大木城(平野山)/木谷山と西仙寺山/武嶋山〜大木山〜石原坂
兵庫(播磨:西脇)  地図(五万図=北条・生野)
T 2005年01月04日・10日 市原森林公園〜木谷山・西仙寺山〜木谷山〜馬事公苑
U 2005年03月26日 武嶋山〜木谷山〜大木町日野の里
V 2005年04月10日石原・山根橋〜上大伏山城〜大木山〜石原坂
近畿の山(但馬・播磨) :武嶋山・大木山
近畿の山城:大木城(野中城)  西仙寺山砦木谷山砦 上大伏山城
市原森林公園の貯水ダムから木谷山の稜線(中央奥) H17.01.04

黒田庄町から石原坂トンネルを中町に出て市原のR427へ、交差点からは直ぐ杉原川沿いに西脇市街地へ向かうコース上には 武嶋山天目一神社と近くの丘陵上には 大木城(野中城)があり、杉原川に沿う旧国鉄時代・加古川線の支線で鍛冶屋線が走っていたが、其の名残を留める市原駅には駅舎と気動車 (ディーゼルカー)が小公園・資料も展示され沿線の愛着が感じられる。西宮市に居た時から掛り付けの医師から紹介されていた病院が西脇市市原の交差点近くにあって月一度は妻を診察に連れて行く通い慣れた通院路の近くです。
木谷山不動尊 H17.1.10

今まで何度となく側を通りながら見落としていた西脇市の小さな山城探しと、 藪山の木谷山や西仙寺山へ行って見ます。西仙寺山へはこの旧鍛冶屋線跡のバイパス?側の西仙寺から奥の院の西仙寺本堂経由で行けそうだが先日(2005.01.04)市道木谷山線を通った時見つけた峠からの尾根伝いを利用してみます。


T市原森林公園〜木谷山/西仙寺山〜木谷山キャンプ場〜木谷山〜馬事公苑  H17.01.10

年初に降った雪が西脇市内では珍しく?未だ残る市道木谷線に入ります。北はりま田園空間博物館サテライトの一つ?市原駅舎の展示ディーゼルカー前右折・市原森林公園を右に見て、雪が凍った舗装林道を越えて西脇馬事公苑から野間川沿いの県道34号(西脇八千代線)へ抜ける・市道木谷線を挟み込むように南へ延びる東と西の山稜に 在った山城(砦)を訪ねてみます。
木谷山鉄塔No28から木谷山三角点峰 H17.1.04

ただドチラの丘陵も尾根筋の一部を除くと 山道は”踏み跡”程度となるうえ、猛烈な羊歯と雑木の斜面は体が埋ってしまうほどで、今の時期でも踏み跡は見失いがちになり、低山ながら迷う事無く縦走するのは難しい?かも知れません。ただ此の尾根上には、狭いながら数箇所の平坦地や土橋状が有って杉原川沿った中町側を監視出来る場所に位置して、野間川沿いの南から西へ八千代町川を監視する 木谷砦本郭部を補佐する出曲輪があったと考えられます。
ガレた南尾根から小雪舞う西仙寺山 H17.1.10


巡視路だろうがキャン場や 馬事公苑へと続く南へは快適な道が伸びているようで展望も良さそうだ。市原森林公園側から市道木谷線の峠上(地図上でのヘアピンカーブの角)から取り付いて尾根を辿ったが、山頂を捲き気味に付けられた道から先に木谷山(3等三角点 415m)に到着、三角点石標の側にはMTB登山・大柿氏の赤いプレート(2004.4.29)があった。
小雪舞う西仙寺山尾根から木谷山423m峰と中央は鎌倉山山塊・原山?

