"あまんじゃく"の民話と播磨の富士  入相山〜(笠道 )〜笠形山
播磨(五万図=生野)
高坂峠〜入相山〜竜ノ背〜笠形山 〜"あまんじゃこ"の力水〜林道 2003年10月04日
笠道(りゅうどう)コースから笠形山
ふるさと富士 :播磨富士(笠形山 939m)
近畿の山100 No.93 関西の山 No.43 笠形山
笠形山の民話 "あまんじゃこ"の挽き岩 首無し地蔵(袈裟斬り地蔵
校歌・故郷の山:八千代西小学校♪笠形山の 空高く ま白にうかぶ雲のよう…♪
        瀬加中学校(神崎郡)
♪むかしながらの播磨冨士…♪

笠形山は信仰の山として開かれた市川町側の古刹・笠形寺から 笠形神社〜笠ノ丸を経るコースが良く利用されるようですが 神崎町側のグリーンエコー笠形からも扁妙の滝を見ながら滝見尾根を辿るコース・最近コースも整備された八千代町大屋から龍ヶ瀧〜林道〜天邪鬼の力水を経て笠形山から千ヶ峰へと続く縦走路へ出るルート等、いくつものコースがある。 この縦走路に合流すると5分おきに「竜の背」「立石とアマンジャコの挽岩」「天喜岩」そして展望絶佳の一等三角点・播磨富士でも知られる笠形山山頂です。
高坂峠に建つ子安地蔵尊

どのコースも見所多いことでも人気があり何時も山頂は賑わっています。今までにも何度か訪れた此れ等コースは6〜7年前歩いた 「高坂峠から笠形山」へのピストン山行後に 確認して見たくて歩いてみる。数年前に「三国岳〜加美アルプス〜千ヶ峰〜笠形山への縦走コース」が整備されたが整備後に未だ歩いていなかった加美町と神埼町境界にある 高坂峠をスタートして笠形山に向かいます。


コース  高坂峠〜入相山〜笠形山〜あまんじゃこの力水〜林道 H15年10月04日

雄大な山容は姿良く、山頂からの360度・丹波・播磨・但馬の山々の展望が素晴らしい笠形山は 播磨富士・播州富士とも呼ばれる。何処から眺めるのが最も富士山らしく見えるか??未だ確かめていないが今日の道(りゅうどう)コースで入相山を過ぎた辺りや 834mピークを過ぎた辺りからは富士型の姿が眺められるようです。西脇市方面からR427号を北上して加美町寺内で県道8号(加美山崎線)に入ります。 神崎町の粟鹿へ抜ける山越えの道は高坂トンネルで多可郡と神崎郡の郡境界となります。
落葉の清水(元の!!親水公園)

此処に「松ヶ井の水」があり狭い車道脇のスペースに、給水に訪れる人の車も多いので危険な為、奥荒田側に少し下った処に給水を兼ねた 「新松ヶ井の水公園」が出来ました。室町時代の永正年間(1504-21)播磨・備前・美作守護赤松義村が定めた播磨十水【後年の元亀・天正期頃の播磨守護:赤松上総ノ介則房説もある様で則房が選んだ 「落ち葉清水」は佐用郡舟曳庄とあり、選考が異なるようです?】に選ばれた名水ですが名の示す通り落葉に埋もれてか ・土砂崩れでか!!一時はその存在が分からなかった幻の名水でした。元は高坂トンネル上を通る旧道 (加美町・神崎町の旧道入口に看板有)の高坂峠手前にあった播磨の名水「落葉の清水」は 昭和32年林道工事で土砂に埋まり所在不明となっていたが、
県道筋の松か井の水(親水公園)

