ササユリの里に山城を訪ねて 野間山城・竹谷山渓谷 ・光竜寺城・観音山/大石良雄の石垣
東播磨 (五万図=生野・北条)
T俵田〜野間山城〜下三原 極楽寺〜しょうどの丸〜野間山本城
U俵田〜林泉荘〜竹谷山渓谷 2002年07月18日
V ガルテン八千代〜光竜寺山城〜中野間三室
W楊柳寺〜観音山(八千代昔の森) 2005年9月25日
極楽寺〜俵田橋へ  2005年10月09日 2008年3月22日
近畿の山城: 野間山城光竜寺城 花ノ宮砦 片瀬砦 野間構
  大石内蔵助良雄の石垣
383峰岩場付近から「しょうどの丸」と野間山城主郭(稜線の右端)

北播磨を領した在田氏が加古川の支流・野間川を挟んで居城光竜寺城・詰め城野間山城を構えていた。野間城とは野間山城・光竜寺城 ・花ノ宮砦・片瀬砦…等の野間谷城砦群の総称。天正3年(1575)諸城は三木別所氏の攻撃に落城した。本拠の二つの山城は共に搦め手に登山道が整備されており、両城の間にある竹谷渓谷探勝を兼ね歩いてみる。ササユリの里・八千代町は 「エーデルささゆり」以後、次々とドイツ・バイエルン地方のコテージをイメージした施設が出来「やすらぎとスポーツの里ガルテン八千代」として 特産品の紹介や観光や交流の場が提供されている。先ずはホタルで有名な野間川の俵田から野間山城を目指し光竜寺城を周回して「ガルテン八千代」に戻る。
野間山城(搦め手)登山口

南北朝期から戦国時代の末期まで220年間使用されてきた城だが野間山城の尾根に連なる郭群は狭く、 とても居住出来る余地や水利(井戸)等施設もなさそう。光竜寺城を居城・野間山城は詰の城としたようです。居城の山裾台地に構居や武士団の屋敷があったのかも…光竜寺山城のある都南山は通称とんだ山と呼ばれ野間落城の際、 姫君が馬に乗って野間城から東の山へ飛んだとする伝説があります。


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俵田〜野間山城(310m)〜下三原:極楽寺〜しょうどの丸〜野間山本城〜大手道

県道24号線で八千代町の中野間に向かい極楽寺からの大手道をと思ったが駐車スペースや確かな案内板・整備された登山道もある 俵田橋からスタートします(AM6:50)。野間川に沿って「ホタルの宿路」と名付けられた遊歩道が「フロイデン八千代(別荘付市民農園)へ続いている。階段続きの取り付きから7〜8分の山道途中に4等三角点(点名:門下183m)があり、
"しょうどの丸"から無名峰383mへの道

南北朝期の木戸跡?・戦国期の見張の番小屋でもあったと思われる点標名です。荒れた砂地の稜上には低い潅木帯にツツジの木が目立つ。眼下には野間川沿いに「フロイデン八千代」のカラフルなコテージが集合住宅のように整然と建っているのが見える。 尾根筋が幾分緩やかになってくると幅の狭い稜上に何段もの削平地が続く。春・南面の谷間にはタムシバが山稜にはヒカゲツツジも楽しめるようです。 少し広い曲輪の先からは 露岩が目立つ狭く細い曲輪群(AM7:10)ですが南側に犬走り程に細い!!帯曲輪が本丸跡へと続いており石積みが西端の曲輪にかけて施されています。
野間山城南郭「しょうどの丸」の石積み

大小の自然石を巧みに組む穴太積とは違う野面積み技法と思えるが長い城史最期の時期の修築時に 補強されていったものと思われ本丸西曲輪にかけても補強されています。野間山城登山コースは帯曲輪の本丸脇から南斜面を捲くように鞍部の「兵溜まり」へ向う。僅かに土塁跡も認められ、その間から下方に踏み跡があり 進んでみると鞍部は深く大きな堀切で区切られています。 稜上は展望もよく前方に素晴らしい尖峰と岩場が見えています。野間山城最高所にあるしょうどの丸への尾根を既に外しているが今は目前の無名ピーク383mが気がかりです。
大手道:詰め番所と武者溜まり付近の岩盤を削った堀切

大岩の頭を過ぎて383mピークに辿り着いても暗い植林のなかに展望は無。 尾根から直接南側へ不明瞭な踏み跡らしい!!ところを辿って先へ続く林道の途中・池の側へ降り立ち5分ばかり集落中を抜けて下三原のバス停(運休中 AM7:55)へ出て、大和川沿いに炎天下の県道34号線の車道歩きです。 中野間の花の宮交差点近くで八千代町観光案内所の看板を見てパンフをもらって歴史に興味のある主人と暫らく立ち話。 赤穂藩の飛地があった加西市の 赤穂義士ゆかりの久学寺の話、九月頃オープンする近場の温泉の話等…しかし此れから再度登る極楽寺からの大手道のコースを聞き漏らした。極楽寺からは(AM8:40)とんでもないコースで野間山城域でも目立つ しょうどの丸のピークへ
野間山城東郭(主郭群中央付近の石垣)


直接登ってしまったが大手道は伊勢和山極楽寺(天台宗比叡山延暦寺派 本尊・千手観世音菩薩)の山門(仁王門)前から通じている。寺は孝徳天皇の白雉2年(651)天竺から渡来の法道仙人による創建と伝えられ「竹谷山道脇寺西の坊」と称されていましたが天正3年 (1575)8月別所重棟に攻められて野間城落城の際に延焼し享保年間(1719〜1724)に現在地に再建されています。 寺保蔵の極楽浄土変相曼荼羅(当痲曼荼羅)によって、この地も弥陀の浄土であるとして室町期に極楽寺と号されるようになったといいます。詰の城・野間山城を背にした極楽寺付近の台地に館があったと推察されます。
無名峰383m直下のモアイ岩

