翠明湖 観音の森-福王山砦 なか・やちよの森公園-黒木山 糀屋稲荷-奥野将監墓
兵庫・播磨(五万図=生野)
T奥中の観音寺「観音の森入口」〜福王山砦 2005年05月14日
U翠明湖・湖畔の広場〜階段の道〜黒木山 2005年05月21日
近畿の山城:福王山砦

「なか・やちよの森公園」”見晴しの丘”から翠明湖

観音の森は奥中地区森林ボランティアによって 観音寺裏山一帯が「ひょうご豊かな森づくり構想 」に基づく”里山林整備事業”の一環として、里山の整備や登山道の開設等・里山の森の四季の自然や眺望を楽しめるハイキングコース。観音寺から背後の福王山(388m)を周回するコースの山頂部が展望良好の砦跡といわれ、山頂部より藪尾根を辿る直ぐ北方には東山 (4等 403m)があり
なか・やちよの森公園・湖畔の広場

中々魅力的な山容を見せています。糀屋ダム(翠明湖)を廻るハイキングコースとして翠明湖の西側丘陵を縦横に通じるなか・やちよの森公園も北播磨の山々 (笠ヶ岳〜千ヶ峰〜三国岳や篠ヶ峰・妙見山・浅香山)を遠望し眼下に翠明湖を望みながらのコースは人と自然が共生する豊かな森づくり構想で、 里山を見直し守り育てていこうと整備された”県立ふるさとの森公園”の一つで、文化・スポーツ・レクリエーション活動拠点の場として”湖畔の広場”に施設があり、渓流の広場や林間広場、尾根筋には展望デッキや東屋が設置され、 里山が明るく親しみやすい森として整備されているので一日里山で楽しんでみるのもよい。翠明湖(糀屋ダム)は北播磨最大の水甕:翠明湖は 平成3年 (1991)仕出原川を堰き止めて完成した広さ83.7ha、貯水量1,350万tで周辺農地3.850haに対し年間約 1,400万tの農業用水と約1,120万tの工業用水を供給し、堰提の長さ306m・高さ約43mを誇るロックフィルダムです。ダム中央部にアーチ型を描く翠大橋西詰にある翠公園には"ポートピア'81”のシンボルとなっていた 白いターミナルマストが移設されていて、此処からは雄大なダム湖が眺望できます。
翠明湖

ダム湖周辺12kmの周遊道路は以前からウォーキング・ジョギング・サイクリングに絶好のフィールドになっていましたが 「観音の森 」ハイキングコースの整備もされたので人気スポットとなる事でしょう。 桜やツツジの開花期が良いでしょう。”ツツジの道”を歩いて見たのですが今回の”観音の森”にも同名のコースがあったが、小さな公園内の散策と違って遠距離の稜線歩きの枝道に有る”xxxの道”等の愛称コース名よりは、 POINTとなる寺社や集落・地区名の道標がありがたい。
(翠公園及びダムサイトの説明板 参照)


T奥中・観音の森〜福王山砦〜真谷見晴らし台〜観音寺 2005.5.14

中町役場からR427号線に出て交差点の”観音寺・糀屋ダム (翠明湖)”標識を見て奥中地区に入り、真直ぐ西南の丘陵に向かって走ると緩やかな登りカーブ手前(町営住宅が有る)の左手丘陵側に”大姫山天神社”の案内板が立ち説明に源頼政 の文字が目についたので一寸寄ってみます。右手前方には福王山が見えています。その麓にある 観音寺本堂から「観音の森入口」の案内板を見て裏山一帯に拡がる里山・観音の森に福王山山頂(388m)を周回するハイキングコースが有ります。左手から山に入る「古代ロマンの道」をとってみます。
真谷見晴台から新宮山と土取場の向山(中村構居)・中央に浅香山遠望

