午後の散歩道 ゴロゴロ岳〜ガベの城〜観音山 /夙川堤〜北山公園〜甲山
阪神 (五万図=大阪西北部)
T 鷲林寺〜ゴロゴロ岳〜ガベの城〜観音山 H14年03月02日
U:神呪寺(甲山大師)〜甲山〜北山貯水池    同日
V:夙川堤〜北山公園〜甲山お花見コース  H14年03月31日

北山貯水池と甲山

近畿の山城: 鷲林寺城・神呪寺城 と 越水城
西宮の昔話 甲山とソランジン

校歌の山 上ヶ原南小学校  ♪緑濃き甲の山を友として…♪
        逆瀬台小学校  
♪xx・・甲山あおく草も木も…♪
    関西学院 「空の翼」♪眉にかざす 聖き 萌えたつ緑e…♪

六甲山鷲林寺(高野山真言宗)は東六甲山系観音山の中腹にあり、阪神間にあって四季の自然の風情が楽しめる自然環境の中にある。約1200年前甲山・神呪寺と同じく淳和天皇の勅願を受け弘法大師 空海が開創した寺で本尊の十一面観世音菩薩は弘法大師が自ら刻まれたものと伝えられ“のどの病封じの観音さん”としても親しまれています。兵庫南部地震に被災したが救出されたのが午後では指定避難先に収容も適わず 、其の後:近在の知人親戚を頼り、更には”自助努力”での県外疎開・・<割愛!!>・・当時は阪急夙川近くに居り、 夙川堤〜甲山や北山公園・北山ダム周辺を散策し、寺へお詣りに寄っては、本堂前の龍の手水口から流れ出す「かんのん水」を戴いて帰ることも有りました。
満池谷の兵庫南部地震の震災慰霊碑

自然水への人気!!もあって、その後・専用の水汲み場が設置されてもいた。 本堂前の参道 (石段)を下ったところに水子地蔵尊があり、その横には岩窟が設えてあり暗い洞窟の奥には八大竜王が祀られている。震災で失った息子が未だ小さかった頃、へっぴり腰で興味津々よく覗き込んでいた姿も、 遠い昔の思い出になっていきます。鷲林寺から観音山〜奥池〜ゴロゴロ岳方面へ幾つかのコースがあります。 参道の車道を進んで鷲林寺裏手の墓地の西端に出てから正面の堰堤(鷲林寺砂防ダムは右手に巻く)を経て続く鷲林寺尾根コースから展望尾根をパノラマコースに合流するルート。

パノラマコース送電線鉄塔からは岩場が続く・後方は観音山


若宮神社からのお奨めコースを利用すると ポイントの見所全てをカバーします。左手に赤テープのある道はミニ ・ロックガーデンの急な露岩の続く道でスリップ注意ですが、それだけに早くも背後に阪神間の市街地と 大阪湾の展望が開けてきます。正面に観音山を仰ぎながらのパノラマコースは帰路の楽しみに残しておきます。先ずは直進して社殿右手からセセラギコースに入っていきますが観音谷に沿って進む林間の道は旭滝を見て鞍部に出る。 南方は帰路に辿るパノラマコースで観音山を経由・鷲林寺に下ります。此れだけではコースも短いので砂山高原〜奥池〜ゴロゴロ岳〜ガベの城へと周回して此の鞍部に戻ってきます。



T鷲林寺〜旭滝〜砂山高原 〜ゴロゴロ岳〜ガベの城〜観音山 2002年3月2日

鷲林寺駐車場(PM1:45)からの参道すぐ右手には、墓地があり数多くの五輪塔・宝筺院塔や古い墓石が並ぶ。 その中に一際目立つ石造り七重塔が有り、西宮市内最古の石造遺品との説明板があります。 参道の石塔群の手前右手フエンスの先に草生した古い石段の参道があり鷲林寺本堂(観音堂)横の多宝塔に出てきます。 (コンクリの台下は舎利堂になっています。起工式は何時だったか!!・・ )舎利堂の奥に観音山を仰ぎながら今日の予定コースの周回コース取付点は、多宝塔(舎利堂)北側にある若宮神社の古い扁額と、 木の鳥居をくぐったところから始まります(PM1:55)。
西宮・鷲林寺多宝塔と観音山

