竹林山/妙見山〜白山/天狗山〜黒田城 /首切地蔵〜テンロク(天徳山)〜妙見山
丹波市・西脇市(五万図=篠山・生野)
T常勝寺〜竹林山〜笛路〜妙見山〜白山  2001.2.11
U久下村駅〜大森山城〜365m〜タワ〜妙見山 2005.2.19
V北谷川〜(妙見山分岐)〜天狗山小苗前山山城〜黒田城 2005.4.02
W黒田中学校〜坂下池〜前坂北山山城〜中央橋東詰 2005.4.16
X常勝寺〜首切地蔵〜テンロク〜妙見山 2001年03月20日
首切地蔵尊
近畿の山城(播磨)
黒田城 黒田構居?(姥ヶ懐) 多田構居?
  小苗前山山城 前坂北山山城

近畿の山城(丹波) : 大森山城
丹波のお話 首切り地蔵 神社・仏閣 荘厳寺 瀧尾神社
播磨のお話 松が瀬 (黒田官兵衛と母「於松」落城悲話)
高座神社鳥居跡の石灯篭からテンロク(天徳山)

篠山川を挟んで対峙する太田集落からウチガネ〜高山(妙見の尾)に登り萬松山・竹林山・テンロクを望みながら今日も半日行程の山・テンロクに向います。2月に常勝寺鬼こそ行事見物をかね竹林山〜妙見山の播丹境界尾根を歩いたが笛路から望んだテンロクが忘れられず今回は テンロク〜妙見山・前回尾根縦走できなかった竹林山へ逆縦走できればとの目論みもある。何時も門柳川沿いから登っているので山南町側から登ってみたが、黒田庄町側は山頂付近の露岩を眺められるが14世紀中期に白山権現を祀った修験の山へは、白山を背にする荘厳寺(真言宗)からが本筋の白山登山道か?。
山南やまなみホール前から望む竹林山

此処から白山〜妙見山〜門柳山へと尾根続きで高山や、畑谷川沿いの住吉町へ下れば西光寺山や清水山(清水寺)へと通じるので修験の道が開かれていたかもしれません。門柳の尾根筋には「金剛童子」や 妙見堂の近くに「杖立て」・「鈎掛け」の呼名も残っているそうですから。

首無地蔵から 天狗山〜萬松山(山南三山の慧日寺)〜東山 高山〜猿藪〜平石


T常勝寺〜竹林山〜笛路〜妙見山〜白山 H13.2.11

竹林山常勝寺(天台宗 本尊・十一面観音・大化年間(7世紀)法道仙人開基:丹波屈指の名刹で丹波15ヶ寺霊場の第4番、新丹波七福神(寿老人)等肩書きも多い山南三山の1)に近づくと綺麗な富士型の竹林山は台形に変わり・目前に聳える。竹林山常勝寺の追儺式鬼こその見学が主目的だが行事は午後からなので常勝寺の山:竹林山や周囲の山へも登ってみようと向かう。常勝寺からも近い・直ぐ先の高倉神社駐車場(AM7:50)を利用します。竹林山の石碑前から小さな普門橋を渡り朱色の仁王門を潜って真っ直ぐ長い石段の参道が続きます。
常勝寺山門からの竹林山

左右に多くの石祠が並び種々の石仏が祀ってあり突き当たりに本堂があり午後には此処で「鬼こそ」行事が始まります。本堂右手の鐘楼 (AM8:00)の脇から山道に入ります。ネットをくぐって 先に進む辺りには多くの堂宇が軒を連ねていたと思われる平坦地や石垣の跡が随所に見受けられます。林の中は踏み跡すらなく寺の駐車場付近から延びている荒れた林道に出たが竹林山へは踏み跡も無く急登の連続なので林道終点まで詰め (AM8:30)鞍部に出て逆走するつもりです。尾根筋は薮が深いが直ぐ消える獣道を匍匐前進するが 疲れるので尾根筋を外し 脇へ逃れ頂を目指す。竹林山頂(463mAM8:45)の最高点は直ぐ分かるが展望はない。
行者山と常勝寺を繋ぐ峠の石仏


此れより尾根を辿れば 播丹国境の妙見山へ向かうが目標へ方向が定まらず、元の林道終点付近に戻って(AM9:00)山裾をトラバースして見つけた尾根筋を辿ります。古い採石場を思わせるほどに石の多い場所で 踏み外すと音立て崩れそうですが、幸い凍った雪がそれを防いでくれそうです。程なく別の細い林道(雑木で見えなくなりそうな)に出て境界ポールも続く 歩きやすい道になり下り続けて2体の石仏を祀るよく踏まれた峠に出た。笛路から常勝寺へ今も利用される峠道で、笛路で逢った老女も午後の「鬼こそ」を見に友達と此処を通って行くという。
妙見山頂上 H17.2.19

追儺式後の”餅拾い”等が楽しみと…。峠道とは別にハイキング道のような道が尾根を辿り行者山267mピークの平坦地に出た。5m程の岩場を背に目は落ち窪んでいるが爛々と輝く役行者像が鎮座する。羽毛を纏ったなんともリアルな黒い石像。役行者が望む前方には竹林山が壁のように立ちはだかって圧巻だ。道は此処まで?何処を通ってもこの先は下るだけで薮を分け少し降り始めると、もう誰も歩く人など無くなった参道?に出た。急斜で真直ぐな道も嘗ては整備された石段道だった筈!!。
黒田庄町:瀧尾神社コース展望デッキから望む白山

車道に出た笛路集落の中程に石段の残る寺跡を老女は常勝寺と言う?。関連堂宇の一つか ?AM9:45)。集落から望むテンロク(620m)は魅力的だが未走破ルートだし時間の余裕もなく、杉ヶ谷から峠に出て播磨・丹波国境尾根を妙見山まで行ってみようと笛路の集落から林道を詰める。林道終点(AM10:10)から黒田庄へ抜けるタワに向わず途中から杣道を尾根筋にとって 妙見山と妙見道からの周回コースで登ってくる展望所の間に出て来た。妙見山付近に雪が残る。人気コースの白山〜妙見山縦走コースなので私も展望所(AM10:50)まで往復し妙見山(622m AM11:00)から妙見堂への十字路を白山に向う。
瀧尾神社コース展望デッキから天狗山への黒田城砦群尾根

白山山頂(510m AM11:30)は絶好の展望の岩座です。薄化粧の千ヶ峰が妬けに目立つが門柳や 西光寺山…と丹波/播磨/三田方面にかけての 山々も捨てがたい。先の十字路に引き返し(AM11:50)黒田庄側へ降るとすぐタワと呼ばれる鞍部が山南町側と道を分ける。ハッキリした道ではないが谷筋に沿ってテープが続く。5分でタワに笛路の林道終点(AM12:05)。鬼こそが始まる迄には到着しなければと常勝寺へ急ぐ。


U 野田(小苗踏切)〜大森山城〜365m峰〜タワ〜妙見山=往復H17.2.19

JR福知山線谷川から加古川線に乗り換え 一つ目が久下村駅。物置小屋の様にポツンと建つ無人の駅舎を出ると兵庫パルプ工場の煙突から噴出す白い煙の背後に山影を見る。此処でハイカーの姿を見ることは皆無・怪訝そうな目を背後に感じながら 黒田庄町境の小苗踏切りに向います。目的は大森山城ですが序でに播磨境界の妙見山に続く北尾根を往復します。R175の船町辺りからは身近な山稜に大岩を載せ、人気の白山以上に険しそうな山容を見せる天狗山からの尾根を分け、常勝寺と荘厳寺へ下降する鞍部「タワ」を経るコースです。
妙見山頂上

取付点付近の状況は大森山城レポートを参照してください。 妙見山〜白山へのハイキングコースだが妙見山から北へ タワを更に北へと播磨境界尾根を辿る登山者は殆どいないようです。365m峰ピークの南から北面への尾根上には古墳の残石らしいものを 数箇所で見かけるが、西山麓には”小苗古墳群”がありJR船町駅北方・小苗集落内の分岐点に案内標識もあるが此の古墳群とは別の様?。更に北尾根上に左程広くも無い平坦地形が大森山城らしい。妙見山から”タワ”へ戻り登り返した天狗山への 緩やかな分岐尾根は、妙見に向かっては東端部をそのまま常勝寺への尾根を下りがち、西端部から北に向きを変える尾根は急斜面のうえ境界ポールも見失いがちの踏み跡程度なので要注意です。緩斜面になってくると何か人工的な感じのする石片の多い鞍部に着く。小苗に下る下方にも其処だけ残石の目立つ場所がある。谷筋だが古墳だろうか?尾根北には 大石群が目立つ箇所を過ぎると展望広場の様な365m峰に着く。
妙見山北尾根365m付近・古墳の石材?

