西脇市内散歩と山城
鳴尾山城/比延山城と下比延城/西脇城・野村城
西脇市(五万図=北条・三田)
T 2002年07月20日
職業訓練所〜鳴尾山城〜 旭ヶ丘団地(愛宕山登山口)
U 2002年07月20日
城山公園〜比延山城
V 2004年05月15日
鳴尾山城(愛宕山)〜啼山
鳴尾山城から眼下に野間川・西光寺山・数曾寺山塊
近畿の山城
:
鳴尾山城(野村山城)
野村城(野村構居)
比延山城と比延前田遺跡(三ノ丸居館:下比延城?)
西脇城
史跡:
旧来住家住宅(来住梅吉邸)
T
西脇市職業訓練所〜鳴尾山〜鳴尾山城(愛宕山)〜旭ヶ丘団地
H14.7.20
西脇市中を流れる杉原川を 加古川と野間川が 挟み込むようにして合流し加古川の本流となる地点に上原神
社(?妙見堂)が建ち、此処に室町期・永禄年間 (1558〜70)
野間山城
有田修理太夫重利の被官人・上原氏の野村城(野村構居)が在り、”詰め城”と云われる野村山城 (=鳴尾山城)が、南北に連なる鳴尾山独立丘陵の北端・愛宕山に在りました。
愛宕社を祀る鳴尾山城本ノ丸
天正6年(1578)羽柴秀吉が別所長治が籠る三木城攻めで滝野の五峰山・光明寺に陣を敷いたときに贈られた「大将に向ふかたきはなき 尾山ことに所も加東光明寺」歌があります。"敵(かたき)が無い"との掛け言葉で"勝とう"は加東郡、"功名"は光明寺に通じます。
鳴尾山はナルオヤマ、ナキオヤマまたナキヤマとも呼ばれますが
五峰山〜引尾山
へ延びる送電線が 引尾山から[尾を引っ張って]鳴尾山の尾がなくなったという新しいナキ山伝説はどうでしょう…!!??。
鳴尾山落城秘話に其の名の伝承が残されています。
鳴尾山城:主郭を半周する帯曲輪沿い随所に石積・石垣を見る
鳴尾山城跡へは板波(いたば)集落 ・旭ヶ丘団地の奥から「愛宕山神社参道」が整備されており山頂には愛宕社が祀られています。地蔵堂の側に 縄張り・登山コースと城址案内板が立つ登山口があるが、西側の職業訓練所
の最奥にテニスコートや駐車場があり、愛宕社を祀る鳴尾山城に向います(AM6:45)。火の用心「北攝長田野線 No.8」標識の巡視路から山道になりますが 左手直ぐのところに小公園化された
経ヶ芝古墳
(復元模型)があるので立ち寄ります。
平野町側から鳴尾山城を望む
此処より南200m程の尾根上にあった古墳を此処に復元されたもので、墳丘には板石を組み合わせた 箱式石棺の様子が観察できま
す。石棺の内側には朱を塗り、副葬品が全く納めていない事等の説明版も建っています。 巡視路道を山稜に向って進む潅木の道は蜘蛛の巣払いの木の枝必携です。鉄塔を過ぎ巡視路の分岐を見送って稜線へと直進するが雑木の道は藪っぽくなってきます。
鳴尾山(啼山)
城址と鳴尾山の中間点付近の稜線にへ出ると(AM7:10)鳴尾山城のある北へは明瞭な道が降っていきます。南方へも藪っぽく 笹に隠れた細い踏み跡がありますので辿ってみます。小さな山塊ですのでこのまま南端へ抜けたいと思うが先程・丘陵裾を一周しているので 長い
車道歩きは敬遠です。しかし直ぐ側にある鳴尾山のピークへは行って見たいと南への踏み跡を進みます。羊歯類に覆われた踏み跡ですが10分程で
鳴尾山
(3等三角点 236m AM7:20)に着く。雑木で展望は無いが 僅か南端に腰をおろせる程度の露岩の荒れた場所が有る。
鳴尾山城主郭より啼山を望む
目の前には深い鞍部を挟んで鉄塔のピークが見えます。東播磨の良好な展望地のようですが今日は此処で引き返します。先ほど登りついた分岐を降ること2〜3分で 露岩の続く稜線となり東面に素晴らしい展望が拡がります。【冒頭の写真を参照】丹波から流れ込む加古川が野間川とも合流して本流となって眼下を横切り直ぐ下手で名勝・闘流灘の滝瀬を経て悠々と流れていく様が窺えます。 次に向う比延山城と先日行った
金城山
や数曾寺山塊、
婆々岩〜比延山
清水寺
や
西光寺山
正面奥には白髪岳を望
みます。短いが実に素晴らしい展望岩尾根を城址へは、良く踏み慣らされたハイキング道のようですが鳴尾山山頂や 展望地の様子から見ても一般道ではなさそうです!!西方には 抑揚の無い音符のように
五峰山〜引尾山
の連山も見えています。
鳴尾山城西北の堀切(空堀)側石垣
良い道が藪っぽくなった頃北端のピーク鳴尾山城址の堀切に降りて愛宕参道側に出てきます。目前の 3〜4m程の斜面を越すと愛宕社を祀る本丸址の広い平坦地に出てきます。堀切には
石積跡
が見られますが本丸の
周囲を石積・石垣で固めているようです。
鳴尾山城
(野村山城!!愛宕山 176m AM7:40)は単郭を帯曲輪が囲った城ですが、北面や西面虎口下方にも1〜2段の曲輪が存在しているかも知れません?。
鳴尾山城:主郭を半周する帯曲輪沿い随所に石積・石垣を見る
