点名:上比延 /蟲生城・蟲生城館・蟲生新城館 婆岩〜点名:西山の北〜比延山
播磨・西脇市(篠山・三田)
T福谷〜三角点山 )〜日時計の丘公園 2002年07月06日

U婆岩〜点名:西山の北〜比延山〜しら坂トンネル 〃 
V桂松山<桂松山城>〜三角山  2004年10月07日
兵主神社から三角点山

近畿の山城:蟲生城(福地城) 蟲生城館と蟲生城新館
  
桂松山城  極楽寺構居 喜多村構居
歴史遺物 十三重の石塔

県道36号に入り西脇日本のヘソ公園分岐を左折、黒田庄へ向かうと岡の集落手前からは右手に形のよい富士型の山が見える。 地元では三角点で通っているのか登山口からの案内板は全てsankakuten・三角点で山名標示が無い?三角点山。私の郷里で「方見塔」と呼んでいた山が同じ三角点の山。山名が三角点では余りに素っ気ない。愛宕山の名もあるが通名ではなく 「三角点山」として登山口の福谷公園に向かう。



T 福谷公園〜三角点山(点名:上比延)〜日時計の岡公園
  H14.07.06

山裾に拡がる広い墓地とゲートボール場の側に駐車スペースが有り、周辺のサイクリングや散策の案内板 が立つ。その横からの林道が福谷公園に続いています。「水上バイク乗り入れ禁止・つり禁止」の福谷池畔に突き出して弁天社を祀る小さな島の間に 築山の様な円墳の墳丘が二つ見えます。
岡福谷古墳

岡福谷池古墳群で周辺にも 破壊されているようですが何基か点在している様です?。公園入口池側に石材も無く破壊された墳丘は池畔の古墳を崩して池の水を廻して先端部を弁天社として残したか築かれているようです。その隣に並び古墳群では唯一完存の古墳は、封土を残して南に石室を開口しています。全長約6m程・石室長は約4m程の無袖式横穴式石室で 石室内部の様子が覗見られます。
岡福谷古墳:石室内部

正面の舗装車道は稲荷社まで延び、右折直ぐのところに寄進された 赤い鳥居が並び石段の参道が続き 入口の左右に駐車スペース(AM7:40)があります。トイレ・案内板完備ですが全て目的地の山頂標示が三角点です。 以前(H11.8.16)はこの石段を登って稲荷神社の社殿左手から続く愛宕コース道をとり中腹にある愛宕社を祀る祠や稜上の岩場には 石積みの石室に木造りの像が納められています。稲荷はキツネ、愛宕なら火伏のお札なので役行者像と思われます。
福谷公園・愛宕稲荷神社参道の鳥居

倒れていた像を 再セットして山頂に立った。今回・社殿の右側に道標のある広い道が続いてているようです。左右では大きくコースを分けているようですが何処かで 合流するのでしょうか?。先述したように左手・案内標の無い方!!?屋根のある休憩所が 愛宕コースなのでしょう!!。神社に続く林道途中からの踏み跡から登りこの道に合流したと思うが 急な登り一辺倒のコースだったと記憶しています。
三角山山頂(2等三角点・点名:上比延) H16.10.07

スタートから雨模様のなか・林道直進2〜3分で分岐を右に 橋を渡った所が南福谷(柱松はだまつ)コース登山口です。入口から南へ僅かに登ると東に向う稜線伝いに緩やかな登りが続き主尾根に出ると一気に播磨平野の展望が拡がってきます。南面〜東面の山々が青空さえ覗きはじめた キャンバスに墨絵の世界を展開し、北方に向きを変え山頂まで600m手前付近からは露岩が目立ち ・展望と相俟って実に快適な尾根歩きが楽しめ、ポールに結んだ白布が見えると三角点山(点名:上比延2等三角点 457m AM8:30)で三角点標石と腰掛岩と登頂記念ノートを入れたお社の収納箱が置いてあります。
福谷池と三角点山


360度展望良好の期待は周囲の雑木が繁茂しているので 腰掛岩に立てば眺望は得られます。ここから前回・登ってきた稲荷神社へ下る分岐点を見過ごして気付かなかったが、もともと下降ルートは 東に向う境界尾根を鞍部に下って「東はりま日時計の丘公園」のキャンプ場へと決めています。目的のひとつが公園上部の大地池です。
JA物産館!!大笹新田からの三角点山

右下方に記念池が見えてくる。西脇ゴルフ場から記念池を経て 尾根伝いに419mピークに向うように相当奥まで林道が延びているようです!!また一つ公園〜鞍部〜点名:中畑〜点名 :焼大谷を結ぶ新たな周回コースが 出来そうです。東へ境界尾根沿いに下って最低鞍部219m手前で初めて、最近赤からショッキングピンクの布に衣替えの大柿布を発見・鞍部から杉原山(598m)へと向う東へのルートへ少し登り返したところにも少し長めのピンク布が風に靡いていたが、どちらも鞍部(AM8:50)からは確認出来ません。
桂松山山頂から:右手に福谷池・左手中付近に兵主神社と虎丘の城山城