かつては城門もあったと思われ本丸虎口へ続く大手道は極楽寺から谷に沿って登ると説明があるが 民家や田畑の中を突っ切ってゆくルートには滅法弱くて、今回も取付き点が判らず寺の周辺を見て廻るが抜け出せそうな寺脇の細道にはネットが張ってあったりするもので諦め引き返し、寺の左手・八幡神社への道から大きく寺の裏手へ巻くように して幾つかの墓地の間を過ぎて谷沿いの道を登ります。 しかしこの時点で谷を一つ間違っていた。 当初明確だった此の山道を嘗ての登城道かと 想像する程の道でしたが余りの急登続き、岩場を避けながら結局は蜘蛛の巣を払いながら、
極楽寺山門と野間山城(伊勢和山)

稜線に藪漕ぎで抜け上がると細い踏み跡は支稜南端・見張台へ続き、よりによって一番急峻な中央の「しょうどの丸」と呼ばれる最高所に登り詰めます(AM9:20)。 山頂の曲輪跡から本城側へ続く東の稜上にも二つばかりの削平地を見て細い岩尾根に出てきます。展望・休憩には良い場所です。 先ほど縦走してきた383ピークの尖峰と手前にはモアイ像を想像させた岩壁が南東面に立ちはだかって見えます。「しょうどの丸」への尾根取付きとなる鞍部・番所跡までの 尾根筋にも平坦地が残ります。野間本郭部へ向かう鞍部には番所跡とも[兵留まり]ともいわれる曲輪があり (AM09:50)極楽寺からの大手道は此処に登って来ます。
東郭「本丸敷」から西に曲輪を重ねて連なる主郭群


再度本丸を往復して(しょうどの丸から20分弱の行程)逆に此処から谷通しの道を降ります。道筋はハッキリしているが、あまり歩かれていないのか草生した道は笹でも道が埋まり、足下が見えず湿っけもいるので此んな所を歩いていると !…予感は的中…雑木の中の蜘蛛の巣から開放されても安心しては歩けない。篠の動きを追っていると姿を現わしたのがマムシ…。山道となり椎茸栽培のハウス前からは舗装になり集落内の坂道を下って極楽寺の山門前に到着です(AM10:10)。
(現地・八千代町教育委員会の案内版参照)


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俵田〜林泉荘〜竹谷山渓谷


野間山城から極楽寺へ降りて駐車場の俵田橋に戻ってきます。この143号線を大屋へ向えば笠形山への登山口です。食指は動きますが今日は八千代町内の山城巡りです。是よりレジャーゾーンのガルテン八千代に向うのですが、その前に観光スポットに寄ってみます。紅葉で知られる竹谷渓谷は兵庫観光100選の一つ。 核心部付近の林泉荘や見処部分の最奥部まで舗装林道が続いている。
竹谷渓谷

舗装部分から先は未舗装の林道がなおも続くが車での侵入は禁止のゲートになっています。広い静から植林の道は、何の変哲も無い平凡な流れとなった川に沿って中町の翠明湖(糀屋ダム)へ延びているようです。 林泉荘への入口に駐車して10m程戻ります。「竹谷山道」の導標と石仏が入口(AM10:35)で迎えてくれます。 此処から渓流に沿って大岩不動を祀る最奥の滝場まで僅かの距離に奇岩・怪石を連ねて大小の滝が懸り四国八十八ヶ所石仏群が

竹谷山渓谷:黒木山登山口は渓谷の広場前から・・


立ち並ぶ散策道が続いています。谷を挟んで左右に石仏を祀ってあるのか 観光パンフにある滝の上部と 最期の大岩不動の前には赤い橋が架かっており、岩場横を詰め上がると舗装林道終点に出た。此の先どうなってるのかと暫らく植林の続く幅広道を進んでみる。休憩の木のベンチを アチコチで見かけるのはシーズン中に訪れる観光散策者の者か。それにしても面白みに欠ける林道歩きではあります。 途中何処から来ているのか広い林道との合流地点(AM11:05)で引き返します。
チャペル・リーベ・リリエンの奥に竹谷山

此処も広く明るい場所で手作りベンチが並んでいます。竹谷山への登道がどこかにあるのではと思っていたが気が付かない戻ってきてしまいます。 ガルテン八千代のチャペル横から竹谷山への登山道発見…次の目的地は光竜寺山城ですが、わかりやすい登山口がエアレーベン八千代の傍に在るので其方へ回ります。


V エアレーベン八千代〜光竜寺山城(都南山216m)〜中野間三室

野間山城を軍事的城・光竜寺山城を政治的・経済的な権威の象徴として整備した赤松一族・在田(有田)筑前守村長の城です。 二つで一つの城として今日最期に光竜寺山城の登城口に向かいます。大手道は判りにくいのですが「搦め手道」がガルテン八千代側のエアレーベン八千代特産物加工施設の脇にあって、城の北側に続く尾根に沿った道は楽に山頂の本丸へと案内してくれます。
エーデルささゆり

「エアレーベン八千代」の特産物加工施設は、中野間の交差点付近にある街 角観光案内所で観光パンフを手にしたときも店の主人が力説しておられました。八千代町の歴史と伝統を誇る高野豆腐の製造技術を生かした豆腐の製造やソバ・味噌等の特産品の工程の見学はもとより、加工体験や豆腐懐石料理などを味わうことが出来る。施設の前の車道脇に山城の地図付き案内板と矢来を廻らす砦構えが見えます。
光竜寺城大手口の御廟所に建つ板碑(一石五輪塔)や石塔残欠群

木戸を潜れば整備された搦め手道(PM12:50)が続き2分ばかりで番所跡に着きます。城へ出入りする者を検めたところと伝えていますが此処からは緩やかな道です。番所跡から8分程で左右に竪堀を施した搦め手門跡に着きます。 前方には6〜7m位の段差の壁があり其処を越えて二の丸、最高所の光竜寺山城(都南山 216m PM1:10)の本丸へと出てきます。野間山城に比して格段に広い曲輪跡からは在田氏の詰め城・野間山城が正面に見え両城共に野間川を 睥睨して北面・但馬側からの外敵攻防に備えているようです。本丸から大手道が野間山城のある西側から通じています。
エアレーべン八千代と光滝寺山城

