西脇市の低山と山城 五峰山〜角尾山・八日山/島村城〜坂本城/矢筈山城/寺山
西脇市(生野・北条)
近畿の山城:島村城 坂本城矢筈山城 滝野城 角尾山城
北播磨の古墳 : 八日山古墳1号墳
近畿の山リスト  兵庫但馬・播磨
緑風台古窯陶芸館
西脇来住氏一族の菩提寺:観音寺 【小野市:来住城
(三木合戦後の来住氏考察)】

八坂町から角尾山遠望 H16.7.3

表題の山々は何れも標高300m前後の低山ながら播磨平野・西脇市街地を展望しながら岩稜の尾根歩きに爽快な登山気分を満喫できます。八日山 矢筈山(矢筈山城)等は2008年に軽登山コースとして公園整備された。「矢筈の森公園」(そのU高田井・松岡神社)からの散策コースがあるが縦走コースには不向きですね。
寺山山頂から望む八日山

T八幡神社〜八日山〜鷹の岩〜森の広場〜弁天さま 2009年01月05日
U滝野・光明寺〜五峰山(扇山)=<高倉尾根>=角尾山〜引尾山  2001年12月15日
V西脇・八坂町〜角尾山<レポートは 角尾山城を参照> 2004年7月3日
W 西林寺・島村城〜坂本城 2004年06月12日
X 高田井町〜矢筈山 2004年07月03日
Y 童子山公園〜実相寺・八十八所霊場道〜寺山〜観音寺
2009年02月01日


T八幡神社〜八日山〜鷹の岩〜森の広場
  2009年01月05日

西脇市街地の左前方に緑の屋根を乗せる西脇市民病院新館が見える。背後に迫る丘陵は標高僅か210mの小さな独立丘陵ながら堂々として綺麗な山容を見せる八日山です。山裾上戸田の西脇 市民病院の先には初詣や秋の”お笑い神事”で市民に親しまれる八幡神社が在る。
八日山東登山口の応供寺跡

境内本殿横には八日山古墳1号墳があり埋葬施設の主体部【板石で囲い・覆われた長さ 186cm・幅45cm ・高さ30cmの箱式石棺】が安置されています。社務所裏手からは応供寺跡を経て八日山登山ルート【八幡神社とお笑い神事・応供寺 跡・八日山古墳1号墳詳細】へ。 矢筈山と同様に此処も2008年に軽登山コースとして整備されたばかりの様です。西脇市のほぼ中央部に位置した此の山がもっと早くから 市民の憩いの場として親しまれていれば、三ヶ所の登山口からは 15分程で山頂に立ち
八日山東登山口の応供寺跡

独立丘陵の展望の良さと岩盤帯を歩く爽快さを兼ね備え ・充分西脇市のランドマークとして認識されていたかも知れない?。神社から山城の物見台の様な東峰頂に着く迄は甘南備の山だったのか、以前は薪等を供する里山も利用されなくなり荒れるに任せたものか、踏み跡程度は有ったのかも知れません。下草や雑木藪が切り開かれて 整備された様ですが展望も無く整備後も利用者は少ない。 東峰から樹間越に露岩を覗かせる本峰が見える。
愛宕山(左)と鳴尾山の間に”逆さ富士”

5分程で広くはないが明るく開ける 八日山210m山頂に着く。南に西脇市外地の展望が拡がり山頂部を囲む露岩が短い山行にも限らず歓待してくれます。神社側(東)登山口から スタートしたのは正解だったようで、 山頂からの下山途路は市外地の展望を満喫しながら、鷹ノ巣岩と名付けられた露岩帯に着く。平日だが三脚を立て被写体を狙うカメラマンがいる。
鷹の岩!! 岩場の南側に”逆さ富士”の展望地が・・

カメラの先は愛宕山の西端と鳴尾山山塊の東端を分ける間の 加古川流域に向けられている。 本場の富士山に限らず其の影を移して”逆さ富士”と呼ばれるが、なんと此処から狙う加古川を挟む二つの山塊の空間を逆さ富士と呼ぶらしい。 鷹ノ巣岩から暫くは藪っぽく・羊歯類が多いが整備されている御蔭でなんなく「森の広場」の旧石切り場に降りる。
八日山山頂

6〜7m程の岩屏風の前の広場は明るい。此処で道は二分して西へは 3分で大谷山配水施設の緑の貯水タンク下の水道施設専用車道に転回スペースの登山口広場!!?に降りるガードレールには登山者用に幾本もの杖が立て掛けてある。 「森の広場へ5分・弁天さん10分」の小さな案内板も真新しい。南方へも同様3分で”弁天さま”の小祠前に着く。弁財天は池の中州に祀られるのが普通だが 何故か?麓の民家上部から長い露盤(露岩・岩尾根と呼ぶにはニュアンスが異なるが岩盤の斜面が続く尾根の上部に祀られている。
弁天社小祠からの眺望

小祠の背後から真下には調整池が見える。長い岩盤・岩場の続く斜面には岩場を避け 下草・羊歯に覆われた潅木の間を縫って登山道が付けられて、羊歯・下草が消えると貯水池傍の民家端の電柱の所に出てくる。案内標識が車道側・電柱にでも有れば判り易いのですが、
八日山:森の広場

少しコースに入った上部にあり、個人宅の車が駐車していれば 取付点が判り難いかも知れません。北側の大野地区へ抜けて2〜3の古墳を廻るか、西林寺から坂本城への バリエーションが採れれば寺内古墳群・道の駅・田園空間博物館を寄り道情報にすれば1時間程の山歩きではあるが軽登山としても満足出来そうです。


U滝野:光明寺〜五峰山(扇山)〜角尾山〜引尾山  2001年12月15日

JR滝野駅から県道市場滝野線をまたいで中央公園へ架かる緑色の歩道橋(鳴彩橋)を渡ると高瀬舟をイメージしたモニュメントの前に出ます。年貢米の搬送にあたって加古川の舟運に着目して川普請で通路を妨げる岩石や浅瀬に水路を通し(文禄3年<1594>〜大正2年現在JR加古川線の開通まで利用された)底の浅い高瀬船が利用されていたが 最大の難所が闘龍灘でした。
光明寺塔頭!?(大慈院)

川床いっぱいに広がる奇岩 ・怪石は飛鮎の名所として又”全国一早い鮎の(5月1日)解禁”となることでも知られます。岩を噛む流れを望みながら加古川を渡ると西方には、飛鳥時代の推古帝2年(594)法道仙人開基を伝え播磨高野とも呼ばれる真言宗光明寺(新西国二十八番札所)の参道下・五峰山中腹の展望駐車場まで続く林道に向います。近くにある滝野温泉「ぽかぽ」の山の湯・川の湯は太平記のふるさと五峰山と、飛鮎の闘龍灘をイメージして名付けられています。
高倉尾根・最高ピーク(鉄塔横)

闘龍灘は双龍灘と呼ばれていたが江戸末期の漢詩人梁川星厳【美濃<岐阜>の人1789〜1858】の詠んだ詩にちなんで闘龍灘の名が起こりました。また此処は「播州寝覚」 「跳びあへず渦巻く鮎の ひねもすなる哉」の句碑があります。光明寺参道入口の金剛池駐車場(AM11:40)から車道の続く参道に出ると五峰山(ごぶさん)光明寺の寺域を示す石碑を見て直ぐ左手に「扇山(五峰山)コース」登山口があり此処から辿りたい気にもなったが久し振りなので季節には桜やアジサイの花が楽しめる参道を採って中腹の駐車場・展望台に向います(AM11:55)。
展望駐車場より播磨平野と三草山方面の山塊

山岳寺院として栄えていた頃の山上の霊場を指しているのでしょう。宿尾・明星ヶ辻・経ノ尾・大岩・弥木場の五峰から成る五峰山があり 平坦な台形の山容に顕著な峰やピークは見当たりません。展望駐車場の南端からは播磨平野を縦断する県下最大の流域面積を誇る加古川と東南に拡がる低山が望まれます。金城山・大坂山(数曾寺山)・三草山や西光寺山等近在の山々の奥に虚空蔵山や六甲の山波が続きます。踵を返して参道の急斜面に向う前に寺の案内板に眼を通します。略図もあるので コース再チェックして「兵庫の森林浴50選」石仏の並ぶ道に入ります。
329mピークの岩頭から望む角尾山

石積みの奥に多宝塔の見える大慈院を過ぎ花蔵院の先で「みはらし台・本堂・高倉コース」の三叉路に着くが、先に仁王門が見えるのでツイツイ何時もの調子で門を潜り 正面の根本本堂に向かい、参拝後は左に廻り込んで裏手の本陣跡訪ねます(PM12:05)。光明寺合戦で知られる【観応の擾乱(じょうらん)】で 足利尊氏と戦った弟・直義方の将・石塔頼房が此処に布陣したところです。本陣跡に最近まで有ったケバケバしい記念撮影用のパネルは無く矢盾や竹矢来のセッティングだけの方が雰囲気が良い。何時もの参詣のつもりで本堂まで来てしまい、見過した見張台跡「展望台」へ本堂下の高倉コースを引き返します(PM12:15)。
境内の石造り木の根地蔵!!?

