播磨 行者の峰から河内城址を探訪  鉢尾峰〜鎌倉山〜芥田〜小鞍掛〜河内城
東播磨:加西市(五万図=北条)
前回↓鎌倉山からのミスルートを整備されたハイキングコースで再訪2006年03月26日
普光寺〜大天井(鉢尾峰)〜鎌倉山〜X〜下芥田・小鞍掛〜河内城 2002年12月30日

近畿の山城:河内城(別所城)満久城(満久構居) 鎌倉山城
 芥田(ケタ)城(芥田砦・芥田構居) 未 蓬莱山城 奥野将監屋敷
赤穂浪士ゆかりの久学寺と磯崎八幡 内藤家屋敷 北条陣屋
別府構居 殿原構居
行者道(東尾根)大天井南付近から鎌倉山(中央の双耳峰)

西脇市から野間川沿いを西北へ走り24号線(中北条線)に出て直ぐ二ヶ坂の峠を越えると加西市に入る。直進する河内バイパスから河内集落内の信号交差点を右折して 直進すると鎌倉谷の前方に目立つ磐座を起立する鎌倉山が迫ります。古くから神体山として崇敬され社町の佐保神社 ・北条市の住吉神社の祭神も鎌倉山から降臨された神だとされる。 今回・河内城址への取付き点とした河内町西端の六處神社も元は山頂に「鎌倉明神」として祀られていました。
河内城(別所城)西郭から望む満久城(中央奥) H18.3.26

鎌倉山から河内城址へ整備中だった尾根コースが通じたので今回は登山口の普光寺から鎌倉山〜河内城址の予定で出発です。鎌倉山へは以前(平成11年12月04日)比延川沿いに直進して 「是より鎌倉寺」石標と不動尊・役行者石仏のある登山口から鎌倉寺経由で鎌倉山を目指したが、鶏糞道の後に広いが湿気た草道に嫌気がさして左へ避けて通ったのがミスコースとなったが 御蔭で?山頂西側の現在:河内城址への尾根コースに出て数段の平坦地を確認、鎌倉山城の存在を確認したが城史については不明です。 大天井・小天井の峰々や如来・菩薩・観音・行者の石仏が建ち、
鎌倉山「西の覗き」直下からの磨崖仏

東や西の覗きを巡る八千代町・加西市の境界尾根で、起点は河内町交差点の東20m・理容室の裏手の天理教会駐車場手前から 路地を抜けると一本の道が護摩堂〜釈迦如来を祀るピークを経て普光寺からの道と合流して鎌倉山へと通じます。大峰山を模して明治35年(1902)に拓かれた行者道ですが荒れるに任せた状態で、シダ類で道も覆い尽くされ 難渋した道だったが最近(翌年の平成13年)ハイキングコースとして整備され道標も設置されたようで、このルートが普光寺からのコースと合流します。


加西の行者道 普光寺〜大天井(鉢尾峰)〜鎌倉山〜下芥田・小鞍掛〜河内城 H14.12.30

普光寺の仁王門(AM9:45)から続く参道・本寺手前の橋前に 加西ライオンズクラブの登山口標があり、此の先にも随時現われるコースの案内標と整備され切り開かれた登山道が続き、 以前を知っている人には別の山を歩いている感覚にさえなります。案内標通り古い校舎のような建物とゲートボール場らしい運動場を見て林道に入る。
普光寺参道分岐付近から鎌倉山を望む

直進する林道(大日如来像へ向う道か?)と分かれると方向違いかと思える程大きく屈曲しながら高圧線鉄塔No.136を経て行者堂からの尾根道に 合流します(AM10:15)。鎌倉山へ3km・鉢尾山(大天井)へ420m地点 7〜8分で露岩の明るい場所に出ると自然石で囲った岩室に役行者像が建っています。 鎌倉山(法起菩薩を祀る)と緩やかに北に延びる孔雀明王を祀る368m峰が双耳峰を覗かせている。
柳峠:八千代町下三原へ越す旧峠(鎌倉山へ1km)

南尾根末端が河内城址のある城山らしい??大天井を西に捲く「近道」を避けて 急斜面を登れば 山頂を切り開かれた鉢尾峰(大天井 461m AM10:26)に着く。此の先で北方の原山(497m)を目指さず周回する限りは此処が最高点です。 山頂を後に巻き道と合流し小天井(普光寺山!? 460m)への僅かの登りにも巻き道があり、行者道を忠実に辿れば山頂から北方に切り開かれた樹間のフレームに 笠形山の山容が大きく収まります。 少し降った鞍部を登り始めたところにも役行者が立つ。
鎌倉山北峰の孔雀明王像


行者像は此処の規格品のように全て同程度の大きさで光背は左へなびく同形の火炎を背負っています。小天井を経由して辿り着いた陽あたりの良いピーク(459m)にはよく見かける[金剛界の智拳印]をむすぶ大日如来像が祀られています。 南下方に普光寺・元宮への下降道を分けて柳峠まで下り続けるコースの途中には東の覗きがある。以前は意識していながら藪の奥にある「東の覗き」には気付かず通り過ぎてしったが今は道標がある。岩頭部「覗き」は南に拡がる展望を楽しみながらの休憩適地で簡易ベンチまで設置されています。
鎌倉山山頂の法起菩薩像

ハイキングコースに戻って柳峠 (AM10:55)の十字路は北へ八千代町・下三原(柳)へ越す峠で南へ採れば鎌倉池(比延田池)に出て短い林道降っていくと「是より鎌倉山」の石標や大きな絵入り案内板・石仏 (不動明王と役行者像で「萬度供養塔 明治39年」の銘があり日露戦争の供養塔でもあるのでしょうか、 河内町西の六處神社本殿前の狛犬には「日露記念」と彫られていた)のある鎌倉山登山口です。柳峠は鎌倉山へ1kmの地点で、登り返して鉄塔No131〜No132と続く巡視路からは 時折鎌倉山が姿を見せる。 No131鉄塔からは笠形山〜入相山〜飯森山〜千ヶ峰・三国山へ続く稜線を望めます(AM11:00)
鎌倉山「西の覗き」の磨崖仏・役行者像

