夢前三山 岩の殿堂:雪彦山 播磨富士:明神山 赤松氏最後の拠城:置塩城
播磨 地図(五万図=山崎)
T日本三彦山:出雲岩〜雪彦山〜虹ヶ滝 2001年04月15日
U展望絶佳・夢前の播磨富士 夢やかた〜明神山 〜長滑ら
V嘉吉の乱後に再興の赤松氏最後の本拠城 櫃蔵神社〜置塩城
近畿 関西100名山(雪彦山) ふるさと兵庫の 50山:雪彦山・明神山
ふるさと富士  播磨富士(明神山)

校歌・故郷の山:置塩中学校 ♪歴史は遠し城山のxx・・♪(置塩城)
      夢前町町歌 故郷の山を呼ぼうよ…夢前の山は濃みどり
お話・明神山の白翁
近畿の山城: 天神山城  置塩城
展望岩から望む洞ヶ岳の岩峰群

雪彦山:夢前川の源流に峻立する岩峰群を持つ山は古くから修験道
拠点の行場として英彦山(1200m福岡)、 弥彦山(630m 新潟)と共に日本三彦山として有名です。大正13年藤木久三氏(関西 RCC生みの親)が不行岳を征服してからは関西屈指のロッククライミングのゲレンデとしても知られるようになり地蔵岳 ・不行岳・大天井等主峰の洞ヶ岳に集中する岩場が登攀対象になっています。洞ヶ岳・鉾立山・三辻山を総称して雪彦山と呼ばれており一般的には洞ヶ岳(大天井岳)を雪彦山としています。

関西最大スケールの岩峰がそそり立つ修験の行場
T出雲岩〜洞ヶ岳〜雪彦山三角点〜鉾立山〜虹ヶ滝〜賀野神社  H13.04.15

昔・洞ヶ岳〜天狗岩〜地蔵岳〜虹ヶ滝コースを歩いているので 今回逆走しての三山巡りをと思い賀野神社へ向ったが 入口で工事中の表示があり引き返し前回コース天狗岩から三角点〜鉾立山を巡ることにした。(結果・正直者が馬鹿を見る結果になった。虹ヶ滝経由で降りてきたとき、多くの車が神社や地蔵や不行の岩場に向うクライマーの車は林道終点の展望広場に数台止っていた)。賀野(かや)神社は賀野権現と呼ばれて牛馬守護の神を祀っているが 神社付近からの朝日に映える岩峰群を撮りたいと思っていたが、明け方の吉川や小野市付近は霧が深く、予定より遅れて登山口を出発(AM6:15)・のっけから急登です。
洞ヶ岳(大天井岳)から夢前川流域(姫路市方面)の展望

不動岩を過ぎ展望岩に着けば目前に洞ヶ岳の岩峰が 飛び込んできます(AM6:30)。この少し先に行者堂跡があり、その間にヒカゲツツジがモチツツジの花に混じって咲いています。注意して観察していたわけではないのですがヒカゲツツジは此処以外では見かけませんでした。 大きくハングする岩場にボルトやハーケンが打たれ、シュリンゲやカラビナが残置された出雲岩(AM6:50)を廻り込み覗き岩の岩頭に出ます。此処から細い岩間を通りますので此処では大きなザックや太目の人 !は覗き岩に出ず直登したほうがいいですね。此れより馬の背を通過して洞神社のある大天井岳(洞ヶ岳884m AM7:10)で一般的にはここを雪彦山としています)に着きますが、昨夜の雨と今日の上天気で 霧海が明神山や七種山方面に拡がっています。大天井岳から天狗岩にかけては稜線にタムシバの白い花弁が目立ちますが地蔵岳〜虹ヶ滝方面への分岐を過ぎると今までの峻険な、岩場の登下降が嘘のように杉や桧の植林帯が続きます。 鹿ヶ壷への分岐(AM7:25)までにも二箇所の虹ヶ滝へ下降点が有り新下山、新々下山コースの標識が有りました。展望の無い植林帯のなかに雪彦山三角点(4等 915m AM7:35)はあります。余り長居出来るような場所でもないので 先を急ぎます。草原状の虹ヶ滝への分岐から 尾根を採って鉾立山(962m AM7:52)に到着。北方にのみ展望が開けて 氷ノ山が残雪の稜を霞んでいますが見せてくれます。下降途中で三辻山尾根の分岐があり少し先の鉄塔迄出てみました。展望・休憩には良さそうです。鉄塔の有る大きな草原状のピークが三辻山なのかな??
 洞ヶ岳(大天井岳)

