鶏籠山〜的場山〜亀山(城山城)〜祇園山〜大倉山/伊勢山〜空木城

西播磨 地図(五万図=龍野)
龍野城〜龍野古城218m〜的場山394m〜亀山〜祇園山〜亀ノ池〜大倉山 2002年12月14日
神坐の窟〜空木城(272m)〜伊勢山〜打越木もれ日の森周回   2006年07月30日
近畿の山城 : 城山城(亀ノ山城) 祇園嶽城  龍野城と・龍野古城(鶏籠山城) 空木城
T赤とんぼの里の播磨三アルプスの一:新龍アルプス(鶏籠山〜祇園山)と赤松三城の一つ城山城へ
U灼熱の岩尾根歩きと岩壁と洞窟と・・・城山へ  伊勢山〜空木城

醤油+揖保の糸・赤とんぼ
の三題は龍野市で繋がりますね。龍野は揖保川に赤トンボを追う、夕焼けの似合う町。
               龍野小唄♪山は鶏籠 流れは揖保よ・・・♪
校歌・故郷の山  龍野小学校  ♪鶏籠の翠とこしえに・・♪作詞=三木露風
             龍野実業高校 
♪千歳の緑 鶏籠は…♪  作詞=三木露風
            龍野高等学校  
♪・・・鶏籠山を廻りゆき 大空高く台山の・・・♪
             〃
旧制龍野中学 ♪嗚呼秀麗の台の山xxx・・・♪
            〃旧制龍野高等女学校
♪年経て深き鶏籠の 山の緑につつまれてく・・・♪
           龍野高等学校「讃歌」
♪xx・・・台山の動かぬ影に水澄みて・・・♪
               〃       
♪古城の丘の歳々に 花咲き満ちて鶏籠の・・・♪
三木露風の童謡・「赤トンボ」の像

龍野橋からは揖保川の河川敷きを通して、鶏籠山と的場山の稜線が高台の国民宿舎・赤とんぼ荘の奥に連なります。この鶏籠山(台山 )に龍野古城があり山裾には近世の龍野城があって、播磨の小京都として脇坂藩5万3000石の落着いた城下町の風情を残しています。揖保の清流が生み出す伝統の地場産業にうすくち醤油や、揖保の糸(ソーメン)で知られるが 童謡「赤トンボ」の作詞者・三木露風の生誕地でもあり、今日は龍野周辺の山なので一度は町中に響くメロディーを聞くことでしょう。♪夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か・・・♪ 絶好の見頃時期が過ぎたので紅葉谷コースを止め、直接・龍野城(霞城)からその、背山にある鶏籠山に向います。 山頂には中世期・赤松氏の龍野古城(朝霞城)があって此処から的場山を経て亀山に向います。亀山(木ノ山)は城山(きのやま)城址で赤松三城(白旗城・城山城・置塩城)の一つです。
赤トンボ荘を挟んで鶏籠山と的場山

白旗城(440m)は元弘3年(1333)頃、赤松円心則村の築いた山城で、 新田義貞の大軍による50日余の戦いを耐えた城。山上に多数の郭・堀切・土塁・石垣の遺構を残しています。
置塩城 (439m)は文明元年(1469)に 赤松政則が築城し四代続きますが義祐則房の時天正5年(1577)に秀吉の播磨攻めで秀吉に降伏して城の歴史を閉じています。この城も多数の郭や石垣・土塁が残り、室町期の瓦も有るが、赤松小判を鋳造流通させていた事や 秀逸な置塩鏡の製造が特筆される城です。さて城山城(458m)は!!、詳細は下記・城山城址を参照ください。文和元年(1352)頃から赤松則祐が十数年の歳月かけて築城した山城ですが「嘉吉の乱」の敗戦により赤松満祐が一族69人と共に当城で自刃した一時 !・赤松氏終焉の地です。山上には多数の郭・堀切・土塁・石垣も残るが、それ以前にも城が存在していた可能性から県下唯一の古代山城としても注目されています。二つの龍野城【近世(霞城)・中世(鶏籠山城)】と古代山城と南朝期の山城が 同一場所に残る城山城から出城の祇園嶽城へと城山連山縦走に出発します。このコースは新竜アルプスと呼ばれ小野アルプス百間岩〜高御位山周辺と並ぶ播磨三アルプスの一つです。

【鶏籠山(台山)は龍野のシンボルとして親しまれています】

T龍野城〜龍野古城 (鶏籠山・台山)〜的場山〜亀山〜祇園山〜亀ノ池〜大倉山H14年12月14日

城下町の散策が好きで此処へは三回目 !!登山目的は初めてですが脇坂藩の龍野城を振り出しに的場山へ 向かい亀山〜祇園山へと南北朝期の城山城城塞群の縦走は楽しみです。観光地!!龍野には 見所も多く拠って見たいポイントが幾つかあります。 鶏籠山へは「相撲の神様・野見宿禰」神社や聚遠亭【藩主の上屋敷】にもよって、その奥に続く紅葉谷から両見坂を抜ける旧出雲街道(神話の野見宿禰も出雲(島根県)の人) を採るのが一般的のようです。
龍野城(昭和の再建では復元や模擬も有り!!)
 
