一山〜阿舎利山/長水山・黒尾山/小田原川本谷〜夜鷹山〜暁晴山/砥峰高原
但馬・播磨(五万図=大屋市場・山崎)
T 但馬・播磨 一山(1064m)と阿舎利山(1087m) 2000年10月15日
U 伊水小学校〜長水山(長水城) 2000年10月15日
 不動の滝〜黒尾山往復 2000年10月15日
”鉄穴流し”による人口地形が見られる砥峰高原
V 小田原川本谷遡行・黒岩滝〜夜鷹山 〜暁晴山 2001年07月20日
W 砥峰高原 2010年09月25日
近畿の山城  長水城(広瀬城)

関西でも代表的な雄大な高原が広がる 峰山高原には簡保の宿総合レクリェーションセンタがあり、トロン温泉(薬石)に入って帰るのも楽しみでしたが、 レクセンターは何年か前にその燈も消え、かつての嬌声や笑い声を閉ざしたまま、広々とした誰もいない敷地内にはテニスコート・球技場・サイクリングロード ・キャンプ場や無人の施設等が
砥峰高原側の玄関口・長谷のホテル:モンテローザ

点在するデッドゾーンとなってしまい静寂だけが周囲に?漂います。 以前より大河内高原公園都市予定地となっているエリアですが開発等計画は進行しているのか? 【大河内高原:小田原川を水源とする 峰山高原簡保の宿は閉鎖され、跡地には峰山高原ホテル・リラクシアが建ち、森林散策道”リラクシアの森”が整備され、 テニスコート・キャンプ場等の施設は再稼働している様子?。
峰山高原ホテル・リラクシア

犬見川源流のススキの名所として知られていた下記の砥峰高原とともに暁晴山(1077m)・千町ヶ峰(1141m) ・夜鷹山(1056m)等に囲まれ】大河内高原の二つの高原を繋ぐハイキング道も夜鷹山・太田ダムへと整備され、オフロードの林道や・更に悪路?の福知渓谷への県道?も改修拡張工事らしく、砥峰高原側 ”とのみね自然交流館”付近では工事用車輌を見かける !!??。(工事区間・期間等の詳細は不詳)



T 阿舎利林道終点から一山〜阿舎利山   H12. 10,15

「丹波のたぬきさん」からの低山徘徊派オフ情報も有って、以前から計画していた長水山と黒尾山を連登し、 あわよくば一山で逢えるかも!?と西宮をAM4:00に出発。長水山を宇野の伊水小学校から往復し黒尾山 は不動滝コース〜左俣〜林道へと周回コースで廻って一山を目指します。29号線に出て直ぐ(五十波にも)長水山登山口の案内があり、山頂への最短ルートの様です。

429号線に左折すると 高野峠に出て今年の春「山であそぼっ」島田さんとは知らずにすれ違った東山です。阿舎利への右折には迷いますが他にそれらしい右折箇所もないので、集落をどんどん奥地に入っていきます。 一宮町も名水7選が有り、此処でも阿砂利の水場を通過します。小原段名水の文字が・・一つ東側の公文川沿いにも千年水・藤無山の水が有りますね。今度はこちらの方面から三久安 〜藤無山を狙ってみるのも面白いかも、丹波のたぬきさんが向かっているはずの阿砂利林道は(普通車だと腹を擦り、亀の子状態にならなければ良いがと思うチトしんどいが・・・和歌山や奈良では 結構こんな道を奥地に入って行ったものですが)タイヤ跡を辿りながらダートを走ります。
 