元の分岐に戻って植林帯を下り続けると谷筋の様相が荒々しい露岩が目立ってくると 紅ヶ滝辺りからはガレ場の急な下りが続き虹ヶ滝に出ます。対岸に渡り返すと地蔵の岩場が迫って来ます(AM8:30)。地蔵岳への分岐はベンチもある展望所で人気の?不行岳iに取り付いている パーティのコールが響いてきます。今回は先に行くはずだった賀野神社へ行く為、整備された遊歩道を林道に出ます。展望所まで登ってきた数台の車は、岩に取り付いているパーティのようですが、神社側からも数人ヘルメット組の 若者?が登ってきます。賀野神社(AM8:40)は応神天皇巡幸の時、神の夢告げによって、いざなぎ・いざなみの二神を祀ったのが始まりの出雲系の神社で農耕・牧畜の神として信仰されています。あたかも雪彦山を奉拝するように 対峙して建っており岩峰群の展望・ルート偵察に良い場所です。地元の人たちによる清掃作業中でした。林道をほんの暫らく下ると金剛鎮護寺跡(雪彦山金剛寺)の標柱 が建っています。 林道脇から下方にかけて遊歩道が続きますが石垣や平坦地が随所に残っています。此処は法道仙人開基の鹿谷 明神僧院跡で文明7年 (1475)に焼失したが翌年には明阿上人が財を募り再建しています。 明治の神仏分離令によって廃寺となり仏像・仏具は新庄の満願寺に十一面観音像・熊部の円福寺に地蔵菩薩像・山之内西馬部の新楽寺薬師堂に大日如来像等が 移されたとありました。
洞ヶ岳のロックガーデン


散策に訪れる人もいないが 遊歩道はひろく途中にも石積みの平地や花折社のお堂もありました。展望の無い植林帯の道ですが林道歩きよりはマシです。だいぶ下ったと思われる頃林道に合流して登山口キャンプ場に到着します(AM9:00)。 雪彦山への集落道沿いに「シャガの里」の看板を見かけますが周辺の林の中に季節にはシャガ(あやめ科)の花が見られることでしょう。雪彦山に向う途中にxxxx城祉の看板を見かけていたのですが何処だったか?忘れてしまって 夢前の町を南下してしまいます。途中で見かける石垣と白い土塀が印象に残る大きなお屋敷が佐野邸です。夢前町指定の文化財で町内唯一の武家造形式の建築物です。


360度の展望絶佳な山頂は修験の行場
U 夢やかた〜明神山〜長滑ら〜夢やかた…
 H13.04.15
…岩屋ノ池前之庄(本条)〜天神山城(280m)〜前之庄(菰生)
 H13.04.15

明神山も嘗て山岳信仰の対象として崇められ、山頂には嶽大明神が奉られ「明神ヶ嶽」とも呼ばれたが、険しい山頂への参拝は不便な為、中世・麓の神種(このくさ)に移して祀られたそうです。 山頂には「夢前の播磨富士」明神山の標柱が建つ。播磨の名山として知られ宝暦10年(1760)に書かれた「播磨鑑」に明神ヶ嶽は播州の高山で、その姿が大変美しいので旅人は馬上よりかえり見、海ゆく人は船上より眺め尽くした。 塩田温泉郷・前之庄辺りからの明神山は山々を従えて王者の風格を備えている:とは夢前町のPR。夢前町の中心・前之庄では史跡:天神山城祉の案内板に少し未練を残しながら、先ずは 「夢やかた」夢さき夢のさと農業公園へ向い大駐車場手前から橋を渡らず右折して岩屋ノ池の駐車スペースに車を寄せて出発です。その前に、この池に姿を映す「鹿谷の明神さん」と呼ばれる秀麗な 明神山を少し覗いてみたいものです。林道を直進して山道を辿れば 150mに及ぶなめ床が続きます。(滑滝とか長滑らと案内板に書いてありますが)一般には、このルートを登路に利用されますが私は池より少し戻った中央入口からCコース (長谷池・明神)と書かれた尾根コースを辿ります(AM9:35)。
写真は「夢やかた」から望む明神山です