西へ突き出す 枝尾根に平坦地も有りそうで旧佐治川・篠山川 ・加古川合流地点の三方を眺望出来る位置は大森山城よりも見張機能の優れた砦としては適地に思えます。此処からは斜面も急になり植林帯に入って展望の無い尾根筋を下る最北端部に二箇所平坦地を見るが最後の小さな台地が遺跡分布図では大森山城跡に比定されているようです。兵庫パルプ工場の独特の匂いが鼻を刺激し始め、工場の屋根が見えてくると県道294号の取付点も近い。 誰もトレースしていないと思えた此のコースにもMTB登山・大柿氏の古い赤布があった。天狗山分岐西端付近に有れば迷わなくても済んだのですが…

X常勝寺〜首切地蔵〜テンロク(620m)〜妙見山(622m)〜!播丹界尾根をゆく 2001年03月20日

播丹界の妙見山から白山への尾根は四季を通じて人気のコースだが一歩外れた竹林山やテンロクを知る人も・登山対象としする人は殆どいないと思っていた。ところが前回・竹林山〜妙見山を経て笛路の集落へ戻った折、同じ妙見のタワから降りて来て早足に前方を歩いている人物がいた。首無地蔵への分岐車道で追いついたのがMTBでは無く歩きなので気付かなかったがMTB登山山を駈ける風になれの著者 :織田氏だったとは後日判った。彼は首切地蔵尊〜大樅峠〜テンロクコースを辿った様だが、私は林道途中から 尾根を跨いで笛路に下る送電線の巡視路を辿って尾根に至り、その尾根からテンロク〜妙見山を目指します。その妙見山の手前でロールアウトMTB登山の大柿氏に逢った。
”鬼こそ”を待つ人々・常勝寺本堂 H17.2.11

高座神社【延喜式内社・丹波市に17社在り・丹波国造の創立と伝えられ境内には天然記念物のフジキの巨木が有る】前の駐車場 (AM9:10)から山田川沿いに首無地蔵尊への車道を進み首切地蔵尊手前(AM9:45)で欅峠・天狗山へ向う林道入口の案内板を見る。右手山道は駐車場へ山裾を巡って続く散策路です。駐車場からはチェーンのあるゲートから林道を辿る。大樅峠の途中で大呂峠へも通じるが、大呂峠への分岐下に送電線No.72・73の関電巡視路から尾根に取り付く(AM9:55)。5分ばかりでテンロクからの尾根末端の鉄塔近くに登りつきます。鉄塔からは正面に天狗山が右手に高山が間近に聳えたっています。巡視路は此処から麓の山田・笛路へ下っていきます。薄くなった踏み跡を辿りながらの急登なので踏み跡はやがて消えるが尾根筋はハッキリしているので迷うことは有りません。山田地区から384mピークを経て登ってくる尾根と合流すると道は明確になり本来は此の道を登ってくるのがベターの様(AM10:15)。小ピークに出て木の間越にテンロクが顔を見せてくれます。傾斜も緩やかとなって 快適な潅木の道が続きます。ハイキング道に出ると俄然・赤テープがあらわれ程なくテンロク(天徳山3等三角点 620m AM10:40)に到着。此処から妙見山への コースは雑木の中で方向が見定めにくいが、赤テープで迷うことはない。つい10日前にトレースされたピークハンター氏の痕跡もある。テンロク山頂の北側には電々公社(NTT)マークの施設のようですが 鉄条網で囲まれた箇所が有る。さらにその北へは山田集落へ降りるのか山道が続いているので次回以降の要チェックルートです。山頂から鞍部へ下り伐採された播丹境界尾根から妙見山が展望出来るまでの雑木の中はテープが無ければ結構コースを取り違えそうな藪漕ぎ同然の 踏み跡を辿ります。尾根から猪の大きなヌタ場のある鞍部に出て右手よりに続く山道は4等三角点?(489mAM11:10石標は無いNo104080)に到着。ピークハンター氏H13.3.11の赤テープが巻かれている。
山田川沿いに望む妙見山

露岩が目立ち始める急登りとなり踏み跡も不明瞭になる。此処で白い尾がまばゆいばかりの鹿くんと暫らくにらめっこ状態。 静かに歩いていたので鹿にも気取られなかったのかな。チョッとした展望岩が有るので小休止する。正面にテンロクと高山が背比べしているのを少し後方で天狗山が微笑んでいるかのように霞んで見える。一人・中年女性が登ってくるのに出会う。こんな山で人に会うのは珍しい。それより突然現れた私にスッカリ驚かしてしまったようです。テンロクから辿ってきたことを告げて先を急いでいると今度はMTBを担いだ男性です。あれっ何処かで逢ったような…声をかけて訊ねたら笑顔が返ってきた。加古川MTB登山連合?の島田さん・向井さん達との登山話をし、とりわけ昨日の氷上町・方須張山〜鳴尾山の報告では舟坂峠のこと等を深く興味をもって訊ねられる。先行していた女性は大柿氏の奥様でした。長話していては気の毒なので6〜7分の立ち話のあと別れる。
黒田庄の山名:三角点峰を望む妙見山展望所

10分程で妙見堂上の展望台に飛び出してきたが道を外れていきます。タワからの緩やかな快適ルートに気が緩み目前のピークに立ちます(PM12:05)。ここで既に二つ三つ程、取り付く尾根を素通りしてしていたようです。いずれ確かめてみたいが、踏み跡も無く竹林山への尾根通しは相当難渋する藪尾根だと思います。竹林山の西にも同様の綺麗な三角錐の無名ピーク。この山への途中尾根?から谷に向って下れば車も入って行けそうもない程細い林道弓貫線に出て 兵庫パルプ工場内を抜けて多可・黒田庄・谷川へ通じる県道139号に出る。しかしこの道は先ほどの無名ピークへの取付として何時か利用してみたいと思う。車道を南へ進むと母校・山南中学校前〜山南町庁舎を経て常勝寺そして高倉神社の駐車場です(PM1:20)。


荘厳寺  西脇市(旧多可郡)黒田庄町黒田

荘林山荘厳寺 【真言宗高野山派 本尊・十一面観世音菩薩】は白鳳時代・白雉年間(650-54年)天竺(インド)の僧・法道仙人の開基を伝える観音霊場の古刹です。 【近畿地方での十一面観音を 本尊とする寺の開基=法道仙人の図式が出来るほどですね…!!】桃山時代末・慶長16年(1611)徳禅上人が堂宇を修復し、真言宗高野山派の末寺として再興されました。
荘厳寺の鐘楼と本堂

本堂のある境内には鎌倉時代前期・建久年間(1190-99)佐々木四郎高綱
近江源氏佐々木秀義の四男で、源頼朝の挙兵(治承4年(1180)に際して佐々木定綱・経高兄弟等と共に馳せ参じ各地を転戦して活躍するが寿永3年(1184)木曽義仲追討の 宇治川合戦における梶原源太景季との先陣争いは「平家物語」で知られる有名な逸話です。石橋山の合戦では 源頼朝の命を救ったともいわれます。
荘厳寺の多宝塔

鎌倉時代早期・文治2年(1186)に長門の守護職を得、東大寺の再建にも尽力し建久6年(1195)子の重綱に家督を譲って出家して高野山に入ったといわれます。 剣豪:佐々木小次郎は其の末裔と云われる!?
】が関わりは不明だが造営したといわれる多宝塔【焼失により江戸時代 ・正徳元年(1711)に再建】が 杉木立の中に優美な姿を整えています。屋根二層とも桧皮葺として県下唯一の三間多宝塔【本尊:釈迦如来・建久年間(1190-99)佐々木四郎高綱により造立され、
荘厳寺本堂への参道入口

焼失後正徳元年(1711)再建】は平成12年(2000)県の重要文化財に指定されています。 多宝塔下段の鎮守の三社八幡宮(丹生と高野の両大明神・八幡大武神・熊野三社権現を祀る)は伝:室町時代の創建宝永5年(1708)の再建。鐘楼の梵鐘や境内周辺の山林一帯は江戸時代・寛永15年(1638〜)頃の姫路城主本多政勝により 慶安2年(1649)【姫路城主は榊原忠次の頃】に寄進されたもので、最盛時には本堂への参道沿いに10有余の 堂宇僧坊が建ち並び隆盛を誇っていた様子は、広い石段参道横に石積みが残る削平段が続く事でも窺えます。荘厳寺の駐車場右手奥から境内の苔生した石段が本堂に続き、
荘厳寺本堂への参道

