「桜守」の舞台へ大峰山と桜の園谷/熊笹峠〜林山 岩倉山 〜赤子谷〜城山(生瀬城)
北攝:宝塚 (地図=広根)
T[桜守]の亦楽山荘へ 大峰山〜桜の園谷〜安倉山 2000年10月07日
阪神 :西宮北(地図=大阪西北部)
U 大藪谷〜熊笹峠〜林山〜奥池 H14年07月13日
V:エデン園〜行者山〜赤子谷右俣〜岩倉山H14年07月14日
W:生瀬駅〜城山(生瀬城)〜赤子谷左俣 〜岩倉山H14年08月17日
生瀬宿

近畿の山城: 生瀬城
校歌・故郷の山:生瀬音頭♪昔を偲べ城山見れば 三木の播次郎 居城の跡に・・♪

大峰山の尾根と安倉山の間の谷には今まで 殆ど意識しなかったが前回・山荘下の滝(約10m)で休んでいて今度は此処をと決めてきたが山域の情報は少ないまま・初めての谷です。以前:廃線前の武庫川渓谷を生瀬駅へと左岸(東側)沿いに下降した際に岩床の綺麗な渓谷に見えた。岩登りで人気の有った新岩への取付き辺りと最後の最後の岩場のへつり (トラバース)の2〜3箇所程度のポイントはあるが濡れるの覚悟だと難しいところはありませんでした。
西宮(白鹿酒ミュージアム)辰馬邸を浜側から

口の溝谷・奥の溝谷の偵察を兼ていたのですが、登り詰めがゴルフ場では!!・・と諦めた。宝塚から十万辻への途中には中山最高峰に向かって惣河谷支流が滝 ・岩共に楽しい谷でしたが、此れもゴルフ場等開発で谷も荒れて大滝辺りも 様想がスッカリ変わってしまった。支流の入り口で入山禁止になっており残念ですが上部の核心部は昔とおりの険悪な谷です。周辺の谷の様子から何年ぶりかで 撤退用にザイルとシュリンゲ数本ザックに忍ばせての山行になりました。桜の園谷の名は知らなかったが、武庫川渓谷より大峰山の南側へ西に延びる西の谷で、付近には兵庫登山会のプレートがあり古くからのコースのようです。


生瀬宿について 宝塚を抜け176号線のバイパスを見送り生瀬大橋を渡って旧176号へ右折せず直進すると細い車道を挟んで民家の建ち並ぶ 生瀬の集落に入ります。生瀬は、丹波・播磨と摂津(西宮や大坂)を結ぶ街道の要衝として幕府によって元和初年(1615〜)頃)西宮では「西宮宿」「生瀬宿」の二駅が宿駅に指定されています。
生瀬は、当時の大観光地だった「湯山」有馬温泉 )への入口にあたり有馬街道(大多田川に沿って蓬莱峡〜船坂〜白水峡を経て有馬に向う)や丹波街道(名塩から三田市〜篠山に抜ける物資輸送の中継地)の宿場町として大いに栄え、村内の殆んどの家が荷物の輸送業務等何らかの形で 宿駅の仕事に携わっていたといわれます。そのため、生瀬を経由せず、有馬から灘へ直接六甲山を越える「魚屋道等の間道」の利用が頻繁になってくると、指定宿駅の特権を脅かすものとして、生瀬宿から間道廃止願いが提出されています。 生瀬宿は明治32年の福知山線の全線開通や県道51号(宝塚唐櫃線)によって宿駅の使命を終えています。 以前は赤子谷や蓬莱峡・武庫川渓谷へ行くのに宝塚から歩いて此処を通ったものですが、当時は軒を並べて 建っていた生瀬宿の面影を残す建物も兵庫南部地震により今は殆んど姿を消してしまいました。



T 十万辻〜大峰山(552m)〜亦楽山荘〜桜の園谷(西の谷)遡行〜安倉山 2000年10月07日

水上勉「桜守」の主:笹部新太郎氏の亦楽山荘から武庫川廃線跡へ出るとき、 すぐ下の滝で休み谷に興味を持ち今回訪れた。宝塚から猪名川町や三田・千刈ダムに向かう道を十万辻トンネル手前で右折 大峰山登山口の峠に駐車して出発します(AM8:30)。峠から右へ延びる山道には検見山(H10.3.28トレース済)への取付点がある。
白鹿酒ミュージアム側・辰馬邸