本丸の西端は大手虎口になっていて此処から三の丸を経て説明がなければ判らないほど浅くなってしまった竪堀を捲くように御廟所跡の登城口にある墓地に降りてきます。 此方を降りれば早いのに!!と思える場所も九十九折に緩やかに降っていく道は此の城のもう一つの見所でした。
ピーク左から見張台・しょうどの丸・主郭群:野間山城

三の丸付近からの歩きやすい登城道は、ほぼ完全に残っているといわれる大手道です。本丸跡からゆっくり歩いて登城口のある野間中三室の集落に降りてきます(PM1:15)。さらに15分ほど、光竜寺山城の南裾を廻り込むように車道を戻ってガルテン八千代に戻ります。


W楊柳寺〜観音山(八千代昔の森)周回  2005年9月25日

県道24号八千代町中野間付近・右手に片瀬砦の丘陵(尾根通しにTV中継用ケーブル柱が続く)、野間川を渡ると左手に「花の宮砦」の脇田山が見える。このまま野間川に沿って北上し 野間山城へ再訪したい気もあるが直進して、加西市や笠形山山麓・船坂峠への県道34号を走ります。 県道沿い右手に石造モニュメント”空間のメビウスMUGEN”夢原1999年・牛尾啓三氏製作の有る小公園を過ぎると楊柳寺も近い。なごみの里・山都大石良雄の石垣を訪ねた際にも寄った柳山 楊柳寺駐車場からは
楊柳寺山門から鐘楼まで石段で続く参道

「ひょうご豊かな森づくり構想」に基づく 里山林整備事業によって八千代町や森と緑の公社の手になる遊歩道が整備されている。”新緑の道”や”昇竜の道”からは奥の院を経て背後の観音山(387m)一帯の寺有林にはヒノキの植林と共にイズセンリョウ・タマミズキ等の貴重な樹木を有する自然林が拡がり、 展望台へと「八千代昔の森」を一周できるハイキングコースもあります[楊柳寺→]の標識を見て県道を外れると目前に”柳の観音さん”と親しく呼ばれている柳山楊柳寺 (天台宗延暦寺派) の重厚な山門が見えます。白鳳時代・大化の改新で即位された孝徳天皇の白雉年間(650-654)法道仙人の創建・開基を伝える古刹です。 仙人が帝の病気平癒を祈願して霊験あり「柳山楊柳寺」の勅号を賜ったとされ以来、人々の崇敬も深く七堂伽藍建ち並ぶ霊刹となったが天正3年(1575)8月野間城落城の際・兵火により全山焼失しています。
楊柳寺奥の院

慶安年間(1648-52)三代将軍家光公より朱印10石・山林方八町の寄進を受け、隆慶上人を中興の祖として再興され阿弥陀堂・本堂・行者堂・奥の院が建っています。 仁王門から真直ぐ伸びる石段を登ると鐘楼堂・茶堂長く急な石段の参道が続いて鐘楼に着きますが、山門前から狭い車道を本堂に向かう車道があります。本堂手前に駐車場があり、此処から西北へ参道石段上の鐘楼を経て観音寺山山頂へは 幅2mの遊歩道「深緑の道・約800m」があり、 楊柳寺本堂を包に込む様に、車道を挟んだ駐車場の東にも尾根に向かう「昇龍の道・約1Km」があるので此の奥の院コースを周回する。本堂は修復中(H18年初旬完成予定)だが 県指定重要文化財:平安時代の木造仏像【十一面観世音菩薩・千手観音・多聞天・兜跋毘沙門天】の各木彫りの立像があり、 なかでも鳳凰の冠をつけ吉祥天を踏えた兜跋毘沙門天像は北播磨には珍しい様式(作風)のようです。
観音山山頂

単調な2m幅の(本堂から向かう奥の院への参道があるが)遊歩道も大きな倒木が進路を塞ぎ、最近このコースに足跡は見当たらない。 「閼伽の水」へ下りそのまま楊柳寺本堂へ戻れる分岐の上に奥の院が見える。駐車場から約300m程の距離です。 堂宇の右手からの道も直ぐに山腹を捲く”紅滴の道”(水平道)に出て左右に別れ、左へは”深緑の道”と合流して山頂に向かう道。右へ約250m程の”あずまや”へ向かう。この道は大和・原や下三原地区から坂山(4等三角点 212m)を経て 観音山への南尾根通しで、あづまや付近で 散策道となる”鹿舞の道”に出ます。此の尾根上”あずまや”も展望は良かったのでしょうが樹々は伸び、 雑木が繁茂して展望はいまひとつ…南方へ50m程下った南端ピークからも更に斜面の下降が続く良く踏まれた坂山からの尾根通し観音山(3等三角点 387m)を経由し無名峰383mを野間山城へトレース出来る。
観音山南尾根(鹿舞の道)から観音山を望む

観音山も展望は今ひとつだが樹々間越に東北方の千ヶ峰・篠ヶ峰辺りまで見える。遠く感じた尖がり山が383m峰、其処から野間山城にかけて見える露岩部に”モアイ像”の岩(そのT)がある。 此処から尾根筋に明確な道はないが、いつか観音山〜野間山城への縦走も考えて此処に併せてのレポートとします。観音山から”深緑の道”を下る途中に”千年広場”表示があり行ってみたが20mx30m程の平坦というより緩斜面が延びるだけなので引返し、 嘗て堂宇跡と思われる削平段地を鐘楼(山門からの石段を登りきった所にある)に、更に駐車場に降りてきた。
(現地 楊柳寺由緒略記及び案内板等 参照)



大石内蔵助良雄の石垣   八千代町大和中三原

楊柳寺から船坂峠を市川町へ越える県道34号を走ると白と黒の”火の見櫓”の様な望楼が目立ち、 黒い木戸で囲まれた宿場の一角の様なイメージの道の駅風”なごみの里・山都(やまと)”に着く。関所の木戸門の様な入り口を潜ると中には陶芸・木工・草木染等の体験教室、があり、 地場の生鮮野菜や土産・レストランもある。此処には温泉ではないが薬効のある石を敷きつめた岩風呂 ・ひのき風呂の”山都の湯”があり…リラーックス出来る事から名づけられたのか”なごみ”の時間が過ごせます。
なごみの里・山都