切岸を石垣で補強した上原氏の最期の「詰の城」を後に愛宕神社参道を下り始めると、 眼下に西脇市街地が拡がり北方にかけての展望が素晴らしい。5分位!!で旭ヶ丘団地の奥の「愛宕山入口」道標のある取付き地点に下りてきます。車道に出たところに城址案内板があります。此処から15分ばかり山裾を 西方に向えば西脇市職業訓練所の駐車場(AM8:10)へ帰りつき次の山城へ向かいます。
U
城山公園〜比延山城〜比延町
H14.7.20
R175号線沿いに西脇市街から566号線に入り鹿野町へ向かいます。 直進すれば
比延山〜婆々岩へ
しら坂ト
ンネルを抜けて
清水寺
や社町の東条湖や篠山・今田町へ抜ける道ですが、 黒田庄への標示を見て294号へ左折する分岐地点からは、北(左)前方に
城山
(比延山城址)の富士型に整った山容が望まれます。登山口は城山公園からで無料駐車場(約50台は駐車可)もあって便利です。
比延山山頂から西脇市側の眺望
取付き点はグラウンドを横切った先にあり 「比延山城跡登山口」の 導標が建てられ整備された山道が山頂まで続きます。岩場・急斜面にはロー
プも張ってあリます。 車で城山公園へは入口の公園の案内板が足下に 落ちていたりして分かりにくいかも知れませんが「城山グリーンヒル・スピードウェイ(ラジコン・カー専用走行場)」が目印にはなりますね。
比延山・北峰から比延谷側・西脇市を望む(真下が登山口のグランド)
ここへの入口先に広い公園駐車場があり奥には城址の説明板が見えます(AM8:30)。城山の姿を仰ぎ見ながらグラウンドを横切れば取付きの導標が目に付く筈です。よく踏まれた山道で 蜘蛛の巣払いの枝葉が必携の雑木林が続きます。ただ直ぐにロープも続く露岩混じりの急登が待っています
<最近このルートを回避して登るルートが出来ています>
。 それだけに一気に展望も拡がるはずですが…
傾斜も緩くなると 「比延山城址」の碑の建つ南曲輪群の削平地で北へ向う細い尾根に曲輪を連ねているのが分かります。城址碑はこの後:一時行方不明になっていたが、山城フアンの中間によって山の斜面に 蕪事発見された碑は、 元の場所に戻されています。
鹿野町安楽寺付近からの城山(比延山城)
間近に
比延山
や
西光寺山
数曾寺山塊
白山〜妙見山
も見えていますが此処からの展望はいま一つですので北曲輪群の
城山
(4等三角点 287m AM9:00)で休憩です。此処は頂部に露岩が点在し西面には遠めにも確認出来る大岩壁となって切れ落ちる自然の要害を呈しています。西脇市街から西正面には野間川に沿って北へ
と笠形山から飯森山〜千ヶ峰・篠ヶ峰・
三角点山
を始め東播磨から丹波へと 播磨丹波境界の馴染みの峰々をはじめとして丹波から南下する加古川本流を望み 岩頭部は眺望絶佳の展望台です。
294号線側から比延山城(北郭と南郭)
鳴尾山城の 山麓にあった野村構居の城主有田氏と同様に、比延山城の城主も赤松円心の長子範資(のりすけ)の三男・掃部守直頼が有年城 (赤
穂市 )に拠って本郷氏を名乗り、其の子
本郷弥三郎頼兼
が比延山城を築いたといわれ 鳴尾山城と同じ赤松一族の城。共に居城としてではなく「詰の城」として存在したようです。三角点から北側へ明確に続く踏み跡を辿ります。
比延山登山のフイナーレは北麓の鎌谷下池
傾斜も緩やかになると羊歯類に覆われた雑木を抜けて出て来たグリーンの芝生の湿地帯に中にピンクの綺麗な小花(ベニバナセンブリでしょうか ?)だけが目につきます。左手の林道幅の道は広い空き地となって運送会社の車両置場北側へ出てきます。そのまま車両置場を通らせてもらってもよいが”日本へそ公園”へ通じる294号線に出るゲートで遮断された林道を降りて
城山公園
に戻ってきます(AM9:30)。
V
旭ヶ丘団地〜 鳴尾山城〜鳴尾山(啼山)
2004年05月15日
以前・西脇市職業訓練所から公園化された
経ヶ芝古墳
(復元模型)の横から雑木を潜って鳴尾山を目指したが、 暑さと後の予定で縦走を諦め鳴尾山城を経て旭ヶ丘団地へ下った事が有ったが、今回は
妙見山〜段之城
を廻った後、 中町から西脇市に向かい
天目一神社
(平野神社)から
大木城(平野山)
に立ち寄り、此処・啼山の小山塊の縦走を兼ねて鳴尾山城に登りますので、野間川沿いに八千代町や加西市に向う 県道34号で東
側山麓にある旭ヶ丘団地に向います。住宅内の車道側に簡単な ”縄張り図”付きの鳴尾山城の説明板が建てられ、近くには五輪塔や宝筺印塔が建つお堂があり、不動明王が啼山(三角点のある
鳴尾山
<なきやま>236m)を背にして立っています。
鳴尾山城本郭より鳴尾山(啼山)を望む
登城口は此処からで、愛宕山(愛宕神社参道)への道標が道案内です。参道を僅か10分程で素晴らしい展望が拡がり、腰曲輪を越えれば愛宕社を祀る山頂の鳴尾山城の本郭部です。三段ばかりの帯曲輪が主郭を取り囲む輪郭で愛宕社の後ろに
虎口
部の遺構が、主郭南側へ下る高圧鉄塔の建つ側のは