峠からは北への尾根を辿るのが楽なコースのようですが私は此れから先、まだまだ進まなければなりませんので、龍野城隅櫓の脇から続く大手道を選びます。 静かな広い雑木林は 紅葉谷へのハイキング道と分かれて少し傾斜もキツくなる大手道をとリます(AM9:10)。 滑りそうになる落ち葉の道は本丸まで、 竹掃木で山道の端へ吐き出され歩きやすくなっています。此の坂は下る人が多いからでしょうが感謝・感謝です。途中に番小屋でもあったのか狭い場所に石積みで囲ったところがあり、
龍野古城(鶏籠山城)本丸の石垣・石畳

この辺りから曲輪跡らしい削平地を見かける。1m程の高さで幅広の土塁を廻らす 曲輪跡を見て最初のピークが二の丸(AM9:28)鞍部を越えて矢竹の群生地が残る庭のような削平地を過ぎると本丸(鶏籠山<古城山> 218m AM9:35)に着く。本丸隅の方には埋め戻された土砂の横に瓦破片類が出されている。此処を下ると龍野古城本丸の石積み・石畳・石段が続く登城参道。石の鳥居の残片か !!赤松氏築城時の守護神・八幡宮の跡も此処にあります。 多くの石垣もこの付近に集中して残っているようです。右手に竪堀跡を見ながら山道としては快適な下り道。的場山が山頂にアンテナ群をのぞかせて横たわります。
両見坂の石灯篭

直ぐ其処に見えるのですがマダマダ下って登り返さなければ…。 紅葉谷からの道と出会うところが両見坂(AM9:45)で大石燈籠が待っています。旧出雲街道で伝説の相撲の神様・野見宿禰も、この道を出雲へ帰り、又龍野へ戻って生涯を閉じたのでしょうか!! 目指す的場山は登り返し少しの1kmです。しかし急坂が続きます。此処から亀山へは近畿自然歩道です。道標完備のハイキング道です。振り返ると鶏籠山は梵鐘のような姿を見せています。この姿も、揖保川付近から見る台形の姿も鶏籠を表しているのでしょうかね。 比較的急な登りが続くが東面が拡がって揖保川を望みながらの登行は苦になりません。露岩が累々と続く箇所を抜けると階段道となり、その途中に建設省(今は国土交通省)近畿地方建設局的場山無線中継所があり舗装林道は此処まで通じているようですが、専用道路なので歩きかMTB以外の利用は駄目でしょう。階段を登り切ったところが三角点標の埋まる 的場山山頂(3等三角点 点名:竜野 394m AM10:45)で側にNTT関西ネットワークセンタ的場無線中継所が建っている。
鶏籠山(龍野古城)から的場山

城山城の出城なら三角点付近は望楼か狼煙台が、各無線中継所の位置に曲輪があったのかも知れないなと思いながら一息つきます。北方の尾根続きに播磨の赤松氏三城の一つ城山城のある亀山(木ノ山)が見える。此処・的場山にも城山城の出城跡といわれ、これから辿る祇園山(祇園嶽城)まで連なる長大な稜線一帯には、楠木氏の金剛山系の城塞群と同様に、南北朝期特有の幾つもの塞城が配された城山城塞群を形成し機能していたようです。亀山へ向う自然林の尾根筋は東に揖保川沿いの龍野市や新宮町を望み、遠くに特異な存在感を誇示する明神山の姿が、その奥に七草の三山辺りが重なって見え隠れします。 北西方向には向う亀山(城山城)と並んで気になる美しい山容の大倉山が行く先々で常に艶やかな姿を見せ付けるものだから コースを少し延長して、大倉山へ寄っての帰路に変更すべく、少しペースを上げて進みます。天気は上々・展望も先ず先ず・整備されたコースは大した急斜面の登下行もなく!!快適です。関電送電線鉄塔を越した辺りの点名:佐野(4等三角点 383m AM10:40)をコース脇に見て下降、最低鞍部?付近は少し狭い箇所もあったかな…
点名:佐野付近から大倉山と亀山(城山城)

いよいよ亀山への登りです。急な登りが続くわけでもなかった。下野田からの登山道と合流(AM11:30)してもう直ぐ城跡と感じるが 遺構の気配は無かった。が暫らく緩やかになった尾根の直ぐ下数mにある削平地にアレッと気付くと、もう其処は佐野・下野田からの兵糧道といわれる暗い谷を詰めて登ってくる道で
(ハイキング道ではない)、谷幅を埋めるように広い数段の曲輪が谷下へと続き、一番下!!?の曲輪の中程に案内板と木柱の供養塔・五輪塔・仏石が並んでいます。「嘉吉の乱戦死者慰霊碑」があり、此処が赤松屋敷跡と呼ばれる所!!赤松満祐が嘉吉の乱に敗死した場所なのか。暗い植林帯のジメジメした場所だが赤松氏の城山城遺構は此処を中心として曲輪群等が残されています(AM11:13)。本丸は山頂部に有りと考えるのが間違いなのか、城山城は不思議な事に屋敷跡付近の446mピークや二ノ丸452mピーク、本丸といわれる亀山山頂に曲輪を意識出来るほどの遺構を確認する事など、素人の私には出来ませんでした。しかし城山城は、奈良時代の古代山城(朝鮮式山城の特徴もあり・・)と室町時代の中世山城が同一場所にあることでも興味深い山城です。周辺の曲輪探索は下記近畿の山城城山城コーナーに譲って先に進みます。二ノ丸への途中にも広い曲輪が有り、その間を縫うように山頂を捲くように近畿自然歩道が付けられています。そのまま進めば亀山山頂へは直ぐですが石塁C⇒の標識が二ノ丸を北側から捲くように 西へ向っているので立ち寄ります(AM11:35)。亀山山頂(4等三角点 木ノ山 458m AM11:45)は東南側!!?が切り開かれ展望は良いが、 変哲も無い平坦な山頂です。西下には 門の築石(AM11:55)が残置されてあり、石塁と共に古代城跡の遺跡としては必見です。 石塁はa〜dが発見されているとか!!…山頂からの短い急斜面から緩やかな尾根道になり、そのまま大きな露岩とトタン屋根に御簾で囲ったような簡易トイレのある休憩適地に着く(AM12:10)!!。展望は余り良くないが明るいところで 道標の近畿自然歩道は左(西方)を指して、亀池へ下ります。
祇園山の岩峰