映画「忠臣蔵」等で馴染みの吉良邸討ち入り時の火消装束の内蔵助か?、なごみの里山都の文字と「大石内蔵助ゆかりの地」とありイラストの人物が西谷公園を指呼している。中三原の西谷(さいだに)公園にも”なごみの里”と同様の 櫓が遊歩コースの急な岩の上に建っています。 大石良雄も此の望楼から工事の様子を視察したのだろうか。大石内蔵助良雄の石垣と伝えられる江戸時代の土木技術を知る事が出来る 池堤工事の貴重な遺構がある。しかし堤体を積み重ねる最後の工程の際に、豪雨により堤は約40mにわたり決壊したと云われ現在 /堤本体は無くなり北側に越水(洪水吐)の石垣:
西谷公園「大石良雄の石垣」

南側には岩盤を刳り貫いた水抜き(底樋管)トンネルを遺すのみとなっています。越水は岩盤を利用した石垣積で高さ8.2m、石垣のコーナーは算木積がみられ其の構築には 専門集団の関与が推定されています。先ず岩盤に水抜きのトンネルが掘られ、越水(洪水吐)として自然石が削られ、越水を保護する為の石垣は城郭石積みの手法を用いた非 常に堅固なもので角部の[算木積み]や[扇の勾配]等が採用され、当時の土木技術の高さがうかがえます。元禄時代(1688-1704)旧大和村(現在の大和地区<三原や柳山寺>)は、加東市滝野町穂積に 穂積陣屋(赤穂義士の一人:吉田忠左衛門が郡代官として在番していた)が在ったように此処も赤穂藩の飛地領で、塩田の経営に成功した赤穂藩は米の増産による安定した藩体制を確立する為、 各地で溜池等の灌漑・治水工事を行い飛地での石高も多く領地の見聞(検分)も熱心だったようです。大和地区に残る灌漑用ダムの石積遺構は、それらの中でも群を抜いたもので 赤穂藩直轄の工事であったと思われ、堤の長さ53.4m・高さ8.2m・貯水量50,000トン規模のもので、此処より南への谷を詰め 山を越えた加西市(此処も赤穂藩の飛び地領)上芥田側の丘陵麓に建つ 久学寺【赤穂藩浅野家の三がく寺(花岳寺・泉岳寺)の一つ】に宿泊した筆頭家老・大石内蔵助良雄が工事の進行を視察するため再三訪れたとの伝承が有ることから 「大石の石垣」と呼ばれる由縁となっています。 赤穂藩改易で赤穂城開場の際に逐電した家老・大野九郎兵衛の代わりとして大石内蔵助を補佐した奥野将監は忠臣蔵では脱盟者の筆頭の様に評されている人物だが、脱盟は用意周到に事をすすめ・大石が万一にも吉良を討ち洩らした際はニノ目[二番手]として別働隊を率いる目的から京都丸山会議(討入り最終確認)の”神文返し”で脱盟し、将監の娘が磯崎神社の神宮寺に嫁いでいるのを頼り此処にしばらく居を構えたと云う 奥野将監屋敷跡 (加西市下道山町)が在る。大石等の義挙により 本願成就し名誉を得て自刃しているが、将監はじめ「神文返し」を受け取った70数名の脱盟者たちは、 汚名を返上する手立ても無く”醜夫”の汚名に耐え生き延びなければならなかった不義士だったのか?。 磯崎神社本殿脇の倉庫前に並ぶ鬼瓦は、無常な世間の風潮と果たせなかった無念さを、憤怒の形相で睨みつけ脱盟者達を代弁しているようです。 奥野将監定良の墓は多可郡中区糀屋の多可町図書館手前の稲荷公園・糀屋稲荷神社裏の○○家墓所に眠る。
(現地 西谷公園内 大石良雄の石垣案内板 参照)
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坂本の化椿(ばけつばき)  多可郡多可町八千代区坂本

県道143号野間川沿いに野間城登城口側から フロイデン八千代(滞在型市民農園)の前を抜け、マイスター工房八千代(地元食文化の研究・開発を進め、 その加工センタ・販売所で住民のカルチャーセンタでもある。昼も過ぎお目当ての限定食品は既に売り切れか!!?と諦めていたが運よくキャンセルがあって購入できた)に寄ってから加美地区に向う予定。 マイスター工房から北へ約500m宅地を抜け出た県道一筋西側の地区道出入口に巨木と案内板が見える。木に咲く春の花は…桜でも梅でもなく?…椿(ツバキ)ですね。 天正3年(1575)8月野間山城最期の城主在田国康の時、別所重棟(後に但馬八木城主となった)に攻められ落城し再起を図り敗走した家臣・将兵の多くも此の地で斃れたと云い、 諸処に祀られていた五輪塔等々も 此処に集められ合祀されているのでしょう。 兵庫県の郷土記念物として平成6年2月4日に指定された「ヤブツバキ」は幹周約2.5m・樹高約12m・推定樹齢約500〜600年と云われる県内最大の巨木だが老いて益々…!!未だ育勢盛んであやかりたいもの。 地域の人々の暮らしを永年見守ってきた 此のヤブツバキは古来より時季外れに(年に2-3度)開花することがあり「化椿」の愛称で親しまれています。余りの巨木に暫時歩を止めて眺めやり・賽銭を供える人も多いと…。ツバキの前には自然石の三界萬霊等(碑)があり、多くの無縁の石塔婆・五輪塔を祀り昔よりお盆や彼岸にお参りする風習が今も続いている。
(現地:教育委員会・観光案内板 等を参照)