大峰山(8:55)〜桜の園〜武田尾コースはハイキングコースとして知られ割愛しますが、桜の園辺りはアカマツ広場・展望台・滝見の道・満月滝コースが整備され 嘗ての亦楽山荘は物置小屋と化して隣に小屋「隔水亭」が建てられてる桜の園(9:25)。亦楽山荘は笹部新太郎氏が(山)桜の研究と実践の演習林として桜の園に建てられ蘇トウバ(漢字が分からず?)の詩の一節から、 名づけられたが亦楽とは・山と渓がある・・との意です。 六甲山系の谷が堰堤やドライブウェー・又は崩れ遡行価値が失われていく中、この谷は堰提も無く、谷には5m以上の滝が6本以上あり岩盤のナメラ帯やゴルジュの発達している所も有り中でも連続滝を抜けるとすぐ(20m以上の2本)25m滝の桜滝 (満月滝!)が現れ圧巻です。
白鹿酒ミュージアム側・辰馬邸レンガと板壁造り倉庫!?

水量が少なかったので滝身に添って遡行しましたが緊張する個所も人目が無いので・・楽しんできました。山荘下の入り口(9:30)・最初の滝10mは左から途中で落ち口へトラバースして滝上に出で次の小滝の先で、滝見の道の橋を潜って 岩の谷を直進していきます。ゴウロと岩間の幾つかの小滝を越しながら快適な遡行が続きます。ゴルジュに3m/4m/10mと連続の滝。10m滝は右から取り付き左へ抜けると広場に出、目の前にこの谷最大の満月滝!(桜滝)が現れます。 左上に滝見の道一般コースのベンチがあります(9:45)。 左側を上部テラスに向けて登攀開始です。テラスからの直上はむつかしいので 少し左よりに荒いホールドを頼りに抜けました。このテラスと滝の頭にはビレー用の錆びたボルトがありました。 この先は美しいナメラが続きますが途中で滝見の道と分かれます。
辰馬邸(中央高僧マンション前)から「灘の酒」を江戸に積み出した西宮湊

20mの斜漠(10:10)は上部で傾斜きつくなるが ホールドが安定しているので安心して越せました。この後5m滝を越せば急に藪っぽい小さな谷になりますので左上に巻くとすぐ山道です。大峰山と安倉山を経てスポニチゴルフ場へ続く尾根ですが安倉山(3角点 464m)に 三角点石標は見つからなかった、近くの展望所より西の谷(桜の園谷)への下降点はあります。(10:30〜安倉山へ道草11:15)この尾根の鞍部へ出て十万辻への水平道・大峰山手前の尾根へ10分程度の急登で出られます。水平道を大峰山登山口 (11:50)へ出て帰路につきます。


西宮市浜町の酒ぐらルネサンスは今年で4回目(震災後発足した産業復興まつり)西宮神社のメインステージでは 夙川太鼓やくぐつ師発祥の地ですから勿論、人形劇団(西宮くぐつ座他)の人形劇も境内で実演中です。イベント本部でもらった白鹿酒ミュージアム無料券で再度笹部氏に会いに行きます。 平成7年の震災で全壊 した酒蔵館でしたが、新たに明治2年上棟の酒蔵利用の明治の酒蔵ミユージアムが 併設され 江戸時代の釜場と槽場が見つかり発掘中です。建物内部の発掘現場ですので、そこの壁をスクリーンに往時の酒造りの模様を紹介しています。
西宮:白鹿酒ミュージアム

入り口のミュージアムショップではオリジナル「明治の酒」の販売もしています。さて、この白鹿記念酒造博物館には西宮市に所縁の夙川堤や満池谷等 笹部新太郎氏さくら資料館が併設されています。「桜守」で笹部氏を取材した水上勉氏と笹部氏の作品や郵便物、特に笹部氏の書籍・「亦楽山荘」に関する漆器・陶器や趣味の直筆の年賀状は年代順に展示されています。 「白鹿」の銘柄で知られる辰馬本家酒造の辰馬家(南辰馬家当主:辰馬喜十郎)の木造二階建て住宅は、神戸の旧居留地の英国領事館を模したものといわれ、明治21年(1888)に築造された擬洋風建築は日本人が建て・日本人が住んだ洋館では 最古の建物とされています。重要有形文化財指定【市指定:昭和56年(1981)3月25日・県指定:昭和57年3月26日】
(現地ミュージアム説明板 フリー百科事典:ウィキペディア 参照)


