丹波から播磨へ遍路道  清水寺〜城山稲荷〜神山(北山) / 城山(木津城)
東播磨・篠山(五万図=三田)
清水寺登山口〜清水寺・御嶽山 (540m)〜住吉神社 2001年06月09日
市原公民館〜城山稲荷〜北山(神山)〜神山峠
瀬戸地蔵〜木津城山〜城山稲荷 (市原城) H16.01.18

木津城から西光寺山(左奥)・城山稲荷(中央奥) ・白髪嶽(中央最奥)

近畿の山城(東播磨) 清水山城 平木土塁遺構(仮称)
近畿の山城(篠山)市原城 木津城と木津居館 小野原城
丹波のお話瀬戸地蔵

篠山市今田から市原へ国道372号線を越えて黒五ダム経由。先ずは山影から緩やかなカーブを描く「御嶽山清水寺」へ向かう。山腹を丘陵上に向うドライブウェイが見える。播磨清水山からの帰り道には丹波篠山側の西木津にある木津城と市原に目立つ城山稲荷に市原城へと城主小野原氏の二つの城を訪ねる。
木津コミュニティセンタ付近から御嶽山(清水寺)を望む

西国33ヶ所第25番御嶽山清水寺はインドの帰化僧・法道仙人が景行天皇の頃、中国・朝鮮を経て御嶽山に止住され、鎮護国家豊作を祈願された。推古天皇35年(627)の勅願により根本中堂(法道仙人一刀三礼の本尊・十一面千手観音像を安置)を建立。神亀2年(725)聖武天皇が行基上人に勅願し大講堂(25番札堂)を建立。
城山稲荷麓の西方寺:サザンカの巨木

境内の堂宇は幾度かの火災で焼失大正期に再建されたものが殆どだが最高所の大塔跡は大正12年に再建されたが昭和40年台風で大破、石垣のみが残されています。 坂上田村麻呂が必勝祈願に太刀を奉納したと伝えられ、田村麻呂所縁の西国16番清水寺・坂東32番清水寺は日本三清水寺と称されています。何時だったか!は全国の清水寺が集まる清水寺サミットも行われました。


清水寺登山口〜御嶽山 市原〜城山稲荷(306m)〜北山(552m)
 H13.06.09

清水寺が建設したドライブウェィは桜と紅葉、車道にも草花が植えられており展望も良くカーブを廻るごとに摂津・丹波・播磨の山が望まれ何度か参詣に通った道を今日は歩きで。 登山口の駐車場に車を寄せて出発します(AM7:40)。ドライブウエィゲートすぐ下の登山口にも駐車場があり 「播州清水寺徒歩登山口 距離約2km…空気が澄んでいれば明石海峡大橋が…徒歩で登山の方は入山料は不要・登山口に駐車してご参拝ください」と親切な案内表があり此処から本坂(有馬道)丁石道の参道で 西国24番中山寺(宝塚)・番外の花山院(三田 )からの遍路道です。昔は四国・琴平のような駕籠かき商売を古写真で見たような気がする。
くめ坂の石標と地蔵(6丁)

巡礼道は道幅も広く緩やかに山上へと導いてくれる。花山院〜清水寺〜法華山一乗寺へと長い道程を歩き続ける巡礼者と違い、此処だけを目的の参拝者?は参詣道を割り、いたる所をショートカットしている。6丁にはくめさか標石と優しいお顔の地蔵さん(AM8:00)。その地蔵さんの横を下る細い久米坂(明石道)は少し先で藪になってしまいそうな道。しかし本当の藪は直ぐ右手に古い墓の並ぶ石標が示す遍路道です。広い参道を進んで休憩所(東屋)まで行きます。参道の先に稚児岩と呼ばれる大岩が見える(AM8:05)。永徳3年(弘和3年 1386)南朝方の赤松氏範が 山名・細川軍に攻められ薩摩へ陥ち(逃れ)るべく、郎党二人をつけて五男の乙若丸(13歳)と袂別した場所と伝えられる。5分も歩けば大きな石標に「ほっけ山」とある巡礼道・西坂(法華山道)との分岐で植林帯の中に静かな道が続く。参道は此処から石段道となり堂宇跡の石積みが彼方此方に残る。程なく白壁の庫裏と思われる建物を抜けて大講堂に着く(AM8:18)。根本中堂東側下を月見亭や句碑のある道が真っ直ぐのび、郎霞庵古谷の句碑「名月や どの山見ても皆低き」があります。
清水寺ドライブウエーから上鴨川へ向う山間の池より望む清水山H15.11.24

