西宮市内の歴史散策 瓦林城・西宮砲台 ・今津灯台・六角堂
阪神(五万図=大阪西北部)
西宮市・瓦林城・ 香櫨園浜 H15年06月15日
西宮砲台 傀儡師古跡と西宮神社
近畿の山城:瓦林城
西宮砲台 平重盛館(小松城)
名所! 六角堂・甲子園球場
西宮大橋と御前浜橋


瓦林城(日野神社〜極楽寺〜上甲子園)
謎の瓦林城武庫(六甲山)の山並みを望みながら 武庫川と新堀川を続けて渡った阪急電車が下り気味に北側の森の側を通って西宮北口駅に滑り込んできます。小さな森ですが鬱蒼と茂る樹木に囲まれた日野神社の一角は周辺に緑がないので直ぐ分かります。住宅地に囲まれた境内東側には綺麗な水が流れる溝があり西南側には神社の森と不粋な高フェンスに囲まれてはいるが周辺では 殆んど姿を消した水田があります。
瓦林城T 日野神社

この辺りに南北朝期(1500頃)足利尊氏に付いて関東(三河)からの来住したと考えられる豪族・瓦林(川原林)三河守の瓦林城の有ったといわれ、石の鳥居を潜った境内の参道に 「瓦林城址」の碑が立つ。参道東側に拡がる低い林の中や社殿奥の北側竹薮の中に土塁とも空掘(高さ1m弱なので水堀)とも思える凹凸部があり、崩壊跡として割り引いても防塁としては浅過ぎます。周辺に唯一残された 緑のスポットで武庫川流域の西岸の沖積層の平野に常緑広葉樹林が茂る杜は兵庫県指定天然記念物として 昭和 46年4月指定されています。瓦林城に少し興味を持ったのは、郷里に帰る途中通り過ぎる三田ウッデイタウン近くの貴志城主・五郎四郎義氏が此処に登場してくるからです。

瓦林城跡U極楽寺

西ノ宮は道の宮と呼ばれる程昔からの 交通の要衝で播磨から摂津・京都に至る陸地の西国街道、紀州・淡路・阿波ら至る海路に鳴尾浜・今津港があって 此の二つの路を結ぶ線上に位置する瓦林城は、 一地侍が城を構えても中央 (幕府)や諸大名から監視されていて睨まれ、狙われるだけなので武士団が形成されることも無く、地名を姓とした瓦林氏が一時期この辺りに居館を構えていたのでしょうが、 思いに任せられず瓦林氏の最後の最後は織田信長に味方し、攻められた瓦林城には援軍も無いまま滅びます。瓦林の名は日野神社南参道前の阪急電車の踏切を渡ったところが瓦林町。住宅内の瓦林小学校から南へ進み名神高速高架を潜った先に瓦木小学校前に極楽寺(浄土宗)がある。 此処に城主・瓦林(河原林)三河守か政頼だったかの墓といわれる五輪塔があって日野神社より、むしろ極楽寺附近が瓦林城ではなかったかとも考えられています。
極楽寺:肝心の笠塔婆の弥陀石仏(三体仏)が無い…!!

震災後そのままとなっているのか !!?「仮本堂」と記した看板が建っているフェンス内は殺風景な更地で南側に低い塀があって弥陀石仏の案内板と石仏等が安置されているらしい小さな祠??があるので覗いてみると弥陀石仏1体 (西宮市指定文化財 昭和51年3月指定)西宮教育委員会と記された案内板がもたせ掛けてある祠の内に該当の笠塔婆(阿弥陀如来と、その下に男女の像が浮き彫された三体仏で、彫りの特徴から 鎌倉時代末期の作と考えられています)は既になく五輪塔等が寂しく空白を埋めるように置かれているだけです。



西宮砲台(夙川公園〜香露園浜〜西宮砲台〜)夙川公園沿いの安井町から 分銅町へ転居して20数年、阪神淡路大震災で県外に疎開していたが再び西宮へと再び戻り今津駅に近い所に 落ち着いた。休日に散策した懐かしい想い出を辿りながら甲山から夙川沿いを香櫨園浜へと続く夙川オアシスロードを歩いてみた。 このコースは野坂昭如の小説「火垂るの墓」の舞台でアニメのワンカットを思い出す場所が今も残っています。
今津灯台

