志方の城山と並荘湖周辺の低山 中道子山城/行者山〜黒岩山〜升田山 |
中道子山(ちゅうどすさん)城は志方町の東志方の山城と呼ばれている標高271.6mの城山で、東播磨では代表的な城として知られます。
古代山岳寺院の在ったところで、弘法大師の弟子・真紹上人が弘仁2年(811)山頂に無量寿院を創建したのに始まり本光山中道寺と改号しましたが、南北朝期の領主赤松(入道円心)則村の三男・則祐が築いて
三の丸北:二重堀切の二(更に深い堀切がある)
四男氏則(氏範)が守将として入ったと云われます。康暦年間(1379-81)頃の築城と考えられ、其の際・山裾に本尊は移されたといいますが、山麓の中道子山城とは
関連が深い安楽寺では無いようですね。此の寺は永正15年(1518)真紹上人の開基を伝えています。
中道子山城の城門 H18.3.5
氏則は赤松一族から離れ終始南朝方に味方し、永徳3年(1383)秋:吉野を退散して最後の一戦を加東郡の西国霊場25播札所
清水寺に求めて此処に籠り、丹波道をきり塞いだ。 北朝方は氏則の甥にあたる赤松義則らを差し向け合戦に及び一族郎党
137名とともに切腹しています。
二ノ丸と米倉間の北にある井戸曲輪
出土遺物の分析から焼失は
享禄年間(1528〜1531)頃と考えられており、その前後2時期に城の築かれたことが分かり、既に石垣で築いた城郭があり、此れが焼失後さらに土塁で再度城郭が築かれたことにります。城の再構・修築に於いて土塁を石垣に変えるのなら分かるのですが、逆に土塁の内側に石垣が積み上げられています。其れを今確認できるのが三の丸東側・井戸曲輪の北面の搦め手付近ですね。
雑木藪を分け入ると羊歯類等の下草で覆いつくされた底部に石列がある。
高土塁で囲まれた米倉と三村荒磯の歌碑
その上は土の層が盛り上がっていて其の先は谷。井戸曲輪のある南へ延びる盛り上がりは石積を露出した土塁だった。土塁の先は約 1.5m幅の通路が石積みの廊下状に続く。
谷側の壁も土塁で上部に石列が残る。通路を遮るように突き出して食違いを呈する石列が有り鋭角に三の丸に入る通路と、井戸曲輪へと三の丸東下を進む通路の分岐点に、搦め手門が有った事を示す「城門跡」の標柱が立ててあった。
中道子山城の城門 H18.3.5
さて本丸は周囲を低土塁で廻した長さ約6〜70m・幅35m程の広い曲輪で展望も良い。 「赤松城址」1等三角点(272m)の石標柱が埋めてある。
本丸から北の尾根側に続いて三の丸があり、中程北の谷側に井戸曲輪があって以前は水面が見えた。 今は金網フエンスに囲まれ立ち入られないが、中に石組み井戸があって、湧き水が湛えないという。 三の丸から北尾根筋を辿ると激急斜面下に深い堀切が有る。さらに藪中を降ると更に大きく深い堀切に降り立つ。
中道子山城搦め手門跡
いずれも岩を切り崩して深く・城域側により高く堅固な備えになっています。当概城レポート最下段の一連写真最期の二枚で確認してみてください。
嘉吉の乱(嘉吉元年1441)で断絶していた赤松家は長禄2年(1458)加賀半国守護と備前新田荘を賜って大名に復活し、
応仁の乱(応仁元年1467〜)文明の乱(文明9年1477)の時、赤松政則が赤松家を再興し、それに従軍していた孝橋繁景が中道子山城に復帰・再興したとされています。
中道子山城搦め手門跡
孝橋繁景は明応5年(1496)に没し政頼が継ぐが、この頃より赤松家の重臣 ・備前国守護代の浦上則宗(三石城主) が急速に勢力を伸ばして赤松守護家に敵対するようになってくる。孝橋氏は赤松守護家に従ったため 浦上氏との何度か戦いで焼失し城郭は再構築されたと考えられています。そして政頼の子、秀光が城主の頃の享禄4年(1531)に細川両家の争いの中、 赤松家を支援する播磨国人衆が「天王寺合戦(大阪市)」に於いてようやく浦上氏を倒している。
二の丸大手道(登山道脇)の櫓台
