志方の城山と並荘湖周辺の低山 中道子山城/行者山〜黒岩山〜升田山
播磨 地図(五万図=高砂)
T平荘湖:加古川ウェルネスパーク・行者山〜黒岩山〜升田山 2006年03月05日
U山行日 2007年02月25日(前回2001.3.3/2006.3.5)
   安楽寺前= 城山公園〜城山(・志方の城山・中道子山城)
黒岩山から望む平荘湖

近畿の山城 : 中道子山城 天神山城 (赤羽城) =未訪=
 : 升田山古墳群と平荘湖古墳群

播磨には低山ながら露岩の稜線が続き、ミニ・アルプスを形成して標高の低さを感じさせない雄大な景色と周辺の展望を楽しませてくれる山が多く 善坊山・小野アルプス・高御位山そして其の高御位山から白く輝く平荘湖を囲む堤防の様な超低山・丘陵も快適な岩尾根歩きと好展望を約束してくれます。平荘湖l周辺の湖(みずうみ)内や丘陵上には100基ばかりの古墳が集中して点在する壮大な墓地公園!。平荘湖(工業用水ダム湖)は加古川市の総合的な健康づくりの拠点ともなっています。ウエルネスパークはウエルネスセンタ(音楽ホールや図書館等々を併設)を中心として、
中道子山城:搦め手門の石積土塁 H17.2.25

湖畔には野鳥観察ゾーンと市立青少年自然の家・県立東播磨青少年館等施設が建ち、三つの長い堰堤で仕切られたダム湖周回の水平道はジョギングや散策に四季を通じて訪れる人も多い。行けなかった飯盛山や、場所がわからず見残した古墳もあり花見の頃にもう一度…と思うが行楽に訪れる人も凄いんだろうな?中道子山地元では志方の城山とも呼ばれ播磨中部丘陵県立自然公園にあって南北朝期:赤松円心の四男・氏則により築かれた山城です。 「ちゅうどすさん」へは五年前の同じ頃(2001年3月3日)訪れているが加古川の平荘湖を周遊ハイクした後・帰路に「細工所」の表示を見て寄ってみます(2006年3月5日)。1年後の播磨の城オフ (2007年2月25日)では”城めぐ.COM”の本岡さんとも一緒に廻る予定は所用でご一緒出来ず、其れでも中道子山城登山口で待っておられた。 三の丸東側斜面下:藪の中に残る搦め手口の城門跡や石積み土塁の遺構は既にご覧になっていたのだろうか!。
安楽寺付近より:ボンネットに写りこんだ志方の城山 H13.3.3

城山や七つ池 ・権現ダムへと…写真の示す通り山陽自然歩道の案内標識も整備されて、小野市との境界尾根にある小野アルプスへのコースともつながっています。 只・城山へは此処安楽寺付近から直接尾根を辿るコースは無さそうです。花見やハイキングにと親しまれてた城山で、あの日と同じに梅の花が咲いていますがハンググライダー:パラグライダー基地は閉鎖されたのかな?。 ランディング・スロープの上部広場に廃車となった送迎用車が放置されていた。



平荘湖周回の低山と古墳廻りハイク
ウエルネスパーク〜行者山〜黒岩山(天下原・クラマ山)〜升田山〜平荘湖周回 2006年03月05日

小野市に入って県道79号(高砂加古川加西線)の 権現ダムサイトを抜ければ平荘湖は近い。今までは高御位山や姫路市方面に出かけても此の道は通らず 県道43号(高砂北条線)を利用して加西市に向かい「平荘湖」の案内表示をみて何時かは観光散策してみようと思っていた。平荘湖の北畔からはりま少年館や少年自然の家を通るが、満車状態で湖の西端まで来てしまった。
行者山山頂(此処も古墳)


ゲートが有ってドンドン車が入っていく様だ!其処がウエルネスセンタパークの入口。 池や芝生公園のある外観もユニークで綺麗なセンターです。入口は2階・下の広場へ出てみようと夜行性動物遮蔽の様な、前の見えないドアから渡り廊下を別館に入ったら別世界。今日はカラオケ大会会場になっていて、入るわけにも行かず出口のドアも開かず、また引き返して駐車場から神社の屋根の見える高みに向かった。
黒岩山(天下原):眺望絶佳は点名が示す)