U大藪谷〜熊笹峠〜林山〜奥池   H14年07月13日

六甲最高峰への登山道は西宮甲山高校の先で逆瀬川沿いに東六甲ドライブウェイ・西宮北トンネルに向う16号(明石・神戸宝塚線)に出た盤滝口からも通じている。西宮北トンネルと六甲山への分岐左の仁川に沿って細い車道を少し下ります。車道は一方通行で盤滝側からは進入禁止ですが昨年末!!より工事中で 標識のある盤滝橋手前からの進入口も閉鎖(軽は可能)中です。
熊笹峠

震災以降、見る影もない盤滝(PM2:15)の横の車道を戻りながら簡易トイレの下方、分別ゴミ収集箱の脇から仁川を対岸に渡ると山道が左手の谷に沿って伸びていきます。大藪谷ですが沢登り・滝登りの醍醐味はなく、以前から谷を歩いて奥池に通じていたが今回・新堰提ができ、それを捲く道かと思ったルートはそのまま尾根を伝い小谷を2〜3度渡り返して、奥池側から熊笹峠へ向う分岐で合流する(PM2:45)。しかし道はよく整備されていて歩きやすく、谷を詰めるよりスッキリした良いハイキングコースになっていました。 この分岐の直ぐ近くが芦有ドライブウェーで時折、 行き過ぎる車音が聞こえ程なく車道に出ます。
大藪谷

車道 (奥池への分岐から2分)横断する正面に導標が建っていますが道は笹で覆われています。名にしおう熊笹峠への道に相応しいお出迎えのようですが10数m先では元の広い山道です。時折消火栓や貯水層のような設備も見かけます。 稜線が近くなってくると熊笹の道になると一段と風の音が強くなってきます。前方が明るく広がってくると熊笹峠(PM3:10)に到着です。名のとおり笹で埋まった峠でコース中は峠の前後は笹の道。「展望所」と記された北への下降道は 40m程でドライブウェーに出ます。途中鉢巻山や石宝殿が望まれるところがあるが展望所と呼べるほどのポイントでも無いのでドライブウェー途中に休憩展望所でもあるのでしょうか??。今回の林山も笹道の尾根続きです。熊笹峠の稜線付近 (芦有ドライブウェー含め)ガスで数 10m先の展望さえ皆無です。鉢巻山〜最高峰へも行かず、下りきって車道に出た所で左折して広い空き地の中を南方向へ進みます。ガスが舞っていて前方は何も見えませんのでこのまま林山経由で 奥池へ降り大藪谷へと周回します。いつも静かなコースだが今日の様な日には人に逢うこともまず無い。口が酸っぱくなるほど 「こんにちは」が通行税のような最高峰へのメインコースとは随分異なります。ガレ場の上部がコースで山道は手前左手に降り気味についています。
林山山頂の松は笹の小道の側

尾根伝いの道も段々笹のトンネル続きの九十九折の道になり笹が切れた頃、山頂を通過して山道は下り始めます。山頂は気付かなければ通り過ぎる山道の側、 太い立木に山岳移動無線を楽しむ山ランの山名標林山(PM3:30)があるだけでした。此処から最奥の民家!のある奥池南町までも九十九折の山道が続きます。奥池側からの入山で は取付きが判り辛いと思われます。 芦有ドライブウェイからの取付き点は、奥池南町35に緑色の橋があり手前30m程を左折して直進。「私有地XX」と書かれた簡易舗装も上部家屋の先からは苔生した急坂の林道(廃道)となり終点から結構、急な登りが続きます。橋の先50m程で先刻通過した熊笹峠への取付き導標が左に、右折して約200m程で奥池です。奥池の湖面は風で波打ち白っぽく濁っている。 お多福山はもとより池端さえ見えない。
奥池(周回遊歩道南側の池)

しかし遊歩道で分けられた東側の池は 青く沈んで静かな湖面と様相を見せていました。このまま進めば砂山高原・鷲林寺側へ出るので、元来た道を「熊笹峠を経て最高峰へ」の標識まで戻って熊笹峠分岐を目指します。分岐から大藪谷沿いの道は、いい雰囲気の道だが時間も遅く ・薄暗い林の中を歩いていると、誰かが見れば気味悪がる状況です。谷筋のほうが明るいが新設堰提等の影響で踏み跡も荒れて、堰提降りで悩まされそうですのでハイキングコースを辿って仁川を渡り川沿いに盤滝へ戻ってきます(PM4:10)。