7〜8分で稜線に至る。長谷池は東の明神川へ下るので左の登り尾を辿りますが、天気のせいだけではなく展望も良く、ドーム形のピークを見せる明神に向って露岩や岩尾根の続く快適な明るい縦走路です。眼下に岩屋池を望み、 観音滝への分岐も過ぎて赤松とモチツツジの群生を愛でながらも明神山以上に峻峰を突き上げた七種槍の姿が印象的です。七種に槍があるなら、此処の明神山も富士山より、槍ヶ岳の感じが近づくほどに強くなります。 小槍を従えてその小槍も結構急峻に見えてきます。「ぬくもりの森」として遊歩道等整備中らしいがこのコースは一般ハイキング気分では一寸危険な、またハードな部分がありますので手を加えずそっとこのまま登山コースとして 残しておいて欲しいところです。小槍(AM10:20着)への登りも一旦鞍部に出て本峰の明神山へもキツイ急登りが 待っているのだが…露岩の急下登の此処をロールアウト大柿氏は MTB担いで赤布が示す通り走破されたようです。直下まで岩場混じりの最後の急登りで空が見えれば其処が明神山山頂(668m 3等三角点 AM10:35)です。
岩屋の池から望む明神山

北には雪彦の岩峰 ・岩壁が、七種山塊を隔てて笠形山の姿が、 南方のユニークな丸い山頂を並べているのは龍野の的場山と亀山だろうか!人気の山で登山者も多く山頂のグループも早いランチタイムに取り掛かっていました。テーブルを空けなくてはなりませんので早々に下山しますが 急な杉林の中に椿の木が多く、深い落葉の絨毯の上に赤い椿の花が散りばめた様に撒かれており、何処かの国に貴人として歓迎されているような、おもてなしを受けます。そこから20分も下lり植林帯を抜け少し道が広くなったかなと 思えるところからは此処の名所?「長滑ら」(AM11:00)です。150mばかり続く一枚岩の滑床です。 程なく登山口(林道終点)で滝観音への入り口鳥居が在ります。「たきのかんのんさん」のひらかな文字の石碑が親しみを感じます。此処から180m程ですので一寸見学に(AM11:20) …参道に沿って綺麗な石楠花が花を咲かせ競っています。鉢に植わった手植えの石楠花で、何処かの石楠花園が造園工事をしているようでした。観音滝は巨大な岩壁から、今は水量も無く幾筋かの水が滴り落ちている程度ですが 、大きくハングってる岩頭から落ちる滝水を、かつては明神ヶ嶽へ参拝する修験者が身を清めて山頂の神に祈願したところです。
写真は「夢やかた」から望む明神山です

宝暦3年(1753 将軍吉宗公の頃)観世音菩薩像を安置してから村人は「滝の観音さん 」と親しんできたとの説明があります。ただ裏見の滝としての理由付けか、 岩盤に鉄階段を設けて滝芯の後ろに立てる様な展望台があり、神社や町の竣工なら無駄な事をと残念に思います。滝観音からの帰りには途中、私が辿ってきた岩尾根Cコースへの分岐道があります。再度・岩屋ノ池に戻って (AM11:30)前ノ庄で見かけた天神山城の案内柱のところへ向います。農業公園の駐車場から「夢やかた」間の谷には、この季節鯉のぼりが飾られます。風が無いので元気のない鯉と吹流しが見送ってくれます。 王者の風格というよりは辺りを見回す優しげな、とんがり帽子の明神山は何処までも私を追って見送ってくれます。


悲願の赤松家再興を願った最後の本拠城置塩城(小塩城)
V 櫃蔵神社〜置塩山(城山・置塩城 370m)〜自然の森遊歩道  2001.04.15 / 2006.7.30