地元では「天下原の毘沙門さん」で知られる大歳神社で、 参道石段前に神吉山・黒岩山登山口の標識がある。細いがよく踏まれた登山道は直ぐ露岩混じりの登りだが行者山と黒岩山分岐の鞍部でも標高100mに満たない低山です。行者山へは水平道・途中に古墳、脇侍を従える役行者像が建つ 行者山(98m)山頂も古墳跡。100を数える古墳群の多くは湖畔近くに集中している様ですが 周囲の丘陵にも点在するようです。しかし殆ど盗掘され其の石材さえ散逸し、探してはみても素人の私に古墳の存在はわからない…。
行者山・神吉山縦走尾根と高御位山(奥の右端)


登山コースは神吉山(58m)へ降っていきますので、鞍部へ引き返して岩尾根が続く黒岩山に向かう。急な岩場の斜面には鎖場もあり此処を通過すれば黒岩山 (4等3角点 132m 点名:天下原 別名:クラマ山)山頂です。低山ながら展望抜群で点名:天下原の名が頷ける。振り返る岩尾根からは登ってきた行者山の裾に神吉山、播磨平野の先に一際目立つ高御位山、北にはこの後で寄って見るつもりの中道子山城が、東北方直ぐ其処には・より高く登行欲をかき立てる飯盛山が控えていますが今回はパス。
升田山山頂

平荘湖を正面に見てウエルネスパーク・ゲート近く、湖の北西角の車道に下りてくると、車道を渡った所が平荘湖周回スタート&フィニッシュ地点で、チャッカリとお好み焼き・たこ焼の露天が出ている。 低丘陵ながら尾根を歩く人は皆無の様で堰堤を渡り終えた所から始まる升田山への取り付きも、踏み跡は確りしているが隠れ気味でテープ表示があるだけです。行者山でも見かけた「xx号古墳」表示に堰堤側に少し入り込んだが 何も無さそうで諦めたのが大変な誤解…再来の要有りです。升田山へ高低さの殆どない緩やかな尾根上に次々と升田山xx号古墳の表示板が現れるが、 何れも同じ文面で「残念なことに全て盗掘され、石棺も・石室の形跡すらも残っていない…」。
升田山から平荘湖へは 両サイドが石切り場の戸渡りを楽しんで(~_~;)

変化の無い・左右に枝尾根も無いのに展望が効かない尾根筋を辿って湖側への下降路に出た。”連れ”は此処から降りてしまいたい様子だったがもう少し・・と 騙しだまして先へ誘うと一気に前方は明るく岩盤の登りとなる。躊躇する相手に、あちらへ・ソッチヘと指示して進む。長い補助ローブ(太いザイル)で事無きを得て好展望の升田山 (3等 点名:上ノ 山 105m)山頂に到着します。ベンチが置かれ岩盤に三角点標柱が埋め込まれている!!。南下方を流れる加古川に向かって続く 長い岩尾根が播磨風土記に云う八十の岩橋。此れを下りたいところですが帰路が遠くなるだけ。自分的には此方のコースにしたいのですが、東西・採石場となる切立つ崖上の”戸渡り”状態の尾根筋を直接降って湖畔の弁財天祠のある平荘湖南端に降り立つ。
辿ったコース黒岩山(中央)〜升田山西尾根?平荘湖を望む


升田山は昔 ・此の山の石で斗(ます)と乎気(おけ)を作った事から斗形山と呼ばれと言い、また麓から峰までに石橋が有って「上古の時、この橋天に至り、八十人衆が上下往来した。故に八十橋といった」と伝えられるのが八十の岩橋です。 最初に生まれた淡路島に近い此の地に於いて:国造り伝説の男神・伊弊諾(いざなぎ)と女神・伊弊持(いぎなみ)の二神が升田山に居られ、更に八百万(やおよろず)の神のうち降臨された?八十人の神を使役して、どの様な大工事をなされていたのでしょう?  此の工事には升田山からも望める「石の宝殿」を造って此処に鎮まる大巳貫命(オオナムチ)と少彦名命(スクナヒコナ)の二神の協力を得ているので、天にも続く”石橋”そのものの建設だったのかな?。 天女が舞い降りて来て羽衣を掛けたの所が、平荘湖を挟んだ北向いの天下原(黒岩山)とも云われます。