昭和62年治山工事の際に発見され、高坂トンネル工事の際に見つかった湧き水が平成13年「新松か井の水公園」として整備されたが、現在は更に荒田地区側に下った所に 駐車場付き公園として整備されている。播磨の名水「松ヶ井の水」として当初はラベル付きボトルまで取水用に用意されていたこともありました。旧道は1車線幅の曲がりくねった狭い道で、高坂峠から神崎郡側は 車道左右の雑草を掻き分けるように進む程なので対向車の来ない事を半ば祈りながらの道行きです。旧道の高坂峠手前で「松ヶ井の水」を補給して郡境に子安地蔵尊を祀る高坂峠に着きます(AM11:10)。 【追記・松ヶ井の水】最近・土日の取水には順番待ちの列が出来るので、旧来の親水公園に落葉で滑りやすそうな細い林道を上っていった。 今時此処を訪れる人は途絶えた様で、狭い路肩に車を寄せて取水口に降りていったが、以前は勢いよく流れ出ていた管からはチョロチョロ程度しか出ていない。
865m峰を過ぎた辺りからの笠形山

此れじゃ来る人もいない筈だが、落葉の清水(松ヶ井の水)が丹波の「狸穴の水」同様、 元の場所を離れた場所に取水所が出来ています。其れだけに本来の場所も名前の由来等も忘れ去られ水源さえ別なのでは…?と不安にも思え・その事も残念です。参考までに桃山時代の播磨守護 :赤松上総ノ介則房が定めた播磨の十水とは :小野江清水(姫路市)・笹井清水 (御津町)・小野清水(姫路市本町姫路城内) ・桜井清水(太子町)・花垣清水(姫路市?)・井口清水(加古川市)・黒田苔清水 (姫路市飾東町)・御所清水(姫路市梅ヶ谷)・野中清水(神戸市西区)・そして落葉清水(但し佐用郡舟曳庄?となっている)
広域基幹林道笠形線から滝野CC

両入口にゲートのある 未舗装林道は広域基幹林道笠形線は オマケに道幅一杯に崖崩れによる土砂が 堆く積もっている所も有りますがMTBだと実に快適な周回コースになるはずです。このコースで大屋や舟阪峠から続く林道を延々と歩いて戻ってきました。 高低差こそ少ないが林道が長過ぎて笠形山までの縦走周回は、歩きの場合だと稜線をピストンした方が時間的にも楽のようだと後になって実感。高坂峠から北側の尾根筋へは 飯盛山〜千ケ峰への登山口。南側の谷筋に沿うように道が続く(以前はゲートのある短い作業道だった)整備された登山道が 入相山〜笠形山への登山口で「笠形山千ケ峰縦走コース案内図」が設置されています。
笠形山山頂から東面(播磨白山〜妙見山方面)

炭焼窯の跡が数基残っている処を過ぎれば東の峰からの鞍部に着く(AM11:25)。以前は峠から踏み跡薄い尾根通しに谷筋の東の稜線から東峰662mに出て此処へ降りてきたが入相山迄殆んど 展望が無いので此処からの多可郡側の展望も棄て難い。稜線上の道は広くなり歩き易い。テープ類も増えたので道なりに進めば迷わずに笠形山へ着きますね。登り一辺倒・最後の急登りで入相山頂上(3等三角点 780m AM11:40)に到着です。 雑木に囲まれ此処からは以前は藪っぽい踏み跡が続き、立木に加古川の登山団体の調査用のプレートがあったのが、 今の千ヶ峰〜笠形山縦走ハイキングコースの調査票だったようです。山頂からは少し東側が開け南方には笠形山の頭が少し姿を見せています。東下方に滝野カントリーが見え隠れし始め834mピーク付近から現れる鹿除けネットに沿っての 登山道は865m(4等三角点!! PM12:00)の切り開かれ展望の良い休憩ピークに飛び出てきます。
「竜の背」

