我が住む街・西宮の富士山と城と湖と・・・ 船坂城・丸山城・畑山〜美し丸〜玉ヶ辻 
阪神 (五万図=大阪西北部・広根)
船坂城/金仙寺湖・丸山城/畑山〜美し丸〜玉ヶ辻 H15年03月30日
ふるさと富士: 丸山(山口富士) 378m
校歌・故郷の山 山口尋常高等小学校♪眺め雄々しき有馬山・・♪                                     ♪緑したたる丸山の 稲荷の宮の涼風や・・・♪
西宮のお話 銭塚地蔵
近畿の山城: 丸山城(山口城) 船坂城 中野城
丸山城からダムと金仙寺湖

西宮市内から三田へ金仙寺湖や 丸山を望みながら通り抜けているのに、未だ丸山ダムの東に連なる小山塊を歩いていなかった。前開から箕谷を経て有馬へ通じていた阪神高速が下山口まで伸び、中国道へ繋げる工事が始まり、 ダム湖の上に架かる陸橋の上にパラポナアンテナ塔を乗せるのが畑山。東六甲の丘陵を越えても此処はまだ西宮市です。船坂の交差点を過ぎて船坂川沿いに下ると、殆んどの人にとって取るに足りない城山(船阪城)と、 東側には通信塔が無ければ目に留まる事も無い530m級の低山(畑山・美し丸・玉ヶ辻)が峰を連ねています。



船坂城・丸山城・畑山〜美し丸〜玉ヶ辻〜ゴルフ場迷走〜金仙寺湖 2003年3月30日

西宮北トンネルを抜けて船坂交差点を直進して三田方面へ、 此の少し先:西宮市内!!の丸山城へ行くので序に寄って行きます。 船坂川沿いにしか見ていないので取付きを墓地か神社の側から鞍部へ向かうつもりでしたが、尾根の南端からの方が楽な様子なので県道51号を有馬温泉側(白水峡側)へ左折します。峠付近から尾根に沿って踏み跡があり大正解ですが、 どちらの峰も尾根筋を辿って山城の明確な遺構には出会いません。
金仙寺湖と畑山(旗山)

南北朝期の山城でも赤松氏の城なので曲輪・土塁・堀切と、それなりの遺構に期待していたのですが低峰の山頂付近に曲輪らしい??ものを見つけます。防備のあまい単郭の山城、 なんとなく違ったのかナァ・・!!の思い出引き返して丸山貯水池へ向かいます。桜の開花が待ち遠しい所ですが、未だ"蕾ふくらむ"程度です。県道51号の峠"桂山荘だったか!!?"の看板付近から取付き往復 30分程の道草です。船坂城を後にして県道82号(R176号に出る道)を北上すると頭上にパラボナアンテナの鉄塔を誇らしげに立てる畑山が見え、山裾は丸山貯水池(金仙寺湖)へ落込みます。湖面に浮ぶ要塞の感ですが、北の塩瀬からも目立つ鉄塔が今まで登る意欲を殺(そ)いできました。 しかし今の時期の金仙寺湖の桜が美しく飾りたてる丸山の姿に此処から向かってみようと思い立ちます。
丸山城址・本郭部からの畑山

山頂に丸山稲荷が祀られ鳥居の続く南参道が洗足山金仙寺の観音堂横から通じています。名前通りの丸山の南側にあるダムに向かって真っ直ぐ伸びる、 堤防沿いに植えられた桜花のトンネルを抜けて広場から参道に合流しても良いいですね。茶屋後風の民家の先で猿丸大明神の石碑の横を過ぎると鳥居毎に展望が開けてきます。石組みの井戸を過ぎ九十九折道になると山頂も近く、 西面に削平も狭く低い曲輪が続く様ですが、高離も低く防備もあまいようですので、駐屯兵士達の棲家だったのか・・山頂部へ直接行かず手前から藪に入って北側へ周回して行くと丸山城の遺構が少しずつ姿を現わしてくるようです。 帯曲輪からL字状の土塁を伝い丸山稲荷神社の真後に出る。此処が本郭部で東に畑山が望めます。二段ばかりの崩れて段差のハッキリしない曲輪跡から鳥居のある北参道を下ります。東南側から丸山貯水ダムを渡って船坂川対岸に 出られれば旗山へは最短なのにダム上の通行は禁止され、その先に続く林道にも看板が立っているのが見えるので仕方ありません。 丸山と畑山の間は船坂川が深い谷となって切れ落ち、あまつさえ山裾を北方へR176号と阪神高速道塩瀬のインター、中国道へのジャンクション等々、広範囲に工事中なので大迂回して畑山の尾根最北端から取付くことを考えます。
畑山山頂


