太陽と緑の中に聳える岩塔と渓谷と 百丈岩〜鎌倉峡〜鏑射山〜千刈ダム/立石城
阪神 (五万図 三田・広根)
T百丈岩〜鎌倉渓〜鏑射寺・鏑射山〜展望台〜光明寺〜千刈ダム H14年08月25日
U塩田八幡宮〜立石城(月ヶ岡城・楯岩城)  H15.9.13 / H16.05.08

近畿の山城 鏑射山城  立石城
 
↓下記の山城は移転しました
蒲公英城・茶臼山城(上津城)・北区近世居館と西浦城・貫主山城
百丈岩 (高離60m)

R176号線から有馬川に沿って JR道場駅を目指す。「道場」の名の由来は鏑射山にヒント!!があった。平田の配水場から生野へ下ってくる途中、鏑射山山頂近くに三重の塔が見える。あんな山上に立派な塔が??と思っていたら実は関西 ・仏塔古寺18尊霊場の第16番:独鈷山・鏑射寺で神の山として崇められてきた聖地に聖徳太子の創建で、太子が悪者を退治する時に使った鏑矢を寺に奉納したのが寺名の起こり道場の地名も これに由来するといわれます。鎌倉峡鎌倉谷は江戸時代の「摂津名所図会」に「かもしか谷」の訛ったものだと記されているようで、岩場の多いこの辺りの地形では昔、カモシカがいたのかもしれません。当時、一大観光地の有馬温泉を訪ねた文人・墨客達も此処へ立ち寄って奇勝の景観を絶賛して歌に詠んだり紀行文を著しているようです。


T百丈岩〜鎌倉渓〜鏑射寺・鏑射山〜展望台〜光明寺〜千刈ダム  2002年08月25日

3年前の3月と同じで上記コースを廻ります。百丈岩へはキャンプ場もあり茶屋付近まで車で入れるが平田配水場から周回し鏑射山に向かうので JR道場駅手前・武庫川に懸る生野橋から出発です。橋の西側に近畿自然歩道の道標があり百丈岩・鎌倉峡を示しています(AM8:00)。此処から田圃を抜け民家から船坂川に沿って南へ延びる林道を詰めて行きます。途中・平田配水場、神鉄の二郎駅を示す道標分岐は帰路に下りて来るところ(AM8:15)。左手に今ではすっかり明瞭になった山道が 稜線伝いに百丈岩へ続く・天に突き出す岩の姿を早く見たいと林道を辿ります。
「やまびこ(売店)」から朝陽の百丈岩

守口キャンプ場から樹々の間から雄姿が見え隠れして、ほどなく「やまびこ(売店)」に着く。茶屋の手前左手にグリーンの鉄塔が有りますが、 電線や工事用とも思えない設備は、 大阪府勤労者山岳連盟が電動ウインチを備えた クライミングの確保訓練用に設置され事故の防止、登山技術の向上等登山団体に開放されているようです(AM8:20)。 池とトイレの間を抜けると谷通しにロッククライムの為、百丈岩基部に向う道と三角点のある山頂部に向う分岐があり山道はいきなりの急登です。垂直の百丈岩・高離60mハーケン連打の中央稜クラックを登る クライムルートを思えば比較にならない軽便コースで鎖場を過ぎると、起立する中央稜の岩塔を望みながら 西壁(中央稜に取り付く前の練習向き!!懸垂下降が楽しめる広い岩壁)上部を通って 中央稜頭部から続く岩尾根に出ると、此れから辿る鎌倉峡や平田配水池の雲と 空デザインのタンクも見える。
セミナーハウスから続く配水場施設の広い草の道

北神ニュータウンから三田市街、そして北攝(大船山・千丈寺山…)丹波の山々(白髪〜松尾・西光寺山…)へと一望出来るので断崖上での絶景を楽しみます。崖の西下には松ノ木に兵庫登山会「百丈岩 」の看板が掛かっています。登山コースに戻ればすぐ東に展望広場・・・10数m先が最高点の百丈岩山頂(292m 4等三角点 点名:水久野 AM8:40)です。先に続く尾根上の山道は「第二名神高速 道路 」看板のあった林道へ降り立ちます。展望は無いので先の展望広場!!で休むのがベストですね。同じコースを「やまびこ」へ戻って左折・船坂川沿いの道を進んで鎌倉茶屋の前を通り抜けると、しばらく竹林を進み 渓谷に出ると両岸は切立つ岩場、河床は溶結凝灰岩でコース中には何箇所か甌穴も見られ、峡谷美が楽しめる 鎌倉峡です。ぶり返した残暑の中での山歩きです。岩間を縫って流れる瀬音に涼味を感じるが上流にはゴルフ場有り住宅地有り、自動車道有りで水は綺麗とはいえません。途中で両岸が狭まったところで 左岸に移って後はズッと左岸を行きます。へつりや・小さな高捲き道も岩場には固定された鎖やロープがセットされています。
鎌倉峡(船坂川)