古谷は天明7年(1787)西脇・比延町生まれ(詳細不)句碑の隣には赤松氏範の切腹石があり山名/細川軍に追われ此処で一族父子5人・郎党137名と共に自害したとあります。道は根本中堂東下から大塔跡へと続きます。 この後ろが最高地点・御嶽山(540m AM8:30)ですが浄化装置?の上方の杉林の中で眺望は望めず大塔跡へ戻ります。此処は平清盛の生母・祇園女御の建立で五智如来が祀られていました。明治40年に焼失、大正12年に再建されましたが昭和40年台風で大破し石積みと礎石だけが残されています。根本中堂へ下りお堂の裏手を30m程進めば霊泉こん浄水(おかげの井戸)がある。萱葺き屋根下の清水の井戸を覗いて見て下さい。自分の顔が写れば3年寿命が延びるとか?。高野山の井戸は写らなければxxx死ぬ??。此の井戸は…此の地は水が乏しく法道仙人が水神に祈って湧き出した霊水で感謝の意をこめて 清水寺と名付けられたのが寺名の起源となっています。
おかげの井戸

帰路は車道を辿るのも面白みがないので遠くなるが巡礼道の西坂を下ろうと「ほっけ山」標石まで戻って林道中の道を下ります。播州側の丸みの頂を並べる山々が見えてきます。この参道は露岩を多く見かけ磨崖仏があってもよさそうな岩。注連縄が張ってあってもおかしくないような大岩があります。六地蔵の分岐に出てきました(AM9:00)。正面には古いそして左手の広い道も直ぐ高みの墓地に入ります。休憩 ?小屋の後ろには背光の描かれた素朴な石仏も一体有り「山門まで三丁」を示す石標も在ります。山裾を巻きながら続く参道は5分程でドライブウエィに出ますがその途端、巡礼道は分からなくなりますので左のガードレールに沿って注意しながら進みます。二つ程カーブミラーを過ぎて車両進入禁止マークの広い道はすぐ土砂や鉄板が捨てられ?!大型廃車のある広場に出るが細い明瞭な道が続く。方向は今田町・市原への丹波道(丹波坂)です。程なく桃源郷・綺麗な池の横を通りなおも道は続くが池面に霊場・御嶽山の姿を映しこんでいます。池の畔に降りて少し休み引き返します。
上鴨川の住吉神社

いつかはこの道を辿って清水寺へ登って見たいと思います。 引き返しながら西坂への道を探しつつ 又も法華山道の車道出合の振り出へ戻ってきました。 先ず最初のミラーからは少し下っていけるように思えたが藪・次のミラー付近は降り口さえなく、結局前の車が廃棄されている広場へ出て此処から西へ下ります。踏み跡はないが藪はすぐ切れて下りやすくなってきます。谷筋近くなってくると、あがったり下がったり途中藪で切れたり不安定な踏み跡が現れ、やがては苔むした湿気た道となり古い丁石さえ現れます。こんな道が遍路道とは?と思っている間に集落内の道に出てきた(見出票No8 AM10:15)。其処からわずかの距離(5分)には古い道標「丹波道 右きよみず 左ほっけ山」があり社町指定文化財。ここから急斜面の広い道があり此処に降りてくる道が西坂なんですね。私の下ってきた道は丹波坂!?それにしては途中が厳しすぎる??しかし丁石は??いろいろ疑問の起きる道ではある。田園風景が拡がる・のんびりムードで一本道を進む。
西方寺:もう一つの巨木「カヤの大木」

県道311号線と合流する所で本殿が国指定重要文化財に指定の住吉神社(社町上鴨川)境内に入ります。此処に伝承される神事舞(例祭10月4〜5日)も 昭和 52年に国指定無形文化財に指定された鎌倉期より700年に渡って伝えられています。これから向う今田町の小野原にも住吉神社”蛙の宮”があり、例祭日も同じで篠山市にあるのでこの名があります。奈良・吉野にも「かえるとび」行事がありましたね。神社の鳥居を潜り階段を下り県道311号線を 清水寺登山口の駐車場まで延延の車道歩きとなり鴨川小学校(AM11:05)を過ぎ、ビックワン・ゴルフクラブ前を過ぎれば登山口駐車場です(AM11:25)。市原への峠右の森に「瀬戸地蔵」案内板がある。この森の東側は絶壁!となり民家の側を流れる東条川との間に旧道が通じています。瀬戸地蔵のお話を下記に書き添えます。峠から真っ直ぐな車道左前方の台形の小さな盛り上がりを見せる小山が 城山大神を祀る城山稲荷です。八上城主(篠山)波多野の家臣・小野原氏の城で城内に稲荷社を勧請して豊穣を祈りその後は戦勝祈願、明治以降の戦時には「徴兵逃れ」として崇敬され戦後は商売繁盛の神として参詣されています。市原公民館に車を寄せて(AM11:50)萱葺き屋根の残る民家裏手から赤い鳥居の稲荷社に向います。
本堂前のサザンカの巨木と城山(市原城)