砥ノ峰生野高原や白岩山・飯盛山〜千ヶ峰 岩屋山〜篠ヶ峰等西面の眺望が楽しめ、 六甲連山から西光寺山白髪岳〜松尾山多紀アルプス大船山へと丹波・播磨・摂津の山々も南方に見渡せます。 また此方には広域林道笠形線への下降ルートもあるので、帰路のコースは此処へ戻ってくる林道ルートに採る事を決めて先に進みます。初九鈴や雑木の樹間から 時々見せる笠形山の姿が良い形で望め, 山頂広場の休憩東屋も見えています。笠形山頂へ後15分(約400m程)の鞍部が八千代町大屋からのルートで、この分岐に道標と「愛してネ笠形山 守ってネ千ヶ峰」のグリーンクリエイト協会の
「天狗岩」とその周辺

看板が建てて有りPM12:40)5分程で尾根上に突き出たような 岩の形状から「竜ノ背」と呼ばれる場所があり、 さらに5分でこのコース 唯一の鎖場で、笠形山(播磨富士)と妙見山(妙見富士)の間に 橋を架けようとした"あまんじゃこ"の民話が残る「橋脚の岩」とアマンジャコの挽石を見ます。鎖のある岩場を擦り抜けて(左手に巻き道も有りますが…)上部に出ると、築いた橋の土台を残したまま消えた"あまんじゃこ"の話は、立石の向こうに妙見山を見て妙に 非現実な話ながら感心させられます。まして此の先直ぐ山頂ですが、 手前で右手の踏み跡を辿れば「天狗岩」があり周辺の岩を見れば民話は益々、出来過ぎた話を裏付けしてくれます。
「天狗岩」とその周辺

丹波石戸山の賽ノ河原の鉄平石と同様に厚さ数cmの大判タイルの様な、 板状節理の溶結凝灰岩の断層が崩れた地盤の中に何重にも重なっているのが見られます。熊笹の道を元に戻れば頂上は其処です。播磨富士・近畿の山100・関西の山100・ふるさと兵庫50山に選ばれた笠形山 (1等三角点 939m PM1:00)です。季節の花・奇岩・滝・古刹・それに何より展望の良さと、 どのコースを採っても見所一杯で至れり尽せりなので登山者の絶える事ない人気の山です。為に一人来て此処でユックリ出来るのは雨や霧で展望が望めない日か
基幹林道・入相山裾からの笠形山

冬場くらいでしょうか!!!!淡路の島影を背にして光る明石の海や、小槍を伴って周囲の山々を睥睨して突き出る 明神山(播磨富士)に続いて七種三山・雪彦山、さらに西北へはなだらかな山容の 暁晴山峰山高原・段ヶ峰〜生野高原へと拡がる眺望を立見席で楽しめるが、 登山者も多くて腰を落としてゆっくり休める場所も有りません。元来た道を八千代町大屋への分岐鞍部まで引き返して (PM1:12)舗装林道の広域基幹林道笠形線に下ります。植林帯の暗く展望のない、 急斜面を下り続け「アマンジャコの力水」と銘々の水場に出る(PM1:28)。乏しい水流の谷筋道を10分程下り続けて基幹林道に飛び出す(PM1:38)。 此処に登山口の案内板と杖が用意されており、笠形山へ約1時間の最短ルートです。此処迄車を乗り付ける人もあるが、 出来れば林道先から大屋への「龍ヶ滝」へ寄るコースで歩きたいものですが、此れより高坂峠へと延々続く林道歩きで戻ります。
大屋側・基幹林道からの登山口

登山口から林道を 2〜300m程のところに「滝の展望台」があったが滝音が聞こえるだけ、龍ヶ滝の姿は展望台附近の藪や樹々の重なりで確認も出来ません。 笠道(りゅうどう)コース縦走中・865mピークにあった道標のコースは、笠形線が一番西に入り込んでいる地点(PM2:15)から尾根に取り付く踏み跡が有ったように思ったが、見当つけていた地点をどんどん 通り過ぎてしまったようで、林道は此の先・傾斜を増してドンドン下って行くようです。その手前に「←金蔵寺」の案内標のある地点から左手山側に入りこむ未舗装林道があった(PM2:40)。入口には進入禁止ゲートがあるが、 このダートな林道(作業道奥山3号線)が高坂峠へと続き、郡界の子安地蔵尊の前へ出てきました(PM2:55)。

