東播磨の山城 城山(森本城)〜浅香山・西安田城・中村構居
兵庫(播磨)  (五万図=生野)T
中町・森本の観音堂〜城山(森本城址)〜浅香山316m
 2002年08月12日
近畿の山城: 森本城(霞ヶ城) 西安田城 中村構居
校歌故郷の山:北はりま養護学校  ♪浅香山 浅香の山に昇る日の光・・・・♪
杉原川と思出川合流地点に在る城山 【森本城址(霞ヶ城)】

小野尻峠を越え県道86号線を多可郡中町の鍛冶屋へと、思出川沿いに南下すると東に無線中継塔の建つ浅香山が見えてきます。 小さな起伏を連ねて南に城山(森本城址)も見え山塊は、やがて一段と低い小山を南限にして尾根は途絶えます。 夜明け前から降ったり止んだりを繰り返している空模様ですが昼頃から又も雨の予想。しかし暑い真夏の低山にあっては小雨、曇り空はキツイ藪漕ぎにでもならない限り絶好の山行チャンスとばかりに出かけてきました。
西安田大歳神社付近から西安田城址遠望 H16.7.10

小さな山塊に沿って思出川とバイパスが 田園風景の只中に並行して走り、このバイパスが139号線に繋がる多可郡間子(まこう)と中村町を結んでいます。此処・間子に来ると目前に城山が聳え立って見えます。そして思出川と合流する杉原川を跨ぐ ユニークな橋を渡り森本公民館で左折、森本橋を渡って139号線は西脇市や黒田庄町へと伸びています。さてユニークな橋の案内等・間子の七不思議を済ませてから本筋の山レポートに移ります。この橋は 加都良大橋(近くには全国に6社しかなく、その内中町に3社ある加都良神社に由来しています)と呼ばれ橋の新設では 一般公募された「間子のすずめの橋」の愛称もあり4本の黒御影の石の親柱には伝説の歩くスズメのブロンズ像がある。雀の像事体・全国で此処だけだそうですよ。
森本城南郭群:主曲輪北側の曲輪に残る石垣と散在する石材

また歩道の中央部にも 塩谷(しほや)の馬の蹄形から取った馬のひづめ跡をデザインしたタイル装飾があります。「雀」像が気になって橋に寄ってみると「間子の七不思議」と題したプレートが 橋の端に掛かっていて中町間子地区に伝わる 七不思議の話が簡単に解説されています。水が豊富な為、泥田で足をとられて飛べずに歩くという伝説に由来する加都良大橋”すずめ橋”を渡り、鍛冶屋の金毘羅神社方面へと、思出川沿いに北方する直線道路の左右に拡がる 田園と点在する間子と岸上集落周辺の民家を東西南北に割るように1〜2mの細い川や溝が縦横に走り、いずれも田や民家へは 其の溝を越えないと行けず小さな石橋を多く見かけます。此れも七不思議の一つ八百八橋です。
森本城北郭群:大竪堀を見下す上部にある櫓台跡!!石垣

この付 近の断層下部より清水が噴出していて「しほや」と呼ばれていた泉を 村人達は霊水として尊んでいた。 昔・馬で遠乗りに出ていた領主のお姫様が馬に水を飲ませようと、水を汲みに降りた時、其の姫の足跡と馬の蹄形がついたと伝えられる石が有る。泉は地下水の汲み上げが盛んになり昭和50年頃には枯渇したが町内循環バス停 ・間子に、中町の文化財として小公園に案内板が立てられ石碑と”しほやの足跡”の平たい石が残されています。また渇水期にも枯れた事の無い此の清水も、間子に七箇所有ったといわれる出水”七つ湯”の一つです。 城山(霞ヶ城・森本城)への登山口にある日吉神社祭神に大山昨命(おおやまくいのみこと)を祀り、 多可郡中町の現存神社建築の中では最も古く棟札によると寛永13年(1636)の再建とあり、吉重山円満寺の遷化(せんげ)導師の名が記されています。
城山登山口となる日吉神社 H16.7.10