右下への林道然とした 広い道は薄暗く急な坂道だが直ぐ明るく開けた「東はりま日時計の丘公園」に出る(AM9:00)。公園内の最奥はオートキャンプ場になっていて猪垣を開閉して中に入るがその前に猪鹿避フエンス横の小さな池を一回りしてみます。トキソウ・カキラン ・サギソウ・XXXと目的の山野草の自生地ですが探してもいっこうに見当たりません。それどころか池周辺はササ藪に侵食されかかっている様ですが、 池はギフチョウの森として管理されているようです。
「東はりま日時計の丘公園」から三角点山


東はりま日時計の丘公園のテーマは時・明治19年日本標準時が制定され基準となった東経135度(子午線)が黒田庄町のほぼ中央を通っており普段の慌しい生活を忘れ、 ゆっくり寛いでいただけるようにと計画されたもので、園内には5つの日時計が設置されています。「ときめきらんど」の別名があるようだが、 メインはオートキャンプ場で日帰り利用やロッジもあり用具や食材も全て管理棟で用意出来る。開設当時は周辺散策に自転車も準備されていました。バーベキューサイトは別に公園入口直ぐの所にあります。
カキランを見つけました

公園を出た三叉路を右へは門柳側に沿って 白山・妙見山やコブ岩から 杉原山や門柳山への登山口に続きます。左折して集落内の道を福谷公園に戻る前に、もう一箇所寄ってみたいところが有るので直進するとJA黒田庄の黒田庄牛肉等地場産PR館やフォルクスガーデン黒田庄があるが 此処から秋谷コースで白山を目指す長い登山ルートがある。登山口手前には秋谷池と庵谷池があり周辺はアカマツ林に囲まれた「緑と水の郷・ 秋谷」として公園整備されています。二つの池を周回散策して「清流の道」の林を抜け・ふれあい橋(フォルクスガーデン入口)に戻ってきます。


Uしら坂トンネル〜婆岩〜点名:西山の北334m)〜比延山
 H14.07.06

比延谷川に沿って県道566号線をしら坂トンネルに向かって走ります。 二つのゴルフ場に挟まれるように続く小さな郡界に続く尾根の西端に比延山があり北側のゴールデンバレー側(北池)付近からと目星を付けていたが私有地で奥まで入っては行けず尾根まで明確なルートのあるコースを選ぶ。しら坂トンネル真上にある奇岩・婆々岩から比延山へ逆走してみようとトンネル西の駐車場(4〜5台)に車を入れます(AM11:30)。 運転していると気付かないかも知れませんがトンネル手前から稜上に突き出た露岩が確認出来ますよ。
しら坂トンネル西側にある登山口

トンネル西口に婆岩への登山標識と案内文に「登山道急峻につき急がぬ方は地蔵尊像が立つ旧道のシザ坂(しら坂)峠(旧里道)ハイキングコースを御利用下さい」とある。のっけから激急登りで殆ど稜線まで 太いロープが続くが、稜上に到達も早く婆々岩には15分程で着く。しら坂周辺の山は羊歯が多く山道を塞ぎ足元も見えないほどに繁茂している。此のシダがシラに転じて成ったものか・婆々岩(入道岩)の突き出た岩柱の柱から転じて シラとなったとも考えられます。シダ坂峠はしら坂トンネルからだいぶ離れた南東の尾根を越えて上鴨川に抜けるが、旧京街道は上鴨川から御所谷を三草川に沿って社へ抜け、源義経も篠山〜古市を経て三草山へ向っています。しかしシダ坂はゴルフ場専用道路と思っていた林道に県道566号線が通じ ?比延谷川沿いの道を西脇に抜け清水寺への遍路道として、 京都・奈良・但馬に向かう街道としても利用されたと思われます。 婆々岩の由来:西脇市との市境尾根に位置する奇岩を加東市社町では入道岩・西脇市側では婆々岩と呼んで由来を伝えます。 道路開通記念の小公園!!から登山口に向う途中に「婆婆岩由来」を書いた案内板が立ち、しら坂トンネル上には高さ 5.5m、周囲6mの巨岩柱が約20度鴨川寄りに傾いて、しかも根元が細くなった不安定な状態で起立して、御所谷の婆婆岩と呼ばれています。 写真のとおり尾根は露岩の続く稜線だが際立って目立つ岩は他に見当たりません。先ほど寄ってきた三角山の先に門柳川を遡ったところにコブ岩があって、これも緩やかな草地の中に忽然と現れる奇岩です。 際限なく働き続けるお百姓さんにとって日を限った休暇は必要です。田植えが終わったあとの「さなぼり」とか半夏生等様々な季節の行事や、 しきたりで一斉に休みを取る日があります。昔から 5月8日(花の日・お釈迦様の誕生日)は山に入ってはいけないと云う。ある時若者が元気に任せて 親や村の古老の制止を振り切って 御所谷に入りました。暫らくすると一天、俄かにかき曇り一陣の風とともに山々の木々が激しく揺れ動きます。
「西山の北」を過ぎてから姿を現わす比延山