此処から少し勾配も急な斜面を次のピークへ向かうと孔雀明王像が周囲を切り開かれ陽を浴びて建っています(AM11:10)。 鎌倉山が双耳峰に見える北峰(368m)にある「仏母大孔雀王」は孔雀が毒蛇を食らう所から一切の邪毒を除き、衆生を救う徳を孔雀によって現わす仏の化身と言われますが雨乞いの仏様でもあり鎌倉山頂で雨乞いを行ったのはこの北峰の孔雀明王像の前だったのかも知れない。南へは3分程で法起菩薩像が建つ鎌倉山山頂(3等三角点 点名:比延田453m AM11:13)に到着です。 山頂からの展望をゆっくり楽しんだ覚えがない。
鎌倉谷の登山口の石仏・不動と役行者

唐の賢者の風貌の法起菩薩は誰なのか!!石像を眺めて直ぐ下方にある西の覗きで休憩する事にしているので!!神変大菩薩は役行者だが法起菩薩役行者(役の小角)の化身と云われ、西国霊場8番長谷寺と参道口にある 西国番外・法起院の開基徳道上人も法起院の狭い境内にある「沓脱ぎの石」から晩年、法起菩薩に化身して去ったといわれています。また播磨・丹波の多くの寺の開基とされる法道上人は徳道上人と同一人物だとする説、 役行者は徳道上人だとも言われる等々…常人離れした伝説上の上人・三者が此処鎌倉山では説が入り乱れています。像に表現される姿はだいたい決まっているようですが【鎌倉山頂の法起菩薩像】が明らかに渡来人の容姿・風貌ですので出生の通説が 大和国葛城山麓の役行者説を外し、播磨国揖保郡矢田部が出生地とされる徳道上人説も外し、一般的には[天竺(インドから!!)]から 渡来の法道上人と考えたいところです。
大日如来

ところが「峰相記」の普光寺縁起では法道上人の出生地を 播磨国揖保郡矢田部とされており、法道上人と徳道上人を同一人物とする説も此処にあります。普光寺縁起では播磨の出身とされ、一般的には天竺から来た法道上人は此処・鎌倉山で亡くなったともいわれ法起菩薩像の最有力候補ですね。 抹香岩と呼ばれる岩壁が西の覗きの磐座で岩頭の直ぐ下には 見事な磨崖仏!というか役行者像が彫り刻まれています。 磐座下方には神亀6年(729)願主:中衛大将藤原房前により徳道上人が開山したと伝える宝来山鎌倉寺【蓬莱山普光寺の奥の院】があり、抹香岩の名は法道仙人が入定した岩窟があり、其処からは芳香が絶えなかったことに由来します。
鎌倉山「東の覗き」岩棚の不動尊像

となると役行者像は徳道上人像か法道仙人像の可能性もあり??此処でも役行者説と法道仙人説が??錫杖を抱えて一本歯の下駄で腰掛ける姿は 役行者像なのだが。磐座から東播磨の平野や播磨灘、淡路の島影を遠望して鎌倉山頂へ引き返し 山頂の標識 河内城址3kmを示す南尾根を辿り雑木の中に踏み跡を追って進みます。「未整地」の木札も掛かっていますが以前・鎌倉谷の「是より鎌倉山」石標のある分岐から鶏舎横を過ぎ、分岐を右に採る事も知らず真っ直ぐ延びる下草の生える広い林道を直進してしまい、半ば藪漕ぎで此の南尾根に這い上がってきた事が有りました。 あの時とはすっかり様相が変わり、登山口には略図・説明付きの大きな案内板があり、
蓬莱山鎌倉寺

間違った分岐林道にも加西ライオンズクラブの道標があった。次の目的地「河内城址」へ直行出来るのなら願ったり…で辿ってみる事にした。踏み跡はだんだん薄くなるが境界標識も見かけるので構わず進むが無名ピークから先 ・尾根が大きく南東へ向かっていることは後日Web地図でわかった。尾根筋が見えない藪の下降斜面で方向の見当も付かず南西へ反れてしまい、西側の佐谷川への枝尾根に乗ってしまい新池(奥池の上方にある貯水池)へ下ってしまいました(AM11:50)。河内城へは鎌倉山から尾根続きに高坂展望所や点名:小鞍掛(4等三角点 295m)を目指せば良いのですが、
河内城登山口の六處神社

河内城へのコースを諦めて林道向かいの小さな谷沿いに対岸の尾根に取り付いて点名:下芥田(4等三角点 293m PM12:10)を経て南側のCATV共同アンテナがあるだけの山頂(Ca290m)に着く。此処から降っていこうと 南側?へ藪を廻り込んでいくと今立っている場所も削平地で一段上は腰曲輪のよう・正面には石積みの階段が有る。アンテナが建つ山頂部が本丸のように感じられます。芥田川と佐谷川に挟まれた山塊の南端部に位置したピークは 雑木が無ければ播磨平野を一望出来るロケーションです。西北へ約2kmの地点には芥田(けた)があり、 此処は芥田城の出城か砦(狼煙場)だったのか?。神社・権現社等の跡かも知れないが??。下り始めて直ぐの所で井戸跡と思える周囲を切り崩した窪地もあった。
東屋休憩所ピークは 物見の出曲輪か?:正面丘陵は満久城<ゴルフ場内>

いずれにしても加西市史等を調べれば解かると思うが迷った挙句に通りかかった場所なので位置も後日Web地図で確認した次第です。踏み跡も無く適当に南東下方へ下り貯水池(奥池)下の堤防から佐谷町へ出てしまった。 河内町へ山越えで戻る道はないといい、いつものごとく車道の迂回ルートで戻る事になったが帰路の途中・別所町の山裾に見える六處神社から低い尾根筋に詰上がって河内城址へ辿ってみようと思い立ち向かいます。 すっかり意識にもしていなかった芥田の城山(芥田城)は機会を見つけて拠ってみます。
以降は下記、近畿の山城 河内城に続きます。