左手(西側)に赤テープの見える小道が暫し岩場の急登が続くミニロックガーデン道のパノラマコースは帰路に使います。 正面の神社右脇から観音谷に向って雑木林に続く道がセセラギコースですが谷筋が見えてくるとスッカリ谷の様相は変わっています。ゴロゴロと岩が積み重なりその岩を洗いながら流れていた谷水は 大きな堰提によって消えています。谷筋に沿って桜の若木が植えられていたのは何処へ行ってしまったのか!!。途中で二分する道は明確な左の道を採ります。荒れかけた谷沿いの小道は堰提に阻まれ寸断され先に行けません。兵庫南部地震以降、六甲山系の危険箇所は点検整備されたようですので、六甲のどの谷筋にも多くの防砂用等の 堰提工事が一挙に進んだようです。暫くしてパノラマコース分岐の標識が目に付きます。セセラギコースもこの分岐道を採りますが、正面の谷奥からは水流も少ない軽い滝の音が聞こえてきます。 ゴウロの谷を少し前進すれば旭滝(5m)の前に着きます(PM2:03)。
観音谷の行場(旭滝)

滝落ち口の左右には八大龍王・白主大神・白龍大神等の石碑が建てられ対岸には不動尊も立っています。その不動尊の前からのガレ場はルートが出来ていて浮石も落ち着いているので、そのままガレた岩場を直登して セセラギコースへつなげます。これからしばらくの間は道がぬかるみ、水が染み出してきているような場所も有りますが水量少なく気にすることも無いでしょう。此処を抜ければ程なくパノラマコース(No35・No36の分岐尾根 PM2:15)に出会います。 左に採れば観音山へ、右手には岩場伝いの急な登り道が続くように見えますが露岩から先は、展望こそ余り無いけれど平坦な散策道が奥池へ・・ゴロゴロ岳へと導いてくれます。奥池方面から鷲林寺への帰り道は 岩場混じりの急な下降が続くので、疲れていたり子供連れの場合はセセラギコースが安心ですよ。 コース途中には搬送用モノレール軌道を撤去したようす、治山工事が完了した旨の表示も見かけます・・・ということは。結果は直ぐにわかります。尾根分岐から2〜3分で「奥池へ」の標識を見て右折直ぐ (3m程)奥池への道とは別に右へ細い道が延びています。
飯盛尾根上部から奥池・六甲最高峰

砂山高原の荒涼とした感じを期待して辿りますが足下は砂山の治山工事も済み踏み跡にはグリーンのネットが土止めに被せられ、砂山高原真っ只中を抜け出た斜面には 何段にも渡ってブロックの曲輪の階段が続いています。期待外れと言えば問題かな・・・!!??潅木帯なのでもうすぐツツジ等春の花が楽しめそうな コースにはなりそうです。砂山高原からの道は、先に分岐した 奥池へのコースに合流してササの谷沿いの道となり飯盛尾根への取付きに出てきますが、一旦フェンスに沿って100m程下って奥池に出て見ます(PM2:30)。池畔を巡る遊歩道には釣に興じる人、 東お多福山から下山してきたと思われる数人のグループが赤松の林の下で休憩しています。此処から笹峠〜林山 〜六甲最高峰といったコースも考えられますが今日は此処から引き返し、行き過ぎてきた飯盛尾根からゴロゴロ岳へ向かいます。池を巡りながらイモリ谷〜「人間灯台」コースもあるが林道や宅地造成地を歩いているようで味気なく、 花の季節の散歩道にとっておきます!!。
砂山の消えた砂山高原を遠望

飯盛尾根からは東面に、今は姿を消した砂山高原ですが尾根の斜面にその白い砂地を見せて昔の!!面影をうかがわせています。尾根を登り切った辺り北西の岩場からは、西・東両お多福山、林山・六甲山最高峰と 奥池の住宅街の展望が開けます。此処を下って登り返すと芦屋水道部の施設に出てきますが施設 の端は鷲林寺からのハイキング道との合流地点です(PM2:50)。「園田山」と彫った石標があるこの辺りが最高地点Ca580mで、 少し下った立会峠の頂に剣谷山3等三角点があり標高565.6mで「ゴロゴロ岳(雷岳)」の通称で通っています。震災後の再調査で標高値は変わったはずですが山名プレートは全て565.6m、 効果の薄れたお札のように彼方此方にぶら下がっています(PM2:53)。ゴロゴロ岳三角点から25m程南下の広場にはフェンスで囲まれた空き地に、土盛の場所がありますが、以前は此処に錆びた鉄骨が残っていて上部には木造の展望用の小屋がありました。此処から西へは柿谷道を芦屋川へ・南の苦楽園への下降ルートが有るが 鷲林寺へのルートに戻って引き返します。ガベの城からの展望(甲山と北山ダム)