其処から 唐猫谷に沿って新宮町市野保へは城山城の搦め手道で途中、谷通しに祇園山へも通じており此処にも築石(門礎)があることをKAIさんや山のHPで知ります。 後で訪ねた山上湖の亀池や新池に使用されている堰提石の出所を気にしながらも、広い範囲に点在する古代山城遺構が朝鮮式ではないか??神籠石があったのでは・・・と!!?? 悪しき事を考えてしまいます・・・(^^; 搦め手側への下降口には亀岩が在って亀が甲羅から顔を出して首を傾げている様子に見えます。祇園山への稜線側には蛙岩が在り、"南無阿弥陀仏"と彫られた自然石の脇を抜けると、馬立への大手道に合流します。 昔の一般通行の峠では無いので、この石碑も嘉吉の乱戦死者への供養塔なのでしょうか。此処も重要な要塞だったのでしょう。遺構は分かりませんが駐屯スペースは確保出来そうです。此処が無理でも亀池から徒歩10分程の場所ですから。 ハイキング道を離れて祇園山へ往します。細い尾根筋が少し広くなってくるが藪っぽい道になり、 夏場は蜘蛛の巣攻撃に悩まされる道のようです。雑木の間からは、周囲を大岩の鎧で身を纏った祇園山の山頂部を望み尾根伝いに下ると左右を深く抉った堀切状(堀切と思うが!)の鞍部となり左(西)下へは「搦め手道 ・市野保」に下る標識が有った。登り返しの尾根も思ったほど急登もなく広い尾根筋に出る。
「水争い遺称地」

段差が殆ど無い平坦地は曲輪跡だったかもしれない。程なく山頂直下(50m手前)の露岩を左下に捲くように雑木の中を下ると城山城の出城・祇園嶽城址の3〜4段続く曲輪の 中を歩いているのが分かります。比較的明確な曲輪は露岩の尾根を避けるように少し南下に100m程続いて雑木藪になるところの削平地までは確認できます。山頂部から北側は写真で見る以上のスケールで断崖絶壁が取り囲む要害で防備不要ですが、 曲輪自体も防禦施設はなさそうで、見張り、通信が主目的だったようです。それだけに山頂・岩頭からの眺望は身も竦むほどの絶景です。露岩を越え岩門を抜けて祇園嶽山頂(3等三角点 340m PM12:50)に辿り着くと、 狭い平坦地には貴布祢神社跡の石碑と三角点標が建つ。東端は懸崖の展望台。遥か遠くに白っぽいのは雪積の日名倉・東山・峰山高原付近でしょう。何処から見ても鋭く特異な山容の明神山の姿を焼き付けて、 元の亀岩(大手道と搦め手道が合流する)に戻って(PM1:20)、あとは近畿自然歩道(旧・山陽自然歩道の呼称が良いと思うのですが)を辿るだけ。大手道か搦め手道を新宮町側へ出る当初の計画は大倉山の姿を見て大きく変更します。 亀ノ池へは林間の快適な遊歩道です。亀池〜新池〜大成池と辿る山上の池巡りですが、いずれも明るく開けて山に囲まれた静かな池です。ただ貯水量も少なくなっている上に、何れも石積み堰提の目立つ人工池然としているのが残念。 新池の水抜き門!!付近の補強はまるで城郭の石積です。
山上池のうち新池

水の無い谷筋のナメの一枚岩も、今は自然の石畳の上を歩く心地良さです。亀池を過ぎ、少し左谷筋がはっきりしてきて流れが見え始めるころ右手の深い谷への 分岐地点には山道を石積みで補強されているところがある。
此処は・・・播磨風土記に記されている、石龍比古(いわたつひこ)命と石龍比賣(いわたつひめ)命の兄妹の神の 「水争い遺称地」で石積みを渡った先に案内板が建ててあった。この話は、中垣内川上流の村と越部村の人々の間で起こった水争いの様子を例えたもので、 亀の池から流れ出る水が二つの谷へと分かれるが、勾配の違いから越部の村へ多く流れる為に、中垣内川上流の村人が其れを堰止めた事が発端となったもので、この石積みが水の流れを人為的に変えた当時の遺称地と言われます。
暗い杉の植林帯の中の道に入ると「井関神社奥宮分岐(PM1:35)で尾根通しの道が続いているが、道なりに自然歩道を辿るが不思議なコース取りの道だ。此れだったら「奥宮」とやらに寄ってもよかったと・・!! 中垣内へ下っていくらしい広い道の分岐に「大成池⇒」の標識を見て登り直す。標識が無ければ本日の山行は此処で終わったかも知れない…(^^;植林を抜けると新池に出て(PM1:50)城塞を思わせる石積みのある堤防を抜けると明るい自然林の中に道が続きます。
杉の植林に変わり其処を抜け出て 目の前の堰提の石段を登る大成池(PM2:05)の舗装道路に出た。大倉山の姿を映す池畔を廻っていると"山上の おちくぼに たゝへたる ふるき水 あまぐもをうかべたり ・・・・山上の あゝ水よ"三木露風の「水」と題した詩碑が建っています。
大成池・三木露風{水}の詩碑