平荘湖古墳群と升田山古墳群
平荘湖古墳群
平荘湖内に残されて いる古墳は、県営の工業用水ダム建設の際・昭和37年〜41年(1962-66)にかけて発掘 調査が実施され、もとは100基を越える加古川下流域最大の古墳時代後期 (6〜7世紀頃)の古墳群。水没している前方後円墳一基をのぞいては、 全て円墳の様です…が多くは水面下に沈み、湖の北岸には水没を免れた数基の石室や石室基部を残す古墳を見ることができます。
東播磨青少年館前5号墳:墳丘の残る石室も”炭焼き釜”かゴミ捨て場
 

湖岸部には封土を洗い流され石室が完全に露出しており、葺石が頭部を見せているもの、 石室基部の羨道部らしい石列を残しているものが、水面を透かして見られる特異な古墳ウオッチングの穴場ですね。湖底に消えた幻の都を想うロマンさえ感じる。 東はりま青少年館前から野鳥の観察ゾーンにかけての湖畔に点在する古墳群に珍しく墳丘を残す一基が有った。羨道部は片側側壁を残すだけだが、玄室部は完全に残るが踏み込むにはゴミや空き缶で躊躇する。
5号墳の玄室部

天井は煤けて焚き火の跡も歴然…先ほど歩いてきた升田山への尾根上に点在する 升田山古墳群は、何れも盗掘を受けているとはいえ、墳丘や石室はもとより石材さえ探しても判らない程でしたが一つ一つに説明は同じ?ですがXX号墳の説明と「文化財である旨の注意書き」は有りました。 しかし此処にはXX号墳の案内も「注意書き」も無さそうで、 唯一「危険・立ち入り禁止」マークの標識が墳丘の残る5号墳の玄室前に立ててあるだけ。文化財の保存や意義については、最適なロケーションに施設も有るのでPRに有効に活用してもらいたいですね。此れ等:古墳群からの須恵器・鉄器等出土遺物は加古川総合文化センタ-博物館と 東はりま青少年館に保存されてもいますから。
湖畔に集う鴨の群れ:撒餌を待っているのか逃げない!


湖畔に目を移すと水際近くに数多くの鴨がいますが、冬期には1万羽の鴨等が飛来するといわれます。少年自然の家前付近は「水鳥の自然観察場」としてデッキや小屋まで用意されていますが、ふれあい観察出来るほど側に寄っても逃げません。 車道沿いに平荘湖周回スタート地点で、黒岩山登山口(小さな標識が立つ)でもあるウエルネスパークのゲートに戻ってきます。此処の「稚児ヶ窟」の標識があり、先に知らず素通りした升田山から石切場を下り降り立ったダム側の弁天神社にある家型石棺の事と知った。大きな「平荘湖」の石碑の文字が背景に飯盛山も写らない方向を向いているほうが気になっていた。
 僅かに玄室の両袖を見せるXX号墳の石室基底部


平荘湖に沈んだ又部新田村には弁天池という大きな池があり、 木の茂った島には弁財天が祀られていたが此れが古墳で、石室を「稚児ヶ窟」と呼ばれ社が祀られていたのでしょう。水没した平荘湖古墳群の中でも大型で一辺42mの方墳で全長13m程の石室を持っていて、 其処にあった石棺が弁天神社境内に安置されていたが神社も水没するため一緒に移築され現在の場所に神社と石棺の蓋石だけが置かれている。縄掛け突起が6個つく重量感のある蓋石です。蓋には地蔵像が彫られているが、 何度起こしても前に倒れるので"こけ地蔵"と言われています。(こける=倒れる)棺の内方も別の場所に保存されているそうですが見忘れ・見残しの多い古墳群ではありました。
(現地:平荘湖古墳群と分布図 加古川市教育委員会案内板 参照)