三角点から更に 其の先に尾根を辿って送電線(加美町線)鉄塔No28に着いた。峠を下った出会町の”であいの里・木谷山キャンプ場”から不 動滝裏手の谷を詰めた時も此の鉄塔に着き、木谷山へ向かったので送電線の位置が変わっていないのなら地図が誤り!!か三角点位置が変変わったのかな?因みにこの日は 送電線鉄塔をNo28からNo29へと尾根伝いに進みNo30手前で北下方への巡視路を外れて南西への尾根筋を仕出原集落へ下ったが、地図を見て・送電線走行を位置のPOINTにしたばかりに方向を見誤ってしまった。
鉄塔No.29付近から曽我井方面

木谷山キャンプ場の右岸沿いには鹿・猪避けフェンスを開閉して未舗装林道が延びていて終点の白蛇を祀る祠の横からの道が不動滝まで続いています。 市道木谷線の市原側からは直ぐに 峠に着く此処から木谷山(木谷山砦) 西仙寺山(西仙寺山砦)へのコースは、二つの城砦共に城の歴史も其の遺構さえ不確かなので下記「近畿の山城」でレポートします。西仙寺山砦は古刹・西仙寺を何時か訪ねたいので、その時再訪したいが山上近くで踏み跡も消える様です。
木谷山キャンプ場

木谷山へは峠から少し (30m程?)下った所から捲き上がっていく道が有りますが”関係者以外立入り禁止”の文字が・・・其れでなくても季節には深い羊歯類に覆われ藪こぎ状態の登行が強いられるでしょう。峠から鹿避けネットを潜る」以前は良く利用されていた様で、路肩を石垣整備された山道が急斜な市原側の谷に沿って続いています。直ぐ左手尾根に取り付けそうな所も有るが上るのも急なのでしばらく山道を辿ってみます。緩やかな広い道は市原か曽我井方面へ下って行きますが、其の下降点から左手尾根に沿って踏み跡が有ります。
小雪舞う木谷源頭部の岩場と木谷山砦?

急登だが道も明確・展望も良好です。雑木を抜けて尾根筋に出ると北方(先程説明の峠下部からの専用山道)から 登ってくる道と合流して緩やかな快適縦走路となり、仕出原側へ北西に延びる尾根分岐に着くと木谷山三角点は直ぐ其処です。木谷砦・西仙寺山砦共に 其の比定地は平坦地が有るだけだが、付近の殆どの尾根上や小ピークは自然地形ながら平坦なので明確な遺構確認が素人目には難しく違った場所で、土橋状や堀切・方堀切状や1〜2mの高みで周囲を隔てる平坦地を砦の曲輪と勝手に捉えて見ているのかも知れません。


U 武嶋山〜木谷山〜大木町日野の里「楽寿園」   H17.03.26

R175号・多可郡黒田庄町の中央橋交差点で県道139号へと右折し幡上(4等 350m)山腹を貫いて中町東安 田へ抜ける石原坂トンネルを通り、南へ約1km程突き出した,露岩混じりの痩尾根が其の南端に 小さな盛上がりを見せています。
武嶋山(中央の岩塔に役行者が刻まれている)

田園風景の中に露岩・岩塔を載せた全山岩塊の、荒々しい山容を忽然と現して立つ丘陵の岩壁上に観音堂が建つ姿は、多可郡と西脇市の境界を流れる杉原川に其の先端部を映しています。杉原川を渡って西脇市に入った所(羽安町)に旧JR加古川線支線・鍛冶屋線の廃線跡【平成2年に廃線となり跡地を利用した星の散歩道が有る】にレールとモニュメントのアーケードがあり武嶋山(竹島山)がスッポリと収まります。
旧JR鍛冶屋線廃線跡から武嶋山(左端)


「武嶋山」の案内標識に導かれて登山口の”ひぐらし荘(参籠所か集会所!)”の小広場に入ると「多可十景竹島山」と歴史街道・武嶋山の説明石標が建つ。大峰修験や観音霊場関連の石碑が建ち並ぶ”ひぐらし荘”横から始まる参道は文化年間(1804-18)頃に開山された霊山として、犬を連れた弘法大師修行像から左右には中腹の観音堂まで、四国八十八ヶ所のミニ観音巡礼参拝道となり西国三十三ヶ所の観音三十三身が一箇所にズラッと並び祀られた所もあります。
観音堂上部から杉原川沿いに眺望が拡がる

数多くの石仏に埋め尽くされる石仏の道を辿り、清林院の石碑が建つ観音堂に続きます。「ひぐらし荘」案内板の「清巖寺」が武嶋山事務所の建物なのか?・清林院の観音堂なのか?十一面観世音菩薩を祀るので 法道仙人所縁の寺だったのか?、神変大菩薩(役行者)も祭祀されているので(播磨には役行者=法道仙人説もある)観音堂を本堂として 清巖寺となったものか?寺の由緒や所在が分からないので探索するのは控えます。
観音堂から望む磨崖仏(中央岩陰の右手)