歌碑の端に菖蒲谷森林公園口のゲートがあって此処から尾根通しに展望台まではブルドーザで整地されたらしい道が続きます。付かず離れるの位置で残る以前からの 山道を歩く方が快適ですよ!!。整地された山道の途中には研いだ鉛筆を模った休憩ベンチが並ぶ広場があったが此処で休まずとも、直ぐ上方が展望台で池端の取り付きから15分程です。小さな展望台 (PM2:25)の横に大きなメガホンが・・・「サウンド・スコープ」が設置されている。野鳥の声を聞く為なのか、遠くに光る播磨灘の潮騒でも聞き取りたい処ですが無理ですネ。なんだか周辺の風の雑音ばかり・・・(^^; 展望台から見える山蔭に
龍野市の最高峰・大倉山があるので、も少しなので頑張って先へ進む事にします。遊歩道の擬木の階段も続いていますが 鞍部の先にある広い平坦なピークまでて、其処から先は急に踏み跡程度の道のようです。よく見ると「大倉山登山口」と書かれた札がある。その少し先には、なんとも懐かしく感じる大柿氏の赤布が残っています。彼が来ているのなら此の先の尾根通し、井関神社へは楽勝かと思ったのですが、山頂から先の周辺捜してみたが先へ進んだ形跡が無い!!時間も遅く、勝手の分からない異郷の地ですので諦め元に戻る事にします。先の登山口標示から大倉山へはホンの1頭足です。山頂手前の大きな露岩を越すと小さな石の祠があって祠の背後もテーブル状の岩磐です。
龍野市の最高峰・大倉山山頂

岩磐を飛び降りた所が播磨南部での最高峰大倉山山頂(2等三角点 520m PM2:35)で「龍野・的場山登山会 」の山名札が掛かっていますが、此処から先は藪漕ぎなしで進める道は有りません。方向も見定まりませんので大成池端の登山口引き返します(PM2:55)。此処からは菖蒲谷森林公園車道をひたすら延々降るだけです(^^;。 とんでもなく遠回り道を歩いたような気がします。下り始めて直ぐ「カリヨン⇒」標識を見たのですが公園内の案内と思い見過ごしていましたが、此処から峠池〜井関神社へ通じる道があることは帰ってから気付きます!!!!。



U 岩尾根と岩壁と洞窟と・・城山へ 伊勢山〜空木城
ヤマザクラ広場〜西尾根〜空木城(270m)〜伊勢山(353m)〜東尾根 H18. 07.30

播磨方面の山城探訪は冬枯れの時期の活動範囲に取っておくつもりでした。・・・というか!山城の位置や詳細な城情報が余り入手出来ていない事が大きな理由ですが・・、先に置塩城を5年振りに再訪したが 周辺に点在する鞍掛山城や番城山城へも行きたいが置塩城の城砦群についてはよく判らない。時間もまだ早いので・夢前川を挟んだ対岸を西へ向う県道80号線を採って空木城へ行ってみます。
伊勢山本峰と西峰の神坐の窟・西峰南316m峰

山仲間のレポートで以前から伊勢山にある神坐の窟から望む 空木城の姿が気になっていて、いま思い出して向っているが 夢前町側からの登山口がよくわからない。空木城だけなら 大堤峠から境界尾根沿いに行けそうだし、最近・上伊勢側に里山森林公園「伊勢岩窟の森」が出来たので、此処から周回するのが距離も短くて良いのですが、新し過ぎて未だ地図から場所を見つけることは出来ません。
神坐の窟より望む空木城

よりにもよって炎天下の灼熱コースでは、藪漕ぎや迷走で体力喪失すれば実行完遂は覚束無いので、 以前から登山ルートとして紹介されている緑台住宅団地バス終点の方転場奥にあるトイレ完備の駐車場から出発します。此処も「姫路打越木もれ日の森」として最近整備された登山口ですが、以前から人の入っているコースなので。 県道沿いコンビニ分岐に建つ大看板「歴史と文化?・・・太陽公園」は遺跡陳列館!!の様で入口に何体かの兵馬俑等が置かれています。其の先は墓地公園・・・?なので、其方には行かずバス道を谷奥へ向えば 川を挟んだ緑台住宅地奥の登山口に着きます。
夢前三山の置塩山城を訪城した後、夢前川を渡り県道80号(山崎香寺線)で菅生澗に向う。目的地は姫路北部の空木城と伊勢山です。此のルートでは大堤峠から、姫路市と夢前町境界の尾根を辿るのが常套の様ですが ? 初めての山域(書写山・峰相山 ・とんがり山を除き)なので、登山コースとしては菅生澗から菅生川沿いに県道411?号を南下して、以前から利用されている「姫路打越 木もれ日の森」駐車場からとします。 周辺案内図には未だ藪っぽく蜘蛛の巣払って登る展望皆無の伊勢山や、岩峰の神坐の窟は含まれていない様です。
西尾根265m峰から望む峰相山

それに展望広場から西尾根コースを下るには上部の岩尾根部の斜面下降は、 フイックスロープが無く岩場を歩き慣れない一般ハイカーには充分注意が必要です?。 駐車場から直ぐトイレ横の遊歩道を展望広場に向う 西尾根コースをとりますが、東屋休憩所の見えるヤマザクラ広場を抜けて川沿いに直接、展望広場に向うのが一般的?のようです。尾根筋へは比較的短時間で到達し、樹間越しに谷向の峰相山への稜線が此の西尾根に延びてきていると思ったら、峰相山への縦走分岐がこの後 ・緩やかな尾根から展望広場に向う手前の登り初めにも有った。今の時期では藪や蜘蛛の糸が煩わしいが踏み跡は明確の様です。峰相山分岐を見送って坂を登り切ると展望が開け快適な岩場混じりの尾根筋に変わります ・・・・とはいえ灼熱の太陽光を浴びての夏場では難行苦行・・・。
西尾根316m峰から西峰(神坐の窟)〜空木城(左端)の尾根