波賀野・音水湖方面へ抜ける林道も進入禁止ゲートがあり、左への林道はそのまま一山 (1064m)直下まで続くことは島田さんのHPの写真で想像が着きます。 がこの分岐の広いスペースに先着の車が5〜6台。随分人気の山に?犬の出迎えを受けたが飼い主?の男性から「皆そろって一山へ向かっている 」とのこと(AM11:40)。短い林道終点に朽ちた梯子があり左手には踏み跡があるのでこれを辿り後は尾根左を頂上付近の顕著な立木に向かって進むだけ。そこが頂上の展望所・雑木の端が三角点 (PM12:15)”丹波のたぬき”さん・「山であそぼっ」島田さん・白夜の貴公子さん・千ヶ峰HPの大加茂さん達「低山徘徊派」関西支部ML仲間の面々が此のオフ会に勢揃いとは思いもよりませんでした。 一山から阿砂利山は約2.5km程、 START地点がほぼ中央に位置しますが、阿砂利山への取付きを知らず、おかげで阿砂利山(1087m)へも御一緒させていただき有難うございました。 島田さんには東山での無礼を未だ詫びていませんでしたね。


U長水山(長水城)と兵庫最南端の1千m峰・黒尾山   H12. 10,15

長水山
赤松氏の支流で宇野氏が拠った長水城ですが、 城史等レポートはいつの日にか・・・「ふるさと兵庫の50山」で紹介されている長水山(長水城)・・・・へと生谷線を走って、先ずは生谷温泉を素通り最後の城主宇野氏の地名の残る宇野の伊水小学校 校庭から裏のアスレチック場を抜けて谷川沿いの林道を進みます(6:30)。登城口か一の門跡の石標や山上の寺に向かう丁石道の途中藪に隠れた谷なので貴重なうぐいすの滝(滝なのか ?)尾根近くで荒れたお堂に弘法大師の極彩色の像と隣は何を祠ってあったのか小石が一つ置いてある。 尾根に出て民家?(信徳寺のお母屋)に出ると早朝の珍客に吠えたてる犬と奥さんと女の子が本堂 (霊城と書いてあったが)と先祖の墓地清掃からの帰りに出会う(7:10)。後で知りましたが、この女の子は麓の伊水小学校まで、いま登ってきた道を通学しているそうですよ。霊城の後ろには 不動明王を祠ってある場所があり頑丈な石積みの石垣が山城の名残を彷彿させます。山城にしては立派過ぎるので城の石垣だったのかも?。 三等三角点は不動さんの背後です。 木々が無ければ素晴らしい展望ですが今一つ。墓地へ戻り南西へ続く尾根は目の前が西の丸?(南の丸!!)跡でしょうか土塁の高台が絶好の展望台。瀬戸内海の家島が軍艦のように浮かんで見える。 転じれば雪彦山や明神山の眺望を楽しみます。今日は天気が好いはずなのにポッンときた。島田さんルートで生谷温泉側への尾根を辿り途中から・・と思っていたのですが雨の車道歩きは後免蒙りたいと 往路を引き返し(7:50)、 次ぎの黒尾山へ向かいますが五十波(いかば)の大看板に添って長水山に向う方がズット近道の様ですね?。
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黒尾山
登山口となる西安積の八幡さん付近は 地元の休日ボランティアで大規模な道普請や草刈です。 狭い道で恐縮しながら此の先すぐ林道で・・・・案内板の有る不動滝コース分岐(8:45)からは口滝(20m)と行者の滝を見て不動滝(20m)へ向かいます(9:05)。不動明王像の祠・滝と並ぶように神木の夫婦杉。 左からの尾根道と合流すると島田さんHPで見覚えの虚空蔵尊が庇状の岩下に鎮座しいる。この先ネット沿いの道ですが左へ役行者の案内と石標があるので、くぐって行きます。約130mで高さ20m・幅 40m程の垂直の岩場があり中央に役行者像が祠ってある。これより細い踏み跡の急騰で先のネット添いの道に出ますので黒尾山への往復はどちらかで寄って見てください。黒尾山 (1025m)は展望の良い山頂ですが、廃墟と化したアンテナ施設が有る。島田さん推奨??kの壊れそうでアブナッかしい鉄梯子を伝って塔の上に登り360度の展望絶佳を一人占めです(9:50)。 虚空蔵尊からの尾根道は修験道の行者道でも不思議はない露岩の点在するコースで林道終点に出て案内板のある登山口に着きました(10:30)。次の目的地一山は、今からだと12:00頃の予定 ・急げば「丹波のタヌキさん」に会えるかも・・と急ぎ出発します。一山・阿舎利山を参照ください。