観音堂西の岩場横が遥拝所となり、此処から北方に望める岩塔に刻まれた磨崖仏(杖を持ち座す役行者像)を見て鎌倉山にも切り立つ断崖に彫られた役行者像を思いだすが 白く光ってはっきり像が確認出来ない。行者像の左右に彫られた梵字は従者の前鬼・後鬼を示したものだろうか? 磨崖仏の基部付近へは麓から行き着けるのかも知れない?、観音堂裏手から急斜面の僅かな幅の棚状を伝い立木を利用しながらトラバースして近づこうとしたが、磨崖仏の更に上部の岩場の鞍部に出た。岩は大きな亀裂が入り、岩稜上にしがみつく様に立っている木が根こそぎ倒れて進路を塞ぐ。 磨崖仏側への目前の岩稜端はスパッと切れ落ちた断崖でザイル無しではとても寄り付けそうにない。
”西の覗き”から観音堂と磨崖仏の岩塔(右手最下部)


観音霊場の霊山・武嶋山も中腹の観音堂からは鉄梯子を伝い登ると岩峰と岩壁を取込んだ修験の行場道になるようです。岩床を登り初めると役行者像が祀られ磨崖仏が彫られている岩塔と観音堂を足元に見る岩 場上には鉄柱が打ち込まれ鎖片が残る。”西の覗き”の行場と思われます。尾根上に向かっては露岩に覆われ明確なルートはなく、傾斜を増す岩場には 支えとなる立木も少なく、濡れると滑り易い足場に緊張する。こんなルートなので、
観音堂(清林院跡?)から武嶋山へ岩尾根を見上げる

中町の「那珂ふれあいボランティアガイド」の案内箇所にも含まれている武嶋山(155m)だが観音堂の鉄梯子の部から岩稜の尾根に至るコースまでが 入っていないでしょう!。しかし高々6〜70mの比高ながら、遮る物も無い此処からの眺望は素晴らしく正面の西仙寺山木谷山の山塊を東に廻り込んで南の西脇市街地へ流れ出る杉原川沿いの西面には城砦が存在していた矢筈山鳴尾山の姿が望めます。
武嶋山”蟻の戸渡り”から大木山へ向かう

北方には名残雪の白さを感じさせて峰を置く千が峰と笠形山が、そして進む尾根の上方には累々と覆い被さるような岩が続き、更に快適な登攀気分と良き展望が期待出来ます。岩頭に着いてもさらに足元が切れ落ち落ちて、 岩慣れないと高度の恐怖感を伴いますので足場やルートを確認して慎重に・・・それだけに抜群の展望は請け合いです・・・武嶋山から暫くは展望もスリルも有る岩尾根伝いだが、 岩稜を下り始めると岩場は潅木帯に入り 雑木の藪っぽい道に変わり、やがては播磨名物?の羊歯類が細い踏み跡を覆い隠す多可郡と 西脇市境界尾根をトレースしながら大木山に向います。
水溜まる岩盤の尾根越しに大木山を望む

尾根上に時には岩盤が現れ低丘陵ながら稜線の奥に横たわる大木山が大きく遠く感じられます。煩わしい幾筋も現れる獣道や、倒木や羊歯類に隠された鬱陶しい山道を探りながら送電線鉄塔(北摂長田線No45)に着く。広い巡視路は尾根を南に捲きながら下って行くようですので、直ぐに離れて稜線を直上し幡上(4等350m)への分岐を確認しないまま大木山山頂(3等三角点 375m)に着いた。西脇市大木町の大木城(野中城)とは安田からR427市原へ出る県道296号線を挟んで対峙します。大木山は黒田庄町境に有って城主・黒田重勝の黒田城と黒田庄が一望できる。黒田城主の弟・野中六郎の大木城と其の富田荘を眼下に治める絶好の位置にあって山頂や尾根上に両城の領地監視や連絡手段の砦が有って不思議ではなく 山頂部の平坦なマウンドがどうにも砦跡の曲輪に思えてくる・・・。二つの城の北方中間点には合戦で黒田城主を討った石原城も有るのですが・・?
杉原川(武嶋橋)から武嶋山と大木山

