南北朝期・赤松氏籠城戦の山城へ  西条城/赤松館〜白旗城(白旗山)/鴾ヶ堂城/室山城
播磨  (五万図=上郡)
西条城/赤松〜白旗城/鴾ヶ堂城/室津港〜堂山城 2004年03月07日
ふるさと兵庫50山 No42 白旗山
近畿の山城:  西条城<加古川市>
         白旗城 <赤穂郡上郡町>

       鴾(つき)ヶ堂城(小鷹山城)<赤穂市有年>
       室山城(室津城) <揖保郡御津町>
本丸に建つ 白旗城址之碑

播磨守護・赤松氏発祥の地 国史跡の白旗城や西播磨の城へ
城フアンの掲示板MLを通してオフに始めて参加させて貰った楠木正行の四条畷合戦や三好長慶の城として知られる飯盛山城(大阪)から早1年経ちます。山から遠ざかっているわけでもないのですがHPのアップ殆どが山城含みのレポートになってしまいました。 お蔭で城フアンからの激励メールが増え且つ、山城の魅力!!?から山城オフの企画と参加者も増えてきました。
苔縄駅と苔縄城址遠望

この日も掲示板を通じて知り合った”KAIさん”案内で彼のテリトリ播磨の城山に向かいます。KAIさんからは赤松旧跡案内や白旗城とこの後予定の相生・室山城の縄張図も用意して戴いた。三好長慶にはちょっとうるさい!"まよいのすけさん"。同郷のYORIさん・神社と古代遺跡に興味の"のりちゃん"ご夫婦が今回の参加者です。播磨の山城は過去に感状山城〜三濃山縦走や、夢前三山の一つ置塩城や白旗城へは 以前の野桑から自然歩道となった林道を"堀切"のある尾根上の鞍部に出て山頂を往復したのですが、播磨の山城を意識しての歴史登山は初めてです。
苔縄城址碑?の建つ円心館跡

JR加古川駅での待合わせなので少し早めに到着し西条城へ往復して加古川に戻り上郡町へと姫路バイパスを抜けていきます。上郡町郷土資料館(旧上郡高等女学校の校舎)で"のりちゃん"ご夫婦と待合わせ、千種川に沿って北上するR373の左手 (西)には白旗城の出城だった駒山城跡が望まれます。千種川支流の鞍居川と千種川に挟まれるように北へ高度を上げながら延びる尾根が目指す白旗山へと通じています。千種川を渡ると智頭急行鉄道で苔縄駅の背後の山上には 赤松円心が元弘3年(1333)後醍醐天皇の北条氏討伐に応じて挙兵・築城した苔縄城が聳え立ちます。いよいよ本日"赤松尽くし"の始まりは赤松氏の菩提寺・法雲寺からです。
法雲寺のビャクシンスギ

金華山法雲寺(臨済宗相国寺派)は建武4年(1337)円心が雪村友梅禅師を開山として建立された名刹で、境内の樹齢7〜800年のビャクシンスギは赤松円心手植えとも伝えられるもので県指定天然記念物に指定されています。ビャクシンスギの背後には円心堂が有って、武者姿の円心像が安置されているのですが扉は閉じたまま。 しかし其の前に"月譚園心大菩薩"石像が建てられています。今日はその尊顔で円心像を偲びます。 法雲寺を後にして次は、赤松円心館跡と赤松五社八幡神社(細野の登山口直ぐ・五輪塔群側に有った白旗八幡が合祀されている )赤松貞範(円心の次男)建立の松雲寺が並ぶ一角は赤松幼稚園の横。
白旗山(中央左の頂部・植林切開きのスリット状が本丸)

(幼稚園の敷地か?ゲートボールのスティックの折れた先が落ちていたが…)東西に100m程の広い平坦地の南の山が苔縄城ですが、円心が元弘3年(1333)後醍醐天皇に呼応して挙兵したのが此処だったのでしょうか!! 苔縄城址碑が山側(北面)に建てられています。苔縄に有るので苔縄城が幾つ有っても間違いでは無いんでしょうが…。竹薮の中に段差の大きな切岸・曲輪が幾つかあるのですが自然地形か後世の畑地かはわかりませんが…。敷地の調査で灯明皿や陶磁器の破片等が出土しているので赤松円心の館跡と伝えられています。 西端の土手(石積さえ残る土塁跡の様ですが!!?)から五社八幡社に周ると南朝の楠木正成<嘗ては盟友>・主君!!:足利尊氏嫡子の義詮…)絵馬がズラリと掲げられており、お急ぎでなければ又ゆるりとお訪ね下さい。
松雲寺