木製の展望台からは中国自動車道や、県下最大規模の播磨中央公園を 正面にして平野を一望出来、明石大橋や小野アルプス・善防山や近くには鎌倉山・深山等低山が 畝々と並んでいます。遠くの山の同定は山々の重なりで私にはよく分かりません。しかし北方の鉄塔の近くに岩を抱くピークは印象的です。高倉尾根の滝野町側最高峰の329ピークだが、この奥には播丹眺望の素晴らしい角尾山が控えています。 「高倉・奥の谷コース」を 辿って根本本堂脇を抜けて良く踏まれた快適な ハイキング道は光明寺地区から高倉越えで 光明寺に至る裏参道ですが、光明寺合戦では本陣に至る本道(大手筋)となったのかも…。6〜7分で三角点への分岐で「五峰山国有林」を示す木柱が倒れています(PM12:25)。立木に立てかけて左折しますが水の溜まった平坦地があり土砂に隠れるように 処々に石積みが見えます。
光明寺:展望台は見張台跡!!?

かつての院坊の跡なのでしょうか。途中南の明るい尾根からの道は 中央公園からの登山道のようですが右折して雑木の道に入ると五峰山山頂 (扇山2等三角点 258m PM12:30)ですが 雑木の中で展望無く元の高倉越えコースに戻ります(PM12:35)。高倉越えは右下へ光明寺地区・左の広い下降道は高倉への奥の谷コースを分けます(PM12:40)。正面の尾根は僅かの登りで末端ピークに出ると後は雑木も低く、何よりも乾いた露岩の多いなだらかな 展望の良い人気の!!高倉尾根となります。急斜面にはロープがセットされていて「光明寺地区へ」の標識のある送電播磨線に沿った引尾山への尾根分岐に着く(PM13:05)、
高倉コースから五峰山への分岐

此処までズット気になっていた鉄塔近くの岩のピーク329mは直ぐこの先です。山道はこのピークを東に捲いて先に延びています。取りあえず藪のピークに這い上がってみる。西側の崖下に鉄塔がありピークの北面の岩棚から 直ぐ前方に大岩を山頂付近に乗せる外れ峰・角尾山が起立して見えます。整備された登山道が続き遠望していた岩場の間を抜ける急斜な場所にはロープがセットされています。此処の西面の岩場も展望・休憩に良いが山頂まではも少し。山城の主郭を思わせるような石積みの上に出ると 360度さえぎる物無い素晴らしい眺望のピーク角尾山(3等三角点 344m PM13:25)です。登山道は此処までで先に八坂町や上王子町への下降点は見当たりません。

角尾山頂から原山?〜矢筈山 H16.7.3

引尾山への尾根コース分岐からは外れて不遇のようですが此処だけを目指して来ても遜色も無い素晴らしい山です。播磨・丹波・北攝三田や六甲 ・丹生山系と余すところなき眺望絶佳の展望台です。大岩が山頂を埋め尽くすように露出しています。登山記念の記帳ノート箱が設置されているが記帳者の少なさは訪れる者も少ない隠れ名山…。下方には西へ真っ直ぐ延びる野間川が臨まれその先は篠ヶ峰 ・笠形山・千ヶ峰・妙見山・七種・明神や高御位山、眼を転じれば西光寺山・虚空蔵山・三岳へと… 展望台から見えていた山も全て此処からは見渡せます。立ち去り難い思いだが送電播磨線の尾根道へ引返し(PM13:55)山道の脇にある引尾山(4等三角点279m PM4:08)を通ります。
角尾山城南端の岩場上から水尾城(中央奥)遠望

角尾山が上王子町側から一気にせり上がっている外れ峰の山容を見せる他は展望もありません。 此処は光明寺合戦では尊氏が陣をしいていた山です。鉄塔No150下の草地で少し腰を落します(PM14:18)。東面に西脇市街地が拡がり白山〜妙見山・杉原山・金城山・三草山を望みます。巡視路は八王子池堰提へ出てくる(PM14:28)。 寛文6年(1666)に造営された旨の記念碑が建っています。フエンスで囲まれていますので末端から抜けて光明寺集落から県道沿いに滝野駅前を経て金剛池の駐車場に戻ってきました。


W西林寺(島村城)〜坂本城
  H16.06.12

朝のうち少し降っていたが 梅雨の晴れ間・その間隙を縫って僅かの自由時間を利用して加古川の本流に沿って R175号を南下して西脇市に向います。西脇市境界手前・黒田庄の津万井の畑瀬で一寸寄り道してみる。津万井堰と 畑 瀬の渡しはアジサイ寺として知られる西林寺にある顕彰碑に関係するので先ず訪ねておきます。津万井堰の西端で西脇市に入って直ぐ” アジサイ園・西林寺”の標識を見て右折”道の駅・北はりまエコミュージアム”からは鉄塔を乗せる城ヶ辻(坂本城)が見えてきます。
城ヶ辻(坂本城)遠望

訪ねるにはやはり此の時期の花の寺・西林寺は”唐子ツバキ”でも有名な法道仙人開基の古刹ですが、今の私にとっては西脇市の小さな山城を訪ねて一刻の散歩休息?です。 西林寺境内周辺が島村城と云われるが、おそらく 花を訪ねる訪問者に城址の意識は皆無でしょうね。寺の由緒案内は有りますが此処が島村城址である事の説明は無く、参道脇の二基の五輪塔に「島村城・・」の文字が確認出来るだけです。其れよりも手持ち資料の城リストにも載っていない山城が寺も背山に有り、しかも一般ハイキング道が通じています。
城ヶ辻本郭北(二ノ丸?)から西脇公園と津万井荘(黒田庄町方面)

鳴尾山山塊と同じ極小さな山塊ですので気儘に縦走なり、いろんなコースで散策出来ますので 案内不要・コース概要のみに止めておきます。小公園端に教育委員会の説明板もあり、単郭の城ですが石積みも残る様なので此れは避けては通れません。小一時間で周回できる 展望良好の軽ハイキングコースは”アジサイ園”から西林寺境内を散策して本堂・庚申堂を周回する四国八十八ヶ所 ミニ霊場コース(いざないの森)入口から「いざないの路」の急な木の階段がズッと続く山道を高圧線鉄塔のある 稜線上のピークに出ます。
”ささやきの路”南尾根

低い丘陵ですが急な登りだけに展望が拡がってくるのも早く雨上がりの靄も晴れ比較的遠望が得られます。鳴尾山の小さな山塊が西に立ち北に中町・妙見山と篠ヶ峰から 白山〜妙見山・金城山・比延山・西光寺山や数曽寺の山塊へと低山から望む低山の展望を楽しめますが、腰を落としてゆっくり寛ぎながらの展望は城ヶ辻のピーク北の露岩混じりの削平地ですね。次の鉄塔が立つ峰の山頂部が城ヶ辻で坂本城(砦)の主郭部があるところです。城ヶ辻の送電線鉄塔下で東の西脇公園へ降るコースを右に見て、登り切った所が城ヶ辻 (点名:竹ヶ谷・3等三角点 261m)で、
西林寺参道(山門前)