東下には加古川に沿ってR175号が走り妙見山や西光寺山が南面には西脇市街地と矢筈山・鳴尾山・五峰山の奥には鎌倉山等、山城の有った峰々を望みます。山頂から南へ下り始める尾根筋はシダや下草に隠れているが境界尾根に踏み跡は続きます。ただ次の小ピークの枝尾根分岐付近は不明瞭ですが、送電線鉄塔(北摂長田線No42)が見えるので見定めて進みます。武嶋山〜大木山を経て武嶋山近くの南側にある採石場に延びてくる枝尾根を採っての馬蹄形ルートを辿るのが今日の予定コースでした。この時期の東播磨には珍しく昨日は小雪がちらついていたが、山は春の準備を終えているようで、草花は芽吹き、ツツジのピンク色さえ見かけ260m峰付近では白や、 ほんのりピンクに顔を染めたアセビの花が咲いています。鉄塔(北摂長田線No42)から北方の谷側へプラ階段の巡視路となるが直進の尾根に踏み跡は続くます。
大木山山頂からの加古川流域・西脇市街地

とことん枝尾根を辿って武嶋山近くに戻る心算ですので次の215m峰を目指します。岩盤の尾根斜面を下ると杉原川沿いに武嶋山の南側の丘陵を大きく削る取る蛇紋岩の採石場の上部に出ます。4〜50mの断崖横数m横の急斜面に踏み跡を追って、車道に降り立った所に数体の地蔵尊が祀られている。側に墓地跡らしいものは見当たらなかったが六地蔵だったか!車道沿いの南側には老人養護ホーム・日野の里「楽寿園」が建つ。蛇紋岩の採石場から杉原川沿いに戻ると 再び小さな巨人・武嶋山の全山露岩を纏った特異な山容が周囲を威圧して聳えています。2-30分足らずでショートな岩山・展望を楽しめる山旅です。



天目一神社(あめのまひとつじんじゃ)    西脇市野中町

此処に来る前に寄って来た段ノ城は妙見山から西南へ派生する尾根続きの城だが、妙見山周辺から北方の山々には多くの鉱山跡が残り、今も多くの鉱口や山腹には”たたら”製鉄法によって排出されたスラッグ(鉄滓)が燦爛している場所もあります。そして此処では天目一箇神に出会います。その名が示す”一つ目”の鍛冶の神様です。”anne猫さん”好みの妖怪話では大台ケ原の一本タタラが思い出され産鉄に関する”タタラ”名が浮かびます。
天目一神社から大木城址のある平野山

神社サイト”のりちゃん”には先日の掲示板三田の御霊神社続きで神社+敵の矢で片目を失った 「鎌倉権五郎景政}の逸話を思い出しますね。山仲間には更に北方20kmの多々良木ダムが生野鉱山と”タタラ”との関連を結び付けます。神社と妙見山の間には昔・加古川線の枝線 (支線)鍛冶屋線が西脇から延びていました。鉱山が有り・たたら製鉄が行われ・その鉄による鍛冶屋があり、
城山神社(大木城跡)の東側帯曲輪

此処・鍛冶屋地区から遠くない野中町に鍛冶を司り・ふいごの祖神として知られる天目一神社 (式内社多可六座の一つ)があって、天目一箇尊命(あめのまひとつのみこと)が祀られています。天照大神の岩戸隠れの神話では、外へ導き出すための祭器の刀剣や斧等を作ったとされる 鍛冶の神様とされます。神社付近からは鉄・熔銅や古代祭器の破片が出土したと伝えられています。

旧国鉄鍛冶屋線市原駅記念館     西脇市市原町233-3

多可郡中町からR472号を曽我井を経てを西脇市市原の交差点に入ってくる。最近は杉原川に沿ってバイパスを西脇市街地西部のxxスーパ等・大型店舗へ買い物に行くパターンが定着しつつあります (^^ヾ 此のバイパスこそ旧国鉄鍛冶屋線の廃線です。快適な車道に当時の面影を想像すらできないが、山陽本線加古川駅から福知山線谷川駅に延びる加古川線は当時から支線が多く、 谷川駅へは必ずと言ってもいいほど西脇駅で乗換させられた。其の西脇市駅から市原や終点の中町の鍛冶屋駅へ路線が通じていました。
国鉄時代の一般的な気動車(キハxx)