これが「神戸営林署剣谷森林気象観測所跡」で『六甲山の人間灯台』と呼ばれ、今から67年あまり前(昭和10年<1935>)池野良之助さんが (25歳〜63歳)38年間、山火事防止と気象観測のために働いてこられたところです。当時の新聞で『六甲山の人間灯台』として紹介されてから、池野さんのことを「人間灯台」と呼ぶようになりました。 昭和48年(1973)6月「剣谷森林気象観測所」は閉鎖され、その間に300件もの火事が発見されています。しかしその10ヶ月後ハイカーの火の不始末で山火事が発生し北山公園の1/3と甲山の一部が焼失ました。 観測所はその後、京都大学地震研究所になりましたが平成3年(1991)10月悪戯から一部が焼けました。池野良之助さんは平成4年(1992)11月8日、この世を去り(享年82歳)池野さんが観測所で使用されていた器具・日記 ・データ等は芦屋市立美術博物館に保存されています。林の中、潅木帯と明るく快適な遊歩道ですが、何か物足りない!!途中剣谷への分岐から僅か5分程で絶景の岩場の展望台ガベの城 (481m PM3:08)に着きます。城としての史実は分かりませんが神呪寺城や鷲林寺城があった南北朝期なら物見櫓や狼煙台の役目は充分果たせる環境です。東面には北山ダムと甲山・仁川ピクニックセンタや五ヶ池・白く霞んだ大阪湾に沿って延びる阪神間の市街地を一望出来、 振り返れば樫ヶ峰から東六甲縦走路の太平山等も望めます。剣谷沿いに剣谷町へ下り立てばバス道向かいは北山植物園です。 植物園を抜けて北山ダム 〜甲山へも短時間コースで楽しめます。剣谷分岐へも7〜8分で戻れますので鷲林寺道を進みます。
鷲林寺の七重塔は伝:武田信玄の墓 ?

往時に採った「奥池へ」分岐へは10分程で、セセラギコース分岐の鞍部からは パノラマコースで観音山を目指します。平坦な山道なのでドンドン進んで山稜の東端の展望広場の岩場に「観音山」の山名プレートを見つけられるでしょう。しかし、此処は観音展望台か!!。 地図上での観音山(526m PM3:30)は少し手前(西)の縦走路の直ぐ脇に見える岩の間を登った所、冒頭に紹介した鷲林寺尾根コースを登り切った処でパノラマコースから僅かに6〜7m程入った所で案内板もなく、 注意していないと通り過ぎてしまいますよ。どちらの頂からも展望絶佳。ガベの城からの展望同様、甲山、北山ダム・五ヶ池を足下に、東に宝塚・川西〜生駒山、大阪湾を前にして南にパーンすると葛城山・金剛山が一望に見渡せます。 先程の山名プレートの「観音山」の東端少し下の岩場に立てば(もっと前には覗き岩並の露岩がありますが其処までは行けません!!)。名の示す通り鷲林寺・多宝塔・駐車場が真下に見えるが、 下山は少し戻って東への道をとるが送電線鉄塔(新神戸線No34)からは岩場の急下降が続くので慎重に。振り返れば露岩を通して観音山が美しい姿でそそり立って見えます。溝状の岩の道を下り切れば若宮神社の鳥居に下り立ちます (PM3:50)。


U神呪寺(甲山大師)〜甲山〜北山貯水池  2002年3月2日

鷲林寺から向かう西宮森林公園手前に甲山神呪寺がある。夏の夕涼みを兼ねて阪神間の夜景や、 芦屋浜等での花火見物を此処で楽しんだりもしました。森林公園駐車場から向う場合は茶屋に寄って、神呪寺へは特異な 仁王門を潜って車道で分断される本堂への参道を登って、参詣しますが山頂へは何年ぶりだろう。山門から15分もあれば登り切れるので山頂からは 西の北山ダムへ下って駐車場に戻るだけ。東の青年の家側へは短いが山道を歩いている感じのコースです!!。