古代山岳寺院跡は赤松氏:志方の城山 志方の城山公園〜中道子山城(赤松城) H13.03.03 ・ H18.03.05 ・H19.02.25

高砂市から北条市に向け投松交差点を過ぎると右手奥には播磨中部丘陵自然公園の中にあって端正な志方の城山が見える。丹波・篠山市の荒木城登山口にもある細工所の地名がここにもあった。細工所北の交差点には城山(中道子山城)登山口の看板が在り此処を右折して安養寺前を通り案内標識に従えば城山公園の駐車場に着く(AM:11.25)。舗装林道はなをも先に進みますが登山者用のため通行禁止の表示も有ります。
登山道(林道)途中にある毘沙門岩

パラグライダのテイクオフが出来る ランディングスロープが近くにあるのでしょうか?許可書か注意書が張られた看板も見受けられました。舗装林道を15分も歩けば左手上方に大岩が覆いかぶさるように突っ立っているのが毘沙門岩です。舗装林道と別れ、この岩場の下を通るのが大手道(旧登山道)で、この岩場(毘沙門岩15M程)中央には大きな磨崖毘沙門天像が祀られています(AM11:38)。毘沙門岩上部へは旧道から外れて直上・雑木に掴りながら岩場に沿って岩頭部に出て旧道に合流します。
遠くに高御位山を望む H13.3.3


暫く続く登り道は、舗装林道終点からの階段道より自分に合った歩幅で自由に歩けるだけでも、少しは楽かもしれませんね。 新電波反射板?施設のある二の丸の大手門(城門跡)に出て舗装林道から?の新登山道と合流します。下草と藪に覆われた土塁が新道側に沿って築かれていますが、下から登ってくる場合は判り難いかもしれません。 登山道を挟んで案内標柱の立つ石積の残る櫓台跡がありますが、此処も普段は藪に隠れて見辛いところですね。程なく本郭部です。数段の曲輪跡を越して本丸と南にある展望の良い曲輪間に着きます。 この辺りから三の丸周辺にかけては四国88ヶ所めぐりの石仏や大峰講の行者像や不動明王も祀られ並びます。 本丸の虎口には三村荒磯の歌碑「蝉しぐれ 古城をあらく 子ら登る」荒磯が建てられ、石積の残る三方を囲む高い土塁跡は米倉と呼ばれています。
中道子山城:三の丸北の堀切(急傾斜で深い)


本丸跡は一等三角点(271.6m)で三方を土塁で堅固に補強された広い平地で赤松城祉の 石碑がポツンと建っている(AM11:45〜11:55)。 城祉中央部には厳重に守られ井戸曲輪があり1m幅の石組みの井戸があり7〜8m下の水面が光って見える。次の山が控えているので往路をもどる(PM12:15)。 「中道子」の名は山上にあった古代山岳寺院中道寺に由来するものか。本尊は山麓に移されたというが、 城とは関連の有るといわれる永正15年(1558)志方城主・櫛橋左京亮秀則により浄土宗に改宗した中道山 安楽寺に手掛かりがあるのかも! 寺の直ぐ側には小さなお堂と古い五輪塔があった。
中道子山城本丸虎口と三村荒磯の句碑と縄張図

此処にも在った二つのお話し:T:軍用金埋蔵伝説 「朝日照る 夕日輝く木の下に 瓦千枚、金千枚」この歌には「八重ヶ谷」と場所まで指定されているそうですが肝心の谷が、どの谷のことなのか分かっていないといいます。赤松円心の城:白旗山も朝日夕日の埋蔵伝説ありU:竹の皮作戦 山城での戦いでは単純に滑りやすい竹の皮を敷き詰めて・・と考えられるらしいのですが、直ぐ後ではその竹の皮に火をつけられ山も城も全山焼かれてしまう話は兵庫三田にも有って、なにかヘマなこと頓馬なことを言うと 「お前は藍の殿さんかい」と茶化して言い返しますが、この殿様(有野城主)も同じ作戦で負けているのです。此方は三田・千丈寺山へ行く予定もありますので、そのときのお話にとっておきます。


 中道子山城 天神山城

中道子山城(赤松城)  志方の城山 272m   加古川市志方町岡・平荘町

中道子山(ちゅうどすさん)城は志方町の東志方の山城と呼ばれている標高271.6mの城山で、東播磨では代表的な城として知られます。 古代山岳寺院の在ったところで、弘法大師の弟子・真紹上人が弘仁2年(811)山頂に無量寿院を創建したのに始まり本光山中道寺と改号しましたが、南北朝期の領主赤松(入道円心)則村の三男・則祐が築いて
三の丸北:二重堀切の二(更に深い堀切がある)