V エデン園〜行者山〜譲葉山〜赤子谷右俣〜岩倉山〜焼石ヶ原 H14年07月14日

盤滝口の三叉路を昨日とは反対に右折して西宮ゴルフ場に挟まれた16号線を宝塚市に向かい東下します。 左手に公園が見えてきたら直ぐ左折して譲り葉台への坂道を北上します。右カーブの橋の手前が樫ヶ峰への登山口です。六甲全山縦走コースの東尾根を越えて船坂側へ下り一本谷を稼ぐつもりです。エデンの園(病院)バス停の下方から、東尾根に向う登山道があります。賑々しい導標は直ぐ分かるでしょうから、是より住宅内の坂道を抜けて山道に入っていきます。背後に樫ヶ峰の稜線が、その奥には宝殿付近の車道のガードレールが白く光って見えます(PM10:00)。 案内標もある明確な登山ルートに説明は不要ですね。東六甲縦走尾根に向って進むだけです。取付き直ぐに行者山が有りますので先ずコースから外れる細い登道をとって登り切ったところが行者山です(415m AM10:10)。
ゆずり葉台から岩倉山・行者山登山口

低い潅木に囲まれた山頂からの展望には恵まれない。 少し西に寄って見ても同じだがケルンが積まれていた。登頂記念!!以外の意味も無く・名前に由来の遺跡も無さそう。コースに戻るべく北への道を下り始めて僅かの間、譲葉山が姿を見せてくれます。下り切って直ぐ右へ降る分岐は、 猪ノ谷経由で光ヶ丘住宅街へ通じています。六甲縦走路へは、ほんの少し前方MTBの轍跡も残っていて、知られた一般ハイキングコースなのでしょうか。岩倉山の反射板へ直接登るコースの分岐(AM10:25)がありましたが赤子谷へは 六甲全山縦走路へ出たところから北へ降りますので直進します。幅広い快適な東尾根(譲葉山〜岩倉山間の鞍部)の縦走路へ出てきます(AM10:30)。標識に何も記されていないが縦走路を北に外れて踏み跡がありテープ類が現れます。 そして2分程で、また縦走路?細いが明確な道があって方向を示す標示板があって左に譲葉山、直進は赤子谷、右は生瀬と…生瀬への道は直接岩倉山へ続いていると思われます。谷に向う尾根道はジグザグに続きテープが誘導してくれます。 途中の鞍部から右下へ降る分岐がありテープもあったが尾根筋を直進します。赤子谷左俣が目的なので、くだりは右俣を降ろうとの意識がそうさせるのかも知れません。流れも小さくゴロゴロと石の埋まる、お世辞にも綺麗な沢筋では無いが 水線に沿って道は続きます。六甲の谷は小さくても堰提は滝場の通過以上に難しい課題をもっています。殆んどの堰提に捲き道など用意してくれていません。先人が辿ったテープや苦闘の跡がしのばれる捲き道を探して通過です。 その堰提、それも左俣分岐直前の最後の堰提 (降っているので最初の堰提か!!)を捲かずに、ほんの数mなので確りした木の枝に掴って降りたのですが(チェックはしたが)殆んど抵抗することなくガサッと音がしたかと思うと根から抜け、 オマケに30cm程の岩と一緒にずり落ちてしまいます。 昨日来の雨で地盤が緩んでいたのでしょう。 大失態。受身の態勢も腕を石にぶつけたのでは…無理しなくとも明確な捲き道は続いており、踏み跡は直ぐ下方で 赤子谷両俣出会の河原(AM11:20)でした。この辺りだったかな!!??昔は飯盒炊爨で来た事も有ったが 様子が一変していて思い出せません。
行者山北面からの譲葉山