幸い新たな送電線ルートが出来るようで此の巡視路が 登路に利用出来そうだと直感します。北への参道を下ると浄水場の大きな2基のタンクが設置された平地があり、展望も良く、羽束山や大船山が眺望出来る高台で湯山(有馬)と丹波の街道を眼下に絶好の見張所となったことでしょう。 途中に何も無かったが、此処に出曲輪か見張所か烽火場が有ったことも考えられます。北参道は最後の鳥居から舗装道となり、西宮水道局丸山浄水場(AM10:40)前を通ってR176号線側の有馬病院前に出てきます。 交通量の多い車道歩きと工事中で規制され車幅が細くなる通行帯を注意しながら時には走り抜けて峠を越え、喫茶店”我夢”と阪神福祉センタの手前の小橋(AM10:55)から直接尾根に続く踏み跡を見つけます。 架線前の鉄塔だけが建つ巡視路は次の鉄塔へ下り気味に続いていますが此の鉄塔からは急な尾根筋に境界ポールが続きます(AM11:00)が生半可な登りでは有りません。磨耗した軽登山靴では足を掬われ枯れた小枝や、 ぐらつく石さえ頼りです・・!!(~~;只奮闘は10分程、遠目には判らない難コース、下りならどうだろうか!!・・NHK西宮山口テレビ中継所施設(AM11:28)の先にあるNTTマイクロウェーブ鉄塔の裏手にある 畑山山頂(2等三角点 点名:東久保 529m AM11:30)に着く。 "山ラン"等の山名プレートがかけられているが展望は殆んど望めない。 南下へ刈り込みが続くので進んでみると 六甲の峰々や三田方面が少し望めるところもあるが、もう一つのテレビ塔(第二電電)の見える峰へは通じていない。 踏み跡らしいのも薄くなるので元の山頂へ引き返し、 NTT畑山無線中継所のパラボナアンテナ塔からは此処まで延びている専用林道を辿る事にします。適当に林道から外れて稜線に乗らないと目的の山を見ずに 船坂川ゲートへ降りてしまいます。
中継所専用林道から「美し丸」

林道のカーブの先に 丸みを持った"美し丸"が雑木の峰が直ぐ其処に見えます。ツーカーホン関西(AM11:45)のアンテナ塔を見て次の車道分岐を左に採ると"第二電々「美丸リレーステーション」通信施設前 (PM12:05)ですが車道はフェンスで行き止まりです。NTT専用林道と此処へ分岐する林道に囲まれた中に、その名も"美し丸"がありますが素直に招き入れてはくれない様で、舗装林道の右手藪の谷越しに 少し登り返せば着くだろうと10m程戻った所で、適当に分け入れけそうな個所を見つけます。藪はたいした事は無く、間隔の広い樹間を縫って稜線に着くと尾根には踏み跡あり黄テープが第二電電の中継施設側に続き、 "玉ヶ辻"へはこの稜線を辿るのが正解だった様です。山頂は反対側の雑木の中で展望は無いが明るい美し丸(530m PM12:14)の山頂です。アンテナ塔を肩に乗せる旗山だけが直ぐ其処に見えていて稜線上の踏み跡が続いているので、そのまま戻るつもりで下り専用林道の分岐付近に降りてきます。南へ続く尾根に乗るべく取付点を探しながら 再び林道歩きです。山城の探索ついで山行なので"玉ヶ辻"から林道ゲートに降りて金仙寺湖に戻るつもりでしたが此れから、とんでもないアルバイトを強いられる事になろうとは!!。
船坂川・下田(たのしり橋)付近から畑山と美し丸

