岩山に花咲き、岩の滑り台も! 紅山〜惣山 (小野富士) 金鑵城 ・河合城・堀井城・鯰坂城他
東播磨(5万図=北条)
福旬峠〜紅山(184m)〜惣山(小野富士168m)〜アダメ峠  H13.03.03
「きすみの見晴らしの森」〜惣山(小野富士)〜中央林間広場 H18.04.01

近畿の山城 金鑵城 小野藩陣屋・(旧:敷地陣屋) 葉多城(畑村城)
 鯰坂城 堀井城 小堀城 河合城 河合屋敷 岡城(岡構居)

紅山の岩稜を向いに富士らしくない惣山を望む
岩稜の基部に登山者が数名憩う.
校歌・故郷の山 小野南中学校 ♪遠き紅山 茜さし…♪
    小野中学校 ♪遠く霞める 播磨富士(惣山)・・♪


岩山〜紅山〜惣山〜アダメ峠に続く山並みに沿って眼下に山陽自動車道が走る。権現ダムのある79号線沿いから見ると 身体中に岩の鎧を纏った武者が 勢ぞろいしている様な精悍さで、アルプスの名に恥じない様相ですが標高は最高峰の惣山でも200mを切るが東西4.5kmのミニ・アルプスは周辺に桜や紅葉が多くハイカーで賑わうところだが日差しを遮るところが少なく 夏場は人気薄。小野アルプスは百間岩-高御位山周辺 新竜アルプスと並ぶ播磨三アルプスの一つです。


小野アルプス縦走福旬峠〜紅山(184m)〜惣山(小野富士168m)〜アダメ峠   2001年03月03日

加古川市志方の中道子山城 (赤松城)を往復してから118号線を志方東公園のある七ッ池を通り78号線の中山交差点を過ぎれば福旬峠です。小野アルプス縦走路の入り口で道標も完備してあります。 峠を下れば鴨池公園だが峠の登山口近くに駐車スペースがあるので此れより出発します(PM12:30)。いきなりの急登ですが歩き易く低山なので直ぐ稜線に出ると其処が宮山峠と紅山・惣山以外に名を記した表示はない。尾根に登りつめれば其処が最初のピーク宮山。展望が拡がり眼下に山陽自動車道が稜線に沿うように並行して走っています。

程無くして 稜上一帯が岩場となると名の通りの岩山(4等3角点PM12:45)。雑木と岩場の境のような道の前方に急斜な一面露岩の尾根が目に付きます。滑り台のような岩場の頭が紅山(184mPM1:00)で、岩に鉄分が含まれて赤く見えるところから名付けられたという。 紅山に対峙して物見櫓(展望デッキ)が見えるのは、まるで山城のように頂部付近がなだらかな小野アルプス最高峰の惣山です。何処が富士山と疑いたくなるような山だが、どうやら北方の鴨池辺りからだと富士型に見えるのでしょう。 いよいよアルプス最難関といわれる滑り台のような岩の尾根降りです。鞍部の登山者達は食後のCoffee Break中。風もなく陽だまりハイキングを楽しんでいます。下方からは女性を含む3人がMTBを押しながら登ってくる。 下りだったら岩の急斜面をどう処理するのかな!!と要らぬ心配を感じながら下り切れば岩倉峠(80m)・南側(右)に50mも降れば 惣山への縦走路。道の無い正面に赤いテープとスプレー染色があり今まで藪の中をホッツキ歩いているものにとつてはどうってこと無い藪なので紛らわしいことこの上無しです。紅山山頂から5分(PM1:05)岩倉峠から鉄塔へ出れば惣山山頂はすぐ。
小野富士

展望を楽しむのは山頂から先の展望デッキか、その間にある岩場がベストですので一気に登ります。小野アルプス最高峰惣山(小野富士:総山168m 3等三角点 PM1:15〜1:25)山頂での展望は期待できませんので展望デッキへ移動します。ベンチのあるほうへはアンテナ山を経てアダメ峠への尾根コースです。良い感じの道ですので此れを下ることにして、 一先ず展望所(山頂から150m手前)のデッキに向います。其の少し手前の露岩付近岩上草地の案内板がある。要約?!《岩が多く土壌の薄い処にはイネ科のアオウシノケグサ・チョウセンカリヤス・メガルカヤ・オガルカヤ等 乾燥に 強く陽地を好む生育しています。…秋にはリュウノウギク・ヤマラッキョウ・萩の仲間のマルバハギや ツクシハギ等が綺麗な花を咲かせます。 花の名前は良く分かりません。主峰を背にしての降りの尾根と、富士をイメージして振り返ってみる惣山の姿に期待は出来ません。
惣山山頂


共同アンテナと避雷針の並ぶアンテナ山から降り登りなおして総山には3等3角点(PM1:45)があり「山想同人」氏?のプレートがある。最後の下降で車道の アダメ峠に降立った(PM1:50)。今度は鴨池に向うか ウォーキングセンタ!にするか迷うが、尾根からの様子で山陽自動車道沿いに戻ろうとセンタ側の南へ出る。葡萄畑か?いゃキュウイ栽培の畑から辛うじて富士らしい姿を写しておいた。 いまひとつ富士らしいPR度に欠けるようだ。最初高速道に沿っていたが段々道が外れていく。惣山の位置を目認しながら廻り込む様に79号線に出て権現ダムを通りやっと118号線中山交差点に出て駐車場の福旬峠に帰り着いた(PM2:40)。


鴨池から「きすみの見晴らしの森」を散策   2006年04月01日

加古川に沿って南北に走るR175号線の「市場東」交差点から西に入り 小野藩陣屋の他池尻城:下司館:垂井城の各市内の近畿の山城を廻って加古川を西岸に渡ります。 先月・加古川の平荘湖へ向かって走った県道79号線の権現ダムの北から東側の小野市来住町へ越える福旬峠からは来住山地【小野アルプス】がある。
展望デッキ付近から紅山

来住を”きし”と読むのかと思うが”きすみ”と読ませて「きすみの見晴らしの森」遊歩道が整備されています。”ひょうご豊かな森づくり構想”による里山林で 四季の自然を楽しめる身近なハイキングコースとして最適です。バードウオッチングやデイキャンプ等で人気の鴨池やアザメ峠から展望デッキ〜小野富士(惣山)〜アンテナ山を周回する小野アルプス縦走コースの中央を横断するハーフコースがあります。 鴨の姿もメッキリ少なくなり、肌寒く未だ人気の無いボート乗り場近くに十数羽が群れているだけの鴨池(男池)から 福旬峠に向かう車道向いの女池沿いに「中央林間広場」への案内表示に従って進む前方に紅山(此処からはダイナミックな岩尾根の姿は見えないが惣山手前の展望デッキが建つ尾根先の峰が三角錐の山容を見せる。
惣山山頂

其の奥にはホントの?小野富士(惣山 )があるが何処から見れば富士形なのか?・中央入口からは林間広場ではなく、先に展望デッキへ向かおうと西入口へ向います。 途中には古墳が有るがカメラを忘れたので寄らず、素通りして九十九折れの遊歩道を採って尾根先ピークの展望櫓の立つデッキに着く。 滑り台状の急斜面の岩尾根を持つ紅山を筆頭に明石海峡大橋から四国・淡路島、西方へは高御位山から家島・遠く明神山・雪彦山〜峰山高原・笠形山・鎌倉山等加西市の山から小野市街地へ拡がる播磨平野の展望が楽しめます。
アンテナ山から惣山(左端)と展望デッキ(右端)
紅山から見ても、アンテナ山から眺めても富士のイメージが無い惣山