水場
跡の石組があって、更に主郭を取巻く帯郭には石垣の痕跡を残した
石積
が諸所に見られます。一番明確に綺麗に残されているのが城レポートに写真添付している、 南尾根を遮断する堀切部分にあった。城址
迄は整備された登山道(参道)ですが小山塊の 独標的存在の鳴尾山(啼山)へ 物好きにも入る登山者は余りいない様で、石垣跡案内標からの取り付きは細道はシダと雑木藪で覆われ気付く人もいない様子です。此れからは”蜘蛛の糸”除けの木枝が必携となりますが、尾根上は途中 ・関電の巡視路ともなっており歩き易い。
縦走・露岩の展望台から野間川・加古川合流地点と金城山方面
只・山道は鳴尾山(3等三角点:啼山236m)を捲いているので山頂へは送電線鉄塔少し手前で藪の中に分け入り、展望はまったく無いシダや雑木の藪に隠れた三角点石標を探し出すのが大変かも!!。 鉄塔下付近は展望休憩の適地で西正面には野間川に山端を落とす
角尾山と五峰山
の台形の山容や二つの丘を並べる
雄岡山・雌岡山
や六甲山系を望めます。巡視路を下るだけの道は20分程でJR加古川線側に降り、滝野社インタ〜西脇市街地へ通じる旧 175号(県道17号線)を戻り板波の踏切を渡って道なりに進んだら墓地に出た。かまわず前を擦り抜けて行くと今度は自動車教習所の敷地に入ったがフエンス沿いに出た所が旭ヶ丘団地の東口だった。
旧来住家住宅(来住梅吉邸)
国登録重要文化財(平成14年2月14日) 西脇市西脇
童子山公園西山麓を杉原川に沿いに南下、中央通りの交差点角に情報未来館がある。木綿生地の「播州織
」が 盛んだった昭和中頃までは、其の中心地:西脇市から中・八千代・丹波山南の地までも織機の音が響いていました。今は織機の音も絶えて鋸屋根だけが残る工場跡の姿さえ数少なくなってゆくようです。 情報未来館には日替わりでシェフが代わり、日によって和〜洋と違った味とメニュウが楽しめるアットホーム!!なレストランがあって立寄ります。
旧来住家住宅・表門から庭塀と疎水沿いに正面玄関へ
窓越しに豪邸の大屋根と虫籠窓、正面玄関の大戸が大きく開かれ玄関土間奥には 紺地に染め抜いた”二つ引き両”(足利氏所縁の家紋)の暖簾が
見える。母屋・離れ・客湯殿が国の重要文化財に登録されている旧
来住家住宅
は、母屋は大正4年(1915)に起工され大正7年に、洋館は昭和12年に竣工されています。当時最高級の銘木用材を全国各地から調達し、
渡り廊下側から母屋と離れ座敷 ・庭園を眺める
京都から大工を呼んでの最高技術を用い、時間をかけ・手の込んだ技をふんだんに使って建てられた豪邸で、 母屋座敷の床と天井は屋久杉で、書院の欄間は紅葉に水流をあしらって、百人一首”
千早ぶる 神代も聞かず
竜田川…
(在原業平)”を表わし、 天井は矢筈張り、他に船底を下から見たような天井もある。仏壇の天井には放射状に拡がり 御光を表わした桟など、見えないところにも凝った手法が用いられています。 其の仏壇の欄間も仏前への”お供え”の野菜果物の彫刻、座敷欄間
の菊も見事ですが、離れの欄間も木目を巧みに生かし雲にかかる月を表わし 対して時鳥(ほととぎす)が埋め込まれ、此れも百人一首”
ほととぎす 鳴きつる方を眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる
(後徳大寺左大臣=藤原実定)”を表わされます。 そう思えば玄関土間の陳列台の中に百人一種も置かれていたが、読み札は”手書き”でしたよ。裏側に中国では幸せを呼ぶ動物「蝙蝠」がリアルに彫られ、目には黒珊瑚が埋め込まれています。これ等・座敷や離れの彫刻は姫路の彫物
師
市川周道
の手によるものです。また障子は夏用に一部を取り外されるが、桟や雨戸の戸袋に至るまで細かい細工が施されているが 一本の釘も使われていない。
松葉の欄間
庭石は抹茶御三家の薮内宗匠の設計 ・庭師今里捨之助の施工のより京都の鞍馬・貴船・加茂川や生駒石等が使われ手水鉢・春日燈篭等13有る種々の灯篭にいたるまで名品揃いです。しかも阪神淡路大震災を経験して尚、狂いの無い建物の伝統に耐震性を加えた 優れた技術が 見てとられます。家族用には玄関と台所の間・中土間に湯殿
が有りますが、離れの方にも客湯殿が 有ってイタリアから 輸入されたタイル貼り、湯槽は高野槙を使った最高級のもので、天井は栂材とウズラ材で木目を違えた折上格(おりあげごう)天井で、側面に換気口を仕込んだ美しい天井で仕上げられています。
煉瓦造り水槽と防火壁・左に味噌醤油等の蔵・右の台所からは余熱を外に廻して
湯湧しに利用し煉瓦煙突(右手前)に抜いている (修理改築で上部はカットされているが)
水道が無かった時代に自家水道 (高架水槽)を設け手漕ぎポンプで上層部へ汲み上げて客湯殿へ送水され洗髪用のシャワーも備えられ、 トイレには陶器の履(下駄!)、 便器には着物の裾が触れないように座椅子状の器機が備えられ来客を丁重に扱う当主の心配りが感じられます。高架水槽は煉瓦積みで、水槽左右及び屋敷の