林道側で 砂防工事現場らしい小さな谷筋に沿う様に杣道がある"ハタヤマNo54"電柱脇から取付いたが何処までも尾根筋の西面を巻く様に続くかと思える道は、何時の間にか雑木の尾根に出た。 尾根道からほんの少し戻り気味の高みが玉ノ辻(525m PM12:40周辺にポイントになるピークが無いので此々と思われる!!)だ。 低い雑木に囲まれて明るく、 ゴミもテープ類も展望も無いが休憩するには静かな休憩適当の広場です。踏み成らされた明瞭な気持ちのよい道が続くが船阪川への下降分岐が見つからない。当行き過ぎたらしいが、 なおも続く快適道は名塩ガーデンや名塩平成台の新興住宅地方面に続く様なので、途中右手に急角度(130度程)に曲がって西へ下る細道(PM1:00)を見つけて下るが正面に西宮高原ゴルフ場が拡がる。 枝尾根と小谷を幾つも均(なら)し埋め尽くすように延々と延びるゴルフ場に向って降りるのはマズイと思ったが道は明瞭なので安心していたら、案の定・敷地の囲む猪垣電線にぶつかってしまう。元来た道に戻るのは馬鹿らしいと谷を隔てた隣の枝尾根へと渡り返して踏み跡もない藪尾根を伝って戻る事にした。 しかしこの藪中で黄色テープが??同じミスコースを採った人がいたのかな・・(^^;メインルート!!?近くで西宮土木局3等基準点(Ca480 PM1:35)の標柱が埋まるピークに出て尾根筋へ戻った。
県道82号線から金仙寺湖と丸山(山口城)

もう直ぐ"玉ヶ辻"だと思われる頃、玉ヶ辻の分岐と思って下った古いが広い谷筋の道は、 またしてもゴルフ場脇の谷(取り水口なのか谷筋は進めず絶体絶命)途中で先へ進めず、またも崖を伝うように延びる猪除けケーブルに沿って登り返し"玉ヶ辻"も工事現場付近から登ってきた道さえ気付かず、 "美し丸"の位置さえ判らず尾根の北側よりに、なんと振り出しの第二電々「美丸リレーステーション」通信施設前の林道に出て来た(PM2:40)。なんとも無駄な往復山行で疲れ、時間の余裕も無くなって 予定していた低山をスキップして帰る事にした。NTT無線中継所(畑山林道)入口ゲート(PM3:15)は船坂川に掛かる"たのしり橋"(PM3:25)から社会福祉法人{一羊園}前を通って直ぐ先なので取り付きの目標に書き添えます。 林道ゲート前を右へ向かう広い道は今回の元凶となったゴルフ場へ向かう、もう一つの道のようです。


 山口城(丸山城) 船坂城 中野城

山口城(丸山城)   丸山(別名:山口富士)378m  西宮市山口町 下山口字五郎左衛門屋敷

西宮北トンネルを抜け出ると右折して蓬莱峡を経て塩瀬町生瀬と、左折して有馬温泉に直進すると三田方面への船坂交差点に出ます。 西には赤松氏範の子・祐春の居城船坂城の城山と、東にはアンテナ塔が目立つ畑山が見えます。畑山の西山裾に金仙寺湖が有ります。金仙寺湖の北端に山口城址(丸山城)が有ります。湖面に丸山の綺麗な円形の山容を写す丸山貯水池は西宮北部地域の水瓶として昭和52年(1977)に完成し、 金仙寺湖とも呼ばれています。
丸山城本丸跡に建つ稲荷神社

船坂川を堰き止めた湖畔にはあずま屋も設けられ、春の桜、秋の紅葉が楽しめます。此処・山口の地は、今は有馬篭として民芸・伝統を受け継がれて有馬温泉が有名になってしまいましたが、かつて外国にも 輸出されていた竹篭の産地でした。宝塚から生瀬口より(R176号線沿い)東久保を経て有馬温泉を結ぶ湯山街道や三田方面へは丹波街道を眼下に見下ろす丸山は、 東の畑山との間を南北に深い谷を形成する 船坂川が走る要害の地にあり、その山頂には戦国の世・室町時代末期の 天文〜永禄年間(1532〜1570)所領三千石で、山口郷を中心に近郷一帯に勢力を張っていた多田源氏の一門で城主・山口五郎左衛門時角の居城がありました。

山口城址(丸山城)北側の帯曲輪

永禄初年には伊丹城主・荒木吉三郎村重に降服して、岡場城主 ・西尾備後守や桑原大浪山城主・桑原左衛門等との合戦で功を立てたが永禄7年(1564)蒲公英(道場)城主・松原右近大夫貞利との不和から、貞利の奇襲に遭って部下74人と共に金仙寺で自刃しています。 その後は松原氏の占めるところとなるが天正6年(1578)播磨侵攻を進める織田信長の配下の武将達との交戦によって城と共に滅亡したと伝えられ、山頂最高所の稲荷社のある本丸を中心に南を除く三方に数段の浅い曲輪があります。 本郭部は神社の整地によるものか削平されて段差もあまいが南面(石段のある参道正面)から北面にかけて帯曲輪が続くが、祠裏手にはL字状の土橋のような土塁や曲輪遺構が残る。本丸東側の鳥居から北へ下ると丸山浄水場の大きなタンクが二基設置されている北端部は湯山 (有馬街道)と丹波街道の展望所ですので出曲輪跡と思えます。
山口城中央・本郭を南から正面・北へ帯曲輪が囲む

