鵺退治・源頼政公は!! 所縁の長明寺から 長明寺〜金城山〜アンテナ塔〜和布
兵庫・播磨  (五万図=北条・三田)
長明寺〜金城山〜宮前山(テレビ塔)〜点名:和布)〜高松霊園  山行日 2002年05月26日


深山木みやまぎのその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり(詞花より)
源頼政『深山の花』の題を出されて詠んだ和歌は『平家物語』巻一「御輿振」に引用された歌。 源頼政は摂津・多田源氏の末裔で千載集や新古今集に和歌を残す歌人で山めぐる雲の下にやなりぬらむすそ野の原に時雨過ぐなり(千載より)頼政を有名にした妖怪 「ヌエ」退治のお話をご存知の方も多いと!!?思います。今日はその頼政公の墳墓がある西脇市の長明寺が基点です。
エビラ谷登山ルートから金城山

頼政公の墓は宇治平等院にあり、首塚が亀岡市にもあるんですが…長明寺 頼政公の鵺退治像の前を抜けて頼政池(当時は沼地の残る河川の公園かダム工事中だと思ったが綺麗な池に生まれ変わっていました)の案内標を見て展望の良いテレビ塔 (導標は全てテレビ塔となっている宮前山)へ登った事があり、其処からみた金城山へも石仏道(ミニ八十八ヶ所巡礼 )からエビラ谷を詰めて登った事があったが、登山口の小さな木札を見過ごした為、 猛烈なシダで埋まる急斜面を藪漕ぎで抜け山頂南で合流する岩混じり稜線を辿った事もあった。今回はその両山を繋いでの短い馬蹄形ルートです。


長明寺 「鵺退治像」〜金城山宮前山(テレビ塔)〜点名:和布
  H14.05.26

R175号西脇バイパスのトンネルを抜け最初の信号 ・板波橋東詰を左折し直ぐ正面に長明寺山門を見て、その横から始まる狭い急坂を登ります。そのまま境内に入って行くようで車では判り難いかも?。御朱印蔵跡(徳川三代将軍以来の御朱印 ・長命寺縁起什物<寺宝>等保管されていた。寺縁起は住職が、釈迦如来涅槃軸は 市歴史資料館に委嘱されている)と高松山 寺子屋跡(江戸時代後期)石碑があるが同様に関心をもって 気付く人も少ないかも!!?。前回は鵺退治の像のある車止まで入ったが、長明寺山門前を左折・高松霊園の駐車場 (AM10:20)奥の車止から始まる広い道は「八十八ヶ所巡り」の観音石仏の道を抜け頼政池に出てきます。
高松山を映す頼政池

沼地と荒れた谷間の窪地は綺麗な貯水池になっていた。水面には頼政公所縁で長明寺の山号になっている高松山が映り込む。巡礼道は頼政池をグルリと廻って金城池下流の谷川に沿い 頼政公墳墓の前に出て一周するコースだが谷川沿いには弘法大師と並んだ観音磨崖仏も何体か見受けます。この山はアンテナ塔からの尾根を帰路につくとき最後に通過するピークだが登山コースの直ぐ横にありながら藪の中にあり 近くの三角点和布にプレートがあったロールアウト大柿氏も寄ったと思えない (誰も行かない!!)ところです。頼政池畔には早速大きな詩碑が建っておりエビラ谷を 金城池に向う道すがらの左右には多くの歌碑を見かけます。頼政池や高松山を歌い込んだ詩も何点かあります。
長明寺・八十八ヶ所巡り内の磨崖仏