両岸も開けてくると流れも緩やかになり、ダム増水時のサイレン塔のある西宮市との境界辺りで本流を離れ、ロクゴ山を捲くように細い流れに沿って 緩やかに続く山道が続きます。「セミナーハウス」関係林道??の分岐を過ぎると送電線鉄塔を右上にみて7世紀前半の建造と推定されている横穴式の青石古墳【石室は7.16m、直径13mの円墳は西宮市指定史跡】 (AM9:45)に着きます。古墳から5分程で平田配水場(神戸市水道局)のフエンスを抜けて正面入口に着いた。シャツを脱いで休んでいたが誰でも簡単に遡行出来るようになった鎌倉峡なので、 此処を入口に登って来る人が多いのにビックリします。セミナーハウス前までの広い道で、団体で上ってくる幾組みかに合いましたが、慌ててにシャツを着て出発してしまい、西側からタンクの横にある三角点 (点名 東山269m)を今回も確認しないままです。平田配水場直ぐ下方で神鉄・二郎駅方面に下る車道を直進して「関西地区大学セミナーハウス」に着く。合宿コーラス部の歌声が響き周囲の緑に消えて行きます。高原状に拡がる緑の風景の中に切立った岩肌を見せて起立する百丈岩の姿がセミナーハウス周辺からも一際目立ちます。「近畿自然歩道」標識に従って進むコースは、広い草地の道が続く気持の良いコースです。暑くても・・・此処を歩くのが第一目的でもあるかのような集団のハイカーに何組も合います。
鏑射山(左)とチタン工場煙突右に不動岩を望む

途中で配水場施設の急な石段道を下って 往時に採った百丈岩 ・鎌倉峡との分岐に戻ってきます。正面に不動岩(百丈岩以上に クライマーに人気の岩場)、左に鉄塔の建つ鏑射山が有り、山上付近に鏑射寺の赤い三重塔の見えています。未だ時間も早いので 駐車した車を横目に(AM10:20)今度は生野橋を渡ってポリスボックスから北へ武庫川沿いの車道を鏑射山へ向います。百丈岩・鎌倉峡や不動岩・千刈ダムへ向うハイカーはいても、北へJR踏切りを渡って向う歩行者!! (登山者)はいるのだろうか。鏑射寺へ向う道は武庫ノ台ゴルフ場への専用林道を歩く 珍しい登山者を怪訝な顔で見送られるのではないかと思っていたが、寺への参詣者は結構多いようです。JR線路を越えると、 直ぐにちいさな集落を抜け水流の無い岩溝のような谷沿いの舗装林道を辿ります。ゴルフ場へ続く車道に遮断・分断され通る人もない古参道の一部が有って、今は花を手向ける人もいなくなった石仏が佇んでいます。ヘアピンカーブの先、緩やかな登りの先に「鏑射寺」の道標が見えてきます。その手前・車道左下へ降る山道があって 光明寺経由の千刈ダムに至る「自然歩道」コースを後程辿るが、着かず離れずにゴルフ場を捲くように続く道(AM10:40)を先ずは鏑射寺へ。「鏑射寺」の道標が示す通り多くの肩書きを 有するお寺ですが長い間、無住の荒れ寺でした。
鏑射山の三重の塔(関西・塔街道 第16番)