回生病院玄関や 香櫨園浜から西宮砲台・その隣には堀江謙一氏が単独世界一周に出発したヨットハーバーを抜けて白鹿酒ミュージアム前を 東へ進んで今津灯台にも 寄ってみます。梅雨の晴れ間の夕景は自転車に子供を乗せて訪ねた当時のままに時間と郷愁が辺りを包みこんでいます。変わったのは"酒蔵通り"を越えて真っ直ぐ 北に向って帰ることだけ…香櫨園駅から夙川沿いのオアシスロードを南へ南へと歩いて 出たところが香櫨園浜で河口の西側には西宮回生病院が建っています。
今津六角堂

本館は新築されましたが「火垂るの墓」のシーンにも出てくる病院の玄関口は往時を忍ばせます。回生病院の西向かい側には芦屋シーサイドタウンの高層住宅が建ち並びます。河口から東の海岸も砂浜が続きます。大阪湾に残された僅かばかりの 自然な環境が残る貴重な天然の砂浜と河口の干潟にはカニや貝、 小魚を求めて様々な野鳥が集まってきます。
夙川河口と西宮回生病院

兵庫県鳥獣保護区に 認定されており、沢山の野鳥を観ることができるので季節のバードウオッチング・スポットになりそうです。香櫨園浜(西波止町)は イワシの地引網漁が行なわれていた事がある。明治40年(1907)から昭和39年までは関西でも代表的な海水浴場の一つ。砂地と雑草で荒れた御前浜には 子供用?釣堀があって、浅いコンクリート槽内には元気の無いイワシやエイが 泳いでいるのを 見たことがある。
西宮回生病院

香櫨園浜が御前浜と 何時を変えたかは知らないが、時代の波はその姿を変え汚染した海水浴場は閉鎖され昭和50年頃からは沖合の埋め立て工事が始まり、海水浴場が開かれていた当時の面影は殆ど残っていません。 一時期は水上バイクの騒音が気になっていたが、今は砂地に佇むアベックや散策を楽しむ人、 ウインドサーフィンを楽しむ人達がやってきます。砂浜の中程を過ぎると"御前浜"と名が変わっているようです!!?砂浜が続く東北部には松林があり、
新西宮ヨットハーバー:SUNTORYマーメイド号

白い円筒形の建造物が江戸時代末期に勝海舟により造られた 西宮砲台です。松の木の目立つ芝生の半円形の堤防は 砲台を囲み護る土塁の残土で防弾と土留め用なのか?石積みが見られます。砲台前を 東に抜けると堀江謙一氏「太平洋ひとりぼっち」の出発港:旧西宮ヨットハーバーです。阪神間のマリンスポーツのメッカだが、 今ヨットハーバーといえば西宮大橋を渡った西宮浜の新西宮ヨットハーバーが兵庫南部地震のあった平成7年にオープンし、
MTBライダーがジャンプに挑戦…

単独太平洋横断をなしとげた堀江謙一氏の「ミニマーメイド号」は此処のクラブハウス内に展示されています。 同じく謙一氏が単独無寄航の世界一周(2004−2005年ケープ・ホーン東周り )に出発した此処 :新西宮ヨットバーバーのクラブハウス正面と駐車場へのゲート横には「サントリー・マーメイド号」が展示され「魔の岬・ケープホーン」通過に関るエピソードが記された顕彰碑ともなっています。
跳ね上げ中の御前浜橋

南へは西宮大橋を左に見て西宮浜へ御前浜橋が架かります。 兵庫南部地震で被害を受けた大橋に代わる生活道路としての仮設橋は歩行者 ・自転車専用ですが 、ヨットハーバーからの入出航の為、ワイヤーによって上方に可動する「跳ね橋」で船の航行を可能にしています。西宮大橋の復旧後も撤去されず公園を繋ぐ【御前浜橋】として残され土・日・祝日には 1日5回 定刻に橋桁が跳ね上がり"ゴッホ"の絵画の一枚を思い描きます。
新西宮海の駅・新西宮ヨットハーバー

御前浜橋を渡った西宮浜側を運河に沿って西へと花壇に沿って進むと、市の処理センタ北側一帯には、 レールやベンチ・専用のハーフパイプやバンクまで用意された一面コンクリートの広場も有ってスケートボーダーが集まっている。其の西隣にも・幾つものコースが設定され、種々のジャンプやバンクがあって MTBライダーが駆け抜けていく。