若者がふと山上を見ると、 大きなお婆婆が髪振り乱し袖をひるがえして「こっちへ来い、こっちへ来い」と手招きしながら躍り狂っています。それは巨岩の周りの木々が強風で激しく揺れ動いているだけだったが若者の眼には婆婆が躍っているように映ったのでしょう。 若者は、ほうほうの体で村へ逃げ帰り三日三晩熱にうなされ「おババが来た、婆婆が踊っとる!!」と譫言を言ったといいます。それからは花の日には誰一人として山に行かなくなったということです。
婆々岩からの眺望が急登の疲れを 吹き飛ばしてくれる。西のゴルフ場奥に連なる形の良い山々が数曾寺山塊。 特に最高所459m峰(372号線側に馬背集落があるが山名不明)が他山を圧して存在感を示しています。南へ眼を移していくと点名:西山があり、 その西山の北に位置するからでしょうか、これから向う縦走路には「点名:西山の北」があります。 東面には清水山と和田寺山が緩やかな、それでいて大きな山容を見せています。婆婆岩(入道岩)からシザ坂(しら坂)峠へ降っていく東への尾根 も ・此れから西へ向う比延山への尾根筋も、露岩が続き目前に大きな岩の展望ピークも期待でき ワクワクするような山道です。数曾寺山塊!!のうねるような山並が東西に大きく拡がってシザ坂峠から婆々岩を経て此処・西山の北へと繋がっている。
しら坂トンネル真上にある婆々岩(入道岩)

西脇市と社町の市境界はプラ標柱も続き尾根筋は明確だが露岩のピークを過ぎるとまた、静かな潅木に囲まれた稜線に変わり婆婆岩から20分程で点名: 西山の北(4等三角点 334m PM12:00)に着く。潅木に囲まれた山頂だが 東北面には 西光寺山の山容か大きく迫ってきます。滅多と登山者を見ない山にしてはゴミ・空缶が目立つ。三角点標横を西へ直進すると、案に反して此方にも明確な道が続くが 334mピーク西南端からは露岩沿いをゴルフ場へ降ってしまいそう。しかもシダや雑木に道が覆われ歩き難くなってくるが比延山は未だ遥かに遠い。しかし秀麗なその姿を望めば暑さも苦労も吹っ飛ぶ。鞍部からの尾根筋はダラダラと続く雑木藪とシダの繁った道を、 いくつかの小ピークを越えながら進みます。大きな猪のヌタ場を過ぎる。周辺には泥だらけの身体を擦りつけた痕跡が残る白い木の幹が並び続きます。高低差がない分、踏み跡が無ければ迷いやすいところです。幸い道は明瞭!!だが素直に踏み跡を辿れないのが 今の時期で藪・蜘蛛の巣・倒木が・素晴らしい山容の比延山(3等三角点 365m PM1:00)も山頂は 展望の効かない雑木藪の中。少し西へ出ると露岩・砂地の空間が開けてGoldenValleyゴルフ場が一望できます。
ゴルフ場を数曾寺山塊が取り巻いて…

ゴルフ場南には 此処周辺の山では最高峰459mを冠した(数曾寺山塊)の山々が連綿とゴルフ場を取り巻いています。尾根筋に沿って西へ下り始めると急に明瞭だった道も踏み跡が怪しくなり、 ついには立ち消えてしまいます。比延山への稜線を挟むようにGolden ValleyとPineLake二つのゴルフ場があって北側のゴルフ場側にある「北池」にルートを選びましたが藪漕ぎなら急斜だが県道566号線へ駆け下った方が良かったかも…。 Pine Lakeゴルフ場へ向う手前の変な ?芝生広っぱへ降り立った。産業廃棄物の埋立て処理場のようなところで、雨でもっとヌカルンでいると大変なところ!!。二つのゴルフ場を分ける県道566号線へ出てきます(PM1:25)。分岐の横には草野球が出来るほどの グランドがあるところです。少々暑いが車道歩きで、しら坂トンネル手前まで戻ることになりますが台風の影響からか風が舗装道路の照り返し等、暑さから救ってくれるが生憎と登り坂に向かい風です。



 蟲生城 蟲生城館と蟲生城新館  桂松山城極楽寺構居喜多村構居

蟲生城(福地城) 城山(稲荷山) 153m  西脇市黒田庄町福地

福地集落の北側へ延びてきた短い丘陵の尾根の先端付近の峰に 蟲生城(むしお)が有りました。津万井の畑瀬橋を渡って道なりに進んで加古川線を越え南下すると、双子のような小さな峰が並んで見えるが右端の丘陵を目指します。 福地集落内からの取付きがわからず、山沿いを南北に流れる西面の谷川側に赤い鳥居が見える所から雑木藪の間に細いが明確な参道が続くが、
蟲生城の稲荷社