鍛冶屋線は加古川流域の舟運に代わる物流運搬の手段として明治43年11月 播但鉄道として発足し、日本国有鉄道に買収され昭和62年4月には民営化されたJR鍛冶屋線(野村〜鍛冶屋・約13km)も平成2年3月末日をもって 60年以上の歴史の幕を閉じたが廃線となった鍛冶屋線を後世に伝えるため市原駅〜終点の鍛冶屋駅にかけて、当時の駅舎を復元して資料や記録の展示した資料館が建てられたり、館外に車両を展示したり、沿線にあった駅舎・ホームが公園化されたり、 道端に思わぬモニュメントとして鉄路の一部が往時を留めて残されており、鉄路との愛着が感じられます。市原駅記念館(市原駅旧駅舎)は大正9年(1920)地元の篤志家により建築されたといわれ,当時のモダンな洋館風駅舎が復元されています。駅舎は老朽化が激しくて移築出来なかった様ですが、切符売り場が当時のまま保存されています。木枠の改札口が有れば雰囲気は一層良くなるのですが、今は改札口が記念館の表玄関みたいです。
プラットホームの前を今は車が素通りするだけ

本当の表玄関へ出るとガラリと風情の変わる教会のような洋風駅舎が望めます。 狭い駅員室と券売所が展示コーナーになって、鍛冶屋線の歴史をたどる写真や駅員の制服、行き先明示板・料金表など其の歴史や思い出を後世に伝えるために、貴重な資料や記録が常設展示されています。券売所を抜けてプラットホームに出ると待合ベンチがあり、 いましもホームに滑り込んでくるかの様な気動車(キハ・気動車の箱=客車の意味か!)が展示されていますが目前はR472号のバイパス。ノン・ストップの車が行き交うだけですが、車道を越えれば杉原川が並行して流れており堤防越しに車道をカットして眺めれば 往時の姿や雰囲気が伝わってくるでしょう。
(現地・市原駅記念館パンフレット等 参照)



大木城木谷山砦 西仙寺山砦
上大伏山城

大木城(野中城・平野山城)   平野山 164m  西脇市野中町・大木町

段之城からの帰路に R472号をそのまま西脇市に向かい曽我井から野中町に入る。多可郡中町と西脇市境界の下曽我井(3等三角点 210m)を 最高峰として南北に延びる小さな山塊の南端に位置する平野山山頂 (164m)にも山城が有りました。JR黒田庄駅・加古川を渡って西方4km、多田川・安楽田川・思出川・安田川等支流が杉原川に合流して旧・野中郷の小山塊を北から東へ取り囲むように流れています。
城山神社北の土橋付堀切

西から南面を R472がこの山域を断ち切って杉原川を渡ります。 そのその250m程手前・市原町の交差点から県道296号線を北に向かい大木町に入る手前に「式内天目一神社・平野神社」の鳥居が有って此処からは石の鳥居越しに平野山の杜が見えています。車道沿いに北へ 約50m!程で東山裾の赤い鳥居から山上に向かう事にします。平野山山頂には”城山神社”が祀られており此処が主郭で「大木城址」碑が建つ。
大木城本郭の城山神社

正規?の登山口は南側にグラウンド(ゲートボール場)があり、グラウンド西端から大木城への登城道があり、 !取付き点には西脇市教育委員会による縄張り図付の城址案内板が立つ。城山神社境内となっている主郭部(南北31m・東西 17m)の周囲を幅2〜4mの通路を兼ねた帯曲輪が取巻いています。 主郭部の社が少し見える位置からは 2段程の段差をもって曲輪が主郭を捲く様に左右に有りるのが分かります。参道で均されてか!!本来の状態は分かりません。参道は南から境内に入りますが案内の縄張り図では大手道からと思われる城の虎口は東側の帯曲輪から斜上する土橋を 本郭部の境内に達しているようです。
北尾根から東急斜面に長く延びる竪堀