東屋休憩所が建てられています。 山頂から東へ一段下に削平段があり、荒れた砂地の斜面を降る緩斜面からも展望絶佳の見晴らしの良い尾根筋を、下方に見える林道に向って降りるだけ。南端に建てられていて虎口の側でも有り、土留めの石垣一部や土塁が均されて 破壊されたかも・・(^^;
しかし坂本城(砦)は尾根上に堀切跡や空堀・竪堀等の防備施設を見ませんので、土塁も始めから無かったのかも知れません。 東屋側の東に虎口があり下方には西脇公園へ降る”ささやきの路”が見えます。その道の先・枝尾根の先端部が西林寺を真下に見る位置に有る台地で、いかにも物見台があったのでは…居館と平城のあった島村城の”詰の城”ではなかったかとの 想いが払拭出来ないまま山城を後に、とてもささやきながら降ることなどできそうもない急坂の”ささやきの路”を降ります。降りきって飛び出した林道が露岩の展望広場(削平地)から見えていた、坂本と日野を結ぶ約2kmの”ふるさと林道”で、 西脇公園を西林寺へ戻ってきます。城の歴史に付いてはまったく資料が希薄な二つの城の関係について、遺構や位置関連を調べ直す必要が…(^^ヾ


X高田井町〜矢筈山(矢筈山城)3等 363m  H16.07.03  一本松ルート 追加 H2809

JR175畑瀬(黒田庄町)の交差点を右折し峠越えで西方のR427に出て南下し播磨成田山近くのスーパーに寄り妻を下ろして買い物ついでの時間見合いで”西正面に見える山に登ってくる”と高田井町の交差点を右折、 山手の山麓に点在する新興住宅地に向う車道に入ったら 直ぐにカーブしながらR175と並行するように北に戻り始める。しかし真西に矢筈山が見え山裾の端に
主郭下部の 曲輪に建つ行者大菩薩の幟と祠


新装のウッデイ・ハウス(喫茶店?)があり送電線鉄塔も見えるので此処から取り付こうと車道から見える松岡稲荷社の横に駐車して歩き始めた。神社裏手の貯水池東端を廻り込む関電巡視路道に入り、 谷に沿って進むがシダが足場を隠し藪と倒木が進路を塞いでくる。【この後:2008年「矢筈の森公園」として整備された広い散策コースがあり 巡視路標識のある直進コース避けて 左の谷寄りに稜線に至る展望尾根コースが出来ており、
矢筈山上:祠のある西峰の主郭櫓台状は本ノ丸!!


途中に”どんぐりコース”等の散策道が分かれるが快適に山上の社に至る。なを登山口を入ったすぐ近くの祠(竜神さんの宮)と山の神(散策道からもバリヤフリーの参道がある)間には、附近の藪・潅木類が伐採されたようで、宮滝と名称された細い滝水の流れをみる】踏み跡も怪しくなってきたが方向が違う様なので思い切って谷の入口近くまで 引き返し送電線鉄塔に向った。
登山口近く:宮滝と山の神(右手)谷筋の奥

送電線は尾根に向わず 山裾を西林寺の城ヶ辻の方へ延びていくようです。山道は此処で突然行き止まりだが先程のウッデイ・ハウス背後から山仕事のピンクテープ沿いに尾根へ続く踏み跡を追って見ます。尾根も緩やかになって頭上に矢筈山の姿が見えるが 相当の急勾配が続きそうです…踏み跡も消えそうだが山腹東側を平行に捲くように延びているようです。 山頂に向う激登りの斜面には 其れらしい踏み跡も無く、適当な位置に有る木の根、木の枝を手懸かり足懸かりにしてのクライミングで高みに向い、露岩の下を捲き上がると瓦の破片が落ちている。
矢筈山の祠直ぐ手前下部に注連縄付き!!”愛の石”が…

何と…赤い幟に「行者大菩薩」の文字と祠が見える。矢筈・二つの峰の南郭で直ぐ上部に祀られる ”矢筈日ノ大神” の社殿の建つ位置が矢筈山城の主郭と思え、北の尾根を一本の堀切だけで防備された最高所が北郭部なのでしょう。祠・社の建つ主郭部からは 西脇市街地 眼下にしての展望が素晴らしい。 北東の丹波境界に見える妙見山や門柳山・西光寺山に三角点山、東から南側には・正面に童子山の丘陵が 市街地の中に小島のように見える。金城山や遠くに三草山、そして独立小山塊の鳴尾山へと拡がるパノラマを一人楽しめます。
矢筈山三角点(北郭)の主曲輪と帯曲輪(左下方)

市街地の直ぐ近くに有りながら、 余り知られない山だが展望の良い事は此処が城山でもあり、其の位置する状況からも窺えます。市街地にあり交通の便良く・展望良く・矢筈城址という史跡があり三拍子揃っていながら、登山ルートは定かでなく矢筈城についてさえも殆ど知られていない不遇の山です。 2004年現在)弓の弦(つる)をかける部分(矢筈)に似ているところから名付けられた様に、 二つの峰は周囲の低山を睥睨して堂々の山容です。社か行者堂横から北への稜上に曲輪を置いて、細長い自然地形に近い北郭部には矢筈山(3等三角点 363m)の標柱が埋まる。
矢筈城主郭(南郭)の祠”矢筈日ノ大神”


堀切を越えて更に北への稜線歩きも市原森林公園へ繋げれば良さそうだが、2時間程度の約束で急いで登ってきたのに、 ルートの無い藪漕ぎと暑さと帰路の状況も分からないので詮索しないで引き返します。主郭の”矢筈日ノ大神”社殿からの西尾根筋は直ぐ下部の二ヶ所に土塁の残欠を観る。低い鞍部状の緩やかに尾根道になると切岸は曖昧だが3〜4段の曲輪や間に土塁と埋もれかけた堀切を見て、中央主郭を護る西郭部の様。最も此処から先・南へ向かうには激下降ルート。急斜面はやがて急に踏み跡程度となり 尾根筋の少し西を捲く様になり何時かシダと雑木の藪となり道を見失った。
矢筈山頂(南郭)祠前からの眺望

山上に社を祀り幟や飾りが 其れほど古くは無さそうで、この西ルートも参道かと思ったのが誤り!!。参道が判らなくなるほど荒れているとも思えず藪道で早々に道を誤ったようで、真南に向う尾根を谷町の最奥部付近へ降りてきた様?です。 予定だとSTART地点と左程も違わない近くへ降りてくる予定だったが、スッカリ目標を誤り大迂回コースになったようですが、稜線の反対側へ降りなかっただけでも幸いかも!!?。山頂と同じ「行者大菩薩」の 赤い幟と本郭に建つ”矢筈日ノ大神”の扁額が 居に掛かるが、 弁財天の幟が並んでいたり”伏見稲荷!!?本庁西脇支部”看板が鳥居正面奥に掲げてあったりで、何とも賑々しい神社のようだが静かに周囲の翠を映した池傍との対象が不思議な調和を感じさせます。
矢筈神藝喜奉務本庁!?から矢筈山遠望


山頂の神が此処に祀られているので、此処から正規の参道が延びているのか?そのルートは不詳だが、 矢筈山を背にして建つ”陸の入江”の様な谷町の奥の台地に居館が在り大手道が通じていたのでは思えたが? どうなんでしょう。
一本松ルート追加 H28.09
矢筈山上に愛宕神社:秋葉神社を祀る矢筈山西峰(矢筈山城主郭)から矢筈山城西角341mまでは上記にレポート済なので此れより南への激下降ルートです。(矢筈の森公園として整備された2008年頃新ルート?として フイックスロープ付き登山道に改修されたものか)鞍部まで下れば山道が谷町側にある。 樹林帯の中で蜘蛛の巣に悩まされ展望もないコースだが関電:加美町線No19鉄塔を過ぎた附近で少し展望が望め、ベンチもある小広いピークもあるが蜘蛛の巣を払いながらの潅木混じりの樹林の尾根筋を峠に降り立った。
一本松峠

峠から登り返した尾根筋最南端の次のピークが一本松だとばかり思っていたのだが、 此の峠が緑風台-谷町間を繋ぐ一本松峠。縦走尾根筋は峠の次のロープ付き急斜面を登りきった 最後のピークが南東方に展望が効く最南端!!。加西方面に向かう際に通る高校側の大池が、急斜面下部にはコース終端の緑風台(緑風台古窯陶芸館)がある。
高田井町側登山口近くの宮滝