頼政池の堰提からミニ霊場巡りで長明寺頼政公墓下へ一周して 頼政公の鵺退治像に立ち寄ってから、再度頼政池から金城池を目指します(AM10:40)。この道の左右に立ち並ぶ多くの頼政公を詠んだ歌碑が何故此処にあるかは、 もうお分かりですネ。右下手へ霊場巡り道をみて林の中の道を進んでゆくと、池に向って打ち込むゴルフ練習場になってしまった金城池です。青々とした湖面に周辺の山影を映しこむ場所はヤードを示すポールやブイや噴水で消えてしまいます。 金城池の北端からは露岩を覗かせる無名ピークがあり、この尾根通しに金城山を目指そうと広いエビラ谷河原を渡りゴルフ場管理棟へ続く林道を辿ってみたが取付点らしい所も無く引返し、元の山道へ戻って谷を詰めます。 2〜3度谷を横切って続いても一度渡り終えた辺りに「金城山200m」の朽ちかけた道標を見て堰提横を過ぎると左手へ細い道が続きます。正面は快適な広い山道ですので行き過ぎがちですが注意してみると小さな木札に気が付きます。以前この広い山道そのままドンドン進んで、最後にシダと雑木の大変な藪漕ぎで 枝尾根に出て金城山南の主尾根に取り付いたこともあったので注意します。
金城池から無名ピーク

地図に記載の金城山近くを 越える道など既に跡形なしのようです!!?? 此処を気付かず通り過ぎても次の左への明確な道を見落とさないように。どちらも同じ登山口取付きに通じています。 木の枝に掛かる『金城山登山口』標識をみて尾根の登りが始まります(AM10:50)。周囲の多くの山にハイキングコースが整理されていた昭和XX年頃とは違い、今は殆ど訪れるハイカーも居ないのか靴跡を見ることもなく、 段々と藪に覆われ足場はシダで隠れる山道となります。藪に戻りつつあるハイキングコースですが露岩の稜上に出てくると、眺望も開けてテレビ塔(宮前山347m)〜点名和布の短い山稜や西光寺山方面の山が姿を現わしてきます。 金城山からこの後向う宮前山への尾根筋は 一気に急角度で頂上に向う様を見せ付けています。ひとしきり展望を楽しんで休んだ後は、またもシダと雑木藪に踏み跡を辿って平坦な山頂の三角点石標と朽ちて倒れている山名標柱のある最高峰 金城山(3等三角点 399m AM11:20〜11:30)頂に着く。白雉2(651)年此処・山頂に法道仙人創建による長明寺があったと伝えられ地元では古松山と呼ばれます。雑木・潅木の中で展望も宮前山に向う尾根筋も良く解かりません!!(^^;踏み跡も顕著な南尾根を少し降って見ます。段々と快適な良いコースになってきます。 以前は藪を突いて抜け出た尾根からこのルートで山頂に立ったのですがスッカリ記憶からは抜け落ちていて思い出しもしません。
点名:和布とアンテナ塔(宮前山)

山頂に取って返して潅木の中を北への稜線とおぼしき方向に向かう。斜めトラバース気味に軌道修正しながら進み山頂から続く山道に出た。 後はこの踏み跡を外さず進むだけです。そこそこ辿れた細い道でしたが小岩のある広場のような高台のピークからは3〜4ッのピークが連なる雑木の尾根と山名が同定出来ない小山が東面に見えるだけ。先ほどの踏み跡は、 このピーク西方の下を捲くように続いているが 完全に藪に埋まった殆ど利用される事もない山道ですが境界ポールもある尾根なので藪や倒木を避けても余り大きく外れ無ければ大丈夫!!。雑木の隙間からは金城山が段々と丸いドーム頭をもたげてきます。 どんどん降って鞍部から、今度は一気に急登となり、此処まで続いた踏み跡も不鮮明になってきます。
露岩上を辿るのが展望も楽しめそうです。緩斜面ですが腰を落として休めるほど の所でも無いのでそのまま登り続け露岩部の上部に達するが 幾つかの細い道らしいものはあるが獣道のようです。 左手(岩の真上・西側)に寄らないよう右手よりにシダと雑木の藪に踏み跡を辿り鹿野町から続いて山道だろうか!!整備された道に飛び出してくる。
アンテナ塔(宮前山)から金城山