河内城満久城 芥田(ケタ)城(芥田砦・芥田構居) 未 御陣屋(北条陣屋)
鎌倉山城 蓬莱山城奥野将監屋敷
内藤家屋敷 別府構居 殿原構居

河内城(別所城・佐谷城)  城山 281m  加西市河内町城山

六處神社の創祀は古く天長年間(824-34)頃ともいわれます。当初は鎌倉山に鎮座し「鎌倉明神」と称されていたが焼失、 普光寺地内に移され「六所明神」とか「六所権現」と称されているが天正年間(1573-92)の兵火で焼失した。慶長5年(1600)播磨:姫路城に52万石で移封された池田三左衞門尉輝政によって社殿拝殿等が再建された。
河内城東郭〜西郭:一段低い中央郭は二本の堀切で仕切られる

明治期に現在地に遷された六處神社本殿前には 「日露記念」と彫られた狛犬が建つ。当初は左手に稲荷の鳥居が続き・その奥から背後の宮山?へ向かったが倒木と藪に阻まれ中々前へ進めなかったが途切れ途切れだが踏み跡は比較的明確だった。 東出曲輪跡?の山頂を過ぎ5分程降って小さな鞍部(河内町公民館側からのコースと合流)を越し登り返すと緩やかな稜上が目指す河内城址。 主要曲輪は西郭と東郭・其の鞍部の中央曲輪の三つばかり。中央曲輪を東西二条の浅い堀切が挟むのを確認して初めて城址と感じる程の薮と荒れた尾根上の遺構です。浅い堀切・角がはっきりしない曲輪では 写真に撮ってみても確認効果薄く、
東郭に立つ簡単な説明と縄張り図付の 河内城説明板

諦めて点名小鞍掛(4等三角点 295m)へ向かう鞍部へ下ると西側には露岩が目立つ平坦地があり、東側の谷に面した部分が少し高くなって土塁で囲ったようにみえるが…!!?。曲輪なのか?城址最後に見た堀切から此処までは 少し距離もあり引き返して鞍部の此処から三角点峰へも城遺構は見出せず土塁を施した曲輪と見るには少し無理があったかも知れません。 三角点名・小鞍掛からは 直接東の谷へ下り二つ並んだ貯水池の下の池の堤防に出て、林道を降れば河内町の鎌倉谷と合流して集落内を六處神社に戻ってきます。
鎌倉山山頂からの河内城遠景・点名:小鞍掛の南西端(右)

前回(4年前)訪れた時は藪の中で遺構も満足に確認できなかったが行者道ハイキングコースが整備され、 鎌倉山から尾根伝いに点名:小鞍掛を経て河内城へのトレースもスッカリ切り開かれ、激急斜面の下降でコースを誤った地点からもフィックスロープが延々と続き確保されています。なによりも・河内城域の主郭部(東郭・中央郭・西郭)のある尾根上の削平地は伐採され地膚が出ており発掘調査も終えてか?返って遺構の現状保存が危ぶまれる程の変わりようです。 しかし其の御蔭で中央郭が東西郭より低く且つ・大小の堀切で区切られている事も、
河内城東郭の切岸下に空堀状:登山道は上り土塁虎口?

写真では判り難いが肉眼では一目瞭然です。河内町公民館から細谷を詰め上がっていくと 六處神社から東峰ピーク(東屋休憩所が建つ広く整地された山上は南から西へ展望が拡がる 物見の出曲輪だったとおもえるが14年ぶりに訪れた2016年・河内城跡の「河内ふれあいの森」へのハイキングコースが整備されていた)。 河内公民館から西へ直進すると此処にも案内板のたつ整備されたハイキング道が、六處神社からのコースに尾根筋で合流し2段程の出曲輪側を通り河内城域北側尾根の鞍部へ出てくる。
河内城主郭(東郭):正面に満久城を望む

河内城域の南山麓を県道24号が走る。丹波市から多可郡か西脇市を抜け加西市の イオン等へ向かう通常ルートだが、そのまま往時は丹波や北播磨から但馬方面に通じる要衝の地でもある。本城からは見難いが東屋展望休憩所からは 東・南・西への眺望が効き、領内の河内町入口部に位置して、監視砦の機能を果たす出曲輪であった可能性は高いと思えた。河内城へは以前鎌倉山山頂から道なき藪尾根に踏み跡を見失ったのが嘘のよう。 ここも北方の鎌倉山へ明確にトレースされるハイキング道がある。
東屋展望所は河内集落入口・要衝監視の東出曲か?

標識を見て進む急斜面には3〜4m程の段差が見え、正面の最高所が東郭です。段差手前の左(南側)方にも小曲輪が有る。最近?整備された登山道の東郭切岸下(最後の木階段)部が浅くなっているが堀切・土橋状から上り 土塁!?を東郭へ。真新しい河内城址の簡単な説明・縄張図付の案内板が立つ【2016年(14年後)の再々訪では、縄張図付き案内板も立替えられいたが 其の案内板も見辛くなっている…】が、加西市の歴史HP等によると室町時代中期(1400年代)別所ョ清の築城?とある。
河内城の中央郭を区切る堀切

別所氏系図によると 頼頼清から11代:別所小次郎則治が三木に新城(三木城・釜山城)を築いて移ったのが文明3年(1471)『補足』。 嘉吉の乱に衰退した旧赤松家臣団に代わり新勢力の中心となった赤松氏庶流の別所氏の祖:頼清が室町中期の人とは?。詳細不明…在田荘に居た別別所氏の城が嘉吉の乱後に城を移し、在田氏が入ったがその後:別所氏に追われ八千代町 ・野間山城を本城に移り室町末期には廃城となったものか?縄張りには土塁を用いず、東西二郭の鞍部に位置する中央郭を二条の堀切で遮断して 東郭と西郭に各2〜4の小曲輪・腰曲輪・東郭と西郭南切岸下には帯曲輪(犬走り状の幅狭い通路兼!?は中央郭を挟む二条の堀切下部を東郭へ帯曲輪で繋ぐ)を付随させ
中央郭から東郭切岸下の堀切