一本松の峠に引返し谷町側へ下る。送電線沿いに今辿ってきた尾根に取り付けるが、林道を谷町側へ下ると、 比較的緩斜面を矢筈山頂にむかう”どんぐりロード”と「ふれあいロード」の分岐点があり、ふれあいロードを採って往時に矢筈山頂に向かった峠を経由してスタート地点の高田井町側登山口に戻る。


柏谷山西林寺と”あじさい羅漢”

アジサイ寺の名で知られ”唐子椿”で有名な柏谷山西林寺(真言宗 播磨西国33ヶ所霊場第20番 )は孝徳天皇の白雉2年(651)法道仙人開創を伝え平安時代中期に天台宗の僧・源信(恵心僧都942-1017)により中興された古刹で桜 ・モミジと四季折々に訪れる人々の心を 和ませてくれる花の寺。藤原時代中期858-1067頃の作とされる十一面観世音菩薩立像 (県重要文化財指定 )を本尊として祀られ古来東向観音霊場として知られています。歌舞伎や浄瑠璃の題材で知られる 石童丸の父で筑前守護職の
あじさい寺・西林寺

加藤左衛門尉重(繁)氏が京都参勤の際に祈願寺としたともいわれ其の後・寛文5年(1665)姫路慶雲寺を中興開山の南室和尚により播磨西国第20番霊場として撰定され、ご詠歌に”山川に心を澄ます西林寺後の世かけて頼む賀屋谷(南室和<尚)”と謳われ、江戸時代には1院13坊を持ち寺領二五石一斗を領したとされる。境内に高浜虚子・阿波野青敏・富田砕花等の句碑や歌碑が建てられている。 本堂にへの参道西のあじさい園側にはユーモラス/奇抜/微笑ましい…等、様々な自作の石像羅漢が並んでいます。
西林寺背後の丘陵ピーク:城ヶ辻(坂本城)

”羅漢さん”は煩悩を滅する為に修行されている方、またはお釈迦様の教えを伝える修業者で、その姿は最も人間的であり個性的の表現されています。此処に納められ?あじさい羅漢?と名付けられた羅漢像は 上手下手に囚われることなく、自由奔放に彫られる事で ・より作者の彫像への 思いや願いが伝わってきます。

(現地 西林寺案内・説明板 参照)
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石童丸
【苅萱…】として浄瑠璃や歌舞伎の演目で知られるが 長野・善光寺の西光寺では参詣者に仏の道を教える「絵解き(絵で説明する)」として此の話が語られます。 岩尾城には蛇の子を産んだ人妻の話があるが、その猟奇伝説に”傾城・阿波の鳴門”の「おつる」が石童丸に代わったような話が加わります。太宰府の苅萱関の関守・加藤左衛門尉重(繁)氏は母と愛人を同居させ生活していたが、
あじさい羅漢

ある日・仲良く碁を打つ風に見えた母と 愛人の障子に映る姿を不図見ると醜い蛇となって争う影に重(繁)氏は其の非を悔い妻子を捨てゝ出家し苅萱道心として、 よく戒律を守り女人禁制の高野山に入り修行に励みます。行方不明となった父を追い風の便りに 聞いた高野へ母と共に行くが、女人禁制の為母をおいて石堂丸は一人父に会いにいく。
あじさい羅漢

「おまえの父上は亡くなられた」と教えてくれたのが苅萱道心で我子と知りながら名乗らず、里に残っていた母も心労と旅の疲れであの世へ旅立ち、 天涯孤独になった石堂丸は刈萱上人を尋ねて出家することに。不憫さに弟子入りを許可して修行に励む2人に本当の親子のようだと噂され、道心は石堂丸に悟られることを恐れて、善光寺聖のお告げありと信濃に向かい往生寺に草庵を結び其処で大往生を遂げます。 苅萱上人が亡くなった事を聞き善光寺に来た石堂丸は、西光寺で大往生を遂げます。

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津万井堰の恩人・笹倉忠左衛門

”あじさい羅漢”の前に背の高い宝篋印塔を見つけ近寄ってみます。播州平野の文化や経済に重要な役割を果たしてきた加古川も、度重なる洪水との苦闘の歴史を秘めています。津万井堰は黒田庄町の畑瀬橋の直ぐ下流に有り(下記の畑瀬の渡しを参照してください)その治水開発事業に携わった郷土の恩人 ・忠左衛門の顕彰碑があります。
西林寺本堂への参道

昔から津万郷七ヶ村灌漑用水の解決は永年の課題でした。 当初は丹波川(加古川)の津万井で岩と大石に太い胴木を渡し枠柱を立てかけ藤蔓で縛り石と土嚢で川を堰き止めることが最大の仕組みでした。 しかし元禄・享保 ・天明と相続く洪水の欠壊による井堰の修復工事に郷民達は困窮し、更に文政には三度もの井堰欠壊に直面し天領を預かる代表・寺内村庄屋の笹倉忠左衛門は、何としても丹波川の本流を治めようと各地を見聞の末、 恒常的安全を図る為に亀甲式の石組による井堰に改築する事を決意します。
笹倉忠左衛門の顕彰碑

此れにより洪水で上層部の土俵等が流失しても基礎が残るので直ぐに復旧工事が可能となります。それは長さ150m・巾5.5m・高さ1.5m・・延人数6,000人の大工事で、完成に要する莫大な費用や資材の調達に忠左衛門は必死の覚悟で、 時の代官所一ツ橋藩・忍藩・尼崎藩の助成を求め文政15年(1832)秋に工事を完成させました。当時藩領を異にする郷民の一致団結に心を砕いた忠左衛門や各村代表者達の津万郷発展の基礎を築いた遺徳を偲び且つ、その霊を慰める為此処・ 柏谷山西林寺に供養塔が建立されています。
現地 西林寺境内・西脇市観光協会説明板 参照)
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畑瀬の渡し(黒田庄町)


加古川を介して育まれた生活と文化は又、治水との戦いの歴史だった事は上記の津万井堰の灌漑工事の苦労で分かります。そして加古川上流(旧佐治川)からは交通・物資輸送手段として、また此処・黒田庄町だけでも 4ヶ所の渡し場がありました【山南町から黒田庄に向って「船町の渡し(JR船町)西」・「西沢の渡し(JR本黒田)南」・「大伏の渡し (JR本黒田とJR黒田庄)中央」・「畑瀬の渡し(JR黒田庄) 西」☆☆此のうち”西沢の渡し”は明治40年頃、小学生の通学用に設けられたもの】
畑瀬橋(最奥)と津万井堰

その渡し舟製造に丹波・山南町和田の梶氏の名がある。山南町梶地区入口の旧佐治川(加古川)に架かる橋が船戸橋。梶は舵に繋がり、河川交通の船着場とともに、船大工集団がいたのでしょうか?。 梶は舵にも繋がりますネ!!。川幅は現在の半分程だったといわれます。畑瀬の渡しは明治45年畑瀬橋(自転車が行き交える程度の木橋)の完成で廃止されたが、毎年のように川は氾濫し度々、洪水で落橋し都度復活したそうです。 右岸の乗り場は写真右端付近にあったが桟橋は設けていなかったようです。昭和10年現在の橋の完成で廃止されています。
(現地 多可郡誌 瀧原努氏の東播磨研究のよる案内板 参照)


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童子山公園〜実相寺・八十八所霊場道〜寺山〜観音寺 2009年02月01日

西脇病院側の背後に迫る丘陵:標高僅か210mの小さな独立丘陵で、綺麗な山容を見せて八日山が立つ。その西裾を市街地に落として再び盛り上がる。童子山公園の総合市民センター側の北側背山が、馬蹄形に二方行に南へ延び出す尾根沿いの周回出来そうな尾根筋も散策・展望共に良さそうです。
実相寺霊園:童子山公園から緑風台・光明寺山方面

南先端に尾根を分ける二つの尾根先は西に実相寺・東には二つの尾根に囲まれた短い谷間に観音寺があり、 共に山裾から丘陵の尾根筋が判る上方まで、 南斜面を墓所とした寺の背山最高所は地図上からも、現地にも山名標記は無いが寺山とよばれているようです。登山・下山共に墓地内を通るコースになるとおもうが、尾根筋に入れば後は藪山の寺山イメージとは”うらはら”に、其々の墓地最 高所を繋いで?の尾根上は岩床が続き、馬蹄形に南面の尾根筋を歩く限りにおいては、 西脇市街地よ其の外周を包み込む周辺の山々の展望を眺望しつつ明るく開けた快適な散歩道です。
実相寺霊場を抜け出た 岩盤上から望む八日山