東西に洋風左官仕上げの煉瓦塀とコンクリート塀が築かれていて防火壁となっている。隣家とは離れていたので卯建は無かった様です。吹き抜けの中土間から吊階段を2階に上がると畳廊下の北に和室が2部屋。 5人の子供の干支が襖絵に描かれている。
母屋2階から土蔵越しに煉瓦水槽と防火壁
食客として逗留していた
橋本関雪
【貿易商の橋本海関(旧明石藩の儒学者)の長男として神戸に生まれた、近代日本画壇の重鎮で】が描いたもので為書も残ります。 昭和8(1933)年の帝展に出品して 高い評価を受けた「玄猿」
から、以後・猿の画家としてのイメージが定着しています。昭和3年には後に首相の犬養毅、昭和15年には 朝香宮鳩彦王(東久邇宮の兄)が宿泊されています。来住(きし)氏は来住町や来住城の有る小野市から移って来られた方のようだが天正年中(1573−92)三木合戦の際に別所方に付いた来住城主・来住景政縁故の方か、
母屋の大屋根と虫籠窓・客門!屋根の七福神と瓦は小振りの特注品
また”二つ引き両”の家紋からは足利氏と 関係深かった赤松一族所縁かとも思ったが、其の件は一切の説明書や の方も不詳。当主:来住梅吉氏は大正2年(1913)代々土地収入で財を成していた父の本家に婿養
子に入られ、 大正9年には西脇商業銀行(後:神戸銀行に合併)設立の発起人となり、昭和15年(1940)播州銀行西脇支店長に就任した銀行家。来住邸は昭和42年(1967)76歳で死去、妻:きくゑさんが亡くなられた後は、 遺族の方で大切に邸宅の管理が 続けられていたが、
旧来住家住宅
今では用材はもとより技術的にも再現することが困難とされる家屋を文化財として保存していく為、まちづくりにも活用して欲しいとの思いから30年来無住ではあったが、平成13年10月・土地と家屋すべてを西脇市に寄贈されました。 平成15年5月より一般公開されていますが、此処を見学だけではなく市街地活性化事業・第1号 ”まちづくりの拠点施設”になっており、和室は地元学生がお茶の練習に、また句会・活花や茶道教室や舞踊等にも利用されています。
(現地 来住家住宅案内板及びパンフと館内諸所の説明書き ボランティアガイドを参考)
鳴尾山城
比延山城
大木城(野中城)
西脇城
鳴尾山城(鳴尾山砦・野村山城!!)
愛宕山176m 西脇市板波町城ケ谷
鳴尾山(なきやま)城は西脇市の南部と加東郡滝野町の境界線を 南北に連ねる独立山塊の最高峰
鳴尾山
(
啼山 236m)の北端に位置する愛宕山(標高176m 比高約110m)山頂の鳴尾山城の主郭を置く。 此処に愛宕神社が祀られており、麓の旭ヶ丘団地から参道(登山道)が整備されています。主郭を帯曲輪が囲む小さな単郭の山城ですが、薮の中に遺構は比較的良好に遺されています。
鳴尾山城帯曲輪東面:堀切側の切岸に見る石垣
北の山裾を流れる野間川が東から、丹波と播磨を繋ぐ幹線の街道が通る南には加古川が流れ、 その合流する逆三角州のように囲まれ自然の外堀が構成された城跡が 要衝を眼下に見下ろす山頂にありました。主郭(南北20m・東西18m)を中心に土塁付の幅広い通路兼帯曲輪が取り巻き
,南の尾根続きは堀切を設け、曲輪の周囲は石垣積みで防御の補強改修が為されている点で戦国時代末期と考えられます。天正3年(1575)
貝野城・段之城
の「荒田城合戦」の時期、別所孫右衛門重棟<後の八木城主>によって在田氏の
野間山城
と共に攻められ、落城し以後は栗山氏が在番していたとされています。
城の南側には水場跡
赤松一族の在田(ありた・有田)氏の城なら室町時代の築城で、後期の石積み改修時期も野間山城と同時期ではなかったかと考えます。この頃の山城は合
戦時に立て篭もる「詰め城」で普段は見張り番がいるだけで物見櫓と小屋程度の設備しかなかった。城主は天文年間 (1532-55)在田氏の配下にあった野村構居の
上原氏
で、 鳴尾山城(野村山城)は其の詰め城として築かれたと考えられています。
鳴尾山城主郭 :東南面切岸下の帯曲輪から
(此の帯曲輪の東〜南〜西の虎口にかけての切岸に石垣・石積を見る)
野村構居
からは 西南約1.3kmあり・少し距離がある様なので下屋敷や 上屋敷等が有ったと考えれば、最初に此処に登ってきた 職業訓練所・経ケ柴古墳(復元模型)の有る西山麓に字 「土居下」があり<位置不詳
>本ノ丸の虎口も西面の急斜面側に有る。 天正の戦乱期には、野村城ではなく城下の西山麓に居館が在ったと思えるが‥!!?.。上原氏は戦国時代の混乱に乗じ這田荘重国郷の実権を握りますが,自立の困難さから自らも当時北播磨全域に 覇権を広げていた在田氏の被官人となります。
鳴尾山城帯曲輪切岸東面の堀切を右へ回り込むと石積と土塁付き横堀に?