神社西の松雲寺には見事なカヤの大木が境内にある。 上部に落雷の傷跡を残していますが上郡町指定の天然記念物で法雲寺のビャクシン同様に樹齢7〜800年の古木です。松雲寺のご住職には円心館を案内していただけるよう”KAIさん”からお願いしてありますが 予定は PM12:00から・・ゆっくり周辺散歩が出来、約束の時間も近くなってきたので宝林寺の円心館に向かいます。赤松則祐(円心の三男)が雪村友梅禅師を開山として備前に建立されていた宝林寺を焼亡したが、 此処に再建された寺院で”赤松三尊像”はじめ円心の肖像画や書状等、赤松氏の資料が収蔵された円心館が平成7年落慶しました。松雲寺住職は円心館前で待っておられ早速館内へ案内してもらいます。
白旗八幡跡地に移された五輪塔群

赤松円心・則祐(円心の三男)・別法和尚(雪村友梅の説も有)・覚安尼(則祐の娘千種姫)の坐像で南北朝期 (14世紀)の作と言われ鎌倉時代の彫刻の名残をとどめています。入館頃は小雪が少し舞っていたが小一時間程の間に外は吹雪となっていた。しかし降ったり止んだりで積もることはなさそうです。住職にご厚意を謝して白旗城の登山口に向かいます。山麓に大きな「白旗城跡」の看板の真上にある白旗山 (440m)に至る急登が待っているので先ずは腹ごしらえ。雪と寒さを感じてか車中で食事を済ませて赤松 ・細野側から山陽自然歩道(近畿自然歩道)として整備されたコースを辿って登山開始です。「白旗城址2.1km」の標識からは直ぐのところ、コースから少し外れるが白旗八幡社跡地があって、 白旗八幡社は赤松五社八幡神社に合祀されていることは、先に記載しています。
大手郭の石積

此処に10数基の五輪塔が建てられています。平成7年の”円心館”落慶に合わせ、 赤松区の周辺を整備された様で倒れ散在していた五輪塔を此処に移して祀られたようです。白旗城址の山 麓に点在する五輪塔群は他にも大杉野・稗田等にも残ります。帰依し法名を持ちながら帯刀の円心像を見て、 戦国武将の部下の扱い方を教えられたよう・・(^^; 多くの五輪塔は建武3年(1336)白旗篭城戦の折、倒れた兵士の供養塔と伝えられます。コースに戻っての登山道は整地されているが、谷よりに石が多く歩き辛く 急登が続く通常コースよりこの先・尾根鞍部で合流する野桑からの道が比高の半ば200m近くまで林道が通じ、 しかも大手道かもと思えるコースなのに・・・(^^;鞍部直ぐ上に案内標柱もある堀切です。西南に延びる尾根は柏野(4等401m)〜堂ノ上(3等 243m)を経て千種川と支流の鞍居川が合流する地点に延びており魅力の ??縦走コースになるのですが「危険この先行き止まり」の看板を見ます。
(伝)侍屋敷付近の石垣

この看板が余計に"何か有るな!!・・・ "大堀切か崩れ危険な石垣か??と入らぬ興味を掻き立てます。 それとも山林所有者からの要望を受けてのものなのか・・!!??此れより櫛橋丸の山腹を捲いて(帰りに寄るので)二の丸〜馬場〜本丸へと快適な遊歩コースが続きます。登山サイトのレポートは勿論!!城サイトのレポートにも 余り記載の無い石垣遺構も"KAIさん"のお蔭で確認して廻れます。城址碑の建つ山頂(本丸)は流石に白旗山(一等三角点440m)素晴らし展望で 科学公園都市や三濃山や遠く明神山の尖鋒や辛うじて雪彦山辺りまで見えていたが、 数分後には細い雪が激しく振り出し北面は風に乗って吹き荒んでいる。見るうちに白くなる様子には 皆一様に驚き不安??に思ったようです。北に下ると三の丸で北端に辛うじて土塁の高まりを見る。この先の坂を下ると小さな堀切を見ます。 引き返した白旗山山頂は既に一面白くなっています。往時に寄らなかった櫛橋丸に立つと山頂以上の??好展望地です。 しかし大きな岩が点在しての展望地点は見張り所で僅かな平坦地は狼煙場としての機能を持っていたのかも知れません!!??。 岡山県境に近く西には八塔寺山
(H11.3.31登山ログなし)辺りが望まれます。
露岩の目立つ櫛橋丸