しかし天文7年(1538)出雲の尼子詮久(あきひさ)が播磨に侵入して来る。尼子氏が(播磨に駐留2年)去ったあと、 天文18年(1549)この頃摂津で勢力を伸ばしてきた三好長慶は摂津・三宅城の細川晴元(4代孝橋秀光は晴元に従軍していた)と
戦い戦死したと伝えられます。その子5代秀時は中道子山城を捨て、播磨佐用郡浅瀬山城へ移り廃城となって歴史を閉じます。
本の丸(米倉)とされる高土塁囲みの曲輪
また出土遺物の中に天正期のものが殆ど含まれず天正期に使用された可能性が低い為、羽柴秀吉の播磨攻めでの落城説が疑問視されるが、調査以前の郷土史等では天正年間(1573〜1592)に羽柴秀吉に攻撃されて善坊城(加西市)孝橋刑部介則繁の養子となった新五郎上総介繁広(満直)【嘉吉の乱に没落し享徳3年(1451)に没したという】の子繁景が赤松政則に従い山名勢を播磨から退転させると、戦功により志方庄の一部を領して城を修築し、
天正期には其の子孝橋彦次郎秀光が城主だったが、志方城と共に落城した?とも伝えられています。
三の丸北:二重堀切の一
志方の城山を攻めた際・秀吉が采配した太閤岩が高御位山の東尾根筋・見晴らしの良い旗振り山の近くに伝えられているのですが,
羽柴秀吉の攻城の時、竹の皮を敷いて攻め上る秀吉軍を苦しめたが、其の竹皮に放火されたため城に火が移り落城に結びついたという。
三の丸への「鯛の坂」という登城口は、城兵が鯛を見せびらかして明石方面からの間道から兵糧が搬入されていることを誇示したともいいます。
三の丸東:搦め手側の石積の残る土塁跡
又・姫君が城内の井戸に落ちそれ以後、井戸から「わしの櫛や笄(こうがい)知らんか」と言って姫の幽霊が出るようになった…と、
そして後日談ですが、この井戸を浚(さら)ったところ笄が一本出てきたそうです。更に軍用金埋蔵の話があって「朝日照る、夕日輝く木の下に、瓦千枚、金千枚」…中道子山城にまつわる軍用金埋蔵の在りかを示す暗号の歌とされているのですが?
この歌にある「八重が谷」と、はっきり場所が指定されて伝わり、昔から幾人もの人によって宝探しがなされたそうですが、肝心の八重が谷が・どの谷のことか分かっていないと云います!。
(現地 中道子山城案内板・加古川市教育委員会 兵庫の城紀行・神戸新聞出版センター等を参照)
天神山城(赤羽城) 愛宕山(天神山 127m) =未訪 = 加古川市志方町西飯坂
志方盆地の中央に位置し、志方中学校の背後の天神社北にある独立丘陵・天神山(愛宕山)に室町時代中期
・永徳年間(1381-84)に赤松則村の四男・弾正少弼氏則が築いた城で父・(円心)則村はじめ北朝方にあった赤松氏のなかで、ひとり南朝方に与(くみ)し、志方の城山から小高い天神山に移って城砦を築いています。
至徳3年(元中3 1386)8月、所領の摂津中嶋で叛乱を起こしたが清水寺に敗走し、寺を城郭化して籠もった清水寺城周辺には、
赤松の切腹石や氏則の五男・乙若丸(13歳)と袂別した稚児岩の伝承地が残っています。氏則父子・郎党137名と共に自害します。その後の天神山城は櫛橋氏の居城となりますが、赤松氏にあって氏則を攻め中嶋で戦死した
伊光の子・伊範に恩賞として、この城が与えられたと考えられています。天神山城は水の手が充分でなかったので11年後には下方の志方城(観音寺山城)を築いて移ります。嘉吉の乱の時・櫛橋貞伊は赤松教康に従って伊勢に脱出するが、
そこで櫛橋一族6名と共に自害しています。天神山城は一族が赤松満祐の城山城に篭城していた頃、討伐軍に落とされています。
天正年間・三木合戦が起こり志方城主櫛橋伊則の弟秀尚が廃城となっていた天神山城を修復し赤羽城と称して
守備するが志方城と共に落城した。今は・空堀跡や土塁跡ではないかと思われる地形や、僅かに石垣が残っているといいます。天神山城址へは天神社の裏手から「赤松氏範公碑」を見て山頂の本丸までに三段の郭が残り二の丸北には堀切と堀切を渡る土橋がある。
天神山山頂に愛宕神社跡と言われる広場があり築城時のものといわれる石垣が残る。