滑り易い苔生した岩盤の坂道となる。右手からの集落中央付近からの参道と合流しても、 なを岩盤の道だが直ぐに丘陵西端の山頂部に有る 「正一位稲荷大明神」に着く。比高70m程の急峻でもない丘陵だが 加古川の本流を眼下にし黒田荘(多可郡) ・比延荘(西脇市東部)・富田荘(西脇市北部)の各境界に位置しています。
蟲生城帯曲輪と主郭の切岸

しかし展望は境内から西脇市街地 (童子山付近)を垣間見る程度です。主郭全体が土塁で囲まれていた可能性があった様ですが、 稲荷社が建っていて改変されたのかも分かりません。当初は稲荷社の建つ台地の一段下の削平地東端部がL字形で藪の中に延びて、
帯曲輪から主郭へ入る土塁虎口

祠の東で上段に上がる様なので、北角に「折れ」の構造を持つ蟲生城の城域説明に此処・稲荷社が城の本郭と思い込み、藪と蜘蛛の巣だらけの 尾根先まで探索せず引返したが間違いだったよう。稲稲荷社の建つ位置は蟲生城の城域に含まれていないようですが、福地集落からの大手道にあたり 大手門や城戸口・出曲輪としても機能したと思えます?。
主郭に入る上り土塁虎口(主郭西北角から)

稲荷社の祠から更に東へ延びる潅木の尾根筋を辿れば、直ぐに堀切状の段差を抜けて2段程の曲輪から2〜3mの切岸を越えると最上部の広い主郭に着く。 尾根続きには三角点(2等三角点・点名:上比延 457m)へも足を延ばせるが、本郭から斜面を下降していく其の東北端部には低土塁の高まりが残欠している。四方を 土塁で囲んだ単郭の城だったのでしょうか。
主郭北東端の切岸

一段下部は西に尾根筋から南面を東北の尾根にかけて帯曲輪が捲く。更に北から西へと 主郭を鉢巻状に捲いている帯曲輪のようだが、 下草と雑木藪に閉ざされ良く判らない。縄張り図を見るかぎりでは北角に「折れ 」の構造を持ち南側に平入虎口があり、東西に鉢巻状に二つの帯曲輪があって 西の曲輪は土塁付きで堀切とあわせて、空掘りに近い構造をとっているといいます。
主郭北東端の土塁から帯曲輪

堀切の西約30mと東の帯曲輪の約25m先を其々に堀切って城域を区画して天正年間(1573-92)の城主・村上広直が蟲生新城館の詰め城ともした遺構なのでしょうか?稲荷社部分を西郭・尾根を辿った東端ピークに主郭をもつ。村上霜台(xx?村上氏の祖)が室町時代中期・応永年間(1394-1428)九条家から黒田荘内に采地【官職に付いている者が与えられる領地】を与えられて下国し播磨守護職・赤松氏の被官となっており、 応永26年(1419)村上盛弘が黒田荘を20貫文で九条家から代官請けしています。
主郭北から東端へ廻す低土塁


村上氏は嘉吉の乱(1441)で没落したと思われ長録2年(1457)赤松家再興を期しての吉野に討入りした長録の変に赤松浪人の一人として村上源三郎 河高構居の河高治部少輔・又三郎や金鑵城中村小四郎助直等と名を連ねています。 村上氏は其の後も蟲生城に居た様ですが、山陰の尼子勢(山中鹿之助等)が播磨に侵攻してきた際<大永7年(1527)8月?>の合戦場となったか?此の時落城して村上(源)政治は討死したとされます。
稲荷社間の堀切と竪土塁

天正年間(1573-92)には遺児村上源太広直・直行が継ぎ天正7年(1579)三木城攻めは再起を図り秀吉方に付き従軍するにあたり、黒田庄町岡の若宮神社 ・喜多の八幡宮等三社を勧進建立し戦勝祈願している様!!。広直は負傷し帰陣しており、直行が岡の福谷山極楽寺を開創し村上氏の菩提寺としている。
(播磨・水尾城跡の調査と研究 西脇市教育委員会発行 を参照)


蟲生城館と蟲生城新館
蟲生城館   xxx Ca85m  西脇市黒田庄町福地
蟲生城新館 xx Ca100m  西脇市黒田庄町福地・奥

赤松氏の旧臣:村上氏は嘉吉の乱(1441)に没落した赤松家再興の為・康正2年(1456)吉野に討入りした 赤松浪人の一人:村上源三郎が名を連ねていますが、赤松家再興後は新赤松家の新体制下で別所氏が勢力を持ち台頭し、旧臣との確執が生じていた様。 天正の織田信長”播磨攻略”の三木城攻めでは秀吉方について従軍しているので天正年間(1573-92)蟲生城主となった村上源太広直が三木城:別所氏の攻撃に対し蟲生城館から更に防備強化体制の必要性から蟲生城新館を築き移ったものか?。
蟲生城館を廻る土塁と空掘・横濠・南正面は川で仕切られる