甲山・神呪寺

来てみれば すがたも花のかぶと山 寺もわが身も薄雲の中弘法大師に縁が深いため神呪寺より 「甲山大師」真言宗御室派別格本山) 本尊:如意輪観世音菩薩 新西国第二十一番霊場で開基:如意尼公】の通称で親しまれています。「甲山」の名称の由来は、 西暦190年頃人皇十四代・仲哀天皇の皇后である神功皇后が国家平安守護を祈願し、山頂に如意宝珠と兜を埋めたとの伝承や、山の形が兜に似ているので此の名がつけられたとも。五十三代・淳和天皇の妃、 真井御前(まないごぜん)は弘法大師に帰依し仏門に入り意尼と改名して天長8年(831年)に神呪寺を開創、 本堂を落慶したと伝えられている。如意尼は弘法大師から真言秘法を授けられ、承和2年(835年)33歳で亡くなるまで仏道に帰依し精進したといいます。
神呪寺:東端の展望台から
甲山は西宮市のほぼ中央にあり、 太古に活動した火山です。爆発することなしに流れ出た溶岩が塊状となって 持ち上げて出来た山は何処から見ても、その円い美しい山容は西宮のランドマークとして愛されています。県立森林公園・北山貯水池・仁川ピクニックセンターから、整備された登山道が山頂に通じています。 甲山大師下の駐車場(PM3:50)からなら約 15分で登ることができ、神呪寺本堂東端の展望所からは眼下に拡がる阪神間の市街地や大阪湾が眺望できます。 この展望台も兵庫南部地方地震では 一部が崩れて修復されているようです。登山道(山上まで石段の続くもち)は、その展望台前「納骨堂」の右手に「甲山」の扁額がかかった鳥居をくぐると細い道がついており「納骨堂」裏手に 「多宝塔」を見ます。案内板から右手の水平道は山腹を巻いて甲山青年の家・森林公園や仁川ピクニックセンタへ向う道、 左手の舗装参道風の九十九折りの登山道を進みます。8合目付近からは一部分で眺望出来ますが山頂は芝生のひろがる平坦地ですが周囲を木々で囲まれて眺望の期待は望めません。甲山山頂 (2等三角点 309mは明治34年<1901>設置 PM4:05)にあるモニュメント(平和塔)前には此処で銅戈(どうか)が発見された説明板があります。 銅戈は中国殷(いん)の時代に登場する青銅製の武器で、日本には弥生時代の初めに伝えられした。昭和四十九年に発見された銅戈は、全長28.6cmで幅約3cmと全体に細長い。通常の銅戈に較べて異形で実用品とは思えず、 またその後周辺を精査したものの関連遺構は検出されず、単独で埋納されたものと考えられており西宮市指定重要有形文化財(考古資料)となっています。
《西宮市教育委員会》


V夙川堤〜北山公園〜北山 貯水池?甲山  2002年3月31日

例年より早い桜の開花を迎え、先週辺りから花便りが気になり今週の土日まで持つだろうかとさえ 気になっていた関西の桜花の名所 ・夙川堤へは安井町・分銅町と変わっても2X年欠かすことなく家族で出かける年中行事でした。 震災での家族との死別や県外疎開でおおきく変わった生活と、組織・団体や人に対する 不信感は払拭出来ませんが自然は、何処に居ても・どんな環境にあっても忠実に四季を伝えてくれます。
夙川堤から甲山遠望H14.3.31

義父や義兄の眠る満池谷の公園墓地と 息子の名が刻まれる震災記念碑に参り、そのまま夙川に出るのが何時ものパターンですが花見は先週済ませたので、今日は気分転換に阪急夙川近くから甲山に向って春風に吹かれての散歩に出かけます。 その前に震災当時住んでいた近くの西田公園によって万葉植物園を一回りして旧西国街道に出ます。この北側一帯の高台は 瓦林氏の越水城跡ですが城址碑が石垣塀に取込まれた場所は震災で撤去されたか見当たらない。後に大社小学校に移されているのを知った。 夙川左岸に沿って阪急甲陽線(阪急夙川駅から2駅しかない支線)のガードを潜り上流に向かい県道82号線の夙川学院短大下の銀水橋!!に出て来ます。橋から谷沿いに妙龍寺へ向う道に入ります。
夙川堤から甲山遠望H14.3.31