滋賀県大津市の旧坂本村字森本の日吉神社から山王権現を勧請され「森本大明神」とも呼ばれており、 此の地を「森本」と称するようになったとも伝えられます。神社の側に山が迫り巨岩を背にしているので「神の寄り憑く場」として、磐座(いわくら)信仰の場として創建されたと考えられます。社殿正面と左右の蟇股には 「三猿の教え(見ザル・聞カザル・言ワザル)」目・耳・口を両手でふさいだ猿の彫刻が刻まれており、建築年代が明確であり、建築細部に江戸初期頃の風潮を知る装飾意匠が多くみられる点で貴重な遺構である」と 中町史に記されています。
(現地 日吉神社の説明板 参照)
======「間子の七不思議」 ============= 多可町中区 (旧:多可郡中町)間子 ===================

T間子の出水 間子は杉原川、思出川の分岐点近くに7ヶ所の湧水があって渇水期にも枯れないといわれ「七ッ湯」とも呼ばれて今も親しまれています。
Uしほやの馬の蹄形間子の入口に塩屋という出水があり中程に「塩屋の蹄(ひずめ)跡」と呼ばれる平坦な岩の表面に、お姫様と馬の蹄形があります。領主のお姫様が馬で遠出で、 出水へてやって来て、此処で水を飲んだ跡といわれてお姫様の足跡と馬の轡の跡が残っていると云われますがお姫様は裸足だったのかな!!。このお姫様が八千代町・野間城のお姫様だったら 話としては面白いですね。野間山城から光竜寺山城(とんだ山・都南山)へ馬で飛んだというお姫様で此処には、その馬の蹄跡が 岩に有るというのですが!!??
しほやの足跡(お姫様と馬の蹄跡と伝わる!)
V八百八橋浪速の八百八橋ならぬ 間子にも石橋が八百八橋あって、昔は隣家へ行くにも石橋を渡らなければ行けなかったほど。今は一つ探すのもヤットかな!!
W寒蓼(タデ) 間子の寒蓼は年中青々として冬でも枯れることがない!!
八百八橋:民家や田畑の間の溝に架かる石橋

X 間子の雀は歩く雀は地上へ降りればピョンピョン跳ねるが、間子の雀はトコトコ歩くといいます。
Y石の子間子の東にある通称・石の子山の岩から小指大の円形の石出る。即ち、石が子を産むと称と、この石を持っていれば子が授かるといわれます。
Z五月の幟(のぼり)間子の地へ逃れてきた落武者が五月の節句幟を上げると、旗挙げの標となり、攻めて来られるのを恐れたことから、 間子では、五月の節句に鯉のぼりをあげない


T
中町・森本公民館〜森本城(城山)〜浅香山  H14.8.12

田園風景の拡がるバイパス道路の東山裾に北はりま養護学校があり、その背山の頂に 無線中継塔が建つ浅香山が見える。幾つかの起伏が南へ伸びて小さな丸い丘稜ピーク(展望台)が南端の小さな山塊を今日は歩いて見ます。養護学校の正門前から林道を詰め山道を山頂まではNHKテレビ中継施設等があるので至極簡単に登れそうだし展望も期待出きそうです。
浅香山

山城へ登るのがメインの山行ですので思出川に沿って南下し中町南小前の交差点から139号線を東へ左折すると 杉原川に掛かる森本橋を渡り(AM8:10)取付きを探します。車道を直進して観音堂(宝林山常福寺11面観世音菩薩)看板を見て左手の林道は城山公園を経て無住の本堂へ行き着きます。古い「三界萬霊塔」石碑の裏手から踏み跡を辿れそうだが雨後で蜘蛛の巣の多い藪っぽい道を引き返し寺前から西へ出ると、お宮さん近く民家の手前から 【森本こども会「しろやま登山口」】道標のある山道に出会います。

城山(森本城)