四男氏則(氏範)が守将として入ったと云われます。康暦年間(1379-81)頃の築城と考えられ、其の際・山裾に本尊は移されたといいますが、山麓の中道子山城とは 関連が深い安楽寺では無いようですね。此の寺は永正15年(1518)真紹上人の開基を伝えています。
中道子山城の城門 H18.3.5

氏則は赤松一族から離れ終始南朝方に味方し、永徳3年(1383)秋:吉野を退散して最後の一戦を加東郡の西国霊場25播札所 清水寺に求めて此処に籠り、丹波道をきり塞いだ。 北朝方は氏則の甥にあたる赤松義則らを差し向け合戦に及び一族郎党 137名とともに切腹しています。

二ノ丸と米倉間の北にある井戸曲輪

出土遺物の分析から焼失は 享禄年間(1528〜1531)頃と考えられており、その前後2時期に城の築かれたことが分かり、既に石垣で築いた城郭があり、此れが焼失後さらに土塁で再度城郭が築かれたことにります。城の再構・修築に於いて土塁を石垣に変えるのなら分かるのですが、逆に土塁の内側に石垣が積み上げられています。其れを今確認できるのが三の丸東側・井戸曲輪の北面の搦め手付近ですね。 雑木藪を分け入ると羊歯類等の下草で覆いつくされた底部に石列がある。
高土塁で囲まれた米倉と三村荒磯の歌碑

その上は土の層が盛り上がっていて其の先は谷。井戸曲輪のある南へ延びる盛り上がりは石積を露出した土塁だった。土塁の先は約 1.5m幅の通路が石積みの廊下状に続く。 谷側の壁も土塁で上部に石列が残る。通路を遮るように突き出して食違いを呈する石列が有り鋭角に三の丸に入る通路と、井戸曲輪へと三の丸東下を進む通路の分岐点に、搦め手門が有った事を示す「城門跡」の標柱が立ててあった。
中道子山城の城門 H18.3.5

さて本丸は周囲を低土塁で廻した長さ約6〜70m・幅35m程の広い曲輪で展望も良い。 「赤松城址」1等三角点(272m)の石標柱が埋めてある。 本丸から北の尾根側に続いて三の丸があり、中程北の谷側に井戸曲輪があって以前は水面が見えた。 今は金網フエンスに囲まれ立ち入られないが、中に石組み井戸があって、湧き水が湛えないという。 三の丸から北尾根筋を辿ると激急斜面下に深い堀切が有る。さらに藪中を降ると更に大きく深い堀切に降り立つ。
中道子山城搦め手門跡

いずれも岩を切り崩して深く・城域側により高く堅固な備えになっています。当概城レポート最下段の一連写真最期の二枚で確認してみてください。 嘉吉の乱(嘉吉元年1441)で断絶していた赤松家は長禄2年(1458)加賀半国守護と備前新田荘を賜って大名に復活し、 応仁の乱(応仁元年1467〜)文明の乱(文明9年1477)の時、赤松政則が赤松家を再興し、それに従軍していた孝橋繁景が中道子山城に復帰・再興したとされています。
中道子山城搦め手門跡

孝橋繁景は明応5年(1496)に没し政頼が継ぐが、この頃より赤松家の重臣 ・備前国守護代の浦上則宗(三石城主) が急速に勢力を伸ばして赤松守護家に敵対するようになってくる。孝橋氏は赤松守護家に従ったため 浦上氏との何度か戦いで焼失し城郭は再構築されたと考えられています。そして政頼の子、秀光が城主の頃の享禄4年(1531)に細川両家の争いの中、 赤松家を支援する播磨国人衆が「天王寺合戦(大阪市)」に於いてようやく浦上氏を倒している。
二の丸大手道(登山道脇)の櫓台

しかし天文7年(1538)出雲の尼子詮久(あきひさ)が播磨に侵入して来る。尼子氏が(播磨に駐留2年)去ったあと、 天文18年(1549)この頃摂津で勢力を伸ばしてきた三好長慶は摂津・三宅城の細川晴元(4代孝橋秀光は晴元に従軍していた)と 戦い戦死したと伝えられます。その子5代秀時は中道子山城を捨て、播磨佐用郡浅瀬山城へ移り廃城となって歴史を閉じます。
本の丸(米倉)とされる高土塁囲みの曲輪