傀儡師故跡と西宮神社
傀儡師故跡常盤町から平松町・安井幼稚園東角でJR東海道本線を潜るまんぼうトンネル(水路として利用されていた溝に板を敷いて通路とされている。阪神電鉄西宮駅への通勤経路で、兵庫南部地震前から遺る<マンボウ詳細は 割愛>)を抜け出た所がR2号線産所町交差点。 南へ直進する県道193号側とR43号(産業道路)と交差する地点にも石燈篭が立つ。
谷崎潤一郎『細雪』にも登場する平松のマンボウ

交差点北西角一帯が全国:戎神社総本社の西宮神社。西宮神社の北方(阪神西宮駅西・R2号線迄の一帯)に産所町の地名が残る。 産所は散所・算所・三所…等の当字で表されるが天皇・貴族・有力寺社等:荘園領主の本所に対する呼び名で、此処は西宮戎神社の散所として発達してきた集落で、国への租税や賦役・年貢等が免除されたが、 代わりに散所の住民らが神事・社務の補助や雑役・祭祀の警備に当たったり、神社に隷属した商工や 独自の芸能を営み発展させた。此の国家権力が及ばず、地子(租税)も免除された産所(散所)に在って荘園領主と散所の住民の間に立ち、
傀儡師故跡

領主からは税等の特権を、住民からは搾取する散所の長者は 安寿と厨子王を原作に森鴎外の小説山椒太夫でも知られます。 全国に熊野信仰を広めた熊野比丘尼<歌比丘尼>・伊勢講を組織して伊勢神宮に参拝出来ない人に 代わり神楽を奉納した 伊勢神楽・西宮神社が今日 :全国の戎神社の総本社として信仰を集めて有名になったのは”えびす信仰”を 全国に広め「夷廻し・夷かき」とも称された人形を操つる芸能集団傀儡師の活動が 大きかった様です。
西宮神社本殿

傀儡師等が産所の地に住み祖神と信ずる百太夫を、傀儡師の氏神(守護神)として祀った百太夫神社の跡地【阪神西宮駅北口を西に進みR193号に出た向い。 NTT西日本兵庫支店西宮ビルの東南角に碑が、祠は西宮神社境内<本殿西北>に遷移】が人形浄瑠璃の源と云われる”人形操りの発祥地”として傀儡師故跡の碑が立つ。西宮神社は全国の戎神社の総本社として 古くより崇敬され、商売繁盛の神様として1月9〜11日の「十日戎」には商売人に厚い 信仰を受けまた、プロ野球春の公式戦前に以前は本殿再建工事等で一時期 :広田神社【西宮神社の本社格とされていた】で行なわれいた阪神タイガースの必勝祈願は、再び西宮神社で行なわれるようになった。
赤門(東大門)からの大練塀

平安時代には高倉上皇の御奉幣を賜ったと伝えられます。後祭神・西宮大神には 第一殿にえびす大神・ 第二殿に天照大神と大国主大神・第三殿に 須佐之男大神が 祀られますが、特に室町時代以降、福の神の代表えびす様が当地が発祥のエビス回しと呼ぶ傀儡師(人形操り・人形浄瑠璃の起源とされる)の"えびす・大黒舞"や謡曲 ・狂言等の芸能を通じて全国津々浦々に御神徳が広まっていき ました。
西宮神社本殿

三連春日造りといわれ本邦唯一の特異な建築構造をもつ本殿は昭和20年8月戦禍に遭い焼失したが昭和36年11月復元再建されました。旧西国街道【西宮から門司・太宰府を結ぶ山陽道<中国街道!?・西国街道!?> と西宮と京都を結ぶ山崎街道<西国街道 >】の要衝にあって、 江戸時代の西宮町は幕府指定の宿駅になり、殊に西宮の名水宮水の発見による灘五郷の酒造業によって経済的に発展していった。 其の西国街道の中国街道・山崎街道分岐点が此処か?。
西宮神社大練塀の南東角に立つ西国街道常夜燈(寛政11年)