谷筋対岸の林中に橋を渡って入ると2.5m程?の深い溝谷が流れ、内側に不整地な平坦地が拡がって土塁状の盛り上がりが見え、深い溝谷は空掘 !!?・ 池か井戸跡かと思える箇所もある。 中央部付近には墓所が点在。山側は東側から南面を西北側へとグルリと取巻くように高さ ・幅共に1m程の土塁溝が廻っています。水は流れていないが此れは近世の灌漑用疎水構だったのでしょうか。
蟲生城館の深い横濠(手前)と土塁・内部の削平段

城館西端が稲荷社への参道になっており蟲生城館とされる一帯は 山側の配水溝が走る土塁状の高みから観察してみるが城郭遺構と思える明確なものは判らなかった。蟲生城館と蟲生城新館の築城時期や城史は不明だが 蟲生城館は応永年間(1394-1428)九条家から黒田荘内に采地を与えられ、福地集落の東の谷山麓に播磨守護赤松氏の被官・村上氏が蟲生城館を築き・其の背後の蟲生城を詰め城とした山城と居館セットで、城史と相対して変遷してきた城館遺構の様です。
蟲生城館背後と蟲生城の南裾を巡る空掘(灌漑用疎水溝か?)

三角点山への登山口は福谷公園の愛宕稲荷からの 愛宕コースや南福谷から桂松山城の側を抜ける尾根コースがガイドブックにも記され知られたルートだが、 福地集落の御霊神社・鳥居の側から取付く整備された尾根コースはR175号からも望めるジグザク道は展望も良さそうです。
蟲生城館背後の空掘(灌漑用疎水?)は東端で深い横堀に合流する

蟲生城が「詰め城」なら登城ルートは北の蟲生城館を抜け、大手と思える稲荷社参道を通るか、其の蟲生城館の濠ともなる谷を詰めるかで、蟲生城新館の背後は三角山への尾根道?です。
蟲生三城【蟲生城(福地城)・其の居館:蟲生城館・蟲生城館を更に強固な館城にと築城された?蟲生城新館】を効率的に廻るには 先ず御霊神社から蟲生城新館から蟲生城館に向かい、此処から稲荷社(蟲生城の西郭)への参道を上り、堀切を経て蟲生城主郭へ尾根を辿るのが良いでしょう。
蟲生城館の深い横堀・土塁と内部の曲輪

蟲生城館:福地集落内の道は幅狭く・谷川を挟んで複雑に入り組んでいるので福地公民館【当初: 日本へそ公園や上比延方面へのバイパス道路が工事中で、御霊神社への集落入口前300m程の道が長期間通行禁止の為、加古川線沿いを迂回していた為】からJR加古川線踏切を越えて福地集落入口の谷川を渡ります。左手北方の低丘陵上に蟲生城があるが集落内の歩道幅の狭い道・民家の間を抜けて行くので、初めてだと取付き点は判りにくい。先ずは蟲生城新館から蟲生城館に廻わり・そのまま西端から稲荷社への参道を蟲生城へと探索します。
蟲生城館:土塁と深い横掘

直進気味に狭い集落内を進むと薬師寺と谷田池の間の道に出るが 御霊神社で行き止まり?。鳥居の前が三角点山(点名:上比延 457m)への整備された登山口です。御霊神社近くには蟲生城新館が在り、更に西隣には蟲生城館が・其処から福地稲荷社への参道を登れば、稲荷社をも城域の取込んだ蟲生城が在り、 居館と詰めの山城をセットとした中世の城遺構を観る事が出来ます。

蟲生城新館:多可郡中町の 段垣内中村構居、加美町には 門村構居の空掘・土塁囲みの曲輪遺構を遺す城館があるが、加古川流域の黒田庄町や西脇市界隈に此れ程の遺構を残す城館を未だ知らない。 稜線に出ると福谷公園や桂松山城からのハイキングコースと合流し、稜上からは蟲生城や城館の位置、西脇市の鳴尾山城等も望めます。
蟲生新城館西:空掘北端に仕切り土塁が有る!!箱堀状

御霊神社左手の山道はやがて谷に沿って延びて行くだけだが…山道左側の谷を自然の濠とした蟲生城新館が在り、 城域の尾根筋を分けた二股の谷に挟まれているようで左(北)側も深い谷筋に護られています。城域の東端に主郭が有り、末端部の少し高みに櫓台・土塁と堀切(高さ約3m)がある。福地地区から城域へ入ってくる 南方の緩斜面には高い大土塁虎口が有り、外側に水濠を廻し土橋で城内を繋ぎ、濠端は土堤で両サイドとも其の先は城域を挟む谷への急斜面となって 新城館四方の防備を堅固にしています。
蟲生新城館東:櫓台土塁・堀切の尾根続き左右の空堀は治水(排水)用側溝か?

