秋谷池~南山~点名・前坂~友尾山城 城山城
東播磨:西脇市 (五万図=篠山・生野
秋谷池~南山~前坂~友尾山城 山行日 2004年10月07日
近畿の山城 : 友尾山城 城山城
秋谷コースの岩稜の尾根と 南山・白山(左奥の尖峰)

妙見山~白山登山口を丹波市側に選ぶハイカーは少なく、大抵は黒田庄町の門柳川沿い・秋谷池からの岩尾根や庵谷池から南山への藪尾根…門柳から整備された”杖立て”-妙見堂経由で登られている。杖立てからは白山からの縦走路を越え単に"タワ"=峠を山南町側へは笛路集落から 常勝寺や黒田庄町側は荘厳寺へと通じ14世紀中期には白山権現が祀られ ”杖立て”や”鈎掛け”の名残りからも修験の道が開かれたところです。
岩稜尾根から秋谷池公園と三角点山を望む

白山~妙見山から尾根続きの門柳山や西光寺山~御嶽山~清水山(播磨清水寺)更には三草山~朝光寺 に至る播磨修験の道が拓かれていたのでしょう!?。白山~妙見山や三角点山への登山口・福谷公園や秋谷公園・東はりま日時計の丘公園へ向かう入口、県道294号線と門柳川沿いに山間に向う県道559号線 の交差点側に兵主神社が建つ。北背に超極小規模(80㎡程)の独立丘陵が釣鐘状の山容を見せています。
フォルクスガーデン黒田庄の管理棟

三角点山から眺めた岩稜の尾根を辿ってみたくなり 其の取付きに向います。秋谷池-庵谷池周辺は 「緑と水の郷・秋谷」として自然公園整備され、池周辺の探勝路を散策する家族連れや 白山~妙見山登山口として利用され駐車場・トイレ・休憩所・ベンチ施設が完備しています。この庵谷池の南から門柳川の間の谷あいに黒田庄町総合運動公園が建設中です。
兵主神社(拝殿) H16.10.06

兵主神社 の創建は大和(奈良県明日香)から播磨の国衙に赴任した岡本修理大夫(藤原)知恒が延暦元年(782)に森林を拓いて延喜3年6月に創立され延暦3年(784)6月14日、大和穴師の兵主神を分霊し勧請したと云われ、延喜式内社に列し、全国に17-19?社あるという兵主社は各国兵制が設置された処に限り設置され・播磨国は 姫路射楯兵主神社と此の二社のみ。
兵主神社 H26.10.12

兵庫(つわものぐら)の鎮守とされ兵庫!!県丹波市にも丹波国一社の兵主神社黒井城と千丈寺砦の南麓に鎮座するが「播磨国風土記」には記載のない神社のようです。正面の室池と 其の先に拡がる平野!!を望んで建てられています。羽柴秀吉が黒田官兵衛【
黒田城主黒田重隆の二男で姫路の小寺職隆氏の養子となった小寺孝高】を三木城攻めの戦勝祈願に代参させ、祈願成就の燈明田(七反余)を寄進したのも東播磨 ・北播磨へと播磨平定への権勢力を示す効果があったのかも。
兵主神社例祭の[レッケイ] H27.10.11

三木城攻略の戦勝祈願成就としての奉納金による拝殿の改築<天正19年(1591)8月27日造立の棟札がある>され社紋には豊臣家の五七の桐が許されています。安土桃山時代の茅葺入母屋造りで 長床式の平面で支外桁で軒を支えています。拝殿の建築様式は 全国的にも稀に見る遺構とのこと。室町時代初期頃には境内に真言宗神通寺が勧進され 神宮寺となっていたようだが、明治政府の廃仏棄釈に廃寺となり鐘楼だけが遺されていたが昭和期:篤志家により改築された。主祭神?に大巳貴命(大国主命の異称又は分身)と清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命 素盞嗚尊)を祀り拝殿は兵庫県指定 (昭和52年3月29日)重要文化財。兵主神の御神体は矛だとされ祭器の刀剣や斧等から武器製造の鍛冶の神だともいわれ、此処からほぼ真西方5kmにある鍛冶屋 (旧国鉄の頃は西脇市から此処へも鍛冶屋線がのびていた)と深い関わりがありそうです。
兵主神社(隋神門から拝殿)