独鈷山【鏑射寺】(高野山真言宗)は、生母の里でもあるこの聖域に聖徳太子が創建した寺で、太子が悪者を退治した時使った 鏑矢を寺に奉納したのが寺名の起こり「道場」の地名もこれに由来するといわれます。鏑射山は神秀倉・甘楽山・五智の峰とも呼ばれ神体山として尊崇されてきましたが、南北朝期の戦火 (建武5年貴志氏が此処を要塞化して拠って南朝方と合戦しています)や江戸時代の山火事で亡失したが文久2年(1862)勇阿上人により再興されますがその後、 明治6年(1873)三田の九鬼藩の天誅組!!と称する藩士たちに襲われ火を放たれ、その後廃寺となっていました。昭和30年(1955)秋・久邇宮朝融王殿下が参拝され寺の再建と国家国民の安寧をお祈りになられました。 昭和41年(1966)に護摩堂【不動明王・近畿36不動尊(第11番)】、昭和47年(1972)には三重の塔【高さ23m虚空蔵菩薩・神戸十三佛(第13番)】が建立され、塔はかんさい塔街道第16番になっています。 その後も逐次旧寺領の買戻しが進み平成4年本堂(大日如来)、6年には弁天堂が落慶されました。他に十一面観世音菩薩・摂津西国(第10番)、愛染明王がお祀りされており其々の各霊場となっています。 本堂前の左手にはミニ霊場の石仏が並び小さな入れには小さな蓮の花が咲いています。ご存知・大賀蓮といわれる 縄文期の遺跡から発見された 蓮の開花に成功したものですネ。三重の塔の右脇に「鏑射権現へ」の道標が有ったのですが知らず、弁財天の端に出て潅木の林の中を詰めて山上に向います。山上には六つ程の石の サークルストーンがあって山自体が御神体です。
鏑射寺と光明寺の間には素敵な展望所が

そしてこの場所には石の鳥居と祠があり中に丸い石が祀られています。磐座とか磐境として石を神格化したもので、石そのものを神として崇拝する磐座であり、山上に並んだ石の塚のようなものも 磐境として組まれたもののようですが、これ以上は専門家に任せましょう・・・(^^;一番奥の大きなサークル!!?の横の小スペースに石標が埋まっています。雑木の中で展望は有りません。鏑射山 (3等三角点 点名:黒岩 327m AM11:00)山頂から磐境の前の細い参道は殆んど岩の道。 2分程で三重の塔脇へ降りてきます。塔前の石段を下りゴルフ場への車道を少し戻り「千刈ダム」道標のある 近畿自然歩道の道を光明寺へ向います(AM11:10)。ロープの張られた急斜面を下って道なりに進めば程なくゴルフ場に沿って光明寺へ向う尾根分岐に出てきます。コースとは反対にほんの数m西側が明るく 開けてきますので寄ってください。素敵な展望所です。間近に有馬富士・千丈寺山・大船山と北攝の山々が、正面には真っ直ぐに伸びる武庫川と三田市街地を望み白髪〜松尾・西光寺山等・・丹波の山々の展望が楽しめます (AM11:20)。荒れた地肌の先に踏み跡が続いているので、少し辿ってみるつもりで降り始めたらテープもあって何処に出るのか気になって、そのまま出てきたところはJR篠山線(昔は福知山線だったか !!)の線路脇へ降りてきたが(AM11:40)其処から先は危険な線路上をJR道場へ向うか線路を越しても武庫川が遮っていて 相当な迂回コースになりそうです。此処に至るルートも良く確認しないまま展望台(AM12:05)へ引き返して光明寺へ向かう。
光明寺山門・由緒ある寺ですが荒廃感が漂う

五鈷山・光明寺は鏑射寺と同じ聖徳太子の草創・行基菩薩開山を伝える 古刹で中興の祖・佛通禅師によって五鈷山 ・光明寺と号し薬師如来を本尊とする真言宗の寺でしたが文化元年(1804)大本山永平寺50世玄透即中老師の勧進により、以来兵庫県下では唯一の永平寺直末寺となっています。 摂津西国三十三ヶ所霊場の番外札所で、県観光百選に指定の景勝地です。光明寺霊園前の小橋(近畿自然歩道の取付き点)を渡って寺の方向に歩き出すと右手に「光明滝 」の標示があり 黒く湿った露岩が見え上部に不動尊が祀ってあります。水流のない 5m程の滝が有りよっていくと水溜りのような滝壷の縁をアオダイショウが慌てて逃げて行きます。綺麗な水ですが底には 白い腹を見せたカエルが沈んでいます。ソッと引き返して荒れた山門前から石仏の並ぶ山側に向うと30m程先に 「百畳岩」と呼ばれる平坦な岩場の広場があります。山門の正面の小橋を渡って光明滝側にハイキング道は続きます。暫らく進んで又もゴルフ場の雰囲気が強まってくると「マンボウ」のような低く暗い隋道が目の前に現れます。結構長く内部は暗い…この20m程のトンネルを抜け、もう一つの短いトンネルを越すと、長かったゴルフ場を捲きながら辿るコースと離れていきます。阪神間特に神戸市周辺の山を歩くとよく見かける 「太陽と緑の道」と「近畿自然歩道」の道標の違いが分かりませんが、程なく千刈ダムの周回コースで西側沿いに向山・普明寺へ向う「近畿自然歩道」標識のある分岐堰提(PM12:50)から谷沿いにダム湖を見ながら千苅堰提上部に着きます(PM1:05)。
千苅貯水池