置塩城(国指定史跡 )は播但を結ぶ交通の要衝に位置して「嘉吉の乱(嘉吉元年 1441)」の敗北で、 城山城に滅亡した赤松家を再興した赤 松政則が築城して本拠とした城で、本丸、二の丸、三の丸を始め山頂付近には多くの石垣・石塁・土塁・空掘等の遺構が残り、中世山城の壮大な城域が偲ばれます。羽柴秀吉の「城割り(城郭を破却する )」までの百余年間の播磨守護後期の赤松氏5代の本城となりました。城祉周辺(2km以内)には小屋谷城・鞍掛山城・番城山城等の支城(出城)が在ります。
置塩城南西曲輪群の大石垣

発掘調査時に赤松小判・置塩鏡等 ・・室町時代〜戦国期にかけての瓦や陶磁器が見つかっています。 置塩城登山口の南・置塩橋東詰めに”固寧倉発祥之地”の看板を見かけた。固寧倉(こねいそう)とは阪神淡路大震災以後 ・各地に設置されるようになった大規模災害発生時対応の防災備蓄倉庫の様なもの。
夢前川沿いに置塩城を望む

江戸時代・度々の大飢饉で庶民生活は、困窮の窮みに達し多くの餓死者が出た。これら庶民を救うために文化6年((1809)飾西郡町村組大庄屋:衣笠弥惣左衛門氏長の主唱により、時の藩主:酒井忠道が家老:河合寸翁に建議し、 飢饉や災害に備えての非常食料保管庫を文化6年(1809)より藩内各地に92ヶ所設置させたことが固寧倉のはじまりといわれ、弘化年間(1844-48)頃には300ヶ所ちかく在った様で、姫路市や福崎町等数箇所に文化遺産として復元されています。
=====================================================================
明神山からの帰りに前之庄の天神山城に立ち寄ってから、塩田温泉郷へと夢前川に沿って南下し置塩城登山口:宮置の櫃蔵神社前に出ます。 川沿いに多くの車が停車しています。河原では遅いが未だわずかに桜花が残っており 花見がてらのアウトドアを楽しんでいます。 置塩城(小塩「おじお」城)への登山口は此れより50m程南にあり10台位の駐車スペースがありますが、先ず神社に寄ってみます。
置塩城遠望(県道80号線から)

櫃蔵神社は南北朝期:暦応3年(興国元年 1340)創建と伝えられ祭神に豊受姫命 ・大歳大神・若年大神を祀る神社です。幣殿両隅に置かれていた衣冠束帯の木像は延喜(901〜923)の頃のもの。置塩城主(5代目赤松則房が秀吉に服して(天正5年(1577)開城したとき、 城の守護神は此処宮置の櫃蔵神社・糸田の柏森神社・恒屋の櫃蔵神社の三処に分祀されました。 神社の左背後に「ござる岩 」由緒はあるが内容不詳、神社の右手には天然記念物の大銀杏(高さ30m・幹廻り6.6m)夢前町内一の大樹があります(PM1:00)【現地案内板参照】案内標識やコースは立派に整備!された登山道には、夢前ライオンズクラブが設置の丁石がある。
置塩城登山口

結構きつい登りですが程なく南曲輪群(PM1:20)と本城分岐です。 丁石最後の十八丁が庭園風の広い平坦地・茶屋跡曲輪の南側切岸の石垣が残る前に立つ。登山コースに沿った二ノ丸側に土塁が延びており、 南曲輪群と本丸への分岐点で”縄張り案内図が建てられています。 河原の賑わいが嘘のように人気(ひとけ)の無い登城ルートです。分岐の案内板から茶屋跡曲輪の縁が十八丁石垣の方にと土塁が延びる。茶屋跡から南曲輪群へ向う通路の側にも石垣が見られた。 その先に案内板があり土塁を乗り越え二の丸跡、北方へも曲輪群が続き一部石積みの跡を覗かせる幾つかの曲輪を通って本丸跡に着きます(PM1:35)。 ひときわ高く、流石に展望の良い山城の広い本丸跡地は加古川の中道子山城と同じ様に周囲は土塁で固め急峻な台地上にあります。
櫃蔵神社

