暑さと雨で出遅れたら市内の気まま散策 X・・(~0~)!! 宝塚市編 豪攝寺の寺内町(小浜城と小浜宿)
阪神 (五万図=大坂西北部)
小浜宿(小浜城・首地蔵)〜民俗資料館〜宝塚大劇場H15年07月19日
近畿の山城: 小浜城
   五ヶ山弥生時代遺跡・五ヶ山古墳群(4号墳)
ガーデンブリッジ(宝塚大橋)から宝塚大劇場

前回の伊丹・有岡城に続いて 伊丹台地の西端に位置して同様に "惣構え"の城塞都市・小浜城に向かいました。武庫川に架かる宝塚新大橋を渡り中国自動車道宝塚ICの西(市民病院や亳摂寺)が目印ですが、西の宝塚大橋(宝塚劇場・旧フアミリーランド側 )周辺へも歴史散策も兼ねて出かけてみます。宿場町として繁栄してきた小浜の古い町並みは震災による倒壊被害も大きかったようだが
歌劇前の「花の道」にはヅカファンが集う

「町並みを愛する会」等の町並み保存運動により、も豪攝寺周辺には町家が再建され、本瓦葺き・白漆喰塗り込め虫籠窓や格子戸の佇まいの歴史的町並が復旧しています。 温泉と歌劇で代表される宝塚ですが私には、田舎へ帰郷の為の JR乗換駅で時々は「花の道」を通り今年の春(H15.4)に姿を消した宝塚フアミリーランドに子供達と遊んだ思い出が懐かしい所です。



宝塚市  小浜宿資料館〜寺内町巡り〜旧和田邸〜宝塚劇場 2003年07月19日

宝塚・花の道:宝塚は文字通り、 宝の塚(古墳)が多く有って「この塚(古墳)の側で物を拾う者に必ず幸せあり …」幸福をもたらす土地として宝塚の地名が生まれたと伝えられています。明治17年に温泉が発見され宝塚が観光の町として知られるようになり明治30年には阪鶴鉄道(現在のJR宝塚線)が開通し、明治43年には小林一三氏等による 箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚線)の開通や大正3年の宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇)誕生で一躍「歌劇と温泉のまち」として広く知られるようになります。
手塚治虫記念館

宝塚駅から「花の道」が宝塚大劇場に通じています。車道に挟まれて一段高くなった中央部の歩道は劇場内に真っ直ぐ延びた「舞台の花道」には歌劇テーマのブロンズ像が建ち歌劇ファンの女性には 嬉しい!!かわいい店が並びます。昭和2年レビュー「モン・パリ」に続いて上演された「パリゼット」の主題歌が♪すみれの花咲く頃・・〜です。 桜の頃には人気の小道だが武庫川左岸の堤防だったところで新温泉通りだった所です。「花の道 」を抜けると宝塚大橋の手前にはヨーロッパの古城をイメージした外観と、手塚氏のエッセイ「ガラスの地球を救え」をモチーフにしたガラス製の地球がシンボルの記念館と作品 「火の鳥」が記念館入口に建てられています。
小浜宿

今年(2003年4月7日が誕生日だったという) 「鉄腕アトム」の生みの親・手塚冶虫氏が豊中市で生まれ5歳のとき宝塚の祖父の家へ引っ越し24歳まで宝塚で過ごしています。宝塚市立手塚治虫記念館は宝塚で育まれた「自然への愛と生命の尊さ」をテーマに未来を担う 青少年に夢と希望を与える施設として平成6年(1994)4年にリニューアル開館され、手塚作品を映像やパネルで見ることができます。此処から武庫川を渡れば阪急宝塚南口駅です。武庫川に架かる宝塚大橋は噴水有り、 一時期問題になった!!彫刻や花壇・ベンチまで設置されているガーデンブリッジです。
========================================================
小浜宿
三田から道場〜生瀬の山間部を抜け 大阪平野に出る武庫川河口に位置する宝塚・小浜は生瀬を経て有馬への湯山街道(有馬街道)、安倉から山本・川西池田へ出て京都・伏見を結ぶ京伏見街道や武庫川を伊子志(いそし)へ 渡って酒や米を運んだ西宮街道(馬街道)、播磨清水寺〜中山寺への巡礼道が交差する交通の要衝で、 宿場町として宝塚の中心地にあって小浜宿が繁栄し湯治に向かう後白河法皇、歌人の藤原定家も利用し秀吉も亳摂寺に泊まった際「玉の井戸」の水で千利休が茶を献じた伝承があります。
井川邸「菊仁」の文字と杉玉が造酒屋の看板