更に白山へと登山コースが整備され山頂に至る山林一帯は兵庫県自然環境保全条例により自然環境保全地域に指定されています。荘厳寺から東方の白山山頂に至る コースは修験道の行場で、江戸時代中期・宝暦年間(1751-64)には社町
朝光寺と鴨川の西光寺(廃寺)を行場とする権現信仰の 修験道の寺として交流していたことが伺われ、 岩場の裾には白山権現を祀ったところもあり昔の名残をとどめているようです。此の黒田か前坂集落から荘厳寺・白山・妙見山から西光寺山を経て御嶽山〜清水山に至り、
多宝塔からの荘厳寺本堂

更に鴨川の住吉神社付近に出て三草山〜朝光寺に至る修験の道が想定出来ます。 また荘厳寺所蔵の本黒田家略系図等の資料により、黒田庄を根本地とする播磨赤松氏庶流黒田氏の第8代黒田城主:黒田重隆の二男孝隆が姫路城主:小寺職隆の養子となり御着城主:小寺氏の家老となり、羽柴秀吉の参謀役となった小寺 (黒田)官兵衛の出生地の通説を覆す資料となっています。
(現地:荘厳寺各所の案内板を参照)


瀧尾神社
  西脇市黒田庄町黒田字宮ノ本

R175号線の中央橋交差点から加古川を渡りJR加古川線を越えて県道174号に出る。県道に落込む半独立低丘陵上には
前坂北山山城が在る。県道174号を北へ約1.2kmには 伝:黒田城・多田構居・姥ヶ懐(黒田構居?)、南へ約2kmには城山城・友尾山城が、いま渡ってきた中央橋から県道139号を真西約2kmには、
展望テラスより伝:黒田城(中央)と丹波境界尾根石金山-至山

婚姻関係にもあった石原氏が丹波の赤井五郎(高見城最後の城主!?)と図り黒田城を攻めた石原城・石原北山山城 が在る。嘗て小領主・土豪の城も大勢力下に組みし、播磨の東北端部に位置して但馬・丹波・京・摂津を結ぶ重要な 要衝の地の監視にも当たったものか?。中央橋東詰から加古川線沿い北へ県道174号は黒田庄中学校
前の分岐から本黒田駅へと旧街道筋の面影を残す狭い道だが、嘗ての街道筋は黒田庄中学校から南谷川沿いに東へ進んだ 黒田鳥居(瀧尾神社一の鳥居!!)前の道が街道筋だったらしい。伝黒田城・姥ヶ懐遺跡(黒田構え居)の西山麓を抜け此処に通じている。鳥居を潜り直進すると第二鳥居に至り鳥居側には鐘楼もある。神仏混淆(神仏習合)の信仰が 明治時代の神仏分離に伴う廃仏毀損の後も遺されている。瀧尾神社は黒田庄町内4つの村(西・南・大坪 ・寺内)の氏神で通称”タキオさん”と呼ばれ、瀧尾神社の案内板によると 独特の形態と様式をもった本殿で、欄干の擬宝珠には元禄15年 (1702)の再建銘がある。江戸時代には五社大明神と称し宮寺の円護寺があった。二の鳥居から向かって進む 参道の随神門右手の手水舎には、普通?梁を支える蟇股に力士像を見るが、此処の大き過ぎる力士像!!?は梁にぶら下がっているよう。 随神門を潜ると正面が拝殿だが長床で七間(17.8m)もあり黒田庄町内では最大。秋祭りの屋台(太鼓神輿)の宮入りは一台だけだが、此の広い境内を大太 鼓担ぎ手の 氏子衆が右や左に廻して走り回る。本殿は桧皮葺・三間社流造・千鳥唐破風で元禄15年(1702)の再建か?。本殿裏手南端には石積みを一部外した?空洞には水神が祀られている。瀧尾神社からは神社南側を南谷川沿いに 東へ進み鹿猪除けフエンスを開閉して 砂防親水施設に入ると左手と・右手には展望テラス経由で、背後の丘陵尾根伝いに白山-妙見山へ登山コースが二本ある。一帯が”黒田すえたにの森”で瀧尾神社鎮守の杜・須恵器を焼く窯跡がある。 尾根上途中に在る展望テラス付近には 1500年程前古墳時代後期と推定の”瀧尾神社裏山古墳群”が分布しており円形マウンド5基が確認されているが未発掘のため詳細は不明です。 




伝・黒田城  黒田構居?(姥ヶ懐) 多田構居? 
大森山城  小苗前山山城 前坂北山山城

伝:黒田城(黒田砦)Ca130m と黒田城245m
 城山 (稲荷社 砦) Ca130m  黒田城主郭部245m 城山最高所346m 西脇市黒田庄町黒田


R175号線沿いの大山病院と黒田庄牛の看板が目立つJAみのり・Aコープ側の田高交差点を東に進み加古川 に架かる新中橋を渡り南側に本黒田駅ホームを見て加古川線踏切を越えると県道294号(船町口・谷川駅方面)と県道174号(本黒田駅や中央橋を西へ渡れば R175号)分岐に出る。 此処に黒田城・荘厳寺の案内標識があり 東前方約200m程の小山が黒田城(伝:黒田城)で
伝黒田城(中央):背後の天狗山への 尾根上に黒田城が在る

山上部に稲荷社(清綱稲荷大明神)の赤鳥居が見える筈)・其の奥(天狗山)への尾根筋に黒田城関連遺構(城砦群と呼ぶべきか?)の砦規模曲輪群が点在する。 荘厳寺に向かう車道沿いと丘陵先端部麓を南から西にかけては深い溝谷(北谷川)が堅固な自然の濠を成している。西面角の幅狭い小橋を渡り参道を山上に祀られる 清綱稲荷大明神に向かう。北方の高峰へ尾根続きに点在する黒田城関連遺構は上方へ・上方へと拠点を移しながら戦う”逃げの城”構造?にも思えた。
山頂稲荷社から丹波国境のいたり山(右端)を望む

「黒田城址・荘厳寺→」の案内標識を見て交差点を直進し低丘陵部(此の南尾根末端部)に向かう。NHK2013年度大河ドラマ化により西脇市 (多可郡黒田庄町は2005年に西脇市に合併された)が黒田官兵衛生誕地としてPR、以前より案内板等に黒田城跡とされている伝:黒田城周辺を 整備され案内幟や案内板も設置されているが城遺構は此の整備・整地以前より稲荷社造成で特に、主郭に次ぐ曲輪跡と思える東側平坦地へは東南の溜池側から山頂稲荷社近くまで未舗装車道が上がってきており・
北谷川を渡る清縄稲荷への参道入口

地形は大きく改変されている様子?。天狗山山頂は遺跡分布地図に 小苗前山山城が記載されているが、限りなく自然地形の平坦地?で城遺構を見る洞察力の無さに此処まで登ってきたのにと…情けない。荘厳寺手前の老人ホーム北側斜面からも枝尾根中腹に黒田城関連遺構と思える土塁・2-3の段曲輪・竪堀状の窪み等地形を見る。尾根幅も広いCa245m付近が黒田城主郭部とされます。南面の墓地からも谷よりを詰めた主郭部東端鞍部(見張り砦へ続く急登部)に 土塁跡がみるところから、
伝:黒田城主郭の清縄稲荷大明神

黒田城郭群への通路 (むしろ大手筋?)があったのかも?。細長い堀底道ともなって伝:黒井城北面を西山裾の田圃へ下るが、辺りの字名姥ヶ谷からは屋敷跡が連想される。伝黒田城とされる正一位清縄稲荷大明神を祀る (櫓台跡か?)半独立丘陵の南裾を流れる深い溝谷 (北谷川)が小山麓を捲きながら90度方向を北に変え天然の水堀を形成して加古川に流れ出る。山を背にして前方は 堀で囲まれた城館のイメージがします。「播磨鑑」にいわれる黒田下野守(黒田官兵衛孝高の父で8代城主:下野守重隆)の多田構居・多田城に比定される位置か?。
伝:黒田城東郭<正面>・堀切とフエンス沿いに姥ヶ懐(官兵衛生誕地)へ