テレビ塔真下・アンテナ群への登り口ほんの10mと離れていない。しかし此処、テレビ塔(宮前山)側から金城山へ向う場合、その取り付点を定めるのは難しいと思う。 山道からはアンテナ群の横を山頂に向う階段を直ぐ。尾根上を東端の最高所に向えば、山域一の好展望地点宮前山 (347m PM12:30〜12:40)に着きます。NHKとDocomoの西脇無線中継所があり、ハイキング道の案内標は全てアンテナ塔と 素っ気無く呼ばれている山です。金城山の奥の尖りは西光寺山か?、和田寺山・松尾山〜白髪岳・杉原山から三角山そして加古川の流れを北に石金山へと近在の山々が360度楽しめるパノラマ台ですが、広くも無い山頂ではゆっくり腰を落ち着ける場所では無さそうです。 これより頼政池へは一般ハイキング道で4月末の頼政祭りでは所縁の高松山が下山途中にありますが、 ここアンテナ山までの登山も行われているようです。金城池畔から辿ってきた今までの道は何んだったか!!極楽尾根ですね。前方に見えていたピーク点名:和布(4等三角点 313m PM12:50)には大柿氏の赤布があった。 「雨模様だがアンテナ塔まで行ってみる」とコメントがあったがマサカMTBで金城山へ向ったとは思えない??。
 山頂は雑木藪の中・金城山

おそらく引き返さず広い山道が巡視路か鹿野町へ続いているか分からないが直進されたものと思います。西のピーク端には案内標識と急斜面にロープがセットされています(PM1:00)。 高松山は此処から直ぐの雑木藪の中にあるが、頼政公所縁の山、長明寺の山号でもある山に踏み跡も無いのは??何故か分かりませんが、寄って見ても展望は無いでしょう。金城池を見下ろす此処、ロープのある下降点の方がズット良いかもしれません。 高松霊園の停めている車が確認できます。程なく傾斜も緩やかになり墓地の横、霊場巡り石仏の道を辿って頼政池からの林道出口となり其処が墓地駐車場でもある。施設の自販機で冷たいものを(ピールじゃ無いですよ)口にして一呼吸(PM1:30)。 比延谷川に沿って566号線を走り白坂トンネルを抜け鴨川(清水寺下)〜今田へ出て何時もの帰り道です。


源 頼政
  長治1年(1104)〜治承4年(1180)

西脇市高松町は源頼政所縁の里といわれ、金城山登山口・長明寺には弓の名手源頼政の銅像が建てられて周囲に数点・頼政の歌碑も立つ。 大江山の鬼退治で有名な摂津源氏の祖源頼光の五代目源仲政の長男として生まれ弓術に長じた源頼政は武人・歌人としても多くの和歌を読み「家集」や「千載和歌集」「新古今和歌集」にも撰に入れられ 後世に伝えられています。保元元年(1156)7月2日、鳥羽上皇が崩御。それをきっかけに起きた後白河天皇と崇徳上皇との保元の乱(1156)に、頼政は鳥羽上皇の遺言により後白河天皇方に付き平清盛・源義朝・源義康等とともに、 郎等の渡辺党ら100騎を率いて参戦。平治の乱(1159)では源義朝から途中離反し、平清盛と行動をともにして信頼を得て昇進を続け治承2年(1178)には従三位に叙せられて源三位(げんざんみ)と呼ばれたが翌年には出家して源三位入道と称し、法名を頼円と呼んだ。治承4年(1180)4月75歳という高齢の身で以仁王(もちひとおう)を奉じて平氏打倒の挙兵が露顕し南都に向う途中、 宇治で平氏の軍勢と衝突し戦い敗れて宇治平等院の「扇の芝」で自刃4月26日・享年77歳。平等院内最勝院の祀られている。
西脇市・長明寺の「頼政公の鵺退治像」

