"村の鍛冶屋"と「干し殺し」落城悲話三木合戦の山城と付城群T …三木城・平井山本陣…
三木市 (五万図=三木)
三木市の歴史街道と三木合戦の史跡巡り H15年10月18日/H18.2.11
近畿の山城: 三木城(釜山城・別所城) 和田村四合谷村ノ口付城
 平井山本陣と竹中半兵衛 平井村中村間ノ山付城 平井山ノ上付城
 鷹尾山城 宮の上要害
三木城天守傍に建つ別所小三郎長治の像

美嚢川とその支流・志染川沿いに広がる三木市は古くから金物の生産地として知られる。この金物業が発達したのは材木の切出しが盛んだったためといわれ、切り出された材木は美嚢川と志染川の水運を利用して三木まで運ばれ、大工や木挽によって建築資材として加工された。大工と金物製造技術の相乗効果は大きく彼らが使う刃物を製造する金物業も盛んになり金物の町として知られるようになった。その金物の生産が盛んになったのは「三木の干し殺し」と呼ばれた悲惨な飢餓作戦:羽柴秀吉の三木城攻めによる落城後の秀吉のとった免租により復興します。
本ノ丸に残る”かんかん井戸”

三木は京都と西国を結ぶ重要な街道筋で湯ノ山街道・東条や明石街道が通じ、城を築いた南北朝期の播磨守護・赤松円心の甥!!敦光を娘婿として迎え別所氏を称したのが始まりとされます。小寺氏の御着城(姫路市御国野町御着)・三木氏の英賀城(姫路市飾磨区英賀)とともに播磨三大城郭の一つといわれる三木城跡は神戸電鉄上の丸駅背後の小高い丘陵一帯にあって上の丸公園中央には天守台があり保育所・金物神社・稲荷神社があり僅かながら遺構を残しており、此処を中心に城下や三木城攻め附近の付城を散策してみたいところです。


三木市・歴史街道と三木合戦の付城巡り(序)   2003年10月18日 / 2006年3月4日

三木市の歴史散歩は三木城南構(二の丸!!)の図書館から始めるが三木城本丸への案内標識に従い車道に戻ると 如何にも役所の建物然とした施設と歌碑があり♪暫しも休まず鎚ち打つ響き飛び散る火花よ 走る湯玉…♪突然センサーに反応して懐かしいメロディが流れます。10年程前にも訪れ此処で同じ旋律を聞いたことがあります。
三木城・本郭に建つ稲荷社の奉納絵馬にある三木城復元図

地場産業として全国的に有名な金物の町で三木市立金物資料館の前で小学唱歌からも消えてしまった「村のかじや」を聞きながら 館内展示の伝統的な「大工道具」の鋸・カンナ・ノミ ・コテ・キリや左官道具、農園芸具の鋤・鍬・鎌・剪定鋏や包丁・小刀といった特産品を見て廻る。何に使うのか、どの様に使うのか珍しい専用工具類が展示されている。資料館横にある金物神社では毎月第一日曜に伝統技術を伝える為にと古式鍛錬技術保存会のグループによって小刀等を伝統的な古式鍛錬による製造公開実演が行なわれています。

東条街道に向かう府内町の舟板塀

三木の金物製造の起源は古く今から1.500年も昔5世紀中頃のこと。天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祖神とするこの地方の大和鍛冶と百済の技術集団である韓鍛冶とが技術を交流し三木に住み着き鍛冶を行なったのが始まりとされます。鍛冶の発達とともに優れた技術を持つ大工職人を数多く輩出している。平城京・平安朝の時代から国宝級の建物を手がけてきたのが日原大工と呼ばれる 宮大工がこの地方(吉川町)に居て大工の棟梁として京都等の有名社寺を手がけていました。
三木城本丸側:三木市立金物資料館と稲荷社

天正8年(1580)三木合戦によって破壊された町を復興するにあたり秀吉の免租の制札で町民の税や諸役を免除する特権を与え、四散した町民を呼び戻し職人を優遇し・戦火で焼失した寺院や 家屋の復旧に当たらせる等の保護政策がとられた。本来は三木城を中国攻めの拠点とするつもりだったよう。徳川時代に入ってからも 免祖地としての政策は続けられました。 此れにより三木の町には必然的に大工職人が各地から集まり寺院や家屋の復旧にあたります。
三木城二ノ丸側:校舎?跡は埋蔵文化財展示室

職人達の使用する大工道具・鍛冶には既に下地もあり製造される金物類の仲買問屋や酒造業等も商業が発展し今日の金物の町・三木の基礎となっていく。美嚢川沿いを北へ東条街道を進むと高瀬舟の舟底板を壁板に利用した町家があり上津の常楽寺前に着くと西に美嚢川が流れ、舟着場の跡は庶民の物資集積地だったと云う。中津(中島津)には奉行所の専用舟着場・下津には 宿場町の庶民の流通品の集積地があったそうです。加古川から滝野・更に難所の闘竜灘を拓いて丹波氷上まで至った高瀬舟による水運は鉄道に、
上津の舟着き場跡:吉川街道

