕輪(豊中市)の超光寺の3ヶ寺が塚口御坊を警護したといいます。しかし西軍の山名氏に付いて、周防から大内政弘(周防・長門・豊前・筑前4ヶ国の守護)が四国の河野通春等7ヶ国の軍勢に水軍をを率いて入京の際には焼き討ちされます。 永正年間(1504〜1520)細川政元の養子、 高国と澄元が対立し尼崎を主戦場として度々尼崎で戦火を交えています【大物くずれを参照ください】厳しい戦国時代に至って、 塚口御坊を中核として約200m四方に堀を巡らせ土塁を盛り上げて、外敵からの防御を固めた環濠の城塞へと変わっていったのでしょう。
カッチャ川橋(正面左奥)近くの昆陽川

天文年間(1532〜55)攝津地方の一向一揆では塚口御坊が、 川辺郡・豊島郡・能勢郡の末寺や道場等で組織された一揆衆の拠点ともなって此処に立て篭もり塚口城とも言われています。 永禄12年(1569)将軍足利義昭を奉じて上洛した織田信長は 法隆寺や本願寺をはじめ畿内各所に”矢銭(軍用金)”を課します。自治組織化されていた堺や尼崎はこの催促を拒否して抗戦の構をみせますが、堺は上納を認めさせられ、尼崎は拒否を続け又も焼き討ちされ、 共に自治組織は弱体化し、堺は信長の直轄領になってしまいます。天正6年(1578)三木城主・別所長治に続き伊丹(有岡)城主 荒木村重も信長に叛き伊丹城に籠もりますが、その際:一時は伊丹城の出城として塚口城を使いますが、平城の為・此処での抗戦は無理と判断して直ぐに此れを手放し有岡城に引き上げます。 代わって池田城に本陣を置いた織田信長が、塚口城を押さえて 七松城と共に伊丹城と伊丹城の支城:尼崎城の付城として 惟住五郎左衛門(丹羽長秀)・蜂屋頼隆・蒲生氏郷・高山右近・神戸信孝(織田信孝)・滝川一益等を入れます。伊丹城落城後は塚口御坊(塚口城)を使用されることも無く其のまま廃城となったのでしょう。
塚口城清水町門

江戸時代後半には城の機能も不要となり 手入れされる事もなくなります。 土塁は崩れ、屋敷や堀には土砂が流れ込み撤去され大半は田圃となり、商都大阪へ川一つ隔てての通勤圏尼崎は県下一の密集地となり、水濠は道路と化し、 城域東部は宅地・西部は繁華街となって城遺構を留めていません。東部と北部に僅かに名残を留める濠・土塁・門跡を塚口城遺構に気付く人がどれ程いるだろうか?見える容(形)は無くとも 歴史を伝承していく事は大事なのかも!
(塚口城東門土塁跡 正玄寺現地案内板 尼崎市教育委員会・ひょうごの城紀行 等を参考)
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