尾根上に続く連郭式山城です。此の長い帯曲輪の西端曲輪切岸下の土橋付き堀切からは城遺構も?踏跡も消える比較的緩斜面の藪尾根筋が下方に降りていくが、此れより先は未探索、佐谷町側からの搦め手道だったか?。 羽柴秀吉の”播磨攻め”の頃には別所氏も在田氏も本拠城を移した後、この地での戦いはなかったのかな?。 近辺では善坊山城や三木合戦で籠城?した笹倉城での戦いがあるのですが…平安時代末期の永暦元年(1160)頃・赤松氏の祖である赤松源太夫季則の次男別所刑部大輔頼清が在田荘の別所に移り、
東郭側から中央郭東切と堀切

別所姓を名乗って最初に築城した別所氏発祥の城とも伝えます。加東・加西・多可・神崎の地を領有し従四位上刑部大輔に任ぜられ勢威があった別所頼清以後も赤松(円心)則村の弟や孫を養子にして相続し則安の時、 その子肥前守則忠と共に嘉吉の乱で討死したといわれる。三河守則忠の子・別所小二(治)郎則治は赤松政則を助けて家督に復活し従5位下大蔵少輔に任ぜられ文明3年(1471)新しく 釜山城(三木城・別所城)を築いて移り東播磨八郡の守護代になったとも伝えられますが 在田荘との直接関係はなさそうです。嘉吉の乱・応仁の乱以後在田氏と播磨守護:赤松政則 との間に確執があってか?、山名氏との但馬国境・生野の真弓峠の戦いに大敗を喫した後・政則を追放し赤松家は分裂!。
河内城・南帯曲輪から西郭(左手に虎口が有る)

在田左近将監則盛が山名氏に付いた事は在田氏の貝の城・段の城の位置や鉱山事業・落城の際の城主在田氏は但馬生野の山名氏を頼って 逃れたとも考えられそう!!?。文明11年(1480)頃別所氏は三木城を本城として退去したとされるが、三木の別所氏は在田荘の別所氏とは関係なく作用の七条家(赤松範資の系統)を称した別所氏らしい!!?。 在田氏が入城した別所城(河内城)は、 佐谷町側の土豪佐谷氏の砦だったのかも知れない?。文明12年には赤松家が在田氏を攻めたようで三木別所氏も赤松方として在田氏を攻撃したのでしょう。文明17年(1485)頃、在田氏第4代在田則盛が多可荘の地頭となり、則盛の死で5代目民部少輔忠長が河内城に入って 在田氏の本拠としての城を築き、子の筑前守祐忠(村長)が改修したと思われます。
西郭:西切岸下曲輪からは東郭曲輪群まで帯曲輪を廻す

享禄2・3年(1529-30)在田氏は赤松家の守護代浦上氏に攻められ 2度落城するが其の際・河内城が使用されていたものか、 何処で合戦が行われたものかも判らないが…?天文年間(1532-55)初期に本拠を野間城に移します。 時代的にも勢力的にも在田荘を本貫地とした 在田氏と此の地の本城を持った 別所氏との関連が混沌として不明確のままだが… 別所氏の支配下にあったと思われる普光寺文書には永禄9年(1566)在田源次郎国泰・在田治部少輔元長が発給した安堵状があって周辺の領地は在田氏の勢力下にあった事を窺わせます。
西郭最西端曲輪切岸下部の土橋付き空堀(堀切)

別所氏築城説で別所氏を名乗った地名の別所は・在田氏築城説での「別所」は 赤松領または在田氏領の飛地としての「別所」であり、別所氏領地として地名の別所があったとは?考えられず・河内城は在田氏が本拠城として築城したものと推察します。永禄11年(1568)在田元長が野間城から笹倉城へ退居した際、 此処を一時的にしても城砦としたものかどうかも不詳。加西郡に関する別所氏の伝承の多くは在田(有田)氏のものであったとされますので播磨守護代とされた赤松肥前守は在田肥前守則康とみられています。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会を参照)

鎌倉山城 鎌倉山 453m  加西市河内町字鎌倉山

多可郡八千代町との境を東西に延びる山稜を法起菩薩像が建つ鎌倉山山頂(点名:比延田453m)へは 何度か訪れた修験道の行場 の山です。山頂から少し南へ岩場を下った”西の覗き”には岩壁に役行者像が浮き彫りされている。 此処も城跡だったかと驚かされます。麓の普光寺との関連も考えられますが宇仁山城と奥山寺の関連とよく似た立地条件を感じます。
鎌倉山山頂・西ノ覗きへの尾根左右に小曲輪が…!

共に加西市側から多可郡側への柳峠を押える位置にあり、その先には在田氏が本拠を移した八千代町の野間山城がある。旧在田氏本拠の河内城と周辺をも監視できる出城として、在田氏の拠城防備の城塞として 室町期〜戦国期にかけて機能したものか、在田荘内に居た別所氏が築いたものか築城時期や城主・城史は一切不詳です。鎌倉山山頂を主郭として曲輪群は「西の覗き」の 岩頭にかけての尾根筋と河内城に向かう尾根上に数段の平坦地を並べるだけで曲輪に切岸もなく土塁や堀切での防備補強も見られません。しかし特に西尾根に続く3〜4段の曲輪は 平坦部を尾根筋の山道で分断されているが同じ曲輪として上部の曲輪を捲き込む様な帯曲輪状です。
西尾根筋に分断された左右に顕著な 3〜4段の小曲輪が続く

とはいっても別所氏や在田氏が退去した後も使用されていたのか、永禄11年(1568)在田元長が野間城から笹倉城へ退居した際、 此処に砦を築いたものか?領地在田荘全域を眺望出来、少し距離は遠いが丹波・但馬・摂津・姫路や山崎方面を繋ぐ要衝を監視出来る位置にあって曲輪群も全て南面を向いているようです。河内城からは尾根続きなので其の 「詰め城」とも考えて見たが距離長く、急斜面の連続ではそれも当たっていないのかも…!