御霊神社背後からの山道の左手(北側)谷向かいに潅木の林が拡がっている。山道は北の尾根に延びるが東端の大堀切外にも空掘状が廻る。藪に埋もれ下方は窺えないが 尾根近くでは石積の護岸工事らしい跡もみられ、また此処までの右手・御霊神社側にも道からは 窺えないが深く大きな空堀状と、同様に高く深く長い空掘状の谷が隠れている。
土橋から蟲生新城館の空掘

緩やかな扇状地形の中だけに作為なのか自然地形か迷う。一文字の土橋付き水壕を渡ると土塁が開く虎口を抜け、土塁囲みの曲輪内からは 更に上り土塁虎口を上段の曲輪に入る。此の辺りの方形掘・土塁曲輪形状は近在の同時期城址には無い織豊系の影響を受けて築かれた新しい城郭遺構と思われます。 村村上氏は嘉吉に乱に没落した赤松家再興のため吉野の後南朝に討入し神璽を奪い返した長禄の変の赤松遺臣の一人。
土塁虎口より土橋付き空掘と西曲輪?

秀吉が村上氏の居城として築城を全面的に許可したかは不明ですが、三木城包囲網の秀吉方の将が使用したのかも知れない。しかし更に進む尾根続きは従来通り?の中世播磨の城遺構!!。平坦地形と緩斜面の奥に主郭?と背後の櫓台土塁が尾根続き切岸3m程で堀切が遮断し城域を分けている。北東の尾根沿いにも深く長い空掘が城域北斜面の谷筋へ、
蟲生新城館:土塁虎口に入る空堀土橋

南側にも空堀状の溝が 城域南沿いの谷側に接続しており、 此れは自然地形や北尾根続きには石列・石段や更に進む上方に”字ナメラ谷”の名には似つかわしくない 随分と荒れた 谷間の広い平坦地に石積みや石畳状に並べられた石列も見られるため、堀切の先で城域を二分する堀状は治山整備された排水溝なのかも…!!?高さ3m程の土塁は中程が開かれた虎口・土橋が架かって
東末端の土塁櫓台:堀切の先にも空堀状の溝(治山の排水溝か?)

真直ぐ集落のある西方に延びる藪中に消えていきます。御霊神社からの地区内の道に出る手前の 藪の一画に村上株の墓地が有る。土橋の左右には幅約4m・高さは約1.5m程:土塁曲輪側は3‐4m程の切岸となる真直ぐ一文字に掘られた水濠があらわれる。 雑木藪の中に埋もれながらも東播磨・北播磨では珍しい水濠・土橋・重厚な土塁囲みの虎口を備えた遺構に暫し感動して経ち尽します。
東末端(主郭の?)土塁櫓台と堀切

再度・西端部の土橋を渡り高さ 2m程の大土塁で囲まれた開口部から広い曲輪の内部へ入っていくと南側には空掘りと低土塁の曲輪が、 岸が濠状に高くなった谷川に沿って帯状に延びている。 正面には一段高い(2.5〜3m程だったか!)切岸に斜上する虎口の登城路を登ると此処にも広い曲輪があり、更に1〜2段の曲輪が並び北端の土塁・堀切に至り城域を終わるようです。
(黒田庄町遺跡分布地図 兵庫県黒田庄町教育委員会 を参照)


桂松山城(岡ノ城)    桂松山  190m  西脇市黒田庄町岡
【福谷池〜桂松山〜三角点〜日時計の丘公園 登山レポート兼用!! H16.10.07】


黒田庄町岡の兵主神社から交差点を越え福谷(ふくだに)公園のある山裾に向います。山裾に拡がる広い墓地の端に ゲートボール場がある公園入口の 駐車場には周辺のサイクリングや散策の案内板がある。その横から短い林道が直ぐ上部の 福谷公園に続いています。福谷池が三角点と円錐で丸い山頂を見せる低丘陵の桂松山が湖面を深緑に染めています(AM8:00)。
福谷池と桂松山<中央左寄りは岡福谷池古墳>

福谷池の南端が公園の入口で 案内板の側からは右手貯水池に斜上して三角点<三角点山>に向う桂松(はだまつ)コースがあります。過去には公園内の稲荷社鳥居の続く石段を詰める愛宕ルートで直接三角点に出るコースと谷添いに鳥居前を過ぎ、古い寺院の築段跡を見ながら桂松山からの尾根道に上り着く南福谷コースを歩いています。このルートは展望と露岩の尾根歩きが楽しめますが、 今回は其れプラス山城の桂松コースを歩きます。
三角点峰への展望尾根から桂松山城(中央の小山)と福谷池


尾根筋に出ると三角点<三角点山>へ向かう南福谷コース道標が立つが、右手の踏み跡が桂松山山頂に続くが、余り利用されることも無く荒れているが 山頂へは10分と掛からず播磨・丹波国境から西南へと加古川の沿って黒田庄町・西脇市へ展望が拡がる。山頂に幅約7〜8m・長さ約 20m程の段差の殆どない2段の平坦地が有って、桂松山城址といわれます。岡地区には現在のところ、 他に城跡とされるところは無いので岡ノ城と仮称しておきます。
福地への尾根分岐付近からの三角点