其の鍛冶屋線の市原近くに鍛冶の神を祀る天目一神社がある。漢の高祖が「蚩尤:シユウ」を祀って 勝利を祈った事に由来するとか。岡本姓や藤原姓は私の郷・氷上郡山南町にも同姓があり、天日矛の末裔であるとか岡本修理太夫の子孫だと考えられるんでしょうかね。

(現地・兵主神社略記 及び案内板  H3.11兵庫県教育委員会 参照)


白山への人気コースに背いて藪山へ南山~点名:前坂~友尾山城  H16.10.07

福谷公園から桂松山~三角点山を廻るコースで 桂松山城に登ってみたが展望の良い平坦地(曲輪?)が確認できただけ。三角点山から望む門柳川を挟んで北方には白山~妙見山へ続く山並みの西末端が 喜多地区に落ち込みます。秋谷池から主尾根の稜上まで続く岩稜も魅力です。
三角点山から望む点名 :前坂~友尾山城(左端)の稜線

この主尾根の西末端からテレビ受信施設の手前へと 2つの峰があり、此処に友尾山城があったと云われるが果たしてどんな城か、どんな遺構が残るのか!!。早速・秋谷池の「緑と水の郷・秋谷」公園に向かう駐車場からも岩稜を覗かせる急斜面が見える。トイレと大きな絵図案内板の間から延びる道は鞍部を越えて 庵谷池に続く遊歩道なので注意です。
岩稜枝尾根から望む南山と白山の尖峰

秋谷コースは登山口道標の側から (AM10:08)いきなりの急登ですが 快適な岩稜の登りが続くので直ぐに展望が左右・背後に拡がってきます。東方に先ほど辿ってきた三角点山、右奥には先週登った三草 が覗き、 左手に西光寺山の山塊が稜線を延ばします(AM10:30)。東北方には前坂コースからの登山道が合流して(AM10:38)南山へ延びる尾根の肩から落ち込む岩場が数ヶ所見える背後に白山の尖峰が望まれます。
点名:前坂より友尾山北峰(右・主郭?)と南峰(左)

岩稜の枝尾根は点名:前坂からの主尾根にまで届きます。 点名:前坂へのトレースは残るが急に雑木とシダ類の繁茂する藪っぽい道と なるが、先に南山の三角点を往復してから辿ります。点名:前坂の奥に NKHアンテナ塔が見えるCa290m付近に遺構が点在していると思われる友尾山城の探索が目的です。
フォルクスガーデン裏の庭園

主稜線に出ると篠ヶ峰の北に千ヶ峰~笠ヶ岳が峰を連ねているのが見えてくる。登山ルートは友尾山城とは反対に南山~白山へ向かい南山までは往復してみる事にします。前坂の荘厳寺から登ってくる道と出会い縦走路は途中の峰を北側に捲く様に水平道となる。 黒田の集落を見下ろす谷上部では”またみ…!!”?文字欠けの標識が残るが、天の橋立の”股覗き”を思わせるネーミングですね。この辺りでは100m毎に”白山までxxxm”の表示板がある。
友尾山南峰から鞍部を越北峰への急斜面

「白山まであと 1200m」表示地点がとがの尾(AM11:05)で白山の尖峰を正面に望む展望所です。
細い踏み跡を伝い蜘蛛の巣を祓い5分程で南山(4等三角点 397m)です。山頂部は少し切開かれているが周囲は雑木藪なので展望は余り良くも無く、帰路は元来た”とがのお”へ戻り点名:前坂への分岐点・秋谷コースの岩稜下降地点 (AM11:38)まで引き返します。秋谷池からの岩稜を主尾根に出て(AM11:38)点名:前坂((4等三角点 289m PM12:05)から友尾山城にむかう。
中継施設北東角の石積