縦走路を3〜40m外れて展望広場(284m)があり 手摺枠付き?の休憩所が建てられています。ヤマザクラ広場同様の東屋風休憩所だったのでしょうが屋根部分は取り外されています。御蔭でユックリ休息も出来ず縦走路に戻りますが、流石に此れよりは展望の良い尾根歩き。 峰相山・とんがり山や書写山も近く、的場山の電波塔から城山城・祇園嶽城への三つの峰が、 更に西奥に見える円形の建物等が播磨科学公園都市なら左の峰は三農山付近・更に感状山城へと続く山々の稜線を青垣に浮かんで見えます。
空木城東尾根鞍部の空掘(横堀)と土塁

Webの25000/1地図 で見ると伊勢山は3等三角点(点名:菅野 353m)と岩峰の316m峰と神坐の窟のある310mの三峰にも有って 国土庁命名の山名を分けるのも変だが特定しないと今後の説明が混乱するだけ。この山に限った事ではないが・・・三角点峰を本峰・神坐の窟のある岩峰を西峰・標高は少し高いが岩峰展望台的な西尾根最高所は伊勢山の南峰 (西尾根南峰)としておきます。何れ人気の登山コースとして各峰にユニークな名が冠されるのかも。伊勢山西峰の鋭峰は・断崖絶壁と上部の洞窟”神坐の窟”の姿を隠していますが、 伊勢山本峰からの東尾根西面の山腹随所に大岩壁を覗かせています。展望台からは尾根通しに行けると思っていたのに次のピークを目前にして?谷に向ってドンドン下っていきます。山の地主さんからのクレームによるものか・・ ?結局はヤマザクラ広場から谷筋を直進して展望台に向う方が良かったのか。約km程で谷筋に降りると直ぐに東尾根分岐のテープを見送り、 さらに東沢コース分岐から再度西尾根ルートへ向かい直進して急登・尾根に取付くとやがて岩盤の尾根となり岩場が続き、 消えかかった黄色ペンキに導かれての登りです。
空木城本丸中央岩場から北側の平入り虎口


西尾根南峰316mに着くと稜線の先には一気に西北側に垂直に岩を衝立させ、 底部が確認出来ないが高離40m程はあるだろう絶壁を見る。空木城のドーム状の山頂がこの岩峰・伊勢山西峰(310m)から北の尾根先に見える。岩峰から伊勢山本峰に向うため、北へ廻り込んだ側から空木城や、 岩壁上部にポッカリ開いた洞窟神坐の窟と呼ばれる 岩窟へ向う道がある。岩窟上部の岩間からは絶壁の下方に拡がる県道や集落さえ見えますので、 標高が低いだけに、山麓までの距離からしても岩壁の高さや 傾斜は相当なもの・・・関西の岩場に紹介されているか知らないが、雪彦の岩場と岩質やグレードを比べても遜色無いかも・・・ !?大岩の割れ目から神坐の窟に降りると途端に吹き上げてくる涼風が、 汗ばむ身体に心地良い。洞窟というより北側前面が開けた特大の岩小屋だ。岩窓からは正面に空木城や夢前の明神山方面の山々が望まれます。 高いドーム状の天井と、奥行が無く傾斜した岩壁奥の岩間に神坐の語源とも思える不動明王や大師の石像が置かれている。
空木城の堀切(横堀の土塁から)

山岳宗教の行場の様で大概は神変大菩薩(役行者)も祀られているのが普通ですが、気付かなかった?。岩窟を出て空木城へはロープ伝いの激急勾配が続き、 下り切ったコル(狭い鞍部)から西への下山道が林田の「岩窟の森」公園に通じているようです?緩やかな細い尾根筋を北に向う小ピーク Ca260m付近からは背後に伊勢山本峰 ・西峰の岩壁に「神坐の窟」が望まれます。 緩やかな尾根が広くなったと思ったら2段ばかりの削平された曲輪だ。 土塁や3m程の段差に切岸加工は無さそうですが居住性は有りそうです。 曲輪の斜面を下ると尾根に沿って横堀と土塁があり、土塁の先は竪堀となって落込む長い堀切で、此処に道標があり「空木城↑」を示しています。以降は近畿の山城 空木城レポ-トを参照してください。
伊勢山本峰の3等三角点


神坐の窟から空木城を往復して伊勢山本峰に向います。少し下って登り返す尾根筋を15分程で3等三角点の本峰(点名:菅野353m)に到着します。山名プレートの架かる側から東尾根を緑台へ向う登山道が下っているので 此れを辿って伊勢山周回コースを終えます。ただ西尾根展望台からの道とは反対に、東尾根はヤマザクラ広場の登山口に戻るまで植林と雑木の中で殆ど展望も望めません。新しく切り開かれたコースらしく道を外れて 数少ない展望岩場への踏み跡は薄い。298m峰から一気に下った鞍部(Ca200m)からは、登り返して尾根を辿ると点名:奥山(4等三角点280m)へ登山道は続くが、「ヤマザクラ広場⇒」の標識を見て谷筋に下り、 沢沿いに広い散策道を「姫路打越 木もれ日の森」駐車場に戻った。



 城山城 祇園嶽城 龍野城と・龍野古城(鶏籠山城)  空木城


城山城 (亀の山城・木山城) 亀山458m  龍野市揖西町、揖保郡新宮町下野田・馬立
  【奈良時代の古代山城と室町時代・赤松氏の中世山城

的場山から尾根続きに亀山を経てその北方・祇園嶽付近へ至る道は近畿自然歩道としてハイキングコースとなっています。この尾根中央部に最高峰の亀山(きのやま458m)が在って山頂南側のピークを本丸とする城山城(きのやま)があり、北の祇園嶽・南の的場山は共に城址と伝えられる稜線の連山全体が城の縄張りともいえる南北朝期の大城郭である。尾根に続く連城は何時もの事ながら楠木正成・金剛山系の城塞群を連想してしまいます。龍野城を振り出しに、龍野古城より此れ等の山城を縫っての全山縦走は城山城塞群を辿る山旅ともなりました。亀の山山頂からは東に揖保川の流れを一望出来、北方から西へ栗栖側に沿って作州街道の走る交通の要衝にあって今の山陽自然歩道が白旗城へも通じている戦略上の要地ともなっています。
亀山(本丸)北・門の築石(門礎)上部にもう一つあるが分かるかな!!
   