R43号沿い南面から県道193号(えべっさん通り!!?)の東側に面して建つ 西宮神社表大門は東側練塀の南よりにあり全体が赤く丹塗りされていることから赤門の名で親しまれる。門は単層切妻造り・本瓦葺きで2本の円柱を本柱、4本の角柱を控柱とする四脚門。全体の構造は、 其々の柱を貫材 (ヌキザイ )及び紅梁(コウリョウ)を用いて繋ぐ簡素な造りで、細部を繰形や雲紋等で飾られます。典型的な四脚門の構造を採用されていますが、その豪壮な姿には桃山時代の建築遺構を現存し、細部の手法や文様が繊細で阪神間では稀な建物として大正15年4月19日国指定重要有形文化財として指定を受け後、 昭和25年に重要文化財に認定されました。
西宮神社赤門

天正6年(1578)中国征伐の最中・三木城主別所長治に呼応した伊丹城主:荒木村重の乱で信長軍により焼失したが 慶長9年(1604)豊臣秀頼の寄進により再建され慶長15年頃には完成したと伝えられてており、赤門(表大門)も其の頃の造立と推測されます。西宮神社大練塀は神社境内の 東と南に面して総延長247mの長大な築地塀で版築技法を用いて・つきあげた築地 【幅約2間(4m)程!!?のブロック塀】を62基連ね練塀本体としている。建立の年代は明確ではないが、築土から見つかった銅銭から室町時代と推定されています。
西宮神社・赤門(東大門)と大練塀

京都・蓮華王院(三十三間堂)の太閤塀、名古屋・熱田神宮の信長塀に当社の 本練塀を加え「三練塀」といわれます。本例は現在最古の築地塀であり、その堅牢さにおいても他に類を見ない。阪神淡路の大地震で被災したが旧来の技術を用いて忠実な復興再現されました。 国宝に指定(昭和13年7月4日)された後・昭和25年重要有形文化財指定を受けています。
(西宮市教育委員会 西宮神社内案内板)


今津の六角堂と甲子園球場
43号線一つ南の筋は灘五郷・西宮の「酒蔵通り」で此処 ・今津小学校(今津二葉町4)の前にも今津・大関・世界一統の看板が見えます。白と黒のシックな通りに面して赤い洋風建築六角堂が目を引きます。建物は明治15年(1882)今津小学校の校舎として、殆ど地区内の寄付により建築されたもので、洋式の小学校としては開智小学校(長野 ・松本市)についで古い建物です。公民館や幼稚園にと何度か敷地内で移転を繰り返しながらも120年<平成10年現在>。
今津小学校の六角堂

戦時:今津の大空襲に焼け野原となった中に焼け残り・風雪に耐え、取壊しの危機にも地域の保存・存続の運動に支えられ、敷地内に移築され幼稚園として使用され、 平成7年の兵庫南部地震にも崩壊を免れ、当初の位置(・・に近い)に移築され「さわやか街づくり賞」の建築部門を受賞されました。1階は展示室として公開され、同校卒業生で作家:野間宏氏寄贈の自筆原稿や、古い教科書や六角堂の ・また西宮の歴史年表や古地図等が 展示され平日は見学自由です。甲子園球場は兵庫県西宮市にあります。阪神甲子園駅からスタジアムに向う 駅前広場の一角に建設当初の球場レリーフのブロンズと 御影石のモニュメント 「甲子園大運動場建設記念碑」が建てられています。阪神電鉄の開発構想で山手に住宅地、 浜側をスポーツセンターや遊園地にする事で 始まりましたが、当時・全国中等学校野球大会が大正6年8月から鳴尾グラウンドで開催されてたのですが、観客を収容しきれない状態となっており、 より大きな球場の要望を受けて甲子園球場建設を英断されました。
甲子園球場

球場の完成は大正13年8月1日で、この年が十干、十二支の各最初の"甲(きのえ)"と"子 (ね)"が60年ぶりに合う年で縁起が良いとして「甲子園」と名付けられ、完成した年の冬にツタが植栽され、 その旺盛な繁殖力で壁面を飾り球場の歴史と共に歩んできました。当時の大運動場も昭和4年(1929)増設され甲子園球場名物となったアルプススタンドですが、他には甲子園の土・浜風そしてジェット風船でしょうか !!?…シンボルは球場の壁面を飾る「ツタ」でしょうね!
(現地:六角堂・甲子園大運動場案内板等参照)



瓦林城 
西宮砲台と今津砲台平重盛館(小松城)