城跡の北端(神社裏手)には浅い堀切を設けて尾根を遮断し尾根伝いの防御を図っています。城があった当時の大手道は東山麓のかつて平野神社があったあたり(??現在の平野神社は南側にあるので、其れほど離れていない今回私が登った赤い鳥居のルートが 大手だったか??)から登っていたようです。大木城が作られた詳しい年代はわかりませんが城の構造からは戦国時代の築造と考えられています。【本郭の神社裏手には虎口の遺構らしい登り口や堀切が設けられ案内図には描ききれなかった!! 緩やかな北尾根を辿ると180m峰との鞍部付近には東面に長い竪堀が有る事等でも室町時代中期以降の在地豪族の築城と思われます】この頃の山城は合戦のときに籠もる ”詰め城”なので普段は見張り番が居るだけで、建物も粗末な小屋程度しかなかったようです。
神社裏手の帯曲輪と虎口!!?

・・・城の縄張りも含めて、この後で立ち寄った鳴尾山城とよく似た城です。大木城の城主については、明らかになっていないようだが黒田荘の黒田重勝の弟・光氏が 野中六郎と名乗って野中城に居住したという伝承があります。当時この付近は富田荘の野中郷と呼ばれていたことから、この大木城が伝承の野中城であるとも考えられます。
(現地大木城案内板 1994年 西脇市教育委員会 参照)


木谷山砦
   Ca380m (木谷山は 415m)   西脇市合山町字木谷山

木谷山砦は三等三角点・木谷山415m峰の南西にあって高圧鉄塔の建つ展望の良いCa380m峰地点の平坦地を比定されている様だが鉄塔建設工事で整地されて城砦跡を想定出来る遺構を見つけるのは困難の様です。ただ・北方には杉原川に沿って拡がる 中町の平野が生野や和田山・福知山へと但馬・丹後へ通じ、南には蛇行する野間川に沿って延びる八千代町の盆地をあって東播磨の加西・姫路へ向かう山陽道への街道筋と要衝を眼下に望む重要な監視地点ともなっています。
木谷山東尾根・旧鉄塔跡近くの土橋?

東に矢筈城・南に角尾山城水尾城、北は間近に野中氏の大木城や森本氏の森本城・西安田城を監視しながら貝野城・段ノ城と連絡出来、西に在田氏本拠の野間城が近いので、此の在田氏の野間城関連の砦として、摂津方面から侵攻してくる敵に対する備えとしたのではと考えられ、在田氏が本拠としていた河内城(加西市)から野間城に本拠を移した天文年間(1532-55)以降、水尾城・宇仁城等と連携して本城の野間山城の南入り口や、貝野城・段ノ城の南入口を守備・監視する砦として東隣の西仙寺山砦と合せて築城されたものと思われます。
= 同 = 鉄塔跡?の平坦地は出曲輪?

築城時期・城主不明の上、城砦跡も25mx15mの削平地が有ったとされますが鉄塔付近に遺構が見当たりません。近辺の尾根上には随所に自然地形の平坦地を見かけるが比定地以上に城跡を感じさせる場所が有り、特に木谷山三角点の東尾根上には旧送電線鉄塔跡の 平坦地とその山側に10m程の土橋状や、東の尾根上には数箇所の段差を持つ狭いながらも小さな平坦地があって杉原川沿いの中町側を見通せるので木谷山砦の監視を補佐する出曲輪の様です。 また三角点北西方の尾根にも広い平坦地や、鉄塔の立つ位置は野間川を見下ろす見張り台・本城の野間山城へは狼煙が駄目でも仕出原経由で伝令さえ走らせられる近距離・・・!!
仕出原側に延びる木谷山北西尾根上の平坦地

木谷山三角点から此の山塊の最高峰 423m峰を経て馬事公苑に延びる南尾根上に、水尾城と角尾山城とは野間川を挟んで正対して相互に連絡出来る位置に城砦らしいものは無さそうですが、 木谷山砦の出曲輪か別に固有の砦が一番に有りそうな気配の強い地域です。木谷山キャンプ場から西の尾根に向かい、西脇馬事公苑が展望出来る尾までは周回ハイキング道が整備されています。 此処から先・最高峰経由で再度・木谷山三角点へは踏み跡程度です。
キャンプ場からのハイキング道・馬事公苑展望台