古墳でも有るのだろうか?ネーミングの意味が良く分からないが展望が拡がってくる尾根に沿って階段状木橋があり、展望台を兼ねている様です。向いの稜線には「ツツジの道」だったか「やまびこの道」だったか?のコースに有る”真谷見晴し台 ”の東屋や、霧ヶ城〜浅香山がの丘陵が見える。帰りは此のルートを下る2時間程の散歩コースです。福王山砦跡展望台からは翠明湖や中町の町並みを眼下に一望でき、大きな山容を見せる妙見山の二つの尾根先に貝野城と段の城が見え 霧ヶ城から浅香山への稜線を正面に見据え大木山(上犬伏山城 がある)・ 妙見山(黒田庄町)・篠ヶ峰・千ヶ峰〜笠形山へと北播磨 ・東播磨の代表的な山々や城砦が望める展望台です。結構急斜面が続く福王山山頂からは尾根先の台地に建つ”真谷見晴台”の東屋に着きます。登りのとった場合は山頂への急登前に良い休憩場所になります。
福王山砦から笠形山の遠望

此処から山土採取場の赤い山肌を覗かせる丘山の 中村構居と新宮山の小さな丸い丘陵(いずれも古墳の発見された山)との間をR427号線が通り抜けます。福王山砦の南側道は徳畑から糀屋ダムを見てトンネルを抜けると八千代町に入りますが此処には赤松一族・在田(有田)氏が河内城(加西市)から本拠を移した 野間山城・光竜寺城・花の宮砦等の野間城が、東側には奥中から北方に向かっては中町のシンボル・妙見山がある。此処にも・尾根続きには
旧・天神社から福王山を望む

貝野城・段の城・段垣内構居等在田氏の城が有り、本拠の野間山城へも安楽田や寺内から通じていますが、高坂峠を越えて神崎町や、加美町から丹波市の青垣町を経由して但馬や丹後へ通じる旧生野街道がありました。 在田氏の諸城も天正初期・屋口城(小野市)の別所重棟(後に但馬・八木城主)に攻められ落城しますが、貝野城・段の城攻めには近在の霧ヶ城 森本氏が別所氏に付くが同年・森本氏も別所氏に滅ぼされます。



U  なか・やちよの森公園〜階段の道〜黒木山 2005.5.21

先週寄った(上記そのT参照)奥中の”観音の森”への分岐を右に見て車道は中町から峠を越えて八千代町に抜けるが、此処に仕出原川を堰き止めて出来た北播磨最大のロックフィルダム 糀屋ダム(翠明湖)は、湖畔と丘陵をを廻る里山の散策路が整備され其の自然に触れ ・遊び・学ぶ活動の拠点として「湖畔の広場」に施設があり、森づくり研修や自然観察、果樹農園・木工等のいろんな体験学習が出来ます。
黒木山三角点・正面に笠形山

以前・翠明湖を一周した際に翠大橋近くの”ツツジの小径”から尾根上の東屋まで登ってみたが、小さな子供連れで歩くにも色々と 整備されたコースが有って無理なく ・展望も良い絶好のファミリィー・ハイキングコースが楽しめる様です。今日は翠公園よりズッと進み南端の糀谷ダム近くの「湖畔の広場」まで行ってみます。 車道を隔てて前には湖とダム ・背後には芝生に広場・ビオトープの池が有り歩道を挟んで果樹園や畑があり、長い長い木(丸太)の回廊は階段・梯子・吊橋等で組まれ、谷川を渡り山腹に続いていて子供には楽しめる遊び場です。
正面に黒木山(右の笠形やま・左に七種・明神、遠く雪彦山も…)

其処から尾根に続く山道が黒木山へ通じます。 公園事務管理棟の横からら直ぐに登り始める「階段の道」が”山の交差点”と名付けられた376mピークへと約1.2kmで一気に高離200mをかせぐ激登りですが、登り初めから翠明湖や黒木山等の展望が途切れる事も無く快適で疲れを忘れさせてくれる。 階段道が消えて登り着いたピークからは展望に加え緩やかなスロープの散策路となって主尾根の従走路「山の交差点(376m)」へと延びています。翠大橋付近からの、 幾つかのコースを集めて展望デッキや展望台施設が用意され”山の交差点”を経て八千代町と中町の境界尾根を黒木山山頂(3等三角点 393m)に至る メインロードです。
湖畔の広場・ビオトープ池jから黒木山