正法寺古墳のある加古川市・小野市境界から美嚢川を遡ってくる川舟も馬車による陸運に代わる明治期まで物資運搬に利用されてきた。秀吉が中国毛利攻めの拠点に使用した三木城の城下は「湯の山街道・東条(吉川)街道・明石街道・姫路街道」が通じる交通の要衝で美嚢川に沿って北方の東条・吉川方面には別所氏配下の支城・枝城も多く其の領主の城間を連絡する為、姻戚関係にある(別所長治の妻照子は八上城波多野氏の娘)八上城への街道が 改修整備され東条(吉川)街道になったといいます。また秀吉が三木城攻めの折に何度も訪れているお気に入り有馬温泉への道が湯の山街道。当時の一大観光地でもあり街道筋は整備され三木から 姫路方面へ明石街道・姫路街道が通じて西国から東に向かう有馬街道は湯治客や山陽道の脇往還として参勤交代にも利用されている。
雲龍寺(山門脇に寺の由緒と三木城<釜山城>の図面あり)

古くより栄えた「湯の山街道」と交錯する城下の滑原町・平山町(府内町)・芝町・大塚町へと街道沿いの町並みには格子戸や中2階部分を漆喰で塗り込めた虫籠窓・卯建の残る瓦屋根切り妻の平入り町家が在って昔の街道筋の面影が残っています。三木城の支城群や三木合戦の付城・多重土塁等は近畿の山城のリストから随時お入りください。少しずつ訪城してアップしていくつもりです。
(現地 町並み整備各所の案内板参照)



三木城 平井山本陣と竹中半兵衛の墓 平井村中村間ノ山付城 平井山ノ上付城
和田村四合谷村ノ口付城 鷹尾山城 宮の上要害

三木城(釜山城・別所城)   三木市上の丸町・福井

東播磨の雄・別所氏は播磨守護赤松氏の一族で嘉吉の乱(嘉吉元年・1441)後の復興時には別所則治の活躍目覚しく山名氏を播磨から排除した功績により東播磨八郡24万石を与えられ 赤松氏の釜山城(別所城)を明応元年(1492)修築してより別所氏代々の居城となった。赤松義村と浦上政宗の対立した享禄3年(1530)三代目別所村治は柳本賢治を頼んで東条谷の
天守台跡の別所長治・辞世の句碑

旧赤松家:依藤氏を攻めるが浦上氏の後援を受けた依藤氏に 城を奪われ翌年・政宗の戦死で赤松氏が勢力を回復し別所村治も三木城に復帰。天文7年(1538)頃には二度に渡って山陰の尼子晴久の攻撃を受け天文23年(1544)には三好長慶や三田の有馬重則に攻められるが落城を免れます。永禄2年(1559)に は依藤氏を滅ぼし後・永禄末頃に再び勢力を回復。四代目別所安治は永禄11年(1568)足利義昭を奉じた織田信長の入京に際し別所重棟を派兵し 天正3年(1575)には恭順の意を示して織田氏に与した。
別所長治公の首塚

5代目別所長治も 旧赤松家北播磨の在田氏を叔父の別所重棟・丹波朝日城主(後の荻野直正)等の連合軍で攻め落としている。天正5年(1577)織田信長は羽柴秀吉を総大将に中国攻め(毛利輝元の攻略)を命じ軍勢を東播磨に侵攻させた。当初中国攻めにの先陣を東播磨の三木城主別所小三郎長治(21歳)を旗頭に充てていた。後見役として二人の叔父別所賀相と別所孫右衛門重棟兄弟が政治・軍事を宰領しており互いに反駁し:毛利贔屓の山城守賀相に対し重棟は織田方につき手勢を率い三木城を出て秀吉軍に合流します。
三木城主を祀る雲龍寺

長治の妻が八上城主波多野秀治の妹で信長軍の明智光秀とは交戦中であったこと:天正6年(1578)2月・加古川での秀吉との軍議には賀相が出席していたので余計折り合いがつかず交渉が決裂した。前将軍の足利義昭が毛利氏に加勢するよう働きかけていた事もあって別所長治を中心に小寺氏等播磨の武将は毛利氏に通じ織田方に反旗を翻し三木合戦へと発展していく。戦国史に例をみない22ヶ月もの長期にわたる悲惨な飢餓作戦三木の干し殺しと呼ばれる三木合戦の過酷な戦闘に脱退者がいなかったといわれます。また一方:合戦当初より織田方に付いた叔父の
三木城の外堀残石による首塚碑

重宗等が城を出て三木城攻めに加わり三木城の西・美嚢川の北にある「鳥町川原の付城」や「久留美村川ノ上の付城」に陣した事で別所氏は一族滅亡を免れます。別所氏五代目当主・別所小三郎長治は25歳の青年武将でした。幼さが漂う童顔の別所長治の馬上の雄姿が三木城主郭の天守台傍に最近建立されていた。天守台には”今はただ恨みもあらじ 諸人の命に代わる わが身と思えば”城主長治の
三木城主郭:復元土塀と北面の崖