山頂に至る四方は緩やかで要害となる所もなく、防備施設も見当たらないようですので蟲生城(福地城)城主:村上氏付きの城 !で蟲生(むしお)城からは視界が遮られる北方警備の見張の砦だったとも思えます。桂松山城からは尾根伝いに短時間に蟲生城や福地地区内の居館へと繋がっています。野村構居・鳴尾山城等への狼煙等”しらせの城”として機能したのかも知れません。曲輪を繋ぐ帯曲輪が有るというのですが緩やかな山頂付近に腰曲輪も発見できず、雑木藪の中に隠れていたのかも…山頂を後になだらかな林の道は南福谷コースからの道と合流し (AM8:15)少し先で福地地区から登ってくるコースとも合流する(AM8:18)。
桂松山城(荒れた平坦地形が残るだけ!!)

”福地の森づくりの会”により整備されているようで上比延町から点名 :福地へは御霊神社を経て福地への尾根通しの切開きが利用出来そうです(AM8:55)。この尾根分岐を過ぎると露岩が目立ち、何時しか岩稜を歩いています。左右に展望が開けて眼下に西脇ゴルフ場、西光寺山が大きな山容を東面に拡げ白山〜妙見山・この後で辿る岩稜尾根が南山〜点名 :前坂から友尾山城の峰々を秋谷池の背に望まれます。最後の急登と思えるところに分岐の道標があり、愛宕コースと合流して直ぐ三角点(点名:上比延2等三角点457m AM857〜9:05)後は其のT と同じコースで日時計の丘公園に降る。

(黒田庄町遺跡分布地図 黒田庄町教育委員会 を参照)

極楽寺構居
  xxxm  西脇市黒田庄町岡

桂松山城の山裾 ・福谷公園から県道294号に戻ると、岡の交差点兵主神社前の室池の直ぐ南東に西岡山極楽寺(臨済宗妙心寺派)が建つ。寺の裏・北は小さな雑木の森があり南には 蓮の湿地畠!!?と小山池があり、寺域は南側から見ると3〜4mの濠の上に建っている様に見えます。寺の杜の西面は県道294号に添って崖上に削られており南の蓮畠!と 県道に並行に溝が濠状に走ります。
極楽寺山門への左右は蓮畑(池:濠跡?)

此処・極楽寺の狭い寺域一帯が中世城館として分類されている極楽寺遺跡として黒田庄町教育委員会による調査では石垣・V字型溝が一部確認調査されています。県道沿いの溝がV字型溝にあたるのか?蓮の畠も濠跡のようで、隣横の小山池と繋がっていたのかもしれません。石垣は寺内の墓石・石碑の立つ築地を囲むように長方形に囲まれた石組みがそうなのかも知れないと思えます?
。 極楽寺北側は雑木の杜と畠状?の曲輪段差が県道294号から岡消防コミュニティセンター間を曲輪切岸加工され防備したものか?。
県道側の濠?から極楽寺を望む

開発で崩されてか?整地されユンボが入り遺構は有っても既に壊滅状態です。城史は不明だが村上氏一族の居館で”詰め城”を桂松山城に比定したいところですが、 桂松山城自体は山頂に小さな平坦地が遺構としては確認出来る程度の砦ですので、やはり平安〜鎌倉期・荘園管理と荘園監視するための 豪族の方形館か砦跡だったのでしょうか!!。蟲尾城主 村上政治が尼子氏の襲撃に討死・遺児の源太少広直・直行が天正年間(1573-92)再起を図り三木城攻めの羽柴秀吉について 従軍するが広直は負傷し帰陣します。後:天下は徳川のものになると直行?が村上し一族の菩提寺:岡の福谷山極楽寺(臨済宗妙心寺派)を此処に移した。開基:源太少広直の一族が遠祖と仰ぐ具平親王社を勧請し、 その際・此処に有る太閤石?を申し受けて社殿に保存しました。
極楽寺北:コミセン側の車道から

信長の専横・将軍足利義昭の追放…等への不満もあったが・当初の中国毛利攻めに際しては信長・秀吉軍に従意を示していた北播磨の領主達にも三木城主別所氏の離反による播磨攻略に転ずると、比延の本郷氏(比延氏)氏?等が三木城主別所氏に参軍する等の 状況下にあって、小領主の城攻め等に自ら北播磨まで足を運んで采配したとも思えない?…が、秀吉が播磨に二社しかないうちの一社兵主神社に黒田官兵衛を代参させて戦勝祈願し・燈明田を献上しています。伝承では此の大志野 (黒田庄町南部付近)に陣を張り、極楽寺境内・墓所を抜けた背後の最高地点には、 播磨数か所に残る秀吉の腰掛石伝説の一つ太閤腰掛石と呼ばれる庭石がある。顕彰碑「太閤腰掛石由来記」には”兵を駐め・自らも下馬して・傍らのこの石に腰掛けて下知采配をとった。
極楽寺の太閤の腰掛石