展望デッキから 惣山へは展望も効き、緩やかな岩稜の尾根が続きスリルの紅山方面とアンテナ山〜アザメ峠への分岐点に立つ惣山 (3等三角点 168m)に着きます。標識板が色褪せている以外は5年前と殆ど変わらない周辺の風情に、 当時の行動を懐かしく想い起こします。アンテナ山から眺める惣山の姿は紅山から見た山容をソックリ裏返した形で見せています。紅山の岩尾根の登りに”連れ”は怖気付くので、アンテナ山経由で中央林間広場へ下りるが、明石海峡大橋や瀬戸内海(播磨灘)・眼下の自動車道にアンテナ山からはアザメ峠への遊歩道を取れば良かったが北下方に登ってきた 中央入口付近の池等が見えているので細い踏み跡を下り始めた。 踏み跡はいよいよ細く尾根筋は棘蔓の多い藪漕ぎ状態になり、キャー…痛い々々の連発。
金鑵城の模擬櫓から加古川流域(加東市・小野市方面)を望む


しかし距離も短く 急斜面でもないので其のまま降って アザメ峠からの遊歩道に合流した。西に小さな池のある東入口に近い位置でしたが、平荘湖周辺の低山に続き今回が岩尾根と眺望の他に藪漕ぎの冒険を「もう懲り懲り」と云いながらも楽しんで?いた様です。 アカマツ林の中の遊歩道は休憩棟のある中央林間広場を抜け、比高20m足らずの赤山裾を捲き中央入口を経て、西入口へのルートに出合い鴨池の駐車場に戻ってきた2時間ばかりの散策コースです。

金鑵城小野藩陣屋 葉多城鯰坂城
堀井城 小堀城 河合城 河合屋敷
岡城(岡構居)

金鑵城(金釣瓶城・金鑵山城) 城山・西森(2等95m) 小野市昭和町小字ウットウロ・新部町小字大谷

R175号から神戸電鉄小野駅附近で満願寺川と合流する加古川に沿って北上すると栗田大橋辺りの西方に南北に延びる青野ヶ原丘陵地の東端部にあり、 県道349号からは送電線鉄塔よりも目立って木製の櫓台が見えてきます。新大河橋を超えて県道 市場滝野線に入れば夢の森公園の標識が公園の駐車場へと案内してくれる。周辺には国立療養所青野原病院、県社会福祉事業団小野起生園・県立小野福祉工場、
主郭内部:二ヶ所の虎口を護る土塁と冠木門


市立養護学校等の施設がある。中村氏一族の金鑵城は赤松氏の河合城の支城として、また詰め城としての機能を担っていたとも考えられる。小野市の近辺は平城ばかりで金鑵城のような山城が少ない為、中世末期にこの地域を支配していた別所氏の緊急時の詰城としても数回の改築がされているようです。金鑵城は小野市域の北西部・加古川右岸の青野ヶ原台地東方の突出部に築かれており、
柵と土塁が囲む主郭内部


此処からは北に社町・滝野町、南には小野市街地が一望できる小高い丘陵地帯で、 小野市内に築かれた室町時代から戦国時代にかけての中世城郭【河合城・堀井城 小堀城】を見渡せ、明石大橋や淡路島が見える事もあるそうです。西面を除く三方を 崖で囲まれた天然の要害地を選んで築かれた中世の山城で、城の周辺を囲む土塁や木橋・柵・門・櫓などが復元され往時の姿を知ることが出来ます。金鑵城が平成8年小野市文化財指定となり、平成12年8月「夢の森公園」としてオープンし金鑵城遺跡公園として 整備され遺跡広場をはじめ100mのローラーすべり台やアスレチック遊具等の施設があって子供も楽しめます。
金鑵城の三方は崖、残る西面には大堀切が


城域は丘陵先端部の台地に主郭と西郭があって、その間には幅約20m・深さ9mの堀切で防備され木橋が唯一の通路となっていたようです。主郭は東西50m・南北80mの規模で周囲を幅約 3m・高さ約1.5mの復元された土塁で囲み、その城内には4棟の礎石建物が検出されており、倉庫施設・煮炊き施設・集石遺構などがありました。 北西部にある土塁が二箇所途切れるところがあり、
金鑵城へ唯一の通路:木橋を渡って虎口へ

城内へ虎口と考えられます。 主郭からさらに北東にのびる先端部にも独立した曲輪があり、小さな堀切の先には見張り用の櫓台(約7m)が復元されています。南北朝期の正平11年(1356)播磨守護・赤松氏の被官中村(間嶋?)六郎左衛門景長の築城とされたといい、中村弾正少弼(しょうひつ)正景の頃には小野市から加西市にかけてを所領地とする勢力になっていたようですが中村小四郎正満の時、守護・赤松満祐の起こした嘉吉の乱(嘉吉元年 1441)に 追討の山名氏・細川氏等の幕府軍と戦って没落する。
主郭から東に突き出た曲輪の模擬櫓を望む

正満の子助直 (幼名:千菊丸)は家臣の小谷興次により抜け出して河合屋敷の河合義隆(茂隆)に匿われます。赤松氏を再興するため小四郎助直(貞友?)・石見太郎助・真嶋三郎 ・小谷与次等赤松氏の旧家臣が嘉吉3年 (1443)金蕨(きんけつ)の変に奪われていた天皇の位を示す神爾・宝剣のうち宝剣は取り戻されていたが長禄2年(1458) 吉野の後南朝(後亀山天皇)に攻め入り(加西市・南帝塚を参照してください)神爾の鏡を奪い返し足利将軍義政より、赤松家は再興を許され播磨国と加賀国の領地半分を与えられます。中村小四郎助直は此の功により旧領:河合郷を回復して金鑵城主となります。
城名の起源:金つるべ(主郭南西端に模擬の井戸)


その子・中村駿河守祐友が応仁の乱に活躍して赤松政則の播磨回復後には 旧領地を安堵されたようです。文明16年(1484)には浦上則宗等に与して赤松政則を追放した事があり、この時・赤松一族の三木城・別所氏を攻めています。城史詳細は不詳ですが天文2年(1533)別所九郎衛門!に攻められ、井戸の水を絶たれて落城したとも?、 金鑵城を落とした別府九郎衛門が城に入って以後、主郭部の礎石建物等は何回か大改修が行われたものと考えられ、天文8年(1539)には赤松晴政により中村与次郎の西河合郷所領を取り上げて別府源三郎に与えたが以来、両氏の間に長い訴訟が続いたとも云われますが、別府氏もまた三木城の別所氏によるものか?永禄年間(1558-70)には三木城主別所氏の持城になっていたようです。天正8年(1580)三木城攻めによる 別所氏の滅亡で金鑵城も廃絶したようです。
城内へ唯一の通路:木橋から大堀切と主郭切岸

金鑵城の由来は 主郭の南西端にイメージ復元されている井戸に有って、鉄(かね)の「つるべ」に鎖をつけて水を汲み上げていたことから、この城名がつけられたと伝えられます。ただ井戸が此の位置にあったか、其の形も確認されていませんが 復元櫓とともに公園のシンボルとされています。其の櫓は主郭の東から堀切を渡った先端に1曲輪を設けて、其処に模擬の復元櫓が建てられています。建築法の規制を受けた建物ではないので櫓に登ることは出来ない旨の貼紙があり、残念ですが上に登らずとも展望の良さは抜群です。加古川の流域を眼下に丹波・東播磨を結ぶ要衝の監視や見張り、小野市街地全域から加古川・加東へ点在する播磨平野の中の城館や 城砦群への通信基地としても重要且つ適所な位置にあります。
金鑵城の二箇所の虎口を護る冠木門と高土塁

築城当初は主城だったと思われる河合城や堀井城・小堀城城山点名 :西森95m・2等三角点からは平野部との比高が約60m程も有って其の城内の様子まで判る程の近距離です。また・城の遺構とともに小野市の調査(平成3〜5年)で弥生時代中期から後期の6棟の竪穴式住居跡や石鏃(せきぞく)などの遺物が発見され、 加古川流域でも高い所に住居を持つ高地性集落が 存在していたことがわかりました。農耕民族が平野部を避けて、わざわざ日常生活の不便な高い所を選んで 設けられていることは河川の氾濫等の自然災害や争乱を避けての逃げ場所だったか!!??
城域内には弥生時代の掘立柱住居跡遺構が残る。

