大木城(平野山)/木谷山と西仙寺山/武嶋山〜大木山〜石原坂 |
木谷山砦は三等三角点・木谷山415m峰の南西にあって高圧鉄塔の建つ展望の良いCa380m峰地点の平坦地を比定されている様だが鉄塔建設工事で整地されて城砦跡を想定出来る遺構を見つけるのは困難の様です。ただ・北方には杉原川に沿って拡がる 中町の平野が生野や和田山・福知山へと但馬・丹後へ通じ、南には蛇行する野間川に沿って延びる八千代町の盆地をあって東播磨の加西・姫路へ向かう山陽道への街道筋と要衝を眼下に望む重要な監視地点ともなっています。
木谷山東尾根・旧鉄塔跡近くの土橋?
東に矢筈城・南に角尾山城や水尾城、北は間近に野中氏の大木城や森本氏の森本城・西安田城を監視しながら貝野城・段ノ城と連絡出来、西に在田氏本拠の野間城が近いので、此の在田氏の野間城関連の砦として、摂津方面から侵攻してくる敵に対する備えとしたのではと考えられ、在田氏が本拠としていた河内城(加西市)から野間城に本拠を移した天文年間(1532-55)以降、水尾城・宇仁城等と連携して本城の野間山城の南入り口や、貝野城・段ノ城の南入口を守備・監視する砦として東隣の西仙寺山砦と合せて築城されたものと思われます。
= 同 = 鉄塔跡?の平坦地は出曲輪?
築城時期・城主不明の上、城砦跡も25mx15mの削平地が有ったとされますが鉄塔付近に遺構が見当たりません。近辺の尾根上には随所に自然地形の平坦地を見かけるが比定地以上に城跡を感じさせる場所が有り、特に木谷山三角点の東尾根上には旧送電線鉄塔跡の
平坦地とその山側に10m程の土橋状や、東の尾根上には数箇所の段差を持つ狭いながらも小さな平坦地があって杉原川沿いの中町側を見通せるので木谷山砦の監視を補佐する出曲輪の様です。
また三角点北西方の尾根にも広い平坦地や、鉄塔の立つ位置は野間川を見下ろす見張り台・本城の野間山城へは狼煙が駄目でも仕出原経由で伝令さえ走らせられる近距離・・・!!
仕出原側に延びる木谷山北西尾根上の平坦地
木谷山三角点から此の山塊の最高峰 423m峰を経て馬事公苑に延びる南尾根上に、水尾城と角尾山城とは野間川を挟んで正対して相互に連絡出来る位置に城砦らしいものは無さそうですが、
木谷山砦の出曲輪か別に固有の砦が一番に有りそうな気配の強い地域です。木谷山キャンプ場から西の尾根に向かい、西脇馬事公苑が展望出来る尾までは周回ハイキング道が整備されています。
此処から先・最高峰経由で再度・木谷山三角点へは踏み跡程度です。
キャンプ場からのハイキング道・馬事公苑展望台
展望台から先の峰で木谷山側と反対に鞍部へ下り登り返して続く、南尾根277mピーク迄 ・行ければ野間川を挟んで対峙する上王子町背後の296mピークへと続く尾根筋には何か発見出来るのかも?しかし此の山域は野間川南側の角尾山といい、
今回の木谷山や西仙寺山にしても稜線以外は踏み跡があっても羊歯類や雑木藪に悩まされそうで、草木や羊歯類に覆われた山上では平坦地はおろか曲輪・堀切等の遺構を見つける事は至難の業かもしれない・・・
西仙寺山砦 西仙寺山 306m 西脇市市原町字山脇神
西脇市の市原に旧国鉄鍛冶屋線市原駅の駅舎が残されています。
気動車の前の交差点の市原自然公園と西脇馬事公苑への案内標識を見て市道木谷山線に入ります。木谷山線が出会町から馬事公苑を野間川沿いの県道34号(西脇八千代線)合山町に出る間に、二つの低丘陵を分けています。峠付近の西に位置する
木谷山砦へ先に寄っていますので、今度は峠から東側に位置する西仙寺山砦へ向かってみます。南へ延びる尾根上は広い切開きが急斜な分岐尾根ピーク手前まで続きます。此処までの細長い尾根と此のピークの方が砦跡に相応しい様相です。
分岐尾根ピークからの西仙寺山砦(左)
東へ向きを変える主尾根の先に見えるピークが西仙寺山砦。 1〜2m程の高さで囲われた10mX15m程の小さな曲輪?が有るだけ、北には竪堀 がありそうだが?頂上部の台地は一面に羊歯類が覆っていて
台地状以外は何も確認出来ず。曲輪を挟むように稜上の東西には自然地形の平坦地が有る。尾根上にガレた岩場が切り立って見える南尾根末端に行ってみる。ザレ場からは見通しが良さそうだが小雪がチラツキ遠望は効かず西脇市街地も見えない。遺構の状況が確認出来ないので憶測だが木谷山砦ともに・おそらく同時期に同勢力が築城したものと思われます。同時期と勢力が播磨赤松氏配下の有力家臣・在田氏と考えれば本拠河内城(加西市)から段ノ城 ・貝野城(中町)に城を築き本拠を野間城(八千代町)に移した天文年間(1532-55)以降の事でしょう。特に貝野城・段ノ城の南入口を守備・監視する砦として東の矢筈城・北の大木城や森本城・西安田城を監視しながら杉原川に沿って但馬や奥丹波・丹後へ通じる要衝の守備や連絡・見張りの砦として西隣の木谷山砦と連携しあって野間城の南口を押さえる最前線基地の一つとして機能したと考えるのが妥当なように思われます。