野村構居は永禄元年(1558)には北播磨進出を狙う同族赤松家の
豊地城主
別所重棟
の夜襲を受けて落城し上原兼親は自刃します。野村山城 (鳴尾山城)もまた同様に天正3年(1575)重棟の攻撃に落城し這田荘も別所
氏の支配地となりますが,上原氏がその後どうなったのかわかっていません。 永禄年間後期頃には別所氏配下の栗山氏が居城していたともいわれます。鳴尾山城は,小規模ですが特徴的な構造をもち市内でも保存状態のよい城跡のひとつで、
鳴尾山城帯曲輪東面の石垣(視点を変えて再掲載)
愛宕社を祀る本丸址から鳴尾山へ続く南尾根への取り付きには 山頂本ノ丸下段の帯曲輪の切岸下を東へ捲く様に、顕著な堀切を越えていく。堀切は直ぐ外側に低い土塁状を見て浅い横堀か通路を兼ねた帯曲輪を進む。主郭を囲む帯曲輪の切岸(5〜6m)には冬枯れの時期を除けは薮に覆い尽くされ、 確認出来ないかも知れないが石垣・石積・石列が、ほぼ同位置の高さ付近に残片的に見ることが出来ます。愛宕神社裏手(西側)に虎口跡、送電線鉄塔の建つ南側へ帯曲輪を1段程下がる降り口には石組の水場跡が遺る。 上記:登山レポートTにも石積み等の写真を添付しています。
(現地鳴尾山城案内板 1994年 西脇市教育委員会 参照)
野村城(野村構居)
xxxm 西脇市野村町字カマエ
野村城はR175バイパスの丁度トンネルの西方に在り、 旧道の加古川に架かる野村橋を渡った直ぐ南側にあ
ります。車道は県道17号に出てJR西脇市駅にほど近いところです。野村橋と県道17号の 間に小さな祠と立派な石碑が建っている諏訪神社があります。濃国の諏訪大社の分社で江戸時代 ・宝永年間(1704-11)庄屋の長井六郎兵衛光盛が当時の領主:甲府一橋家の許可を得て建立したもの。
野村構居:北東端から主郭内に建つ上原神社(妙見堂?)
戦国時代にこの
野村城
は三木別所氏の夜討ちにあって落城し多くの死者が出た。 城域の字名「カマエ」の土地に神社を建立して死者を弔ったといいます。室町時代より野村の住民の菩提寺であった金光山
九品寺
が、 この頃幕府の一村一ヶ寺令で廃寺となり
高松の長明寺
(源頼政の鵺退治像がある)に宝仙院を建立した為、諏訪神社が野村の人々の身近な信仰の対象となっていたが、 明治維新の神社統合令により廃社となり、今の八坂神社に合祀されました。
野村構居:南東から東面の土塁 ・切岸と堀切跡?
敗戦で制約がなくなると昭和30年代に小さな社殿を再建し、京大農学部演習林のメタセコイヤを譲り受け神社の神木とされました。廃寺となった九品寺本尊の阿弥陀如来像が今も長井家に祀られているそうです。
(現地:石碑の由来記による)
西脇市街地の東を流れる加古川に 杉原川が合流して一気に水量を増した本流では、岩盤の川底を削(そ)ぎ岸を削り落とす絶景を見せてくれます。 合流地点の
直ぐ下流に野村構居があり、此処より約4km下流には奇勝・闘龍灘があり西の丘陵にある五峰山
光明寺
は、南北朝期の観応2年(正平6 1351)足利尊氏と弟の直義が戦った
光明寺合戦(観応の擾乱
)の舞台となった事は太平記でも知られます。
上原左京太夫兼親と有田修理太夫重則の供養碑
県道34号を西南へ約1.2kmには
野村構居
(野村城)の「詰の城」として愛宕山に築いたのが
野村山城(鳴尾山城)
だとされています。有田氏の野村構居は、最初は鎌倉幕府(北条氏)に仕えていた信州・諏訪氏一族の
上原
俊房
が弘安3年(1280)蒙古軍来襲の防備に派遣された北条時業(ときなり)に随行しその後・弘安6年(1283)此処に来住して野村城として 築城されたものと思われます。海のない山郷に住吉神社があるように、 此処にある上記の諏訪神社が其の証しでしょうか。
南西端から主郭内の櫓台?と上原氏顕彰碑・上原神社
上原氏は戦国時代の混乱に乗じ這田荘重国郷の実権を握りますが、自立の困難さから自らも 当時北播磨全域に覇権を広げていた在田 (ありた)氏の被官人となります。3代目則重は赤松円心に従って武功を挙げ,5代目重隆は明徳の乱・明徳2年 (1391)に活躍し6代目秀重は嘉吉の乱
(1441)に赤松満祐を諌めた人として知られます。其の後・城主は「多可郡史」等で語られる
上原左京太夫兼親
が 「播磨鑑」等資料の
有田(在田)修理太夫重利
(則か!!? 元・野間山城主)被官人としての天文年間(1532-55)頃は上原民部少輔が城主だったともされます。
北西角から野村構居主郭の切岸 (空堀を廻していたか!!?)