中世の山城として曲輪は堀切や土塁で守られ、石列も確認されたという友尾山城に随分と期待した。 前坂からはNHKテレビの無線塔が見えています。友尾山城は此の峰と直ぐ西に並ぶドーム型の少し低い南峰をふくめて山城とされる。 白山への登山道とは反対にテレビ中継塔のピークを目指し雑木と深いシダに埋まって足元も見えず、倒木と蜘蛛の巣にも悩まされるルートだが前坂のピークを過ぎるとシダ類が足元に無い分だけでも少しは歩き易い。
中継施設北東角の石積東南面の石列

三つばかり自然地形の平坦地を過ぎてTV中継施設の友尾山北峰(PM12:20)に近づくと露岩が目立ちはじめて 人工的な石列を見るが、段差を持つ曲輪を意識出来る遺構は見当たらない。2~3段あった曲輪が中継施設建設の際・均されて消失したものか?。 南峰へは送電柱に添って露岩の急斜面を、門柳川沿いの車道に降りた(PM1:10)。
友尾山南峰・北峰鞍部の土橋付き堀切状?

鞍部に堀切跡も見られず?南峰頂部には雑木の中に平坦地があるだけ。さらに西面の緩斜面はそのまま 傾斜を増して山麓まで下っていくようだが、降の踏み跡も見当たらず鞍部へ引き返し門柳川側の喜多集落目指して下ると途中・夥しい岩の堆積場が有ったが、 山上の城が石の城で有った筈も無く、石列や石積み側にコンクリートで固められている部分もあり、古い石列も通信施設によるものかも、城遺構の土留め石なのか素人には判断も出来ない。


 友尾山城 城山城

友尾山城 友尾山 南郭290m~主郭?Ca305m  西脇市黒田庄町喜多

友尾山城への最短ルートは此の主稜線上の友尾山北峰Ca305m(NHK黒田庄テレビ中継放送所の施設 ・無線中継塔が建つ位置が友尾山城の主郭部!?)と南西約300mに在る友尾山南峰290m(南郭?)の鞍部へ、西脇コミュニケーションセンターの 駐車場南端を 東背後へと丘陵尾根に乗るテレビ中継施設メンテの為の巡視路がある。
門柳川の”JAみのり”から点名:前坂(右) ・友尾山城(中央)

突き上げる谷沿いの急斜面には 長々続くトラ・ロープを頼りの ダイレクト・ルートが通じているが、築上時期や城主等の城史は不明、伝承さえ無く・此処を城址とする遺構の存在さえ不確かです。 南峰の山頂部には切岸は無く?高低さも曖昧な平坦地形が有り、西や南方への尾根も緩斜だが曲輪・堀切等の防備施設遺構は無さそう?。 Web版:県埋蔵文化財保護手引きの行政地区一覧による友尾山城の備考欄には堀切・石列とのみ記されているが堀切が敷設されていたと思える南郭・北郭との荒れた鞍部は埋もれ其の痕跡らしい土橋状の通路を見るだけ。
JR加古川線踏切より望む友尾山城(左端)と城山城(岡城)

鞍部から見上げる尾根筋は累々と続く 送電線に沿う露岩帯を縫っての 急斜面を登りきって北峰(NHKテレビ中継放送施設)に着く。Docomo等無線中継所やNHKのTV中継所、関電の送電線施設では、特に管理・監視棟が建つ場合に石垣積みや、 コンクリートで周囲を固めてあるものだが石積みの場合は周辺に散在する石材が使用される筈?。それにしても鉄塔部から管理・監視棟の周囲を、数多くの大小石材がふんだんに使用され小さな石を葺き石として敷き詰めてもある。
友尾山城南郭(見張りの出曲輪か?)

施設工事の同時期に積まれたとも思えない古い石、結構大きな石を使用しながら積み方は雑なうえ ・必要以上に広範囲に思える。手作業でこのような仕事されるのかな?。主曲輪の切岸部分を残石で改修された ものか?。建設事前調査されたと思われる報告書でも 拝読出来れば不詳・不明の状況は解消できるかも。石積み部にコンクリートを流し固めている箇所や、施設とは少し離れた場所に小さな施設跡?らしいコンクリート部もあって旧軍施設でもあったかと思わせる。
友尾山城北郭(主郭部)の石積み

堀切の次いで石積み・石列の存在も怪しく思えたが此れ等の石積み下方に古い石積みも有る様だ。石質の特性で石垣に見える露岩が、 近在の山中に有るので一概に「石垣!!」とも言えないが石列らしい!!?ものは見かけるので、先に見た石積みの石の大きなものは城遺構の石が転用されたものか? 不明ながら石垣使用が赤松氏のものではあっても黒田庄町喜多地区に石材使用の城塞を未だ知らない!!。
上方に施設用の石積? が見えるが、下方に見る石列は?