瓦林城  xxm 西宮市日野町・瓦林町

文治年間(1185〜)頃、一族郎党を率いて鎌倉幕府の源頼朝に仕えていた貴志義茂の子孫が 有馬郡(三田市)貴志庄の豪族で釜屋城・貴志城の城主・喜志五郎四郎義氏だと言われ、南北朝期・元弘元年(1331)吉野の後醍醐天皇に 味方して楠木正成等と共に北朝方と戦っています。…が足利幕府により建武4年(延元2年 1337)赤松信濃守範資が摂津守護になると、赤松(円心)則村の家臣・貴志庄の貴志五郎四郎義氏は範資に属して南朝軍と戦いながら 転戦し有馬郡の鏑射山要塞に立て篭もり南軍と合戦し
日野神社参道にある瓦林城址碑

瓦林城に拠って此処を護ります。瓦林城には 香下寺城(三田市)・丹生寺城(神戸市北区)から南朝方の武士が攻めて来たが城中から打って出て奮戦している。 (余田文書)その後の瓦林城に誰が拠っていたかは不明ですが 唯一・西宮附近に住み着いた有力武士の瓦林(河原林)一族が一時期拠った館城と思われます。しかし戦いの場所が日野神社の瓦林城では、防備が手薄過ぎて此処が舞台とは想像も出来ません。観応2年(1351)範資が没後の正平10年(1355)楠正行が河内での挙兵に 貴志義氏は北朝側から南朝方へ率先して加わり、度々の合戦に奮戦したが同年3月戦没し、その後一族は兜を脱いで貴志庄に帰ったといいます。
日野神社最北部・拝殿横の堀???

瓦林氏は三河から足利尊氏に従って上京した武士で和泉国(大阪堺)の地頭となり豊嶋辺りを本拠としていたらしく、 此処を居館としていた瓦林正頼が鷹尾城・越水城を築城後は、瓦林城から越水城が中心となっていったが居館城としては存続していたようです。元亀元年(1570)織田信長と本願寺との闘いで信長方に味方した城主・瓦林 (河原林)三河守は阿波 ・篠原長房らの大部隊に攻められ、信長の援軍が来ないままその日の内に落城し、城主はじめ一族郎党の男女百十数名が討ちとられ滅亡します。その城内に守護神として祀られていた神社が日野神社です。


岡太社(岡太神社)と平重盛館(小松城)   西宮市小松南町2丁目2-8
「おかしの宮」岡太神社
阪神電車の武庫川駅を西に降りて兵庫医大の北方約450m,、旧西国街道の今津・鳴尾から尼崎へ渡る武庫川橋の 手前南側の杜に「おかしの宮」の看板が見えます。境内の東端には「従是東尼崎・従是西尼崎 」の古い石の道標も立っています。此処・延喜式内岡太神社は平安時代 :宇多天皇の寛平5年(893)武庫郡広田村の人岡司氏が 此処を開発して浜村姓を名乗り、延喜元年(901)天御中主(あめのみなかぬし)神を主祭神に広田の大神(西宮市大社町の広田神社、嘗ては阪神タイガースの祈願所 !で「日本書紀」に記された県下第一の古社)。五柱(高皇産霊神・素盞雄神(素戔鳴尊)・稲田姫神・大巳貴神 ・蘇民将来)を共に、元は本社の北方に在ったのを移して相殿に祀られ岡司宮(おかしの宮)と呼ばれます。
伝・小松内府平重盛の居館碑