[あまんじゃこ]の挽き岩

昔々・播磨の笠形山に「あまんじゃこ=天邪鬼」がいた。あまんじゃこは、へそまがりで人の言うことにはわざと反対する、悪戯っぼくて物凄いカ持ちでした。寺の山門では仁王像に踏みつけられている天邪鬼も、 此処に登場するものは性格は一緒ですがチョッと違うようです。その身体は、とてつもなく大きかったので、いつも頭が天につかえてしまい、背を伸ばして歩けるところはなかった。彼方ら此方らと国を巡り歩いたが、 何処へ行っても這うようにして歩くより仕方がなかった。「あゝ思いっきり背中を伸ばせる所がないかなあ」チョッとした弾みで腰を上げ過ぎては頭をゴツンと天にぶつけます。ところが、この土地(多可郡)へやって来たとき、 急にぐう〜んと空が高くなって、 両手をうんと挙げて思いっきり背伸びをすることができ 「たかの郡だ」と声を弾ませながら叫んだという。「ほんまに高いところじゃ」…此の地方が 「多可」郡と呼ばれるようになったのはそのためだとか!!。
「天狗岩」周辺の溶結凝灰岩(板状節理)

それはそれは、たいそうな気に入りようで、 その後"あまんじゃこ"は長い間、この土地に住むようになったが、もともと悪戯好きの"あまんじゃこ"ですので、しばらくすると色んな悪戯をし始めます。或る日のこと、中町と加美町の境にある妙見山と 笠形山の間に橋を架ける事を思いつきます。一夜のうちに橋を架け「おや!いつの問にあんなでっかい橋が…」と村人達が驚く様子を想像するだけでも楽しくなり、日の暮れるのを待っていました。 橋を架けるため 橋脚を立て橋板にすべく岩を板状に切り、さていよいよ丸太を渡して橋は出来上がりという段取りになって、よく考えてみると妙見山と笠形山の間6kmもあるような、長い丸太など何処にもある筈もない「はてさて、 どうしたものか」迂闊だったと"あまんじゃこ"は困ってしまいます。星明かりを通して周りの山々を見渡しながらアレコレ考えてはみても、中々良い知恵が浮んできません。 そうこうしているうちに山の麓から 「コケコッコー」と、一番鶏が鳴き始め東の空が明けかけます。「おや、朝になってしもうた。こりやいかん」"あまんじゃこ"は、慌てて山中へ逃げ込んでしもうたとか。"あまんじゃこ"は、 夜だけの生物で 太陽が昇ると駄目になるので残念ながらこの大架橋工事は橋脚を立て、橋板を切って準備OKというところで 夜が明けてしまったというのである。あるとき"あまんじゃこ"は笠形山の大岩を砕いて、それに太い縄を縛りつけて、その岩を村から村へと引き摺って歩きます。
笠形山の立石(アマンジャコの忘れ石の一つ)

岩がころぶ度にゴロン、ゴロンと大きな地響きがして村人達は、神の祟りと怯えて一人も家の外へ出てきません。 "あまんじゃこ"が大岩を引き摺って歩いた後には、土地が深く掘れて川が出来ふり返って見ると、すでに川には水が流れてきていた。その後、何年たったであろうか。"あまんじゃこ"は、 とうとう橋も架けずに姿を消してしまっていた。二つの富士の妙見山(播磨富士・妙見富士)には「あまんじゃこの忘れ石」、 笠形山(播磨富士)の山頂に橋脚の立岩が残っています。築いた橋の土台を残したまま「あまんじゃこの挽岩」と共に民話の世界に誘ってくれます。笠形山山頂と立岩の間には"天狗岩"が有って、 周辺には橋の板にでも使おうとしたかのような??溶結凝灰岩(板状節理)が崩れた地盤の断層に何重にも重なっているのが見られます。