羊歯類に覆い尽くされた西仙寺山砦跡?<
木谷山砦と同様に城史や遺構さえ満足に確認出来ない二つの砦が赤松氏一族関連の城砦だったのでしょうが、戦国期末期・天正3年 (1575)別所重棟(後の但馬八木城主)によって滅亡した在田氏と共に廃城となったか、反対に森本城と同様・別所方に付き後に別所氏に落とされたか、其れまでに砦は廃棄されたものか?当初・西仙寺山砦への取付き点と考えていた
旧鍛冶屋線市原駅舎南方約1.2km?程にある西仙寺は白雉2年(651)法道仙人開基を伝え、千姫が我が子の霊を祈るために信仰を寄せたともいわれ市内最古の五輪塔や釈迦三尊板碑がある古刹です。
そのV 山根橋〜上大伏山城〜大木山〜石原坂トンネル H17.04.10 ←城史不明の為・山レポートを含みます
上大伏山城 xxx山 Ca275m〜Ca360m 西脇市(旧多可郡)黒田庄町大伏
武嶋山〜木谷山レポートで木谷山山頂が西脇市の大木城と黒田庄町の黒田城の間にあって、両城が黒田氏兄弟の城なので関連の砦跡ではなかったかとコメントした後で、周辺の山を調べていたら「多可郡黒田庄町教育委員会の遺跡分布地図」で大木山から北東・黒田庄町の石原と犬伏へ延びる枝尾根の稜線上に中世山城が有った事が分かった。
R175号側から大木山・上大伏山城(中央の稜上)・尾ノ山?(右端)
ただ登城口を捜していたら位置的には石原坂を越えて中町へ抜ける県道139号線を挟んで石原城 ・石原北山山城・西畑城館と呼応して、この街道や加古川沿いの要衝や黒田城を監視し、石原城の南面を守備する見張台・砦として、黒田氏では無く寧ろ黒田氏を攻め落した石原氏の城だったように思える。
トンビが舞う上大伏城城域の主稜と大木山(右端)
加古川沿いを走るR175号の中央橋西詰交差点から県道139号に入り石原坂トンネルへ向かうと
左手奥の大木山から東北へ延び出した丘陵が139号線に側に其の先端を落としてくるところ。尾ノ山?の丘陵の東側は大伏地区で、山裾を野尾谷川が流れます。取付きを考えた大伏側でしたが一巡して通い慣れた!石原坂トンネルに向かいます。
末端ピークの尾ノ山?の西側に林道が有るので此れを利用してみます。野尾谷川に流れ出る市山谷川に架かる山根橋を渡った先の 駐車スペースに車を置いて林道に入りますが、
直ぐに開けた谷間の扇状地に住宅が数軒建ち、林道は4〜5軒の宅地を経て細い斜面を登り急斜面を降っていきます。
上大伏山城城域中央部Ca275m付近の平坦地
そんな変則的な ?最高所のターニングポイント山側に鉄梯子が架かり細い踏み跡を見つけ尾根への急斜面に取付くと、 半独立丘陵の尾ノ山とは尾根続きの北端の192m峰に着く。
上大伏山城の城域外になっている様だが、絶好の位置に有り眺望良く5〜6u程の円形の平坦な山頂部は円墳のようだが、見張り・通信機能を持った出曲輪・砦であったと思われます
(上の大木山〜尾ノ山の写真中央の峰)。展望良く快適な潅木と露岩の枝尾根が「黒田庄町広域簡易水道 ・大伏配水池」施設の有る東側から大木山主稜に延びる 196m峰の上大伏山城城域の尾根に接続します。
石原からの尾根分岐付近からの大木山
丸く盛り上がる配水池のある小ピークは 自然地形の平坦地、尾根の三方は急斜で配水施設の有る東先端部付近には竪堀らしいものを見るが、
整備によるものかは不明?枝尾根分岐に引き返して、登りはじめる稜線は岩屑の目立つ岩盤尾根が続く。土橋状の細くなった稜上・275m峰への登りはじめで、鞍部というには緩やかな尾根上に浅い空掘のような凹角部(高さ1m程)があったが堀切だったのかな?。
275m付近は傾斜も弱く、なかには綺麗に削平された様な 5x8m程の平坦地がある。潅木の隙間からは加古川流域を眺望出来るが
此処から主稜線までは踏み跡を追っての軽い藪漕ぎの登りで、曲輪の切岸を思わせるような大木山手前のCa370m地点・先日、武嶋山側から登ってきた尾根と合流する。
石原坂への町界尾根から大木山
自然地形で露岩の多い平坦地が大木山側に続くが中町や市原を望む西側一段下に幅の狭い台地が有り帯曲輪の様です?。城域から外れる様ですが僅か100m地点が大木山山頂375mです。
上大伏山城関連の見張台として有効な位置だが明確な遺構が見られなかった。同じ道を引き返しても期待出来そうにないので
幡上(4等 350m)から辿った石原坂へ降る町界尾根をトレースしてみます。踏み跡不明の尾根筋は初め分かり難いが途中には快適な展望の山道が現れる。
石原坂へ向かう町界尾根から望む点名:幡上
西下方には石原坂トンネルに向かう県道139号側の東池が、点名:幡上と山頂付近の露岩を映しとる水鏡となり、
池の東北に有る湿地帯や小丘を廻る遊歩道等は今・公園化が進んでいるようです。送電線鉄塔が近くなると巡視路となりプラ階段を伝って旧石原坂の”越後国蒲原郡新潟町住人願主”と彫られた供養の地蔵石仏が祀られ、中町境標識の建つ前回”幡上”から降り立った
旧県道の車道に出て採石場を経て石原地区に向かった。