千苅堰提: 大正3年(1914)に始まり大正8年(1919)に完成した 水道専用の重力式コンクリートダムで昭和4年〜6年にダムの高さを6m高くする工事が行われた高さ42.4・長さ106.6mの 千苅堰堤で三田市と宝塚市にまたがる神戸市内最大の水源池は上流の波豆川と羽束川の水を集めています。布引・烏原貯水池と同様に国の「登録有形文化財 」に認定されています。千苅貯水池周辺には、JR道場駅から宝塚へ抜けるハイキング道「太陽と緑の道」が通っています。堰堤下の千苅広場は立入禁止ですが、桜の開花時期には一般開放しされ道場町観光協会主催で 千苅桜まつりが開催されます。堰提に沿っての急斜な道を下りきって対岸へ千刈橋を渡れば大岩ヶ岳へのコースです。未だ早いので大岩ヶ岳から丸山へ寄って尾根通しに不動岩下付近の貯水場へと、 以前歩いたMTB向きコースで周回を予定していたが暑い最中の登り返しは応えます。JR道場駅へと続く川沿いの車道も照り返しが強くブラブラ歩きも辛いくらいですが、こんな中でも不動岩には数組のパーティが挑んでました。


U 塩田八幡宮〜立石城(月ヶ岡城・楯岩城)  H15.9.13  リベンジH16.05.08

左手に蒲公英城を見て「道場東交差点」を左折しJR道場側へ向い、月見橋を渡ると正面に低い丘陵見えます。東西に延びた尾根が神戸市と三田市を分けています。此処・有馬川の本流・塩田川に架かる月見橋湯山街道近くにあって、昔より多くの歌人がその情景を詠んでいます。私撰和歌集”夫木和歌抄”の収められている「岩高み塩田の川に船浮て指上りたる月を見る哉」は鎌倉 幕府第6代将軍の中務卿・宗尊親王が詠まれたもの。月見橋の旧跡は塩田八幡宮南の
塩田八幡宮より観世寺背山の立石城遠望

拝殿に向う 階段の手前にある厳島神社(通称月見神社)に石碑が建っています。平安時代中期の歌人で平城天皇の孫・在原行平(在原業平の兄)と松風・村雨の二女性(にょしょう)については神戸・須磨離宮道近く月見山の松風村雨堂や能・謡曲・歌舞伎の題材となり、 知られますが此処・道場町にも残っていました。
塩田八幡宮と神木「ヒノキとヤマモモ」

在原行平は光孝天皇の怒りにふれ須磨に流されてきたが、 須磨の浜へ潮汲みに来ていた「もしほ」「こふじ」の姉妹に逢う。行平が「松風」「村雨」と名付けた二人は行平の身のまわりの世話をすることとなり、行平も二人をこよなく愛して過ごしたという。 やがて許されて行平が都へ帰ることとなり、松風と村雨は悲しみ此処で月を見ながら別れを惜しんだとも…。この話は須磨にあって、湯山(有馬温泉)を経て道場迄も見送りに来てか此処にも残ります・・・行平が播磨守護だった仁和〜寛平年間(885-898)頃には、武庫郡(芦屋市翠ヶ丘の親王塚有り)にある父・阿保親王の墓に詣でた際、幾度か当宮に参詣されたといわれます。
境界尾根に沿って続く横堀風!!?城の外郭??