友尾山北峰(主郭?)から北へ延びる緩やかな幅6~8m程の尾根上に見る、三ヶ所ばかり長い(20m前後)平坦地形が曲輪と思われ潅木・疎林の間に現れる。いずれも尾根南麓の門柳川沿いを望みながら鞍部から僅かの緩斜面(雑木と倒木・深いシダに埋まって足元も見えないが)を登ると点名前坂(4等三角点289m)に着く。友尾山南峰(出曲輪?)からは西南山麓の加古川左岸沿いに 県道294号線が走る墓地に降りる。
上方に施設用の石積?が見えるが、下方に見る石積は?

墓地を南北に挟む様に突出す 低丘陵部の西尾根先端には喜多友尾山古墳群Bの1号墳か2号墳?の封土が流れ落ち、天井石も落ちた小規模ながら石室を持つ古墳が露出している。墓地は妙見山~白山~友尾山へと続く尾根南山麓を門柳川沿いに走る県道559号線が県道294号線の合流する地点でもある。此の門柳川を遡れば妙見山」の尾根を越えて丹波市山南町の首切地蔵尊に繋がる。播磨・篠山から京都や摂津を結ぶ要衝ともなる旧街道?の出入口でもある。
喜多友尾山古墳群Bの1号墳か2号墳?

丹波市側にも石積みの城は少ないが、首切地蔵から下る山田川沿い 東面の東山に在る大田城(鍋倉城)が大きな石を曲輪の土止兼切岸等に使用している。光秀の丹波攻めに合戦の記録も不明。石積み遺構には関連があるとは思えないが?、門柳への入口に在り、二つの県道交差地点の車道を挟んで周囲僅か80㎡の範囲に 比高約20m程の釣鐘状小山がある。抜け穴伝説も残る城山城は正に街道監視の物見砦。友尾城との関連が深い城砦と推察するが城史一切が不明の砦。
(黒田庄町遺跡分布地図 黒田庄町教育委員会 を参照)

城山城(岡城)  喜多城山 Ca115m  西脇市黒田庄町喜多

R175号と加古川の流れを挟んで並行に東の山添いをJR加古川線が走り県道294が併走する。庄園名残の町名が残る黒田庄町に入り黒田庄駅の東側・県道559号沿いの道が県道559号と合流する交差点は日時計の丘公園や妙見山~白山の登山口へ向います。此の交差点西北角に兵主神社が鎮座し背後:北約60m程の位置に大型円墳?の様な 釣鐘状の小山が有る。
県道294号北東三叉路からの城山城

周囲110x90m程の楕円形状・比高30mの極小規模の 独立丘陵の頂部に小さな曲輪・帯曲輪等6-8っの削平段をもつ城山(じょやま)城が在るが一部を西面を除いて露岩と切立つ断崖・激急斜面に行く手を阻まれます。 役行者・不動尊の祠が建つ径 15m程の円形曲輪部が本ノ丸?。僅かに南西隅から土塁虎口状?竪堀道?状の溝を直上するか民家裏手の八幡宮からでも急登だが取つけそう?。
雑木藪に覆われ伺い知れなかった露岩北面が想像出来ない ・2015年11月28日(現説)

此の八幡宮は旧赤松氏の臣蟲生城 (福地城)の村上広直が新興赤松家別所氏への遺恨?から羽柴秀吉に付き三木城攻めに際して防備強化を図り蟲生新城を築城、岡の若宮神社・喜多の 八幡宮…等を勧進建立して戦勝祈願している。発掘調査による現説(2015.11.28資料によると)城山城の縄張りは主郭から北面急斜面上に5曲輪が築かれ、 Ⅲ郭には高さ約30-1mの石積土塁が、西端には石積に使用した山石ではなく河原石の蓄積がみられ、大きさからも礫石と推察されており
城山城南西麓側溝・丘陵側の八幡宮