V 小田原川本谷遡行(黒岩滝)〜峰山高原(夜鷹山〜暁晴山〜仏岩) H13.07.20
 一年半振りに夜鷹〜暁晴山へと辿り、前回(H12.3.18)は登山道を往復した黒岩滝のある本谷を遡行

播但線寺前から大河内町を一宮町へ抜ける県道を、 小田原川に沿って進むと最奥の高倉集落手前のヘアピンカーブに峰山高原・黒岩滝 ・太田ダムへの案内標識のある 短い林道を5分も歩けば小田原川本流にかかる本谷橋に着きます (AM6:40)。少し先で樹間に続く道が太田池へ、黒岩滝を経て峰山高原や砥峰高原に向う登山道分岐ですが峰山へは大部分の登山者が旧簡保のレクセンタへ向う舗装林道をゲート前まで車で上がって来ています。

谷へ降りた途端からゴーロの谷歩きになるので、橋上で足元の遡行準備はしておいたほうがいいようです。林道は直ぐ終点で黒岩滝や太田ダムへの登山コース分岐標識が有ります。 ゴーロの谷は直ぐ先で砂防堰提で塞がれ右手へ巻き上がって越します。人工施設等は、この後遡行終了地点の取り水口まで無く、 多くの小滝や岩場も直登出来ますが、なりよりも広い谷と綺麗な水。 滝は小さいが大きな滝壷が次々現れ飽きさせません。堰提上部も暫らくゴーロですが 3m程の滝が現れると後は5m前後の滝や岩の上を滑り落ちる 10m程のナメ滝も出てきます。出来るだけ左岸(右手 )に沿った方が 谷歩きは面白い。左手はつい藪の中に巻き道が続いています。 (右手も直ぐ上部は 一般登山道ですのでエスケープとして考慮しておきます)谷筋の岩場では 機嫌よく休んでいる小さなヤマカガシ(1m弱)を脅かしてしまった。
黒岩滝と落口に咲くオオバギボウシ

5m程の滝を2つばかり越したところで右からの枝谷 (この谷も直ぐ上方に10m程の滝があり橋のある登山道から奥の滝音を覗けば見えます)と合流して黒岩滝(10m)の大きな滝壷の前に到着です(AM8:00)。 滝壷を左手に廻り込み右岸を直登したいのですが 中段テラスからの濡れた1m程が難しそう。此れを乗り切れば後は楽そうだが一人では自身もなく、左岸のルンゼ状岩場へ移り、階段のような落ち口に続くルートを選んで滝上部へ出た。 本谷の黒岩滝前後の谷筋に見かける白い花は殆どがギボウシですが記念に!落口と滝壷を撮りこんだ花の写真を一枚添付します。黒岩滝からも広い谷は小滝を織り交ぜながら続きます。 二条の幅広い7m程の滝(AM8:15)を越せばナメラ状の川床となり水量も少なくなる。
”リラクシアの森” (2010年映画[ノルウエーの森]ロケ地)