正平5年(観応元年・1350)赤松円心則村の死で家督を継いだ長男・範資も2年後の文和元年(1352)死んで三男 ・播磨国守護の赤松則祐(のりすけ)が継いでから10数年の歳月をかけて貞治2年(1363)頃まで、播磨支配の強化や本拠地・白旗城を守る外郭として、播磨の中央に近い亀山(木ノ山458m)の南側の峰に続く一帯に 拡大な亀の山城(城山城)を築いた。この地には奈良時代の古代山城 【県下唯一】あるいは古代山岳仏教の拠点があったと言われ、古代山城と中世・室町期の山城が同居しています。古代山城の遺構は二の丸や本丸 (亀山山頂)西斜面に石塁等が点在し、本丸から西への尾根筋には 「門の築石」と呼ばれる門礎が残っています。石塁の中でも二の丸の北西下方にある「石塁C」と符号される石積みは、谷を詰め上げて抜出す口を塞ぐようにして全長41m・高さ3m程の石垣が続きます。城山城に残る石塁としては最大の規模で、 水平に詰まれた石積は見慣れていますが谷筋からの進入を遮断する形で、斜面に沿って伸び上がっていく石積みには圧倒されます。
城山城二の丸北に残る"石塁 C"は全長約40m続く

石塁はa〜dが報告されているようですが他のは門の築石を見に下る尾根途中に見かけたような!!この付近、 石積みを思わせる露岩が多いようです・・・(^^;手持ち資料も無く捜せませんでした。亀山山頂に西斜面に転がっている二つの「門の築石(門礎)」は外側から切り込みをいれて凹状にし、 さらにその内側に軸受柱を受ける凹みを穿ったもので三個一組の唐居敷と呼ばれる門柱坐の形式で、同形のものが日本では山口県の神籠石系古代山城「石城山」の沓石(門礎)にあるだけとか
、 KAIさんはご存知ですね、口さん、YORIさんも行って見ますか!!・・門礎も石塁の構築スケールは古代朝鮮式山城のものですかね (写真で確認してください)。も少し下ったところに門礎の間にあったと思われる門扉受けの礎石等があるようです。市野保から亀ノ池〜亀岩へ続く搦め手道の 祇園山への取り付き付近にも、丸い柱穴のあけられた"門礎"が在ることをKAIさんからの伝言板で教えてもらいました。また播磨の地誌「峰相記」には平安時代中期の天徳年間 (957〜961)に群盗が城山に城を構えていたともいわれます。
赤松屋敷跡にある「嘉吉の乱 」戦死者を弔う供養塚

嘉吉の乱
【嘉吉元年(1441)6月赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義範に所領の一部を侵された為に、 将軍を自邸に招いて殺害し、将軍候補を擁立して、認めさせようとしたが呼応する者も無く、幕府の追討を受けた】により幕府方の山名持豊(宗全)軍と戦い、 書写の坂本城から白旗城へ走り城山城を同年9月、最期の戦場にして赤松満祐(61才)が篭城し、当城で敗死した事で知られる県下唯一の古代山城です。 嘉吉の乱での敗戦濃厚となり総攻撃の始まる前夜、 満祐は長男・教康に再起を命じて伊勢国に逃がして赤松家の再興を託し、一族30人程と共に自刃して果て、播磨の赤松氏は一時衰退します。赤松満祐のあと応仁元年(1467)迄は山名氏が領有していたが、 その後廃城のまま放置されたが天文7年(1538)11月・出雲の尼子晴久が播磨全域を制圧する時、城山城を再興して軍事拠点としていた。2年後に尼子晴久が播磨から撤退すると、またも城山城は廃城となります。的場山からの縦走尾根と下野田から谷道の兵糧道が合流する谷の詰めには広い3〜4段の削平地があり赤松屋敷跡とも伝えられていますが、 城の案内板の側には「嘉吉の乱」の戦死者を弔う小五輪塔や仏彫石が建てられています。
供養塔東の帯曲輪に残る石積み

屋敷跡と言われる谷中の削平地を越えて東の帯曲輪を辿ってみると石積み跡の残る広い数段の曲輪が続きます。曲輪内には四角に仕切った一角に石庭を思わせるような箇所があり、 臨戦時には投石用に使用したのかもしれません。屋敷跡の左岸(東側)を二の丸へ向いますが広い曲輪の先から二の丸山頂にかけては藪っぽい雑木の中に遺構らしいものは見出せません。しかし、 二の丸から西へ下ると様子は一変して先ほどの古代山城の遺構が出現します。元の近畿自然歩道に戻って亀山山頂まで、何の変哲も無い山道です。山頂が"本丸"ですが平坦なだけで城の遺構らしいものは見当たりません。 しかし此処にも山頂から西下へ下ると古代山城の遺跡「門の築石」があります。