市原は義民・清兵衛生誕地として此処・西方寺の境内と城山(白山)稲荷登山口の東条川に架かる高橋の側にも石碑がありますが興味ある方は山行レポート末尾を参照してください。説明案内板(AM11:55)から始まる石段道は 山上の稲荷社まで続きます。途中「ご自由にどうぞ」と書かれ、鐘が吊られているが宗教・信仰に無関係の施設は先ほど清水寺の鐘楼前の錆びて打ち捨てられた子供向けの運梯や滑り台・鎖のないブランコ等いかに子連れ参詣であっても意味がない。播州の何処かの山城へは長大な石段設置の話も聞く。何も無いことのほうが必要な事もあり、取り返しのつかない結果にならない様に慎重に考えて検討してもらいたいものです。山上の城山稲荷(306mPM12:05)に参詣の後は 本殿石積み横を回り込むように山道を進みます。今田本荘へ降る参詣道!を見送って稜上を辿るが、歩きやすい道かと思うと急に道が切れ右上・右上へと上がるとすぐまた山道が現れ播丹尾根に境界ポールが続く。広い山道が又突然途切れるが一段高くなった尾根に戻れば境界ポールはなくなり明確な道は巡回道のようで鉄塔に着くと(PM12:45)此処から先・高圧線は谷を越え尾根続きの道は 鉄塔工事で削られた稜線斜面はコンクリートで固められ直進できず回り込み藪を抜けて稜線に戻り細い道はしっかり続き北山(神山 552m3等三角点PM1:08)に着く。
西方寺・サザンカの大木 H15.11.24

山友会と書かれた標識が倒れ測量三角点ポールの白い部分に 「ここは神山」の文字も、西脇方面・金城山周辺の山(数曾寺山塊)が見えるが地図なしでは山名の同定は出来ません。山頂からは途中まで細い踏み後を辿り下降するだけ。南側の市原側に降りたいがコースは反対に国道側の採石場の喧騒音のする方へ向っている。谷筋も荒れて山仕事で入る人等いなくなった崩れた道筋を拾いながら国道 372号線の「レストラン白蘭」近くに出て来た(PM1:27)。この国道は社と今田〜古市へと続くデカンショ街道です。又も暑く長いアスファルト道を今田本荘の交差点に向います。この交差点を左折すれば西光寺山の今田側登山口・黒石ダムに直進すれば10m程で名水の取水場が車道脇にある。右折すれば100m程でサザンカの大木で有名な西方寺・さらに50mで車デポ地の市原公民館に戻ります。
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義人・市原村の清兵衛

城山稲荷登山口(東条川に架かる高橋)に義民・市原清兵衛生誕地の石碑があり、平野山西方寺(天台宗)境内にも サザンカの大木と並んで義民・市原清兵衛菩提の顕彰碑が建てられています。西方寺は兵庫県下随一の「さざんか」の大木(天然記念物H8年3月29日指定 {紅一重}樹齢600年 周囲約170cm,東西南北約8m,高さ4.5mに枝をひろげています)で知られています。開花期(10月中旬〜冬の期間中)を逸したが…駐車場もあり、季節には「気軽に立寄って、サザンカとの対話をお楽しみください」とある。
義民市原氏顕彰碑と西方寺境内のサザンカの巨木

さて清兵衛と丹波杜氏の百日稼ぎ…17世紀には伊丹や池田の酒造業が隆盛となり灘も酒造が発展してくると丹波杜氏の持つ高い醸造技術とまじめな勤労態度が受けて18世紀終り頃には出稼ぎして従事する者が多くなり、夫々の酒造元(地域ごとに行き先やルート人員までおおよそ決まっていたようです)に出かけるようなります。裏作不能の地が多い為、唯一の副業で生活維持には不可欠だが、出稼ぎにより田畑の管理が出来なくなることを怖れた篠山藩では米の増産による年貢増備の為・寛政5年(1793)には丹波杜氏の出稼ぎ等、他所奉公や新規の百日稼ぎを禁じます。此の長引く酒造りの出稼ぎ禁足令による生活の困窮に寛政12年(1800)今田町市原の清兵衛、佐七の父子は生命をかけて密かに江戸に登り、当時江戸詰めの若年寄・藩主青山忠裕(ただやす)に禁足令を解くよう直訴します。 その結果秋の彼岸から春三月までの百日稼ぎは勝手次第と禁制を解除されました。
西方寺・サザンカの大木 H15.11.上旬

しかし清兵衛父子は捕らえられ入牢、文化8年(1811)まで獄中生活を送ったが伊丹の酒造家に迎え入れられたといいます。これ以後の百日稼ぎは益々増加し明治頃は全国に出かけ丹波杜氏の名は高まり、 数々の銘酒が出され今日に至っています。また永牢から解放され出獄した清兵衛父子は村に迎えられたが藩の厳しい年貢米の取立てに加えてかかる割り増し米の免除を願って再度直訴に向う途中・藩の刺客に殺されたとも、永久追放されたとも伝えられているようです。此れと同じ様な話は北播磨・神河町にもあって義人上月平左衛門の「袈裟斬り地蔵」伝承にも残されています。
<一部兵庫のふるさと散歩より>


