午後の散歩道ゴロゴロ岳~ガベの城~観音山 /夙川堤~北山公園~甲山 |
神呪寺・仁王門(西宮市指定/昭和56年3月25日)
文化元年1804)第63世寛眼和尚の建立による。ただし基壇と門礎は先師蓮眼和尚の築造にかかる。中央に高屋根四脚門を構え、左右に低屋根を段違いにかけた三間一戸八脚門の異形で仁王門としてはきわめて珍しい建物である。脇門は正面を開放し後ろの間に仁王像を置く。細部手法は時代の特色を示しているが
中央門と左右脇門のあいだに少しずつ相違がみられる。
甲山を背景にする神呪寺
仁王門は文化元年(1804年)に建立されたようで仁王門としては異形であり珍しいといわれる。石段を上っていくと最初に目につく建物は石段右上方に見える「鐘楼」と正面の「本堂」であろう。石段を上りきると正面に規模は大きく
はないが整った感じのする「本堂」が見える。現存の「本堂」は江戸時代に建立されたものといわれている。本堂に安置されている本尊、
神呪い寺山門
「木造如意輪観世音菩薩坐像」は寺の背後の甲山山頂にあった桜の木を用い天長7年(830年)に弘法大師が如意尼の姿を写して刻んだものと伝えられているが実際は平安時代の10世紀末~11世紀初め頃の作品らしい。また観心寺及び大和の室生寺とともに日本三如意輪の一つとされ重要文化財に指定されている。本尊は秘仏であり毎年5月18日に開扉される以外直接の拝観は出来ません。
鷲林寺城・神呪寺城・越水城
永正6年(1519)秋・阿波の細川澄元が越水城攻めたとき甲山神呪寺を城郭化して本陣としたのが始まりで永正8年(1611)鷲林寺城と神呪寺城は臨戦時に鷲林寺と 神呪寺を城郭化し陣が置かれた。其の後神呪寺城は池田・豊中・尼崎を一望出来る為越水城の支城として機能した。天正6年(1578)伊丹城主・荒木村重が織田信長に叛いて立て篭もった時にも神呪寺城は伊丹城の支城となった。神呪寺境内や甲山山頂からは越水城・瓦林城を眼下に阪神間の尼崎・池田・豊中や本城の伊丹城も眺望出来る展望台です。
鷲林寺多宝塔と本堂(中央右)
越水城(小清水城・河原林城)西宮市越水町(桜谷町・城山・清水町・満池谷町)
越水城は阪急電車夙川駅から阪急西宮北口駅へと東に向かう高架を
境に南方は西宮浜迄は低い丘も無い平野部に市街地が拡る。夙川駅を東に約500m程で札場筋高架下商店街を通過する西田公園付近から北方へは坂道を登っていく住宅街のなか。公園西を北への車道は清水町・満池谷町・城山を抜けて満池谷霊園(震災慰霊碑前
)を通る丘陵上。旧西国街道の要衝に面して西田公園の北をR171に繋がる東西に抜ける車道が丘陵部を抜ける峠道。越水「小清水とも書かれる良質の水に恵まれた処」に 本城を構築(主郭を桜谷町南の丘陵上?・大社小学校付近を二ノ丸とされる)南北約200m・東西約100mの広さがあり東は急な坂・西に満池谷の
今は大社小学校南東角に立つ城址碑
ニテコ池を自然の堀とし・南に大阪湾を見下ろす高台に位置する西田公園の東側を北に進む桜谷町・越水町から城山へ狭く・カーブの多い急斜面の登り。丘陵の断崖状傍らに住宅が建ち並ぶ。いかにも城山!!の趣で西田公園が万葉植物園等の公園整備される以前、桜谷町内の屋敷の石積塀の一部となっていた「越水城跡」石碑を見たが城址碑は此の桜谷町から桜谷公園を経て詰め上がる高台の大社小学校南東角に移設されていました。今も清水がコンコンと湧き出す地にあって小清水・城ヶ堀等の地名が残る一帯は昔:外堀ともなった大きな池も幾つかあって城ヶ堀は沼地だったか?地盤の緩さが兵庫南部地震の際には西宮でもこの付近の被害が大きく今となっては
満池谷のニテコ池と遠く甲山
別の意味で住み慣れた分銅町の地を想っています。観応2年(1351)足利尊氏と弟の直義が戦った「小清水の合戦」に陣所が設置されたところ。細川氏の内紛には高国方に付き永正8年(1511)細川澄元・三好長輝等の軍に攻められた芦屋合戦では鷹尾城を落とされ丹波に逃れた瓦林対馬守政(正)頼も
高国が京都を回復し澄元軍を四国・阿波に追い、政頼も鷹尾城を回復するとともに現在・日野神社にあった瓦林城(西宮市日野町)と芦屋・鷹尾城の間の小清水の丘に永正13年(1516)本城と
大社小学校南東角の城址碑と東の越水町側
外城から成る越水城を築いて移り、外城を子息の六郎四郎春綱や与力・被官達の居所とした 日本最古の天守閣を持つ城だったとも考えられている。永正16年(1519)11月・四国に逃れていた細川澄元が再起して阿波から上洛、兵庫に上陸した澄元軍は神呪寺南の丘陵(甲陽園の目神山や北山公園付近か?)に陣を構えて越水城に迫る。救援の高国軍との合戦はなかなか決着がつかなかったようだが 翌17年:政頼の突然の開城で落城しますが理由は不明です。多くの農民はじめ土地の人々の犠牲を少なくする為わざと開城したのかもしれないが澄元方と通じて城を開け渡し 自分が助かったとして高国より切腹させられます。瓦林政賴の死後は澄元の家臣三好長慶を置くが、
城山から桜谷町へ:左端部付近が本城か?
澄元の後を継いだ晴元が高国を敗ると三好氏は晴元と対立し越水城を本拠として阿波・摂津・京都へ勢力を拡大し畿内の重要拠点の一つとなり天文22年(1552)芥川城(高槻市)に移るまで長慶の本拠城となり・天文2年(1533)一向一揆と瓦林氏が越水城を一時は奪還した事もあるが
長続きしません。永禄9年(1566)にも篠原長房が守将の三好氏と対立した松永久秀と家臣:瓦林三河守が攻め落とすが、その都度三好氏によって奪還され足利義親(後の14代足利将軍:義栄)を入城させるが永録11年(1568)足利義昭を奉じた織田信長の摂津侵攻に
城主篠原長房は城を放棄、翌年には義昭の命を受け和田惟政が入城するが 翌:元亀元年(1570)には戦略的な価値はなくなり廃城となる。越水城の南には中村城?があったと云う。戦乱時期に平城が築かれていたとも思えず越水城の南に位置して唯一:其の丘陵南末端部が西田公園。
大社小学校付近・東西から南北丘陵上へは急傾斜の道が交差する
阪急神戸沿線側で南東側が城ヶ堀町。旧山陽道でもあり旧西国街道(R171号)でもある此処で大きく北東へ方向を変えて武庫川を渡り伊丹・池田・茨木市に向かう。
要衝のコーナー部・廣田神社や西宮神社の門前町・城下町も整備されていたとすれば小半独立丘陵状の西田公園の旧丘陵上は警備・監視の最適地と思える。幾たびもの合戦歴史を秘める城址一帯には城跡の痕跡すら残さず、宅地造成整備された丘陵の斜面段差を取込んだ
豪壮な御邸が建ち・静かで瀟洒な住宅地が並ぶ。
(ひょうごの城紀行 神戸新聞総合出版センター・現地案内板等を参照)