六郭も幅約4m程の帯状曲輪で西側半分は塹壕状空堀形状で低土塁が付く。
蟲生新城(織豊系縄張りの城)村上氏の砦なら:北方からの攻撃に備えての縄張りからは、丹波市側から嘗ては別所氏と連合した 赤井氏等が三木城への援軍として侵攻してくる警戒に当たったものとも推察出来そうですが?。 駐車スペースのある北方の地蔵堂 【延宝3年<1675>創建の六角地蔵尊を祀る】から一
主郭北の下六郭の低土塁付帯曲輪(浅い空堀状は塹壕か? H27年11月・28日)

箇所だけ垂直の崖を避け、なんとか激斜面だが潅木や羊歯・笹等の根元を掴んでなら登っていけそうな 薄い踏み跡を伝ってみるが此れ以外は危険です。門柳川がこの小山の東から南裾(県道559号に「しいの橋」が掛かる)を 西へ流れ出てJR加古川線と交差しながら南へ下り約1km下流で加古川に流れ出るが流域東に 比延山城の在る比延山の山塊・
主曲輪西南面切岸上:荒れているが帯曲輪跡か?

西は津万町の ”あじさい寺で知られる西林寺坂本城や西脇市民病院北背後の 八日山付近まで南方の 加古川流域一帯は見通しの効く平野が拡がる。城と城館があるなら東面を除き南の宮池と門柳川に囲まれや兵主神社は有力ですが領内監視 ・警備の拠点として砦が築かれたものか!!。洪水による氾濫で門柳川の流れが 変わったといわれる僅か200m?程北方に在る。”抜け穴”も有ると伝承される城山城で中世の城の 脱出口と誤解していたが城への登城道のことか?。
断崖上部の北端曲輪から主曲輪(段差1m程)

ところが!!実は!!?両側 ・天井を板石で囲った”抜け穴”が地下1m程のところにあり、頂上から北麓まで掘られていたが明治終り頃には溝普請等で持ち去られ、穴は自然に壊れてしまったとも …?築城時期や目的・城主等の城史は一切不明ですが、黒田庄町史には古代の城として記載がある。城山北側・共同墓地を隔てて県道西側には古く頭が磨耗しながらも六角形?を維持している石柱があり、
主曲輪の西から西南へ廻す帯曲輪?

延宝3年(1675)3月創建を伝える六角地蔵菩薩を祀る堂内の木造の台座も六角形。 京都・六角堂(頂法寺:西国三十三所第18番札所)・奈良・法隆寺の夢殿や興福寺北円堂の八角堂等、蓮の葉の角数から六角蓮・八角蓮があるので蓮座を表す六角形なのでしょう。 お堂の西には”右:滝野・明石、左:山道”の道標が遺り 西脇~黒田庄~谷川へと播磨・丹波を結ぶ街道の一つであったことを窺わせます。
城山城主郭:役行者の祠

取付いたのは南面の門柳川”いの橋”側からの側溝沿い激斜面だが、立木利用は要注意・枯れていて音も無く抜けたり・外れたり。直ぐ先の民家傍の八幡宮裏からか西のJR線側車道前から取り付くのが無難。 山頂の平坦地には江戸時代中庸の天明7年(1787)建立石柱が組まれ、 三方をコンクリートで固めた石積みのお堂が祀られ、頭部の無い役行者と不動尊が祀られています。 祠の北側から東にかけて低い段差で7X5m幅の腰曲輪が付く。
主曲輪(山上講の役行者祠跡)と急須形鉄製容器が出土した手前!!