取付き点まで 降ってみようと思います。西宝橋から右上に広い林道が続いています。橋を渡らず谷に沿って降ると車のゲートがあり無人??の大きな施設があります。思い出の希薄さは、益々混迷の度合いを深めますので、その先に続く安田健康保険組合と 同社の宝塚体育館前(AM11:25)から引き返します。正面には何十年来、琴鳴山の南面を削り崩し続ける採石場が見えます。およその取付き位置が判ったので此処から引き返しますが、怪我を押して赤子谷を登るのを諦めますが、より気になる場所が有るので西宝橋を渡って林道を東に向います。六甲の尾根を越しても此処は西宮市です。 金仙寺湖の北側に名の通りの丸山は山頂に城主・下山口五郎左衛門屋敷跡と稲荷社を祀る丸山城があって桜の時期に紹介したい。此処より蓬莱峡を見て船坂へ向うと、未だ場所も史実も不確か?ですが赤松氏の船坂城が在るが、 生瀬城が生瀬高台と赤子谷に挟まれたこの辺りに在った?だろうと見当つけて進む。林道が下り始める辺りの前方の山がそれらしいと思って進みますが尾根続きからトレース出来そうな踏み跡が見当たらず、つまらぬ傷のことも気になるので早く帰って手当てしたほうが良さそうですので帰りを急ぎます。 結局谷も山城址探索もパスして巡視路を登り続け鉄塔No.20新神戸線)に着きます(AM11:45)。さらに15分程で東尾根への分岐に出て辿ってきたコースが東尾根の縦走路と生瀬を結ぶ登山道だとわかります。
岩倉山・石仏前に3等三角点

左を採って直ぐ岩倉山へ直接上り着く踏み跡を見送って直進して東側縦走路に飛び出します。縦走路を西へ5分で岩倉山と 岩倉山反射板のある展望所です。分岐から岩倉山は直ぐ其処です。1〜2分のところに石仏を祀る室があって正面に三角点が建てられた岩倉山(3等三角点 489m PM12:10)山頂です。周辺に多くの山名標が掛かっていますが、 此処にも山ランの標札がありました。西へ延びる道は10m程で猿田彦や権現三社を祀る祠を経て縦走路へ出ますが、私は登って来た南への縦走路に引き返して今度は岩倉山反射板へ向います。この付近は縦走路からの展望が無いので、 休憩がてら立ち寄るには良いポイントです。 阪急電鉄・岩倉山反射板へも1〜2分で到着ですが縦走を急ぐ人が多いのか立ち寄る人は少ないようですね。此処から南へ降っていく細い道を午前中に登ってきたルートに合流して ゆずり葉台バス停へ下ります。エデンの園から焼石ヶ原(PM12:40)の駐車場所に戻ってくると、水のない広い河原で多くの家族連れが食事・歓談中…此処から樫ヶ峰へのコースは尾根・展望共に楽しめます。赤子谷と生瀬城址はリベンジして再掲の予定です。


W:JR生瀬駅〜城山(生瀬城)〜赤子谷左俣〜岩倉山〜城山経由・生瀬  H14年08月17日

前回(コースVH14.7.13)予定していた生瀬城址と赤子谷左俣を 最短!!?コースでリベンジ。前回の逆コースで先に赤子谷を詰め、六甲東尾根から送電線(新神戸線 )沿いに城山尾根を降ってみようと思ったが、生瀬駅からスタートして生瀬高台の住宅地から城山〜赤子谷出会いの西宝橋へ出て 赤子谷左俣を詰める事とします。赤子谷が目的なら生瀬高台の最奥の公園から赤子谷出合下手の西宝橋へと道が繋がっているようです。生瀬バス停付近から直接尾根に取り付けそうな所も無く・しばらく生瀬高台へ向う弓納子川沿いの急坂を 辿ります。初めてのコースなので勝手が分からない住宅地内で、袋小路に入ってしまい引き返すような、 ばつの悪さを避けたくて広い道ばかり歩いて、ほぼ一周して高台の西側を今度は高雄川に沿って下ります。
城山・鉄塔No20〜No21間 山城の雰囲気はあるのですが!!??