蓬莱山城(蓬莱山構) 大天井(鉢尾峰) 461m  加西市河内町

県道筋の直ぐ北側から始まる鎌倉山行者道は以前は足下の踏み跡も見えない猛烈なシダの攻撃をかわし ・掻き分けての難行から始まる修験業の道でした。このコースが蓬莱山普光寺からのコースと合流し役行者の石仏が立つ尾根に出ると 西に鎌倉山から河内城址へと延び出す稜線の展望と進む前方には大天井(鉢尾峰)が控えています。西脇市・八千代町 ・河内町との市郡町境界尾根上の1ピークは名が示す修験道の行場ですが、中世の山城が在ったと云われます。

蓬莱山城・山頂北側の1段下部の曲輪

要衝を監視する位置でもなく要害とも云えないが河内城の支城砦として鎌倉山城と共に室町中期頃?迄・丹波や北播磨側の見張台として別所氏一族の蓬莱氏【日本城郭体系の一覧に蓬莱但馬守範清(河内城主:別所頼清の孫)の構居とされ 遺構は不明とされる…?】が築き守備していた砦だったのでしょうか?北側は八千代町で在田氏が河内から本拠城を移していったところ。
曲輪から鉢尾峰山頂を見る

しかし其れ以前に別所氏も三木に本拠を移して久しい。 退転時期は不明ですが応仁年間(1467-69)頃、赤松政則に付いていた蓬莱若狭守裕滋が居て、垂井城(小野市神明町)に 居を構えて移ったとされます。別所氏が其の後も八千代町の在田氏を警戒して使用した砦とも思えないし?、 何時ごろまで機能した砦かは本城の河内城自体が不明なので詮索も無理なのかな…!



満久城 (蛤山城・満久構居)  蛤山(満久山)196m 加西市満久町

県道24号線河内町を西に向かう車道を跨ぐ緑の橋は両サイドの丘に占めるオーセント・ゴルフ倶楽部。 南側の丘に三箇所緑の木々が残る凸部をつなぐ平坦なグリーンが見える。東端の最高ピークが城址の蛤山なので、 北側からは何処を登ってもオーセント・ゴルフ倶楽部のゴルフ場敷地内に出るだけ。
三角点峰・西ノ山から満久城(蛤山)遠景

山麓を廻り込むように別所町から満久町に入り南側から取付きを捜してみます。泉中学校から西の峰へと思うが構内を通っては行けず周辺は崖、南側からは山の形もなく、 登ってみてもゴルフ場内にあい移動もできない様子です。日吉保育園・小学校の間から玉生山・寶泉寺(高野山真言宗)に行き、裏山へ続く四国八十八ヶ所ミニ霊場を辿ると最奥に法道仙人を祀る岩屋があり道は此処で途切れるが、上方に向って藪の中に続く踏み跡は直ぐに点名:西ノ山 (4等三角点 165m)に着きます。尾根を降って蛤山へと思うがグリーンで遮断されてしまいます。 プレーに勤しむゴルファーの向こうに望む本命の蛤山もグリーンに浮ぶ水風船のよう。
内藤家屋敷

諦めて戻るしかないが頂上には横堀や畝状竪堀等・永禄年間以降の特徴を残す遺構がある。土塁跡を残す二段の削平地や井戸跡・空掘等、最後の城主・豊臣秀吉家臣の戸田氏が居城していた天正期頃までの遺構も 良く残っていると云う。満久城のい築城は15世紀後期:多可庄(現:多可郡)の公文(荘園管理士<荘官>)に応る内藤氏だが、確認されている城郭遺構は中世戦国期のものとされる。 南北朝期・康永元年(興国3年1342)内藤内蔵介雅次の子・盛勝が常陸(茨城県)の宇野から
内藤家屋敷門(左手)

馬渡谷に来て馬渡谷城を築城し赤松氏の幕下にいた。嘉吉の乱(嘉吉元年1441)には馬渡谷城主 ・内藤俊次が赤松満祐と共に城山城で討死したが、その子内藤(左京進)盛次は落ち延び赤松氏の再興時には赤松政則に従い戦功を立てた。 内藤盛次は文明4年(1472)馬渡谷の地名が不吉との理由から満久に移って新しく城を築いたのが始まりとされます。その後継者達は代々多可郡八千代町 野間城主・赤松氏の嫡流在田(有田)氏の幕下で行動しています。

内藤家屋敷 xxx  加西市満久町

満久城も参照願います。永禄9年(1566)在田元長が野間城から笹倉城へ退居した際・在田氏は別所氏に併合され、赤松一族別所祐則の弟別所(赤松)弥四郎祐利が旧殿原城を修復し笹倉城と改め自ら笹倉姓を名乗った際には河内城鎌倉山城満久城…等が在田氏城砦群となったものか?は不詳。満久城の内藤氏・笹倉城の笹倉氏だが
内藤家屋敷(南東角)

芥田(ケタ)城主の世良田氏が戦った「芥田表合戦」では満久城の内藤氏も在田元長に従っており、感状を得ているが後:三木別所氏が現:西脇市・多可郡の在田氏を攻めた天正3年(1575年)には三木城別所氏に従い野間城の在田氏を攻めた。天正6年(1578)に始まった中国「毛利攻略」軍議の際:羽柴秀吉と別所氏重臣との意見の対立で始まった三木合戦に笹倉城主の則賢一族は三木別所氏に付いている。 内藤氏も笹倉城主と同様・別所氏に付いていたと思われる。
内藤家屋敷(脇門?間の土塀)

満久城の動向は不詳だが満久城最後の居城主が秀吉家臣の戸田氏なので三木城開城により内藤氏は満久城を出たものか…?。此の前:満久城主内藤家の居館が南山麓にある。建築時期等は不明だが L字状側溝に沿った石垣囲いの城主の居館跡。雑草が石垣を這い、崩れかけた土塀さえ下草・灌木が覆い隠す。荒れるがままの 廃屋?らしい母屋正面の門脇に”内藤家古庭園”の案内説明板が掲げてある。江戸時代中期に築造された池泉鑑賞式庭園としては程近い笹倉町にも同じ様式手法の長濱家古庭園(笹倉城跡にある長濱邸内)があって、 ともに平成4年3月24日加西市指定文化財となっているが、
内藤家古庭園は鬱蒼とした藪中に!!