弥生時代の高地性集落としては阪神間でも芦屋の保久良神社・金鳥山・会下山遺跡があるが、同様に見張り所や軍事的施設が有ったとすれば山陽道と摂津西国を結ぶ最重要な要衝であり、金鑵城遺跡の位置も瀬戸内側の加古川から日本海側の由良川へと 通じる交通の要衝にあって経済や文化・情報伝達にと重要な役割を果たしています。古墳では幾つかの例がありますが住居の周りを、全国でもめずらしい周提(土塁)と呼ばれる防備施設があることでは古代の城であったとも考えられますね。
【現地案内板及び小野市史:文化財編 を参照 金鑵城(市指定H8年3月1日文化財)】

小野藩陣屋・敷地陣屋
敷地陣屋(小野古城)
小野市敷地

小野藩陣屋(小野城)
 小野市西本町本陣山

神戸電鉄小野駅には「そろばんの町・金物の町」である事をPRするパネルボックスが置かれていた。駅東の市街地から市立好古館の案内板を見て左折・T字路突き当りの小野高等学校前を左折し神戸電鉄踏切を渡ると小野藩一柳家の氏神で陣屋構築に伴って 創建された磐代神社
一柳氏の小野藩陣屋跡石碑

祭神は一柳家の祖・伊予国の河野家の氏神でもあった大山祇神で、 五代藩主末栄が宝暦年間(1751-63)に一柳家の基礎を築いた一柳直末(磐代明神)とその子・松千代(真栄霊神)を祖神として合祀されている。 羽柴秀吉の家臣・直末が小田原城の北条氏政を攻めた時、伊豆山中城合戦!!で戦死したが旧藩時代には藩主自ら祭祀を司って直末の武功にあやかるべく軍神として尊崇し
一柳氏祖神を祀る磐代神社

出陣のときには参拝し武運長久を祈願したといいます。小野藩陣屋門をイメージした模擬長屋門風の小野小学校正門脇には「一柳家陣屋遺跡」の石碑 が建っている。戦国時代河野宣高が伊予から美濃に移って土岐氏に仕え一柳氏姓を名のり、宣高の孫直末は羽柴秀吉に従い三木合戦に加わっています。 その後も秀吉と共に戦い秀次と北条氏を攻めた伊豆の山中城合戦で討死。
濠となった雁又中の池から陣屋跡・柳風亭・好古館を望む

弟の直盛(伊勢国神戸藩50000石)が後を継ぎ慶長5年(1600)関ヶ原合戦には徳川家康の東軍に与して様々な功績を挙げ寛永13年(1636)先祖代々の伊予国西条(58600石)に転封、加えて播磨国加東郡28600石の所領を与えられた直盛は采地へ赴く途中大坂で病で亡くなり遺領は三人の息子に三分割され西条藩は長男:直重が3万石で継ぎ、次男直家が播磨国河東郡小野5千石 ・伊予国川之江2万3千石を分与された。
濠となった雁又中の池

直家は宇摩郡に陣屋を置き川之江藩が 立藩されが翌:寛永14年加東郡小野の代官所を陣屋として届け出て藩主以下家臣が移住したが、許可がおりる前の寛永19年(1642)直家は病死。直家には継嗣なく、 但馬国出石城主小出吉親の次男直次を養子に迎え家督を継がせたが末期養子であったため(急な養子は認められず)遺領となった伊予川之江の所領は幕府に没収された。
敷地公民館前(一柳氏旧敷地藩陣屋跡石碑)

【敷地(旧小野藩)陣屋】家名断絶となるところだが一柳家の関ヶ原に於ける先祖の軍功等功績により特に減封で許され、 寛永20年(1643)養子の一柳土佐守直次に検(あらた)めて小野1万石の相続を許され、陣屋を小野敷地陣屋に移して着任した。大部小学校東付近が遺跡分布図に示されており、現在「一柳藩敷地旧陣屋跡」石碑が敷地公民館前に移され!?立てられている。 公民館並びの八幡宮も伊予西条時代の一柳家に関連ありそうに思える?。圃場整備で旧状不明だが加古川流域の河川段丘状 ・公民館前からの車道沿いが僅かに高くなっているが、敷地陣屋は要害にあらず…と
【小野藩陣屋】
承応2年(1653)門前村(現:小野小学校の地)丘陵先端部の三方を崖に囲まれた今の地に移して 近世小野陣屋を構築しています。
敷地公民館続きの八幡宮

東側(現:神戸電鉄小野駅側)にある雁又中ノ池(前後に有った二つの池は消滅か?、 3つの池)は濠ともなっていた。また其の東方(現:小野市街地)に商家を誘致する等…城下町形成、産業の奨励は小野市特産の算盤・金物業の発達にもみられる。 一柳土佐守直次の(小野城)小野藩陣屋は小野小学校と旧敷地内に市立小野市好古館が建つ。遺構は何も残っていないが現状:南と西は崖となっており 北東部が台地の市街地に接しています。
敷地公民館並びの八幡宮と大部小学校

陣屋内は土塀で仕切られ、 陣屋の東から北側にかけて藩士宅が建ち並んでいたようで、明治維新を迎えて廃藩になるまで一柳家十一代末徳まで約230年間続き、明治2年(1869)版籍奉還で藩知事となり、明治4年廃藩置県により小野県となり藩政は終わりを遂げ末徳は上京します。なを小野城の城主を「播磨鑑」では天正年間以前(1573-92)別所長治の幕下で小野権右衛門とされているが小野氏や別所氏との関係は不明です。
長清禅寺山門の一柳家家紋

城の位置関係からは垂井氏が垂井城(小野市新明町)を築く以前に小野城を築いていたとも考察されています。三木市には天領となった伊予西条から宝永元年 (1704)一柳直増が三木に5250石を領して移り築いた高木一柳氏の藩陣屋がある。また一柳家の家紋「釘抜紋」が彫られた吉田伊賀守の石碑(五輪塔)が屋口城近く代官所が在ったとも云われる 新興集宅地へ向かう峠道にある。三木別所氏家臣か一柳家小野藩の代官なのか詳細不詳…!!。
長清禅寺の陣屋移築門?

また旧敷地陣屋と西本町の小野藩陣屋を結ぶ中程(市役所から約400m程?の長清禅寺(臨済宗妙心寺派)の山門が一柳家家紋の正紋である丸に二重釘抜の紋瓦があがる。 長清寺の寺紋でなければ、戦国時代数々の武功を重ねた一柳家の九城(釘)を抜く(攻め落す)武運のとして武将に人気があった・小野陣屋の移築門なのでしょうか?。

【小野市史、Wikipedia、現地案内板参照 】


葉多城(畑村城・畑城・畑村構)  小野市葉多町字城ノ前

小野市役所手前・王子の交差点を左折して真っ直ぐ西に延びる県道23号へ入ると極端に車は少なくなる。小野市街地の西・葉多公民館手前を右折すると西側に田園が拡がり、葉多の集落の南に続く低い河川段丘が見えます。葉多集落内の北から西にかけて7〜8mの崖が取り巻く自然の要害となっており、その北西隅にグラウンド(ゲートボール場)が有って、此処が葉多城の主郭部です。
北から望む葉多城(右端の高みが櫓台)

東南側には高い土塁(3m程)に続き南西よりに赤い鳥居に続いて上部に 稲荷神社を祀る高台がある。5m程の高さの櫓台で周囲の雑木で眺望は望めないが、伐採されていれば此処に物見の施設が無くても 東から南〜西面への展望は 良く青野ヶ原の金鑵)城も近い。明確な形で残る櫓台の遺構としては小野市で唯一のものだそうです。
葉多城・本郭から稲荷のある櫓台