谷を隔てて山稜に鉄塔を乗せた西側の尾根が城山なのでしょう!!この尾根の西向こうに能ヶ谷川と岩倉山からの 小枝尾根を挟んでその尾根の西面が赤子谷となります。城山の尾根北端に取り付くために生瀬配水所(生瀬駅から3分とかからない)まで引き返すと(AM9:25)谷向こうに西へ伸びる小さな疎水沿いの山道があり、これを進むのが正解でした。 疎水は途中配管となって地中に埋まる所もありますが大多田川側へと伸びていきます。直ぐ下方にJRの架線や線路が見えると行き過ぎです。トンネルの手前上方に取り付き点があり送電線・新神戸線No20の鉄塔(Ca185m AM9:45)まで明確に山道が続きます。 此処は前回来た所なので次の鉄塔No21(AM9:55)まで行ってから降りられそうな藪の斜面を 熊ヶ谷川へ下り山道を赤子谷に向います。稜線沿いに山城の遺構を探すより、西宝橋へ出るまでの100m程の間の方がズッと城址の遺構=大手道の雰囲気が感じられます。 土木工事用のブルドーザーが置かれている西宝橋を渡ると安田体育館側からの林道と合って谷沿いに進むとゲートの脇を抜けて赤子谷左俣の合流する河原に着きます (AM10:15)。先月は岩倉山の西側から右股を下って此処に出てきた。今回は短い範囲だが滝とゴルジュの左俣に入ります。入り口の雑木林の中に鳥篭を3〜4ヶ所に掛けて佇んでいる人がいた。鳥を呼び寄せる為では無さそうだ。 静かな自然とせせらぎの中で、鳥が歌いだすのをじっと待っている風情です。
ゴルジュ(赤子谷左俣)

山道が谷筋に入ると程なく滝音がして赤子滝(5m)に着く。宗教色一切無いこの谷に何時の頃からか滝前には注連縄が掛けられています。右岸上部はハング、左岸は苔がついて、良く滑りそうな階段状が続いているが右手(左岸)を捲き上がって谷に下りる。 ここでも滝が堰提に姿を変えてしまったのか?。単調な谷歩 きになってしまう。正面に岩門が見えてくる。此処のゴルジュの入口手前には右の谷の水を竹の樋に受けた水場が設けられていた。ゴルジュは岩屑の詰まった階段状で、僅か30数m程続くだけだが、赤子谷の核深部・幽邃峡に迷い込んだようです。 ゴルジュを抜け出ると本谷は大きく右へ曲がる。正面に急峻なガレた谷を見る。水量のある本谷は此処でS字にカーブを描いて二段の滑滝(5m)の前に出る。遡行用の足ごしらえなら楽しめる滝登りですが 軽登山靴のゴム底ではフリクションも効かず滑る…無理せずとも左岸にはロープがセットされ捲き上がれます。
赤子滝(赤子谷左俣)

水量もいつか消えゴロゴロした岩も雑木林の中の山道に変わって新神戸No25の鉄塔下へ出てきます(AM11:10)。六甲東尾根の縦走路では数少ない草地の展望!!休憩地として良く利用する所です。東へ採って5分程、 岩倉山を下れば塩尾寺へ向う主尾根と生瀬への下降分岐に着きます。登路にとった城山へのコースでは山城の遺構が確かめられなかったので再度、城山へ向って下ることにします。新神戸No24鉄塔(AM11:20)から新神戸 No20鉄塔(AM11:30)へと戻ってきたが同じこと。 此処からは東よりにテープの続く踏み跡を追って林道??ゲートのある生瀬高台最奥(35番地!!)へ降り立ち(AM11:50)、朝登ってきた道を逆に西宮水道局(等の山中継槽)、生瀬高台東公園、生瀬配水所を経て生瀬駅です(PM12:05)。176号線バイパス完成で渋滞が緩和され、 今まで間道として通り抜けしていた車がなくなった今、宿場町生瀬の面影が少しは取り戻せたかと思って歩いて見ましたが数軒、軒を並べていた古い民家も姿はなく震災の影響が有ったとはいえ残念に思えます。





生瀬城  城山 152m   西宮市塩瀬町生瀬字城山

JR生瀬駅から武庫川沿いに進み太多田橋を渡ると古い石標が左・有馬道を示しています。かつて大観光地で日本最古の温泉地・湯山(有馬温泉)に向う有馬街道で 摂津から蓬莱峡・船坂を経て有馬へ向う車道51号(宝塚唐櫃線)へ左折して程なく左手に赤子谷が出会います。高尾台(生瀬高台)住宅街の西方に挟まれたこの辺り城山と呼ばれ生瀬城がありました。中国地方から播磨にかけて勢力を持つ毛利方か、織田方につくかは領地の地理的・勢力的影響の狭間にあっては難しい土地柄です。
太多田川・蓬莱峡の岩峰群