下山後は図書館と文化センター資料館へも寄りたいので、出発は童子山公園の図書館側から出発。駐車場からも山腹に立つ墓地や、赤い幡が最上部分に並ぶ観音霊場石仏群が見える摩尼山実相寺 (真言宗)の山門と墓地への入口はR427号に戻って直ぐのところ。墓地内を直上してもよいが、用も無く他所の墓地内を通るのに、道が無ければし方ないが、 西端に小堂に登る緑色の手擦りの付いた急な石段道があり、其処から八十八ヶ所観音霊場参道コースが延びています。
寺山山頂から八日山、比延山・西光寺山方面

遠めには採石場かと思えた一枚岩が覆う山肌が霊場道の先にある。観音霊場は此の岩場の直前に石燈篭を置く小社や不動明王石像が立ち登山道は 岩場を避け北に向う。採石場と見えた尾根末端部の東岩盤先には、 谷を隔てて独立峰の八日山が見える。其処から先は・荒れた砂利道から岩稜帯へと快適な尾根歩きの登山道。西面には杉原川沿いに並ぶ大型店舗 ・山裾に播州成田山の堂宇を見て矢筈山・南へ目を移せば角尾山 ・光明寺山山塊の 間を野間川が流れ八日山山頂付近からも望む・愛宕山と鳴尾山スカイライン(八日山の画像 を御覧下さい)ですが西方僅か約800m程離れただけで逆さ富士の様相はスッカリ消えてしまう。
寺山から東尾根の 広い岩盤を観音寺に降る

寺山最高所からは二つの山塊が山裾の空間を広く分けて加古川の悠々たる流れが東播磨の木戸を開いて南へ流れ出ていきます。尾根筋も傾斜も緩やかに進路は東へ移ると関電の「火の用心」標識が壊され ?一部破片だけが残るた標柱の立つ巡視路の三叉路に着く。登山が主目的なら直進直ぐ(約30m程)に位置する 寺山最高所(Ca230m)を往復して三叉路に戻り、道標の示す西林寺方面へと北方へ進む事になるのでしょう。急に展望も無くなる尾根筋を降り、再び展望コースが期待出来る
来住家住宅の煉瓦造り水槽と防火壁

268m峰-西林寺山〜城の辻(点名:竹の谷:坂本城)へと続く。寺山までは迷う事も無い・此処しか通れる道のない一本道なのに、手拭い程の大きな白布やテープ類は不要・登山者のものなら興醒めだ。最近登山だけを目的の山歩きは少なくなったが、撤去したい衝動を覚える。ただ今日は此処から直ぐ先の寺山を下り観音寺(臨済宗)へ寄るのが寧ろ主目的です。以前ホームページにアップした小野市 来住城の其の後 (三木合戦で廃城となって以後)の来住氏の事が気懸かりで、此の観音寺へ立寄るついでの山歩きです。268m峰の東裾野にある大野古墳も後日寄ってみたいので尾根縦走コース上の一ピーク寺山を、八日山と同様に単独のページとしました。
西脇小学校の木造校舎

テレビ共同受信用アンテナが幾本を立てられていた支柱だろうか?骨組みだけを残し錆びて一部外れた設備が立つ寺山山頂からは、愛宕山・高松山・西光寺山から尖山・白髪岳へと 尾根筋を追ってみる。 眼下に独立小山塊の八日山と真下には昭和12年(1937)建替えられた三棟の2階建て 木造校舎が並ぶ西脇小学校が在る。平成元年の大改修工事時にも、木造校舎の良さが其のまま引き継がれて戦前の雰囲気が残り、野坂昭如氏の小説アニメ化で知られる映画「火垂るの墓」が昨年(平成20年実写版のロケに使用されたばかり。
播州織の機織の音が聞こえてくる様なシチュエーション!!

30数年間・西宮市内安井地区に住み満池谷〜夙川堤〜浜の回生病院まで、 小説の舞台背景を知り、阪神大震災での瓦礫の市内や 遺体が収容されてくる体育館にいて、恐怖感は薄れ・虚しさ・寂しさ・悲しさだけがつのる。 主人公ならずとも代わってやりたい感情を持つ人は多かったはず。ハッピー・エンドに終らないことも、現実味を帯びて共感出来る作品ですが此の実写版は見ていない。
童子山南麓:民家の落着いた佇まいや横尾忠則画材のY字路がある

4〜5年前にはあった西脇市内の映画館も今は其の場所に無い!!。歴史的な街並みを守るために兵庫県の景観条例に基づく景観形成重要建造物に指定された西脇小学校の校舎で、近在では市内に 旧来住家住宅(西脇商業銀行を起こした来住梅吉邸)や小野市立好古館が選ばれています。
童子山南麓:民家の落着いた佇まいや横尾忠則画材のY字路がある

寺山からの下降も露岩帯・幅広い尾根上一面を覆う一枚岩は、其の開放感と市街地を一望出来る展望ポイント。休憩も眺望もしないで降る人はいないでしょうね…?。降ればそのまま西来山観音寺 (臨済宗)の霊園に入り、降りきった所が観音寺本堂への参道。此処も40m程・西脇保育園前を通ってR427号線に出る。


緑風台古窯陶芸館  西脇市野村町字緑風台1813‐11

R175号線から西脇市街地・野村交差点を西にとって、県道34号線で八千代・加西志方面に向う。直ぐJR西脇市駅(支線の多かった加古川線ですが、平成年代に入ってすぐ廃線になってしまった 「鍛冶屋線」野村駅の名が懐かしいところ・終点で福知山線接続の谷川駅までよく利用したが、 いつも此の野村駅(現在:西脇市駅)で乗り換えの為・長い時間待たされた。
古窯陶芸館


今も矢張り此処で乗り継ぎ・乗換のため待たされることに変りはないが、西脇市駅から西方約1.7km程 ・一地方に在っては・瀟洒な宅地が丘陵の起伏の中に並ぶ一帯には新興住宅地が拡がっています。住宅地内の路地の奥に2台程の狭い駐車場がある。 その背後・山の傾斜を利用した?ドーム状と球体面を分解して伸ばした様な?ユニークな建造物は人目を惹く。
2号窯

上方から見ると前方後円墳を形容しているよう?だ此のドーム内には緑風台の宅地造成工事中に発見(昭和55年発掘調査)された12世紀末(平安時代)の古窯跡と出土遺物が県文化財指定を受け、昭和57年「西脇市立緑風台古窯陶芸館」としてオーブン。史跡公園と共に1号窯は調査後 ・位置を表示して公園内に埋め戻され2号窯は発掘状態のまま(平安末期の”あな窯”)と、館内で発掘された陶器等出土遺物を保存展示されています。古窯は焔の廻りをよくする為に工夫された分焔柱を備えた地下式の窯。
2号窯と窯内の分焔柱


遠目にも特異な建造物:古窯陶芸館を目指すのに、住宅地内を車で行くには判り難いかも?。県道34号線を「茜が丘」交差点で右折。直進すると大池前の車道に出て右折すると緑風台。左手に現われる案内標識に従えば行き着けるのですが・・!!。三田市には三田青磁の「三輪明神窯跡」が丹波市三ッ塚史跡公園の天神窯(白鳳時代の瓦等・土器)其々に発掘現場に状況保存展示されています。
(現地:古窯陶芸館内の史跡案内 参照)



 島村城 坂本城 矢筈山城 滝野城(光明寺城) 角尾山城

島村城
  Ca70m  西脇市津万町坂本

野球少年の声が響く西脇公園の隣には法道仙人開創 ・平安中期に源信(恵心僧都942-1017)により中興されたる古刹”あじさい寺・西林寺”があります。この境内一帯が島村城址といわれます。 西林寺の山門(仁王門)を潜り、本堂に向って真っ直ぐ延びる谷間の参道を進むと、嘗ての神社や寺跡と思える広い削平地は在るのですが …城の遺構探しは難しい。
島村城を示す唯一の島村氏一族の供養塔

山門の南側にアジサイ園が拡がっているが東面の車道からは1〜2段上層に有り、園内も幾つかの削平された段差が有りますが南端の霊園との境にある 2m程の高まりが構居の土塁?参道を詰めた奥の本堂を周回する四国八十八ヶ所ミニ霊場コース”いざないの森”の上部一帯に散在する削平地が城址なのでしょうか?
アジサイ園南端の構居の土塁!!(霊園との境は水堀跡?)