先の139号線から此処へは観音堂看板手前から疎水沿いか、消防団車庫前又は秀忠商事の青い看板の真向かいの民家を抜け疎水溝を越えればよかったのですが一寸遠回りしてしまいました(AM8:20)。 猪除けネットを開閉してすぐ小さな石仏のある枝尾根分岐に着くが此処は峠でもなく、墓地への参道にしては上部過ぎるが結構踏み固められた道です。先の常福寺の背山に向うようですので奥の院?か権現・愛宕の社でも 祀ってあるのかもしれません。此れより左に虎ロープが城山へ延々続き道案内してくれます。山塊の最南端ピークの展望台(AM8:35)へは稜線に出て城山とは反対に南側へ1〜2分です。切り開かれた山頂部にはベンチもあり西 ・南側に展望が開け 休憩には良いのですが休むには早いので城山へ向って山頂近くまで続く虎ロープ(低山ですが 結構急な登だってことですよ )を追って進みます。ロープの途切れる7合目の緩斜面は展望も良く、北西方面に妙見山 ・千ヶ峰〜飯盛山〜笠形山と正面に城山山頂が見えています。
森本城・南郭群主曲輪北の曲輪に散在する石垣

竪堀を越えると9合目で最高所の本郭に至る尾根上には 数段の曲輪が連なっているようです。ただ登山道はその尾根に沿った直ぐ下側に付けられているので、曲輪等の遺構については規模も小さく未確認。直接、本郭の南側下の 曲輪に出てくると最高所には、 森本子ども会の山頂標識が建っているのが見えます。城山最高所 287m(AM8:35)から北側 には急峻な斜面を下って浅香山へ続く尾根筋で、降り切った鞍部は大きな堀切があって其処を越した後は、 削平地や堀切等山城の遺構は特には見つかりませんでした。踏み跡も細くなり段々とあやしくなってきますが、浅香山のテレビ中継塔を目印に稜線を修正しながら進んでいると突然MTBで ガンガン降れる程の道が現れたりしますが、 又いつしか藪っぽい道になったりもします。羊歯類に隠くされた 急な硬い斜面は苔むしていて良く滑ります。 足下が見えないので左右の羊歯類を鷲掴みしながらスリップしないよう、またスリップに備えて登り続けて緩斜面に出ると(AM9:10)、通信施設のある山頂は目前です。
森本城・南郭部北端の空掘

少し下って鞍部に着くと養護学校から林道を経て登ってくる登山道と合流し30mばかり続く コンクリート擬木の階段を登り切ったところにNHK中町テレビ中継所があり、その先に日本エレクトロニックシステム中町放送局施設があります。その前が浅香山(3等三角点 316m AM9:20〜9:30)山頂で、天気がよければ千ヶ峰 ・笠形山が望める。山南町側の石金山は雑木で見えません。しつっこくまとわり付いてくるアブを手拭を振り回して 追っ払いながら鞍部から1m幅の山道を10分程下って林道終点・さらに15分程で北はりま養護学園正門前(AM9:55)に出てきます。辿ってきた尾根を振り返りながら田園の拡がる中を間子(まこう)に戻り始めると雨が降り出し止む気配もない。



 森本城  西安田城 中村構居

霞ヶ城(森本城)  城山287m  多可町中区森本・間子(まこう)

浅香山(3等三角点 316m)から南へ延びる丘陵の尾根上に築かれた森本城 (霞ヶ城)は多可郡中町の139号線バイパス間子(まこう)の東100m程のところにある中世の山城です。妙見山東山麓牧野大池から丹波国境の小野尻峠下を流れる思い出川を山裾に引き、直ぐ南側の中町森本で杉原川と合流して西脇市へと流れ加古川に入ります。低い山城にとっては立派に堀の役割を果たしているようです。
森本城南郭群最高所の主曲輪

R427号の曽我井・糀屋付近からは尾根末端のピークが伐採されハイキングコース中の 展望台ともなっていますが、いかにも霧ヶ城の見張所の雰囲気で迫って見えてきます。森本の日吉神社と民家の 間から始まる霞ヶ城への ハイキング道路(森本こども会の道標在り)が、 梯郭式縄張りの南郭群を結ぶ帯曲輪兼通路となって主郭部へと通じています。7合目付近からはロープ伝いの急登が続き 堀切を越え最南端部の曲輪への急な切岸を登って城域に入ります。
南郭群南端の堀切(片堀切か?)