一族の存亡を賭けての決断を迫られ揺れ動いた経緯は此処に限ったことではないが離合集散を繰り返していたことでしょう。最終的には毛利についた赤松氏方の三木城主・別所長治が、有馬道を灘へ又、山陰道(亀岡〜篠山を抜けて…)や京街道を結ぶ裏街道として三田〜立杭〜古市へ抜ける要衝に位置した 生瀬城を東方の最前線基地として機能させていたと思われます。有馬から播磨や山陰への要路に位置した生瀬城は武庫川を挟んで、山に囲まれており、兵火に見舞われることが絶えず室町後期・文明5年(1473) 生瀬城の宇都宮頼綱入道を足利義尚が攻めた時生瀬神社を焼亡し翌年にも兵火にかかっています。天文16年(1547)細川晴元が社殿を再建しましたが天正6年(1578)羽柴秀吉に叛旗を翻して三木城に籠った別所長治を 20ヶ月に渡って攻めた「三木合戦」は、その残虐 ・悲惨さにおいても名高いところです。
生瀬高台住宅地から城山(右の鉄塔附近)

三木城を攻める際、生瀬城に別所側の陣をはっていた小野三郎と戦ったときに社殿・宝物・古記録などが焼失したが、三木城の最前線基地として築かれた番城(陣城)としての伝承があり、三木城の番兵も控えていたようで生瀬音頭に歌われた城主 ・三木播次郎は此のことが誤伝されたと思えます。城主は安田某との説もあります。享保15年(1730)頃の城主は安達孫十郎と云われるが生瀬城の築城、合戦、落城等史実は判っていません。数多くの山城が誰にも知られず伝承も無く、生い茂る雑木藪の中に忘れ去られていきます。既に消え忘れ去られた城や宅地・区画整理で人為的に失われた城もあるでしょう。暗い雑木の尾根筋に削平地や堀切、井戸跡・石積・土塁跡を見るとき、その時代その時々を必死に生きようとした人達の 行動や息吹が感じられる。生瀬バス停の真南、有馬街道東の末端から尾根筋を忠実にトレースしたつもりだが、城址遺構の痕跡等は素人の悲しさで、土砂崩れの跡が竪堀に見えたり!!段差が曲輪の端に思えて見出せません。中世の城、まして二つのピークをもつ山の稜上には 幾つかの曲輪跡や堀切が見当たらないのが不思議です。 二つのピークを除き曲輪は尾根よりも生瀬高台側の山腹に有ったのかも!!。もっとも火攻めに遇えば、これら防護設備ではとても防げないかも!!
西宝橋側から北方峰

山頂の本郭部は高圧鉄塔のあるCa150mピーク附近だが曲輪の存在が認められない。尾根上に削平地があって城域の両端に二つの堀切を設けているが、守備があまく、見張りが主の様で生瀬駅近く光照稲荷神社への台形の山容がズッと城址らしく思える。 この尾根上のピーク166mにも城があったといい、山裾の浄橋寺が当時は此処に山岳寺院として僧坊を構えていたのだろうか。そして寺院を城塞化したものたろうか!!その遺構として削平地・石積・井戸・堀切も有るといいます。 何度も焼かれた山城ですが、最後の三木合戦頃の生瀬城はむしろ此方・浄橋寺背山166m山頂にあって湯山街道・丹波街道の要衝を守っていたのでしょう。そして北部・西部の有馬方面の見張所としてJR城山トンネル上方の生瀬城 (鉄塔152m付近から上部は展望良)が機能したと思われます。
参考 著者・松岡孝彰氏の生瀬の歴史(昭和32.5.1発行 )の西宮市塩瀬町生瀬全図には大多田川が武庫川に流れ込む有馬街道の入口(古い道標のある猿首岩と呼ばれる当時は難所)東側に生瀬温泉(明治29年〜XX)があって、今回私の辿った疎水(生瀬町への飲用水路)の北、 トンネル上部辺りに城址マークが記されています。生瀬街道から有馬街道を見下ろす位置にはありますが生瀬城より生瀬構と呼んだ方が良さそうな場所。♪・・三木の播次郎 居城の跡に と生瀬音頭に歌われ、古書にも「三木播次郎」を城主と伝えているが、実在人物ではなく三木方の番兵を人格化したものだと記されています。

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