荘厳寺に向う車道から北側の集落に入る地区の道直ぐ、切り立つ北谷川を跨いで赤い小橋を渡ると、そのまま山頂の稲荷社まで 階段と露岩が続く急斜な参道です。平成1x年の比較的新しい鳥居も建つが朽ちて倒れているのも数本ある。鳥居に架かる蜘蛛の糸を木枝で払いながら進むと鳥居が途切れ、また少し上方で鳥居が続いて南郭部に入る。露岩を砕いての参道だが左右の雑木藪・特に南側は北谷川に急激に落ち込む 自然地形の切岸・参道途中にも曲輪の削平地が有る。
伝黒田城主郭:後方ピークは黒田城砦群の尾根西末端部

展望は少し効くが黒田荘内の監視と居館を兼ねてなら先の城山(稲荷社を祀る伝:黒田城)で充分だが、ほぼV曲輪(東西郭と主郭)から成り、土塁や竪堀・北尾根続きの鞍部に堀切も備わり、砦規模を越える城郭縄張りながら防禦設備は不充分な気がする。 最高所は稲荷社が祀られる小広い削平地で東北斜面にも 1〜2段と続き東郭跡!?まで車道が延びてきており、南側の参道も含め加修工事で遺構は失われたかもしれない。 自然地形なのか低い段差の上に祀られた稲荷社の祠周囲以外に土塁や堀切等の遺構を見つけることは、その築城時期を考えてみても無理なのか!!?。
伝:黒田城主郭櫓台北面の竪堀

天狗山から黒田城主郭部を経て延び出す丘陵尾根最西端ピークに伝:黒田城が位置し、其の北側を捲いて登ってくる車道が鞍部の堀切そば【現在:堀切下方の田圃内< 姥が懐遺跡(黒田構居)>黒田官兵衛生誕地碑が建つ】を経てっ伝:黒田城の東曲輪 (三方土塁囲み曲輪だったと思えるが駐車場用等に南側も均されてか判然としない!!)まで続く。黒田城は伝黒田城の主郭や東曲輪も望まれる東方へ延びる尾根上に、点在する曲輪群を含める長大な城域は城山(Ca245m)付近の幅広緩斜面上に主郭を置き、
伝:黒田城東郭:元は三方土塁囲みの曲輪と黒井城砦群の最高所ピーク

急登する上方の双子峰?の西峰312mと天狗山西尾根上最高所 :東峰346mに円形マウンドの曲輪を見る。黒田城出曲輪の物見台(遠見の櫓跡?)なのでしょう。伝:黒田城北鞍部の堀切から天狗山に向かうが下草藪に覆われ 雑木・倒木に悩まされた尾根筋は軍師:黒田官兵衛の大河ドラマ化(2013年)決定を受け、官兵衛生誕地として伝黒田城周辺が整備され、伝黒田城から黒田城の在る城山Ca245m及び見張り台(遠見櫓跡?)の最高所346mまでも黒田城として再調査されたものか?。
黒田城主郭部から伝黒田城<中央の山影)と石原城<幟旗にかかる丘陵部>を望む

ハイキングコース (散策道)まで整備されているが利用者は少ない様で、伝黒田城の堀切から此の城山(Ca245m)までのコースは元の藪に戻りつつあるのか?。西脇市観光パンフレットによる大日如来を祀る祠を見なかったので 初めから ハイキング道をオフコースした様だが、城址探索としては何時も通り直上する。此の尾根西末端頂部から広い平坦地形が数か所に在る。 藪道は城山(Ca245m)の尾根筋を捲くように付けられた散策道に飛び出して尾根筋最高地点346mまで続く。
黒田城主郭とされる城山(Ca245m)数段の曲輪群!!?

パンフでは此処を天狗山とされているが、 私のいう天狗山(点名)は険しい岩壁を山頂部に魅せて起立する天狗山(4等三角点485m)小苗前山山城跡のこと。雑木藪と下草に隠れ表面観察が難しかった広い尾根筋が 伐採され・見通し良くなったことで、削平や切岸加工は粗いが、曲輪段や土塁等の山城遺構が判断できるが、検出されたという竪堀は再発見できなかった。 天狗山(4等三角点485m)から妙見山への登山ルートは、大した藪でもなく踏み跡は明確に続く様だ?。
黒田城主郭(15年後<H26年>の整備された城山)

築城時期・城史は
残片的ながら室町時代の土豪・黒田氏は赤松則村(円心)の弟で 元弘の乱(1331-33)の活躍・楠木正成の姉を妻とし、東播磨に勢力を延ばし加西市河内に城を築いた円光を始祖とし、兄敦光は別所五郎を名乗る別所氏の祖:弟重光が丹波・播磨国境守備のため観応2年(1351)黒田の地に来住し 黒田七郎重光を名乗って黒田城を築き播磨黒田氏初代となり、
黒田城主郭部(中央曲輪)東端

父祖円光の菩提を弔うため円光寺(黒田家菩提寺だが黒田城落城 ・滅亡?で廃寺)を建立。2代目重勝【明徳の乱(1391)の武功が伝わる】の弟光氏は野中六郎と名乗って野中城(大木城に比定される)に居城し主要城主に岡田四郎五郎一武が居たと…。 3代重康・4代光勝・5代重貞・6代目重昭は石原城主の娘を妻として婚姻関係に有った。7代重範は大永元年(1527)播磨・備前・美作三国守護:赤松義村を暗殺し主家を乗っ取った
黒田城主郭から物見櫓(312m峰)への急登となる鞍部の土塁

守護代浦上氏追討に摂津方面へ参軍しています。8代目黒田下野守重隆 【母:比延常範の女】の次男として天文15年(1546)黒田村で生まれたのが黒田官兵衛孝隆〈後:黒田孝高(如水)>で幼くして姫路の小寺美濃守職隆の養子となった。兄治隆が9代目を継ぐが元亀3年(1572) 石原城(加古川を挟んで対峙する石原地区)の石原掃 部助と丹波の高見城主赤井新五郎忠家連合軍との戦いに一族郎党は討死して廃城・播磨黒田氏は滅亡します。播磨石原氏に丹波赤井氏が助勢しているところから :単に領有地を廻る争いではなく、赤松新勢力三木の別所氏に恩義のある赤井氏が、赤松旧臣勢力を押さえる為
黒田城の物見櫓(312m峰)から丹波国境の天狗山(小苗前山山城)を望む

・石原氏に援軍を送ったものか?。此の三年後天正3年(1575)には在田(赤松)氏の 貝の城・段の城朝日城の赤井直正が別所重棟や 森本城主らの連合軍で攻め落としている。播磨黒田氏については黒田庄町の公会堂 (区有文庫の古文書)から発見された”黒田城系図”や荘厳寺の”黒田家略系図”等古文書で研究されているようですが大名になった黒田氏家系図にも二系あり、どちらの系図が正しいのかは信憑性を問われているようです。歴代藩主黒田氏の墓所が無く【黒田家墓所は官兵衛孝高が仕官していた御着城近くに 在るという】居館・城跡も判然とはせず此処を伝:黒田城とするが、
天狗山西壁から本郭部遠望(中央先端の森が伝・黒田城)

此処より尾根伝い北の峰に山城遺構(平坦地・竪堀等!!)の残るところが黒田城主郭とも考えられるようです。(北側・南側尾根先の平坦地・竪堀等が検出されている為か?)家系を誇ろうと身分の高い人の血を 受け継いだ形式の系図 を盛んに作った時代があったようです。祖父・重隆、父が職隆(小寺姓に改称)で小寺孝高を名乗っている事では同内容です。黒田官兵衛孝高出生で通説となっている 黒田氏は近江国伊香郡黒田邑(滋賀県):近江守護 ・佐々木氏の後裔?か。
346m峰の曲輪は見張台か?!!天狗山の岩峰(小苗前山山城)を望む

播磨の片田舎・多可郡(現:西脇市黒田庄町)の土豪黒田氏は黒田城落城で滅亡・城主の血を 受け継いでいるものは唯一人となってしまった孝高なのでしょうか。姫路城代となった黒田美濃守職隆の長男として姫路城で生まれたとされるのが通説のよう?。姫路城代:職隆以後が共通だが・それ以前が異なる系図が二つも有って、どちらが正しいとも決められない?…有名な人物には出生から諸説 ・異説が有り、
346m峰頂部に有る円形マウンドの曲輪:見張台!!??