ただ随所に見る石積みも二の丸の一部を除き、土留めに用いられているようで 「穴太積み」のような整然としたものではなく、自然の大岩の周辺に野面積みの石組みを残しています。案内図には南西曲輪下部には大石垣があり例外的に立派な石垣もあったようです。二の丸北面には台所跡や三の丸の平坦地があり 此処を南側へ廻り込んで西曲輪群から大手門跡へと、幾段にも続く小曲輪の横の踏み跡を辿って見ます。大手門跡から先は危険とか道なしとか案内板に手書きしてありますが、とにかく進んでみる。 下降一方の道ですが西の曲輪群から大手門跡にかけて、棚田のように曲輪が続き大手門跡(PM1:55)と書かれた、 標識が無ければ藪の中の一寸切り開かれた空き地に出ます。此処からは途端に踏み跡も無く、嘗ての登城道はシダ類や潅木に覆われ完全に藪にもどっていますので谷筋に向って急下降しますが、 注意して見れば辛うじて藪の中に踏み跡を見つけることが出来ます。
置塩城本ノ丸虎口の石列(土留石)

しかし其れも下り始めると細い道も怪しくなってきます。往時の大手道なので、やがて踏み跡の形跡が現れるだろうと思いながら降ります。細い谷筋を利用した空掘りでしょうか。その一部に石積みを並べた土塁のようなものも見る。 やがて急だが広く真っ直ぐな道になり、椎茸園等の有る「自然の森」入り口ゲートの有る車道に飛び出します(PM2:15)。車道を6〜8分も歩けば櫃蔵神社を経て置塩城祉登山口(PM2:20)に戻り着きます。 此処から伊勢山〜空木城を目指し県道80号(山崎香寺線)に入ると、右手後方には城山と其の裾に置塩城址の大看板が目につく。


由緒・民話  明神山の白翁(夢前町)

むかし 雄略天皇の頃、夢前町神種(このくさ)村の北に明神山という高い山があり、頂上には夜な夜な明るく光るものが見えます。弥久彦・富良雄・直丸・智茂理・日綱田という5人は、不思議に思い村人に、このことを語ります。 村人は夜になると山の上を見るのですが5人の言う光は見えません。5人はいよいよ不思議に思い、また薄気味悪くも思い相談して山へ登ってみることにしました。

明神山は険しい山ですが道なき処を草木を分け、 岩壁をよじ登りながらようやく山頂に達しました。見ると三メートルあまりの御幣(神に供えるもの・・)が山頂に突き立っており、しばらく見ていますと、御幣の後ろから白髪のお爺さんがボーッと現れ、 それがだんだんはっきり拝めるようになりました。
5人は驚いて思わず大地にひれ伏してしまいました。お爺さんは低い声で静かに言います。「私は佐太の大神である。明神山は播州一の名山で尊い浄(きょ)い山である。 この御幣は、かしこくも高皇産霊神・神皇産霊神・すさのおの神の御霊代(みたましろ)である。この三柱の神をこの山に祀れ、神のご守護はあらたかで、神種は栄え、村人は幸いになる。ゆめゆめ疑うことなかれ」といって スーッと消えてしまい、5人は驚きおそれ・慌てふためいて山を駆け下り村人に事の次第を話すと、同じに驚き、神のお告げとおり明神山の頂きに小さな祠を建てて丁寧に祀り、この社の名を神元神社と名付けて今も 神種村の氏神としてお祭りしています。その時の弥久彦・富良雄等5人の子孫はそれぞれ、御名見(みなみ)・宇治・珂地・難波・菰生と名のって代々社司となって神社に奉仕したということです。この地方には今も南・宇治 ・加地・難波という家があり、また菰生という地名も残っています。


置塩城 天神山城(宮之辺城)

置塩城 (小塩城・藤丸城・鞍山城)  置塩山・城山 370m  飾磨郡夢前町宮置・糸田   国指定史跡(平成10年1月30日)

夢前川沿いの県道67号(姫路大河内線)側、櫃蔵神社脇の登山口には縄張り図付き案内板と 石碑が建てられています。足利将軍義教の首を取った「嘉吉の乱(嘉吉元年 1441)」によって赤松満祐が敗北し( 城山城合戦)に於いて一族と共に自害し赤松総領家は一旦は滅亡したが、 このとき赤松家の再興を託されて密かに城山城を脱出した満祐の子教康は伊勢の国で捕らえられ処刑されてますが、満祐の弟・義雅の子、千代丸(後の時勝)は近江の国に身を隠して人目を忍び法師丸(後に赤松家を復興させた赤松政則)を儲けていた。 時勝は幕府の追及をかわすため出家し名を性存と改めています。
置塩城本郭から望む南条山(2001.4.15)