「玉の井戸」は寺向かいの山中邸にあって、山中鹿之介(幸盛)の末裔の山中家(鴻池屋)は、伊丹の鴻池家(後大坂の大財閥鴻池)共に酒造業で大成する。伊丹の鴻池・小浜の山中は、共に鹿之介の長男 ・幸元?、二男・新六?兄弟か山中家一族により造りがはじめられた様です…!!伊丹市には此処 「玉の井」銘の酒があるとも 聞いているのですが!!?殊に江戸時代には交通の要衝として幕府の庇護もあり宿場町「小浜宿」は旅篭・脇本陣・木賃宿の他、 商家・馬借や茶屋・芝居小屋等が軒を連ねる賑いを見せていたといわれ、
井川邸「菊仁」の文字と杉玉が造酒屋の看板

生瀬宿と同じように専業農家は殆ど無かった様です(小浜には一軒もなかったとも聞いた)。井原西鶴の 「日本永代蔵」に酒造流儀「小浜流」が紹介され独特の醸造法があり古くから酒造が行われていた場所でもあった様です。小浜宿資料館の向かいにある井川邸が江戸初期から栄えた「菊仁」で軒下につるされた杉玉が造酒屋 (つくりざかや)の看板になっています。本当は新酒が出来た時に吊るすんでしたよね・・!!。木造本瓦葺で漆喰仕上げの壁、木の格子に小浜宿と書かれた柱掛の行灯という佇まいの町家は築後 250年と推定されています。小浜を通っていた旧街道沿いに今も多くの寺社や文化財が点在しており、町内の通りや辻・三箇所にる門跡等、 彼方此方に多くの道標や燈籠が建てられ宿場町小浜の情緒を深めているが震災前の歴史的な町並みの佇まいを比べると現在の様子には残念な寂しさを覚えます。宝塚市立小浜宿資料館が「菊仁」の向き合っています。
小浜宿資料館

震災後に新しく建て替えられた山中邸は戦国武将・山中鹿之介を祖とし、 小浜で酒造を始めたといわれ、その名水「玉の井」が邸内に残ります。資料館は山中邸の土蔵や敷地の一部を借り受けて平成6年(1994)オープンしたもので、 小浜宿の民俗資料や歴史的資料が展示されています。江戸時代後期の浜の町並みを復元した模型が展示されていて大堀川と溜池で囲われ、三方の門から街道に通じる様子は小浜宿と豪攝寺を中心とした 寺内町の"惣構え"の様子が良く分かります。江戸時代中期・腕の良い大工や 左官業が沢山いる大工の町としても知られ、享保8年(1723)頃には大工組 「小浜組」という代官に認められた大きな大工の集団が結成されていました。
小浜工房舘(とんかち舘)

幕末期の大工の棟梁西村則周(のりかね)は戊辰戦争後、戦乱で崩れた京都御所蛤御門の修復や、大阪・難波御堂別院の脇棟梁などを務めた名大工でした。勧進相撲も行なわれたようで 資料館内には大工道具や「小浜組」の旗、小浜相撲の番付や制札が展示されています。小浜宿散策用にビデオの視聴もお奨めです。資料館前の札場の辻から北に進めば大工の町でもあった小浜PRの「とんかち舘」小浜工房館前を経て有馬街道を北門跡へ出ます。此処から左下手への急坂が「いわし坂」、正面の国府橋を渡ると宝塚市米谷で 直ぐ先には宝塚市最古の和田家住宅・歴史民俗資料館がありますよ。
歴史民俗資料館 旧和田家住宅

引き返すと南門跡手前で右手(西側)下へ急な舗装道が極楽坂で、明治の大関・谷風岩五郎の墓碑があり石段を登った所には首地像が鎮座しています。北門跡から外へは 大堀川に架かる国府橋(明治8年9月に架けられた)を渡りますが、此処が寺内町の環濠内では最も高い(Ca10m)切岸になっており、国府橋が完成するまで有馬街道へ出るには北門前の道向いいわし坂を下って宝楽橋で大堀川を渡る。 嘗てこの附近まで武庫浦の入江だったそうで、武庫浦で獲れた鰯を荷揚げしたところから呼ばれるようになったとの事です。いわし坂を下って川辺に出ると大堀川に沿って桜並木の「大堀花の道 」遊歩道が南門・首地から有馬街道(西宮街道)に通じます。北門跡から 国府橋を渡ると米谷地区で20m程先には宝塚市立歴史民俗資料館旧和田家住宅(宝塚市米谷1-8)があり宝塚市指定文化財に指定されています。
大堀川の切り岸と国府橋 いわし坂