夙川駅に集合して北山貯水池 〜甲山への今回コースは息子がカブスカウトに入隊していた頃一緒に歩いたコースですがピクニック気分の道になっています。以前通り抜けた寺も今は迂回して切り通しの岩の先に出て来ます。 此処からは多くのコースを分けますが道標完備、間違うこともないでしょう。稜上に多くの露岩が点在していてボルタリングなんて言葉が出てきた頃からフリークライミング練習では有名なスポットになってきました。露岩の稜線にはツツジ・ヤマザクラ等の花々が人気のコースに花を "!"色を添えより一層の華やかさを伝えています。 途中から左下への道は北山池(貯水池)から緑化植物園へのコースです。
夙川堤から甲山遠望 H14.3.31

展望を楽しんだら此処の花を愛でて循環バスで帰るのも良いですね。 住宅地が山裾を取り巻いている甲山ですが 此処からは木々や稜線の先に頭を突き出す自然の中の甲山の 山容を見ることが出来ます。稜線歩きから緩やかな道になり、その道が谷状の湿った道に変って来ると北山貯水池は近い。 北山貯水池は仁川の水をより有効に利用するために造られたもので、ここから約1.5km北方 ・六甲山や西宮北トンネルに向う盤滝口(社家郷山キャンプ場や老人保養施設・かぶとやま荘がある)交差点から車道100m程の所に湯の口取水場の標が掛かっています。 この付近は温泉泉源もあって湯の取水口かと思っていたのですが !!勾配の急な仁川には水を貯えることが出来ずダムを建設するには莫大な建築費がかかるので、
北山緑化公園

湯の口からこの場所へ導水管で水を引いて貯め、先ほど通ってきた北山池(緑化公園上)や越水浄水場《以前住んでいた分銅町からは500m程東北》へ送水されています。
貯水池の南側には満開の桜並木が甲山に向って伸びています。北山貯水池側からは湿地植物観察用のエリアから山頂へ直上するコースがあります。元来た道へ戻り、今度は北山緑化植物園に降ります。
北山緑化植物園は総面積5.5ヘクタールの敷地内に展示温室や、 ガーデニング等の緑や花に関する疑問にお答えする緑の相談所もあり、日本庭園が美しい北山山荘では休日は茶会や一般見学者にお手前も。
北山緑化公園の「墨華亭」奥と 「小蘭亭」手前


友好都市交流のシンボルとして中国紹興市にある書道家・王羲之ゆかりの庭園 「蘭亭」内の「墨華亭」や「小蘭亭」が建てられていて建物内は書道展などの文化的事業にも使用できる他、公園の回廊としても利用出来るそうです。園内の花壇を廻ったり桜の下で、芝生の上で夫々の家族が憩っています。 花に興味の方は切花や鉢物の販売も、ゆっくりハーブ茶を楽しめる喫茶室もありますよ。蘭亭前の小道を登って北山池から妙龍寺へと登って来たコースを戻って夙川堤を駅に向いましたが、疲れていたり時間が無ければ、 山歩きは止めて植物園前バス停から県道82号線に沿って夙川学院短大前に出ても、銀水橋からは夙川沿いに駅まで名残の花見を楽しんで帰れます。



鷲林寺・石造七重塔(総高2.5m   西宮市指定(昭和50年3月12日)文化財

鷲林寺(高野山真言宗)は平安時代始め天長10年(833)淳和天皇の勅願で、弘法大師<空海 >による開基を伝える古刹です。 参道右側に小さな墓地があり、塔はその西側隅にあって南に面して建っている。花崗岩製の七重塔で、 相輪のみ後補されていますが他は完存し、保存状態も良い。基礎の下端から七重の上端まで総高は2.5mを測る。 各重のバランスが良く安定感があります。初重の軸石には金剛界四仏の種子が四方に刻まれるが、 薬研の彫法には古制が偲ばれる。
鷲林寺の七重塔は伝:武田信玄の墓?