横道に反れ過ぎました・・(H15.9月記録 )塩田八幡宮へ向う途中に曹洞宗八王山観世寺が有、尾根を越える送電線に向って林道が延びているようなので詰めてみます。林道終点から左手へ延びる山道は墓地の側を抜けて、元来た集落方向へ下っていきますが尾根筋の細い踏み跡は藪で 消えてしまいます。仕方なく下っていく山道の途中から適当に詰め上がるが藪が凄くてやっと尾根筋へ抜け出たが 踏み跡が現れるのはだいぶ先!!。この尾根筋に遺構と思える削平地等はなく、最高所の208m附近が少し広く平坦な所はあるが削平とは程遠い。
本郭部の横堀!!?この先は西面の谷へ


ただ墓地付近から最高所へと西に延びる稜線の 南側は急斜面が続き、中には作為的とも思える切立つ露岩(城名の立石とも思えないが ・・!!)や粘度質の露呈部等を見ると尾根筋自体が出曲輪か、外郭の土塁道のようです。立石城の主郭は此の尾根から北へ少し下った三田側にあって、西に深い谷を望む堀切道迄は来たが、どうやら此の東側の藪の 支尾根にあるらしい。今回確認していません。ただ北方へは辿れそうな踏み跡が続いているようなので、次回は此の道伝いに縄張り図(三田市史より)を用意して塩田八幡宮から 三田側へ抜ける道を利用して 探してみようと考えます。


鏑射山城立石城

鏑射山城
  鏑射山327m  神戸市北区道場町

「独鈷山・鏑射寺」は不動尊、愛染明王霊場としても名高く、境内に咲く数百本の満天星(ドウダン)ツツジも美しいが 本堂前の小さな池に、今日は大賀蓮が咲いていました。鏑射寺は南北朝期に喜志氏が一帯を城郭化した 鏑射山城で兵火で焼失し衰微していたが幕末の頃再建されたたが、明治初期には焼き討ちに合い消滅したが、昭和39年に再建されています。貴志庄の貴志五郎四郎義氏は建武5年(延元2年 1338年 )3月26日摂津守護・赤松範資に属し、湊川に南朝軍と戦いながら転戦し、
鏑射山頂・ 鏑射権現磐座

29日には有馬郡鏑射山要塞に立て篭もり4月2日鏑射城で南軍と合戦13日には瓦林城(西宮市)に拠り5月には、貴志氏等が護る瓦林城を香下寺城(三田市) ・丹生寺城(神戸市北区)から押し寄せる南朝方を、城中から打って出て奮戦しています(余田文書)。【三田周辺には荘園が多く、荘園の強奪を防ぐ為に形成された自警団が武士団へと成長していった中に貴志氏の喜志城がありました。三田市すずかけ台にあった釜谷城は小学校や新興住宅地として開発されて消滅したが 釜谷城を喜志城として解説されている資料もありますので、三田市史等で再確認してください。”縄張り図”で判断出来ると思いますが・・・】



立石城(立岩城・楯岩城・日下部城・月ヶ岡城)  天神山 207m  三田市桑原東、八景町・ 北区道場町塩田

三田側に展望が効けば目前2kmJR三田駅や桑原城を望む位置にあって、南北朝期には北畠氏の所領でしたが北畠一族が奥羽へ移った後山崎左馬介恒政 が永禄7年(1564)3月から北畠城後に堅塁な立石城の築城を始めたといわれますが、山崎左馬介恒政は架空の人物らしく !!?織田信長の家臣・山崎堅家とも考えられています。桑原城は山崎方の車瀬氏に攻められ、戦わず降参しているので 蒲公英城と同様に天正6年(1578)羽柴秀吉の三田攻めの向城(陣城)となったようです。
塩田八幡宮参道

三田市史の縄張り図から外れた城域の市境尾根に沿った南側には、 観世寺背後から西方の民家裏への広範囲に自然地形なのか?削り取られたような切岸や空堀風が続く。市境界の切開きは倒木や藪で行く手を阻まれ縦走目的でなかったので点名:八景 (219m 4等三角点)手前で引き返したが、立石城は尾根筋から似たような平坦な北へ延びる藪尾根の何処か !キッとアソコだろうと気懸かりな場所があるので今回リベンジして再アタックするに際しては塩田八幡宮にも寄ってみます。塩田八幡宮は御祭神に応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祀られます。 在原行平(在原業平の兄)と松風・村雨の二女性との月見船の伝説地で旧跡・月見橋の石碑があります。
立石城主郭北側・土塁虎口!!から横堀西側と本郭に通じる傾斜土橋