小説等でも様々に紹介されます。 信長の命を受けて天正5年(1577)秀吉の中国征伐に従って転戦していた頃に小寺姓から、もとの黒田姓を名乗った様ですが以後の経緯は割愛します。 竹中半兵衛重治と共に黒田 (小寺)官兵衛孝高は秀吉の片腕ともなって軍師として多くの功績を残た智将として知られ、天正12年(1584)宍粟郡の山崎城主・天正15年(1587)には豊前国六郡
北谷川と伝黒田城 :稲荷社への参道橋の先に構居跡?の田園が拡がる

・12万石の中津城主。天正17年(1589)息子・黒田長政の家督を譲り文禄2年(1593)出家し 如水と号し「水五訓」を著し・慶長9年(1604)博多で永眠したとも、京都伏見で病死したともされて生死共に真実は明確になっていないようです。
”自から活動して他を動かしむるは水なり”、 ”常に己(おのれ)の進路を求めて止まざるは水なり”・・・等「水五訓」は座右の銘として今一度、読み起こし自らを見詰め直し・人生訓とされるのもよろしいかと・・・。
(黒田庄町史 現地:案内板 (北播磨黒田官兵衛生誕地の会・西脇市観光協会 を参照)


姥ヶ懐遺跡?(黒田構居 ?・城主屋敷!?) Ca90m 西脇市黒田庄町黒田字姥ヶ懐

NHK大河ドラマ化(2014年度)の決定により西脇市黒田庄町を軍師黒田官兵衛生誕地としてPR、 以前より黒田城跡の案内標識が立つ伝:黒田城周辺が俄かに慌ただしく感じるのは気の性かも!!。放映前で存在・知名度も未だ低いが「伝黒田城跡」への登城口 (稲荷社へは溝谷(北谷川)に架かる参道橋を渡る)から山裾を回り込む整備された歩道には官兵衛生誕地PRの幟旗が靡く。通路沿いを約100m程進んだ先:田圃の奥に姥ヶ懐と書かれた案内説明板付の看板と黒田官兵衛生誕地石碑が立つ。
姥が懐遺跡?(多田構居?)

黒田城主の居館等は県遺跡分布図にも記載は無いが、 字名の姥ヶ懐に屋敷跡?・加古川線本黒田駅近くの県道交差点付近に構居跡(家臣屋敷群跡か?)や表門・播磨黒田氏:初代黒田城主重光が 父祖円光【赤松則村(円心)の弟】の菩提を弔い黒田家菩提寺とした円光寺跡等播磨黒田氏・黒田城関連遺跡については再各訪した荘厳寺の案内板で知った。
北谷川を濠とした構居跡:中央右の山麓に官兵衛生誕地碑が建つ

兵庫県遺跡分布地図に伝:黒田城や黒田城から 天狗山に向かう北尾根筋に平坦地形や土塁・堀切等の 城遺構を数箇所に散見される様で346mピーク付近の遺構を黒田城主郭とされる黒田城砦群?は大規模山城の様相を帯びてくるが、遺構残存状況からは此処の縄張り(城域や曲輪切岸・土塁・堀切・竪堀等の 防備施設等遺構)が不明瞭。室町末期の元亀3年(1572)黒田治隆(官兵衛孝高の兄)が9代目城主の時、加古川を挟んで対峙する 石原城の石原掃部助(かもんのすけ)・丹波高見城最後の主 赤井新五郎忠家連合軍の奇襲により一族郎党は討死して廃城・播磨黒田氏は滅亡します。
姥が懐遺跡”黒田官兵衛生誕地”

黒田城主の屋敷跡とされる姥ヶ懐遺構<県遺跡分布等に記載なく発掘調査の手も入っていない様 >は城主居館推定地としての条件は整っている。南から西北へと 北谷川が加古川へ流れ出る溝谷を濠として、 広い2-3段の田圃内に家臣屋敷・最奥の高低差も一段高い位置に姥が懐(黒田家屋敷跡・黒田官兵衛誕生地の案内板・石碑が立ち庭池も復元されたものか?、 遊歩道が伝黒田城の北尾根続きの鞍部に出るが、フエンス外側の長い堀切の沿っている。
姥が懐の屋敷跡!?の黒田官兵衛生誕地碑

大手道が此の堀底道を通じて伝黒田城や天狗山への尾根筋に展開する黒田城砦群へ、黒田城主郭とされる346mピークへ、天狗山山頂付近から丹波市側の尾根上にも展開する小規模曲輪や竪堀状等が、城主等の城史一切不明の 小苗前山山城が”逃げの城”的存在にも見える黒田城砦群最後の「詰めの城」なのか?…丹波国境との境目に建つ城が丹波側の諸城を監視する見張り砦であったか?も不詳ですが。
(現地:姥が懐(城主屋敷)案内板・北播磨黒田官兵衛生誕地の会・西脇市観光協会 を参照)

多田構居 (多田城・黒田構江遺跡) Ca80m 西脇市黒田庄町黒田字構江

R175田高交差点(JAと大山病院の間)を東に向うと加古川に架かる新中橋を渡り JR加古川線本黒田駅北方の踏切を越えると正面に白山〜妙見山の山並みがあり、其の尾根北方から南へ流れ出る丘陵の末端が少し盛り上がり半独立丘陵の頂に 樹木が伐採され稲荷社が祀られる伝:黒田城が在る。 新中橋から望む黒田構居と伝・黒田城(鉄筋住宅左端の丘陵)

西〜南麓に深く切立つ溝谷を濠として北の尾根続き鞍部にも堀切が在る。尾根伝いには黒田城砦群が点在し三角点峰天狗山(4等三角点 485m)の 小苗前山城に至る尾根上の Ca250付近が黒田城主郭部とされる。3段程の曲輪群・さらに346m峰には円形マウンドの平坦地があり竪堀状遺構と・南面に土塁付き曲輪状の遺構を見、尾根上方に向っての”逃げの城!!?”殆ど自然地形の平坦地で遺構かどうかの判断は専門家に委ねることになるが 黒田城は伝:黒田城とされる稲荷社からさらに尾根上に展開する 「逃げの城?」であり「詰城」。平常時の黒田城は”播磨鑑”にいう多田の城(多田構居)に比定されます。
黒田構居の濠遺構か?・前坂北山山城が見える

加古川に架かる新中橋を渡った東側一帯は条里制が一部現存し縄文-弥生時代の石器・須恵器・土師器等が出土した散布地で、古くから開けた集落跡地。伝:黒田城の西500m程・黒田庄町鉄筋住宅の建設に伴い平成 7年発掘調査が行われ一帯に幅6m・深さ約4mの堀状遺構や、其れに沿うように柵列の跡も出土。中世後半の須恵器・土師器・陶磁器や硯石等や掘立柱建物跡が出土し、 県遺跡分布地図に城館跡・黒田構江遺跡の名があるが、黒田官兵衛のNHKドラマ化(2014年)決定を受け、此処に北播磨黒田官兵衛生誕地の会・西脇市観光協会による多田構居跡との案内板が駐車場側に設置されていた。
多田構居跡()駐車場)から仮黒田城(中央宅地奥の低丘陵部)

黒田城西麓の姥ヶ懐遺跡(黒田構居・城主屋敷) は上屋敷・加古川右岸に面した黒田構江遺跡(多田構居・多田城)は下屋敷か?。四方に堀や土手(土塁)築いた屋敷(構居)があった様で、播磨鑑(江戸時代の地誌)に多田構居の名が、播磨古城記には多田城の名で存在した所と推察されています。 加古川を挟んで西方の石原城の石原掃部助と対峙し、合戦に及び黒田城は黒田官兵衛の兄8代目治隆のとき、石原氏と合戦となり討死し廃城となります。 山城戦には長けた丹波:高見城の赤井新五郎忠家が援軍にるので、此の黒田構居を引いて伝:黒田城か更に尾根を伝う山城の黒田城に移っての戦いだったのでしょう?加古川を外堀に・構居の西面に溝が流れていますが内掘があったのでしょう。
JR加古川線沿い北側から推定地と小苗前山城

5〜8m程の急斜な段差となり東には現在・宅地と耕作地の平坦地があり、 段差は殆どないが小川を隔ててJR加古川線が走っています。高見城の赤井忠家が加勢したとすれば、山南町境の加古川へは出ずに大新屋から石戸を越え奥野々から谷川に出て篠山川を渡って船町経由で西脇へ向う旧播磨道だったのでしょう。 このコースからなら加古川を自然の要害とする構居はもとより、稲荷社の建つ伝:黒田城も、簡単に攻められそうです。
(黒田庄町遺跡分布地図・兵庫県黒田庄町教育委員会 現地案内板・市観光協会 参照)