「武田信玄公の墓」とも案内板にある石造七重塔だが、作造の様式や技法からは鎌倉時代末期頃のものと 推察されている様なので、墓の伝承とは作造時期が合わないまでも市内最古の石造遺品として注目されています。甲斐武田氏・若狭武田氏との関わり等は不明ですが、ことさら信玄の名が出てくる此の地に興味は湧く。 武田氏の軍学書「甲陽軍鑑」の記録等の誤解?拡大解釈?があるのかも!!。鷲林寺山麓の集落に武田・上杉・・・等の甲斐姓が多いとも云う。鷲林寺略縁起には信玄が出家し得度を行なった際の頭髪を埋めたとの寺伝ですが、 戦国の動乱期に武田家家臣等が此の地に逃がれ周辺に集落を構え、 鷲林寺境内にあった七重石塔を「信玄公墓」として崇拝したとも云われます。
《西宮市教育委員会他》


甲山(かぶとやま)とソランジン  「西宮のむかしばなし」から

むかし都から淳和天皇のお后:真井御前【弘法大師より剃髪をうけられ如意尼と改名】が寺を建てる場所を探しておられましたが、 西方の山に美しく光る雲がかかっているのを見て 不思議に思い甲山まで辿り着かれたのです。甲山に来てみると 野にはいろんな花が咲き乱れ、地中からは蒸気が立ちのぼって 五色に輝やいていました。そこへ大きな美しい蛾が現れ、此の山を守るように黒い息をはきながら空高く舞っています。

お后は「なんて不思議な所だろう」と思い、 頂上に登って暫く呆然としていました。 すると、むらさきの雲がたなびいて来て峯いっぱいになりました。その中から突然、女神が現れ「ここは『魔尼の峯』と言い、そのむかし宝を埋めた所で、 仏様を祀るにはとても良い所です」と告げて姿を消しました。お后は大変喜ばれ、さっそくお寺を建てようと決め、 自分も尼さんになって名を如意尼と変えました。如意尼は仏様の心を知ることが出来るようにと、毎日熱心にお経を勉強しました。やがて弘法大師を招いて如意輪観音像を彫ってもらい、 大勢の人の力で甲山にりっぱなお寺が出来る事になりました。ところが甲山の西の方の鷲林寺あたりに、悪神・ソランジンが住んでいて「仏をまつると人々は皆、良い人間となって自分の言うことなど聞かなくなるだろう。 お寺が出来ないように邪魔してやろう」と考えました。そこでソランジンは大鷲に化けて火を吹きながら甲山を襲い寺を焼いてしまおうとしました。お寺には仏様にお供えする水を汲む井戸があり、如意尼をはじめ尼さん 達は 其の井戸から水を汲んで火を消そうとしましたが、 火を吹くソラジンの勢いが強く、お寺が危なくなりました。 その時突然・井戸から水が吹き出し 水柱となって立ち昇り、四方へ広がると雨のように降り注ぎ、 瞬く間に火を消してしまいました。火を消されたソランジンは「俺の力では、どうすることもできない。 無念じゃー」と、逃げ帰って行きました。
神呪寺山門内の門守神?から鐘楼と甲山を望む

尼さん達はほっとしましたが、いつまた現れてくるかもしれぬソランジンです。 どうしたものかと弘法大師に訊ねますと「悪い神でも、決して憎んではならない。 憎めばまたきっと悪いことをするだろう。東の方に大きな岩があるから、その岩の上にソランジンをまつってやれば、きっとおとなしくなるであろう」と教えてくれました。如意尼は、そのとおりにソランジンを神として祀りました。
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「鷲林寺略縁起」によるソランジン

「鷲林寺略縁起」に弘法大師が大鷲と化した ソランジンを桜の霊木に封じ込める話が記されており上記「甲山のソラジン」とよく似た話・・・というより、鷲林寺・神呪寺ともに真言宗の寺・空海が介在しており、神呪寺は天長8年(831の)淳和天皇の妃で得度した如意尼の開創で、寺建立を邪魔したソラジン?は逃亡しています。鷲林寺の開創は其の2年後の天長10年で、 またしてもソラジンが鷲となって現れますが霊木に封ぜられ・・と話に矛盾はなく・・・?寺名はソラジンに関連した由緒とも推測出来ます。
鷲林寺の石造七重塔は伝:武田信玄の墓?