戦国時代末期は野村構居跡の上原神社か妙見堂?裏に祀られる供養塔にある
元野間山城主:有田(在田)修理太夫重則
の被官人
上原左京太夫兼親
が最後の鳴尾山城主だった様ですが?、隣の石碑に
ある元祖:高橋九郎左衛門(源)長房・中祖:高橋藤兵衛とは ?野村構居との関連も不明!!?。永禄元年(1558)には 北播磨進出を狙う同族赤松家の三木
豊地城主
(永録2年には依藤氏を滅ぼし豊地城を本拠 ?城として大規模改修している)
別所重棟
の夜襲を受けて落城し上原兼親は自刃します。
構居主郭西面の切岸と空堀跡?
その後の上原氏については不明です。
野間城主
の有田修理太夫が元亀年間 (1570-73)別所重棟と加西の青野で戦い此処で自害したといわれます。有田(在田)氏の本城・野間城の東方の入口に当たる野村構居は丹波と八千代の野間城を通って但馬へ通じる街道の要衝にも当たっています。野村構居主郭に建つ上原神社の
背後には有田修理太夫重則と、上原左京太夫兼親の供養碑が建てられており、共に親密な関係にあった事が偲ばれますが、同時に史実が複雑になってきます。 永禄年間の城主を「ひょうごの城紀行」では有田修理太夫重利とされているが城の別名を野村山城とも記されます。
加古川河原の内側に引水した溝は船着場!
寺院の山号とは異なりますので!!?、上原氏の野村城(野村構居)の「詰め城」は、愛宕山に築かれた
野村山城=鳴尾山城
の事と思われます。 野村構居
の城域東側は川幅広く流れも早い大河・加古川が、その川岸の岩を高く削り込んで絶壁として天険の要害(水堀と切岸)を造り出しています。 ただ平城は東面を除き防備を堀切か土塁に頼るだけだが、宅地・耕地内の城域に遺される、それらの城址遺構を曲輪内部に見つけるのは難しい現状になっています。
旧野村橋から望む野村城全景
土塁や堀跡も石積みの残る畑地の段差も後世のものと判断出来ないが、城域内に建つ野村城主・上原氏…の木標や「上原大将軍」と書かれた石柱や 顕彰碑(明治期になってから建立されたもの)、有田修理太夫重則と上原左京太夫兼親の供養碑や、民家を抜け県道に出ると此処の在る諏訪神社の地の字名が”カマエ”で城の一部を示し、野村城での死者を弔って建てられたものであることが 籠城戦を語り、僅かに証となっています。
比延山城と比延前田遺跡(三ノ丸居館:下比延城?)
比延山城
比延山(城山)289m 西脇市比延町字城山・鹿野町
比延山城の城主は赤松円心の嫡男:範資(のりすけ)の三男
掃部介直頼
が有年城 (赤穂市)に拠って本郷氏を名乗り、其の子
本郷出羽守弥三郎頼兼
も此隅山城の山名氏が反乱した際に 細川頼之に従い赤松氏の幕下として 明徳の乱(1391)では京都二条大宮での合戦等で軍功を挙げ応永年間(1394‐1427)比延山城を築いて
移ったといわれます。ほぼ独立した急峻な山である比延山の細長い尾根筋の自然地形を利用し約 180mにわたって築かれた曲輪群は堀切状の鞍部を分けて北曲輪群と南曲輪群を分け小さな曲輪を連ねています。
比延山城跡(南郭)
堀切状の鞍部を分けて北曲輪群と 南曲輪群に分けられ小さな曲輪を連ねています。北曲輪群は南北朝期 (1333-92)の本郷直頼が築城したままのものが残り、曲輪の削平が不十分で曲輪切岸も緩やかであるのに対し 南曲輪群は・それぞれの曲輪がはっきりし曲輪間をつなぐ通路状や東斜面には腰曲輪も設けられている点で室町初−中期(1392-1491)頃の山城の特徴を留めて
いるとされ、嘉吉の乱(1441)頃に改修されたものと考えられますが其の後:戦国期 (1491〜)以降の改修が認められず、そのまま放棄されていたと考えられています。 二つの時代の遺構がそのままの形で残されているのは珍しいようです。
比延山城北郭の天然の岩の切岸
比延山城の西方を南北に流れる加古川は10数キロ遡れば篠山川 ・旧佐治川が合流する丹波(旧氷上郡)国境、南山麓の比延谷川や北山麓切畑川沿いにも丹波国境の西国霊場清水寺・篠山(旧多紀郡)へ通じる戦略上の要衝にあって、 赤松播磨の丹波国境守備の任に就いていたのでしょう。赤間氏(本郷氏)は南北朝時代に当地に配置された赤松庶流家で
本郷直頼
【山名氏との戦功により、赤穂宇弥(うね):有年城によって本郷姓を称した。 其の子
弥三郎頼兼
も明徳の乱等に戦功を挙げ、其の後に比延山城を築いて移り !!…此処を本拠として丹波国境の北播磨守備の 任にあたった】,頼木?と代々比延山城を本居城として続きますが嘉吉
の乱(1441年)以降は没落し,復興後も比延山城には帰らなかったと伝えられています…が後:比延氏を名乗るようになったといい
荘厳寺
本黒田家系図には黒田官兵衛の父は重隆・母は比延山城主・比延常範の娘:八代?