小滝の連瀑帯もあるがやがて急に谷も狭く 藪っぽくなり此処を10数mを抜けると 広い一枚岩の乾いた岩盤に出て遡行を終了すると正面に施設が見える。 小田原川本谷に流れ出る峰山高原からの水を此処で太田ダムに引込む為の取水施設です。右手の露岩部を辿って 仏岩を経てこの取り水を太田ダムへ運ぶ水路に飛び出します(AM8:40)。今日の目的は終わりですが時間もあり前と同じルートで広域基幹林道を夜鷹山から砥峰高原側へ廻り峰山高原へ、ついでに暁晴山へも寄ってみます。 取り水口からの分岐林道を左に行けば 峰山高原のゲートに出ますが此れは今日の帰り道です。右にとって砥峰高原方面へ辿ります。林道・峰山太田池線起点の分岐(AM9:00)から左のダート林道に入ります。正面・夜鷹山の登山口はこの先 10分程歩いた林道脇(AM9:10)にありますので我慢して歩きます。夜鷹山登山口からは山頂まで700m整備された道が途中の伐採帯へ出て、 鹿避けネットを開け閉めして直ぐのところで迄続きます。夜鷹山 (4等3角点 1,056m AM9:35)山頂には 木組みの展望台があり登ってみますが 今回は未だ霧が晴れず眼下に小島を浮かべた太田池の素晴らしい景観も 灰色一色の中に微かに見えるだけ。登山口に戻り、なをも林道を進み舗装の進んだ広域基幹林道峰山線・砥峰と一宮の分岐点に出る(AM9:55)。林道やこれから辿る暁晴山に至る両脇には ヤマアジサイの白いガクが目立ちます。 時折射し込む太陽光が夏の暑さを呼び戻しますが遠望の効かない尾根歩きだが涼風が心地良い。砥峰高原近道の標識(AM10:05)を右手に見て10分程で林道歩きとはオサラバです。 砥峰高原入り口のゲート案内板が見えてきます。「熊・いのしし生息域につき注意」の看板も目立ちます。此処から快適な散策道が続きますが途中、 湿地帯があるので足元注意です。ゴーストゾーンとなったレクセンター跡からの稜線を追えば暁晴山に行き着きます。
太田ダム

レクセンタまでの長い単調な遊歩道も40分程で抜け出て大グラウンド上の車道に出てくる(AM10:50)。この辺り一帯の高原は旧陸軍演習地で、戦中には軍馬が放牧されていた名残の土塁が残っています。暁晴山まで 600m地点の分岐です。草原を周回するサイクリングロード用の舗装道路らしく 緩やかな登りを続けて休憩所前、 山頂の建設省:暁晴無線中継所管理用のゲートをすり抜けて真っ直ぐに続く道の正面上に山頂アンテナ群が見えますが時折風に流れる霧が全てを消し去ります。風で霧が切れ遠望が楽しめるかとの淡い期待も僅かの時間のズレで損な、 くじを引いてしまったようです。
砥峰高原から峰山高原「旧簡保レクセンタ〜暁晴山(右端)H13.7.20

暁晴山(1等三角点1,077m AM11:20)に立ったが眼下の一宮町側の集落一部と、いま辿ってきた夜鷹山からの稜線が見える程度。この2〜30分後には霧も晴れ青空が戻ってきました。その頃は遠回りして下った キャンプ場跡地のネパール寺院風の炊事・水道施設のあるところまで 降りて来ています。 旧キャンプ場側を通ったのでゲートまで30m程の地点に出て来た。通行禁止の太いゲートの前の広場!には10数台の行楽客の車が並んでいる中を林道に向って歩き出します。未舗装の林道歩きは15分弱で黒岩滝や仏岩・太田ダムへの分岐に着く (PM12:15)。取水口の施設横から太田ダムへの疎水沿いに畦道のような細い道を辿ります。黒岩滝への分岐を過ぎて 200mで仏岩前に着きます。
小田原川本谷上流:仏岩

前回は二体の仏様に見えたが、今回明るい岩場を見ていると、 乙にすまして姿勢を正した痩せ型の男性に、スッカリ惚れ切った丸顔の愛嬌たっぷりの女性が 腕を取ってしな垂れ掛かっている様子。一度 あなたのその目で確かめて見てください。仏岩より恋人岩と呼ぶ方が相応しいと思うのですが !!?・・・黒岩滝への分岐に戻って一般登山道を下ります(PM12:20)。黒岩滝前(PM12:30)には女性を含む遡行中の4人パーティが食事中。
簡保レク施設跡:ホテル・リラクシアから巡視車道を暁晴山へ