江戸時代中期の石標(岡太社と社号を刻む)が残っていますが、其れによると並河誠所が有志と、社殿の廃滅や祭神の由緒等の誤り【岡司姓を広田村に多い岡田姓と混同され岡太宮と伝えられていた 】伝えられていた延喜式所載の摂津国の古社二十社につき踏査考査して、正しい社名を明らかにするため、時の社寺奉行大岡越前守忠相に上申し元文元年(1736)から翌年にかけて建立した碑石で、表面に神名帳に記載の社名がある。 裏面台石に同志菅広房(山口屋伊兵衛)の名が刻まれています。岡太神社の一時上臈(いっときじょうろう)は西宮市指定(昭和59年3月29日)無形民俗文化財で毎年10月11日の祭礼に「一時上臈 」と称される紅白の紙製で、 宝冠状に飾られた御幣を18本つくり奉納される。この祭礼は南北二つの講により維持され、北講の御幣は女・南講のが男であるとされる。祭り当日には餅・柿・柚・柘榴・栗等の供物を入れた唐櫃の上に、直径約1mの茅の輪に 15本の御幣を立て頭屋から神社へ運ぶ。社殿では祭礼から・頭屋等による直会へと進む一連の祭式には、嘗て氏神祭祀の姿がよく残されているといいます。此処にも在った「歯神さん」史実はともかく北向きに鎮座する 攝社の白山大神の由緒は面白い。天正10年(1582)明智光秀が本能寺に織田信長を襲い、中国攻めの秀吉軍が引き返して来るのを迎え撃つ為、此処まで出っ張って来れる兵と余力が有ったのか?。光秀の武将:四方天但馬守が、備中の戦陣より 西国街道を急遽引き返してきた秀吉と、三軒屋(鳴尾浜?か)で乱戦となり、組み敷いた秀吉に止めを刺そうと、くわえた刀で討とうとしますが、 不覚にも歯が欠けて刀を取り落とし、後を追ってきた加藤清正に誅されてしまいます。但馬守は無念で・是からは歯の悪い人は治してやろうと言い残したとの風説が有ります。
本殿鳥居の茅輪を前には 猪の狛犬

白山大神は・和と結び穰災の神ですが当地では白山さん、はくさ(歯瘡)さんと転訛し、 北向きの歯神さんとして知られ、虫歯が痛くて困っている人が、 松の皮を噛んで此の石に願掛けすると、痛みがなくなると言い伝えられています。聞き慣れない光秀の武将:四方天但馬守ですが、講談では賎ヶ岳の合戦に加藤清正と対戦して討たれた話がある様ですが!!?
恵美須大神と静止(しし)像 西宮神社に御鎮座の恵美須大神は武庫の沖から御来臨になり、最初・鳴尾で御祀りされていたといいます。 小松庄では其の大神が毎年1月9日の夕に押照宮(岡太神社)で高潮や洪水等の災害を未然に静止(防止)して五穀豊穣をもたらす猪(静止 )打神事をされると伝えられ、この神事の妨げにならない様・斉籠(いごもり)をする習性がありました。静止(しし)を猪にかけたもので、猪は大神の使いと云われ岡太神社では摂社に大神をお祀りして昔話を後世に伝える縁(よすが)として 昭和60年に彫刻家柏木秀峰作の静止像(十二支の亥)を設置されています。

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平重盛館(小松城)
北向きに鎮座する攝社の白山大神と並ぶように鎌倉末期の造立とされる「伝小松内府平重盛の供養塔」2基の九輪塔が建っています。なぜ2基なのか?、もとは別々の場所に在った石塔が現在の地に移設されているようです。 九輪塔の南背後に隠れるように平重盛之城址の顕彰碑が建てられています。嘗て「伏松」という小高い岡が岡太社の西南のあって平重盛の居館伝承地とされ「吾妻鑑」建久3年(1192)の條に武庫御厨小松庄と記されているのが 此の地であるといわれますが、鳴尾町一帯は密集する宅地内に在って、周囲の環境に往時の面影さえ想像出来ません。平重盛は平安時代末期・保元の乱 (1156)や平治の乱(1159)には父:清盛に従い活躍した武将で、京・六波羅の小松邸に住んでいたこと小松大臣(こまつのおとど)・小松殿と呼ばれます。武庫川河口にあって平氏の領有地 ・小松庄に居館が在ったと推察され”小松内府 ”とも呼ばれています。
伝・小松内府平重盛の供養塔

城址碑は昭和 3年に地元実践青年団によって建てられ、其の後・一旦西方に移されていたが昭和46年に岡太神社境内に移設されました。「奢れるもの久しからず…」平氏政権を築き、一門の若き頭梁として期待されていた 重盛に先立たれた平清盛は、源頼朝の挙兵によりやがて壇ノ浦に終焉を迎えます。平氏滅亡を見ることなく42歳で他界した重盛の遺骨は常陸に向ったとされ、茨城県城里町の小松寺には、重盛の墓と伝わる「伝内大臣平重盛墳墓 」が有って県史跡となっています。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんとすれば欲すれば忠ならず」激しい気性の清盛とは対照的に、「平家物語」に温厚柔和で冷静沈着で教養を兼ね備えた武人として描かれた重盛は、 朝廷との仲介を務めたといい、承安元年(1177)後白河法皇を中心とした謀反計画を知った”鹿ケ谷事件”の露見では,法皇を幽閉しようとする父:清盛を、身をもって諫め”清盛が死んでも、重盛さえいれば平家は安泰 ”と云われる程の評価を得ていた人物でした。