時世の句碑が立つ。領民や兵の身代わりに開城して自刃した別所長治の主首は秀吉の陣地より安土の信長のもとに送られた後、高源山雲龍寺7世安室春泰和尚によって持ち帰られ「首塚」として 埋葬され昭和48年〜三木城再建にあたり首塚の補修が為された際、併せて照子夫人の霊を合祀された。また此処にある碑”由緒書き”は三木城の外堀に使用されていた石垣の上に建てられる。
三木城本郭の顕彰碑横に「残し石」がある

三木城は神戸電鉄粟生線・上の丸駅のすぐ南側にある 丘陵一帯にあって本郭部が「上の丸公園」として往時の姿を僅かに今に伝えています。加古川及び加古川支流の美嚢川を天然の濠とし東側と北面を断崖に囲まれた自然の要害は湯山(有馬)・丹波・東播磨を結ぶ要衝にあった。毛利攻めを控えて別所氏との直接対決は避けて三木城との連絡を絶って孤立化させるため城の周囲に付城を築き、別所氏に味方する播磨各地の周辺の城を攻め落としていきます。
三木城二の丸(旧校舎裏)から堀跡を挟む本丸の稲荷社

毛利氏からは海路を明石魚住から・織田氏に叛した荒木村重等は丹生山の明要寺を経由し密かな兵糧補給もあったが幾たびかの兵糧をめぐる攻防の度に兵糧の搬入手段や多くの武将を失っていき2年に及ぶ籠城戦・包囲の長期化に食料が尽きた城内の領民や兵は餓えに苦しむ悲惨な状況は三木の干し殺し」と呼ばれています。本丸(三木市立金物資料館や稲荷社が建つ )と二の丸(図書館・埋蔵文化財展示室が建つ)
三木新城:住宅地の推定位置に緑地・畑地さえ殆ど見ない

主郭部から住宅地内にあり往時の遺構面影もない三木新城・鷹尾山城・宮ノ上要害・正入寺曲輪…等、山や谷・崖から成る要害地形に構成された播磨でも縄張り規模の大きな城で平成26年NHK大河ドラマ”軍師官兵衛”放映に先立つ平成25年3月には三木合戦に関わる関連遺構の秀吉本陣( 平井山ノ上付城)や包囲網多重土塁や付城群が三木城・支城の鷹尾山城などと 共に国史跡に指定されました。
天正6年(1578)春に始まった秀吉の三木城攻めに同10月には平井山の合戦・翌天正7年には兵糧の補給基地の魚住や搬入ルートの丹生山や平田山・大村での戦いの都度に敗れ兵糧搬入・
鷹尾山城:勤労者体育センター側土塁残欠と竪堀(堀切)

補給・確保手段を失っていき食料も尽きた。天正8年(1580)1月17日まで22ヶ月も続いた籠城戦も飢餓と殺戮の悲惨な修羅場となり遂に若き城主・別所長治は城内の領民や城兵達の助命を引き替えに一族兄弟が自刃し開城します。京・大坂方面から播磨を中国方面への要衝となる三木城には前野長康が入城、天正13年(1585)には城主中川秀政の改修により天守が築かれ様です!!。慶長元年(1596)豊岡城主 :杉原家次が関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)には池田輝政が姫路城主として入封し三木を統治すると城代に輝政の家老・伊木清兵衛忠次が入城します。
(現況)主郭と南面(雲龍寺側)大土塁

元和元年(1615)大坂夏の陣に豊臣氏滅亡・元和2年(1616)明石藩の小笠原忠真に預けられるが忠真は明石城築城に着手。元和3年(1617)幕府の一国一城令により資材は明石城の建築用材とされ 同年・明石城に移り三木城は廃城となりました。別所長治の首塚がある雲龍寺で毎年1月17日の命日に長治公を偲んで法要が行なわれるが兵糧攻めによる飢えから篭城した兵が壁土の藁を食べた言い伝えに習って藁に見立てた「藁うどん」が振舞われます。
(兵庫の城紀行・神戸新聞総合出版及び三木城内各所の現地案内板を参照)

鷹尾山城と宮ノ上要害
鷹ノ尾城(鷹尾山城) 三木市福井

三木の本城から南へと住宅地の細く蛇行する坂道を登りながら時々空地の土手の高みに土塁や曲輪跡ではないか?と感じながら進む内に勤労青少年ホーム・体育館の間を通り三木市役所へ出てきた。県道20号から三木山森林公園へ行くのに時々通った道。市役所付近や今歩いてきた道筋にも城が在った。
(現況)東空掘側から南面高土塁