拝殿に向って石段を登っていくと霊水(神水)を戴きに此処まで車で登ってくる人もいるようで、 取水場は隣に蛇口を取り付けられています。拝殿右手にはヒノキとヤマモモの巨木が立っていますが二本はその基部をくっ着け合って一本の幹から分かれているように見えます。この樹木は此の神社が室町時代後期 ・享禄元年(1528)京都山科国の 男山より八幡三神を勧請して岩清水八幡宮の別宮となり塩田八幡宮と改めた頃より生えていて樹齢475年以上を経た御神木です。「塩田の庄」は74代鳥羽天皇(1103〜56)の院政期、后妃の庄園ともなったが保元3年(1158)岩清水八幡宮宿院極楽寺領庄園となり延元元年(1336)には摂津守護 ・赤松範資より社領の寄進を得ていたが応仁の乱(1467〜77)により 社殿等建造物を焼失し明応8年(1499)に再建されました。播磨守護・赤松氏の尊崇は歴代篤く、
主郭と南郭を分ける大堀切(上部は土橋)


永禄元年(1558)赤松氏一族の畑山利忠(赤松氏保の甥)がこの地攻略に於いては当宮を祈願所とし、 寺社領や梵鐘等の寄進をしています。徳川幕府下の明暦3年(1657)には三田藩主九鬼隆昌により社殿再建寄進され、九鬼家当主代々より奉納、寄進が続きました。明治維新の神仏分離令(1868)により神宮寺が廃されますが、 岩清水八幡宮の別宮そして大正4年(1915)神饌幣帛料供進神社の指定を受け昭和38年(1963)には社名を「塩田八幡宮」と改称され、北摂地域の守護神として崇敬されています。
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立石城へは観世寺から林道を詰め最奥の峠状の墓地から続く尾根の西面の谷向こうに市境尾根から北へ延びる枝尾根があり、 尾根の途中に南北二つの曲輪が有り曲輪の周囲を横堀が囲んでいます。二つの曲輪を堀切で断ち中央を土橋で連絡しています。主郭の北側から東側かけて横堀が廻るが北面の中程には虎口とも思える遺構が有って、其処から傾斜した土橋風の通路が横堀を渡り外側の土塁の開口部に通じて、そのまま北側の城外への斜面に続いています。 三田市側から尾根通しの搦め手道!なのでしょうか。
立石城南郭南側の横堀(上部は土橋)

塩田八幡宮や観世寺付近に 居館があったと考えられますので、南側から通じているのが大手道と思われます。市境尾根から北へ枝尾根を辿るか、一旦東の浅い谷側から南郭の堀底道を二重堀切に出て 横堀の土橋に出て 南郭を経て本郭に至ったのではないかと思うのですが ・・・此処・横堀の内側には南郭の東端から土橋迄の間、屈曲した土塁(この城では最長・最大?)で進入の防備を固めています。北郭(主郭!)と南郭の2郭から成り 共に約 50mX35m程の広さの削平地がありますが、雑木藪の中で眺望もなく削平もあまい。周囲の尾根も同様の広い平坦地があるので堀切・空掘・土塁等遺構に気付かなければ曲輪とは判断できないほど・・・・(^^; 前回レポートと重複するかも分かりませんが三田市史の解説では土豪の城とは考え難く、陣城等の臨時軍事拠点の可能性が 高いとされます。
南郭の南東角を固める屈曲した土塁

その意味では・織豊系の虎口等の 確認は出来ていませんが天正6年(1578)羽柴秀吉の三田攻めの向城として、天正7年(1579)には羽柴秀吉の命で塩川伯耆守・山崎左馬介・中川瀬兵衛等が攻めた時にも、僅か2kmを隔てた立石城が向城 (陣城)になった事は考えられます。永禄7年(1564)山崎左馬介恒政の築城をといわれますが、山崎左馬介恒政は架空の人物らしく!!?山崎恒政は織田信長の家臣・山崎堅家とも考えられています。戦国期の城として ・赤松氏保の一族で畑山美濃守利貞が城主とも伝えられますが塩田庄近在の未調査の唐崎城や六郷城、滝ヶ城と混在しているのかも…資料不足・情報不足で整理も出来ず…参考にもなりませんね
(三田市史 参照)
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