山頂の丸山城には慰霊碑と丸山稲荷神社が祀られ、祈願成就の時は佐久間玄蕃の絵馬を奉納する習慣があるそうです。 山口氏鎮守の丸山稲荷神社は戦国騒乱による 山口氏の没落後祭祀は耐えていたが、ある時・悪疫が流行り霊夢を受けた者が当社に祈願したところ、忽ち病が治り此れを聞いた人々の参拝が多く、社殿の再建が進み、天保11年 (1840)6月伏見稲荷社から分霊を勧進して奉祀されました。 大正9年に拝殿を改築されたが平成7年の阪神大震災により倒壊し平成10年3月に再建されています。
(山口村史等参考)


船坂城   城山 (有馬山??)Ca480m    西宮市船坂

船坂川と白水川に挟まれて荒涼とした白水峡に対峙する城山に赤松弾正少弼氏範の3男赤松(孫四郎)祐春の拠った船坂城がありました。場所を確認してはおりませんが、私は以前から気にはなっていた山容や 自然地形の位置から、此処しかないとの前提で記す。位置の間違いや歴史の追加コメント及び指摘がいただければ幸いです・・・西宮市街地を抜け西宮北トンネルと東六甲ドライブウェー分岐から小笠峠を越えて山口町船坂へ降りてくる途中、何度も二つの峰を突き上げる 小さな山塊があります。
小笠峠側から船坂城址

西宮北トンネルを抜けて船坂交差点に出ると左手に船坂川を自然の水掘とする要害に聳える城山!!は、塩瀬町生瀬から太多田川に沿って 険しく厳しい蓬莱峡を経て船坂から湯山(有馬温泉)へ抜ける間道にあって、此処から船坂川沿いに北へ向かえば丹波街道に出る交通の要衝にも当ります。
船坂城址!!北峰山頂の曲輪(単郭!!?)

城山へは船坂川沿いに下った船坂墓地か、神社から入ってみようと思ったが有馬温泉側へ県道 51号を取って尾根の南端から取り付いてみる。踏み跡も続くが最初の高い峰に其れらしき遺構はみつけられない。次の峰との鞍部から西へは傾斜も緩やかで広い谷間を白水川へ踏み跡が下るようですが、掘切・曲輪らしいものを見かけません。随分防備が甘いなと考えながら次の峰に向かい 尾根を辿ります。東側(船坂川)は防塁不用の急斜面です。低峰の山頂は平坦で西への尾根に段差が幾つか続きますが曲輪・竪堀等なにも判別出来る明確なものはなく、北への尾根筋は極端に狭く急なので砦規模:見張所か?。
有馬側・白水峡側峠付近から船坂城址・奥に畑山が見える

赤松氏範は父(円心)則村や兄弟が 北朝方にあったが、ひとり南朝方に与して戦い、功により摂津国中嶋郡 (大阪市 後に此処で挙兵したが、清水寺に追われて赤松一族は自刃する)・有馬郡等を領して、天神山城(加古川市志方町)より有馬郡三田城に居城を移し三田城を取り囲むように、
船坂城址!!北峰山頂の曲輪(単郭!!?)

嫡男(孫次郎)氏春に道場河原佐々城・次男(孫三郎)家則に桑原大浪山城 ・三男祐春に船坂城・四男(孫五郎)季則に福島岡山城を夫々構築させて支城・塞城として三田城の基盤を警固なものとしています。南北朝期・永徳3年(弘和3 1383)8月山名・細川の軍勢に追われた赤松氏範 (享年57才 赤松円心則村の四男)と共に清水寺を城郭化して立て篭もり兄弟共に清水寺の山内で一族郎党137名と自害しています。祐春享年28才(山口村史参照)


中野城  xxxx m    西宮市山口町中野

西宮北IC入口の天上橋交差点南から、有馬温泉・金仙寺湖(丸山ダム)方面へ有馬川沿いに走る県道98号線は、西宮市街地へ抜ける道として良く通った道ですが、今では R176号を 少し先に進んで金仙寺湖の北付近へ通じ、阪神高速への連絡バイパスとしても利用されています。すっかり周辺の様相が変わったバイパスと旧有馬街道が交差する位置にあって、 金仙寺口のバス停前の橋を渡った辺りからは、車道に隠れ・僅かに樹木の茂る部分が見えるだけの小さな祠が建つ。
船坂城!!北峰山頂の曲輪(単郭!!?)