鷲林寺略縁起には:観音霊場を開こうと、地を求めて旅していた弘法大師 <空海>が廣田神社(西宮市大社町)に宿泊されていたとき、 夢枕に仙人が現れ此の地を教示され、入山したところ・此の地を支配するソランジンという大鷲が現れ、火焔を吹き大師の邪魔をした。大師は木の枝を切り湧き出る清水に浸して加持をし、大鷲を桜の霊木に封じ込めました。 その霊木で本尊の十一面観音像並びに、伽藍守護神として鷲不動明王を刻み、大鷲に化けたソランジンは「ソラン荒神」として祀られ寺号を 「鷲林寺」と名付けられました。

神呪寺・仁王門(西宮市指定/昭和56年3月25日)

文化元年1804)第63世寛眼和尚の建立による。 ただし基壇と門礎は先師蓮眼和尚の築造にかかる。中央に高屋根四脚門を構え、左右に低屋根を段違いにかけた 三間一戸八脚門の異形で仁王門としてはきわめて珍しい建物である。脇門は正面を開放し、 後ろの間に仁王像を置く。細部手法は時代の特色を示しているが、中央門と左右脇門のあいだに少しずつ相違がみられる。
甲山を背景にする神呪寺

「仁王門」は文化元年(1804年)に建立されたようで、 仁王門としては異形であり珍しいといわれている。 参道の石段を上っていくと最初に目につく建物は石段の右手上方に見える 「鐘楼」と正面の「本堂」であろう。石段を上りきると正面に規模は大きくはないが整った感じのする「本堂」が見える。現存の「本堂」は江戸時代に 建立されたものといわれている。本堂に安置されている本尊、
神呪い寺山門

「木造如意輪観世音菩薩坐像」は寺の背後の甲山山頂にあった桜の木を 用い天長7年(830年)に弘法大師が如意尼の姿を写して刻んだものと伝えられているが、実際は平安時代の10世紀末〜11世紀初め頃の作品らしい。また観心寺及び大和の室生寺とともに日本三如意輪の一つとされ 重要文化財に指定されている。本尊は秘仏であり、毎年5月18日に開扉される以外直接の拝観は出来ません。




鷲林寺城・神呪寺城 と越水城


永正6年(1519)秋・阿波の細川澄元が越水城攻めたとき、甲山神呪寺を城郭化して 本陣としたのが始まりで、永正8年(1611)鷲林寺城と神呪寺城は臨戦時に鷲林寺・と神呪寺を城郭化して陣が置かれました。 其の後: 神呪寺城は池田・豊中・尼崎を一望出来る為、戦国時代の烽火(のろし)城としても使用され共に 越水城の支城として機能しています。天正6年(1578)伊丹城主・荒木村重が織田信長に叛いて立て篭もった時には神呪寺城は伊丹城の支城として、やはり烽火城となったようで神呪寺境内や甲山山頂からは越水城 ・瓦林城を眼下に阪神間の尼崎・池田・豊中や本城の伊丹城も眺望出来る展望台です。
鷲林寺多宝塔と本堂(中央右)

越水城(小清水城・河原林城)   西宮市越水町(桜谷町・城山・清水町・満池谷町)

越水城は阪急電車夙川駅から阪急西宮北口駅へと東に向かう高架を境に南方は西宮浜迄は低い丘も無い平野部に市街地が拡る。夙川駅を東に約500m程で札場筋高架下商店街を通過する西田公園付近から北方へは坂道を登っていく住宅街のなか。 公園西を北への車道は清水町・満池谷町・城山を抜けて満池谷霊園(震災慰霊碑前)を通る丘陵上。旧西国街道の要衝に面して西田公園の北を R171に繋がる東西に抜ける車道が丘陵部を抜ける峠道。越水「小清水とも書かれる良質の水に恵まれた処」に本城を構築(主郭を桜谷町南の丘陵上?・大社小学校付近を二ノ丸とされる)南北約200m・東西約100mの広さがあり、 東は急な坂・西に満池谷のニテコ池を自然の堀とし・南に大阪湾を見下ろす高台に位置する。
今は大社小学校南東角に立つ城址碑