櫓台から北に続く土塁を断ち割って東側に抜ける道があり、其処を出ると民家の裏庭…だが此処には空掘りが廻っており北側土塁の先へと続いて います。南側の民家裏側は農具資材が散在し、堀址は手入れされず水の抜けた池の様。北側は土塁をより高く見せている空堀ですが堀底まで雑草と竹薮に埋もれ、 写真では残念ながら実体が良く見えないが空掘りが残っています。
櫓台の東には南北に走る土塁に沿って空掘りが

築城時期は櫓台の防衛手段(櫓台を築く位置を少しずらせば側面から横矢が掛かるが、其れを想定されていない等)や位置に有効性を欠く事から、永禄年間(1558-70)以降・織豊時期以前の在地土豪と推察され、 中世・東大寺大部荘の代官をしていた櫛橋若狭守伊成が永正3年(1506)〜永正18年(1521)おり年貢を東大寺に送ったいた。天正年間(1573-92)まで主要城主は櫛橋弥三左衛門であったとみられ、志方城の出城とも伝えられます。
【小野市史 文化財編参照 】


鯰坂城(鯰坂砦)    xxxx 48m   小野市高田町兼ガチ

滝野社インターからR175号を 南下して中古瀬南交差点で県道18号(加古川小野線)に入ると鯰(なまず)坂にかかります。高田交差点手前のバス停が有り 其処の民家横から竹薮の中の道を北側へ抜けると北辰(ほくしん)保育園に出るが、其の竹薮の中に鯰坂城がありました。 古川町から旧R175号の 直線道路が緩やかに登ってきてくる高田町バス停付近は鯰坂と呼ばれて小野市の史跡案内標柱が立てられいます。
北辰保育所から望む鯰坂城

地名の由来ははっきりしないというが…?この坂の西側にある鯰坂城の城主で天正年間(1573-92)には三木城主別所長治の部将:鯰権之丞が居城したところから 名付けられたものでしょう。ただ城主や築城時期等は不詳で伝承も残っていないようなのですが、大堀切の南側・竹薮の中のある小さな物置小屋かと思っていた建物が、鯰権之丞を祀った祠だったのかな?。三木合戦では秀吉軍と戦い落城したともいうのですが、 毛利氏や荒木氏と連絡をとるには三木城の後方に位置し、波多野氏を頼って連絡するにしても明智軍の”丹波攻めで”天正6〜7年頃は、援助どころか波多野氏が救援を求めていた頃なので?北方の此の地・此の規模の城に籠城して どんな後方支援 が出来たのかは疑問です。城を捨て三木城に入って籠城したのなら判るのですが…?この坂は昔は険しいというより、地盤が粘土質なのか?ぬかるんで歩き 辛い上に斜面では滑り易くて旅人は難渋していたのでしょうネ!
鯰坂城・S字状の空掘

「この山の馬さくりにも あらむども 上がり下がりも ぬめる坂かな」・「ぬめり道上がり下がりのさかしきは鯰坂をばいふにぞありける」と詠まれた歌が残されています。 旧国道側からは 殆ど比高を感じる事なく並行で其のまま城域へ入れる状態ですが北や西側からは比高僅か15〜20mの急斜面ですが、高田交差点から金鑵城へは4kmの地点にあって、大部荘の北部を監視するのに適しており、北に向かう坂道からは北・西方に眺望が効きます。 河合西町から東条川が加古川に合流する地点に近く、新大河橋を渡って高田町へ向かえば城の位置が確認し易いかもしれません。旧R175からは”鯰坂”の史跡案内標柱を見なければ、場所を特定するのが難しい。北辰保育園の東・駐車場の端辺りへ空掘 り末端が抜け出ています。竹林の中は曲輪・櫓・堀切等の見通しが悪く良く観察出来ないが丘陵北端郭を遮断して東西に走る大空掘りはV字状で 底部は狭いが高さ5〜6mあり更に堀の左右の脇に土塁の様な土盛が残り櫓台跡では無いかと思われます。
南郭部の広い平坦地に数個の櫓台らしい古墳の墳丘がある

堀はジグザグとS字状にカーブしていて、”横矢が掛かる”構造をしていたとも推定されており中世後期の城で有れば元亀〜天正期の鯰権之丞の築城を裏付ける要素です。 空掘りの南郭側にも広い不整地?(荒れた竹薮の中で倒れた竹も多く、平坦地の段差等の地形状況が把握出来ない…)が拡がっており、櫓台や土塁として利用されたらしい数基の古墳の墳丘らしいマウンドが残っています。
【小野市史 文化財編 及び現地鯰坂案内標柱を参照 】

堀井城(堀入構居)   小野市河合西町字構45

滝野の播磨中央公園前からJR加古川線に並走する県道を南下して中国自動車道の高架を潜り、青野ヶ原の自衛隊駐屯地を過ぎ”河合西町”の標識を見た先で左折します。西に青野ヶ原の長い丘陵が延び、 この丘陵上には河合城の”詰め城”ともされる金鑵(かなつるべ)城が有って以前に訪れています。 しかし東方に拡がる平野の中に、いかに平城・居館とはいえ其の本城の河合城小堀城 ・堀井城が有り見えているはずなのに位置が同定出来そうな丘や森が見当たりません。
堀井城の濠(南東角)H21.02

鯰坂城同様に方向を変えて見れば見つかるのかも…(^_-)-☆? JR加古川線河合西駅の北方約 300mで 踏み切りを渡って西へ直ぐ。遠くに田圃に囲まれた台地上に建つ民家がポツンポツンとあって、それらに近づくにつれて 土塁や環濠に囲まれた土豪の居館でないかと、 錯覚しながら進むうち高さ2.5〜3.5m程の土塁上の台地に建つお堂を見ます。
濠が巡る堀井城::南濠の土橋(旧:斯波邸の正面玄関)

”小野市史 ”に記載の字源図(堀井家文書)には記載されていないが、字:構の堀井城の外郭に字:ソトボリと呼ばれる所があったと聞いている。 「ソトボリ」の延長線上にある様に思えるし、字名には「土居」と有って此のお堂が 土塁や堀に関連して繋がっていれば、土居の外側の地区内の車道が堀跡なのかも? 櫓台状の上のお堂の北には神社が見えます。
河合西廃寺跡(八王子神社・薬師堂の建つ境内)

(後日H19.2.25の城オフで堀井城に寄った際・神社東側に駐車予定だったが先客で駐車スペースがなく、 此の神社西側へ廻って境内の中を抜けたが 其処が河合西廃寺跡だった)・・・境内の敷地内に八王子神社と薬師堂が建ち、此処:河合西町には出土した瓦によって 平安時代後期の古代寺院【河合西廃寺】が建てられていたとされます。
堀井城・上月氏関連の五輪塔群か?H19.02


神社の前には池跡があることから宇治・平等院と同じく本堂前に池を配する浄土伽藍と呼ばれる建物配置が推定されます。
字:宮之端と記されているところには八王子神社が建っており、なんと河合城を創築した城主と推定されている上月氏の 墓があったのですが気付かなかった。神社裏手に墓所らしい一画が有ったのでキッと其処に有るのでしょう。 其の神社北の民家から田圃に沿って 東に雑木と竹が目立つ森がある。近付いてビックリ…この雑木の台地 (主郭)は周囲を完全取囲んだ東西約80m・南北約100mの堀が、幅6〜10m・深さ2m程・高さ2.5〜3m程で廻っています。
堀井城の堀と土塁:土橋から曲輪内部H21.02

河合地区の三つの平城 【河合城とその支城の小堀城・堀井城】は其々に水路で繋がっていたといわれます。 小堀城へは東北方約500m程のところに位置して僅かに土塁を残しています。本城・河合城へは東南方に約600m程のところにあって、此処の遺構はほぼ壊滅していますが、堀井城の堀だけは・途切れたり大きく崩れる事も無く、 外周する水濠が見事なほどに中世方形館の姿を留めています。南側に一ヶ所だけ土橋となっていたものか大きな土管を通した橋があって、橋の向こう・城内側に壊れかけた門跡が残っている。ただ城内の中央に向かっては一歩も踏み込めないほどの藪だが 濠沿いには進めそうだ。…其の雑木や竹薮の奥から城址の地主さん?が出てこられて、驚いたが先には畑地が有るらしい。
堀井城西濠:南西角から西北濠