松が瀬の伝説
では 於松・松の前〉と伝わる。
比延山城跡(北郭)より二ノ丸(西脇東中学)・三の丸(比延小学)を望む
この本郷氏の歴史は比延山城の現状とも一致しています。帰らなかった理由は姫路市夢前町に有るようです。明応3年(1494)城主:本郷四郎左衛門宗安が置塩城:赤松政則の命により、護持構・やなぎ構(護持構居の一部) ・塚本構(姫路市夢前町)等を築き、本郷一族が構主として居しています。要因不明ですが足利将軍家との口論から、戦いとなり本郷一族郎党は尽く討死したと云われ現地構居説明板に記されています!!。
(兵庫の城紀行「神戸新聞出版センター」 及び西脇市教育委員会現地案内板等参照)
比延前田遺跡(三ノ丸居館:下比延城?)
xxxm 西脇市比延町・比延小学校内
居住性に乏しい坂本城や本郷氏代々の本拠とはいえ比延山城は、尾根上は幅狭く長い自然地形に近い。 有
事の「詰の城」として、普段は丹波国境の位置にあり警戒の為、物見櫓を立て見張り番を 置く施設はあったことでしょう。北郭の露岩平坦地は、 そのまま狼煙台には最適の場所です。城山公園の無料駐車場からグラウンドを横切った反対側から登山道が山頂へと続きます。
比延山山頂(北郭)
案内標示や岩場や急斜面にはロープ等整備はされていて北曲輪群の山頂岩場からの展望は良い。 平常は麓に居館が営まれていたのでしょう。比延山山
頂を本丸 ・城山の西山麓:西脇東中学校付近に 菩提寺だった戍亥寺や竹の内、堀XXの地名もあって、通称"二の丸"と呼ばれる居館があった可能性が 指摘されています。比延小学校の位置は古くより「三の丸」と呼ばれており、
比延山城:段曲輪が判り易い南郭で此んな感じ(三段程続く)
体育館・校舎建て替え工事による調査によって、 約50uを堀で囲った室町時代から安土桃山時代(天正1573〜慶長1615)頃にかけて造営された居館跡【住居・石組み井戸・柱跡・杭を打ち並べた柵・居館の約50m四方を幅4〜5m
の堀で囲った跡・水溜池?の跡等が検出され、中国製の青銅香炉や磁器・丹波焼や備前焼の甕・擂鉢・施釉陶器・土堝(どなべ)・土錘(網のおもり)・瓦・茶臼や大和製火鉢等が 出土しています】が発見され、出土品からはかなり富裕層の居館が在ったと推測されます。
三の丸(比延小学校)・比延前田遺跡
室町時代:比延山城の
本郷直頼と其の子頼兼
(後に本庄氏に改姓)の居館
下比延城(舌被絵城)
には芝の垣内・源四郎垣内・御坊垣内の字名が残るという。 字限図でもあれば、通称「二の丸や三の丸」だと比定できるかもしれ
ないが?。 比延小学校のグラウンド南端に塀を廻らす住吉神社(鐘楼は住吉神社の神宮寺が在った神仏混淆の名残か?)が在る。 海のない地に住吉神社!!?。隣接する篠山市にも住吉神社はあり、比延荘も荘園時代・住吉神社が管轄する荘園だったのかも?、 その政所ともなっていたものか?。
住吉神社:南端の濠跡?延長線はJR線側へ…
住吉神社も城域だったと思え、 神社鳥居からの参道沿い西へ一直線に側溝が延び、河川段丘裾を走るJR加古川線へ延びる。JR線添い西堀の堀底には土手を掘り残して、攻めてきた敵が堀を渡り難くした仕切り堀(堀内障壁)が設けられていたと云い、居館の堀で・この様な防御設備が 施されているのは非常に珍しいという。現状からも発掘時の一部遺構だけでも遺されていれば…と残念です。 なを
黒田官兵衛
誕生地との説もある
黒田城
主
重隆の妻は比延城主:常範の女との伝承からは、此の居館であった?と推定します。
比延前山遺跡
については西脇市教育委員会の文化財調査報告書があるが詳細は不明のまま!?。二ノ丸の西脇東中学校敷地の西側は田圃との間に段差をもって居館跡地をなぞる様に!!?溝谷や田圃側溝が屈曲して流れている。
三の丸(比延小学校)西端のJR線が走る切岸状と田圃間の内濠跡?