 市原城(小野原城) 木津城と木津居館 小野原城 平木土塁遺構(仮称)

市原城(小野原城・今田城)   城山稲荷306m   篠山市今田町市原

市原城は小野原氏が拠ったので小野原城ともいい、此処から直ぐ南方に見える木津城から資材を移築したといわれ、木津城を築いた小野原掃部(かもん)の長男小野原采女の居城といわれます。また小野原掃部が木津城から 市原城に移った際に小野原采女と改名したともいわれ、同一人物ともおもえるが?!。小野原城は今田町小野原にも砦があって小野原城と呼ばれていますので此処では市原城とします。山頂には城山稲荷神社が祀られている。東条川が東山裾を取り囲むように流れる天然の水掘りと 急斜面の為か堀切や竪堀はないようです。低い山城ですので神山峠から北山(3等三角点)を経て、また只越峠から498m峰の西へ延びる尾根筋から城山に至る背後の防塁等遺構がなく 防備手薄が気になるところです。
市原城址(城山稲荷参道に沿って本郭下2段の曲輪)

市原側からは麓の「城山大神」鳥居の登山口から山上の稲荷社の前迄は、切れ目無くズッと続く急な長い石段道です。その登城口には案内板があります。右手の平坦地は居館跡の様ですし、此処に至る段々畠も武家屋敷跡だったのかも知れません。山頂に3段ばかりの削平地しかない城山は木津城と同じ詰め城で居住性はありません。ぐるりと石垣で囲われた小広い最高所の稲荷社へ着くと 階段下附近は僅かに削平されて城(砦)の遺構を留めているようだが土塁は見かけません。急斜面が続き途中に堀切はなく、更に北山に向かう緩やかな尾根にもなんらかの城遺構を探してみますが曲輪も無さそうです。西方や北からの防備に不安の残る城ではあります。単郭の小野原城が小野原地区にもあるのでいずれ此方のも捜して 出かけて見ることにします。小野庄は摂津・住吉神社の荘園でしたが応仁の乱(1470頃)の頃・細川勝元に仕え、その戦功により多紀郡(篠山市)の所領を与えられて来住した山陰の豪族・吉見清秀が母方の姓を継いで波多野を名乗り(八上城主・波多野清秀)当地で勢力を持った頃、在地土豪で波多野氏の武将小野原右京勝政の一族が城砦を築き今田を知行し小野原城と称して城内に祭主・稲倉魂ノ尊を祀った。永禄元年(1558)夏の大旱魃による村民の嘆き忍び難く城主・小野原勝政が稲荷の神霊を城内に勧請して稲荷神社を建て豊穣を祈ったといわれます。
市原城址(公民館付近から)

波多野氏配下の武将として各地を転戦した小野原一族には小野原右京勝政・彦太郎・六郎次郎勝繁・内匠・六郎左衛門勝好・九八郎・ 熊谷小四郎・金田兵四郎・田川甚兵衛等がいて天正3年(1575)小野原采女が亀山城での戦いに奮戦し天正4年(1576)6月京都の桂川や粟田口での合戦でも波多野氏勢の主力に加わって出陣し、織田信孝・明智光秀軍と戦い名を挙げ、右京勝政は八上老臣家に列したとされます…が勝政は亀山城での合戦に討死したとも云われます。八上城落城後の勝政や市原城主・小野原采女は羽柴秀吉に属し、慶長2年(1597)朝鮮征伐では一方の将として従軍しますがその折・城山稲荷に戦勝祈願したところ神徳著しく、帰城後は益々崇敬し慶長5年(1600)城内に勧請しています。明治に入って徴兵制度が布かれてからは「徴兵逃れ」の神として知られるが末期の明治41年(1908)篠山に歩兵第70連隊が編成されると憲兵隊が置かれ、非国民だと参詣者への取り締まりも厳しくなり衰微していきます。それでも夜中に人目を避けソッと願掛けに参った話を聞いた事があります。戦後は商売繁盛の神としても 遠来から参詣されています。
(現地案内板:城山稲荷神社社務所 及び「今田町史」を参照)

木津城(木津堡)と木津居館
木津城   祠山!(城山)333m  篠山市今田町木津

県道141号線沿いにサザンカで有名な市原の西方寺前を過ぎると右手直ぐ側には城山稲荷を祀る市原城があり、真っ直ぐに伸びる車道の南方にはズングリとして台形の、いかにも山城の雰囲気が漂う木津城が望めます。木津城は市原城と共に丹波と播磨境の要衝に位置しています。木津集落の西北方に波多野氏の武将小野原右京勝政の一族が砦を築き其の後:小野原掃部が改修して城として使用してきた木津城があるが木津城は後:掃部の子采女により北方の市原城に居城は移されます。
木津城(南端の堀切・土橋)