以前は鯉が泳ぎ子供たちが魚取りを楽しんだ水濠も圃場整備によるものか水も抜けてしまい 干上がってしまったと言われる・・・一部にヌタ場のような小さな水溜りが残るだけ。堀井城は承久2年(1220)赤松(円心)則村から三代前の家範の兄弟である赤松(間島)景能【宇野範景の長男で兄弟には 河合城 創築の上月 (赤松)景盛 がいる】が築城したと伝えられます。景能から四代廣景?の時、嘉吉の乱(嘉吉元年1441)6月が勃発して一時没落しますが、 享禄3年(1530)に堀井兵部長満により再興したといわれますが「播磨鑑」では矢野彦三郎義純の名が記録されるが史料として信用できるものでは無いようです。
堀井城の幅広土塁と東濠

南側中程に一本だけ土橋が有って城内と結ばれるが、古い大きな土管が入っている。当初此処に土橋が有ったか木橋を渡していたかは判りませんが、 地元の方のお話では三方に橋が有ったといい、南方には門(木戸)が有ったとも、王子神社側の外辺り!は”ソトボリ”の字名があるとも聞く 。今残る堀は内掘か!!小堀城同様に壮大な城域を持つようですが、城域外周部の字名に土居や字:矢XXが見えるので外堀を持ち武家屋敷だけでなく商家や寺をも取り込んだ”惣構え”であったとは考えすぎだろうか。
四方を濠と土塁で囲う堀井城の内郭部

土橋を渡った所に屋敷の扉付き門柱が残っていて閉ざされているが使用されているものではなく内部は門付近周辺を除い て鬱蒼とした竹林で踏み込んで行けない程です。内掘に沿って西に高さ1m程の土塁が延びていきます。土塁側に石積み土壇が有って幅1m・長さ3m程の石板がもたせ掛けてあるが、旧邸の玄関の踏み石に使われていたものの様です。門の東側から北方にかけて幅1.5m程・高さ2〜2.5m程の土塁が捲き、内側は幅2〜3m(朽ちた竹に覆われ良く判らないが・・)の堀になっている。小さいながらキッチリと石積みされているが 屋敷の庭池等では無さそうです。此の石積は幅2m・高さ2m程の土塁状で、其の外側は城域を囲む濠となっています。
堀井城(東面にも濠に沿って長い石積土塁 高さ2m) H19.2

明治期までは宅地して使用され「斯波屋敷」と呼ばれ旧貴族院議員・斯波与七郎【加古川線の前身旧 :播州鉄道建設計画に参与された】の屋敷があった所ですが、 足利氏一族の斯波氏がこの城に関連してるかは不明です(^_-)-☆。水抜き用を兼ねた溝を周囲に廻し、このコーナー付近で外の濠に抜き流していたものかも知れません (^^ゞ 宅地として土塁や堀は改修されたと思われますが、郭内は昭和40年(1965)頃には 梅林とするためにブルドーザーが入り、畝を造ったといい堀も土塁等も改変著しい様で内部の城遺構に期待は出来ませんが、其れでなくても、猛烈な竹藪に覆い尽くされています。昔は内部に屋敷と田圃が有り、 斯波氏邸が明治37年8月家政整理されて以降…梅林にしたとも聞き、三方に有った橋は其の頃のものと思われます。 梅林も繁茂する竹に圧されて、いつしか枯れてスッカリ占拠された竹の伐採もされないまま荒れ放題の現状です。お蔭で!マムシも多く…!!
堀井城(南側土塁 高さ約1〜1.5m) H19.2

平成21年2月訪城:堀井城の敷地は 市の所有らしく小野市教育委員会による発掘調査の為か?、藪が切り払われています。郭内は旧邸宅・畑地跡と遺構と思える石垣・土塁の判断がつき難い!! 井戸跡(東西に6ヶ所程)や竹の切り株も危険です:伐採された廃材・雑木・竹材等が周囲の土塁端しに積上げられている為、郭内の区画等・縄張り遺構に不明部分もあるかと思えますので、調査による現地説明でもあれば追記したいと思います!!?。
【小野市史 文化財編参照 】

小堀城(中村城)    xxx   小野市河合中町小字小堀

小堀(こほり)城は”こっぽり城”とも呼ばれ、室町初期頃の守護職クラスの大規模平城:河合城の支城として中世:赤松氏の庶流・光枝氏の居城とされます。西門(高土塁の残る竹薮付近の事か?)と主郭の間の道路拡張工事に伴って発掘調査が行われ、主郭南側の延長線上に 堀が検出され西門の土塁に直交するという。 しかし西門南端から東へ折れた延長線上に堀は無かったという。
小堀城東郭土塁の残欠(中央竹林は西郭)

堀は小堀城防塁というより本城の河合城や西方の堀井城に通じる水路(運河)だったのでしょうか?圃場・城域を割る車道拡張工事等の改修で遺構消滅の現状からは推測出来ないが西郭竹藪内の土塁・堀跡?や東郭の民家・田圃を囲む土塁の残欠から推して、東西160mX南北約200mが城域とされる大規模な平城として加古川本流の西約150m程の位置に築かれている。小堀城の中心部は光枝本家(廃屋?)と 分家の前に広がる西郭部か?。
小堀城東郭:西側から南と東の土塁残欠

田圃に中に竹藪が南北に走る西郭部で、 藪の中には高さ約2m・上辺の幅1m程で長さ60mの及ぶ土塁が現存しています。尼崎市の富松城も竹が密生する同規模土塁だったが、此処の土塁上部は狭くて、朽ち倒れた竹を避けようとすると土塁左右の壁面に足をとられる狭いもので、土塁上に櫓・物見等を備えるスペースは無く、竹矢来・柵により防備された戦国期以前の遺構を残したままの古城の様です。
小堀城西郭は南北に延びる竹薮の中に土塁が続く

小堀城の南南西450mには 河合城があり西へ350m加古川線踏切を渡った先には堀井城が有って共に河合城の 支城といわれています。此の中世の方形館【河合・小堀・堀井】の三城は水路のよって繋がり連絡されていたと思われます。築城時期や城主については不詳だが、 赤松一族(三十六家)の一つで三枝(光枝 )氏といわれます。播磨の守護職であった赤松秀則の長男が赤松氏を継ぎ、 次男が加西で別所氏を名乗り、三男が飾磨・前之庄に城を築いて三枝氏を名乗っています。
小堀城西郭(H22年):土塁線が出現!!

其の三枝氏が東播磨の拠点として光枝(三枝)三郎正頼に小堀城を築かせ初代小堀城主として入って居館とされます。加古川西(右岸)沿いに拡がる平野部に築かれた河合城や 小堀城の位置は、東条川が加古川に合流する地点です。通行や物資輸送は渡し船による川運で賑わった所でしょうか。室町時代の中期・赤松一族として嘉吉の乱(嘉吉元年1441)に播磨守護・赤松満祐と共に、 追討の山名宗全とは神崎郡粟賀で戦って惨敗し 遁れた三枝氏は別所城にかくまわれ、
西郭の土塁

其の後・別所氏の援助で小堀城を再構築します。三枝(さえぐさ)氏は光枝(みつえだ)と姓を変え天正6年(1578)光枝(三枝)備中守治吉は別所氏に従って三木合戦に参戦しますが、勝ち目の無い平城の小堀城に火を放ち家財を整理して舟で加古川を下って三木城に合流します。備中守治吉の弟・左馬介入道道碩(どうせき)も僧衣を鎧に替えて参戦しています。治吉の長男 ・三枝小太郎治政は別所氏の侍大将となり城主の叔父・甚太夫や三枝小太郎は籠城し、
西郭の土塁:現状H22年

左馬介入道道碩は三木城主の弟・治定に付いて”平井山の合戦”に出陣し18歳で討死したといわれます。また「信長公記」によると、三枝小太郎等の一族は天正7年(1579)9月・毛利氏からの兵糧を三木城に運び入れる為、大村の付城(向城)を占拠したが搬入部隊が秀吉軍に襲撃され、其の救援に向かったところを待伏せ攻撃された大村合戦によって討死したともいわれます。小野市から社町・東条町や加古川市・加西市 ・滝野町を結び、
小堀城西郭南の西門と濠跡?

