西ノ塔谷を周回する山と山城 西畑城館・石原城・石原北山山城〜点名:幡上
播磨・西脇市 (五万図=生野)
大国神社・石原城・西光寺・西畑城館・石原北山山城〜点名:幡上 H17年1月28日
大国神社から見る薬師堂は城館の雰囲気有り

近畿の山城: 石原城 西畑遺跡(西畑城館!?) 石原北山山城

R175号線を西脇方面に走り田高(たこお)を過ぎた先の病院へは通院の母を、其の先・中央橋から石原トンネルを抜けて多可郡中町側へ抜け西脇市側へ南下すれば妻が定期的に診療を受けている病院もある。何時もは気にもせずに通り過ぎる国道西の山裾に石原集落が有り、極小独立丘陵の「おかね山」の崖上に建つ薬師堂が唯一城郭の雰囲気が漂う場所なのですが…。
西光寺と石原北山山城

此の周辺に点在する城館跡から石原北山へ登り、石原トンネルを中町側に抜け出た所・北側の山稜に露岩が目立つ点名 幡上へと、西ノ塔谷川を挟んで周回してみます。正直なところ・山城を探して尾根筋を歩いてみたが雑木と羊歯類の繁茂する稜上は踏み跡探しがヤッと。テラス状・土橋状と明確でない遺構らしいもの以外見つからないので、目立つ点名 :幡上への尾根周回縦走に切り替えた。



石原城(居館)西畑城館?(西畑遺跡) 石原北山山城

石原城  xxx   西脇市黒田庄町石原(薬師堂南)

黒田牛の絵看板の立つJAみのり前の交差点を 西の山裾に沿って 石原地区に向いますが、此処に城が有った事は知らなかった。交差点からは逆に東へ直進してJR加古川線踏切を越えると、左前方に天狗岩から高度を一気に下げて突き出してきた低丘陵が見え、其の先端に黒田城があり此処を訪れた際に石原城の存在を知った。多可郡黒田庄や石原地区の荘園 ・黒田荘は石原坂トンネルを越すと西脇市北部の富田荘・加古川流域沿いの西脇市東部に比延荘が境を接しています。
西光寺・大国神社南方の石原城推定地

石原城は推定地として西脇市教育委員会の埋蔵文化財分布調査書に記されますが、其の規模等について定かではありません。西ノ塔谷川が集落内を狭いが 深くえぐって杉原川に流れ出ていく様子からは、此れを堀として利用した城館遺構が有った事を想像するだけですが…!しかし城としては 石原公会堂から鳥居を潜って急斜な石段を上る大国神社は山を背にして三方は崖状ですし、地区内の車道から一気に20m程の高台が競り上がる薬師堂の建つ丘陵は40uの平坦地。

北山山城(左峰)と中央丘陵(大国神社)


出来過ぎかと思えるほど居館跡の様相です。早速・石原公会堂から 石碑の建つ北側からの参道を登ってみると、低いが加古川沿いのR175号から南への眺望は良く絶好地なのですが・・低地に有った居館の櫓台としては立派過ぎ。南側に附けられた参道を下って民家の間を南へ出ると惠照山・西光禅寺 (臨済宗妙心寺派)前に合流する車道に出る。西ノ塔谷川の流れが西光寺までの間に二分して 流れは殆ど無いが 深い溝が掘を形成しているような一画がある。 由緒有りげな門構えの民家や、焼杉板を捲いた蔵や塀の民家、周囲に浅い溝も無いのに土塁状に囲われた畑地も有るが、他に城館と推定される所が見当たらないので此の辺りがそうなのでしょう。
単郭の城址の様な薬師堂

黒田城は室町時代に在地土豪 黒田重勝によって築城されたといわれます。重勝の弟光氏が野中六郎を名乗り大木城に比定される野中城に居城しています。 黒田城の事は余り知られていないようですが7代目黒田城主・黒田下野守重隆の次男が、幼くして姫路の小寺美濃守職隆の養子となった小寺孝高【黒田官兵衛孝高】で有ることは知られるところです。石原城の城史も不明ですが、 黒田城同様に南北朝期に在地土豪石原蔵人入道寂任がいて足利尊氏に仕えていた様で、 康永2年(1343)頃若任によって 築かれといわれますが詳細は不詳です。建武3年 (1336)後醍醐天皇に敗れ京都を追われた頃から尊氏に付き、観応2年(正平6年 1351)尊氏が弟・直義との勢力争いに 光明寺で戦った時にも従軍したことでしょう。
西畑城館?正面曲輪の北面に大空掘がある