赤松の登山口へ往時を引き返し此処で"のりちゃん"夫婦と別れ室津の梅林!!に向かいます。帰り道の駄賃にと、通り掛かったJR有年 (うね)駅の南の尾根上に砦櫓(公園の展望台)が見えている三重山(みかさやま)鴾(つき)ヶ堂城へも寄って見ます。難しそうな呼び名が続きますね ・・レポ−ト詳細
!!?は下記の山城コーナで。急いで下って相生市に向かい相生歴史民俗資料館に入ります。相生湾の入江に浮かぶ海老名氏の大島城址が目前のあって、資料館から海岸に下りて行くところには 天然記念物「シバナ群落」の標柱が建ち、此処から向かう室津の湊も"遊女発祥の地"といわれ古くより宿場町としても栄えたところですので、共にいずれはゆっくり訪れてみたいところです。 室山城(室津城)のレポートを参照願います。



西条城 白旗城祉 鴾ヶ堂城(小鷹山城)室山城(室津城)

西条城  城山(じょやま) 85m   加古川市八幡町中西条字城山930

白旗城オフで待合わせたJR加古川線の加古川駅から二つ目・神野駅は遥か昔・会社の研修センタが有り、数ヶ月を過ごしたが此の線の終点が私の故郷・福知山線谷川駅に繋がります。僅かの研修期間以降、この線に乗ることも無かったので懐かしさ一杯で神野の小さな駅舎の改札を出たが、駅名以外に往時を思い起すものは皆無!!。駅の東に無線中継塔が建つ小高い独立丘陵は他に高台もないので直ぐ分かります。登り口等わからないが山麓の住宅地に向かうと八幡社に着いた。
西条城址の城山遠望
 
右手の坂道か本殿左手にある石段道を上に出ると、どちらも同じところへ出るようで、 見えていた無線中継施設へ通じると思える(入り口は鉄のゲートで封鎖)林道入り口の辻で、此処に石棺が残されていました。 此の石棺は凝灰岩(竜山石)製の家型石棺の蓋で、古墳時代後期(6世紀後半!)のものといわれます。加古川周辺ではこのような石棺や石棺蓋が多く、国内でも石棺仏の多さは屈指です。 ゲートの内側に史跡案内板が見えるので寄ってみると”城山古墳”の説明。此処に発掘後の石片が詰まった石棺や石棺蓋が残されています。国指定史跡の行者塚古墳等が点在する西条古墳群の一つです。
城山遺跡前の石棺

この遺跡の側から細い道が延び直ぐに踏み跡だけの藪になったが 黒く太い送水管!(配水管)を潜ると広い山道に出た。J-hone他2〜3社の無線中継所や反射板の巡視路兼、山頂に祀られる愛宕神社の参道のようです。山頂は広く削平された広場で南端に”西条城跡案内板”が立てられているが 「播磨鑑」からの一節で城史を語るものは、赤松則村の旧跡…と書かれているだけです。遺構も残らない山城ですので城址案内板が有るだけでも良しとしましょう。南北朝期初頭・元弘3年 (正慶2 1333)後醍醐天皇の北条氏討伐の挙兵に応じた頃の赤松(円心)則村の城?のよう。赤松氏全盛期の頃は 山頂に寺が建てられていたようなので円心の旧跡とします。愛宕神社の北隅に城山(じょやま 3等三角点 85m)の標柱が有り展望は東面が特に良くて、一級河川で県下最長の加古川の流れと、
西条城址の愛宕神社