三木城新城や城館跡を抜けてきた文化会館の広い駐車場の南北にも鷹尾山城と西ノ上要害の二つの城がある。一帯は目覚ましく大規模な造成開発で古い過去の欠片も見出せない高台には文化・スポーツ・官公の庁舎や施設が建ち並んでいるが鷹尾山城は文化会館から車道を挟んで”みっきいホール”市役所の南から勤労者体育センターにかけてが比定地のよう。
主郭と南面(雲龍寺側)高土塁

センタ西側に残された森林の中に堀切・空掘と高い土塁に囲まれた曲輪遺構が残る。勤労者体育センター横の崖は土塁・掘を隔てて更に大土塁囲いの曲輪があることに気付く人も少ない様子。雲龍寺のある南西の谷に沿って高い土塁があり西下にも土塁があって間が短い空掘状になっています。東から南をL字状に高く土塁が築かれ、北側に低い土塁が廻って
主郭西:下段腰曲輪から

取囲み西一段下に帯曲輪を付けています。三木城最後の出曲輪ともなった鷹尾城の縄張りは秀吉軍に対して徹底抗戦の構えを見せる吉親の執念の城。其の補強改修された凄さが感じられるが比定地の遺構が開発で消滅し僅かに残された西端の一角だけなのが残念です。せめて記録保存でもされていればと思う…。南西側の防備に重点を置かれているようなので
(現況)主郭東大土塁と右に空掘

雲龍寺前から文化会館に至る谷(車道)を挟んで 月輪寺・大宮八幡宮の背後にあり一帯では最高所の三木市浄水場や水道ガス事業所の施設内一帯を「信長公記」に云う”宮の上の構(宮ノ上要害)”比定地とされ 鷹ノ尾城と共に三木城の出城として呼応しながら防戦していたのでしょう。文化会館駐車場の奥に壁のように立ちはだかる急斜面を真っ直ぐ登る階段が児童センタ側にあり登りきると浄水場施設があり、山の斜面には・うねうねと遊歩道が幾筋も延びて月輪寺や大宮八幡宮へ続いている。
城域西:南面(雲龍寺側)に落ちる竪堀

小さな曲輪や犬走りは有っても消滅?、施設内は綺麗に整地され・立入り禁止施設なので、三木山森林公園にある付城と対峙する敷地南側の遺構確認は出来そうにない。城域の西末端の尾根から真直ぐ大宮八幡宮へ下る谷筋の溝状が竪堀と思える?程度!!。鷹ノ尾城の守将:長治の弟(彦之進)友之で織田方に付いていた長治を毛利方に付くよう説得した事で此の悲惨な三木合戦を 惹き起こします。平成25年(2013)年三木合戦遺構として三木城や 秀吉軍の敷設した付城・多重土塁等が国の史跡に指定され此処:鷹尾山城も国指定されており 縄張り図付の案内説明板がある。
城域西:南面落ちる竪堀の落口

天正8年(1580)1月11日・羽柴秀吉軍に攻められ落城して本丸に退く。 鷹尾山城には秀吉が入り三木城に対し開城勧告を行なう。城主長治と弟友之(知之)・叔父の吉親の切腹と引き換えに残った城兵と領民の命を助けるという降伏の条件だったが吉親は反対し城に火をつけ首は渡さず自からを灰にすると云う。結果は城兵に殺され首は安土に運ばれたという。

宮ノ上要害(宮の上砦・宮の上の構・八幡山砦)    三木市福井

三木城の南東に位置する出城・鷹尾城には長治の弟別所友之が城主として拠っており”宮の上の要害”の守備には三木城主:長治の叔父別所吉親が拠っていた!。宮ノ上要害跡の「上水場前」交差点を三木山総合公園や森林公園へ直進する車道の左手に三木山総合公園テニスコートがあり ・知らず通り過ぎる右手には深い谷が三木山森林公園を分けて県道22号(神戸三木線)側へ落ちる。谷を挟む南側に鉄塔の建つ丘陵平坦地から森林公園展望休憩所へ遊歩道もあるが、
浄水場西端の尾根上から続く竪堀?

ここへ往時:土橋付き堀切状がテニスコート側から…また東側の工場跡地?雑林内にも曲輪があったようで 谷を挟んで宮ノ上要害を覗う秀吉方最前線の付城跡か?
其の為・城に際し蟻の這い出る隙間もない包囲網を破って他の城砦群から本城の三木城に入る事など至難の業。此処は大宮八幡宮の背山にあって八幡山砦とも呼ばれる。東の運動公園側を・源義経が三草合戦で勝利して一挙に”一の谷”に向かった白川道(須磨:播磨:姫路方面を結ぶ重要な街道)が通じています。其の明石方面への要衝監視と其処に位置した”二位谷奥付城”の武将:浅野長政・一柳小兵ヱ等の動向監視をしながら苦悶し対抗策を練っていたものか?天正8年(1580)1月6日には宮ノ上要害を、11日には鷹尾山城が秀吉軍の攻撃を受けて陥落し叔父別所吉親も本丸へ退いて
別所長治公の首塚