祇園嶽城    祇園嶽(祇園山) 340m

城山城の出城として南の的場山と此処・祇園山も城址と言われています。二つの山を結ぶ尾根筋には金剛山系(大阪府・奈良県)の城塞群のように 南北朝期の城塞が配されていて城山城塞群が形成され機能していたと考えられますが、的場山にも有ったという塞城も無線中継所施設によって遺構は消滅したのでしょうか!!?なにも確認されていません。 城山城の大手道といわれる馬立からの道が尾根と合流いるところに亀岩・蛙岩があり市野保からの搦め手道も亀ノ池を経て此処に合流します。此処から暫らく細い尾根を辿る祇園山への道を辿ると山頂一帯に露岩多く、 とりわけ山頂部は絶壁上の岩頭にある祇園山山頂が望まれます。城山城の出城として、城塞群の一つとして機能した祇園嶽城の削平地が山頂直ぐ下方北に数段見られます。山頂付近の露岩側の平坦地は、 此処に祀られていた貴布祢神社の跡地のようです。東面から北面は切立つ断崖ですので防備不用で、城山城への"搦め手道"警戒の見張り台のようです。 縦走路から山頂直前の少し広い尾根筋も曲輪跡のようですが段差がはっきり確認出来ず、素人の私には何んとも云えません。


龍野城(台山城・霞城)と 龍野古城(鶏籠山城・朝霞城・朝霧城)   鶏籠山 218m 龍野市龍野町上霞城

播磨小京都・龍野の市街地を見下ろす鶏籠山は龍野のシンボルとして親しまれ冒頭の「校歌・故郷の山」に見るように見事に鶏籠山だけが歌われています。 この山頂にあった龍野古城は赤松政則が明応8年(1499)頃、塩屋城(揖保郡)の赤松下野守政秀に命じ赤松村秀 (赤松政則の子)の為、鶏籠山に築城したのが始まりといわれます。天文9年(1540)村秀の病死で、その子・政秀
(塩屋城主と同姓同名!!)が継ぐが元亀元年(1570)毒殺されています。
本丸西北部の石垣と石畳
   
天正5年(1577)頃には山麓の城(龍野城)に移ったようで、 羽柴秀吉が「播磨攻め」の時には4代目城主・赤松弥三郎広英(広秀)は戦わずに城を出て謹慎し、その後、秀吉に従って功績を挙げ竹田城主(朝来郡和田山)になっています。 天正9年(1581)蜂須賀(小六)正勝が53,000石で入城し天正13年(1585)阿波徳島へ移った後は福島政則、天正15年(1587)木下勝俊、 文禄3年(1594)小出吉政等が城主となっています。山頂の城址へは聚遠(しゅうえん)亭付近から紅葉谷(名の通り紅葉のトンネル)から両見坂を経て尾根を辿るものと、龍野城西の隅櫓から大手道を辿るコースがあり、 今回は大手道から番所跡らしい石積みを見て、曲輪を連ねる尾根筋を辿ります。
本丸西北部に残る石段と石垣


土塁の残る曲輪跡や二の丸から本丸下付近では矢竹の群生を見たり、 北側には赤松氏築城当時の守護神・八幡宮跡や本丸の石垣 ・石畳・石段の遺構が残ります。龍野城が近代城郭として山麓に移ったのは元和3年(1617)徳川時代 ・龍野藩の初代藩主本多政朝(姫路城主・忠政の次男)が入部したのに始まり、岡部宣勝、 京極高和等が龍野城主となった江戸時代初期・安定した藩政のもと次第に現在の龍野城を整備して移ったものとされています。
龍野城下から龍野城と古城(鶏籠山城)

万治元年(1658)京極氏が香川丸亀に移封になった後は14年間も藩主不在で荒廃していたが、寛文12年(1672)脇坂安斐 (やすあや)が5万3千石で信濃国飯田から入部して龍野城が再建修復され明治維新を迎えて、明治4年(1871)廃藩置県・脇坂10代目の安斐(やすあや)まで続いて取り壊された城も昭和50年代に再建され本丸御殿・多聞櫓と土塀の修復 ・埋門や模擬の二層隅櫓が新築され・御殿内の資料は参観無料です。




付録!! 揖保郡新宮町未登城の山城
曽我井城  新宮町曽我井
国民宿舎「志んぐ荘」の南に聳える170mの山頂へと追手道を山道が通じています。山頂部には露岩を曲輪に取り込んだ数段の連郭の遺構を残しています。南北朝期・元弘年間 (1331-33)赤松円心の築城といわれ嘉吉の乱(1441)で赤松義雅の配下が守備していたが落城。後に赤松祐高が再興しますが天正年間(1573-91)初期に羽柴秀吉の攻撃で落城しています。曽我井城からは城山城が一望出来、 西に龍野城、西北に香山城との連絡に適した地点にあり「伝えの城」として情報伝達の役割を担った城だったようで「赤松家播磨備作城記」に出てくる金部(かなつるべ)城の可能性も指摘されています。


香山城(香山構居と香山城)  新宮町香山字坪尻
香山(こうやま)の北端部にある大歳神社山門に香山城の説明板があって、神社を挟み込むように曲輪群がある。山麓の香山神社境内の背後から山の中腹部へと、 北へ緩やかな斜面には数段、石積みの削平地が残り通称「備後屋敷」と呼ばれ永禄年間(1558-69)赤松配下・香山荘の地頭・香山氏の居館跡と思われます。山頂にかけては山城遺構の曲輪・堀切・土塁等は発見されていないようですが、 構居跡には総石垣の曲輪が残る。
南北朝期・建武年間(1334-36)香山備後守秀清の築城をつたえ、秀広、 秀頼と続き秀光のとき「嘉吉の乱(1441)」で落城(廃城!!)後、 赤松政則の復興に従って香山荘に戻った秀氏により文明3年(1471)城を修復再建して居城としています。「長水軍記」等によると宇野氏配下の香山城主・香山秀明は「播磨攻め」の秀吉軍の臣・黒田官平衛に攻めら天正8年 (1580)4月落城。城主・香山秀明は宇野氏が籠る長水山城へ逃れるが此処で討死していますが、その長水城を攻撃する為に秀吉方の陣になったとの記載も見えます。