並走する加古川線が向かう三木市街地や遠く六甲(須磨辺り)連山や、目を移せば瀬戸内海の家島諸島の眺望が眼下に拡がります。下山は南へ、山裾の集落まで参道が通じ、登城口には城山の説明板も建てられていました。三木城の西の砦だったのでしょうか、播磨に限らず近畿一円が戦国騒乱期のなか三木攻めの前・永禄元年(1558)赤松有馬の一族でしょうか!!、有馬播磨守国光の時・落城したとされるのですが詳細不詳。秀吉・竹中半兵衛・三木城攻めに関係するのかも??
"まよいのすけ"さん、YORIさん、この年(永禄元年)前後、 三木城の別所氏と三好長慶の関係や依藤氏が滅亡(^^;した頃です。何か手掛かりがあるかもね。東播磨での戦乱期・西条城はどんな位置付に有ったんでしょうね。
愛宕神社・三角点東からの展望

"まよいのすけ"さんからの考察・・・三好氏の播磨侵攻に当たっては長慶の弟、 阿波三好氏の三好義賢等による陸路と、海路は淡路島からは安宅冬康の率いる水軍による大規模な上陸作戦によって天文23年(1554)美嚢郡, 翌年には播磨東二郡が其々攻略されたようです。中道子山城を攻めたのが事実なら、 すでに三好氏の勢力圏に入っている明石城と中道子山城の中間に位置する西条城も、当然三好軍の侵攻を受けていたと思われます。 天々さんの記事にあった西条城主・有馬播磨守国光と三好氏の間には、 直接対峙したかどうかは分かりませんが何らかの接点があったかも知れません。
長慶戦死後の三好三人衆が活躍していた頃のようですね。
(加古川教育委員会 加古川市観光協会の現地案内板 参照)


白旗城  白旗山 440m    赤穂郡上郡町赤松字白旗山878・細野・野桑・大富    国指定史跡(H8年3月)

播磨の城山城(龍野市)・置塩城(夢前町)と共に赤松三城の一つ、白旗山(440m)山頂付近の尾根上に郭を連ね播磨の山城には多い、梯郭式山城の白旗城址へは旧因幡街道の宿場町で千種川の水運の一拠点としても、播磨西端の戦略的要衝に位置し栄えた、上郡町赤松から野桑へとハイキング道「近畿自然歩道」が通じているので此れを利用します。
二ノ丸南の(伝)侍屋敷の石垣

平安時代・天永2年(1111)赤松氏の祖・源季房が高山に白旗が舞い降りて来る夢を見たが後日に此処・赤松を旅して夢で見たとソックリな山を見つけ白幡山と名付けて城を築いたともいわれています。南北朝期初頭の元弘の役(元弘3年 正慶2 1333)では後醍醐天皇による北条氏討伐の挙兵に応じ、足利尊氏が丹波篠村で挙兵すると赤松(円心)則村も赤松村で、急峻な白旗山山頂の城を修築して本拠とて活躍し、
「侍屋敷」庭園遺構の池跡から

建武の中興に寄与するが2年後には尊氏が後醍醐天皇の命令を無視し建武政権と訣別します。尊氏討伐の北畠顕家に破れて京都を去り「太平記」にも伝えられる建武3年(延元元年1336)丹波 石龕寺城(岩屋城)に嫡子・義詮を残して九州へ逃れた足利尊氏に与(くみ)した赤松円心則村は、尊氏追討の為に派遣された新田義貞を播磨に迎え撃つ為に、白旗山を改修し新田氏率いる6万の軍勢に対し僅かな兵力で50余日の籠城戦に耐えた難攻不落の堅固な城として、全国に其の名を知られる播磨でも代表的な連郭式山城のひとつです。
侍屋敷南下方・大手郭に残る石積

九州で勢力を建て直して東上し、神戸湊川の合戦で新田義貞・楠木正成を破って京都に入り、足利氏の室町幕府樹立に大きな功績を立てた円心則村は、 白旗城での功績により播磨・備前・美作三ヶ国の守護職を得て以後、則祐(則村の三男)が白旗城から東の 城山城に本拠を移しますが、4代目・赤松満祐が将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱(嘉吉元年1441)の敗北で 赤松氏が滅びるまで白旗城が其の本城となっています。一旦は滅亡していた赤松氏も政則(満祐の弟の孫)により復興され、
二の丸跡