地形の判断だけで 防備設備の遺構に乏しい城だが、此処が”詰め城”だったのかもしれません。此処から更に本堂の南上を背山に向うハイキング道が有り城ヶ辻の峰に辿り着きます。此処に坂本城が有り普通に考えれば ?島村氏の”詰め城”と思いたいところですが同じ単郭の鳴尾城より小さく・狭く、 しかも堀切や土塁等の防備を持たない物見の砦だったようです。
本堂裏手に廻ると散在する削平地 (寺社跡か!!)

島村氏が 北方の這田荘や富田荘の荘園を支配し監視する勢力を持っていたかは、在田(有田)氏程にも解っていませんが坂本城を詰城と考えるには無理があるようですネ!!。西光寺の本堂へ向う参道の 右手側に十三重石塔が建ち整然と墓石と五輪塔が四基並んでいます。「島村城築城時犠人一族之碑」「島村城歴代家士之碑」「島村歴代城主一族之碑」の刻銘だけが 島村城は此処に有りを示しています。

本堂周回のミニ霊場コース上部に残る削平地(寺社跡か!)


島村城の築城時期や城史については不詳ですが、播磨との国境にある備前の三石城主・浦上村宗の家臣で大永年間(1521-28)武功により島(嶋)村弾正左衛門尉貴則が築城したとされるが貴則は播磨・野里の合戦に於いて浦上氏に就き赤松氏と戦って 討死したといわれます。永禄年間に在城した城主島村弾正盛実は置塩城主の赤松義祐に従ったが、羽柴秀吉による”天正の役”に赤松氏とともに滅んだとされます。


坂本城(竹ノ谷城)  城ヶ辻 261m   西脇市津万町坂本字竹ノ谷

坂本城への登城ルートは山行レポート Wを参照願います。R175から”道の駅・北はりまエコミュージアム”へ向う 分岐を過ぎた辺り西方の丘陵上に鉄塔を乗せる二つの峰が見えてきます。この峰を廻るハイキングコースがあって西林寺を起点に周回出来る。先ずは麓に向います。此の西林寺一帯が 島村城だといわれます。その背後にたつ高圧鉄塔のある丘陵へは登山道が通じて、北方の峰”城ヶ辻”と呼ばれる坂本城址の
主郭南口の石積み

主郭(点名:竹ヶ谷・3等三角点 261m 比高約190m)に登り着きます。東屋の休憩所が有り西脇市街地から多可郡中区側へと好展望が拡がります。低山ながら急登の比高約190mは登山の心算 (つもり)で取り掛からないと!!。山麓の西林寺にある島村城の「詰め城」かとも思えた坂本城ですが、城というより物見の砦なのかも…!?。単に訪城だけの 心算だと辛いものがあるでしょうネ。 高圧鉄塔横の階段を登り最後の 3〜4段で城ヶ辻の主曲輪(南北30m・幅は東西14m)に入り東屋休憩所が建つ。
主郭南東(休憩所)東側の虎口


主郭に登る南端に数段:土留めの石積みが見えます。石積みは更に右手へと東屋の展望所を囲むように続いているようですが雑木藪。這って入ろうにも棘木の多い潅木・雑木の堅固な防御に撃退されます。 単郭の主曲輪を左手 (西側)へは下方の鉄塔にかけてガレ状の急斜面、右手(東側)は休憩所の東屋(主郭)の下を 同様の高さ(2m弱)の石積を残す切岸で囲んでいるようです。傾斜も垂直に近いので石積みが施されているのでしょうが雑木藪 の中にはゴミも目立ちます。城遺構についての専門知識はないので検証出来ず、南山麓にある坂本城の縄張図付き 案内板説明を参考に東屋休憩所の東側を見ると、 斜上して此処に到達する虎口が開き、虎口受部を石積で補強しているようです。
主郭南東(休憩所)東側の虎口

下方に西脇公園へ降るハイキング道が見え、虎口にいたる道は主郭下を捲くように北側の藪に消えるものと、登山道へ真っ直ぐ降る道があるようです。登山道から直接虎口へは朽ちた杭が残る階段道で、現在の整備された道が出来るまでは、 此れが利用されていたのでしょうか?…とすると此の虎口の現状も全てが信用出来るものではないのかも知れません?。それとも東先端へ延びる尾根先にも 曲輪があっての連絡道だったか?(いずれにしても虎口なんでしょう!!)。主曲輪から北に移動するともう一段、緩やかな段差となって露岩と砂地の平坦地に出ます。
主郭南東(休憩所)東側の虎口

此処からも眺望絶佳・素晴らしい展望が拡がり、北へこのまま降ると「ふるさと林道(坂本日野線)」へ降るだけ。南北の尾根上には鞍部に堀切や空堀・竪堀・土塁等の 常套の防備設備が見当たりません。此れが”詰城”なら篭城はおろか・満足な防戦も出来ず落城の悲惨な結果が見えるだけ…其の多くの城砦群が直接 ・戦闘の舞台となって 使用された例は少ないようですね?。坂本城の築城時期や城主については不詳ですが、室町時代初頭には既に物見台として使用されていた模様で、在田氏支配以前には在地土豪の津万満京が関係した城だったと考えられています。
西林寺本堂への山道と島村城主一族供養塔側の十三重石塔

黒田庄町に這田荘津万郷と、西脇市街地を中町へ抜ける西側の富田荘にまたがる両荘園を支配下においたのは北播磨に大きく覇権を拡げていた在田(有田)氏であり、在田氏が領地境を監視する”境目の城”であった可能性が高いと考えられています。折れを伴う虎口の構造状況からは戦国期に在田氏によって改修された形跡が窺われます。
(現地 西林寺境内の坂本城案内板 1994年 西脇市教育委員会 参照)


矢筈山城   矢筈山 363m   西脇市高田井(こうだい)町字北畑

登城ルートは登山レポートXを参照下さい・但し2004年の記録です。2008年に「矢筈の森公園」として周辺は整備されて、西脇市民の毎月登山が実施されており、矢筈山頂へは以前の様な苦闘が嘘の様な快適散策ルートと峠から直登の登山ルートが出来ています。杉原川とR427号が走る西脇市街地を眼下に丹波・播磨境界の妙見山や門柳山(天徳山)・西光寺山から、
矢筈山城西郭から主郭(右)と北郭(左:三角点峰)

市民センタのある童子山の丘陵や金城山・遠くに三草山 や独立山塊の鳴尾山等を望む絶好の展望地が矢筈山の三つの峰の中央にある。これ等三つの峰(およそ250m範囲を城域として)に 曲輪を置く矢筈山城があった所です。”矢筈日ノ大神”を祀る社殿が建つ中央の峰・南郭(358m)が主郭で、南一段下には東端に岩場を持つ曲輪があり”行者大菩薩”の幟の立つ祠がある。山上の愛宕・秋葉神社の横から西峰への尾根へは2ヶ所ばかりの土塁の残欠を見せる数段の小曲輪群を経て、
主郭〜西郭間の堀切・土塁


比較的緩やかな尾根上の小さな起伏が50m程続く間にも、幅は狭く低い段差の土塁・曲輪と切岸 ?側には埋もれ浅くなった堀切跡を見る。細くなった尾根筋の先に自然地形に近い 10x8m程の西郭(341m)平坦地がある。古風な単郭の曲輪を載せる南北朝期に構築された城遺構なのでしょう?が中世期にも見張台の出曲輪として、また西方や北方にある諸城への狼煙台ともなったのでしょうか?。祠を祀る中央郭(主郭)と三角点峰の北郭は、縄張りの特徴からも南北朝期に築かれた山城を 中世戦国時代にかけて改修されたものと考えられているが
北郭:主曲輪南側の曲輪と切岸