 野間山城光竜寺城  花ノ宮砦片瀬砦

野間山城 (中野間城・鶴琳城・在田城・城山城) 野間山(伊勢和山)310m  多可郡八千代町中野間

西脇市や多可郡一帯の地場産業として播州織は播磨を越えた丹波の一部(山南町等)でも昭和3〜40年頃 までは織られていました。機(はた)の音も工場さえ消えて久しいが中町・八千代町へ入って来ると懐かしく感じる「のこぎり屋根」を見ます。野間山城への大手道・極楽寺山門前からのルートにも数軒の機工場の屋根が見え、僅かに?稼動している織り機の音が聞こえます。 野間山城へは極楽寺からの大手道ルートと俵田橋からの搦め手ルートがあるが俵田橋からの尾根コースが整備されており歩きやすい。
野間山城主郭群

舗装が切れていよいよ山道となる入口には居館の土居を思わせる土堤の高まりがあって早速・木戸口を通過する様な面持がします(実際は谷出口に有って大手筋の谷水を受ける貯水池です)。 光竜寺城や野間山城を”詰め城”とした大手道に面しての居館が極楽寺から此処に至る付近にあり、同様に光竜寺城や野間山城への”搦め手”口の俵田方面にも 武士の集団”野間衆”が住んで居たのでしょうか?。赤松一族在田氏の拠った 野間城は加古川の支流・野間川中流域の左岸の野間山(310m)山頂に主郭を置き野間盆地を一望出来る位置にあり、その対岸には半独立上の216m削平地を持つ都南山【光竜寺城】があリます。
二ノ丸部の石垣

都南山は通称とんだ山と呼ばれ野間山城落城の際、姫君が馬に乗って野間山城から東の山(光竜寺城のある都南山)へ飛んだとする伝説があります。播磨守護職・赤松範資(神戸滝山城主)と二男赤松朝範(朝則)は共に足利尊氏に付き滝野・光明寺での足利兄弟の合戦に、足利直義軍と戦い其の戦功により東播八郡を領して、加西郡有田荘に移って殿原山に城を築き有田(在田)姓を名乗ります。朝範の子則康が父の後を継いで殿原山城主となり【隣接の多可郡中町にも貝野城・段ノ城を築いていた在田氏は河内城(加西市)を本拠としていたが永正年間末期頃、播磨守護代:浦上村宗に反抗して本拠地を野間に移したこと、また河内城を別所氏の城?とする説も!!。
主郭群は狭い尾根上に曲輪が続く

近在に別所町もあるが”別所”は飛び領地等を占めす地名や字名と思われます。旧赤松家臣団でも在田氏・依藤氏等重臣の勢力下の領国内の本拠城とされる河内城が、嘉吉の乱以後の新興赤松家重臣の別所氏の城だとは?】
次男【円心の曾孫の有田(在田)左衛門督重友(在田氏二代目左衛門督則康の弟)】が分家して南北朝期・延文4年(正平14年1359)山名氏対策として殿原山城の北方に位置する野間山に築城を計画します。貞治元年(正平17年1362)3月に完成させているが旧本拠の 河内城(加西市)から野間を本拠として移って来たのは天文年間(1532-55)初頭・5代目在田筑前守村長(光慶)の時とされます。大永元年(1521)塩城の赤松義村を暗殺した浦上村宗に義村の子・才松丸(後の晴政)を跡目として反抗した在田村長等は赤松播磨守の子を擁立した村宗に対抗します。享禄年間(1528-32)浦上村宗(備前三石城主)による野間城攻めにより落城した広義の野間城とは何処だったのでしょう?。
二ノ丸部の石垣 H17.10

野間山城・光竜寺城・花ノ宮砦・片瀬砦・野間構等を総称して「野間城」と呼ぶ。享禄4年(1531)大阪天王寺の合戦に村宗が討死したため、 村長は再び野間に移り光竜寺山城や野間山城を回復させるが天正3年(1575)8月、野間城最期の城主在田国康(有田源之丞宗晴?)のとき屋口城主(小野市)別所孫右衛門尉重棟(後の但馬八木城主)に攻められ落城・家臣の多くが討死。「播磨鑑」にいう牛居構中村牛居之助吉早の中野間城とは花ノ宮砦の事でしょうか!!落城後は野間山城同様に別所氏の持城として加西郡野間谷の領主中野間伊賀守政廣(?:伝承に丹波高見城主の赤井五郎の連合で黒田城(多田構居?)を急襲した戦功によるものか?)が居城したとされます。野間山城他の野間城については廃城の時期等不明です。
しょうどの丸:主郭北東角の石積


野間山城は南北朝時代から戦国時代末期(410年前)にかけて約220年間使われた軍事的防衛を目的として築かれた詰の城(非常時に立て篭もる城)。現在の城跡は7代目在田筑前守村長によって整備されたもので、南側の伝「しょうどの丸」と北側に主郭群の伝「西の峯」は、あたかも鶴が両翼を広げたような構えになっていることから雅号で「鶴林城」とも呼ばれています。実際は鶴の首ほどの細長い尾根上に高度な野面積みの石垣を残して郭を連ねていますが岩山で、建物を立てるほどの広い削平地がなく、番小屋程度が置かれていたかも知れません。発掘調査により城跡から輸入磁器・備前焼・碁石・アカニシ貝などが採集されており、これらの遺物から戦国時代に機能していたことが知られています。
東郭(本丸敷)東端の大堀切

極楽寺から谷筋を登る大手道を辿って鞍部にある木戸・番小屋・兵溜まりの曲輪を見て更に西への尾根筋の広い曲輪も後年に改修が進んでいるようです。東側の本郭部へは岩盤を削っての堀切を経て嶮しく露岩の多い野間山城域には殆ど見かけない 珍しい?土塁を残す西端の曲輪に出ます。大手道を詰め上がった稜上は南方の「しょうどの丸」と主郭側へは露岩を削った堀切があり、 堀切沿いに西端曲輪の下を廻り込むと、西方に岩尾根と岩壁を剥き出した尖がりピークを見せる393m峰 【しょうどの丸手前の露岩の尾根からも登行欲の湧くピラミダルな山容は目を惹きます】から観音山へ向う稜線側の鞍部付根 にも二重堀切がある。観音山へ続く尾根側の 二重堀切からも露岩を削って掘り込んだ様な「しょうどの丸」への尾根側堀切からも見上げる様な急斜面だが、二ヶ所の堀切間から斜上して主郭部東郭の「本丸敷」に向う最西端の曲輪上部に抜ける竪堀状の堀底道が通じていて 土塁の切れ目から登り着く此処は虎口ともなっているようです。
主郭群:中央郭から東への連郭部