風化任せの荒れように、説明文にある「母屋からが中心…離れ座敷前の…と築造された 池泉鑑賞式庭園の状況は滝の石組み・切り込みのある水落石・瓢箪型の池と中心に滝石組を組み…を推察するだけ!!。 「北条の宿」横尾の旧家の家並みゾーンに水田家住宅のコミュニティーカフェ”町かど亭”に寄り、裏手の蔵を資料館にと個人で改修・改築中(2019年春完成予定)の様子を見てきた後だけに指定文化財に限らず維持管理のあり方に問題・難しさを感じる。


殿原構居  XXX 殿原公民館付近?  加西市殿原

西脇市から妙楽寺町交差点に出る県道24号(丹波街道)を南下直ぐの別所町交差点で県道24号(上記の久城・内藤家屋敷に向かう)を左に見送って幅狭くなる車道を直進すると殿原町に入る。大抵:丹波から加西市街地へ向かい
殿原交差点を 「古坂・横尾」へと直進していたが今回は殿原交差点を右折して道なり、直ぐ左折・右折して殿原町公民館前に着く。北方への緩斜な登り坂約50m程には加西の「うどん」ではチョッとは知られる…イヤ!!有名な…うどん処”こはる蔵”があるので、公民館よりは分かりやすい指標になるのでは?。しかし殿原構居については構居跡を比定出来る調査資料を知らず城史一切も不明。現状から比定も推察出来る状況にもない。殿原構居は蛇行しながら流れる万願寺川を外濠として左岸の内側・殿原町公民館周辺に在ったようです。笹倉町の殿原城(笹倉城)は在田朝範の築城が伝わり3代続くが孫の朝完の時高田城(赤穂郡上郡町)に移った…その後:赤松祐利が笹倉姓を名乗り…と知られた存在ですが殿原構居については知る人も少なく城史一切不明。其の構居跡に比定される位置・範囲・残存遺構もなさそう…ですが、公民館敷地北側が3-4m程高くて、上段の工場敷地?南端(公民館との切岸状境)は土塁状 ・整地の建物西側も少し低い位置が整地されているが広い空き地?。南側の民家と畑まで3-4m程の切岸が延びてきており、此の民家裏南から西面端に掛けて削平された1段低い曲輪跡の様な二段構成?。万願寺川の河川段丘上の一画だけに、 川の水を引込み堀を廻し・北・東面を土塁で囲った「構」があったと思える遺構も、周辺の圃場整備や建物施設建設等の改変で消滅したものか…?。公民館背後の切岸状土手?や土塁状・一段高い倉庫状?建物や西面の広い平坦段も、其の際の残土処理によるものなのかも…?。


御陣屋(北条陣屋)  XXX  大信寺付近?  加西市北条町北条

県の歴史的景観形成地区「北条の宿」は地区の西外れに鎮まる住吉神社・酒見寺の門前町として栄え、江戸時代・幕府や 姫路藩に崇敬され厚く保護されてきた。此の酒見寺南門を出ると商家の家並みゾーン。南町を北に折れると寺町通リゾーン。寺町ゾーンを出て東へは福吉ー栗田ー横尾を通る横尾街道
酒見寺

(旧丹波街道)で県道369号「古坂」交差点近くに出る旧家の家並みゾーンとなる。旧街道東端に西向き地蔵と江戸時代中期の3基の石道標がたつ。享保13年(1728)「やしろ、大阪、京」が西国街道に天保7年(1836)「明らくじ、たんば」は丹波から丹後方面に繋がる街道。「明らくじ」は西脇市と多可町八千代区側への分岐点となる明楽寺(交差点)のことか?。県道を369号を北へは河内町から西脇市や多可町を越えて丹波・丹後に通じ、西へは福崎から市川沿いに但馬街道。南へは姫路方面山陽道・東へは小野市・三木市から摂津へと 西国街道に繋がる
酒見寺から大信寺へ:寺町通りの町並み

脇往還(脇街道)として利用された交通の要衝。 江戸時代に入ると経済・流通の中心ともなって山陽ー山陰を結ぶ商人専用の宿場町として発展してきたが室町時代:小谷城主赤松裕尚が「市」を開いて以来の市場町として市内唯一の町場が形成されていた在郷町。慶長5年(1600)姫路藩領だった北条町は江戸幕府が成立(1603年)した藩政時代当初:幕府の直轄領となっていたが 1640‐80年代頃には(延宝8年<1680>下総佐倉藩領・貞享3年(1686)相模小田原藩)関東の藩主領が続いた。
大信寺

天和‐延享3年(1681‐1746)までは富士山の噴火により領地が荒廃した小田原藩大久保家の救済に与えられた全国の代替え領地 (武蔵・甲斐・和泉・摂津等)の内一が北条町。翌:延享4年(1747)からは徳川三卿の一【徳川氏一族から分立した大名家の田安・一橋・清水】田安徳川家領となり 【延享4年(1747)以降の北条町大久保家・田安家について資料不知のため推察のみ】大政奉還(慶応3年 1867)翌4年龍野藩領になったが、 同年田安家が立藩し再び田安家領となり陣屋が置かれ明治の廃藩まで続いた…?と云うが翌:版籍奉還(明治2年 1869)により廃藩している。御三卿は常時江戸城内にあり領内行政に関わる必要はなく藩と違い改易されることもない。
大信寺東側の圃場付近に陣屋跡風情を想定!!?