食事後は左岸のルンゼ上の階段ルートを採るようです。なをも登山道を下りますが谷の方から話し声が聞こえてきます。 未だ数パーティが遡行中のようで、今の時期では、静かどころか結構人気の谷の様子です。登山道からは余り離れていず、谷の様子も結構伺えます。谷の瀬音・滝音が常に聞こえ、白い流れや岩間の淵や滝壷も見えるところが有ります。 黒岩滝から25分程度下り続けて遡行出発地点の本谷橋に帰りつきます(AM12:55)。


W 砥峰高原   神崎郡神河町 2010.9.25:2011.11.13

峰山高原 (暁晴山)〜夜鷹山〜砥峰高原(砥ノ峰)へのトレースは、登山者には古くより知られており、 私も起点 ・終点の関係で日帰り縦走は諦めて、峰山・砥峰を個別に計画していたが砥峰は保留のままになっていた。 川北からのオフロードも「とのみね自然交流館(2002・4OPEN)」舗装整備され今年(2010年12月)公開:村上春樹原作の映画「ノルウェイの森」の主要ロケ地【昨年(2009・10〜)】となった事で知名度も上がった。 ススキの時期には少し早いかな?と思いつ同じミーハーの”お仲間”となり、観光遊山に出掛けて来た<2010.9.25>。峰山高原 (昔は国民宿舎で薬石効果を謳った日帰り温泉も在ったが閉館、此処に?ホテル・リラクシアが建ってからは未だ行っていない・・)まで約7kmなので歩いてみたいとは思ったが、朝(AM8〜9時頃)のライブカメラでは雨模様・AM11時頃に着いたが 歩き始めて東屋から稜線に出て頃に弱い雨となり、暫らく展望所で雨宿り。晴れ間を突いて 交流館目指して水平道を下るが、またも直前で雨となり交流館へ飛び込み、併設の「平家そば”交流庵”」で食した蕎麦の”硬さ”にもビックリ。 今が盛り!!?の白いソバの花を川上集落内に見て登ってきたが ・・手打ちソバは旬を待つ必要があるのか?・・良く知らない。 兵庫県のほぼ中央を流れる市川の上流・JR播但線長谷から県道39号線を支流の犬見川沿いに太田ダムから更に、平家落人伝説の残る川上集落を抜けるとカーブが連続して高度を上げてゆくが、上り傾斜が緩やかになり植林帯が途切れると 砥峰高原(面積約90ヘクタール )の草原が目前にパ〜ッと拡がる。 此処に建つ「とのみね自然交流館」を起点に、直ぐ前方の池と湿地帯(貴重な中高亜の植物群を護る為に、整備されている木道以外の立入りは禁止、自然環境保全の為の最低限マナー !!)を抜け、緩やかな起伏が続く高原内を稜線伝いに周回する 約 2.5kmのハイキング(散策)コースがある。
砥峰高原の交流館や”鉄穴流し”による丘陵を見る