18世紀の始め頃建てられた宝塚市最古の住宅は摂津・丹波型といわれる片側土間に居室を並行して 並べる古い様式の 妻入角屋本瓦葺民家で、納戸構えの構造等古式な様式を持ち、角屋座敷などを備えた特異な家屋です。江戸中期の民家を知るうえでも貴重なものでしたが、阪神淡路大震災で半壊した家屋を和田氏より譲り受け平成8年 (1996)復元工事を行い平成11年に歴史民族資料館としてオープンしています。 代々米谷村飯野藩の庄屋を務められていたことから、 多くの古文書が残されており、移築された土蔵に保管されています。基本的には従来の古材を使用することで再現され、座敷の上部分の屋根瓦も復元前からのものだそうです。
黒鉾橋から天然の環濠<大堀川>

小浜の首地蔵
かっての宿場町の雰囲気が残る小浜宿の南門跡から直進して坂を下ると大堀橋だが、手前の市立病院への交差点を西へ黒鉾橋へ出る細い道が旧西宮街道(馬街道)で、幅狭い舗装された坂道分岐点側縁に貞享4年 (1687)銘の道標が立ち、首地蔵の案内導標もある。坂の途中には谷風岩五郎の墓【江戸末期小浜の米穀商に生まれ18歳で相撲界に入り、明治9年大関に昇進し谷風岩五郎を名乗った力士で、 98連勝記録をもつ大横綱の 谷風梶之助の”谷風”を継いだと…】と隣の石段を上ると、 高台の蓮の台座に赤い涎かけをした顔だけの地蔵尊がありますが、その御顔は高さ1.3m・耳だけでも60cm程の大きなもので、調和のとれた素朴な美しさを湛え首から上の病気に霊験があるといわれます。
首地蔵

お堂の中ではなく、雨晒しの台座に祀られるのも変わっているが、元は街道下の墓地の 藪の中にあったものを地元の人が、運び上げ御堂を建て安置しようとしたところ、その大工が病気になってしまいます。「これは堂に入るのが、お嫌なのだろう」ということで雨晒しになったと伝えられています。 また一説には、小浜がまだ武庫ノ浦の入江だった頃、漁師が夢のお告げで浜辺の砂に 埋もれていた地蔵尊を見つけ 此処・高台にお祀りしたともいわれます。さらにこんな話もあって… 伊丹の殿様が夢のお告げに現れた地蔵尊に願をかけ、持病の頭痛が治ったので御礼に首地蔵を刻み、
谷風岩五郎の墓と西宮道を示す案内板

地蔵尊の示した此の地 ・小浜の高台にお祀りしたものだとか、武庫川の上流から洪水の際に、見佐村の河原に流れ着いたとか 色々な説があるそうです。諸説があるだけに、いつの時代に此処に安置されたかについては不明です。昭和50年11月に 拝堂が燃えその火炎で旧地蔵のお顔が欠けたことから、その後近隣の人々によって新しい御影石の地蔵尊が安置されたということで新旧2体の首地蔵が並んでいます。
(宝塚市教育委員会 ・宝塚歴史散歩ガイドマップ 宝塚市立小浜資料館資料 等参照)


五ヶ山弥生時代遺跡・五ヶ山古墳群(4号墳)   宝塚市仁川高丸

甲山大師から森林植物園の北を仁川ピクニックセンタを経て 旧阪急(阪神と統合しての新名称は知らない!?)仁川駅へ通じる車道は、 樹林帯を抜け忽然と現われ坂道の左右に拡がる仁川高丸の住宅街を抜けていきます。此処に「五ヶ山古墳」の案内標識が立つので寄ってみます。もう30数年も以前になるが此の車道を降っていて広い空地?があって大きな岩がゴロゴロと有って…阪神競馬場をはじめ宝塚・川西・伊丹方面に拡がる市街地の 展望が良かったのを思い出した。 砂地の上に残された其の巨岩が古墳だったのでしょう?。甲山から其処に行き着くまでは殆ど家も無かったので?直ぐ分かった古墳は、此処・高丸よりもっと下方だったのかな?。宝塚と西宮両市の行政区に跨る五ヶ山古墳群は 14基の古墳が確認されていたようですが、丘陵一帯の宅地開発で其の多くが消滅し現在3基が遺るだけだが、いずれも古墳後期 (6世紀末〜7世紀初め)のものとされます。此処・高丸の高台には「五ヶ山弥生時代遺跡」の西宮市教育委員会の説明板が立てられ、遊歩道?を蜘蛛の巣払いながら歩ける遺跡公園になっているようです。古墳の説明はないが 案内板の側に4号墳が在って、露出した玄門部から玄室部にかけてのものと思える数個の天井石が散在し、石室側に落ち込んでいる様です。石室も土砂に埋没した地下にあるようで、南に開口した羨道部の石列が片側に数個残っているが、 先端部は斜面で途切れて全体の規模は分かりませんが直径15m前後の横穴式石室を持つ円墳の様です。五ヶ山弥生時代遺跡の説明では「標高約110m〜150mの丘陵上500m四方に竪穴住居跡11基が確認され弥生時代の 高地性集落として知られるところという。この公園では昭和45年(1970)関西学院大学考古学研究会によって 発掘調査が行われ、竪穴住居跡4基や弥生時代中期〜後期の土器・石錐・石包丁等の石器が検出されました。弥生時代の集落が、 このような標高の高い場所に営まれた理由には中国の歴史書にみえる「倭国大乱」などの戦争があったためであると考えられています」…と。