矢筈山城主や築城時期等の城史は不明。遠藤氏?の居城説があるようです!!。南北に走る尾根を跨いだ東西山裾に拡がる高田井・谷・出会等の領地を支配した人物(遠藤氏?)が関係した城であったか、其の人物が東播磨(北播磨?)一帯に覇権を拡げていた在田氏支配下にいた 在地土豪かは知らないが、野間城を本拠の在田氏に与していれば、 南北に流れる加古川流域や南には東西に野間川が流れ野間城の南玄関口を見張り、
南郭(矢筈日ノ大神)南の曲輪と土塁の残欠


北東の坂本城と呼応しながら・東玄関口の津万井や市原方面へは狼煙台として知らせ(通信)の城として 野間城の支城砦の一つではなかったか・・?引き返して今度は北尾根に向う。防御面となる東側急斜面には 公園整備後の危険防止の為か・松茸山の入山禁止テープ・ロープが延びる…が此処には竪堀も有りそうな気配だが、土砂崩れのよるものか判断つかず!!?(未確認)。露岩の多い尾根上に切岸をもつ10x12m程の綺麗な曲輪に着く。
北郭の堀切

北に続く曲輪の切岸近くに井戸跡とも思える埋もれた窪地を見る。其の上が・細長く狭い尾根上に矢筈山 (3等三角点 363m)の石標柱が埋まる山頂部の曲輪は帯曲輪を廻す。北側下に堀切が有って此処が城域北限の様です。西峰側とは違った中世の縄張りが見られ戦国期も・天文〜永禄期(1532-1570)頃の遺構とみなされています。後は単調な尾根の登り下りですが、縦走登山には良いでしょうが、案内板等は無く藪っぽくて 道も判り辛いところもあり、
南側:帯曲輪から北郭(三角点峰)


低山ですが軽い気持ちでもトレースは要注意です。 山歩きコースなら神社の建つ南郭部の南方下に姿の良い低山があり送電線鉄塔が見えているので、さらに尾根通し辿って見るのが良さそうです。藪の繁茂する最悪の時期だったので参道を見失ったのかも分かりませんが、正規の参道道が分かれば 比高290m程の急峻な山ですが比較的楽に登れるのかも知れません。(2004年7月)


光明寺城(滝野城・高名山城)   230m   加東市滝野町光明寺

播磨高野とも呼ばれる真言宗の名刹:五峰山光明寺は、推古帝2年(594)法道仙人開基を伝え仁明天皇の勅願寺となっています。蓮の花の形をした五つの峰 【宿尾<本堂>・明星ヶ岳<見張台>・経の尾・大岩<遍照院にある大岩稲荷社>・弥木場】の頂五峰山に白雉2年 (651)道場が開かれ仁明天皇の勅願寺として栄えてきた山岳寺院で文明年間(1469〜87)には25の堂宇が有った。法道仙人作と伝える11面千手観世音菩薩像を本尊として祀る新西国28番、播磨西国18番の札所です。
光明寺本堂2009.9 :裏手が本陣跡

何よりも南北朝期の歴史の舞台「太平記のふるさと」光明寺合戦(足利尊氏と弟の直義との戦い)で 10日程の戦いで尊氏軍が撤退しています。南北朝期の観応2年(正平6年 1351)2月4日足利直義は兄の足利尊氏が西国より攻め登るのを防ぐ為、 光明寺本堂裏に陣を構え石堂右馬頭(石塔頼房)・愛曾伊勢守・上杉左馬頭・矢野遠江守等総勢五千騎で籠もった光明寺合戦(観応の擾乱)は太平記に記されNHKテレビドラマで放映され有名です。尊氏・高師直の1万騎は城の西側・引尾山に尊氏、東側の鳴尾山に高師直が陣をしいて攻め立てます。
光明寺合戦の本陣跡

しかし城中の兵の防戦に寄せ手の 気勢が上がらなかっただけでなく、寄手に加わっていた播磨の豪族・赤松朝範は兜を枕に仮眠中「山鳩の霊夢」=数千の山鳩が八幡山(京都)や 金峰山(奈良)の方から飛来して、翼を水に浸して櫓・垣盾に燃え広がる火を打消してまわる…不思議な夢を見て父の赤松則祐に話した。「やはりこの城には神明の加護があるようだ。到底攻め落とすことは出来まい」と父子は八幡山 (滝野町河高)の陣を払い白旗城へ帰ってしまったとか…愛曾伊勢守の召使に 神が乗りうつり無紋の白旗を降らせ、
光明寺本堂2009.9 :裏手が本陣跡

八幡大菩薩の奇瑞と両軍が見守るなか・尊氏方:高武蔵守師直の鳴尾山陣に落ちた。白旗には 「XXXき梢の 花ぞ散りゆく」と高一族の滅亡を、また「武蔵野の草はみながら霜枯れにけり」と師直の任国名を意味した二首の歌が書かれており、不吉を噂し合ったという。不利な条件が重なって勝敗を決しえず 尊氏は湊川へ兵を移す。小清水合戦( 越水城:西宮市)等・摂津での抗争の時か!?尊氏は弟:直義と和睦するが師直・師泰兄弟を鷲林寺(西宮市:甲山近く(陣所?)で処刑したと云う(太平記 第29)。
光明寺合戦時の本陣跡

文明17年(1485)赤松政則が播磨に入り、 三木(三津田城)から小野(小田城)を経て光明寺に着陣し此処から発進して 山名氏と戦い垣屋孝知らを討ち取り大勝して、志方(加古川)城に陣を移している。光明寺山は常設の山城ではないが東播磨の平野部の最北部の地にあり、展望よく平野部へ自由に討ち出る事が出来、山上には多数の僧坊があって兵の駐屯に適しているので 戦略上大きな意味をもち、これらの立地条件が非常時に利用され堅固な城郭となっています。 其の後 「播磨鑑」では滝野城として明応年間 (1492-1500)赤松刑部少輔政資の子・赤松左京亮氏重が城主で宝暦10年(1760)まで260有余年続いたといわれ三木合戦では落延びて子孫は帰農したともいわれます。
光明寺参道脇にある滝野城主:の墓

光明寺参道の急坂途中には滝野城主として大永6年 (1526)没の阿閉か?左兵衛佐重氏 ?候の史蹟碑 ・墓所があり、足利一族の霊碑と並んで祀られています。赤松一族には政則の奉行人に阿閉(阿江!?)氏が在る。光明寺を真南に真直ぐ降ると加古川の名勝:闘龍灘で、此処に加古川船運の創始者: 阿江与助の像が立つ。滝野城主:赤松氏⇔阿江(阿閉か?)の改姓等・関連がよく判りませんが・・・阿江与助は末裔か?!!。
(現地:滝野町観光協会案内板等 参照)


角尾山城   角尾山(熊ノ尾) 344m   西脇市合山町字三ッ又

以前光明寺から角尾山(つのおやま)へと縦走した際(上記レポートUを参照)、山頂の石積みが 送電線鉄塔用に造成されたものと気にしなかったが、 よく考えてみれば?山頂付近を送電線は走っていません。近畿の山城遺構を 随所で見てくるうちの気になって仕方が無い。播磨守護・赤松氏の直系の 国人領主として赤松円心の嫡男 ・範資の子赤松肥前守朝則が在田荘に派遣された事に始まり、北播磨地方を支配した在田氏は次第に独立し、
角尾山頂の櫓台状遺構(南正面から)

足利氏に付き嘉吉の乱(1441)にも存続し、山名氏と連帯して勢力を拡大していきます。在田氏の本拠 河内城の東の口や天文年間初期(1532-55)に本拠を移した野間山城の南の口を押さえる野間川と 県道34号(西脇八千代市川線)沿いの街道は北播磨の玄関ともなり、軍事的にも重要な要衝です。立木も無く大きな露岩が点在する山頂からの360度の眺望は素晴らしく、蛇行して流れる野間川を眼下に西脇市西部から八千代町南部を望み 矢筈山城鳴尾山城・比延山城 水尾城〜宇仁山城等の位置が同定出来ます。指呼の間に有りながらゴルフ場用地となって未だ訪城していない水尾城が発掘調査後10数年、 裸の姿をそのままを露呈しています。