首切り地蔵(袈裟斬り地蔵)    神崎郡神河町根宇野(みよの)

多可郡中町から加美町へと杉原川沿いのR427号から県道8号線(加美山崎線)に入り、高坂峠へ向う道は高坂トンネル手前にある「新松ヶ井の水公園」に取水に来る。播磨の十水の選ばれた名水:松ヶ井の水(落葉の清水) がトンネル上に通じる旧道に有るが水量も少なく、今は細い道を辿り・更に急な階段道を上下してまで取水に来る人もいない。水脈は違うようですが県道脇の取水公園の方は利用者も多い。此の高坂峠を西へ下っていくと グリーンエコー笠形の登山口・根宇野を過ぎて神崎郡神崎町(現:神河町)・R312号に出る。生野へ通じる但馬街道が走り、福本藩陣屋が在った所。 つい2〜3年前までは余り知られていなかった「銀の馬車道」を大河内町と合併して神河町となったことを契機にPR。 町のパンフレットにも名が記されていますが、生野銀山からは越智から高坂を越え京都・摂津方面への銀山街道があり、福本藩も参勤交代では費用削減の為に根宇野を通り利用したという。

首切り地蔵

根宇野(みよの)は古来:女野(にょうの)村の名があり、また妙谷の原野を開拓して妙野 (みょうの)とも呼ばれたという。地区の東外れの地蔵堂が建ち内部に高さ4〜50cm程の二体の石仏が祀られているが、首の部分は自然石?が載せられ、落ちないようにカラフルな前掛けが幾重にも捲きつけて固定されているようです。 江戸時代:宝永5年(1708)旅の身支度を整えた一人の男が根宇野から高坂峠へと京・江戸を目指して此の街道を東へと急いでおりました。男の名は上月平左衛門:上月氏は赤松則村挙兵以来、赤松氏家臣として盛衰を共にした 則村が秀吉に置塩城を明け渡した天正6年 (1578)頃・新野に土着帰農し、江戸時代中ごろには平左衛門景吉が大庄屋を務めており、当時飾西神西郡28カ村の長年の利権争いを解決して亀カ坪山の入山権を確保した。 登山では亀ヶ坪に:山城では鶴居城(永良山城)訪城の際に、山麓JR新野駅付近にある義人:上月平左衛門の墓 (旧大河内町)に寄り、 由緒:偉業を知りたいと思っていたが、県道側に建つお堂と案内板が気になり立寄ると、お堂に祀られるのが首切り地蔵で上月平左衛門に纏わる由緒が記されていた。
根宇野の地蔵堂(首切り地蔵)

平左衛門はうち続く不作の為に、 重い年貢に苦しむ人々の姿を見かねて救済すべく、何度も藩の役人に減免を訴えますが聞き入れられず、 死を覚悟して江戸幕府への直訴の旅に出立しました。ところがこの事が藩の役人に知られ目的を達成する事無く、 追ってきた藩の役人により此の地で斬り殺されてしまいました。根宇野の人々は嘆き悲しみ・彼を霊を慰めるために地蔵像を立てて祀りましたが、どういう訳か幾日も経たない内にその首がコロリと割れて落ちてしまいます。 村人はもう一度地蔵像を造って祀るが前と同様に首が落ちてしまいます。丁度:平左衛門が殺されたときと同じ袈裟斬りされた姿に、村人たちはお坊さんを呼んで懇ろに弔い霊を慰めました。昭和年代末頃にお堂が建てられ毎年地蔵盆には、 根宇野地区住民らにより平左衛門の徳を称え・お経や数珠繰りで供養されています。いつも農民の苦しい立場を訴へつづけた上月平左衛門と思われる人物の伝承を旧神埼町の 城山群集墳の中にも「マムシ谷伝説」に付記しています。

(現地:首切り地蔵<袈裟斬り地蔵> 案内板参照)

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