西田公園の東側を北に進む桜谷町・越水町から城山へは狭く・カーブの多い急斜面の登り。丘陵の断崖状傍らに住宅が建ち並ぶ。いかにも城山!!の趣で ・西田公園が万葉植物園等の公園整備される以前、桜谷町内の屋敷の石積塀の一部となっていた「越水城跡」石碑を見たが、城址碑は現在:此の桜谷町から桜谷公園を経て詰め上がる高台の大社小学校の南東角に移設されていました。今も清水がコンコンと湧き出す地にあって小清水・城ヶ堀等の地名が残る一帯は昔 :外堀ともなった大きな池も幾つかあって城ヶ堀は沼地だったか?、
満池谷のニテコ池と遠く甲山

地盤の緩さが兵庫南部地震の際には、西宮でもこの付近の被害が大きく、今となっては別の意味で住み慣れた分銅町の地を想っています。観応2年(1351)足利尊氏と弟の直義が戦った「小清水の合戦 」に陣所が設置されたところ。細川氏の内紛には高国方に付き、永正8年(1511)細川澄元・三好長輝等の軍に攻められた芦屋合戦では 鷹尾城を落とされ丹波に逃れた瓦林対馬守政(正)頼も高国が京都を回復し澄元軍を四国・阿波に追い、 政頼も鷹尾城を回復するとともに現在・
大社小学校南東角の城址碑と東の越水町側


日野神社にあった瓦林城(西宮市日野町)と芦屋・鷹尾城の間の小清水の丘に永正13年(1516)本城と外城から成る越水城を築いて移り、外城を子息の六郎四郎春綱や与力・被官達の居所とした 日本最古の天守閣を持つ城だったとも考えられています。永正16年(1519)11月・四国に逃れていた細川澄元が再起して阿波から上洛、 兵庫に上陸した澄元軍は神呪寺南の丘陵(甲陽園の目神山や北山公園付近か ?)に陣を構えて越水城に迫ります。救援の高国軍との合戦はなかなか決着がつかなかった様ですが、翌17年:政頼の突然の開城で落城しますが理由は不明です。 多くの農民はじめ土地の人々の犠牲を少なくする為わざと開城したのかもしれませんが、澄元方と通じて城を開け渡し自分が助かったとして高国より切腹させられます。 瓦林政ョの死後:は澄元の家臣三好長慶を置くが、
城山から桜谷町へ:左端部付近が本城か?

澄元の後を継いだ晴元が高国を敗ると、三好氏は晴元と対立し越水城を本拠として阿波・摂津・京都へ勢力を拡大し畿内の重要拠点の一つとなり、天文22年(1552)芥川城(高槻市)に移るまで長慶の本拠城となります。 天文2年(1533)一向一揆と瓦林氏が越水城を一時は奪還した事もあるが長続きしません。永禄9年(1566)にも篠原長房が守将の三好氏と対立した松永久秀と家臣:瓦林三河守が攻め落とすが、その都度三好氏によって奪還され足利義親 (後の14代足利将軍:義栄)を入城させるが、永録11年(1568)足利義昭を奉じた織田信長の摂津侵攻に城主:篠原長房は城を放棄、翌年には義昭の命を受け 和田惟政が入城するが翌:元亀元年(1570)には戦略的な価値は無くなり廃城となります。越水城の南には中村城!?が在ったと云う。戦乱時期に平城が築かれていたとも思えず、越水城の南に位置して唯一:其の丘陵南末端部が西田公園。
大社小学校付近・東西から南北丘陵上へは急傾斜の道が交差する

阪急神戸沿線側で、 南東側が城ヶ堀町。旧山陽道でもあり旧西国街道(R171号)でもある此処で大きく北東へ方向を変えて武庫川を渡り伊丹・池田・茨木市に向かう。要衝のコーナー部・廣田神社や西宮神社の門前町・城下町も整備されていたとすれば 小半独立丘陵状の西田公園の旧丘陵上は警備・監視の最適地と思えます。幾たびもの合戦歴史を秘める城址一帯には城跡の痕跡すら残さず、宅地造成整備された丘陵の斜面段差を取込んだ豪壮な御邸が建ち・静かで瀟洒な住宅地が並ぶ。
(ひょうごの城紀行 神戸新聞総合出版センター・現地案内板等を参照)

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