南北朝期・赤松氏籠城戦の山城へ 西条城/赤松館〜白旗城(白旗山)/鴾ヶ堂城/室山城 |
相生市から姫路への帰路には海岸線を走る国道250号線(通称:浜国・播磨シーサイドロード
)を南へ走り相生歴史民俗資料館(相生市内最古の鶴亀高等高等小学校の明治洋風建築をモデルに建てられたもの )網干を越えて御津町に入ります。相生歴史民俗資料館には感状山城の精巧な縄張り立体模型があり丁度・梅花の身頃なので綾部山梅林付近の海岸線を走って見る事も当初の計画に盛り込まれており、 コース中にある室山城へ向かいます。
大阪城の残念石(乗用車と比較しても相当な巨石です
)
室津漁港の狭い集落へ入っていきます・・・が随所に見所一杯で、素通りするには惜しいところです。本陣跡の石碑を幾つも見かけて吃驚してしまいます。本陣は限られた宿場町に一つですよね・・・普通!!。
江戸時代には箱根に次ぐ大きな宿場町として栄え、舟で渡ってきた江戸参勤交代の大名行列が此処で再び隊列を組んで出発したところです。当時の繁栄と賑わいが嘘のように静かな港町風情です。
日曜日なのに"本日休み"の「御津町立・室津民俗館」は姫路藩御用達の海産物問屋の豪商「魚屋」で、 昭和40年代には建物の老朽化により再建・資料館として当時の面影を今に伝えています。"KAIさん"お任せで狭い町並を抜けていき賀茂神社の杜を望む室津港の最奥辺りだろうか!!、
角柱の巨大な二つの岩が並んで置かれている。正面に巨石の由来案内板が建てられている。
相生歴史民俗資料館
此れが大阪城の残念石で豊臣秀吉が大坂城を築いた時、石垣に使用する為・西国の大名が運ぶ途中「室の泊」で海中に落としたものといわれ、 ”灯籠の端”と呼ばれた船着場近くの海底に沈んでいたものを、昭和47年室津漁港修築工事の際に引揚げられ湊口番所跡に置かれました。此処から更に急勾配の細い車道を駆け上ると目一杯に播磨灘が拡がり、正面には白い帆船のような家島諸島が浮かんで見えています。 島の容が変わるほどに削り取られた岩肌の一部は大阪城の石垣となり、又いくつかは先ほど見た残念石のように途中で海中に没したのかも・・・・!!??播磨灘に突き出した丘陵上の中程には、
北の室津港側へ斜面を真っ直ぐに延びる舗装歩道が竪堀跡との事。云われてみればそうなのかな!!?・・・・(^^;
室山城址・本郭部西には室津港を監視する遠見番所があったようです
更に急斜面を登って行くと「室山城跡と遠見晩所跡」の石碑を見て最高所に建つ終点!!民家の手前に立った。 北面には何とも形容し難い異様な平坦地が拡がります。田圃跡か足の踏み場も無いジャングルのような、雑草が更に雑草の上に生えているような猛烈な藪があり、此処が室山城の本丸です。海が拡がる東面 「城の越」の名がある畑地に出てみると梅林の白梅の香りと、菜の花の黄色が一帯を春の喜色で包みこんでくれます。城址碑から本丸の西側に入り込んでみると高い切岸と車道側には幅のある土塁 (道路普請工事で大きく削り取られているようなら、櫓台があってもおかしくない位置にあります)、2〜3段程の帯曲輪が藪の奥(北側)へと延びていきます。本丸から少し戻って東側からさらに北へ向かい 「室津二の丸公園 」の標柱と3〜4台分の駐車場がある展望遊園地に寄ります。 何も無いところですが北側には一段深く低いところに広い平坦地があります。結構広いので侍屋敷跡だったのでしょうか??二の丸公園を下り切れば室津の半島!!を一周して国道250号線に出で姫路へと・・・送ってもらう。
室山城址の堀切から延びる長大な竪堀跡
さて室山城は、
鎌倉時代・源頼朝が室四郎に命じて室山に砦を築かせたのが起こりで、鎌倉時代末期には一族の室小四郎が在城したといわれますが築城時期等信頼出来る資料も無く明らかにはなっていないようです。
播磨のおおかたの城は赤松氏関連の城だったようで、室山城も赤松円心則村が千種川流域を押さえ、外港を求めて室津をその支配下に収めようとしたことは考えられます。鎌倉で挙兵した足利尊氏が翌・建武3年
(延元元年 1336)京都の戦いで敗れ九州への敗走途中、尊氏追討の新田義貞軍を阻止するため円心等と協議したのがこの室津だったといわれ白旗城の防備を固める一方、円心は長男の範資を室山城の防衛に当たらせたが新田軍に攻め落とされ、範資は敗れて白旗城に合流します。九州で勢力を盛り返して東上する尊氏を円心が迎えたのも室山で、 軍を合流して湊川の合戦に臨み勝利します。白旗城での功により播磨・備前・美作三ヶ国の守護となった円心が、長男・範資の子の本郷掃部助直頼や、次男・貞範の子?赤松雅楽助頼則に室山城を守らせたといわれます。
室山城(本丸は荒れ放題の鬱葱とした雑草に隠されて・・)
嘉吉の乱(嘉吉元年1441)では、赤松播磨守満政が室津に上陸して城山城の満祐を攻めたことでもこの地が歴史に登場してくる。嘉吉の乱後、その恩賞として播磨守護となった山名持豊(宗全)が、
室山城に子の政豊を置いて守らせたが度々赤松一族に狙われることとなり、康正元年(1455)赤松彦五郎則尚(満祐の孫)は兵を集めて、鵤(太子町)の壇持山に挙兵し、室山城の山名政豊を攻めるが但馬から山名教豊(持豊の長男)が援軍を率いて姫路の書写・坂本城に入り、則尚等は戦わず備前・鹿久居島に逃れ自殺してしまいます。 応仁の乱後・赤松政則が旧領(播磨・備前・美作)を回復し備前の三石城主・浦上則宗に室山城を修築させて守らせます。
室山城本丸西端・遠見番所跡の切岸
政則が没すると浦上則宗の孫である村宗の代には政則の奥方・洞松院(細川勝元の娘)と組んで大永元年(1521)政則の子
・赤松義村を室津の見性寺に幽閉し殺害するのです。その後赤松政村(義村の子で後の晴政 )が村宗を戦死させたが依然室山城は浦上氏が維持しています。やがて置塩城の赤松惣領家が衰退し、
龍野の赤松村秀・政秀父子が台頭してくると、政秀は晴政の女婿であったので晴政に代わって室山城の浦上政宗と対立した。 政宗は子清宗の嫁に姫路城主黒田職隆の女を迎え、
黒田氏と手を結ぼうとしたがその婚礼の隙をついた政秀政秀が永禄9年(1566)室山城を急襲して政宗父子を殺害、室山城は落城し以後は廃城となりました。
(現地 御津町観光協会案内板 日本城郭大系 新人物往来社 参考)