長治と合流するが終には
「命をも惜しまざりけり 梓弓 末の世までも 名の残れとて」の辞世を残して運命を共にします。文化会館前駐車場から急な階段と山の斜面を登り着いた頂部浄水場は 北側へ回り込むと車道が通じており 広く明るい平坦地が拡がり自転車も施設に置かれ場違いの感じです。しかし前方約900mには三木山森林公園があり公園内に在る付城と対峙しています。遺構らしいものは西端の尾根から続く竪堀?だけか。竪堀の先に続く谷筋に並行するように遊歩道を下って月輪寺前を通り大宮八幡宮の境内に出た。

平井山の本陣(平井城)と竹中半兵衛の墓

10数年前・三木市平井の公民館から竹中半兵衛の墓として知られる白壁に囲まれた廟所?や中国毛利攻め直前に播磨攻めに移行される契機となった三木合戦に三木城包囲の付城群や主将羽柴秀吉の”平井山の陣(本営-本陣)を訪ねたたが後日(H15.7)”KAIさん”から平井山本陣は此処ではなく南側の山で遺構も残っているとの連絡をいただき、紹介されていた「東播磨の歴史U中世」神戸新聞総合出版センタ版によると、
平井村中村間の山付城(竹中半兵衛陣所)
(井山ノ上付城が発見されるまでは此処が本陣と考えられていた)


訪れたのは旧来より秀吉本陣(本営)跡とされ現地に平成6年4月三木市経済部商工課による案内板も立つていた…が”平井山ノ上付城”が発見され調査後:羽柴秀吉の本陣跡とされ平井村中村間ノ山付城への案内道標は全て(伝)竹中半兵衛陣所跡と修正されていた。江戸時代前期に描かれた「播磨国平井山」の絵図を頼りに現地確認と測量調査が実施され、山間を隔てた南側の丘陵上が平井山ノ上付城(羽柴秀吉本陣跡)であることがわかった。規模も大きく縄張りも 絵図に極似しているという。その本陣西麓に竹中半兵衛の墓がありNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」放映化(2014年)により、いっそう知られて戒名無く?(未確認だが顕彰碑とおもえる) 半兵衛の墓から秀吉本陣跡へは道標完備・歩道も整備され訪れる人は多い。
平井公民館側から左に半兵衛陣所・中央に 八万社の杜・右端に秀吉本陣

竹中半兵衛の墓標背後遠く・位置も定かでない低丘陵上には半兵衛陣所(当初は本陣!とされていた)を控え秀吉の参謀として絶大な信頼を得ていた半兵衛の墓碑は命日と戒名【深竜水徹】が刻まれ栄雲寺裏山にあるが近畿自然歩道コース上に在り・当初は平井山本陣とされていた半兵衛の陣所へは訪れる人は少ない様ですね。
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三木合戦と竹中半兵衛の墓        三木市平井

羽柴秀吉の三木城攻略では兵糧攻めによる兵糧搬入と援軍阻止の目的で三木城包囲の付城群を築く。寛保2年(1742)に書かれた播磨鑑には三木城寄衆次第(天正6年3月上旬)として平井山の本陣をはじめ30余りの付城の位置や武将の名が記されいます。
平井の竹中半兵衛の墓所

これほどの規模で付城が築かれた例は殆どなく戦国史上まれな戦だったとされます。発掘調査及び調査後に消滅した付城を含め約20箇所が確認されているようです。織田信長から中国征伐を命ぜられた羽柴秀吉が天正6年 (1578)3月毛利氏攻めの先導を務めると約した長治に謀反される。同時期・西播磨の宇野氏(長水城)も秀吉に下らず、蜂須賀軍の追撃で討死・自決して千種川の露と消えた宇野一族もあった。
竹中半兵衛の墓所(2003年)

天正6年(1578)10月平井山の陣を別所山城守吉親や別所小八郎治定(長治の弟)が攻めたが 討死し別所勢は多くの兵や鉄砲を失った。戦いは兵糧補給の搬送路確保等が主で、その度に武将や兵を失っていくことになる。三木城に籠り叛旗を翻した長治に対し、秀吉は別所氏に同調する各地の豪族の城を一つ一つ落とし翌天正7年(1579)5月末には三木城を包囲して兵糧を断った。織田信長から中国征伐を命ぜられた羽柴秀吉が天正6年(1578)6月、播州三木城の城主・別所長治の討伐に向かい此処・平井山に本陣を構え 数千の城兵が立籠る三木城を包囲し約3年の歳月を要して
竹中半兵衛が病死した平井山城(秀吉本陣)の登山口説明板