大信寺はこの大久保家の菩提寺であったため 歴代城主の位牌が今も祀られていると…云い北条陣屋の特殊性からも、領地支配は在郷の士とも思えず旗本…等の幕臣が代官を務めており小田原藩・大久保家が引継いだものか?。肝心の北条陣屋は大信寺の北面にあったとの推定のみで 位置や遺構も知らず。寺町通り西の神社・東・北方の田畑や段差に陣屋跡を想像してみるだけ…



別府構居 xxx   加西市別府町中町 ?  高瀬

上記内藤家屋敷のある満久から東へ走ると県道24号(河内町)からの県道79号に出て南下すると 県道371号の「加西別府」交差点で合流する。県道371号へ右折すると県道24号に合流する玉野交差点に向かう。此の北方・加西IC側直ぐに殿原城(笹倉城)がある。
地神を祀る民家北方一帯は圃場

加西別府交差点から南下する県道79号を約180m程に進むと光福寺がある。山門から西向かいには直ぐ前方に 5-6軒の民家があるだけで周囲には圃場が拡がるだけ。此の民家周辺が別府構居らしい。
同上民家:北の圃場側から…

…が其の規模(城砦なのか其の範囲・面積…等)や居館主?について一切の市史等詳細が不明。一部発掘調査(1993‐94年)が実施され須恵器・土師器・磁器等の出土品により、平安時代から鎌倉時代までの構居跡であるとされている。鎌倉時代も後期・在田(赤松)氏支配が在田荘内の領内範囲を知らない。
県道79号側の光福寺(左上)と屈曲する民家側の畑地

平安‐鎌倉時代前後の荘園・庄園について加西市史…等資料により 詳細情報を知りたいところです。現状の圃場周辺の地勢(土地改良・圃場整備等により改変されてはいても両県道筋より低位置にある。城砦遺構なら深い濠と高い土塁囲みによる防塞でもない限り城砦関連遺構とは思えない。時代的にも当地の荘園領主か荘園官吏の国司成荘官等が濠囲いの代官屋敷を建てたものか?。
上の民家北面・溝谷沿い田圃の形状が変!!?(チョッと気になる)

玉野構居(加西市玉野)と同様に土師器・須恵器・掘立柱・土壙溝・井戸・堀…等が出土していても、城砦施設としての別府構居遺構が発見されたかは未確認!!!?。 別府構居の名前だけは20年ほど前に収集し当山城リスト(東播磨)内に挙げている。発掘調査によると鎌倉時代迄の構居跡?らしいが天文2年(1533) 金鑵城を落とした別所氏幕下:別所九郎衛門?の築城と云う。別府城の別名も蒐集したがデータ源や情報元の内容確証も不確かです…(-.-;)


芥田(けた)城(芥田砦・芥田構居) <未踏> 芥田の城山 323m  加西市上芥田町

県道369号を下芥田から久学寺や八千代町の揚柳寺へ抜ける道があります。広畑北バス停(大歳神社前)からは西方に芥田の城山が見える?といっても 城跡位置等がよく判からない。芥田川と万願寺川に挟まれた南北に延びる細長い山塊の最南端部274m山頂付近にあって?、貯水池が水濠の様に南山裾を護る低丘陵が「芥田の城山」なのか?
芥田城は右奥の三角形の山の頂らしい?

二つの川に挟まれた此処なら芥田川沿いに八千代町、万願寺川沿いなら市川町へ抜ける要衝にあって、監視には有効な自然地形の山頂部を主郭として築かれた山城と云われます。堀切・土塁等の防御性に欠しく、 曲輪の段差も不明確な南北朝期〜室町期の特徴をもつ城という。しかし目標の城山は更に尾根を辿った先の三角ピーク(323m)が其の様です。しかし何故こんな奥まった所に…?東方にある 鎌倉山城・蓬莱山城と同様の疑問を感じます。今回は諦め・南端ピークに留めるが遺構は期待できない様?。 城主は源義家を先祖とする世良田氏が拠っていました。三河守頼氏が世良田姓を名のり新田義貞が播磨を制していた頃、義家に従っていた満義が軍功により此の地を賜ったものか?その子・教氏の頃か?鎌倉時代後期・関東より来住し 正安元年(1299)には芥田城を築いていたと伝えられます。以後は室町期の赤松氏台頭で世良田氏は 赤松氏に付き嘉吉の乱(嘉吉元年1441)では世良田和泉守勝広が赤松満祐軍に参戦し、赤松氏の被官となり小谷城主・直操や善防山城主・則繁等と共に山名氏と戦ったが乱後は没落した。
芥田城と思った山頂部

赤松兵部少輔政則が赤松家を再興し、応仁の乱では世良田刑部介勝則 (大膳亮宗氏)は赤松政則に従って山名宗全と戦い、 中でも粟賀(神崎郡)での激戦では別所則治(別所城)・高田兼清(田原城)等と共に山名氏の幕下で竹田城主・小田垣景近の軍勢を播磨から追い出し、戦功を立て芥田に居城したといわれます。 世良田宗勝の時、姫路の野里に居を移した天文年間(1532-55)には家久が一族と姫路野里に移り芥田城は廃城となったようです。旧居の地名を姓に「芥田」と称し五郎右衛門家久と名乗り、全国屈指の砂鉄産地の宍粟や佐用の鉄を使い、 独特の製法で造られた「野里鍋」は珍重され、野里鋳物師の棟梁家となり、野里は鋳物師の町として栄えました。


赤穂義士ゆかりの久学寺と磯崎八幡神社・奥野将監屋敷
久学寺と大石良雄  加西市上芥田町782

西脇市から県道24号線(中北条線)を満久交差点に出て145号線?を西に向かうと上野町から県道369号 (大和北条停車場線)を下芥田から八千代町の揚柳寺へ抜ける道があります。其の峠に向う車道を見送って直進する集落内の道を直進して久学寺へ向います。また万願寺川沿いに進んで下道山町に入り、下万願寺町へと右折して 北に向うと山裾に礒崎八幡宮が見えてきます。その社務所脇から山裾を少し入った処には野将監屋敷跡があります。 多可郡八千代町の「なごみの里山都」の角を左折して山側に入っていくと大石の石垣(灌漑用ダム)の石積遺構が残っています。 常陸国笠間(茨城県)の城主浅野内匠頭長直は 正保元年(1644)大阪加番を命ぜられ翌年6月播州赤穂へ同石高の5万3千石で国替えとなりました。
久学寺