空木城(赤松遠見の城) xxx270m

空木(うとろぎ)城は伊勢山登山コースの中で、 伊勢山西峰にある岩峰と其の下にある ”神坐の窟”から望むドーム状の峰を見て、 近いので一寸寄って行ってみようか!とコースのおまけとして、外れ峰的存在の山で”神坐の窟”から往復されていたようでしたが、最近?(H18年2006)この城と岩峰を巡る林田町上伊勢側に里山森林公園 「伊勢岩窟の森」 が整備されて直接:空木城へ通じ、神坐の窟の北鞍部に達し手軽な ?周回コースとなっている様です。
空木城山頂:主郭中央北側の大石

中国自動車道沿いの県道23号線の前之庄で塩田温泉側へ左折し、夢前川沿いに南下して先に置塩城に寄った後、 夢前川を挟んだ西方の宮置から県道80号(山崎香寺線)で菅生澗に出て、空木城に向います。真夏の此の時期に初めての土地で、新しい登山口を知らず・大堤峠等の取付き点の状況も知らず、迷走すれば直ぐギブアップしてしまいそうなので、 菅生澗から県道80号を離れ菅生川沿いに県道411号を姫路市内へと南下して、山陽自動車高架が見える六角手前のコンビニに立つ「太陽公園」を目印に 山手に向かいバス道の終点のバス方転場の奥にトイレ・駐車場のある「打越・木もれ日の森」からの登山コースとします。【上記の登山レポートを参照してください】駐車場正面に東屋休憩所のあるヤマザクラ広場の右手(東)稜線先には伊勢山が、 更に其の西峰に”神坐の窟”があり急斜面をロープ伝いに下って北に向う尾根先の標高270m山頂には目指す空木城が姿を見せています。
主郭中央南側:竪堀の切頭を堅める土留め石

空木城の
築城時期は応永年間(1394-1428)とされ、「播磨鑑」には赤松円心から三代後の赤松満祐、その弟・伊予守義雅の家臣である 喜多野新佐衛門忠助が居城したといわれます。其の後「揖保郡地誌」には満祐が起こした嘉吉の乱(嘉吉元年1441)頃:赤松氏幕下にいた小野七郎右衛門が在城していたと伝えられます。更に後:赤松伊予守義雅の孫 ・赤松政則が夢前町に置塩城を築き、その5代目赤松則房の家臣:原田大炊助が空木城最後の城主でした。天正八年(1580)秀吉の「中国征伐」で毛利氏を攻める際には、 置塩城主:則房等と共に秀吉方に降りて、姫路城の修築には”城割り”された置塩城の解体に協力して柱などを提供しますが、この時期には既に空木城も 城としての機能を閉じ置塩城と命運を共にした事でしょう。
空木城本丸の切岸と西曲輪

城の最高所に主郭を置き其の周囲に削平地があり、 東側の尾根を下ると鞍部には大きな堀切や土塁を築いた横堀が見られます。 空木城は別名:赤松遠見の城の名が有るように城跡からは塚本向山構(夢前町塚本)・窪山城(姫路市林田町 )・城山城(新宮町下野田)・梶山城 (揖保川町市場)等が見えるそうです。赤松氏の本拠城・置塩城が但馬山名氏を警戒して姫路から市川・神埼・生野へと 市川に沿った但馬街道(R312号)の要衝監視警護にあたり、支城の空木城は其の西方R29号林田川沿いに山崎町〜波賀町から鳥取市、一宮町から養父・八鹿へ北上する但馬山陰道の要衝監視と置塩城を結ぶ裏街道の 大堤峠を監視する 見張り所となっていたのでしょう。
横堀(手前)と土塁(中央)の先の堀切(竪堀となって延びる)を経て主郭へ向う

城域はおよそ東西100m(鞍部の堀切から”神坐の窟”への東尾根にも広い2段程の居住空間と思える削平地があり、堀切・土塁・空掘(横堀)を経て削平段に至るので城域に入れる。 現地縄張図には城域外のイメージの様ですが、 堀切外の横堀は居住区の曲輪を区分する境の様で 東西130〜150m位の範囲になる?)・南北に約70m。鞍部の堀切に「⇒空木城」の道標が立ち、急斜面となる尾根南側に数段の小曲輪があり、 ”神坐の窟”専用展望台の様な休憩ベンチの置かれた虎口受け状の曲輪(10mx4m程)の端から細い通路を抜けて主郭に登り着く 曲輪の南面に土留め石列を見るが、左手の木陰になった部分は枡形で、南下方へ向って凄まじい激斜面を竪堀が走ります。主曲輪のほぼ中央部北端に数個の大岩があり曲輪を二分している様です。
空木城本丸南面:竪堀西側の土留め石

西に3m程の切岸を持って10mx15m程の曲輪があり、 此の二曲輪が空木城の主要部で、 周囲に土留め石列が見られます。西側曲輪の西北側に僅かに土留めの石列が見え、下方には藪で確認し辛いが2本の竪堀が走る。西下へ続く尾根伝いの遊歩道は、伊勢山西峰の”神坐の窟”から空木城へ・・・西下方に休憩東屋が見えていた 「伊勢岩窟の森」からのコースのようで、山城と岩窟・伊勢山を周回する短絡コース。この西の尾根筋に2段程残る小曲輪を抜けて林田町側の登山口へ下る遊歩道です。
(現地:城郭研究家 木内内則氏の縄張り図・資料による空木城跡案内板 参照)

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