天正8年(1580)正月遂に陥落した。城主・別所長治一族は城兵の助命を請けて自刃し東播磨の地は完全に秀吉の傘下となった。実力主義の時代とはいえ織田軍の一武将に過ぎなかった秀吉を関白にまで押し上げた陰の力・その偉大さ、半兵衛から経営上の新しい戦略を学びとろうと今も”半兵衛の墓”へ参拝される方も多いという。竹中重治(半兵衛)は美濃(岐阜県揖斐郡大野町)大御堂城主・竹中重元の子。永禄期には菩提山城に居城を移し、美濃(岐阜県)国主の稲葉城主斉藤義龍・龍興父子に仕えていたが意見が合わず美濃栗原山<伊吹山の麓>に隠棲したが戦術に長け織田勢をも破って勝利した非凡さからも戦国の諸将からは怖れられていた。
竹中半兵衛の墓所(2014年)!!塚の石積以外殆ど変わらず献花も絶えない

永禄10年(1567)織田信長が美濃を平定すると信長は半兵衛を登用したいと秀吉に勧誘を命じ半兵衛は秀吉の才能・人間的な魅力にも感じ、信長直属は拒絶したが秀吉の与力として以来10年ばかりは共に各地を転戦し殊勲を立てる。羽柴(後の豊臣)秀吉に与力し重用された名参謀の竹中(半兵衛)重治と黒田(官兵衛)孝高を指して二兵衛(にへい)とも両兵衛(りょうべえ)ともよばれるが2人が同時に仕えていた時期は秀吉が中国毛利攻めに播磨に出陣していた際:軍議の決裂により始まる 三木合戦(播磨攻め)中の短い期間だけ。共に小説やドラマに呼ばれる軍師の名称は中世には無かった。
本陣:「太閤道!」と呼ばれる水平道の脇にも切れ落ちる土砂崩れ跡が…

中世戦国期にお家大事の軍事決定権を一介の家臣に委ねる程危険なこともないでしょう。二兵衛ともに主君の小寺氏と斉藤氏は信長に反抗している。軍師の名称も・知略家の呼称もなかったようで一参謀の助言(軍略・知略)としてなら話しを汲みとり秀吉等の組織の長が自ら判断し決断実行した筈ですね。織田信長に離叛し毛利に付いた荒木村重を帰服説得するため有岡城(伊丹城)に赴くが捉えられ幽閉されてしまう。黒田官兵衛の裏切りと思った信長は長浜城(秀吉居城)に人質として出していた官兵衛の息子:松寿丸(後の黒田長政)を殺すよう秀吉に指示したが、
本陣 :兵の駐屯用削平段(曲輪)群

竹中半兵衛が秀吉の内意を受け・自分の一存ということで長浜城長浜城から美濃の菩提山城に移し匿っていた。官兵衛が幽閉中の三木城攻防の最中:天正7年 (1579)に胸の病<肺炎か肺結核らしい?>に臥せ秀吉の勧めに京都へ移り療養していたが固着した戦況を案じて再び(3ヶ月後?)平井山の本陣に戻って、此処に病死(6月13日享年36歳)。黒田官兵衛が有岡城から救出される半年前のことで息子・松寿丸を匿ってもらった礼を半兵衛に伝えることは出来なかった。
(Wikipedia等を参照)


平井山ノ上付城(平井城・平井山本陣) 平井山 Ca140m 平井字向山・与呂木字見谷・志染町安福田

三木合戦【天正6-8年(1578-80)】における羽柴秀吉本陣跡は南には東西に志染川・西面を美嚢川に挟まれた比高4-50m程の低丘陵にあって南西に三木城を望む立地にある。嘗って谷を隔てた北側の低丘陵の山上部に遺る方形土塁に囲まれた平井村中村間ノ山付城が本陣跡とされてきたが、江戸時代前期に描かれている”播磨国平井山”絵図を頼りに現地確認と測量調査により、
主郭内部から模擬櫓台の立つ大土塁(主要郭三方を大土塁が囲む)

絵図とも酷似していることが判明し平井山ノ上付城が平井山の本陣(秀吉の本営)であることが明らかとなった。天正6年(1578)7月・織田信忠(信長の嫡男)が三木城支援の神吉城や志方城を攻略後、当地に着陣して築城し8月には羽柴秀吉に引渡され三木城攻略の本陣が置かれます。秀吉本陣平井山の陣へは天正6年10月22日早朝(天正7年2月に奇襲したとも!?)別所賀相(別所山城守吉親)率いる別所軍が攻撃を掛け、待ち構えていた秀吉軍に大敗し長治の弟・別所小次郎治定が討死している。
大土塁上の模擬櫓台展望所から三木城方面を眺望(土塁南端にも低土塁)

南西部に望む別所氏本拠の三木城を取り囲むように築かれた付城群の中でも群を抜く縄張り規模と数多くの雛壇状曲輪(平坦段)が将兵の駐屯場を確保している。主郭部からの丘陵部尾根続きの高辻古墳等は見張台(櫓台)として利用された可能性が指摘されています。包囲の多重土塁等が良好な状態で遺り、秀吉本陣の平井山ノ上付城跡付城の中でも群を抜く。山腹に複数の曲輪が展開する。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」放映(2014年)の決定を前に三木城跡三木城付城群包囲網の多重土塁群を一体として
主要郭から北東へと切岸加工の土塁曲輪や無数の削平段遺構をみる