木津城の東側は山裾を捲いて流れる東条川が外濠を成し、遠目にも緩やかな稜上とは異にして北面・西面の三方は急斜面の要害な地形の為南側以外に踏み跡もなさそう。北面は丹波石の採石場だが、それでなくとも急激な傾斜を成しているので、高離を稼ぎ比較的取付き易そうな西の峠付近を目指してみます。
木津城(城山)の三角点から清水山を遠望

この峠を越える車道が木津城と、南北朝期・細川氏に追われた赤松氏範と其の一族が立て籠って最後に自刃して果てた清水寺城に対峙して丹波と播磨の境界となっている。峠の南側からの踏み跡は山裾を捲いて西木津集落に向かうので峠最高所から取付くが藪のうえ中腹からは露岩も目立つ。しかし此の豊富な岩石を利用しての石積み遺構は見られない。狭い稜上の尾根には堀切・竪堀・土橋の防御施設は確認できるが、削平地は段差も浅く土塁もない様?? それらの防備が不要なほど急傾斜な 自然の要害地に建つ城だったということなのでしょうか!!城域に入った西側の細い稜上の狭い削平地には崩れて遺構なのか?明確ではないが
木津居館から木津城を望む

低い段差で2u程の方形石列があるが露岩の自然造形かも知れない?。此処から20m程で堀切があり腰曲輪らしい削平地の上に小広い本郭部の山頂に着いた。北面には今しがた登ってきた市原城と其の登山口「城山稲荷」と書かれた赤い飼料サイロが目に付きます。和田寺山・西寺山・西光寺山〜ササバ〜中口山と山南町から峠を越えでくる途中に左右に見えた山々を城山から眺めます。山頂には木津城山(4等三角点333m)の三角点標石柱が埋まり、西方には清水山が大きな山容を見せて聳え立ちます。
市原城(城山稲荷)登山口付近より木津城遠望

主郭から見るかぎりでは北に数段の曲輪があるようだが藪で、そばに寄っても良く分からないだろうと南への尾根を辿ると土橋が現れる。 左右の堀切はそのまま竪堀となって居るようですが土砂で埋もれてか僅かな凹角を留めているだけです。その先の小場が城域の南端の様で、さほど広くもない曲輪の様ですが岩が周りを囲む石列状になった台形地で見張りの櫓台 か大手門跡だったか…?。市原城や近在の山の頂にもあるように稲荷社や愛宕社の祠跡だったのかも知れません。南北に延びる木津城の城域に入るには急斜な三方から登城出来るような搦め手道はない詰めの城で南からの大手道があっただけかと思われます。
木津住吉神社

小野原掃部が築いた木津城ですが築城時期等城史は不詳です。長男の小野原采女が廃城となった木津城の資材を移築して北方2kmの小山に市原城 (小野原城・今田城)を築いて居城したとされます。暫く続いていた踏み跡が途切れたが尾根筋を辿って溜池に出、野球練習中のグランド横を経て 清水寺へ向かう車道の「猪堀橋」へ出て住吉神社鳥居前に着いた。木津住吉神社は例年10月9〜10日に奉納され 天明4年(1784)頃には始まっていた「田楽」が知られていました。

木津住吉神社鳥居より木津城遠望


お隣の社町上鴨川の住吉神社には神事舞(例祭10月4〜5日)があって 国指定無形文化財になっています。篠山市には同じ踊り田楽「蛙おどり」がありますが此処のも、幣(しで)をかたげササラを持ち太鼓・笛により巫女の舞、田楽、跳び(トートイチ!!??)が奉納されます。一時途絶えていたが 昭和56年に田楽踊り保存会が結成され復活しています。さて・??南の尾根筋を辿ったが、道が怪しくなってきた頃、左(東)下に降りた方が良かったのかも…??今回・見つけられなかったが、南山麓には空掘・土塁の残る小野原氏の 木津居館跡があって横井垣内の字名が残る居館から、その詰城の木津城へ通じる大手道があったと思われます。
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木津居館   xxxm   篠山市今田町木津構井垣内

R372(デカンショ街道)の「市原」交差点を直進する県道141号線は サザンカで知られる西方寺に近く、西に城山稲荷を祀る市原城が更に一直線に進む県道の先:南方に木津城の在る台形の山容を望みます。道なりに進み直線道路から峠に差し掛かり、カーブして下り始める先に瀬戸地蔵がある。木津城のある丘陵を右方に見て、水平道になると今田町木津の三叉路・三田花山院から
木津居館(中央地区道東側)の曲輪段差?