また出土遺物の中に天正期のものが殆ど含まれず天正期に使用された可能性が低い為、羽柴秀吉の播磨攻めでの落城説が疑問視されるが、調査以前の郷土史等では天正年間(1573〜1592)に羽柴秀吉に攻撃されて善坊城(加西市)孝橋刑部介則繁の養子となった新五郎上総介繁広(満直)【嘉吉の乱に没落し享徳3年(1451)に没したという】の子繁景が赤松政則に従い山名勢を播磨から退転させると、戦功により志方庄の一部を領して城を修築し、 天正期には其の子孝橋彦次郎秀光が城主だったが、志方城と共に落城した?とも伝えられています。
三の丸北:二重堀切の一


志方の城山を攻めた際・秀吉が采配した太閤岩が高御位山の東尾根筋・見晴らしの良い旗振り山の近くに伝えられているのですが, 羽柴秀吉の攻城の時、竹の皮を敷いて攻め上る秀吉軍を苦しめたが、其の竹皮に放火されたため城に火が移り落城に結びついたという。 三の丸への「鯛の坂」という登城口は、城兵が鯛を見せびらかして明石方面からの間道から兵糧が搬入されていることを誇示したともいいます。
三の丸東:搦め手側の石積の残る土塁跡

又・姫君が城内の井戸に落ちそれ以後、井戸から「わしの櫛や笄(こうがい)知らんか」と言って姫の幽霊が出るようになった…と、 そして後日談ですが、この井戸を浚(さら)ったところ笄が一本出てきたそうです。更に軍用金埋蔵の話があって「朝日照る、夕日輝く木の下に、瓦千枚、金千枚」…中道子山城にまつわる軍用金埋蔵の在りかを示す暗号の歌とされているのですが? この歌にある「八重が谷」と、はっきり場所が指定されて伝わり、昔から幾人もの人によって宝探しがなされたそうですが、肝心の八重が谷が・どの谷のことか分かっていないと云います!。

(現地 中道子山城案内板・加古川市教育委員会 兵庫の城紀行・神戸新聞出版センター等を参照)


天神山城(赤羽城)  愛宕山(天神山 127m)  =未訪 =  加古川市志方町西飯坂

志方盆地の中央に位置し、志方中学校の背後の天神社北にある独立丘陵・天神山(愛宕山)に室町時代中期 ・永徳年間(1381-84)に赤松則村の四男・弾正少弼氏則が築いた城で父・(円心)則村はじめ北朝方にあった赤松氏のなかで、ひとり南朝方に与(くみ)し、志方の城山から小高い天神山に移って城砦を築いています。 至徳3年(元中3 1386)8月、所領の摂津中嶋で叛乱を起こしたが清水寺に敗走し、寺を城郭化して籠もった清水寺城周辺には、 赤松の切腹石氏則の五男・乙若丸(13歳)と袂別した稚児岩の伝承地が残っています。氏則父子・郎党137名と共に自害します。その後の天神山城は櫛橋氏の居城となりますが、赤松氏にあって氏則を攻め中嶋で戦死した 伊光の子・伊範に恩賞として、この城が与えられたと考えられています。天神山城は水の手が充分でなかったので11年後には下方の志方城(観音寺山城)を築いて移ります。嘉吉の乱の時・櫛橋貞伊は赤松教康に従って伊勢に脱出するが、 そこで櫛橋一族6名と共に自害しています。天神山城は一族が赤松満祐の城山城に篭城していた頃、討伐軍に落とされています。
天正年間・三木合戦が起こり志方城主櫛橋伊則の弟秀尚が廃城となっていた天神山城を修復し赤羽城と称して 守備するが志方城と共に落城した。今は・空堀跡や土塁跡ではないかと思われる地形や、僅かに石垣が残っているといいます。天神山城址へは天神社の裏手から「赤松氏範公碑」を見て山頂の本丸までに三段の郭が残り二の丸北には堀切と堀切を渡る土橋がある。 天神山山頂に愛宕神社跡と言われる広場があり築城時のものといわれる石垣が残る。

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