摂津・丹波・京都への要衝に有り、 加古川と東条川が合流する流域の 物資輸送や交通機関としての重要な水運を押さえる城は有事の際には交通を遮断し、天然自然の水濠ともなる要害に位置しています。新宮神社【天神七代の一:国常立(クニノトコタチ)尊を主祭神に祀る】の東側は 広い河原を望む加古川の堤防で、一角に太閤渡しの石碑が建てられています。「新部の渡し」も今は織田信長の武力制圧による「天下布武」を唱えて天正期 :中国毛利攻めで三木城別所氏の力を得て僅かの期間に毛利勢力が浸透している西播磨や但馬を平定していきます。天正6年(1578)いよいよ”毛利討伐”の為に召集された軍議が 加古川城で行われた際・突然背いて
太閤渡し<新部の渡し>(新宮神社近くの 加古川堤防車道側)

毛利氏に付いた別所氏を討つ秀吉の三木城攻めが始まると、別所氏方に追随する東播磨の周囲の諸城を一つ一つ攻め落としながら此の辺り一帯の城を攻め落としていきます。 秀吉が三木城攻めの際・此処で河合郷新部村の山田新介ら船頭の手を借りて 筏で軍勢を渡した事から付けられ呼ばれています。 船頭らは此れに対する報奨として秀吉より渡舟運行の許可し 賦役を免除する墨付(証文)【兵庫県立歴史博物館所蔵】をも与えられています。
小堀城西郭南の西門と枡形土塁は濠は船着場兼虎口?

それ以後、現在の小野市と加東市社町を結ぶ重要な交通機関として昭和40年(1965)頃まで渡し舟の運行が続けられていました。有名な人物の名を冠するのは 判り易いが本来の渡舟や渡河地点の意味が取り違われなければ良いが・・。また一帯は昭和50年(1975)に実施された圃場整備事業により、特に 河合城は残っていた堀や土塁は 消滅し水田と宅地になってしまいました。方形館としての小堀城も其の城域の中央部を車道が抜けて景観は失われ城域や構造を想定する事も難しい状況ですが、

西郭南端の土塁虎口門等、藪中の遺構の存在は想像もできなかった!!

当時:三角形に至近距離で 隣接する小堀城・河合城・堀井城は加古川の河川交通の要所を押さえる監視警護にあたり、三城が濠で繋がっていたものとも思えます!!?。 河合中町地区内・車道西側の田圃の中に5〜60m程の竹薮に覆われた一画が有り、 南西端の田圃と猛烈な竹藪の中に ・少し盛上がりを見せて 真北に延びる土塁線が北端の昔は随分な豪邸を想像できる塀で囲まれた門のある廃屋が光枝氏本家筋の屋敷だったと思えます。この竹薮の中央部には端から端まで高さ約2m・長さ約50mの土塁が残っています。
小堀城西郭:土塁と東側の曲輪

密集した竹と折り重なって朽ちた竹藪は侵入を拒むが1m程の余り幅の無い土塁上を進むのにも難渋します。 目には土塁と判っても地肌が見え 写真でも状況説明出来る箇所は辛うじて添付写真の所だけなので土塁の左右下部・特に東車道側の曲輪部は湿気て泥濘と ・猛烈な下草と篠竹 ・朽ち倒れた厄介な障害物の竹藪の中への侵入は推して知るべし…!!。西の土塁北端部から東の車道に出て更に西北部の民家の北側に向かうと小堀城の主郭とされる部分です。民家へ通じる田圃の畔等で消滅している様ですが、
小堀城西郭の土塁線を西側からのぞむ

其の先・南側の○○氏邸の裏から東の車道沿い ・そして東北角から北側民家の裏手へと田圃を囲む様に三方には一部に土塁の残欠が土盛状態で残っているが平成19年の小野市歴史ハイク「河合地区の古代・中世遺跡・城館」で廻った三城では光枝氏については西郭前の廃屋敷?(此処が主郭かも??)の 玄関門前で簡単に説明はあったが、地区道を挟んで向い・手も届く位置にある西郭の土塁や、東郭の説明は無く?東郭に残る土塁残欠を見ることもなく、この場を離れ堀井城に向った。堀井城は以前にも幾度か訪れたが、屋敷と圃場だった内部の藪化は凄まじく、此の時は此処で外れたが上記画像追加した堀井城 と同様に市教委による同時期調査の為か!?、竹藪は伐採され貴重な中世居館の土塁が全容を現していた。更に:南西端に虎口か?、水濠は堀井城へ通じる出入口の水路が有ったと思える。
小堀城西郭:土塁と東側の曲輪

土塁西側の田畑が沼田か舟着場?・舟溜りの濠跡とは思えたが、 此処に出る箇所が枡形状に成っていること、さらには・小さくない土塁がもう一本設置されていた。この土塁壇上の孔は掘立柱跡かとも思え、櫓・西の城戸門となっていたものか?。隠れていた遺構がそのまま出現している様です。 小野市歴史ハイクは此処2年来住地区が続いたので、今年(H22年)11月は再び河合地区に戻って小堀城の調査報告が聞かれるのかも・・?。
【小野市史 文化財編参照 】


河合城(新部上月城・堀殿城) xxx33m 小野市新部町字構 ・河合西町城成(平城・居館)

加古川線河合西駅の東北約250m地点・田圃風景の拡がる中に、城域が東西約400m・南北約300mにも及ぶ東播磨でも屈指の規模を持った河合城(堀殿城とも呼ばれた)が有りました。 その規模などから室町時代:播磨守護の赤松氏が東播磨の重要拠点として築城し、赤松氏の有力被官であった上月氏が居城したとも伝えられます。 加古川右岸(西側)の平地部に築かれた中世方形館でしたが、昭和50年の圃場整備事業により確認調査は実施されたが、其の面影は濠や土塁と共に消滅してしまいました。
河合城説明案内板

基底部幅約12m、高さ約3〜5mの土塁と幅約9m、深さ約 3mの堀に囲まれた主郭部は 現在圃場整備の対象外とはなったようだ?。 …がしかし造成され新興の宅地となって数件の新築家屋が建っているあたり?が「源氏屋敷」とよばれ東西約130m・南北約100〜150m、周囲には土塁が廻り外側に掘跡も発見され、さらに掘の外側に、東の郭(ヤグラ)や西の郭(ジョウナリ・城成)に字名が残り、 字名「構かまえ」の中の三つの郭から構成された方形館があったようです。圃場整備以前には主郭周囲に幅11m以上・高さ3mの巨大な堀と土塁が残されていたといいます。地籍図によると周辺には更に堀跡らしい水田や水路が残り、殿ノ後・土居 ・堀町等の小字名が有り、主郭の外側にも堀が廻る二重構造となった、兵庫県下のなかでも最大規模の居館遺跡ともされています。 「小野市史」に此処まで書かれていながらも、場所がわからなかったが河合城を本城として支城の堀井 小堀城とは二つの水路で繋がっていたとされますので、其れに見合いそうな大きな側溝を探していたら、三城に位置的に比定出来そうな場所で直角に曲がって西の堀井城に向かうと思われる広い溝が有った。
案内板から河合城主郭部を見る