平成25年(2013)に国史跡に指定されています。三木城を挟んで平井山の対角の位置にあたる法界寺山ノ上付城跡は宮部善祥坊の陣跡と伝えられ、平井山ノ上(秀吉本陣)付城に次ぐ大規模な包囲陣で皮肉ながら?三木城主別所長治公の廟所がある法界寺裏手墓地から延びる背後から丘陵上にかけて、こちらも広範囲・何ヶ所か土塁囲みの曲輪が遺る。
(現地:秀吉本陣跡案内板参照)


平井村中村間ノ山付城(伝:半兵衛陣所)  XXX Ca135m  平井字北山・字廻り山・細川町細川中

県道38号線宿原西から県道513号線に入り平井公民館からスタートする。半兵衛の墓や国指定史跡となった秀吉本陣跡へは 道標完備で案内不要。本陣跡が(伝)半兵衛陣所と変わったが平井村中村間の山付城へも「近畿自然歩道」の道標に沿って本陣に向かう車道近くに見える八幡社前を通り石鳥居だけが立つ車道コーナー部から下草に覆われた
低土塁(画面中央)が囲む主郭:右手に虎口と案内標部間右手に櫓台

オフロード・鳥居を潜り嘉永池(新池)の供養塚<池や供養塔に所縁はあるらしいが不詳>傍から堤道を直進、階段道の先で大日神社(細川町なかの中村城址)への車道(農業作業用等専用道?)に出て更に丘陵上に向かう山道を100mで四方を低土塁で囲む付城に入る。 土塁曲輪内の東南角に案内板が立つが土塁頂部に少し幅のある土壇部は櫓台跡の様。秀吉本陣跡の谷を隔てた北側の山上に位置して秀吉本陣に対する北側の守備を担っており南西に三木城を望むが寧ろ・北方の細川町に藤原惺窩(冷泉為純の子)の細川館や旧赤松家臣で別所氏に滅ばされた依藤氏本拠の豊地城(別所重棟が居城していた時もあり)を控えており、
主郭の案内標傍の柵側は土砂崩れ垂直に落ちる天然の切岸!!

東播磨北方からの別所方支援による三木城入城勢力・兵糧の搬入阻止・警戒の監視の付城だったと思われる。伝半兵衛陣所傍を抜ける北方の大日神社から林道が通じるが大日神社も三木城別所勢力により急造された中村城址です。平井山ノ上付城 が確認されるまで平井村中村間ノ山付城が秀吉の平井山本陣跡に比定されていた。近年の調査で『播磨鑑』・『別所軍記』に見る竹中半兵衛が陣した付城であるとされています。私も10年ほど前(2003年2月)竹中半兵衛墓地から
半兵衛陣所は八幡社北端コーナ部から鳥居を潜り池畔に出て…

嘗ては平井山本陣(秀吉の本陣)跡とされていた地元案内板を頼りに向かったのが(伝)竹中半兵衛陣所平井村中村間ノ山付城】だった。僅か東西15m・南北11mの長方形で四方を低土塁が囲む小さな郭だが南側に虎口を設けている。主郭を囲む土塁の東北斜面を10数m垂直に切り落とした崖状地形は土砂崩れ崩壊跡だが、気付かなければ完璧・大規模な切岸と思える!!。北西斜面には主郭部に対応する二連の帯曲輪がみられます。先の訪城(2003年)時点での現地説明板には「羽柴秀吉・平井本陣跡」となっていたが、
伝:竹中半兵衛陣所の主郭内説明書<平成26年3月>

秀吉の本陣とするには主郭内は狭すぎるし、将兵の駐屯所を付近に確保した縄張りも見当たらず近年用地改変されているにしても規模の小ささは気になってはいた。レポートをUP後:直ぐ南方に平井山本陣が在り遺構も残っていることを知人の城郭ファンより連絡をいただいていたのだが…その後に再調査・測量等が実施され三木合戦遺構として三木城・付城・包囲網多重土塁等を含め平成25年(2013)に国史跡に指定された。
(現地:伝・竹中半兵衛陣所跡案内板参照)

和田村四合谷村ノ口付城  芝林(4等三角点 92m)  志染町大字吉田・志染町細目  H15.10.18

有馬から箕谷〜呑吐ダム(衝原湖)を抜けて県道38号を志染川に沿って三木市内に向って走っていると志染町安田で細目川と合流し長早橋を渡ります。南方に見えてくる低い丘陵の尾根東端部の点名・芝林(4等三角点92m)の頂に「和田村四合谷村ノ口付城」(向城とも呼ばれる城攻めの際の臨時的な陣城)があり、教育委員会の現地説明会が此の日あったが説明会は午後から。
主郭近くの空掘と土塁

