播磨灘を見下ろす低山は修験の山   播州小富士山(麻生山)
播磨  (五万図=姫路)
麻生八幡〜麻生山(173m)〜仁寿山(175m)〜仁寿山分校跡 2001年03月03日
ふるさと富士 播州小富士山(麻生山)

写真は麻生八幡神社から望む播州の小富士山

250号線を姫路から網干に向けて走っていると姫路バイパスの上に、 波のうねりを思わせるような三つばかりの丸みのある山頂を並べる一角が在る。大岩を露呈している右端の山が麻生山で小富士山の名の方が通りのよい山です。 明石の石宝殿辺りから続く一帯の山は全山岩山で、低くとも結構きつく登り応えがする山が多い。播磨の小富士山は、かつて修験の山で垂直の岩場に懸かる鎖場や、山上に至る道には小さな池(水場 )があり不動尊を祀ってある。山頂には華厳寺があり飾磨郡西国霊場の札所になっており、お堂を囲んで多くの古い石仏が建ち並んでいます。山名の麻生山:神功皇后の 西征伐でこの地に来た一行が、此処に繁茂する麻で弓の弦を作ったことに由来する。

麻生八幡神社〜麻生山〜仁寿山〜仁寿山分校跡 2001年03月03日

250号線を山陽電鉄白浜の宮駅を過ぎて気付く、 姫路バイパスの高架道路の上に波うつような丸みのあるコブの山頂が 三つばかり並んでいる。地区内を走る道の何処を通るかは良く分からないが、目的の山が見えるので適当に山に向うつもりだが 麻生八幡宮の古い石標を見つけてそこを左折してバイパスをくぐって直進。麻生山と仁寿山が間近に迫ります。 といっても200mに満たない低山です。しかし全山岩尾根の山で すから、 それなりに登行欲は沸いてきます。中央が欠損している古い石鳥居が狭い道を塞ぐかのように建っていますが弘化三年(1846)建立のものです。
麻生八幡参道からの小富士と仁寿山


直進して直ぐに麻生八幡神社です。白壁に沿って駐車スペースを確保します(AM8:15)。 神社の右手を巻くように簡易舗装の林道?か農道!が貯水池脇へ続いていますが、 神社への鳥居を潜る本殿の奥に小富士山が 顔を出しています。 (車の場合 仁寿山の放送中継施設への道路途中、両山の鞍部取付き口に駐車スペースが数台分有る)
神社を抜けると先の農道に出てすぐ民家の先で行き止まりで登山道となるが低山ながら全山岩山への第一歩です。 なかなか快適な、しかも直ぐ眼下には田園風景・バイパスの先は街並みを通り越して播磨灘が水面を輝かせています。急登も約15分位で今度は目の前に20m程の垂直の岩場が現れます。中央付近にチムニーにしては浅く、 クラックにしては広すぎるルンゼと呼ぶには垂直に近い凹角が有り鎖が一本伸びています。岩の基部左には石の不動明王が祀ってあり修験の行場の一つです。登山道は右手を巻いて岩の頭に続いている。 コースを見るより先に私は鎖を手に握っていました(AM8:26)。明るいフェースを登りたいが軽登山靴では滑ります。少し左へ鎖を小さく振って凹角沿いに岩頭に出ると一段と展望が開けます。 一般道と合流すれば今度は小さな池(水場)が有り此処にも不動尊が祀ってある。行場の跡を思わせるものは他に見当たらず、程なく山頂に続く尾根に出る。山上には飾磨郡西国札所華厳寺があり周囲には 風化で傷んではいるが千手観音や菩薩・不動等の多くの石仏が囲んでいます。左手の高台へ進んでいくと一気に展望が開けて 正面に仁寿山・播磨の海を通して淡路島を望む小富士山(麻生山アソウヤマ 173m)山頂の岩場に腰掛けゆっくりと展望を楽しみます(AM8:35〜8:50)。山頂から一気に仁寿山への急な岩尾根下りですが少し引き返したところからが通常コース!!。関電道に沿ってくだり鞍部から左右に広い道となるが正面にも道が続き林道に出る。 林道を辿らなくとも此処から林道を横断して正面の通信施設めざして直上する山道が続きます。勿論展望良好NHK姫路TV中継所が最高部に、
史跡・仁寿山校跡の池から小富士を望む


少し西端ピークには日本テレコムの塔や反射板が建ち並んでいるのが仁寿山 (ニンジュヤマ175m)山頂(AM9:10)。此処からみる麻生山は台形で小富士のイメージは有りませんが、その背後に高く左右に羽を広げたように高御位山が稜線を精一杯大きく見せています。 此れより鞍部へ引き返し放送施設の舗装林道を戻ります。右手に大きな石碑と案内板を見つけます。此処は仁寿山校跡で河合寸翁と仁寿山校説明板があります。河合寸翁(1767〜1841)は姫路藩主 ・酒井家の家老で、災害や窮乏した藩の財政を立て直したことで名高く、貧困を極める領民の生活安定の為、殖産興業に努め新田や塩田の開発、木綿の増産と専売制、低利生業資金貸与などを行って藩政の危機を救い 民生安定を図りました。これら多年の功績により文政2年(1819)藩主・忠実から与えられた、この地に人材養成の目的で文政5年(1822)に学校を開き仁寿山校と名付け頼山陽等当時の有名な学者も特別講義したが、 天保3年(1842)寸翁の死後は廃校になり建物は好古堂へ移されました。現在仁寿山校跡を示す遺構は殆ど無く、井戸と土塀の一部を残すのみとなっています。この山校の下には池があり説明図にも描かれている池です。 水面に小富士を移した綺麗な池でオタマジャクシがチョロチョロと気持ち良さそうに泳いでいます。麻生八幡帰着(AM9:30)

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