二段目の曲輪へは岩場を越えて入るため、尾根上に続く曲輪は下草で踏み跡も消え雑木の平坦地を抜けて南郭群の主郭を目指す訪城者は皆無に近いようで曲輪群の切岸東側に延びる帯曲輪・ 通路がハイキング道となっており南郭部の主曲輪下の帯曲輪に着きます。
尾根上は狭く今の時期(H16.7.11訪城の為)踏み跡も 雑木藪に覆われ削平地であることが認識できる程度で、曲輪毎の周辺や曲輪間の処理状況までは見て取る事が出来ません。北方の本郭部に向って徐々に高度を上げながら、段差の少ない曲輪を帯曲輪で繋ぎながら 何段もの曲輪を連ねているようです。
森本城櫓台状に突き出した方形を囲む石積

南郭部の主曲輪から北へ続く尾根道は一転して藪道となり、ハイキングコースは此処まで!!?の様。お蔭で城遺構が壊されず??に残されています。…というより南郭部主曲輪から北郭部への尾根筋は露岩の急斜面・とりわけ南郭北端の大堀切へは 崖状で山道未整備では危険な程。更に北郭を越えて浅香山へ…低山の藪の縦走コースには整備の手は入らないようです…ホッ。森本城南郭主曲輪を北側に下る切岸に石積みを見る。さらに一段西面下方に空掘状(尾根上曲輪群に沿って北端の堀切(北西外側に土塁を持つ空掘)まで横掘となって繋がる城遺構か?)が見える。南郭曲輪群の中央部付近の西面には崩れた石積や、 夥しい石材が散乱・累積しています。空掘を越え緩やかな藪道の先に北郭群が有る。
南郭部(人物の立つ主曲輪の土塁)北側の石積


尾根上を主曲輪のピーク(271m)に立っただけでは極普通の山城と変わらない ?が西面の曲輪に降っていくと様子は一変。 空掘状(長い土塁付帯曲輪?)の先には石垣積の方形台状がある。櫓台遺構と思われ北西方向に長く落ち込む大竪堀の源頭部に建つ。 左右に土塁付きの大竪堀は真直ぐに延び、先では深い段差と急斜面を思出川に落とす。とても素直に登ることは難く攻撃や撤退のためのシューターとして利用も出来ないようで、下方部の其れは伐採材木の木ズラシ 「木材搬送用として 谷筋を下方に落として運ぶ」用ではないかとも思われます。”八百八橋”と言われるほど橋の多かった間子の湿地帯。中町に3社ある加都良神社の一つに 降り立つが、此処に居館があっても竪堀を堀底道としては使えない様…?
森本城:北郭群の北東曲輪に残る 土留め石列

大竪堀と櫓台の間を北方へと浅い空掘りが捲き、堀の外側は石列・石積加工したうえ土塁としている様に見える。此処が大岩を取り込んだ高い切岸と浅いが土塁付き空掘り ・櫓台で城域を遮断した最北端の防御を固める施設で、
さらに浅香山へと続く北の尾根筋には、削平地や堀切等山城の遺構は特に無さそうです。
南北朝期:徳平氏が安 田荘の荘園領内監視に築いたと 南郭から見ると北郭は出郭的な存在のようですが、北郭の北面・西面に対する防御施設の厳重さからは、在田氏が山陰方面から東播磨へ侵攻してくる山名氏や尼子氏を警戒してのものなのか ?光竜寺城に見る土塁付き大竪堀等は在他氏の改修によるものと思われます。…戦国期に入り森本氏が約4km地点妙見山と南と西に派生する尾根先に 位置する在田氏の貝野城・段ノ城を意識して、
北郭群最北端:土塁付き浅い空掘(帯曲輪?)は西端で大竪堀の土塁に繋がる


別所氏に付いていた頃の補修とも思えてきた?。南北朝期・文治元年(1185)安田荘の地頭となった得平三郎頼兼が此処に霞ヶ城を築きます。 赤松家臣団の一で宇野氏族に間島氏・上月氏・別所氏 ・萩原氏 ・淡河氏等と共に得平氏の名が有る。さらに御一族衆(赤松家から分家したか、南北朝期の戦功等で赤松姓を賜わり赤松一族として認められ編入されたものか!!?)の中にも、播磨守護代を務めている宇野氏・別所氏と 共に徳平氏の名も有るが、家臣団の重臣としての名は知らない。建武 2年(1335) 赤松筑前守貞範(赤松円心則村の二男)が、箱根:竹ノ下の戦いに勇戦して新田義貞軍を破った戦功により足利尊氏より丹波国・春日部荘を与えられ 黒井城を築いているが春日部荘には赤松一族の徳平因幡守秀光を代官に置いて統括している。
北郭群の大竪堀の落ち口?にある櫓台石垣