展望台から先の峰で木谷山側と反対に鞍部へ下り登り返して続く、南尾根277mピーク迄 ・行ければ野間川を挟んで対峙する上王子町背後の296mピークへと続く尾根筋には何か発見出来るのかも?しかし此の山域は野間川南側の角尾山といい、 今回の木谷山や西仙寺山にしても稜線以外は踏み跡があっても羊歯類や雑木藪に悩まされそうで、草木や羊歯類に覆われた山上では平坦地はおろか曲輪・堀切等の遺構を見つける事は至難の業かもしれない・・・


西仙寺山砦   西仙寺山 306m  西脇市市原町字山脇神

西脇市の市原に旧国鉄鍛冶屋線市原駅の駅舎が残されています。 気動車の前の交差点の市原自然公園と西脇馬事公苑への案内標識を見て市道木谷山線に入ります。木谷山線が出会町から馬事公苑を野間川沿いの県道34号(西脇八千代線)合山町に出る間に、二つの低丘陵を分けています。峠付近の西に位置する 木谷山砦へ先に寄っていますので、今度は峠から東側に位置する西仙寺山砦へ向かってみます。南へ延びる尾根上は広い切開きが急斜な分岐尾根ピーク手前まで続きます。此処までの細長い尾根と此のピークの方が砦跡に相応しい様相です。
分岐尾根ピークからの西仙寺山砦(左)

東へ向きを変える主尾根の先に見えるピークが西仙寺山砦。 1〜2m程の高さで囲われた10mX15m程の小さな曲輪?が有るだけ、北には竪堀 がありそうだが?頂上部の台地は一面に羊歯類が覆っていて 台地状以外は何も確認出来ず。曲輪を挟むように稜上の東西には自然地形の平坦地が有る。尾根上にガレた岩場が切り立って見える南尾根末端に行ってみる。ザレ場からは見通しが良さそうだが小雪がチラツキ遠望は効かず西脇市街地も見えない。遺構の状況が確認出来ないので憶測だが木谷山砦ともに・おそらく同時期に同勢力が築城したものと思われます。同時期と勢力が播磨赤松氏配下の有力家臣・在田氏と考えれば本拠河内城(加西市)から段ノ城 ・貝野城(中町)に城を築き本拠を野間城(八千代町)に移した天文年間(1532-55)以降の事でしょう。特に貝野城・段ノ城の南入口を守備・監視する砦として東の矢筈城・北の大木城森本城・西安田城を監視しながら杉原川に沿って但馬や奥丹波・丹後へ通じる要衝の守備や連絡・見張りの砦として西隣の木谷山砦と連携しあって野間城の南口を押さえる最前線基地の一つとして機能したと考えるのが妥当なように思われます。
羊歯類に覆い尽くされた西仙寺山砦跡?<

木谷山砦と同様に城史や遺構さえ満足に確認出来ない二つの砦が赤松氏一族関連の城砦だったのでしょうが、戦国期末期・天正3年 (1575)別所重棟(後の但馬八木城主)によって滅亡した在田氏と共に廃城となったか、反対に森本城と同様・別所方に付き後に別所氏に落とされたか、其れまでに砦は廃棄されたものか?当初・西仙寺山砦への取付き点と考えていた 旧鍛冶屋線市原駅舎南方約1.2km?程にある西仙寺は白雉2年(651)法道仙人開基を伝え、千姫が我が子の霊を祈るために信仰を寄せたともいわれ市内最古の五輪塔や釈迦三尊板碑がある古刹です。


そのV 山根橋〜上大伏山城〜大木山〜石原坂トンネル H17.04.10 ←城史不明の為・山レポートを含みます

上大伏山城   xxx山 Ca275m〜Ca360m  西脇市(旧多可郡)黒田庄町大伏

武嶋山〜木谷山レポートで木谷山山頂が西脇市の大木城と黒田庄町の黒田城の間にあって、両城が黒田氏兄弟の城なので関連の砦跡ではなかったかとコメントした後で、周辺の山を調べていたら「多可郡黒田庄町教育委員会の遺跡分布地図」で大木山から北東・黒田庄町の石原と犬伏へ延びる枝尾根の稜線上に中世山城が有った事が分かった。
R175号側から大木山・上大伏山城(中央の稜上)・尾ノ山?(右端)