初めて此処を訪れた時は、大土塁の残欠が残る写真を手懸かりに 探して見たのが間違いで、既に圃場整備された後だという事にも気付かず、城跡(本郭付近か?)には小野市の史跡案内標柱が立てられている事も知らず (広大な城域ですので其の一区画とは思うのですが?)良く判らないまま、 直ぐ近くに見える明善寺を東に見ながら、遺構無き河合城を後に北上して、少し先に有る小堀城へ向いました。今日はいつもの城オフメンバとの再訪で太閤渡し・小堀城を見て城址碑以外何も無い河合城へ来た。河合城は赤松一族・上月氏の居城で赤松円心から四代前の佐用郡長谷高山城主・山田 (宇野)則景の子上月刑部少輔景盛が 上月城(河合城)を築き、盛忠・甲斐守義景・景満?と続くが・・
案内板から河合城主郭部を見る

嘉吉年間 (1441-43)頃は播磨守護・赤松左京太夫満祐の弟で左馬頭祐尚の居城となり、家老小林太郎信景 ・櫛田八郎有秀を城代として守らせたともされています(嘉吉太平記)。南北朝が合一された応永34年(1427)赤松満祐が一日だけ逗留したという 東河合殿(法光寺文書)や、満祐が京都西洞院の邸に招き入れた室町幕府将軍:足利義教を殺害した嘉吉の乱(嘉吉元年1441)によって、細川氏・山名氏等の幕府追討軍に 追われる事になり、山陽道を播磨に逃げ帰る途中、其の首をもって立ち寄った事で知られる東堀殿城が此の河合城に比定されています。赤松氏が嘉吉の乱で衰退し、其の後は上月氏の居城となり、赤松政則が播磨の所領回復の拠点ともなった城とされます。 そんな播磨の重要な歴史の片鱗さえ ・遺構も消えた城址説明板や、更地に建つ新興の宅地を眺めているだけでは想像も出来ません。

東昌山明善寺と成国寺廃寺
河合城跡とされる城域の南西角部に土塁の残欠部を残す藪が溝と田圃に囲まれた内側にある。溝は嘗ての濠跡とも思いたいが圃場整備で改変著しい一帯なので、 よくは判らないが成国寺廃寺跡といい河合城主の祈願寺であったと云われ、足利将軍義教の首を東条町の安国寺に埋葬の葬儀の準備が此処で行われたとされます。
河合城:城域南西角に在った成国寺廃寺跡

また小堀城へ向う車道を 分けた河合城の東に東昌山明善寺(曹洞宗)が在って、赤松(円心)則村の子:播磨守則祐が開基の寺と伝えられ、 則祐の位牌が祀られます。代々河合城城主の菩提寺として建立されたものと考えられています。城の規模や地形から此の寺も河合城の城域に含まれていたのでしょう!!?。
河合城東端に在る明善寺


則祐は赤松一族の総領として各所に転戦し・武功を挙げていますが、 天台宗の僧として権律師(僧正・僧都の下位にあって僧尼を統領する官職)にも任ぜられて、古文献には赤松律師・妙善律師の名でも記されます。明善寺境内には古墳時代の家型石棺の蓋石が置かれており、長さ2.1m・幅1.4m・高さ24cmの大型のもので 長辺には二個ずつ縄掛け突起が認められます。大きさでは残念ながら小野市内でも4番目位のものとか・・・・!!
【現地:河合城案内板 及び小野市史文化財編を参照 】

河合館(河合屋敷) XXX xxxm  小野市粟生町字鍵町

「コミセンかわい」前の車道をJR加古川線沿いに南下した、善教寺近くに「政所(マドコロ)」の屋号を持つ中世の方形館河合屋敷(河合館)がある。R加古川線粟生駅からも近く、北方の粟生から加西市に抜ける県道 23号(三木山崎線)に面しています。J小野市側からは加古川に架かる粟田橋を渡って直ぐ「コミセンかわい」からの道と合流する粟生交差点の側。 県道に面して民家の玄関があり、其の奥に宅地・前に傾きかけた薬医門(高麗門?)が見える。
河合館跡の民家と薬医門

此の民家周囲が河合屋敷で県道沿い西のJR踏切沿いの車道を境に県道側からはよく見えないが、JR線沿いの西に民家が在り、河合屋敷の 北〜東面を水田と竹藪に囲まれた東西約 40m・南北約50m程の範囲に、四方を高さ約1mの土塁と堀で囲った在地領主の方形屋敷跡です。東から北面にかけて宅地を囲む竹藪の帯が土塁で、北側外の更地には水路となっている幅1mばかりの掘跡も残りますが ・・いずれは消滅するのかも?。
土塁に囲まれた方形居館「河合屋敷」内部は沼田と畑地

県道に面した南側も 堀や土塁が残っていた様だが現状では道路・宅地造成等で大きく改変され遺構は失われています。加古川右岸に程近く、中世以降の加古川水運と大いに関わりを持つ河合家は、江戸時代初頭・姫路藩郷土の資格を得て、のち大庄屋としても実権を握り加えて、上曽我井村(復井町)から下来住村まで 10ケ村の「舟捌御運上」(ふなさばきごうんじょう)の特権を有して 粟生船座を支配したと云い、 河合館の敷地内東側の片隅に残されている薬医門は当時の隆盛ぶりを伝えます。
東土塁内側から河合館跡民家

此の薬医門東傍を南北に通る路地の北方に土塁が続く。土塁は直ぐ北側で一部途切れる。虎口門が在ったところか。土塁は竹藪となり、虎口門状の土塁の内側は沼?か湿田。北面には西へと土塁の竹藪が沼田を囲む様に延びます。此の河合屋敷と竹藪には 播磨赤松浪人が吉野南朝方へ討ち入った「元祖:忠臣蔵 」の伝説が残ります。嘉吉の乱(嘉吉元年 1441)に播磨守護・赤松満祐が滅ぼされ、金鑵(かなつるべ)城主・中村小四郎正満も運命を共にして没落します。 残った中村氏一族が赤松政則等と河合義隆を頼って河合屋敷に隠れ住んだ。
河合館東側:路地の様な細い道に沿う土塁(前方右手)の切れ目は虎口門跡?

一時途絶えていた赤松家は、長禄2年(1458)吉野方(後南朝)に忍び入って 後亀山天皇の皇子を討ち、吉野南朝から神爾を奪いかえした赤松浪人:中村小四郎正満の子:助直(此の功により旧領地の 河合郷を得て 金鑵(かなつるべ)城主となった)・河合義隆 (茂隆)・小谷興次・石見太郎助 ・真嶋三郎等赤松浪人達によって、鏡と共に河合屋敷に持ち帰ります。赤松氏惣領:赤松政則は各地に散逸していた赤松一族を集め、其の門出にあたり 河合屋敷の竹藪の竹を切って 旗竿をつくり、首を持って報告のため上洛 (京に向い)播磨国を領有し赤松家再興を赦されます。河合義隆は功により赤松氏の十六重菊水紋と二つ引両の紋を河合の定紋として使う事を許されます。中村小四郎助の子 :駿河守祐友は「応仁の乱」に活躍して 赤松政則の播磨回復後には旧領地を安堵された様ですが、しかし文明16年(1484)播磨守護代:浦上則宗等に付いて 赤松政則を追放した事があり、この際:には赤松一族の三木城・別所氏を攻めています。
土塁内側の沼田 ?から北側土塁と竹藪


河合屋敷の竹が「目出度い武運のしるし」として、天正6年(1578)秀吉が三木城の別所長治を攻めた際にも、赤松再興の慶事話を聞いた秀吉は「目出度い武運にあやかりたい・・」と屋敷の竹を旗竿にし三木城落城後、 この屋敷の竹を旗竿とした御蔭と、河合屋敷の竹藪の租税を免除したという。この話は広く伝えられ、姫路城主池田輝政や本田忠政等の播磨所縁の武将の出陣には、旗竿に用いる竹を、昭和になってからも出兵兵士は武運を祈って、 遠くからも・わざわざ此処まで竹を切りに来たと云われます。
【小野市史 郷土の城ものがたり:兵庫県学校厚生会 を参照】