徳平氏が京に近い丹波国内に代官職を得て就いた事と、既に丹波・播磨国境近くの安田荘に所領を与えられていた地の利とは 関連あるのかも!!?嘉吉の乱(嘉吉元年1441)で播磨守護・赤松氏と共に没落して以後、得平氏が霞ヶ城に復帰する事はなかったようです。明石和坂丹波との国境:三草口の指揮官となった宇野能登守国祐に付き、 激しい攻防戦に敗死したものか?。承久3年(1221)には地頭職となった後藤太郎衛尉基重が修築したようです。大永年間(1521-27)徳平源太が徳法師(赤松播磨!の子)に従って在田氏に強制入部しようとしたが、徳法師が討たれた為に徳平氏は在田氏に抱え込まれ、その後は在田氏の城となって改修されてきたものでしょう。徳平氏(=得平氏?)については図書館で多可郡誌を閲覧できる程度なので 詳細は不明。
森本城:北郭群北西の土塁付大竪堀

其の後・天正3年(1575)7月豊地城主別所孫右衛門重棟が、霞ヶ城主森本(藤原)巻右衛門秀清 朝日城主(丹波市春日町)荻野才丸【黒井城主となった赤井(荻野)悪右衛門直正】等の連合軍で同町北部の荒田郷・ 貝野城・段ノ城に在田氏を攻めた「荒田城合戦」に勝利したが、別所重棟に付いていた森本氏も重棟に滅ばされてしまいます。徳平氏が衰退した後、北播磨に勢力を持った在田氏が八千代町の野間山城に本拠を移した 天文年間(1532-55)以降に霞城は現在の形に改修され、天正の頃は本城を主とした最前線基地として、南東口を守備する外堀的な役目の城として、重要拠点の見張り所・連絡用として機能していたと思われます。別所氏方の連合軍として 参戦した森本氏も同天正3年:播州の多くの赤松一族の城と共に別所重棟(後の但馬・八木城主)によって攻め滅ぼされ、森本城(霞ヶ城)は廃城となったようです。城主の長男・清宗は久下(丹波市山南町久下)に逃れ、男長清は此処・森本で 帰農したといいます。
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霞城主・徳平采女正之の墓
森本城から西脇市市原へ抜ける曽我井から大木城へ続く低丘陵の小さな峠に霞城主・徳平采女正之の墓(大永2年?9月16日建立の五輪塔)が有って、 側に小さな祠が建てられています。普通?五輪塔は宇宙とか人の体を表すとも云われ 空・風・火・水・地を漢字か梵字が彫られていますが、 此れには天・祥・院・殿・地輪に当たるところには戒名の居士名が彫られています。水輪にあたる部分も球体ではなく全体的には宝筐印塔の様で、近世に建てられた五輪塔形の墓なんでしょうか?。刻印が明確な事と建立年代が大永2年なら 問題ないのですが!?。文永(1264−75)・・としか読めない刻印?、此処に祀られる徳平氏(得平氏?)の大永年間(1521-28)以降の動きが近在の城々からも見えてきません。
森本城主・徳平采女正之の廟

…徳平氏が霞ヶ城を追われたとしても此の時代に此の地に残っていたかは非常に疑問です。本城の霞城(森本城)を離れ黒田一族野中氏の 大木城に近い此の場所が終焉の地?。霞城主とされる徳平采女と得平源太の関連もよく判らないが。石塔には霞城主采女の名が彫られています。其処から更に続く細い道は祇園神社の幟の立つ祠で終わる。同族の在田氏に討たれたものか?、先に行き場のない藪尾根を背にした高みに祀られた小さな祠・祇園神社は、赤松家の同族の争いで敗れた城主徳平(得平)氏の鎮魂の為の御霊神社と思えてきた。
森本城主・徳平采女の廟へ向かう参道