小浜城 (亳摂寺の寺内町)   宝塚市小浜4丁目・5丁目

伊丹台地の西端に位置し、武庫川と北から西方を迂回して南にかけて三方を大堀川が流れ深く削られ、その東面のる段丘上に浄土真宗・石山本願寺別格本山亳摂寺 「小浜御坊」があります。戦国時代の室町末期 ・明応5年(1496)蓮如上人が石山本願寺 (大阪城付近)を開いた頃、奥村正信等が一向宗(浄土真宗)の僧・豪摂坊善秀と小浜庄を開き、宗徒や町人によって亳摂寺を中核として小浜寺内町として整備されていきます。
豪攝寺東門の土塀

街道ごとの三方に迂回する天然の水掘・大堀川に門を構え、織田信長の一向宗門徒の弾圧に備えて此処を拠点として、寺内町周囲に土塁を廻らし、低い東側には溜池を掘って大堀川の水を引いて 防御性を高めた南北 750m・東西400m惣構えの城塞都市・小浜城として形成され、 守護や戦国大名に対抗して一向宗門徒集団が結束して作った自治組織がありました。 交通の要衝で江戸時代になってからも宿場町として繁栄したところです。城の虎口となる三方には門を構え、
いわし坂を登りつめると北門跡(愛宕社を祀る)

東門は京伏見街道・北門は有馬街道 ・南門は西宮街道(馬街道)に通じており、それぞれに名残りの門跡には小さな祠の愛宕宮が祀られています。東門の先で中国自動車道を潜って京伏見街道に出ます。 環濠の大堀川が切れる所ですが二つの溜池(谷の上池と谷の下池)が有った所です。下池は宝塚市民病院の駐車場に姿を変え上池が僅かに姿を留めているようですが未確認。東門跡の石垣は、 そのまま外濠を隈取りするように石積みを残して民家の間を延びています。 北門は大堀川の環濠の中でも最も高く深い切岸となっているところで 明治入って通じた国府橋によって米谷地区と繋がっています。其れまではいわし坂を通って有馬街道に出ました。
東門跡(目前が中国自動車道)

豪攝寺の西南角に南門跡があり此処は首地蔵の下を通る馬街道を西宮へ向います。天正6年(1578)信長が荒木村重の 有岡城攻めの際、近隣の米谷・安倉等の村々や 中山寺も焼失しています。この時、一向宗徒の拠る小浜城へも兵火が迫った筈なのですが !!戦禍に巻き込まれた記録は無いようですが、有岡城の向城として織田軍の武将が小浜城に入城したと 「摂津史」には記されており、有岡城の落城後に池田信輝(恒興)・輝政父子が小浜の地を領有したといいます。秀吉に子なく、養子の尼崎城主(三次秀次・後豊臣秀次)が毫摂寺に立寄ったとき、 寺の二女亀姫をお妾さんにして連れ帰りますが後、
南門跡

秀吉に実子・秀頼が生まれたので、養子の秀次が疎ましくなってくると何かにつけては難癖をつけ、文禄4年(1595)秀吉の怒りに触れて 自害させられます。秀次の夫人や側室、その子供達も皆、三条河原で殺されますが、 その時に"小浜局(亀姫)"も殺され、此れに連座して生家・毫摂寺も福島正則に焼討ちされ本堂等が焼かれてしまいます。その後復興されたが文政年間(1818〜29)宗教上の争議で焼かれます。
(宝塚市教育委員会・宝塚市観光協会の現地説明板・ひょうごの城紀行・郷土の城ものがたり 阪神編等参行)
  丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system