其の先には 八千代町側に美しい三角錘の386m峰があり、大亀岩を経て”エーデルささゆり”へと降りるので、 いずれ竹谷川の渓谷美や竹谷山(点名:赤坂)コースも追加したい。美しい翠明湖を眺めながらの尾根歩きで、東に木谷山 竹谷川(兵庫の観光100選の一つ )を挟んで西側に竹谷山を望みます。以前・竹谷渓谷を訪ねた時、何処までも続くと思えた 長い林道は、此の森林公園の整備中だった様で スッカリ様子も 変わってしまっただろう事は想像出来ます。”山の交差点”から約1km、湖畔の広場への下降点からほんの1x0m程、僅かの登りで山頂に東屋が見え、その隣の台地に”黒木山”と表示の木柱が立つ。
黒木山への直登コース入口(渓流広場)にある遊びの砦

3等三角点 393mの山頂からは三国山〜千ヶ峰〜笠形山・笹ヶ峰・翠明湖と 並ぶように浅香山〜城山(森本城)・其の先の黒田庄町側に白山〜妙見山・・・が同定出来る結構な展望台です。只走行する車も見えるセントラルサーキットからの騒音以上の(爆音)が絶え間なく此処まで響いてくるのは三田 昼ヶ岳同様にノンビリ自然に浸っておれない苛立ちさえ感じます。
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奥中の大姫山・天神社

平安時代後期・近衛天皇(1142〜)の久安年間(1145-51)頃・此の地を領していた?源頼政が奥中熊野権現社から十二座の内、 崇拝していた菅原道真を祀る天神三座を大姫山に遷して祀っていたが亀山天皇(1260〜)の文永4年(1267)火災で社殿を燃失するが、ご神体は火災から護られ一時期、奥畑の束田という所に移され安置されていたものが、徳畑の長尾谷へ遷宮されたもので、天神郷(奥畑・茂利 ・徳畑・中村町)の氏神となっています。桃山時代初期・永禄年間(1558)より江戸時代初期・慶安(-1652)に掛けて随時、本殿や随身門 ・鳥居等の修改築が成されたのが現在の天神社です。
大姫山天神社には旧天神社の礎石が残る

其の跡地となった奥畑の旧地に再び祀られたのが大姫山天神社で、 境内には古い礎石が残されています。また・奥中にも全国的に行われている”稲の虫送り”伝統行事があり、登場人物が源頼政と同様・源為朝・義朝に仕えていたが保元・平治の乱後、 平家に仕えるようになった齋藤別当実盛です。寿永2年(1183)木曽義仲軍と倶利伽羅峠で戦い、敗走する平家軍を追った義仲軍と加賀国(加賀市手塚町 ・篠原新町一帯 )で追いつかれ、彼(別当実盛)の名だけが?有名になった源平・篠原古戦場ですが「馬が稲株につまずいたか、田に足をとられた為か討たれ・其の怨念が稲の害虫にとなって祟るという」伝承が有る。
大姫山天神社と旧天神社の礎石

”実盛の藁人形”を作って幟や松明行列で「実盛さんはご上洛、稲の虫やお供せい…」と大声で唱えながら村境へと稲の害虫を追い払う 多分に呪術的なものです。嘗て広く行われていた行事ですが、今は奥中の”村づくり実行委員会 ”や森林ボランティアの手で毎年7月初旬に行われ新聞・テレビ等で紹介されています。
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福王山観音寺 (高野山真言宗 本尊・十一面観世音菩薩)は奈良時代・聖武天皇の神亀2年(725)、 行基菩薩の開基を伝える古刹です。観音寺縁起には江戸時代後期の『文化年間 (1804〜1818)霊夢のお告げによって境内の楓の古木の下を掘ったところ一基の石櫃を発見、 その中から石の地蔵尊が一体現われた。
観音寺本堂・正面右手に日限地蔵が祀られる

地蔵尊は言(のたま)わく「今より後、善男・善女来たりて、丹誠を凝らして、われを祀り、日を限って一心に礼拝祈願して立願すれば、われの大加持力によって必ず汝の祈願を叶えよう」と霊告が有り、恐れかしこんで直ちに境内の本堂の脇にある楓の古木の下に 祠を建て石仏を奉祠した。これを日限(ひぎり)地蔵と称して地蔵堂に祀って以来・遠近より多くの人々が参詣するようになった』とされ、今も霊験あらたかな地蔵尊として地蔵堂に祀られ人々の信仰をあつめています。
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稲荷公園・糀屋稲荷と奥野将監の墓   兵庫県中町椛屋