赤い鳥居と狐像の建つ 「城垣内」と呼ばれる稲荷社で、扁額には、秀一明神と豊一明神を祀る秀吉大明神とある。 三木合戦の長期戦では・お気に入りの有馬温泉に何度も足を運んだ羽柴秀吉ですが、”豊”の名から豊臣秀吉を祀ったものとして、家臣であった有馬法印則頼は慶長6年(1601)関ヶ原合戦に東軍の家康に付いていますが後、三田藩主の時に建立したものと考えられます。 秀吉大明神が建つ位置の東方約600mには丸山城が有り、西には二郎砦を経て 岡場城が有ります。 岡場城主と争った山口二郎佐ヱ門 (此処・中野と岡場の中程の峠に「二郎砦」が有ったと思 えますが)・・・?(^^ゞ。
秀吉大明神(中野城)

・・・が丸山城主山口五郎左衛門の一族と関係ありそうです。同様に両城の線上に有る中野城は地元でも、天文〜天正年間(1532-92)頃?丸山城の出城が有ったと伝わるようで、 間連の平城が有った所と思われます。築城時期や城主:規模は不詳ですが、有馬街道に面し、船阪峠や塩津峠を越えて摂津を結ぶ境界に有って、有馬郡最西端の玄関口を守備する要衝の城砦?か、通行監視を主とした 関所城的な居館でも在ったのでしょうか?。永禄3年(1560)有馬郡を平定する為三田地方に勢力拡大を図った伊丹城主荒木摂津守村重は信長より摂津守護職に任ぜられ、 山口五郎九ヱ門が丸山城主の時は村重に降しています。 しかし中野城の位置からは其れ以前既に存在していたのかも?中野城の南約 3km船阪の丘陵上には南北朝期:永徳年間(1381〜)以前(氏範は南朝方なので弘和年間以前としたほうが良いかも?)の築城と思われる船阪城が在ります。
秀吉大明神(中野城)

此処は摂津の中嶋郡や有馬郡を領していた赤松弾正少弼氏範(赤松円心則村の四男 )が三田城を居城とした頃・氏範の3男赤松(孫四郎)祐春が拠った城です。嫡男氏春を道場河原城(蒲公英城) ・次男家則に桑原大浪山城、四男季則は 福島岡山城(東野上城)を築き、共に三田城の城砦群の一つとして機能していたのかもしれません。永徳3年(弘和3 1383)8月祐春兄弟等は、山名氏清・細川頼元の軍勢に追われ父:赤松氏範と共に 清水寺城に立て篭もり、山内で一族郎党137名と此処に自害しています。
(山口村史 等を参照)


銭塚地蔵    西宮市山口町下山口

西宮市の下山口会館の近くに銭塚地蔵があります。この地蔵菩薩の施主は摂州有馬の山口銭塚とあり、山口とあるのは元丸山城の城主・山口五郎左衛門の奥方とか、山口氏の重臣の妻とも言われます。武士であった夫と死別した「山口」と名乗る御婦人には二人の子どもがおり、女手一つで育てる事は大変でしたが、子供の教育には熱心で心をこめて努めていました。貧しさのあまり、時には自分の髪の毛を切って売ることもありました。「そこまでしなくても、お金がなければ貸してあげるのに」「働かないで得たお金は家のためになりません。自分の髪を切り売って子供を育てることは恥ではありません」と人からお金を借りることはありませんでした。ある時、子供達が垣根を修繕しようとして穴を掘ったところ、土の中からたくさんの銭が出てきました。
 
驚いてそのことを母に告げると「武士たる者、お殿様のために勤めずしてお金を得ることは家の恥です。 まして理由の無いお金を自分のものにすることはできません。そのお金はもとのまま、土の中に埋めなさい」母は厳しい顔でこう言ったのです。身をもってたしなめる母親の教育ぶりは徹底したものでした。
こうして厳しくも賢い母親に育てられた子供達は立派な武士に成長したといいます。子供達は母の教えを忘れまいと、見つけた銭を埋めたところに地蔵尊をつくり母を供養しました。この地蔵尊が、下山口の銭塚地蔵ですが、 東京浅草観音の境内にも山口町の銭塚地蔵と同じものがあり、この時の子供達の寄進だといわれています。
 「西宮ふるさと民話」参照
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