赤松政則が文明15年(1483)真弓峠(朝来郡生野町)で山名軍に大敗し、 政則を追放した後の赤松家臣団は筆頭となった別所氏との覇権を巡り、東播磨では依藤氏が、在田氏が…別所氏に攻められ没落していきます。徳平氏も其の騒乱期最初の犠牲者だったのでしょうか?。ただの通りすがりに興味を持ってみたが不詳・ 不明でよくは解からない。歴史・郷土史研究家でもないので、これ以上の詮索は止めておきましょう。



西安田城  xxx 194m 多可郡中町西安田

黒田庄町の 黒田城へ寄った後、中央橋を渡りR175号を越えて直進する県道139号東安田を過ぎ、大木城のある市原から西脇市への分岐を左に見送って 田園地帯を直進して西安田地区に入ります。 バイパスなので直ぐ隣の森本城共に北方の地区内を通るバス道に入ります。大歳神社横に西安田公民館が有るので此処から出発、 南側のバス道沿いに登城道を探すが見 当たらず、安田川沿い民家の側から猪垣と鹿除けネットが続く道を見つけて取り付いた。大きく迂回するが尾根に続いていたが、尾根からフエンスとネットを潜って進む道は下草が伸び雑木と 蜘蛛の巣払いが大変です。
西安田城東曲輪端の祠


消えそうな踏み跡が消えた所が!!平坦になっていて 壊れて四隅の柱と屋根だけが辛うじて残された祠(愛宕社だろうか?)が建っていた。祠の正面付近へ登ってくる道は無く、御参りする人も無くなって久しいようですが、此処が西安田城の東端です。浅香山から南へ延びる丘陵が東西に分岐した 更に南に延びる西隣の尾根上287mピーク付近に霞ヶ城(森本城)が有りますが、谷を隔てて東側に266mピークを経て延びる尾根の末端が西安田集落の中心部に落ち込むところに西安田城がありました。城域の東を流れる安田川が杉原川に合流する位置に突き出すように延びた尾根先なので、 眼下に領地の安田荘全域は無理でも西安田・中安田地区ぐらいは望めるのでしょうが雑木と標高の低さで、見通しの効きそうな目前の富田荘(西脇市)も展望が望めません。
西安田城本郭北側二段の曲輪

防御設備を持たず自然地形に近い 平坦地を残す東端部が城の祖形をうかがわせ、中町から加美町を経て 但馬へ通じる杉原川沿いの要衝の街道や安田川沿いに丹波へ入る間道の監視の城の様で、南北朝期か室町時代早期の築城と推察されています。 城主や城史については不明ですが安田荘の後藤氏!!?に関係した城との可能性が指摘されます。 最高所の主郭部分の中央付近には浅い堀切(鞍部状ですが防備を意識した堀切とも思えず区分して主郭を 意識させる為のもののようですが・・!!?)を設け左右に各2〜3の曲輪を連郭状に並べています。曲輪の間にも構造上からみて 機能分化等の防備に特別な工夫も見られないので戦国期まで使用された城ではなさそうですが、当初から西隣に位置する霞ヶ城の支城・出城として機能していたと思うのですが。



中村構居  丘山(岡山)160m   多可郡多可町中区奥中字岡山・中村・高岸

西脇市街地からR427号線を北上し多可郡に向い糀屋・茂利・奥中交差点を過ぎ、直線道の緩斜な登り坂の右手 (東側)の独立低丘陵を回り込む様に、小さな峠を越えると杉原川を渡って中町中央公園、中町の情報発信基地アスパル側(そば)の交差点に出る。中町健康福祉センタから日赤病院に向うと南側に先程の低丘陵裾を杉原川に一気に落としている。
主曲輪の三方を低土塁が囲こむ

日赤病院前の細い日赤橋を渡ると 正面に墓地が有り駐車スぺースがあります。そのまま中町中学校裏手と山裾の間の車道を進んでいくと登り口をがある。山上まで続くと思えた 明瞭な山道は何だったのか?登り初めて直ぐの所にある平坦地や石垣は学舎跡だった様?、なを続く道は稜上部?付近で消えて、登り着いた稜上から先には西南側に赤土混じりの広い平坦地が拡がる。
主郭の北東角の土塁虎口