大国神社は、越年神社・「大将軍(足利尊氏の事か?)神社 」・金刀毘羅神社・地主神社・猿田彦神社・愛宕神社・祇園神社…等々が祀られている。黒田城は兄・治隆が8代目を継ぐと石原城と対峙していきます。永禄年間 (1558-70)石原城主・石原掃部助高見城主・赤井新五郎忠家等との戦いで討死にして廃城となったといわれます。しかし今のところ・其の後の石原氏の城 (石原城・西畑城や石原北山山城等!?)が信長の”播磨平定”の時に落城したものか、別所重棟等に付いて信長・秀吉方にいたのかどうか?、黒田官兵衛にとっては親の敵ですが!。


西畑遺跡(西畑城館か廃寺か?)  xxx   西脇市黒田庄町石原

薬師堂から石原城推定地を探索して ?地区内の道を北に進むと石原公会堂側からの道と合流して惠照山・西光寺(臨済宗妙心寺派)前の広場(空き地か公園?)に出る。 寺と西側の耕作地を西ノ塔谷川が隔てています。平安時代後期に創建されたという得笠寺が”西の塔”にあったが廃寺となり天文12年(1543)現在の地に西光寺が建てられたといわれます。
林道入口の地蔵尊 ・背後の平坦な雑木藪も・・

一軒家に近寄って行くと廃屋然とした民家が物置小屋となっており、裏山に向う山道は山側が深い谷となり西光寺を隔てて グルリと耕作地を取り囲む様にして南側へ流れ出ています。正面に赤い鳥居が在って高みに稲荷社(薮内稲荷大明神)を祀る祠が建ち傍らに二基の石碑が立つ。 祠の横に墓石?かと思ったが戒名は無く、”和田掃部佐長重”と”本多中務大輔忠為”の銘が見える。まさか・あの本多中務大輔XX?
西畑城館?の曲輪の切岸・土橋・大空掘

西端は1.5m程の石垣で遮断されていますが、其の先も雑木林の中に数段の平坦地形が150m程続いて、川を渡ると集合墓地になっています。 集落西端から西ノ塔谷川沿いの林道入口には、朽ちかけた「子安地蔵」の案内板と・地蔵尊(縦長の石材に地蔵尊が彫られていますが、 地蔵尊の下のはもう一体・施主のものかと思われる地蔵像 ?も彫られている)と五輪塔の残欠が祀られています。林道の直ぐ先が集合墓地ですが、
西畑城館?の土橋と大空掘

地蔵尊背後の平坦な雑木林と、東側土塁状は北へ30m程で深い溝谷に遮断されるが、溝谷を挟んで北側には平坦地が谷川沿いに延び3〜6m程の段差で幾段か区分された平坦地が有る。谷川沿いの段差をもつ平坦地形の曲輪は、曲輪の北側は斜面を削り落とした大空掘(幅6mX40m程か?)が廻り・東端に幅 1.5m程の土橋が有って、北東の広い曲輪に入る。
西畑城館?の広い曲輪群

その曲輪東端上部に、先程の薮内稲荷大明神が祀られています。土橋は西(大空掘が廻る曲輪)端で上段曲輪へ1.5m程の段差で上がるが、土塁・堀・高い段差等の防備施設は無く、ただ西へは西ノ塔谷川の溝谷に架かる橋を渡って集合墓地の駐車場真に出る。 空掘は谷川の水を引いて濠とする構造にはなっていない!!。谷川と空掘に左右を挟まれた曲輪の大きさ ・広さからは、永禄年間(1558-70)に 高見城の赤井新五郎忠家等の連合で黒田城を落とした石原城主・石原掃部助石原城の上屋敷だったか?。
実際は高い台地上に祀られる石原子安地蔵尊

西ノ塔谷川の名が残る平安時代後期創建の得笠寺の廃寺跡だろうか?。なを西ノ塔谷川沿い林道は先の分岐で右への谷筋は、石原北山山城の最高所236mピークの尾根北鞍部に向う。 左への川筋は250m程で石原子安地蔵尊の駐車場に着くが、此処も高い台地上に祀れており、山奥にしては広い整備範囲に、此処が寺跡かとも思える?。


石原北山山城  北山 236m付近までの南尾根  西脇市黒田庄町石原

黒田ノ庄の石原に室町時代・入部したのは和田氏で、 其の地名を採って石原姓を名乗ったのかな? 永禄〜天正期(1558-92)の城主に石原掃部助?がいて掃部xxを継いでいるのか、 本多中務大輔XXはどんな人物だったのか?徳川幕府にあって・とてつもない大物で本多中務大輔xxがいるのですが…? 石原城が加古川を挟んで対峙した黒田城と同じ様な経緯を経た城なのか、
北山山城から正面に上大伏山城と石原坂(トンネル)