松が瀬 西脇市黒田庄町田高

黒田孝隆(孝高)通称官兵衛の父は後着城主小寺政職に仕えて姫路城を任された黒田(小寺)職隆:母は明石城主明石宗和(明石正風)の娘で小寺政職の養女で天文15年(1546)姫路に生まれ。母は永禄2年(1559)13歳で母親を亡くしている。落城の際と云い明石城とは明石古城の船上城の事か?、 明石氏の枝吉城の事か?。官兵衛は姫路に生まれたとする通説を覆し、黒田庄を根本地とする播磨赤松氏庶流黒田氏の第 8代黒田城主:黒田重隆の二男孝隆が姫路城主:小寺職隆の養子となり、
R175号(居酒屋:松ヶ瀬)向かいが伝承地 :丹波境の石金山稜線を望む

御着城主:小寺氏の家老となり、羽柴秀吉の参謀役となった小寺(黒田)官兵衛の出生地とする荘厳寺所蔵の本黒田家略系図等の資料がある。松が瀬の伝承も天明4年(1784)福岡黒田藩の中村平市と 播州姫路の小寺家菩提寺心光寺の僧入誉が心光寺の古記録に残る「小寺官兵衛は多可郡黒田村の産なり…」との古記録に基づいて黒田庄町へ現地調査に訪れた際の古老による伝承を記録している。松が瀬はR175号「船町」交差点を過ぎ 田高北交差点手前 :左手に加古川右岸の高堤防が迫る所・春には見事な桜並木が田高交差点(A-COOPと大山病院の間からJR本黒田駅・黒田城・荘厳寺へと)から東へ向かう車道の、加古川に架かる新中橋(此処からも望めるが…)の西詰めに掛かる堤防付近まで続き、新しく道標が設置されている。R175号線の桜並木が始まる付近に”松ヶ瀬”名の居酒屋が在り、その東側堤防上に伝説地「松が瀬」の案内板が立つ。
新中橋西詰め(加古川右岸)の案内板<多田構居は橋の東詰め>

車道はガソリンスタンド・集合住宅(寮か?)と 隣の小公園に「子午線モニュメント」がある。堤防上から望む川幅も川筋も広く・流れも速く水深もありそう。江戸-明治初期までの加古川水運では此処・田高や直ぐ上流の船町は船座があり栄えた様だが浚渫され川筋も替わっているのかも!!。 伝説による往時の状況は推し量れないが対岸の藪間近には多田の城(多田構居・黒田城)が在る。黒田城塞群が続く天狗山への尾根筋が望まれ、其の天狗山山頂部に黒田城主郭?を置く 小苗前山山城が在る。官兵衛の母
比延山城(本郷氏の山城だが?山麓三の丸居館?の8代?比延常範(つねのり)の娘(於松・松の前)といい】 終焉地として其の名を遺した地名とされます。伝承地というより伝説地なので、何故増水した加古川を石原城の在る敵地側へ渡って逃れようとしたのか、 渡船では無理かと思えるが敵は何処を迂回して攻めてきたのか?、此処の案内板では加西郡(加西市)の中野間伊賀守(別所氏方で多可郡の野間山城[中野間城] 落城(天正3年・1575)後に城主となった様?)が地理不案内ながら夜間に急襲したことになっている。
松が瀬 (案内板)から上流:天狗山への尾根上に黒田城塞群が築かれていた?

黒田城の落城・播磨黒田氏滅亡は元亀3年(1572)-永禄年間(1558-70)とも? 石原城の石原掃部助と、明智丹波攻めには高見城最後の城主だった赤井新五郎忠家連合軍との戦いだ。官兵衛は姫路の小寺職隆の養子となって既に成人・伝説では未だ幼い城主として描かれているが、 通説であっても13-4歳なら元服の歳。黒田城は兄の治隆が9代目を継いでいる。辻褄の合わない事由を挙げていくと、官兵衛の黒田城出生説までアヤフヤ!!になってくるので伝説だけを…。年号はわからないが九月五日の夜、加西郡野間谷?の領主中野間伊賀守政広(別所氏一族か?、在田氏の野間山城 を落して城主になっている!!?)という人が、多可郡黒田村多田の城(多田構居・黒田城)を夜襲した。
松が瀬から下流の 前坂北山山城を望む

この時多田の城主はまだ幼く、時悪く ・城内に居る家来も少なく劣勢であったため、家老<某>が幼君を抱え、ご母堂の手をとって夜中に滝野川(旧佐治川・篠山川が合流して加古川となる山南町井原から闘竜灘までの間か?)を渉り、 姫山の城(姫路城)をめざして落ちてゆこうとしたが、増水で水勢強く流れるところで、ご母堂(於松・松の前)は 遂に流されて溺死し・そのところを「松が瀬」といいます。幼主は家老が守り、無事に姫山の城まで落ち延び成長したのが黒田官兵衛と云われ、 その頃の姫山城には小寺美濃守(職隆)殿が居城されていたと今もって云い伝わっています…【播磨国飾東郡妻鹿村御塔之記】(福岡県立図書館蔵)より…と官兵衛母子の別れを伝えます。
現地”松が瀬”の [北播磨黒田官兵衛生誕地の会・西脇市観光協会]案内板等を参照

大森山城  xxx Ca240m  丹波市山南町野田・黒田庄町小苗

JR福知山線谷川駅を出た2両編成のジーゼル車が篠山川沿いの山間の盆地を抜けて旧佐治川(加古川)の 合流地点に向かって走っています。妙見山と天狗山北方の山裾を走るJR加古川線が西から南に方向を変えるところは、同じく小野尻峠から石金山を経て至山で、その先端を落とす播磨境界が、 此処で旧佐治川(加古川)と篠山川が合流する地点です。
大森山城

東から妙見山の尾根・西からは 石金山からの尾根が寄り合って其の間に開かれた隙間に、北側を流れ寄った大河が加古川となって南下する、狭まった川幅が自然の木戸口になっています。現在とは比較にならないほど加古川河川が重要で密接に繋がっていた佐治川の名称が歴史的な 考察を無視するかのように消されて、加古川の呼び名に吸収された経緯は知りませんが?県下一の河川総延長を競う為とも思えないが !旧佐治川沿いに北上する山陰道・但馬道と加古川沿いに南下する東播磨道は京 ・摂津街道や山陽道へ繋がる要衝に位置しています。
妙見山北尾根の北端付近にある大森山城

至山城・大谷城番守寺城 そして大森山城もこの要衝の河川と 街道監視に当たった砦の一つでしょう。JR加古川線久下村駅舎を出ると南に高い煙突群を見せるパルプ工場があります。工場内へ入っていく”林道弓貫線”の表示は以前・妙見山から尾根を取り違えて 最後に下ってきたコースですが、目指すルートは県道294号を加古川線に沿って山裾を廻り込み工場敷地西端で黒田庄町側に入り、 小苗踏切を渡る手前から妙見山への尾根筋を辿ります。城砦遺構の何の特徴も見出せないまま、急な斜面を越えて現れた尾根途中のピークでもない平坦な台地(20u程)が”氷上郡教育委員会の遺跡分布地図”では大森山城 (砦跡)とされる。
大森山城域外の尾根上方で見かけた凹角は竪堀状?

そう云われてみれば南への尾根続きを除く三方が 切岸状の削平地のようです。 しかし此処は尾根の途中ですし20m程上方には尾根筋が土橋状で段差を持った少し広い平坦地があり更に365m峰山頂は黒田庄町小苗集落に枝尾根が延びている平坦地で 加古川流域の東播磨への眺望も効き、 物見の砦なら此処がより有効です。尾根筋には露岩・岩の塊が多く城砦遺構を感じさせる場所が有るのですが、 これ等は古墳の散石・残石の様です。大森山城の城史は勿論、曲輪遺構の確認さえ覚束ない状況なので、城域を外れた上部の尾根筋で見かけた竪堀状の凹角部を城遺構とは思えないが、伐採材木の運び出す為に使った”木ズラシ”の溝跡とも思えません。
天狗山(小苗前山山城)から大森山城遠望

小苗集落側に降る鞍部には古墳の石材というよりは、 城遺構で木戸跡とも思える石列が見られたが・・・町界尾根最下部だけが砦なら丹波側・久下氏等による河川と街道監視の城。更に365m峰から小苗へ降る鞍部付近にかけて点在する竪堀状や石列が城遺構なら、播磨側・黒田氏等の丹波側監視の城砦だったのかも?
(山南町遺跡分布地図 氷上郡教育委員会/黒田庄町遺跡分布地図 兵庫県黒田庄町教育委員会 参照)