赤穂浅野家初代となった浅野長直は領地のなかでも特に”飛地領”で石高の多い旧加西郡北部(加西市)8920石の領地を熱心に見聞(検分)されたようです。 そして其の途中此処・文安3年(1446)創建の河上山久学寺(曹洞宗・加西西国三十三ヶ所霊場第5番 本尊:千手千顔観世音菩薩)に宿泊され、当時の6世住職:是天良扶和尚に深く帰依し、田畑山林12石を寄進され父・長重と浅野家代々の 菩提寺とされました。其の後:長直は赤穂に花岳寺を再建して久学寺6世と7世住職をも招請して中興開山され、浅野家の菩提寺となった三がく寺 【赤穂の花岳寺 ・東京品川の泉岳寺】の一つで、赤穂浅野藩歴代城主と47義士の位牌が祀られています。長直が隠居し其の子・長友が後を嗣ぐが僅か5年足らずで若死にされ、其の長子長矩が9歳で赤穂5万石の家督を嗣ぎ、祖父の官名”内匠頭”を賜わります。
磯崎八幡:本殿脇に並ぶ鬼瓦群

塩田の経営に成功した赤穂藩は其の後:元禄時代(1688-1704)には米の増産による安定した 藩体制を確立する為、各地で溜池等の治水工事を行い久学寺の有る加西市から東坂峠を越えた八千代町大和地区(旧加西郡大和村お三原や柳山寺)では赤穂藩直轄工事の灌漑用ダム建設が着手され、其の工事の進行を視察するため城代家老の 大石内蔵助良雄が再三訪れ、久学寺に宿泊し8世住職の碧峰と囲碁を楽しまれたと云います。元禄14年(1701)3月、江戸城での浅野内匠頭長矩刃傷事件で早籠が赤穂に到着した時も、内蔵助は久学寺で碁を打っておられ、 慌てて赤穂に帰られたとも云い伝えられています。主君:浅野内匠頭長矩と赤穂46士の戒名は菩提寺の久学寺9世海音和尚が 贈ったとの過去帳・大石内蔵助の手紙(浅野家菩提花岳寺の維持)・吉田忠左衛門や大高源五の手紙(先祖供養の手紙)等が残されています。


磯崎八幡神社と奥野将監屋敷  加西市下道山町

加西市北部から八千代町にかけての旧加西郡大和村は嘗て赤穂藩領の”飛び地”があった所で、久学寺に城代家老:大石内蔵助良雄、磯崎八幡神社には「赤穂浪士ゆかりの地」として赤穂城開け渡しでは逐電した家老:大野知房の代理を務めた重臣奥野将監定良が隠れ棲み、新田開発にも尽力したとされる屋敷跡や赤穂義士 :小野寺十内親子の墓もあります。
磯崎八幡神社参道入口

また吉田忠左衛門が代官として在番していた穂積陣屋は加東市滝野町に在る。なを将監は晩年:隣接する多可郡多可町中区に隠棲し、此処に81歳で没したと云われ奥野将監定良の墓が中区糀屋の稲荷神社裏の墓所内にある。 家老奥野将監定次(定良の父:元禄6年没)は禄高も大石内蔵助良雄の1500石に次いで1000石:赤穂花岳寺に墓碑があります。其の子・定良もまた1000石の組頭を務め「赤穂城開け渡し:浅野家改易」の時 には、逐電した家老大野九郎兵衛知房の代理を勤めて大石良雄を補佐し開け渡し作業に尽力し、幕府に対し主君の弟 ・浅野大学長広を浅野家再興の後継者として推したが広島の浅野本家へ永預けが決まり再興が絶望的になると大石良雄の義盟にも内蔵助に継ぐ1000石以上?の重臣としてはただ一人最初から参画し補佐している。 「忠臣蔵」で有名な赤穂47義士の列にも加わらず脱盟し一党から除列した事から”不忠”の悪評を受けているが、
奥野将監屋敷:右上の墓碑は将監の娘の子と伝えられる

赤穂浪士47士の一人:大石信清(瀬左衛門)とは従兄の関係にあり、討入りに加わった瀬田高教・木村貞行も奥野将監に属した藩士だ。東京大学史料編纂所に保管されていた「大石家文書」や新たに見つかった「江赤家秘録」等によると 内蔵助と血判状を交わして誓った赤穂藩士が120人もいたとされ、第一陣として本懐を遂げた大石の47義士の他にも奥野以下70余名が脱盟者として・報われず汚名の返上を果たせなかった悲運の赤穂義士が残っていた事になります。「山本家文書」には大石良雄等の義挙が万一不成功の場合は第二陣として仇を報ずる予備の抑えとする大石・奥野両家老の深謀術策だったともされています。 大石良雄が敵討ちの真意を欺く為・映画芝居で良く知られる京都での遊興放蕩だったが、其れを知らず嫌気がさして脱盟したとされる将監もまた・敵を欺く為の策謀だったか…真相は謎です…?。
将監屋敷

将監はじめ「神文返し」を受け取った70数名の脱盟者たちは”醜夫”の烙印を押された不義士だったのか?磯崎神社本殿脇の 倉庫前に並ぶ鬼瓦は、無常な世間の風潮と果たせなかった無念さを憤怒の形相で睨みつけ脱盟者達を代弁している様。赤穂浪士の中でも忠臣蔵で知られる義士達は其々に艱難辛苦の末、本願を成就し名誉を得て自刃しているが汚名を返上する手立てのなかった彼らもまた、より以上に辛く過酷な運命を背負った烈士だったと信じます。 【2000年12月放送のNHKその時歴史は動いた脱盟者たちの忠臣蔵〜…ビデオが参考になります】将監は磯崎神社の神宮寺に娘が嫁いでおり、
屋敷跡曲輪の低い段差を半周する浅い濠跡?に落す

婿の快知院秀慶(径?)を頼って京都から 一時此処に移り右衛門と称し隠棲した屋敷跡が磯崎神社社務所脇から田圃の間の山裾を少し入った「馬場先」と呼ばれる 山林の中に周囲を浅く掘りきった平坦地が有り、此処にひっそりと暮らしていた様子が窺えます。其の後・多可郡中町に居を構えて新田開発に従事し享保12年(1727)81歳で没したと云われています。
(現地:屋敷跡案内板及び赤穂義士ゆかりの久学寺 (八千代町花の宮の町かど案内所で頂いた)パンフ・Wikipediaを参照)
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