此の付近には古墳があって発掘調査され、その埋め戻された場所だったと思われます。進む尾根筋東北端は 急斜面となって杉原川に 落ち込みますが稜線に沿っても藪が酷い。…尾根筋なのに幅狭く・東斜面をトラバース気味に進むも背丈を越える猛烈な藪・おまけに荊棘も多く進むにも難渋する。足下も判らない下草藪と雑木の中で、深い溝状窪地を越えたが堀切だったか?は見通し効かず確認も出来ない。このような状態がこの先も続くのかと思うと、一旦は諦め引き返そうと思ったが次の予定が有るわけでもないので、 兎に角行くだけ行ってみようと藪の中を進んでいった。
三方低土塁囲みだが、 枝打ちされた枝が土塁を覆う

尾根筋の前に堀切状窪地と其処から7‐8m程上部が台地の様!!。西面・東面は岸を切った曲輪!!。急斜面上には三方を土塁が囲む単郭の城館遺構。曲輪内に入って・やっと藪から開放された。 低い土塁で囲まれた曲輪は正に構居です。土塁囲みの構居跡は南西角と北東角に土塁が開く土塁虎口、南西虎口下への枝尾根筋は、 下方に広い平坦地が二段程あり、奥中集落のR427号沿い東側の一番北端民家近くの駐車場付近に降りてくる。
奥中交差点近くから中村構居跡の岡山を遠望

北東端虎口からは急斜面を北西先端部に落とす尾根筋を R427号線の杉原川側か、峠の民家向いに降り立つ倒木と下草藪に覆われた緩斜面に出る。 どちらの下降点も尾根筋や左右の斜面に堀切・土塁曲輪等の防備施設もない。東側へは藪中に曲輪と思える平坦地形があるがその先は斜面を2〜3m滑り降りる(切岸?)と四方5‐60m程の広い平坦地に下りてみます。かつては此の間には 堀切で区画された東郭が有ったようです。とはいえ…尾根の幅は広く平坦なので、相当深く長く掘り切らないと防御性は弱い東側の藪の高みを透かして見ても、 築城時期や城主等の城史が不明のうえ、
中村構居南西面の切岸

縄張り図も無用の状態では、旧状を想像も出来ませんが土塁囲みの戦国期の構築で、城主を「播磨鑑」に赤松下野守(?西播磨8郡の守護代:政秀とは別人物!!?>)の代官・三島入道とされます。霧ヶ城(森本城)の徳平氏や森本氏との 関係が深かったと思えるのですが、貝野城・段ノ城を北方に望み、
中村構居(右端)を望む


段垣内構居(荒田構居)との中間に位置する中村構居の三島氏は、赤松氏一族の在田氏とは領内に於いてどんな位置付けと関係に有ったのでしょう?。 持ち城が有ったのかどうかも合わせ…郷土史家の方々の研究に期待したいところです。在田氏の貝野城・段ノ城の落城と攻手に加わった森本氏については上の森本城(霞ヶ城) の「荒田城合戦」部分を参照してください。



多哥寺跡と”播州歌舞伎”
播州歌舞伎

北播磨余暇公園や東山古墳群からR427号高岸交差点に出て、西脇市へ向かうと直ぐ東・木々に囲まれた一角が見えます。此処が多哥寺跡ですが、直進して次の信号のある交差点には小さな道の駅風 ふるさと夢蔵が有り、地元物産販売や中町観光案内パンフが用意されています。小公園があって広場には「播州歌舞伎」を代表する?”寿式三番叟”をモチーフにしたモニュメントが建てられています。東山古墳公園の 那珂ふれあい館にも歌舞伎上演の舞台がありますが、 多哥寺跡の量興寺でも例年・観月祭では地元小学 校の播州歌舞伎クラブの実演されます。歌舞伎は京・大坂・江戸で大流行し序々に地方へも広まっていき、江戸時代には農村部へも浸透し、村々にも芝居小屋が建てられるようになりました。
量興寺(多哥寺跡)