小苗前山山城  天狗山 485m  西脇市黒田庄町小苗
V北谷川〜タワ(妙見山分岐)〜天狗山〜黒田城 山行レポート含む 2005.4.02

R175船町交差点から恵比寿神社前の橋を渡って県道294号で黒田庄町内を南下すると「黒田城址・荘厳寺」の 案内標識を見て東山麓へ向かう左手には、山稜の西面一帯に岩壁を廻らせた険しい山容の峰が見える。ハイカーに人気の白山〜妙見山コースが此の先 ・荘厳寺からも通じますが、其の白山の岩場を遥かに凌ぐスケールを岩稜に立てば実感出来ます。岩壁の上方のピーク天狗山だが、これ程までに高く険しく・遠い?要害の地にも山城遺構が残ります?。
町界分岐の西方の451m峰・衝立岩から天狗山

北方(山南町側)に大森山城が有り、妙見山に至る丹波・東播磨国境尾根から 分岐する尾根続きにあって、丹波側の佐治川・篠山川が合流して播磨側に流れ出る加古川と、川沿いに通じる播磨山陽・但馬山陰への街道の要衝を眼下に望んで水運と、 街道を監視出来る位置に有ります。
西方への尾根途中にも竪堀状の遺構や物見台には絶好の、円墳のマウンドや自然地形の平坦地が有って黒田城の主郭部ともされているようです。
タワから北へ ・町界尾根550m付近の石門


黒田城と伝えられる位置は清縄稲荷大明神が祀られてるが周囲を谷川と池・背後の山側を空堀で取囲まれた居館だったか?。 築城時期や城主・城史は不明ですが室町期・黒田氏の城としての”詰め城”として小字名を城山と呼ばれる位置に山城を・さらには西へ延びる急斜面の先が緩やかになる 346m峰からの尾根からも黒田城関連遺構があり、西尾根の最先端部には伝:黒田城がある。黒田城の出城としてか!!?、逃げの城最後の詰城として天狗山の山頂に小苗前山山城が築かれたものなのでしょう?。
西尾根西下方から天狗岩

【注】此の天狗山とは別に妙見山の東北側の山南町にも東山 (鍋倉城・太田城)の尾根続きにも同名の天狗山が有りいろいろWebでも紹介されている山ですが、標高僅か73m程で兵庫県の山からも選を漏れていて、知る人は勿論?訪ねる人さえ更に少ない山と思えます。其の黒田城址から荘厳寺へ向かう 北谷川沿いの車道は墓地の前と老人養護施設横を通る。老人ホームの側にも古い墓地への道を利用して直接・天狗山へ取り付けそうだったが、 黒田城への周回コースを考えていたので妙見山や山南町・常勝寺側へ越えるタワへのハイキング道を採ります。
展望岩から西尾根上の天狗岩と加古川を望む

奥山池から続く林道途中には「暮らしを支える森づくり事業」として兵庫県森と緑の公社が分収育林方式により長伐期(100年生)の森づくりが進められ、その契約地に記念碑が建てられている。 豊かさによって荒廃しつつある私たちの心に緑を育む事を願う「ひょうご豊かな森づくり構想」推進施策の一環として、手入れ不足等の為に土砂流出等の 恐れのある杉・ヒノキの人工林に対して…の説明板も近くに立ててある。
天狗山(4等三角点):小苗前山山城主郭?

林道終点に作業小屋があり三体仏が祀られ中央は薬師如来の様です。谷筋から尾根に向かう「やんげん」分岐から町界尾根の”タワ”も近い。
タワから先日大森山城へ辿った町界尾根です。石門の様な岩が立ち側から 緩やかな稜上を 西方に向かうが町界尾根の方が踏み跡薄くオフコースしそうです。451m峰付近に目立つ衝立岩が有り、此処まで来て西尾根に乗っていることが 判るほど見通しの無い雑木藪の下降が続き、此れから向かう天狗山の姿を望みます。
天狗山西下方の北斜面にある竪堀状遺構?

急斜で長い下降を想定したが直ぐ快適で緩やかな雑木の稜上は展望も良くなってくる。最後に小さな岩を越したら不整地ながら平坦なピークに着いた。此処が天狗山山頂(4等三角点 485m)でMTB登山・大柿氏のプレート<03.02.08(土)>があった。 このプレートを見て伝黒田城からの尾根伝い 347m峰に有った赤布や大森山城で見かけた赤布で大柿氏の辿ったルートが分かった。 しかし此処が小苗前山山城で有る事を、山城にも興味をお持ちの大垣氏はご存知だっただろうか?周囲を探索してみるが顕著な遺構の確認は浅学の私には無理の様で良く判らない。
天狗山西尾根312m峰:円形マウンドの黒田城見張り櫓台遺構?

真北の小苗集落側へ降る尾根筋には平坦地ではないが石が多くて 小曲輪の段差や石列らしいと思える場所も有る。 西へ続く広い尾根の段差も曲輪といわれれば、そのように感じる程度。急斜な北・小苗側に竪堀らしいものもあるが、良く判らないまま466m峰端の展望岩場に出る。 此処が最も砦の見張り所らしい場所にお思える。西稜へは幾つかの露岩を経て大岩壁を見せる天狗岩が加古川を睥睨するかのように山裾から一気に起立しています。
黒田城関連?主郭Ca250mと最高地点出曲輪間にある竪堀状遺構?

西正面には川と対峙して大木山から黒田城を攻めた 石原城や城史不明だが和田氏(石原氏)か同族の上大伏山城や丹波側の播磨口近くの諸城 (岩尾城・番守寺山砦、岩屋城・久下城等々)や丹波国境の佐治川 ・篠山川合流地点の重要な街道の要衝が監視出来る場所。此処より天狗岩へは岩横の急斜面を 捲き要注意です。 誤って南側へ降ると断崖絶壁で危険・勿論踏み跡も無い筈ですが…岩壁沿いに延びる北尾根には 急斜面に踏み跡が続く。この尾根筋にも竪堀や城遺構としてのテラスが残るようですが気付かなかった。
展望岩と天狗岩中間付近から加古川合流点と至山(左)

段々山裾に近付く程に傾斜も緩くなるが踏み跡も薄くなり、造林作業路(段山線)に出て 道なりに分岐を右方向に進むとJR加古川(谷川)線の船町駅へ、左へは其の加古川線踏切り(県道294号)の作業路進入口に出て一路・スタート地点の戻ることになります。しかし峭立する岩壁の稜上から南側の伝黒田城へ 向う為に岩壁基部へ降れる踏み跡は無く、 大垣氏の赤布が有った展望岩まで引き返し雑木藪の斜面を下降する。346m峰の頂部は約8uの円墳 ?らしい 平坦なマウンドですが天狗岩の峻険な西壁を望む位置は、 小苗前山山城との通信・連絡所としても適地で砦跡らしく感じます。251m付近の小広い平坦地の降りてきた。
黒田城中央郭(城山は15年後<H26年>に整備された)

前回・黒田城訪城の時此処まで登ってきたところですが、 以前より下草が繁茂し遺構が判る状態ではありませんが、此処を於いて城跡と云える状態の場所はない?。黒田庄町の遺跡分布地図では此の付近に 3段ばかりの曲輪が確認された黒田城の主郭部とされる所です。 後はCa125m程の黒田城に比定されている稲荷神社を祀る西尾根末端部まで 遺構らしいものはなさそうです。尾根は南側の中池から稲荷社側まで林道が延びており、其の林道脇へ降りてくると黒田城北東の尾根側から西の谷山池にかけて山裾を空掘状の溝が続いています。
天狗山西尾根・345m峰の曲輪状遺構から望む西壁

黒田城自体が地元の伝承によるものとされているだけにレポートに写真を添付したが土塁 ・曲輪等遺構の確認は一切明記されてはいません。土豪黒田重勝が築き、加古川を挟んで対峙する石原城の石原掃部助や丹波高見城主・赤井忠家と戦ったというが!、また小寺美濃守職隆の養子となった小寺(黒田官兵衛)孝高の育ったホントの 黒田城や居城は何処に有ったのかな?。黒田城は何処までが史実か?伝承か?もっと調べてみる必要がありそうです・・・!!
(黒田庄町遺跡分布地図 兵庫県黒田庄町教育委員会 を参照)


前坂北山山城  前坂北山(点名:黒田村) 230m   西脇市黒田庄町黒田・南・前坂
W 黒田中学校〜坂下池〜点名 :黒田村(前坂北山山城)〜中央橋東詰 山行レポート含む 2005.4.16