(現地岡太神社内案内板・西宮教育委員会及び神社略記・Web百科事典Wikipediaを参照)
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西宮砲台と今津砲台   石堡塔 西宮市西波止町  国指定史跡(大正11年3月8日指定)

西宮砲台:幕末の嘉永5年(1853)徳川幕府に開国をせまるペリーが浦賀へ翌年・安政元年(1854)大阪湾に ロシアのプーチャーチンがジャナ艦でやって来て人々を驚かせます。度重なる外国船の来航に国防の不安を感じ・各国との和親条約にも安心は出来ません。 軍艦奉行勝海舟の勧めで幕府が黒船来襲に備えて、京都を警護する要地にあたる大阪から神戸までの海岸を見て廻り沿岸防備の為、
西宮砲台

文久3年(1863)舞子・和田岬・川崎・西宮・今津に砲台の建設が始まります。しかし、どのような砲台を作ればよいのか 暗中模索の状態での設計です。初めての工事で中々はかどらないうえ、元治元年(1864)国内では 長州征伐が始まり工事監督の勝海舟は、幕府の命令で江戸に帰り費用も出なくなり 工事は中断してしまいます(和田岬砲台はこの年に完成したようです )が灘五郷の酒造家達の出資により地元の人達だけで慶応2年(1866)5月頃から工事が再開されたようですが完成時期等は不明です。
西宮砲台と円堡跡土塁

西宮砲台は砂地に建てられる為土堤で囲った中央部には、千本を越える松杭を打ち込んで基礎とし、その上に石堡塔という花崗岩の大岩を組みあげて造られた円柱型の建物は高さ12m・直径 17m・周囲75mもある大きなもので、内部は木造三層で二層目の側面には正方形の窓1個と砲眼11個が開いており四方に向けることが出来、 大砲二門を据えて、内部中央に井戸と弾薬庫が設けられた。切り出し賃や運賃が高価だった為に六甲近くにあって御影石が使用されなかったようです。
対岸に今津灯台と今津堡塔の残石

瀬戸内の島々から切り出した花崗岩を積み上げたといわれ、 また通常の二倍の賃金で熟練工を集め、 突貫工事で完成を急ぎ4年を要する難工事だったといいます。堡塔の西側には土留め用石積みを残す!!円堡の土塁跡が残り浜側の砂地にも大きな石が点在しています。円堡用か堡塔の築造時の残石かは分からないが、 完成したが一発試射すると建物内部は硝煙がたちこめ実用には向かなかったが、実際に使用されることもないまま明治17年 (1884)火災で内部木造の構架等を焼損、修理されることもないまま香櫨園浜の東端に土塁の一部と共に残っていたが大正11年3月8日に国重要文化財に指定され、昭和49年修復に着手されています。
今津灯台

今津砲台:西宮他の各砲台と同時期慶応2年 (1866〜)に真砂町に造られたが、大正4年(1915)砲台は民間に払い下げられた後、石を取るために残存していた土塁は 壊され石は今津港から運び出され、今は石材の一部が「今津海岸砲台記念石」として今津灯台と入江を挟んだ真砂町側の車道脇に残されています。

今津港の夕景・今津灯台


今津灯台灘五郷として西宮郷に並ぶ今津郷の酒造家 「大関」の前身で醸造元・長部本店の五代目:長兵衛によって、今津港に出入りする灘酒樽廻船や漁船の安全を願い文化7年(1810)大坂谷町の奉行所の許可を得・私財を投じて建てられた灯明台でその後:六代目文次郎が 安政5年(1858)再建した台石の「象頭山常夜燈」は海の守り神・金毘羅宮奉納を表し、この高燈籠様式の灯台に今津の人々は深い親しみと郷愁を感じています。古い行灯式灯台は今も現役で活躍しており市文化財指定を受けています。

(国指定史跡西宮砲台:西宮市教育委員会 大関酒造等の現地案内板等参照)

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