黒田庄町遺跡分布地図 (黒田庄町教育委員会)によると帯曲輪が確認されているそうなので、下草藪に埋もれた狭い山上だが他にも曲輪があり、それらを繋いだ帯曲輪があった様です?。曲輪の形状によっては古城ではなく中世に利用されたかも知れないのですが…”兵主神社略記”に神社創建者の播磨国衙の岡本修理大夫知恒宝亀3年(772)大志野(黒田庄町南部)の岡城 (桂松山城?よりは此の小城…が妥当か?、
門柳川から城山城(手前の小丘)と友尾山城の遠望
 
八幡宮の位置を居館として!!)の南に森四町余を開くとあり、西脇市でも最古参の 城館遺跡なのかもしれない…?単郭の城の西部は荒れ崩れ…山頂部の祠も大峰修験道関連で祀られており遺構が改変されていると思われます。高砂に入った大坂堂島の米相場を伝える 「旗振り場」として使用され、加古川船運が盛んだった頃は船町・田高の船座等に逸早く伝えられたのでしょうか?。
主郭北下段のⅢ郭:山石積土塁(高30cm-1m)西端に礫用?河原石集積

記事追加】平成27年(2015)10月兵主神社の秋祭りの「レッケイ」見物に出掛けた際 ・神社北背後の城山城山上部や北面が 大きく崩され伐採されている。極小独立丘陵の裾を時計回りに半周して南へ抜ける県道292号(黒田庄多井田線)の道路改良整備事業に伴い、西脇市ではなく県教育委員会の 委託を請けた公益財団の技術センターにより、城跡の発掘調査中とのこと。城史不明で殆ど顧みられることもなかった小さな城砦跡。
Ⅲ郭:上画像中央左・ポール側に投網の土錘や土師器が多数出土

藪に覆われ表面観察だけでは遺構の全容はむろん曲輪規模さえ実測不能!!?。縄張図等が残されているのかは不詳ですが道路改良・付替工事により極小独立丘陵は消滅するか、 残されても城域西側が僅かに残る程度の運命にあるようです。砦に貴重な遺物 ・遺構出土は期待薄…と思っていたが平成27年(2015)11月25日付:某新聞記事に山城が発見された!!?との見出し …室町-戦国時代の山城喜多・城山城が見つかったとの県教育委員会発表記事を見た。
城山城東面下の 県道294号T字辻南下方から

旧黒田町史に古城と記載があり帯曲輪まで確認されているのに”新発見”はあたらない。此当該城山城(じょやま)訪城レポートは2004年10月前後からのもの。2015年11月28日の現地説明会は見学者が予想外に多く、 用意されていた現地説明会資料が不足する盛況。小規模縄張城址と激斜面に梯子状の階段なので現場見学は2班に分けて。現場山麓では出土品展示と出土品ごとの案内解説があった。 大した遺構や出土品を期待できる城跡ではないだろうと思っていたが予想を遥かに裏切られる結果!!。
Ⅲ郭東端の虎口側より観る石積土塁線・長さ約15m

掘立て柱跡等の建物遺構は発見されていないが、出土品からは古墳時代・弥生時代・平安時代(平安初期の播磨国衙:岡本氏が兵主神社を創建した頃のものか?)もあるが土師器の小皿群や灰釉の陶器腕、中国明時代の青磁・香炉(破片だが脚部が象の足!!は珍しく貴重 )や天目茶碗、主郭にあった祠(頭部が欠落した役行者と不動尊が祀られていた。京都と同じ技術で製造された小皿等の土師器類(数百点…)や 舶来の高級品!!からは・都との関わりを持っていた領主がいたものか?。
石積み階段状虎口(トレンチ溝手前):正面主曲輪へは 通路を西へ廻り込む

大峰講が此処で行われていた様)は撤去されているが其の側では中世・県内初の完全形で出土した鉄製急須形容器が出土。加古川か砦麓の門柳川で川魚捕獲に使用したとおもえる土錘(投網の重り)60点以上が纏まって発見されている。土塁付曲輪・帯曲輪等の縄張構成から室町時代(15世紀)初期頃?には築造され、その後も戦国期にかけても使用されてきたものと推定されています。
城山城発掘調査出土品は多いが城砦に関わるものは砥石(中央下左)のみ)

只:掘立柱跡等の建造物は未検出のうえ、 出土品に生活臭を窺わせる石鍋の他には殆どはなく高級品が多く戦闘の備えた兵器類は皆無。唯一・砥石が一点だけ?出土していた。砦を構え警戒していることが分かるだけでも、相手に対しての抑止効果を期待してのものか?。此処で戦闘があった経緯等の記録もない。
(黒田庄町史及び遺跡地図・黒田庄町教育委員会 を参照)
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