神崎郡のうち神崎町と大河内町が併合した神河町の、旧大河内町には標高800〜1000mの平坦な丘陵 (面積約1000ヘクタール)の大河内高原【峰山高原や砥峰高原等】があり 「雪彦峰山県立自然公園 」のエリア内にある。西日本有数の草原・砥峰高原の秋は丘陵・東斜面一面に 広がるススキの穂が陽に照り映え・風に浪打ち銀色に輝き波打つ景観が楽しめます。
毎年雪が消える春には、草原一帯に山焼きが行われ、砥峰の風物詩となっています(長谷ダムにあるPR館・エルビレッジおおかわち :此処”とのみね交流館”内にも写真パネルで紹介されています)。川上集落等地元で茅葺屋根の葺替えの為の茅場 (茅の伐採地)だったので、繁茂する雑木を焼き・新芽の成長を促し・灰は豊饒の肥料、美しい大草原の環境を 維持する目的は奈良若草山や但馬神鍋山等の”山焼き”も目的は同じ!!?。緩やかな起伏が拡がる大河内高原(砥峰高原・峰山高原)の峰山高原には 周氷河地形の一種・化石周氷河斜面と呼ばれる数万年〜1万年前の地形が見られ、平滑斜面・岩塊流 ・トア(岩塔)・ロックフォール(岩石落下崖錘)等、 河川浸食作用による地形とは異なる形状です。同じ氷河のカール遺跡を感じさせる地形の砥峰高原は、江戸時代中期?に大規模に行われた砂鉄の採取方法鉄穴(かんな)流しにより、山容が変わる程の人口地形(スカーブ・鉄穴残丘)を見せています。 砂鉄と云えば峰山高原を西へ越えた宍粟市の千種の砂鉄は知られるところですが、千種高原や北方の波賀町斉木はもとより、地質が山陰花崗岩系の岩石で有る場合、殆ど例外が無いほどに、 山流し・川流しにより行われた”鉄穴流し”の人口地形が見られる様です。
(大河内高原利用ガイド・パンフ等推進協議会資料を参照「鉄穴流し」詳細はフリー百科 Wikipedia等で参照願います)



 長水城(広瀬城)


長水城(広瀬城)
  長水山 685m  宍粟市山崎町宇野・片山・五十波(いかば)

文和年間(1352〜56)播磨守護・赤松則祐が長水山の山頂に城を築き広瀬師頼に守らせたのが 城の始まりと伝えられています。中世末期の赤松家の没落と共に西播磨8郡の守護代となった宇野氏一族の本拠地となり、赤松氏の衰微後・三木の別所氏や御着城(後の姫路城主・黒田孝高)と並ぶ勢力を高め、 但馬・因幡・美作に通じる要衛のこの地・赤松時代の城を改修し新たな城を築き、但馬の山名氏や出雲の尼子氏の侵入に備えて北方や西方を重点に石原城・鳥子城・塩田城・三森城・香山城・清野構等の城 ・砦を配置し、本城の長水城への守りには篠の丸城・五十波構・聖山城等を配置していた。天正8年(1580)5月10日、羽柴(豊臣)秀吉の播磨攻めに最後まで抵抗していた宇野祐清が、秀吉方の武将 ・蜂須賀小六や黒田官兵衛・木戸平太夫等一万余の軍勢に攻められ落城しています。この頃、同じく中国の毛利攻め・播磨攻めに東播磨の別所長治が三木城に篭城して、22ヶ月もの長期にわたる悲惨な飢餓作戦 「三木の干し殺し」に脱退者も無く抗しています。その後、元和元年(1615)に池田輝澄によって山崎城が築かれ、長水城は廃城となりました。

長水城は兵火で焼失し今は石垣を残すのみ。 城址に立てば昔の街道筋や揖保川流域が眼下に拡がります。この長水城以前に山崎町背山の山頂338mに赤松則祐が城山城(揖保郡真宮町)の北の守りとして築き赤松顕則に守らせた藤の丸城址があり、 この城は後に広瀬師頼が継いだが此処の北西部のさらに高峻な長水山頂に城を築いてからは長水城の出城となっています。・・・北魚町の藤の丸自然公園遊歩道から約30分。 伊水小学校校庭から裏のアスレチック場を抜けて大手道を辿り稜線に出て程なく城跡のある日蓮宗真徳寺に着く。高石垣の上に本堂が建っている所が主郭部でその後ろ、一段高い所に長水山山頂の三角点が埋まる。 此処・最高点が本丸跡か!!

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