清水寺への西国巡礼道でもあり西へは丹波と境を接する播磨清水寺( 清水山城)から東条町・社町へと播磨・山陽道に通じる要衝です。清水寺方面に西走して直ぐ最初の建物が木津のコミュニティセンター。石の鳥居をくぐると正面に見える鎮守の森が木津住吉神社。「田楽踊り」で知られるが、例祭に奉納されていた田楽は昭和の中頃に途絶え昭和56年保存会が結成されて復活しています。上鴨川住吉神社の田楽・今田町小野原の住吉神社”蛙の宮”にも在り同様に・幣(しで)をかたげササラを持ち太鼓・笛により踊り子は朝葱色(淡い青色?)の裃に
木津居館(東端地区道傍)上段曲輪に入る虎口部か?

仙台平(江戸時代中期頃京都から仙台に伝わり仙台伊達藩の保護により発達したといい、 張があって固くなく、しなやかな独特の風合いを持ち皺になりにくいとされる袴地)の袴、白足袋の装束で・巫女の舞、田楽、跳び(トートイチ!!??)の順番で奉納されます。資料・伝承もなく明らかでないが天明4年(1784)の宮当規式定書には「踊りならし」という記載があり、この時期に既に行われていたと推察できる。 木津住吉神社から続く地区道の北方にある集落(数軒の民家)から 木津城のある北西方の丘陵に入って行けそうに思える山道がある。
木津居館主曲輪東(中央地区道西側)の濠跡?

空掘りや土塁が残り、木 津城主で在地土豪:小野原右京勝政小野原掃部が居館とした構居があります。八上城波多野氏家臣で掃部の子采女の時・木津城から市原城に本居城は移されます。 城山から南に延びる尾根筋を大手道として通じていたようで、山頂部南末端の小ピークには低い段差で2u幅の方形石列がある。 露岩による自然の造形と思えたが 物見の櫓台跡か。此処から20m程で土橋付堀切となり、 腰曲輪らしい削平地(藪尾根と土取り跡らしい崩れた部分もある小広い主郭の山頂へも近い。木津居館の背山が木津城の在る城山だが、 地元の人は此の居館跡の地所を「城山」と呼んでおられる。

木津居館主曲輪南から民家奥の林が大土塁と濠跡の主部か?


城山に通じる居館跡の民家には構居・堀に関係する名字の家が数軒あった。居館の遺構は民家・田畑の中に在って維持・保存は難しいかも!!なによりも、 遺構確認に民家の裏庭等に勝手に入っていけるものでもなく、遠目に地形で判断するだけ(^^ゞ。また集落内の道に絶たれた山側(西方)にある藪の谷筋の中央には木が切られず残っていて、地区道を隔てて東下に繋がる溝がある。 水の必要な」時期だけに灌漑用等の谷筋ではなく…「濠跡…」と判断するしかなさそう。繁茂する藪の時期を外せば民家奥にある土塁の一部が見えるかも知れないが・・!!?
(木津住吉神社案内板 参照)


小野原城    xxx! 282m   篠山市今田町小野原

篠山市街地を抜けるデカンショ街道(R372号)は古市でR176号を越え社・姫路へと播磨に向かいます。播磨・摂津・丹波への街道が交わる要衝で、 とりわけ摂津(阪神三田)方面から丹波への玄関口となる此の一帯には波多野氏旗頭の一人:酒井佐渡守等・酒井党等が丹波の最南端部を守備しています。酒井党本拠の油井城北山裾の谷間に細長く軒を並べ宿場町の面影を残す古市は12月の声を聞くと白地を黒く染めて「赤穂浪士ゆかりの里」の幟が立ちます。
弥勒堂と小野原城と和田寺山

赤穂浪士・不破数右衛門が此処に在った実姉の婚家を頼り、暫く寄寓したという宗玄寺で丹波でも12月14日赤穂義士のパレードが行われます。R372号は古市を抜ける田園風景の奥に白髪岳(丹波富士・丹南町の最高峰)と松尾山(高仙寺城)を望みながら 峠に向かいます。源平の騒乱期・京を発ってこの地まで来たが、来ると思っていた平氏の軍勢が来ていなかった為か、平氏軍が侵攻してくる源氏軍を此処で待ち伏せしたが、中々来ないので三草山山麓の山口辺りに引いて布陣していたものか不来坂”こぬさか”と呼ばれます。
住吉神社(蛙の宮)

寿永3年(元暦元年 1184)平家追討で須磨へ向かう源九郎義経の軍が此の坂を越え下った小野原付近に布陣し、まさか夜間に襲ってくるとは思わなかった平資盛(すけもり)の軍勢に小野原から民家や田畑に火を放ち明かりとし、牛馬や兵に篝火を持たせて三草山に予期せぬ夜襲を駆けて平家を敗走させた三草山合戦はよく知られるところです。勿論其のまま一気に須磨へ・鵯越へと二手に分かれて進んだ事は有名ですね。 不来坂(こぬさか)を西へ下ってくると住吉神社(別名:蛙の宮)があり西方の田圃の中に弥勒堂が建ち其の向こうに低丘陵が見えており、最高所に城(砦)遺構の残る小野原城がありました。R372号線は四斗谷の交差点を直進して此の丘陵北端の小峠を越えて市原城(城山稲荷)を社方面に向かいます。
小野原城の土橋付き堀切(手前)