鞍部から本丸〜東曲輪群へは痩尾根の両端をギリギリまでに削平して確保した、それでも幅の狭い曲輪を連ねて梯郭式に何処までも続く感じ!!の城山ハイクルート。主郭部南面に石積み・石垣も見られる。 ハイキングルートは搦め手からのコースを往復するのが一般的のようだが、後者の伝・大手道を鞍部の”兵溜まり”から極楽寺へと谷沿いに下る道が訪城コースだが、深い下草地や笹藪に覆われた山道はマムシ等に要注意のコースです。 今回の様に下草が刈り込まれている幸運を期待したいところ…
兵庫の城紀行 神戸新聞出版センター 参照 他


光竜寺城(光竜寺山城・光領寺山城)  都南山(光領寺山)216m   多可郡八千代町中野間

野間谷を挟んで野間山城と対峙する東の都南山(通称トンナ山・とんだ山)山頂に主郭を置く光竜寺山城(光領寺山城)が在る。 在田氏は室町時代中期〜戦国時代末期にかけて北播磨を統括し、河内城(加西市)を本拠としていたが嘉吉の乱後:播磨守護代浦上村宗が台頭し永正18年(1521)村宗が赤松義村を暗殺して西・東播磨の領国支配の実権を握ると在田氏等は
平入から一折する枡形虎口の過渡期的遺構?

義村の子・才松丸(後:晴村の幼名)を擁して反村宗派として戦います。この頃には5代目在田(有田)筑前守村長(光慶)が本拠地を野間城に移し、野間川を挟んで 東に光竜寺城・西には軍事的な野間山城(詰めの城)を整備し共に築いて拠った光竜寺城は南北 48mX東西24mの長方形をした主郭。野間山城は曲輪も細長くて狭く野間地域の見通しも余り良くないところから政治・経済的な権威を誇示する・
搦め手道の竪堀1

見せる為に造らせた居城だったとされています。光竜寺城は村長が野間山城の改修に取り掛かった同時期に築城が着手されたようですが、此れ程の縄張りをもつ遺構ながら、昭和年代発行の城情報ではコウリョウ寺跡?としての認識か、野間城群の一砦跡として評価されているのが最良!!で2000年?になって現地調査・研究により 城としての認識・まして居館・身分の高い客人を迎えての儀式等では、
搦め手道の竪堀2

本城からは睥睨する位置にある光竜寺城から見上げる野間山城は権勢を見せつけるための城?…でもあったか。搦め手側のW郭(曲輪の大きさからは U郭 !!かも?)ともに居住性も高く建物跡も確認されて居ます。其の北面の搦め手虎口とU郭の間・南面の大手道からで曲輪に入る箇所には左右に竪土塁付大竪堀が守備を固めています。
枡形虎口の過渡期的遺構?・主郭右手帯曲輪は大手虎口に延びる

此処は野間川沿いに八千代町から加美町へ越えれば丹波との境界近くに赤松(在田)朝範の子:則康の貝野城・段ノ城があり、西方へは高坂峠を越え 神 埼町・生野町へと但馬街道(丹波街道)に通じる要衝の地であることで、都との繋がりも深かった推察でき経済的基盤が確立していたことも考えられます。 天正3年(1575)8月、野間城主・在田国康(泰?)の時、屋口城主(小野市)で別所孫右衛門尉重棟
搦め手虎口〜大手虎口を繋ぐ主郭北帯曲輪

(三木城主:別所長治の叔父で幼主だった長治を重棟の兄吉親と補佐した・後の八木城主)に攻められ落城した。北からの登城は搦め手道が「ガルテン八千代」の特産物加工施設 「エアレーベン八千代」の脇にあり、適所に解説板も設置されています。復元木戸門が此れから向う光竜寺城への興味を弥が上にも掻き立て気分も高揚してきます。 登り始めて直ぐ番所跡の案内板が立つ狭い露岩の台地がある。
光竜寺城大手の平入虎口

搦手門には左右に大きな深い竪堀が残っており、主郭北側の広いW郭は野間山城を望み、眼下には野間川沿いの平野を望み、居住性の高さは此の曲輪内に建物跡らしい石列が見られる事でも判ります。梯郭式山城で主郭の北と西に虎口があり、西側からは岩の隙間を抜けるような細い平入り虎口ですが、北側W郭(U郭?)側からは 主郭切岸に沿う形で一折れするL字状で、
大手道の取水場池側にある石垣遺構!!

平入虎口から枡形虎口へと移行する過渡期?の用例だと推察されているようです!!。県道の大門橋付近から三の丸に至る大手道はほぼ完全な姿で残っており水汲み場(谷筋の湧き水を汲む取水場には石垣積みの遺構が残り、平坦地を確保してしている様です)と、V郭(出曲輪)に入りU郭の西側を通る大手道側から井戸曲輪を抜けて更に下方へと、 山の斜面に真直ぐ掘り込まれた大竪堀が見られます。
大手道と並走する土塁付きの大竪堀

竪堀の左右は盛り上がり井戸曲輪近くまで 竪土塁となって延びています。竪土塁と竪堀により大手道側から主郭へ直接繋がる斜面への侵入を防禦施設。水汲み場の石積遺構からも九十九折れの登城道を3〜4折れて 「御廟所」に着く。五輪塔が集め祀られる場所で城主等在田家一族を祀る供養塔群の様です。中には珍しく深い・浮彫りされた板碑の五輪塔が一基祀られいます。
大手口にある御廟所(在田氏菩提の石塔群)

鹿避けネットを開けて大手道取付き点へ出ると正面には・しょうどの丸〜主郭群〜東郭「本丸敷」へと峰を連ねる野間山城を望み、野間川を渡り、極楽寺に向かった。 極楽寺山門前から続く大手道を野間山城へ向かうのが今日のコース。車は光竜寺城と野間山城登山口の俵田橋間に移動させておいた。
(現地:光竜寺山城の八千代町観光協会案内板 兵庫の城紀行:神戸新聞出版センター 等を参照)