三ノ丸居館 (比延小学校)の西側は加古川の河川段丘となり、其の上に建つ学舎は居館を偲ばせる。遺構は再建工事後完全消滅して当時の様子を知る術は何も遺ってはいない。比延山城が此の地の有力国人領主・比延氏の城だったかどうかは資料が
何も残されていないので不明だが荘園領主:摂津国住吉神社荘園と 神社を管理していた代官が南北朝期の戦乱に、防衛機能を備えた政所として造営したものと推察されています。戦国時代に京都から比延に来た一族で野村構居(西脇市野村)の城主上原氏の被官で有った
比延出羽守好種
は
堀跡の側溝?から二の丸(西脇東中学校)と比延山城
天正5年(1577)信長命の ”中国毛利攻め”の前夜・播磨を固める為、 京街道を篠山・黒田庄から比延を経て姫路城に入る秀吉軍に、信長への従意を示し!その大将:秀吉に炭二十荷を贈っており、秀吉からは”炭の礼と比
延に新市の興業を認める礼状”が遺されています。「ひょうたんの里」比延地区は地場産として栽培され・作製されている「飾り瓢箪」は秀吉に感謝してのもの。其の旗印(?馬印としても用いられなかったよう?)で知られ、 戦勝の度に増やしていったとの千成瓢箪は、縁起ものとしての価値がありそう。
比延山(三の丸との中程には二の丸の西脇東中学校が
丹波八上城:波多野氏も黒井城:赤井(荻野)氏も、東播磨の別所氏も当初は織田信長に従順の意を表わし、機嫌伺い?の贈り物をしていますが、 後に背いて羽柴秀吉や明智光秀軍に攻め滅ぼされます。赤松方でありながら秀吉の播磨攻めの時には秀吉方に付き但馬攻めに加わっていたのかもしれません。翌:天正6年
本郷采女正
が
いて三木合戦では、別所氏に応じて三木城に籠城して天正7年 (1579)平井山陣を攻めた別所勢方に参戦していて 討死したとも云われます。宝暦10年(1760)まで400余年戦乱の世を乗り切ったともされます?。
比延山三角点(北峰主郭)から二ノ丸・三の丸(学校グランド)を望む
ただ比延氏が 山城を使用したという記録は残されていない様で!!?、三ノ丸居館も
豊地城
他・播磨の殆どの諸城とともに、天正8年播磨制圧と城割により 廃城となっていたと思われます。城主の弟:好範の子が逃れて、医者:入道道円として永住し、子孫が比延町に存続し繁栄していると云う。二ノ丸の西脇東中学校裏手に今は水田となっているが本庄塚(本郷出羽守の墓)の森が有り 開墾(明治16年)された際:唐銭6枚が発掘され、安楽寺に保管されているという。
(比延前田遺跡「蘇えった三の丸」等 西脇市教育委員会パンフ及び文化財調査報告書参照)
西脇城
xxxx xxxm 西脇市下戸田・上野
西脇市街地の上野:ホームセンタ ・コーナンの南側からカナート西脇=イズミヤ (旧ダイエー)へ抜ける連絡随
道の 上部一帯に西脇城が在った。城郭に興味を持つと此処にも城が在った事に気付きます。 車道を通っていては殆ど気が付かない南北僅か200m程の間に6〜8m程の高低さがある事がイズミヤ側から北方を見ると良く分かります。
西脇城
この高台(上野字柴添)にあり”城の垣内”名があります。西脇城の推定城域からは、300〜500m程東から南を加古川が、 西から南へは杉原川が
加古川に流れ出る合流点近く。北方に控える八日山裾から500m程南に流れ出た丘陵台地の 先端付近に位置しますが、 大規模な市街地改修/整備され往時の地形など想像も出来ない。
城主・高瀬氏の碑
コーナン南端の連絡道上辺りは駐車場になっているが、西隅に塀と玉垣で囲われた一角には、大きな石仏を中央に左に五輪塔、右には「西脇城主・
高瀬氏政
所之趾」(高瀬氏の政所の意味なら、荘園官吏にあたった在地土豪だったのかも !!?)石碑が建てられています。 コーナン側からは 直接入れないので南側へ歩道の坂道を下る
と加古川と 杉原川の間に掘られたものか、流水のある溝が西脇城南面を巡っており、 水堀が有ったかの様相を呈しています。「史跡・西脇城跡 」碑が建てられているのですが西脇市のHP関連で”史跡”等を検索しても城名さえHITしません。
ホームセンタから「西脇城跡」の一画を望む
西脇市史・昭和53年度の市内の遺跡マップにも表示記載のない市街地開発で 消滅した幻の城…!!ですが 周囲を土塁で廻らせた方形の居館だった
ようです。鎌倉期には滝野荘と共に高瀬荘 (現・西脇市街地一帯)が大和の大寺院の荘園だったようで、 此処にも高瀬氏の名が見当たりません。周辺の霊苑に高瀬家の墓碑を多く見かけるが、西脇城の存在は築城時期・築城主等の変遷・城史は不明です。
城主・高瀬氏の碑が建つ西脇城跡
城址の顕彰碑からは室町時代前期・赤松家一族の
高瀬土佐守
(氏政?)が初期城主だったのでしょう。高瀬氏は三木の別所長治に付いた為、羽柴秀吉に攻められ滅亡したとされます。其の後の城史は不明ですが、高砂城(高砂浦城):梶原景秀の臣
円山兵庫頭祐則
が西脇城主だったともいわれます。 高砂浦城は毛利からの援助物資を三木城へ搬送する任にあたっていたので、三木城落城で梶原氏は秀吉方に降り、城が廃棄された後は、梶原氏の臣:円山氏が空城となっていた西脇城に入ったものでしょうか…?