右折して進む四斗谷集落からは其の名も姿も ”とんがり山”(丹波槍)〜西寺山の登山口へ。左折すると小野原城麓を東から南へ廻り込むようにして丹波焼(立杭焼)で知られる「陶(すえ)の里」に向かいます。平安時代の頃・今田町周辺を含む荘園小野原荘は東大寺と住吉社の所領として、 領有権を主張して両者は争っていた様ですが鎌倉時代には住吉神社の荘園となっていたようです。 文保元年(1317)には摂津の国一ノ宮・住吉神社の分霊を移して荘内 (今田町内)全域の氏神として5社に分祀されています。応仁の乱(1467〜77)後・小野原荘は現在の今田町全域から油井・味間地域にまで拡がっていたようで 荘内に住吉社が8社も造られています。
播磨へ向かう小峠から小野原城を望む

神舞いに田楽の一種ともされ、締太鼓やササラを持ち、太鼓の音に合わせて跳び跳ねる素朴な「蛙踊り」は中世以降継承されてきた 文化遺産として”神楽保存会”により受け継がれて伝えられます。また神殿背後の丘の形態が大きな蝦蟇に似ているところから”蛙の宮”と呼ばれます。現在の本殿は享保13年(1728)の再建です。小野原城の東山麓:田の中に建つ弥勒堂は中寺と呼ばれ住吉神社”蛙の宮”のお当(灯?)渡しの儀式が行われます。長林寺跡とされ堂内には作者不明ですが平安時代後期の造立と考えられる弥勒如来坐像(篠山市指定文化財)と脇侍に多聞天・増長天が安置されています。八上城の波多野氏の勢力下に入った在地土豪:小野原氏が木津城市原城(今田城・小野原城)を築いています。天正期:明智光秀の丹波攻めで八上城を攻めた頃:市原城には小野原采女がおり、篠山から不来坂を越えて播磨社を結ぶ京街道と、吉川から摂津(三田や神戸)へ抜ける 分岐点・小野原の要所です。
主郭の土塁:曲輪の削り残し!


築城時期や守備した城主等の記録や伝承はなく一切不明ですが、八上城勢力最西端の交通の要衝を監視する 重要な砦として使用された事でしょう。其れ以前より土豪小野原氏の砦として築かれていたとは思いますが。 城域の麓を東から南へと四斗谷川が流れるが丘陵東北の鞍部(小さな墓所がある)から単郭の主郭へは比較的緩やかで広いので尾根筋も判らない。山頂の曲輪角に来て初めて低い段差を防備の切岸と感じるだけ。 25mX30m程の曲輪は西に幅2mX20m程の土塁状のたかまりが有るが北西端部の処理が半端で曲輪の”削り残し”の様です。曲輪の南端は幅の狭い傾斜を下って土橋(2m)付きの堀切(高さ1mX長さ約30m程)に出る。 後は薮の緩やかな尾根筋をR372号線・小峠に向かって下るだけ。遺構を確認出来ただけでも来た甲斐は有った。
(現地 住吉神社”蛙の宮”案内板 弥勒堂の案内板を参照)

清水寺城(清水山城) 加東郡社町平木

推古帝の35年(627)法道仙人開基を伝える御嶽山清水寺 (西国三十三ヶ所観音霊場第25番)は丹波と播磨国境に位置して京都・清水寺と本家を争う程の権勢を誇った大寺で坂東32番の清水寺とともに日本三清水寺と称されています。南北朝期・永徳3年(弘和3 1383)8月、赤松一族が尽く 北朝方に味方するなかで志方荘天神山城主:赤松弾正少弼氏範(赤松円心の四男)だけは・ひとり南朝方を守って戦います。
清水山(赤松氏範・子別れの稚児岩)

:…が衰退の一途を辿る南朝は吉野での戦いに敗れ氏範は終に播磨に戻り・ 清水寺を城郭化して立て篭もる。 為に山名氏清や援軍の細川頼元【氏範の兄・則祐の子義則等】の軍勢に攻められる。奇襲・奇策で敵を追い返し奮戦するが勝ち目のない戦いに、敵に討たれるよりはと清水寺の山内で一族父子5人、郎党137名は此処で自害した(元中3年<至徳5> 1386.9.2)。赤松の切腹石が大講堂裏手の根本中堂東下の参道脇に在る。自害に先立ち氏範は末子の五男・乙若丸(13歳)の家来を付けて薩摩(鹿児島)へ逃す際に一緒に自害することを願った 乙若丸を岩の上に座らせ言い聞かせ、袂別した由緒の子別れの稚児岩は参道の本坂(巡礼中山・有馬道)三丁付近にあります。