「嘉吉の乱」に滅亡した守護職赤松氏の所領三国 (播磨・備前・美作)は戦功により、細川氏等も参戦していたが一方的に山名氏がすべてを領有したことが「応仁の乱」勃発の火種になっているといわれます。 細川勝元と但馬:竹田城主山名(宗全 )持豊が将軍後継者争いで、細川氏は山名氏に恨みを持つ赤松政則を旧領復興を約して呼び寄せて播磨に下向させ、此れに別所氏・上月氏・徳平氏・中村氏等の旧赤松家一族の残党が参戦します。
本丸側西の曲輪:大岩を囲む石垣

播磨挙兵を山名氏も竹田城を守る太田垣氏に征伐を命ずるが 幾度かの合戦に勝敗を決しないまま太田垣氏は但馬に撤退し、このことで政則は播磨守護に任ぜられ姫路城を本拠に備前・美作の旧領三ヶ国の奪回に務め、文明元年(1469)但馬方面への押さえとして本格的な山城置塩城を築城し 此処を本拠城として移った後期赤松氏の居城です。明応5年(1496)4月に政則は42歳で逝くが、 政則に実子がなかったので養子の赤松義村(赤松円心則村の長男の末裔)が二代目城主になり、義村の後見となった守護代の備前三石城主:浦上村宗は、赤松氏の守護としての勢力が衰退していくなか、主家:赤松氏を凌ぐ 勢力を持って台頭してくると其の立場を利用して遂に赤松家の実権を握り、 大永元年(1521)に義村を室津の実佐寺に幽閉しその後謀殺します。
十八丁石と茶屋跡の石垣

・・が反勢力は密かに義村の子・晴政を三代目城主に据えた。その後は細川家の内紛に巻き込まれ村宗は細川高国、晴政は細川晴元方に属して 各地で転戦するが享禄4年(1531)晴政は「天王寺合戦」で遂に村宗を倒します。 播磨に帰国した晴政ですが天文7年(1538)11月には、出雲の尼子晴久が大軍を率いて播磨に侵攻し、晴政は戦わずして摂津に敗走してしまいます。 ほぼ播磨全域を手中にした尼子晴久ですが、わずか2年後に播磨から撤退し、晴政は播磨に帰国するが弘治2年(1556)10月に死去しています。

茶屋跡曲輪の石積


4代目の置塩城主は晴政の子・義祐ですが、所領は播磨飾東・飾西・神東の三郡のみとなっていました。天正4年(1576)に義祐が死去しその子・5代目則房が 置塩城最後の城主となりましたが、翌・天正5年(1577)織田信長の命で羽柴秀吉の播磨・中国攻めが開始されると、殆ど戦わずして秀吉の軍門に下り”播磨攻め”は僅か一ヶ月余りで完了。この後・三木の別所氏等が信長に叛いたので 秀吉の播磨統一は天正8年になります。天正9年(1581)秀吉の中国攻め拠点として築城された姫路城築城により、置塩城は廃城となり「城割り」 (城郭を破却する)され政則から則房まで五代続いた赤松氏最後の城置塩城・高砂城 ・神吉城・明石城・東条城等を対象として、建物や石垣等は姫路城築城の用材として運び出され、繁栄していた城下町も姫路城下に移されます。
茶屋跡の曲輪と土塁

丹波八上城が篠山城に移された事と其の様子や現状を重ね併せて想ってみます。 ”姫路城「と」の門”は置塩城の大手門を移築したものといわれます。 その後も赤松則房は秀吉に従っていたようであり秀吉が天下人となってからの天正13年(1585)に阿波国加島城(徳島県板野郡住吉!)に一万石で移封されたともいわれ、約100年余り続いた置塩の城史を閉じます。 移封先は同じ板野郡に住吉城があって、同年(天正13年)四国征伐に功があったとして与えられていますが加島城=住吉城!!??なのかは不詳。 城域は二つの峰にまたがっており、最高所の370m山頂に主郭を置き、鞍部を隔てた一Ca350mの西峰に城主の館を置く二の丸、 客を迎える為の館が設けられていたと推定される三の丸を置き、周辺にも曲輪群が築かれ麓から三の丸への道は桐 ・菊・桜の三門、土塁、堀切で城を固めていたといいます。
二ノ丸北曲輪群:南空掘側に左右石組・石段の残る門跡!