福王山砦について調べようと中町図書館に向かう手前に 糀屋稲荷の大鳥居が見えた。参道の奥・本殿から 背後の丘陵上へは 社殿を取囲む様に、左右に赤い無数の寄進された鳥居が立ち並ぶが、 昨年の豪雨災害によるものか!東側の大部分は撤去され残る鳥居も傾き、以前の姿の面影はないが 西側の石段に沿って並ぶ鳥居群で想像してください。
糀谷稲荷

御祭神に稲蒼魂(うかのみたま)命・若宇賀売(わかうかめの)命・保食(うけもち)命を祭祀する糀屋稲荷神社は推古天皇の2年(595!)法道仙人により延命寺として創建された中町の寺社でも最も古い開基を伝えます。 称徳天皇の崇敬深く、称徳天皇の景宝2年(768)宮殿堂宇が建立されたいわれます。稲荷神社は神託により天安元年(857)現在地に遷座されたが度重なる火災で焼失、再建が繰り返され延明寺もいつ廃寺になったのかは不明です。社堂は寛永11年(1634)、 社殿は寛永21年(1644)に建立されたといわれます。姫路城主・池田輝政より社領の寄進を受け、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の長女で姫路藩主 ・本多忠刻と再婚した千姫の懐妊を祈願した灯篭も残っているそうです。
稲荷神社の鳥居群

赤穂藩士奥野将監定良の墓が稲荷神社裏の山本家墓所内にあり法名:玄徳院節厳禅義居士・墓石の側面に浅野匠之守家臣:奥野将監とある。定良の父:定次は赤穂藩浅野家の家老で禄高も大石内蔵助良雄の1500石に次いで1000石・赤穂花岳寺に墓碑がある。 母は大石無人良聡の娘で大石内蔵助の討入りには協力を惜しまなかった。浅野内匠頭長矩の刃傷事件によって元禄14年(1701)赤穂城開渡し、浅野家改易時には子の将監定良が重役の地位にあって、逐電した家老大野知房の代理を勤め ・大石良雄を補佐し開け渡し作業に尽力した。幕府に対し主君の弟 ・浅野大学長広を浅野家再興の後継者として推しをたが赦されなかった。その後 ・大石良雄等の義盟にも幹部として 最初から参画し補佐していたが”忠臣蔵”で有名な赤穂47義士の列にも加わらず、元禄15年に脱盟し一党から除列した事から”不忠”の悪評を受けています。
糀谷稲荷の鳥居群

東京大学史料編纂所に保管されていた「大石家文書」の中から1999年10月発見され、正式に公表された 江戸時代中期に記された文書「江赤家秘録」は脱盟者に関する記録や脱盟の意を記した手紙の写しが多く記録されており、奥野将監も「口上これなき分」として脱盟者のリストに数え上げていますが、同文書の記述には内蔵助と血判状を交わして誓った 赤穂藩士が120人もいたとされ70名程の義士が残っていた事になりますので、大石良雄等の義挙が万一不成功の場合は第二陣として仇を報ずる予備の抑えとして大石・奥野両氏の深謀術策だったとも”山本家文書”にいわれるようです。脱盟後は京都から一時 ・娘婿を頼って加西市に移り【奥野将監屋敷跡がある】後に播磨多可郡に隠棲して享保12年(1727)5月22日80歳で没した。
(現地 糀谷稲荷社の歴史街道案内板 多可郡中町誌等を参照)





福王山砦  福王山 388m  多可郡中町奥中
中町奥中の観音寺裏山に福王山砦があったとされ、山上の福王山展望台を周回する「観音の森」ハイキングコースが整備されています。
福王山砦から中村構居(道標側の円山)と森本城(中央丘陵の右手)

此処に砦が在ったことは旧及び新”中町誌”にも中町遺跡分布図(教育委員会調査)にも其の存在や城史について一切不明ですが、中町の多くの城館や街道筋を眺望できる 展望の良さや、砦の機能や存在位置に付いては勝手な論理で推察してみますので上記Tの周辺散策レポートから皆さんで考察してみてください。
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