辞世の句「埋木は 花咲事も なかりしに 身のなるはてぞ哀なりける
「源三位頼政卿集」に越かねて今ぞ越路にかへる 山雪ふる時の名にこそありけれ…望郷の気持を誘うこの歌、今庄から敦賀に通じる周辺を帰山と呼ばれ彼が若狭・宮津へと足跡を残したとすれば、ヒーローの諸処伝説の中には下記のような伝承があっても不思議ではありません。 各地に残る様々な口承は、その時々の時代を反映して内容も変りますが、山椒太夫「安寿と厨子王」の厨子王丸(対志王丸)は源頼政がモデルとの話もあります。武人であり歌人であった頼政公ゆかりの長明寺では毎年4月末(26日が命日とされる) 「頼政祭」がおこなわれ辞世の句の朗読や詩吟・舞が披露されます。

伝説・鵺(ぬえ)退治
源頼政の鵺退治は二度あったと云う。 平安時代後期、仁平年間(1151-54)丑の刻になると一団の黒雲が御所 (宮中・紫宸殿)の上を覆い、時の帝近衛天皇(在位1141-56)は決まってうなされるということが毎夜続いており、 重臣たちは帝の心をお慰めしようと大酒宴を催そうと考え、 その準備を楓姫に命じさせ都より料理の名人・猪乃早太を呼び出して料理を作らせる。その最中、御殿に頭は猿・胴は牛の如く(狸とも…)、手足は虎に似て・尻尾は大蛇の姿をした怪物が現れたが、楓姫によって追い払われ住処である東三條ヶ森へと逃げ帰る。 近衛帝より怪物退治の勅命を受けた弓の達人・源頼政は、楓姫とともに東三条ヶ森へ赴き「南無八幡大菩薩」…日頃より祈願する弓矢八幡(京都下京区・神明神社か?)の御神徳を戴き、見事これを退治する。矢が命中し・落ちてきた妖怪に 走り寄った猪乃早太が取り押さえ・刀を突き刺して息の根を止めた其の怪物が。帝から名刀「獅子王」を下された…(平家物語)と。もともとはツグミ科 ・トラツグミのことで、怪物の鳴き声がトラツグミのそれに似ていたため、その怪物自体を鵺と呼ぶようになったもので、鵺は主に「ぬえどり」「ぬえこどり」として万葉集等の和歌に詠まれています。二度目は二条天皇(在位1158-65)の応保年間 (1161-63)頃・鵺が宮中(御所)で鳴き叫び天皇を悩ませるので再び頼政が召された。夕闇の中で鵺は一声しか鳴かないと云う。そこで頼政は先ず鏑矢(中を空道にした鏑を矢に取付け 射ると音がする)を射上げ、その音に鵺が驚いて声を上げたところを射落とした。 天皇からは恩賞に御衣と伊豆国を賜り嫡男:仲綱は国司として丹波国五箇庄(現在の南丹市日吉町)と若狭の東宮河(とうみやがわ)を知行したとされます。鵺退治伝説を亀岡市等?では高倉天皇(在位1168-80)の時として恩賞に名剣:獅子王と矢代荘 (亀岡市矢田町)を賜ったと云う。以仁王(高倉宮で、高倉天皇となったのは異母弟に仁親王)が頼朝等と平氏打倒の旗上げ(挙兵)時は知行国伊豆に居て頼朝の挙兵に参軍したものか。宇治川の戦いに自害した頼政の首は、家来の猪早太が持ち帰った頼政塚や、 頼政護り本尊の”矢の根地蔵”や亀岡市や芦屋市に「鵺塚」があり、京都で頼政が退治した「ぬえ」の死体を舟に乗せて川に流したが淀川から大阪湾に流れ出て・芦屋の浜に流れ着いたといわれ、村人は祟りを恐れて弔ったといわれます。
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