ただ登城口を捜していたら位置的には石原坂を越えて中町へ抜ける県道139号線を挟んで石原城 ・石原北山山城・西畑城館と呼応して、この街道や加古川沿いの要衝や黒田城を監視し、石原城の南面を守備する見張台・砦として、黒田氏では無く寧ろ黒田氏を攻め落した石原氏の城だったように思える。
トンビが舞う上大伏城城域の主稜と大木山(右端)

加古川沿いを走るR175号の中央橋西詰交差点から県道139号に入り石原坂トンネルへ向かうと 左手奥の大木山から東北へ延び出した丘陵が139号線に側に其の先端を落としてくるところ。尾ノ山?の丘陵の東側は大伏地区で、山裾を野尾谷川が流れます。取付きを考えた大伏側でしたが一巡して通い慣れた!石原坂トンネルに向かいます。 末端ピークの尾ノ山?の西側に林道が有るので此れを利用してみます。野尾谷川に流れ出る市山谷川に架かる山根橋を渡った先の 駐車スペースに車を置いて林道に入りますが、 直ぐに開けた谷間の扇状地に住宅が数軒建ち、林道は4〜5軒の宅地を経て細い斜面を登り急斜面を降っていきます。
上大伏山城城域中央部Ca275m付近の平坦地

そんな変則的な ?最高所のターニングポイント山側に鉄梯子が架かり細い踏み跡を見つけ尾根への急斜面に取付くと、 半独立丘陵の尾ノ山とは尾根続きの北端の192m峰に着く。 上大伏山城の城域外になっている様だが、絶好の位置に有り眺望良く5〜6u程の円形の平坦な山頂部は円墳のようだが、見張り・通信機能を持った出曲輪・砦であったと思われます (上の大木山〜尾ノ山の写真中央の峰)。展望良く快適な潅木と露岩の枝尾根が「黒田庄町広域簡易水道 ・大伏配水池」施設の有る東側から大木山主稜に延びる 196m峰の上大伏山城城域の尾根に接続します。
石原からの尾根分岐付近からの大木山

丸く盛り上がる配水池のある小ピークは 自然地形の平坦地、尾根の三方は急斜で配水施設の有る東先端部付近には竪堀らしいものを見るが、 整備によるものかは不明?枝尾根分岐に引き返して、登りはじめる稜線は岩屑の目立つ岩盤尾根が続く。土橋状の細くなった稜上・275m峰への登りはじめで、鞍部というには緩やかな尾根上に浅い空掘のような凹角部(高さ1m程)があったが堀切だったのかな?。 275m付近は傾斜も弱く、なかには綺麗に削平された様な 5x8m程の平坦地がある。潅木の隙間からは加古川流域を眺望出来るが 此処から主稜線までは踏み跡を追っての軽い藪漕ぎの登りで、曲輪の切岸を思わせるような大木山手前のCa370m地点・先日、武嶋山側から登ってきた尾根と合流する。
石原坂への町界尾根から大木山

自然地形で露岩の多い平坦地が大木山側に続くが中町や市原を望む西側一段下に幅の狭い台地が有り帯曲輪の様です?。城域から外れる様ですが僅か100m地点が大木山山頂375mです。 上大伏山城関連の見張台として有効な位置だが明確な遺構が見られなかった。同じ道を引き返しても期待出来そうにないので 幡上(4等 350m)から辿った石原坂へ降る町界尾根をトレースしてみます。踏み跡不明の尾根筋は初め分かり難いが途中には快適な展望の山道が現れる。
石原坂へ向かう町界尾根から望む点名:幡上

西下方には石原坂トンネルに向かう県道139号側の東池が、点名:幡上と山頂付近の露岩を映しとる水鏡となり、 池の東北に有る湿地帯や小丘を廻る遊歩道等は今・公園化が進んでいるようです。送電線鉄塔が近くなると巡視路となりプラ階段を伝って旧石原坂の”越後国蒲原郡新潟町住人願主”と彫られた供養の地蔵石仏が祀られ、中町境標識の建つ前回”幡上”から降り立った 旧県道の車道に出て採石場を経て石原地区に向かった。

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