所要もあり午前中の立寄りだが 藪はおろか草一本も生えていない山城の状況を、今まで見たことも無く奇異に感じさえしました。
雑木藪の中で縄張りの状況も広さも判らないままに土塁や堀も埋もれ・崩れた姿から想像するしかなかった山城の全容が 一時的な陣城であっても見られたことは有意義でした。この城には他に余り例を見ない特異な途中で切れた空掘跡の様子に困惑するが藪の中では見逃した遺構なのかも知れない!!。此処は県道38号の志染バイパス道路建設計画により現在調査が行なわれているところだが弥生時代〜古墳時代の数多くの土器や棺の痕跡・柱穴、珍しいもの!!?としては温石(懐炉として利用されるものか !!各地で発見されているようですが長崎県だけで採石されるという)等が発見されています。
主郭東端からの丹生山遠望

此の地は特に鎌倉時代〜室町時代に盛んに利用されていたようで備前焼・丹波焼の土器や 鉄製の釘や鍋・銅銭等が見つかっています。武具として数枚見つかった小札(こざね・短冊状の板)も鉄製品と共にテント内には展示されていました。小札の種類や時代は勿論、何処に使われるものかは検討もつきませんが鎧や冑を形成する材料だとのこと。和田村四合谷村ノ口付城は天正6年 (1578)別所氏五代目城主・長治の時、毛利氏に通じ織田信長に反旗を掲げるが秀吉に攻められ天正8年正月まで一年八ヶ月も続いた三木城攻め「三木の干し殺し」と呼ばれた凄惨な飢餓作戦となった三木合戦の際、秀吉が三木城を囲むように築いた向城の一つです。
主郭西面に土塁・堀切をとおして三木城を遠望

「播磨鑑」に天正6年3月の三木城攻めの陣城(付城)は羽柴秀吉の本陣・平井山の上を始め約40近く有りました。その付城の一つに「和田村四合谷村ノ口」の名が有り、守将には近藤兵部:五十嵐五郎左衛門(九郎右衛門!?):安藤勘兵衛の名がみえます。主郭は東西約60m・南北約20mの平坦面に多くの柱穴や土師器の皿・須恵器の壷等が埋っていた土抗や周囲の土が赤黒く変色している鍛冶炉や石飛礫(つぶて)に利用したのではと思われる集石箇所もある。主郭部の遺構は14世紀頃とのことですので、東方に盛り上がる丹生山地との関連が思われます。丹生山は南北朝時代に多くの僧兵を持つ明要寺があり城郭化した丹生山寺城が南朝方の拠点となって城将・吉川八郎兵衛尉経清等が護っていた。
途中で切れている空掘の様子


当然・北朝方の赤松円心が暦応元年(1338)丹生山寺城攻略の為、志染軍陣に終結して押部神沢・志武礼・淡河・櫨谷等の周辺城郭を攻略していきます。14世紀頃の遺構・遺物はこの際、赤松氏の丹生山城攻めに関わるものとして推測されています。 北・東特に南面は断崖の要害を呈しており 比較的緩やかな西面の谷に向っては4条の空掘りと五条の土塁が走り特に主郭に近い空掘は最高所の古墳上部までに3m程の高離をもっています。古墳上に立つと土塁・掘切の先(西)には三木城(市庁舎の三角屋根高層ビル)が望めます。東と北には帯曲輪が配され北の曲輪には土橋も2箇所有ります。北側下の林の中には、さらに帯曲輪を思わせる台地があるようだが未だ未調査。次の調査で明らかになるのかもしれませんので期待して待つことにします!!。
主郭北側の土橋と帯曲輪

南北朝期には東方に望む明要寺(丹生山寺城)攻略に赤松氏が戦国末期には毛利方についた別所氏を討つべく秀吉軍が西方に望む三木城攻めの向城として 築城した和田村四合谷村ノ口付城」だが孤立した城への兵糧・物資の補給搬送や連絡はどうだったのでしょう!!三木城攻めの初期は毛利方が明石魚住から物資補給していたようで、荒木氏が明要寺・丹生山〜三木城経由で!!厳重な警備陣をくぐり 兵糧を運んだ道の一つに三津田道があるが付城の見張等は非戦闘行為として見逃していたのでしょうか??。丹生山城落城では帝釈山を越えて逃れる侍児・稚児達が秀吉方に兵に見つかって切り殺された悲惨な話が伝えられます。「和田村四合谷村ノ口付城」H15.10.18 現地説明会資料 参照
主郭西側の深い堀切と土塁


発掘調査現場では嘉暦2年(1327)銘記の硯や鉄製品・銅銭などが掘切から出土し 炊飯等に使われた「集石遺構」が十カ所程あって大人数が集まっていたと考えられ南北朝期・南朝方の拠点丹生寺城を攻めた際、志染に集結して陣を置いたとされ、発見された硯は古文書の記述を裏付けるものとして赤松氏の築いた「志染軍陣」跡の可能性があると発表されたという。また硯が見つかった堀は幅13m・深さ5m・長さ約90mと大規模な南北朝期の城郭遺跡は近畿では今のところ確認されていないという。
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