平木土塁遺構(仮称)
 加東市平木

篠山市味間方面からの県道36号(西脇市方面)を途中の黒石ダムで 県道141<三田黒石線>)をとり、R372(デカンショ街道)市原に出る。此処は不来坂から小野原・市原を抜け加東市に入り三草山麓から三木市から神戸市(ひよどり越えから須磨浦)へ、源平合戦に源義経がを駆抜けた街道は、播磨・丹波・摂津(三田・大阪方面)を繋ぐ要衝の地。
鉄塔巡視路からも ”上り土塁”状に先へと延びる

:天正3ー4年頃?には木津城を廃し資材を移築して市原に城山(市原城)を築いて移る。小野原采女の父・小野原掃部の木津城が県道141沿いの南方約2.5km程に見える。此の木津城の手前約700m程・県道に切り開かれた小峠の丘陵東端が東条川に落ちる所に瀬戸地蔵があり、その参拝用駐車スペースからは南目前の石切場の上に木津城・西に少し低い丘陵部の間の切通し道を南へ抜ける車道がみえる。木津城は篠山市だが西の丘陵は加東市の平木地区で、丘陵中程に送電線鉄塔(関電奥多々良木線94 昭和49年)が建つが、切通しの峠に掛かる断崖状上部から送電線鉄塔を経て平木集落側の西端まで、
鉄塔近くの寸断欠損部

幅1ー1.5m・高さ1.5ー3.5m程の土塁線が凡そ350mほど延々と続く。獣除の猪垣なら山麓沿いにある筈!。鉄塔近くにこの工事と猪によるものか2-3土塁の寸断欠損部分があるが南面には木津城を背にして随所に平坦地(曲輪)を配置。北は急斜面だが2ヶ所ほど下方を窺う様な小曲輪もある。鉄塔の建つ広場からは木津城・和田寺山を望み西に清水寺も近い。土塁線は峠の切通しから木津城側へは延びていないが旧街道筋だったか?。崖となる土塁先端部南側に観る低い土塁囲み小曲輪?状は、
猪によるものか?寸断欠損部

峠監視所でもあったか!?。丘陵上の土塁線北面は地理院地図破線が平木集落や清水寺車道参道へも通じる。土塁だけの遺構は天正6年:播磨攻め羽柴秀吉の三木城包囲・兵糧物資輸送阻止の多重土塁がある。秀吉は三木の「干し殺し」(天正6ー8年)同様に城攻め長期戦に鳥取城の「渇え殺し」(天正9年)がある。此処でも街道監視・兵糧輸送遮断するため丘陵上にも長い土塁線が築かれていた!…。 三木別所氏とは姻戚関係にある篠山八上城の波多野氏・丹波黒井城の荻野・赤井氏等、および北播磨(西脇市・加東市…)から
土塁東末端は竪堀状となり崖下(峠)に落ちる

別所氏加勢の援軍を警戒し、街道封鎖しての監視・防禦目的とした関連施設ではなかったか…!!?。 此の位置が今田町市原・直近に清水山(清水寺)があり、北西麓の住吉神社の交差点も市原から続く街道で…北播磨・丹波・摂津を繋ぐ要衝の交差点で軍道としての利用価値も大。他にも北播磨側に土塁遺構があるうかも知れない…!!。


瀬戸地蔵 丹波篠山のお話

瀬戸とは「狭い」の意で川が足元下方で 淵となっている狭い山道の断崖に石造浮彫の舟形 「瀬戸地蔵尊立像」があり半円形に浮彫りされた像は篠山市の指定文化財。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩は衣を両肩にまとい、衣文(しわ)を腹部から脚部にかけて六筋を表していて室町時代の作と考えられています。
瀬戸地蔵から木津城と平木土塁遺構をみる丘陵を遠望

有名な僧・行基菩薩が清水寺に居られた頃のお話です。行基が或る日・都へ行こうと清水寺の麓の今田町木津へ降りてきて、芦原まで来たときのこと、数人の村人達が東条川(黒石川)の川岸に立って経を唱えていました。この場所は今では峠越えの道だが、当時の東条川(黒石川)に沿っての道は高い絶壁が川岸にせまり、下は深い渕になっているところでした。今も石仏前付近に当時の片鱗が見られます。
瀬戸地蔵(磨崖仏)

行基は何ごとかと近づき村人に尋ねると 「絶壁の斜面を通る旅人たちが度々足を踏み外して死ぬんです」また「この間は、川上から死んだ赤ん坊が菰に包まれ投げ捨てられ、此処の深い渕へ流れ着いたんですよ」等と話してくれます。 そして今日も「先日、亡くなった人のために弔っているんです…」 行基は「危険な処ですね。どうか、こんな悲しいことのないように」と、その絶壁にある岩の面にお地蔵さんを彫りこんで交通安全と、 此処で亡くなった人達や子供の為に供養とお祀りをされました。今も瀬戸の地蔵として今なを花がお供えされ祀られています。
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