二ノ丸下南西部の曲輪群にも大石垣や石積により築かれた曲輪等・遺構も此処を中心として、尾根四方に広大な曲輪群を並べているようで、 最高所の本の丸は詰め城であったとも推定されます。 当時・城下には武家屋敷・町屋・寺などが集まり城下町を形成し置塩(赤松)小判と呼ばれる通貨が鋳造され流通したり、塩 (置塩)鏡という松と鶴亀を鋳出した質・作ともに優れた鏡を製造しています。発掘調査は今も続けられていますが過去にも、中国製の磁気や備前焼の徳利や壷、瀬戸や美濃焼きの茶碗等が出土。茶屋跡・台所 ・二ノ丸には庭園遺構も発掘されたようです。
二ノ丸南面の石垣

初代政則は能楽に精通し、 刀匠としても知られた人物だったようで、時代は推定出来なくとも、山上の城においても庭園を造成し茶や能楽の風雅を一時でも楽しむ文化人赤松氏一族の本拠城には、 未発見の遺構や遺物が残されているのかも知れません。 諸所の曲輪群からは石列・石積・石垣が見られますが豊織期に改修されていないので、豊織期以前の中世築城技術を見る事が出来る城でもあるといわれます。 城郭で瓦の使用は安土城が最初?(天主に瓦が使用されているという意味で !!)と云われるだけに、置塩城の本丸や二ノ丸から瓦が出土している事は注目されます。
<「ひょうごの城紀行」神戸新聞総合出版センタ 等 参考>



天神山城(宮之辺城) 280m  (飾磨郡夢前町前之庄(菰生・本庄 )

前之庄は夢前町の中心地、その山上に本丸、一段下に二の丸跡には石垣の一部も残っている。初代城主・赤松(大河内播磨守)満則(赤松則祐の三男)・友則・民部少輔満政・満直と続いて後、 永享5年 (1433)志方の中道子山城に移るまで四代の居城。 築城は北朝期の延文5年(1360)とされているが、明徳年間 (1390〜94)との説もあるようです。赤松則祐は明徳2年(1391)12月の兄・義則に従い京都で戦死。往時に見つけた天神城祉の 標柱近くに空家があり駐車場確保も出来ていましたので、明神山の帰りに寄ってみることにしました。案内標柱(AM11:40)から集落内を山側に向いますが民家の先は行き止まりのよう。右折すると直ぐ古い神社前ですが城祉の名前が天神です。 これは天神社か?

神社奥に向かって道が続いているので辿ってみると古い小さな墓地が幾つか有りその先の貯水池からは集落に戻ってしまいそうです。貯水池脇の切り開きの細い道を山側の池の上に出て、 深い落ち葉に隠れた山道?を高所に稜上を見定めながら向いますが獣道になってしまいます。歩きやすい獣道はどうやら猪君のものらしく、この小さな山域で何頭かの若い猪と、すぐ近くで荒い鼻息を聞きつけます。 トコトコ逃げる姿が見えました。ウリ坊がいて驚かしていたら私のほうが逃げ出さなければならなかったかも知れません。本丸跡に着くまでの尾根に道は無く、藪と獣道を辿って本丸ピーク(PM12:05)です。藪の中で展望は無いが、 狭いが平坦地の北側?下方には平坦な曲輪跡の様な場所が在ります。ピークから西の丸?に向ってのわずかの間は踏み跡も有るがこの道は段々と北の神種(このくさ)に向いますので、猪の跡を追うかのように藪の中に集落への道を模索します。 西の丸?付近を探索すれば石積み跡等が見つかるかも知れません。小さな山城ですが随分と西の方へ寄ってしまったようで菰生の、とある民家の裏手に出てきました。後は鹿谷中学校?の校舎を目印に本庄の集落目指して戻ります。 車デポ地点(PM12:40)

  丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system