花ノ宮砦  脇田山 191m 〜?xxx山 269m   多可郡八千代町下野間

糀谷から県道24号を八千代町仕出原に抜けて下野間に入る。天文年間(1532-55)初頭・赤松一族の在田筑前守村長が拠点としていた 河内城(加西市)から、本拠地を野間に移し野間川を挟んで築いた城砦群には居館の光竜寺山城・其の詰城の野間山城、 二つに城の南口を守備する花の宮砦片瀬砦等があり此れ等を総称して野間城と呼ばれます。
片瀬砦から花の宮砦(中央〜左突端部)と点名:貴船

在田氏の城砦群には北方に丹波境界の貝野城・段ノ城や野間川沿いの南口には 水尾城等があって丹波路や但馬路の街道筋を監視・守備していたが天正3年(1475)別所重棟の軍に攻められ尽く落とされてしまいます。 光竜寺山城・野間山城は知られるが”花の宮砦”以外の城塞群についての情報は殆どない。八千代の文化 財や史跡等紹介の書籍類にも記載はない。遠景写真が一枚だけ載っているのを見て県道 24号仕出原側から山容を見ながら下野間の「花の宮バス停」を探して狭い地区内の道を抜け鳥居横に駐車場の有る天神社に着く。
天神社から花の宮砦

点標名:貴船(2等三角点 497m)から東へ延びる稜線の東先端にある”花の宮砦”へは 北の山裾に墓地があり此処から登れそうだが、車道側の花の宮公民館前を南へ戻り、石段と鳥居の見える小さな天満宮境内右奥からテレビ用ケーブル埋設ルート沿い急斜面を詰めテレビ受信アンテナの立つ狭い平坦地(約10u)に着くまで激登りですが 展望も雑木で余り良くない。北側に下っていくと直ぐ竪堀状が東に一本見ただけで麓の墓地へ降り立ちます。アンテナ施設から西方への緩やかな尾根伝い、 少し高みの峰へとケーブル線は続く様なので追っていくと自然地形の平坦な場所に出た(約10mX15m)。
花の宮砦西曲輪?から 水尾城と宇仁山城砦(右手)遠望

麓からは東先端部に三角錘状山容をみせる峰が”花の宮砦”と思えるのですが少し高い西側の峰にも更に広い曲輪を持つ。本城の河内城が在った加西市と西脇市から八千代町野間への入口の重要拠点にある水尾城が良く見える。 南に視界が閉ざされる?光竜寺山城への連絡・通信の中継所だった様にも思えるが、野間川を挟んで呼応する形の花の宮砦と片瀬砦だが其の南の入口を守備するには防備施設共に弱く監視・通信の見張りの砦だったのでしょう!。 牛居城の中村牛居之祐吉早(現:野間では牛之助が通名?なのか…)が在田元長との縁を頼り永禄12年(1569)とも天正6年(1578)ともあるが中野間花の宮に移ったという。只:花ノ宮砦に牛居之祐が拠ったかは不詳だが、花の宮砦北麓?・野間川沿いの 2ヶ所に墓所があり、墓所とは野間川を挟んだ正面には片瀬砦が見える。
中村牛居之祐吉早の墓所(八千代区下野間)

尚天正3年(1575)野間城を攻めた別所氏との合戦では在田氏の水尾城に布陣しているので永禄2年?・更には野間城落城の天正3年:一旦は牛居城に戻っていたようなので三木合戦の天正6年、嫡男を牛居城に残し再び花の宮に転居したのか?。 中村家の家紋は「重ねカタバミ」とも聞いたが【丸に橘】らしい。牛居之祐吉早石碑【法名:吉芳早仙居士・慶長元年(1596)9月19日75歳で入寂…とあり、逆算すれば大永元年(1521)出生】を囲む白壁塀の瓦紋は「九枚笹」?…。 墓所の南を西に折れた山麓に中村本家のお屋敷がある。西秀吉の播磨攻め・三木合戦開戦時!?牛居之祐吉早は此処:野間花ノ宮に移り、 側室と嫡男は牛居に残って後に三木籠城、吉早の側室・豊ノ前は身重の身体で子を連れ出処の但馬竹田(朝来市)に向かった様だが?、丹波竹田(丹波市市島町)へ逃れる途中・
牛居之祐吉早側室:豊ノ前の墓所(丹波市山南町奥野々)

山南町奥野々の地に留まり・此の地で再婚し永住・元和元年(1615)9月2日歿しているが、奥野々中村家では牛居之祐ではなく、 奥方【久昌院豊山xx大姉】と再婚相手の(姓不詳)利兵衛【禅昌院xx居士】が祖として祀られていた。離散した妻子が其後再開することはなかったのでしょか…?、中村株による野間と奥野々の交流は続けられていると聞く。 三木城開城後牛居に戻った嫡男は帰農し前田(母方の姓!?)を名乗っている。
 (一部 中村牛居之祐吉早 -ある武将の謎を追って- 前田重寛 を参照)

片瀬砦点名:片瀬(3等 111m)〜Ca220m  多可郡八千代町中野間野口

花の宮砦とは野間山城・光竜寺城の南に位置して野間川と仕出原を挟み込む様に 延出す丘陵が狭い谷間の通行監視の関所を形作っています。花の宮砦の東側には野間川を挟んで片瀬砦が呼応して野間山城・光竜寺城の前衛に出城として、 また生野・播磨・丹波を結ぶ交通の要衝監視や宇仁山城〜水尾城木谷山砦 等の在田氏城砦を繋ぐ通信・物見の砦だったのでしょう。
光竜寺山城の出丸から片瀬山の小山塊と木谷山砦(中央の尖峰)