岡構居(岡城・岡の城・森城・蔭木城?)  一文字山(鳥追山)?66m  小野市粟生町字岡條

加東市滝野から加古川線を東に・青野ヶ原・金鑵城の模擬櫓を西の丘陵に望みながら、南へ直進すると三和町交差点で県道23号(三木山崎線)と交差する。左折して粟生方面に約 4〜500mで車道に面して河合屋敷(河合館)が在るが、加古川線粟生駅から北条鉄道が網引駅へ延びていく線路沿い (青野ヶ原台地の東南末 端の位置する)細い地区道からは南東端の踏切りを渡って直ぐに参道がある。 丘陵上はザザっ広い平坦地となり、尾根続きの北端に天満宮の社が建ち、 山上まで東側から車で入れる参道(普段はチエーンの車止め)がある。
土塁内側の沼

此の天満宮を祀る山頂部一帯が岡構居(岡城)の跡と云われ、東方に河合・大部地区の眺望が効く。城郭遺構等による城の存在を 確認されていないようですが、河川段丘の要害地であることは実感。鳥居から真直ぐ延びる参道最後の石段を 社殿前に出る西から南側への平坦地縁が曲輪の切岸を思わせる。東端は削平時の土砂か?そのまま積み残されているようで すが土塁の残欠に見えてくる。 此の東面は極端な崖状の急斜面。直ぐ下方に小鳥居を残す祠があるが、此処からは斜めトラバースでなんとか降りられそうですが、最後は5〜6m以上の壁状で滑り降りても山裾を縫う溝谷に落ちることになりそうです!!。
東面は鳥居が途中に引っ掛かっているような自然の要害

社殿から北へは緩斜面の藪の尾根が続くだけの様で、 堀切等遺構を確認していませんが、構居よりは城のイメージが強いですね。
城主は丹生太郎左衛門で赤松氏再興に尽力した 金鑵城主中村小四郎正満の家臣と伝えられるが、正満は嘉吉の乱に細川・山名の幕府軍により没落しており、その子:小四郎助直には丹生屋帯刀や 上月満吉等の赤松浪人が長禄2年(1458)南朝に討入り足利将軍より赤松家再興を許されます。
山上広場東東端土塁状?・東南角は自然の切岸

築城年代や築城者等の城史詳細は不明だが「播磨鑑」に永享年中(1429-41)粟生(石次郎!?)左衛門がおり、其の後:長禄年中(1457-60)金鑵城主中村小四郎正満の家臣 :丹生太郎左衛門が領主だったとされます。天満宮を祀る岡城(森城)とも比定されている一文字山?は、文明17年(1485)嘉吉の乱後:再度播磨に侵攻した山名政豊が籠もり、赤松政則軍と戦ったが山名氏重臣::垣屋孝知以下350人が討死し、 播磨から撤退する契機ともなった合戦が鳥追山の蔭木城とされます。(小野市史 等を参照)
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ハメ塚 小野市大部町

鯰坂城から敷地城(敷地陣屋)を探して県道18号線を神戸電鉄小野に向かって走り「敷地町」標識を見て交差点を左折したら広渡廃寺跡の表示を見た。 ペーパー・ナビ(道路地図帖)では何処にいるのか判らなくなって走っているうち、「コミュニティーセンタ大部」の東方約500m程か、 道路脇の畑の中に見つけたのが”ハメ塚”です。北播磨では”へび”の事を「ながむし」と呼ぶ古老がいたが、私の里・丹波でもマムシの事をハメと呼んでいます。
敷地町?で見つけた「ハメ塚」

昔この付近にはハメ(蝮)が多く、住民はとても苦しんでいました。そこで人々は有名な陰陽師:安部晴明の子孫である安部晴休に、なんとかハメを退治してくれるように頼みました。
赤松則祐開基の明善寺にある石棺蓋石


晴休は祈祷し、塚を築いてハメ(蝮)を封じ込めてしまいました。 其れ以来、この付近一帯には、ハメが一匹もいなくなったということです。 小野市の広大な平野に中に僅かな凹凸??を手懸かりに地図には載っていない字名を頼りの平城・居館・丘城探しは所詮無茶なんでしょうね。 敷地城は諦めた。葉多城は以前に寄ったので阿形城に向かって粟生町へ入った。
【小野市 現地史跡案内標柱 を参照 】
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広渡廃寺跡歴史公園 小野市広渡町

R175号線小野バイパスの左手前方に「ひまわりの丘公園」の”ひまわりの塔”モニュメントが見えてくる。此処で西方の敷地方面に右折し約 1.6km程で 「広渡廃寺跡歴史公園」の石碑と”ガイダンスホール”と表示の資料館と研修施設が建つ。 加古川左岸段丘上に位置する広渡(こうど)廃寺は7世紀後半頃に当地方に勢力を揮っていた豪族が中心となって建立されたとされる古代寺院跡で、昭和48年(1973)〜50年及び平成5年(1993)〜平成7年にかけて発掘調査が実施されており、
金堂と東塔跡の基壇

東塔・西塔を前にして・本尊を安置する金堂を中心として、 後に講堂を置きこれ等を回廊 (幅5m・東西60m・南北90m)で囲む等・主要建造物の基礎(基壇)が確認されており、各基壇は土を突き固めていく方法で盛られています。また南大門や築地が確認される等・寺院の伽藍配置 ・寺域規模の全容がほぼ明らかとなり、 東西15m・南北12.5mの基壇(平安時代に南へ3m拡張され、其の部分のみに瓦積み化粧が施され、南側には其の時期の階段が認められたと云われる)を残す金堂前には一辺が 10mの方形基壇を持つ東西両塔を後ろには東西 25m・南北12mの基壇を残す講堂を置く奈良:薬師寺式伽藍配置であったことが確認されています。しかし金堂の両脇の基壇や回廊が講堂に取り付かず、北門に続くなど他例とは 異なった特徴を もっています。 各基壇には平たい丸石を積んだ乱石積みと呼ばれる 基壇化粧が施されていました。 広渡寺は平安時代後期まで続いたと伝えられますが、 寺の記録が無いため所在地名から「広渡廃寺跡」と呼ばれるようです。
広渡廃寺跡と復元伽藍模型(スケール1/20)

豪族の没落によるものか?寺も荒廃していたが鎌倉時代 :建久年間 (1190-99)浄土寺を建立した重源上人によってか?浄土寺薬師堂の本尊として移されたことが「浄土寺縁起」に記されています。現在 :寺域と推察される東西約100m・南北約150m規模の廃寺跡は整備・復元され、 昭和55年(1980)12月5日国史跡の指定を受け、平成12年(2000)5月・出土した数々の遺物・出土品【軒丸瓦や鴟尾(しび)・仏像 頭髪部の 螺髪 (らほつ)・瓦製の塔・寺の復元図等々】を資料展示する施設”ガイダンスホール”を併設した 「国史跡広渡廃寺跡歴史公園」として開園されました。基壇(建物の基礎)部を望みながら其れに対比できる形で、西塔寄りの南西隅には縮尺 1/20スケールで復元された広渡廃寺の伽藍模型が設置されていて往時の姿が想像できます。此れの模型は日本で唯一セラミックス製のもので、瓦の一枚一枚・柱の一本一本までが分かる程丁寧に復元されたものです。
西塔跡の基壇と其の西方:フエンスに囲まれた伽藍模型が有る
 
広渡寺の寺域を国の補助事業「ふるさと歴史の広場事業」として進められ、小野市はその歴史を後世に伝え、郷土の歴史を学ぶ 学習の場とするため遺跡を史跡公園として整備されたという。基壇上を子供達が自転車で抜け行った …伽藍の復元模型も金網越しで詳細には見られなかった。
【小野市観光協会発行パンフ・現地史跡案内板 小野市教育委員会・ガイダンスホール内説明を参照】
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