やがて秀吉が天下を統一し太閤の尊称を得ると、里人は此の岩を珍重し秀吉の果報にあやかろうと、 競って開運を祈願し霊験を喧伝した…”」とある。百姓から出て関白・太政大臣の地位へと上り詰めた立身出世の最終行には説得力がありました!!。室池を挟んだ西北の式内社 兵主神社は延暦元年(782)播磨の国衙岡本修理太夫(藤原)知恒による創建といい、極楽寺は兵主神社の杜が続いていたと推定されます。神社略記に宝亀3年(772)岡本知恒は大志野の岡城に赴き城の南に森4町を開くとある。 岡城が兵主神社北背後の城山城(岡城)か、此の寺の山号:西岡山からも此処に構居が在ったのかは不詳ですが…。

喜多村構居 xxx m   西脇市黒田庄町喜多

西脇市黒田庄町役場に向う。”兵庫の城紀行”に赤松一族上月豊後守の居城として1行載っている「喜多村構」を、兵主神社に寄ったのを期に立寄ってみる。踏切りを西に渡って「喜多村構」に比定される”JA黒田庄”付近ですが車道を抜けJAの南側を細い溝が流れ若干高くなっている箇所や、北側のJA側に其の区画を 感じますが遺構はみない。
喜多村構居比定地?から三角点山

此処より車道を隔てた東側には 1段(30〜50cm)高くなった畑地が有り、東に門柳川が流れています。上記・城山城と友尾山城の遠望写真を撮った場所からは 40mと離れていません。 JA南側の細い溝の小さな流れは門柳川の堰から取り入れられているようです。護岸工事されスッキリ整備されていますが2m以上の高さが有るので土塁等で補強すれば水濠として充分、
JA(喜多村構居比定地から城山城と 友尾山城の遠望

西500m程の加古川に挟まれ南約1km下流で合流する地点にありますが、北北東部の城山城と東方の三角点山手前の 桂松山城の丘陵部以外は一面田園の拡がる黒田庄の荘園だった所。南北朝期の赤松一族の居館跡なら北東に聳える友尾山城が詰め城としては濃厚ですね。平坦地以外何も城遺構は見つけていませんが。小さな丘城の 城山城も赤松一族の城なら名前からしても気になります。

十三重の石塔   黒田庄町大門

R175号から畑瀬橋を渡り大門交差点に出る。左へは加古川の堤防に向かって田園風景が拡がり数軒の集落が在る。十三重の石塔は此れ等・民家と畑地の間に有って遠目には判らず、 石塔は民家の庭園の一部の様!!。個人畑の畦道を通るので所在地説明には躊躇します。地区の北方約200m突き当たりに旭雲山東光寺があり、山号からは 旭将軍とも呼ばれた木曽義仲に纏わるものかと思えます。何故・此処に木曽義仲の供養塔が有るのか?現地説明版や観光ガイドには無い!?。この石塔の下には塔の形をした水晶が埋められているとも言われています。石塔の造り方・様式から鎌倉時代の 造立と考えられ県重要文化財に指定されています。建久3年(1192)源頼朝が鎌倉幕府を開いてから後嗣が絶えて、執権の北条氏も滅亡に至る約150年に渡る 鎌倉時代に建立された石塔は無念の死を遂げた木曽義仲の供養塔とも伝えられています

木曽義仲供養塔とされる十三重石塔

木曽義仲治は承4年(1180)以仁王(もちひとおう)を奉じて 源頼政等と平氏打倒の兵を挙げた。寿永2年(1183)加賀・越中国境の倶利伽羅峠の合戦では十万の平氏軍勢を破って京に入り、征夷大将軍に任ぜられる。 平家を追撃して山陽道を進む義仲軍には、女武者として其の勇武を知られ・大将として活躍した義仲の愛妾巴御前の姿もあったでしょう。しかし播磨・室山での戦いに敗走すると、今度は従兄弟の源頼朝が差し向けた範頼・義経の追討軍により、 寿永3年(1184)宇治川の戦いに敗れ、源頼政は平等院で自殺、義仲は北陸へ落延びようと逃れるが粟津(琵琶湖畔)で討死する。義仲を討った従兄弟の源九郎義経は軍勢一万余騎を牽いて 丹波を下り 三草山の麓に陣取っていた平(小松中将)資盛の三千騎の軍に夜襲をかけ一ノ谷〜須磨の合戦に大勝するが、義経もまた兄・頼朝に追討される事になります。頼朝の政治的なずるさや顕示欲が目立つ中、 源氏同士の争で消される無念さを、誰が供養して建てたものか?建立時期(鎌倉時代1185-1334)からは従兄弟を討った義経では早いし!同族で戦う事になった 赤松氏でも早い?
(現地 黒田庄の石塔案内板 参照)
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