此の山城が其の”詰めの城”だったか!播磨赤松氏の被官であったと思われますが、 天正期の三木合戦ではどうしたのか。別所重棟の影響下で?近在の城と同様に秀吉方に味方したのかも…何も分からないので思案のしようも無いので次の目的地へ向います。西光寺背後と大国神社から北へ続く稜線が西ノ塔谷川を挟み込む様に 236m峰から 290m峰を北方には石金山〜至山へ、西へは多可郡中町の境界に沿って伸びる丘陵が点名:幡上を経て石原トンネル上へと延びていきます。
南尾根・北山山城主郭?Ca236m山頂の現状!!


西光寺の北部丘陵上に石原城?の山城が有ったといわれます。 西畑城館山側に稲荷社が有り”和田掃部佐長重”と”本多中務大輔忠為”銘がの石碑が祀って有るが、西畑城館や石原城と・どの様に関わってきた人物か?北山山城へは大国神社から尾根通しに山道(送電線の巡視路かも!)が通じているようですが、神社への石段がなかったら取り付けないほどの激斜面です。当初は寺の裏手から取り付こうと思っていたのですが稲荷社横に踏み跡が有る。此れを利用したが 羊歯類や倒木を避けて踏み跡のない所を選んで登るうち、巡視路に出て南尾根南端の広い砂地のマウンドに出た。

大国神社の奥の院か?妙見堂か?Ca150m付近が最も城跡らしい?

黒田荘の石原から津万井へと加古川沿いに眺望が拡がります。此処からは緩やかな尾根が続き北攝長田線 No52鉄塔からは、下草に覆われた雑木藪のなかに 巡視路が北東の谷に下って行く。踏み跡を足で探って進むような尾根の最高地点Ca236mが石原北山山城の本郭部の様ですが、羊歯・笹に埋もれた平坦地に城の遺構など確認しようがありません。高低差の少ない稜上に自然地形の平坦地は多いが中町境尾根の 290m峰から南へ派生する枝尾根の236m最高所も同様。此処から少し下ると西ノ塔谷川の右俣への鞍部を越えるが堀切があったと思える形跡も無い。
主尾根P290m付近から望む北山山城(236m峰)

羊歯や雑木で踏み跡も薄くなった斜面を中町境尾根 ・今辿ってきた南尾根分岐 290m峰は南郭の出曲輪か、尾根途中に防備の曲輪等明確な遺構が見受けられ無いので此処が”詰め城”の本郭だったのかも…?そして・この境界稜線上に当該領地の黒田荘内や播磨から丹波に入る加古川沿いの要衝監視砦跡が 残っているのかもしれません。南尾根分岐の町境ピーク290m峰も雑木藪な中。城遺構を何も見ないまま引き返すのも癪なので、低いが端麗な姿の点名 :幡上までトレースしてみようと尾根縦走に切り替える。単調な尾根上には随所に自然地形の平坦地があり、小さな段差のテラス状空き地や幅1m・長さ5〜6m程の小さな土橋状を見て、直ぐ遺構と判断出来る知識はありません。
中町との町境尾根から点名:幡上

土橋状の先からは羊歯類に覆われ、其れを掻い潜りながらの急な登りが続き露岩が現れてくると 町界尾根から安田地区へと西に延びる尾根分岐のCa360m相似峰の北峰に着く。南峰に着いても同じで石金山や中町のシンボル・妙見山の展望は樹間を透かして一寸と姿を見せるだけ。しかし三角点幡上手前・僅か150m程は露岩尾根で南下方のトンネルを抜けた東安田の湿原地や、西脇市の山や西北に浅香山 ・妙見山・篠ヶ峰や千ヶ峰へと一挙に展望が拡がります。点名:幡上(4等三角点 350m)は 石原から中町側へ抜けると東安田地区の広い湿地帯と池の北側に露岩を起立させ低いが雄々しい姿をみせている山です。
東安田の湿原地を見下ろす北郭?Ca290mから南郭?のCa236m峰

R175号線からは目立つ採石場の上方に見えるのですが、此処を登山対象にするのは”播磨の山猿”ことMTB登山の大柿さんくらいか。案の定・大柿プレートは有った。 石金山からの縦走で石原トンネルの峠へ下るようだが、山頂手前西側の露岩の尾根を除いては、羊歯類や雑木藪が続きMTBでは厄介だ。幡上からの下りで私は鞍部から石原側へ下った。県道138号線トンネル上部の旧道に出て道なりに 西○工業の採石場前を通って石原公民館へ戻ってきた。


  丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system