角尾山頂の石垣確認の為の再訪なので直接登れるルートを捜し北側の八坂町の細い集落内に入った。美しく急峻な山容を見せる角尾山は山頂から一気に高度を北の野間川へ落とします。 Webの地図で確認していたコースは見つからないし、訪ねた地元の人も行けそうな所は有るが藪がひどくて無理かも…と!!。集落中程の田圃を抜け猪垣を潜って池傍の墓地の先から尾根に続くと思える道を辿ってみた。 角尾山の一つ南側の枝尾根ですが進むにつれて踏み跡は薄くなり、其れでも尾根筋を忠実に進む事にしたが体が埋まる程の シダの 深い藪に棘の蔓の防御線に閉口しながら尾根筋を避け、潅木の中を進む。比高260m程ですが 道無き道の藪漕ぎと無風状態の中で暑さとも葛藤、疲れは倍加するがなんとか引尾山への分岐点近くの送電線鉄塔ピークと角尾山の中間点付近の 尾根に出てきてホッと一息入れます。
角尾山頂の櫓台状遺構(東側から)

岩壁の横に補助ロープが現れると 城域で登山道に沿って幾つもの削平地が続きますが堀切 ・土塁等の防護設備は見当たりません。尾根上の城域南端と北端は岩壁が充分高い切岸が自然の要害になってはいます。 角尾山城の城主や築城時期等の城史については不明だが、延文4年(正平14年1359)に野間山に築城計画された頃に築城され、以後改修・拡張され在田氏が野間山城に本拠を移した天文年間初期(1532-55)頃には其の支城の一つとして守備に当たっていたとみられます。 角尾山(3等三角点 点名:熊ノ尾 344m)に残る櫓台状の遺構は北面が岩の台地となり切り立つ岩場が自然の切岸となり、残る三方も露岩を利用して石垣で囲まれています。

西脇来住氏一族の菩提寺:観音寺   西脇市西脇

三木合戦の際・別所氏に付いて籠城した小野市の来住城主父子・一族郎党は、三木城落城の際に討死し来住城は廃城となり 生き残った者は帰農しても旧領地を失い、戻ることも出来ず他所に生き延びたのでしょう。其の後・大坂の陣には徳川方として戦い、 江戸時代初期の藩政時代には篠山藩・姫路藩等に仕え、江戸時代の早い次期・おそらく篠山藩では初代藩主:松平康重(家康の子)が2代目藩主信吉に代わった元和年間頃には、西脇市に(浪人して!!?)移った来住氏が居たことを知りました。
来住惣本家・分家の両墓石碑

現在:来住姓の方はいないと云われる小野市来住の里ですが、 いつの頃からか来住姓の方が住まわれていたようです。市政が布かれた初代 (昭和27 1952年)の西脇市長は来住靖男氏(西脇市勤労福祉センター・青少年センター側に銅像・資料館に自筆の文書等が展示されている)、多可郡黒田庄町を編入しての新西脇市の初代(平成17 2005年)市長は来住寿一氏、また来住儀兵衛は播州織の元祖?とされ、高瀬家(西脇城主 :高瀬氏との関連は
卵塔群の中にある古い五輪塔が来住勘五郎景量夫婦のものか?!!?

未調査ですが!!)の紺屋 ・村上家の布屋と共に織物事業を発展させた中心人物で、才知・指導力は高く評価されます。また西来山観音寺(臨済宗妙心寺派)に寺山一山を寄進しています。此れにより本町!!に有った来住家の”埋め墓”から此処に移され ”参り墓”となった様です。来住姓の方々と来住一族との関わりはともかく、西脇来住姓の活躍が目を惹きます。
(現地来住家菩提寺:観音寺にある儀兵衛氏の来歴 平成20年5月来住会建立碑文参照 )
しかし碑文にある儀兵衛翁については其の名前も、事業着手等の年代等も市史・町史等資料では確認が出来ていません。 山を寄進した財源からは往時の加古川水運業に財力を得・水運が廃れる明治期に、自動織機を購入され事業を始められた一人と考えますが碑文を裏付ける史実が掴めません。童子山公園の南側に織物の町・西脇ならでは?の”織姫” ならぬ 織殿神社が在る。
童子山公園南に建つ織姫ならぬ!!「機殿神社」

播州織の歴史については 江戸時代後期:天明8年(1788)の大火で焼けた御所の再建に、京都を訪れていた西脇市比延庄村の大工飛田安兵衛が、西陣から織物技術を取り入れ、手機を改良して寛政4年(1792)始めた事から始まるとされ、染色は享和2年(1802)西陣の職人 :丹後屋安次郎を招いて、糸染技術の指導を受けたのが始まりとされているのですが・・・!!?。明治期には標準的に使用されていた木製織機 (高欄<上機>)も明治33年(1900)には石油発動機による自動織機(豊田式か?)が導入されたとされます。
播州織工場(織物館)のノコギリ屋根

観音寺本堂背後の北へ進む谷間に卵塔群があり、再奥まで段差 4〜5?区画全てが来住家一族だけの墓所域で、各墓石の家紋も”丸に二引両”足利将軍と赤松家家臣団との深い関連を窺わせます。 三木城開城に生き延びた来住勘五郎景量の墓所があり、夫人と共に祀られる五輪塔が有ると聞き探してみたが見当たらない。玉垣で囲われていたと思え・二本の門石柱が残る!!?一画には、顕彰碑が建ち宝筐印塔が立つが此れは 三界万霊塔で、其の後ろに真新しい小さな石碑文が刻まれており播州織元祖として儀兵衛氏の来歴が記されていた。儀兵衛についてhが不詳ですが、 播州織同業組合発起により12名(来住姓は無い)の委員連名で建設されている…
イメージ(織機を撤去された播州織工場内)

来住兼三郎頌徳碑が童子山公園の展望台への遊歩道脇に立つ。兼三郎は美嚢郡志殿村・藤枝宗右衛門の二男として安政5年(1858)生まれ、多可郡(西脇市は元:多可郡の一部)西脇町の来住徳次郎家を継ぎ、先述の飛田安兵衛・来住儀兵衛と同様に 播州織の手織り機を明治33年(1900)率先して新機の石油発動機を応用した自動織機を使用し(飛田安兵衛と同時期!!)、地方織業の啓発に志し、 同業組合長として専ら力を共同的施設に用い、傍ら西脇商業銀行を設立。郡会議員に選ばれ其の議長として多年にわたり活躍 ・古稀をを過ぎて尚、西脇町長の要職に在ったという。
童子山公園内 :来住兼三郎頌徳碑

旧来住家住宅来住梅吉も、 婿養子に入り・西脇商業銀行の起業家として・・共通点もあるが兼三郎もまた頌徳碑文以外は不詳…?。其の次の区画には五輪塔が一基あり、左右に「来住惣本家」と「来住新屋」両家の墓碑が立てられているだけ。谷奥にかけて墓所を順次拡張されており 上の方は新しい墓所。結局は最初の歴代住職のものか!!卵塔墓の中に、 此処に祀られていると聞いた来住勘五郎景量夫婦のものと思われる ”崩れそうな・・と表現されていた五輪塔が墓所の中央ではなかったがありました??。
童子山公園側から寺山:実相寺(正面)と観音寺霊園

来住氏のルートは東(関東)にもあり、相模国鎌倉郷長尾村に住み・・其の後裔:長尾氏が来住氏の先祖とも云われますので観音寺の山号 :西来山は”西の来住氏”を表わしたものか?とも思ったが、ご住職に尋ねると禅宗の開祖:達磨大師が西から来た「祖師西来意 (仏法の根本を意味するもの…禅を伝える為インドから中国に来られたが真意は何なのか !!…)」ことに起因するという。 文化センターと図書館で来住氏について尋ねたが何も得るところ無かった。 観音寺にある過去帳や「来住会」から、 また一族である来住家住宅の「丸二会」から情報収集・整理分析する事等は、個人的かつ部外者としては詮索範囲を既に越えており、研究者・関係各位の調査・報告に依存する事になりますね。
「椿坂」正面に寺山・此処を左折して童子山公園に戻る

明治の初めに織機を導入した来住謙之助の顕彰碑が 童子山に有るという。此の頃なら未だ高欄 (木製織機のイメージは殆ど此れ!!?)、事業家として?の謙之助氏のついても未調査・未確認のまま・・・宿題を多く残したままですが一先ず終えます!!。

(現地童子山公園:来住兼三郎頌徳碑文を参照)
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