花の宮砦と同様に城主・城史は勿論!防備施設等の城砦遺構も不明瞭です。花の宮砦が生野街道や芥田城下を旧本拠・加西市の河内城へ抜ける通行監視を片瀬砦は西に野間川、東には仕出原川が山裾を流れ中町へ抜ける県道24号線は、 もう一つの在田氏拠点・貝野城と段ノ城から高坂越えで生野へ通じ、杉原川に沿っては奥丹波の青垣町や福知山、和田山へ但馬道が通じ其の通行監視と野間の本城へは花の宮の木戸番的機能を持っていたのでしょう?。 片瀬砦は北端は光竜寺城の南側から起き、南端が中野間野の八千代町役場東南で裾を落とす小山域・低丘陵で…稜上にある二つのピークには、 どちらも単郭?の物見の櫓があったと思える平坦地を持ち、南方に見通しも効くが、此処に防備施設を備えた砦跡の痕跡は弱く!!?むしろ砦や城館遺構の
点名:片瀬の愛宕神社の方が 周囲の状況方も居館・砦の感が強い

存在を周囲の地形や状況から最も強く感じるのは最南端、集落内の”八千代町コミュニティ公園”上に有る愛宕神社の方で、 此処に関所・代官所等の執務を兼ねた居館等があったと考える方が遥かに有効ではなかったかと思われます。西下の集落からは比高も精々20m程の愛宕神社前の広い芝生の中には点名:片瀬(3等三角点111m)が在り、 背後の尾根へは緩やかな下りですが、三方は近年改変されているでしょうが急峻です。片瀬の丘陵北端は”エアレーベン八千代”から 八千代町役場に通じる車道と、光竜寺城裾に有る池があり、昨年豪雨による夥しい倒木もそのままの 難渋する尾根筋を北の峰の山頂手前の西面に方堀切(竪堀)状の凹角を見ただけで NHK八千代野間テレビ中継所のある周囲の石囲いの平坦な山頂Ca220mに着く。
片瀬砦?片瀬山塊北峰のテレビ中継塔

此れより南へは緩やかな尾根道が続くが次のピークの下草と藪に埋る平坦な山頂を思うと二つの曲輪を結ぶ通路の遺構だったか?。二つの峰上からの展望は良いが遺構は!?南峰から下り始めると中野間集落からも歴然の急でもない尾根筋に 鉄塔の並ぶ巡視路を辿り愛宕神社の建つ点名:片瀬との鞍部に着く。東下方へはボーイスカウト八千代第一団のトイレや事務棟、キャンプのテントサイトも用意されている研修・訓練所の様な広場に出たが仕出原川に阻まれて県道に出られず 元の愛宕神社へ引き返した。尾根の最南端に位置した愛宕神社が山上の峰の平坦地以上に砦跡の感じがした。

野間構  xxxxm   多可郡八千代区中野間野口

加西市別所町から河内城側を走る県道24号を北上すると 西脇市に入り水尾城の北麓・妙楽寺で県道34号と交差し多可郡八千代区下野間に入る。県道24号・34号は野間川を挟んで北上し下野間・中野間境で24号線沿いに 仕出原川が糀屋ダム(翠明湖)に、中央に野間川が在田氏本拠の光竜寺城・野間山城の間を抜け八千代区から加美区へ通じ、西へは大和川沿いに県道34号線が「なごみの里山都」を経て舩坂峠を市川町に抜ける。
3つの川の合流地点に位置する野間構と花ノ宮砦(左)

此の三ッの川が「中野間交差点」”花ノ宮”の野間川沿い下流約250mで 合流する剣先の様な地点に川下神社が在る。東側を仕出原川・西からは大和川が天然の外濠を形成し、直接は川下神社に行けず、中野間交差点から・中を流れる野間川沿いを中洲の先端に向かう、背割り堤のような細長く真っ直ぐ延びる幅狭い車道は、 川下神社境内を南に周回し大和川沿いに県道34号「花の宮橋?」に出る。何処と無く以前訪れた上田城【(加茂川構居) 加東市社町】を連想するが…所在の野口光竜寺山城(光領寺城・光龍寺城)野間山城…等の在田氏本拠城・本拠地”野間への入口”の意味か。県道24号「野口」からは 仕出原川に架かる野口橋の北向には片瀬砦が、直ぐ次に渡る野間川に架かる「ばば橋」を渡る西詰の五叉路「中野間」交差点”花の宮”で県道34号と合流するが、
野間構(川下神社)

野間川沿いの交差点手前南には野間構が在る。 中野間交差点の県道34号の南約150mで大和川に架かる「花の宮橋?」を渡った右手(西)丘陵頂部には花ノ宮砦が在る。 「野口」交差点東約40m程を県道24号とはほぼ並走して南北に走り「仕出原」交差点に出る地区道が旧姫路街道筋。野口から野間の本拠城に向かう”花の宮”中野間交差点側:野間川に架かる橋の名”ばば橋”からは馬が行き来する街道筋と云うより ・この筋から北へが城域内ということか!!?。仕出原川と大和川が野口構(川下神社)で野間川に合流する約250m程下流に下野間橋(風呂屋橋)があり、 八千代区に入った保木に「大門」・橋付近に残る「宿」の字名等からも一帯に城下町が形成されていた様子。
野間構から姫路街道・南方右手奥、野間川口に水尾城!?

橋の川下正面に水尾城(西脇市)があり、東方から野間川に沿いに北上する県道34号、 嘗て在田氏の城だった満久城 河内城のある加西市方面から県道24号「妙楽寺」経由…等、野間方面への通行監視、其の水尾城からの伝達は花ノ宮砦が受けていたのでしょう…。野間口に位置する野間構は花ノ宮側の城内出入口と、 下流の風呂屋橋周辺の城下町の通行監視等、関所城的な任務を負っていたのでしょうか?。24号の野口から34号の中野間(花ノ宮)間には:東に片瀬砦・中央部の野間川先端部に野間構・西の花ノ宮砦…は此等城砦の守将 ・城史や防備施設等の城砦遺構も不明瞭だが前衛の三城砦が呼応・連携して野間口の監視・守備についていたことは容易に理解出来ますね…!!?。野間の在田氏最期の城主となった国泰の天正3年(1575)三木の別所重棟に攻め落とされ在田氏は滅亡した様。
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