加西市北条町高室は”石屋3分に百姓1分、残る6分は皆役者”といわれた役者村でした。
大衆演劇として本来役者ではない 一般農民達によって全国的に盛んに演じられてきた地芝居 ・農村歌舞伎は江戸時代初頭・百姓一揆を恐れた幕府により一斉に禁止されたが、これ等の地方歌舞伎を”祭り”の一部として演じられていた三地方 【小田原を中心とした相模地方(静岡)・中山道美濃国(岐阜 )・播磨国播州(兵庫)】にかぎり上演を許されていました。其の為・演じ手の役者も多くて播州地方でも幾つかの一座が 結成され各地を巡業していたようです。播州歌舞伎も現在では中町に「山城家一座」を残すのみとなっていますが!昨年の中町文化祭に寄ったとき播州歌舞伎”嵐獅山一座”興行の垂れ幕を見た。
ふるさと工房・夢蔵の播州歌舞伎モニュメント(寿式三番叟)

先代 ・嵐獅山を襲名されたお兄さんと弟さんで ”山城家一座”の公演を続けられていたが、役者の高齢化による伝統文化維持に不安を感じられ、保存継承に取組まれており中町北小学校に 「播州歌舞伎クラブ」・中町中央公民館に「歌舞伎ファンクラブ」が結成され、座長自ら指導に当たられ、其々児童や卒業生等で創設されたクラブで稽古に励んでおられます。其の成果発表の場の一つが量興寺 (多哥寺跡)で毎年行われる観月祭です。観賞としての中央歌舞伎と、役者が観衆と一体となって共に楽しむ大衆娯楽として、オーバーアクションや泥絵(芝居絵)を思わせる地方歌舞伎の動画紹介は 播州歌舞伎http://www.nakacho.jp/kabuki/index.htmlで 垣間見る事が出来ますよ v(^^♪
(現地 播州歌舞伎モニュメントの案内板等 参照)


多哥寺跡 高寺山量興寺(高野山真言宗 本尊:薬師瑠璃光如来) 中町(高田郷)天田

播磨風土記のよると高田(あげた )は多可郡の名の発祥とされ、 高田(たかた)郷天田は其の中枢にあって、白鳳時代に創建された 播磨地方屈指の古代寺院で、 塔・金堂・講堂が直線上に配された四天王寺様式(四天王寺より古い)の伽藍と推定される壮大な多哥寺がありました。其の伽藍の壮大さは量興寺の中庭に残された五重の塔!の巨大な塔心礎(幅約2.3m・地上部の高さ 1.2m)からも推察できます。
量興寺の庭に残る(多哥寺跡)塔心礎

多哥寺は日本に於ける最初の女帝・第33代推古天皇(在位:崇峻5年592〜推古36年628)の御願所として創建されたもので、昭和55年(1980〜)の調査が行われ、規模は現・量興寺境内の約3倍 (約100u)の境内に回廊を廻らせ塔・金堂・講堂等が配された大伽藍で、多可郡の名を負う郡司建立の寺だったと考えられています。多哥寺はいつの頃か大火で焼失し、寺域も減って次第に衰退していった様ですが付近一円が皇室御領に属した為、平安時代中期・第74代鳥羽天皇の天仁年間(1108〜1110)九条民部卿(藤原?)顕頼が、 寺地の中央1町を定めて伽藍を建立し、名を改めて量興寺とした。
量興寺の庭に残る(多哥寺跡)塔心礎

保元2年(1157)後白河法皇の女御、建春門院(第80代高倉天皇の父と母)の命により、鳥羽天皇の院政期の近臣・藤原顕頼が再興し、定慧(中興開山の祖とされる)が量興寺別当に補せられた事により、 寺格は著しく高揚し近郷随一のものとなった。鎌倉時代中期・第87代四条天皇の天福2年(1234)旧多可寺境内を地頭代官仲原某が樋燈油畠を寄進している。しかし藤原氏の衰退に加えて災禍相次ぎ荒廃し寺領は侵され中絶してしまった。 天正6年(1578)地頭矢田部越中守長久が、本堂を再建・本尊薬師如来を安置して良遍上人を招き開山とした。上人は旧蹟を整え、一部を割いて田を拓き維持の方途を講じ古名を取って『高寺山量興寺』と称した。
(現地 量興寺の案内板 参照)
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