加古川に沿ってR175号を南下して黒田庄町に入ると先日登った天狗山小苗前山山城の岩場が見えてきます。その先で中町方面への分岐交差点・中央橋を東に採って加古川を渡ります。妙見山〜白山〜397m峰へと西南の延びる丘陵は途中で北西への尾根を分岐させて更に延びの枝尾根は末端部に前坂の配水施設が建ち、 一気に中央橋に向かって県道294号へ落ち込んでいます。
本黒田駅北の踏切りから点名:黒田村(230m)

前坂集落の北方に位置する最高所の峰・点名黒田村 3等三角点 230mから、末端の配水所上部の緩やかな稜上付近にかけてを城域とする。城名も城史も未だ不明?の前坂北山山城があります。 北東方の約1.2kmに黒田が有り、西方には加古川に架かる中央橋を挟んで約2kmで対峙する 石原城が有り黒田城を攻め城主を討死させた敵城です。前坂北山山城は其の石原氏の城館や山城を正面に監視出来て、
点名:黒田村(230m)・露岩帯の続く東尾根上部

黒田城の南口と西口を守備する位置にもあたり白山〜妙見山や荘厳寺を廻る山岳信仰の巡礼道や、谷筋を詰めれば妙見の尾根を越えて丹波・山南町へ通じる間道もあります。これ等の通行監視や西脇市境界の津万井・岡付近をも見渡せるので南に 2〜3kmにある喜多村構居の上月氏や、福地地区にある蟲生城主・村上氏と黒田氏等、隣接した領主の相関関係が友好的なものだったとは思うが…?、 これ等・加古川流域の東岸周辺領主との 通信用の狼煙台・見張台となったのかも。
点名:黒田村(230m)北にある平坦地

城域への取付を北側の南地区からと考えJR加古川線本黒田駅に近い黒田中学校から南谷川沿いに東へ向かう車道から天狗山〜妙見山〜白山を正面に 瀧尾神社へ続く遊歩道を進む前方には弐の鳥居”が見えています。
鳥居前から南の山手に向う坂下池と殿山池への道を辿ります。当初は前坂地区にある配水施設の長く急な階段道を利用できれば簡単ですが、立入り禁止のフエンスが有りそうで?途中で引き返すくらいなら三角点峰を一座稼いで
前坂の配水設備上部にある堀切状の遺構?

南地区の坂下池から前坂地区へ通じる峠を利用して尾根を半縦走してみるのも 良さそうだと考えます。峠越えの山道は良く利用されている道のようで、前坂側には小堂が建ち地蔵尊が祀られ車でも来れそうな簡易舗装道です。雑木の尾根筋には踏み跡有り、左程の藪もなく三角点峰:黒田村(230m)も近くなると岩稜に変わり左右・後方200℃に展望が広がります。荘園時代の庄名を残す黒田庄の田園風景や蒼く静かな加古川の流れは、領地をめぐる荘園主や領主・領民の古の息吹を何一つ感じさせる事もなく平々と長閑な拡がりを見せ、対岸には至山城や石原城館・近在には蟲生城・黒田城・桂松山城・城山城・伊勢山城・小苗前山山城・友尾山城等も在る。
前坂の配水設備と点名:黒田村(前坂北山山城)

山頂部で岩稜も藪に変わると自然地形だが平坦な場所も有る。尾根筋以外は特に東と北側が 結構急斜面で何も無さそう?西の尾根続きを下り続けて 緩斜面に降りた所は平坦な鞍部といえば鞍部 ?といえる部分に浅い堀切状を見かける。 尾根上の西端部に2段ばかり平坦地が有り、南面は山の斜面を広く削り落として削平された所に配水池施設が建つ。 前坂集落下方に続く踏み跡が有り、 初めっから此処より取付けば良かったのかも!?また城遺構も 此処が主郭かと思える。北の駐車地点に戻るのに前坂へ降るには反対方向なので、西への尾根筋を採るが車道も真下すぎて 見えないほどの急斜面になる。
点名:黒田村から大木山(左奥)・大犬伏山城(中央)・幡上(右)

目前が中央橋への 分岐交差点だが付近は車道(県道294号)山側をコンクリート吹付けの断崖になっており簡単に飛び降りるわけにもいかず、車道に沿って急斜な上部の藪中をトラバースしながら下降点を見つけて車道に降り立ち南谷川沿いに黒井中学校脇に戻った。
(黒田庄町遺跡分布地図 兵庫県黒田庄町教育委員会 を参照)





首切地蔵尊      丹波市山南町谷川

やまなみホール・市役所山南支所からは、丹波地方で此処だけに遺る節分会鬼こそで知られる常勝寺山門前に出て、山田川沿いに首無地蔵尊に向う車道を進みます。足利尊氏が都を追われ二度も 丹波に逃れたのも大山城の中沢氏・「一番」旗で知られた玉巻城の久下氏を頼っての事。最盛力期:観応1年(1350)から僅か2年余りだが丹波守護代にもなった久下氏ですが、
首切り地蔵尊

明智光秀による「丹波攻め」により天正7年玉巻城に籠城して明智方援軍として播磨から侵攻した秀吉軍により落城します。 勝算既に無く討死覚悟とはいえ「唯一つ・心残りは高倉明神の事…」玉巻城主久下重治が帰依し遺言に残した高座神社(久下氏居館のあった金屋地区から現在地に移されたが)を過ぎると谷沿いの細い林道然となり田畑との境に石積の猪垣が続く。
首切り地蔵尊への道沿いに猪垣(猪避けの石垣)が続く

地蔵の森の雑木・灌木が紅・黄に染まり始め、ススキの銀の穂が揺れ、澄んだ青空に高山へ続く稜線が見えてくる。其の登山口からは直ぐ首切地蔵尊前の茶屋・駐車場に着く。最近は付近一帯森に棲むヒメボタルの観賞地となっています。首切り地蔵尊から進む地蔵の森の林道は古くは 「大坂道」とよばれておりテンロク〜妙見山(西脇市)と高山への尾根を越える大呂坂に向います。この大呂坂を越えれば西脇市黒田庄町へ下り播磨・山陽道へ、山南町阿草へ下って平安時代:延喜式山陰道を篠山〜摂津へ向う間道が通じていました。首切地蔵尊(自然石の立石)は首から上の願い事が叶うとされており、ぼけ封じ・病気平癒や特に受験シーズンになると入試合格の祈願に多くの参拝者が訪れ源平合戦の平家落人伝説が残されています。平安時代末期:寿永2年(1183)倶利伽羅峠に平家軍を壊滅させた木曽義仲が京都へ進軍してきたため、平家一門は六波羅を焼き公卿やお姫様達は、昨日までの栄華も夢破れ娑婆の無情を感じつゝ人目を恐れながら京を落ち丹波路を此処まで逃がれてきたが、落ち人狩りに捕らえられ、 山田川の奥山深い 此の地の首切沢で処刑され、
首切り地蔵尊

敢え無く悲運の最期を遂げました。世の果敢なさを嘆き哀れに思った里人たちが、自然石の碑を建て野の花を手向け、 茶湯を供えて後生を弔ったことが始まりと云われ、 いつの頃からか首切地蔵尊と呼ばれ今に伝えられています。
(首切地蔵尊 案内板・パンフレットより抜粋)

地蔵尊上の広場に延命水(水質検査済)取水場がある

●H19年:第一回丹波市検定の問題に 「首切り地蔵尊は何体祀られているでしょう」との問題があった。丹波谷川 山中に鎮まり坐ます六ッ石は 名付けて首切り地蔵尊「首切地蔵尊奉賛歌」にあるように自然石の六体の立石が対象と思われるがその中に一体石造地蔵尊が祀られる。 駐車場から参道に入って直ぐにも祠に納まる自然石の石仏もある。 果たして正解は6体なのかな?。 元々は3体だったが昭和46年頃に 地中に埋もれていたという三体?を安置したといわれます。
地蔵令水として新しく施設された取水場(検査証は往時にもの?)

自然石を地蔵尊の象徴として崇敬し辛いためか、目に見える形で一体の地蔵尊像が置かれたものか?。首切り地蔵尊としての対象は6体・祀られているには7体。問題の主旨を素直に捉えて7体とするのか、 本来の伝承による6体を正解とするのか…皆さんの回答はどうですか?六道輪廻の思想に基づく六地蔵として祀られたものかは?周辺に墓地も無く、新仏の一体が加えられる7体とは考え難いのですが…?主催側に主旨を確認することは出来ません!!。

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