さらに東方に築城した置塩城に移った後は、その支城として機能し現在尾根上には本丸〜四の丸・櫛橋丸・馬場丸・侍屋敷等曲輪跡をはじめ堀切・石積や三の丸にはこの城で唯一の土塁等の防御施設が残りますが一部は此の戦国時代に築かれたものと思われます。其の後・永正16年(1519)には備前・浦上村宗とは赤松義村が此処を拠点に戦っています。二の丸から水の手へ廻ってみます。[侍屋敷]屋敷とも伝わる広い曲輪は庭石らしい立石や池か井戸跡とも思われる集石された庭園状遺構が残っています。
白旗城本丸はすぐ其処・・・

此処から野桑側の急な尾根や谷の斜面に沿っては多くの石積みを見かけます。歴史上に有名な山城で、縄張り図付きの親切な案内板も設置されコースも整備された恵まれ過ぎた城廻りに、レポートも不要と思われるほどですが、 石垣遺構を写真UPしている山や城のサイトが少ないようなので、私の思い出とスナップ代わりに簡単アップです。
(上郡町教育委員会現地案内板・赤松氏のふるさとをゆくパンフ・ 「ひょうごの城紀行」神戸新聞総合出版センタ等 参考)

鴾ヶ堂城(小鷹山城)    三重山 203m   赤穂市有年横尾

373号線から矢野川を渡って2号線に合流すると南側に 円錐形の尖がり山があり展望櫓が見えています。其処が鴾(つき)ヶ堂城のあった三重(みかさ)山です。JR山陽本線・有年(うね)駅前の丁字路を南へは4年前の3月3日に赤穂市へ抜ける周世峠の川向山に登り、 その後・神護寺から高尾山へも寄った事が有りましたが峠や山上に有ったと同じ様な「赤穂ふれあいの森」の図入り案内板があり思い出した。
鴾ヶ堂城(三重山)から感状山〜三濃山方面
 
有年駅前丁字路を南下して直ぐ右手の細い道に入ります。神護寺は大石良雄寄進の石灯籠や手水鉢があることでも知られています。 有年(うね)駅前を南へ直ぐの所に「赤穂ふれあいの森」へに標識があり右手の細い集落内の道に入りますが、車道はいつか急斜を増した林道が験行寺(Ca194m)まで続きます。昔・山の頂上に唐傘松と呼ばれる大きな松ノ木が有り、 山が尖がった円錐のために日が中天に昇った頃には松の影が見られなくなるので「影なしの峰」と呼ばれ
鴾ヶ堂城・空堀

験行寺の七不思議の一つといわれています。験行寺前から標識に従って遊戯施設(アスレチック)のある尾根を辿り、高低差の緩やかな鞍部に鴾ヶ堂城址標柱の建つ空堀が有って城域に入ります。 天正年間初期(1573〜)以前の城と思われます。標柱の説明では小田弾正!!忠親栄入道の城と有ります。「赤穂郡志」によると、 詳細はよくわかっていないようですが、太田弾正!!が居城したともいわれます。太田氏は赤松則景が 太田入道従五位播磨守を名のっています。小田弾正は隠居し弾正の子・治内に」城を譲ります。 ところが天正5年(1577)赤松秀光の三男・小河丹後守秀春政之が小鷹城 (鴾ヶ堂城)に居て、
鴾ヶ堂城(直線的梯郭式の山城)

小田治内と戦って討死し落城したと「播磨鑑」で云い、城主等が定かではありません。同じ赤穂市有年の蟻無山に小鷹山城が有って小田弾正の子・小田治内の居城だったとあって混沌としてきます。蟻無山は古墳があり築城された形跡がない様子なので (鴾ヶ堂城=小鷹城は)同一の城と考えられるようです。鴇(とき)に似た此の字も鴾(とき)と呼びますが、鴾(つき)と呼び倣わされています。起源は験行寺の麓近く、車道の近くで「鐘撞堂跡」標柱を見かけたので、鐘撞堂⇒鴾(つき)ヶ堂ではないかと勝手に思ってもみます。山城の標高は験行寺でCa194m、山頂で196m!!国土地理院のWeb最新版?では203mなのですが!!.。此処から続く小広い尾根には整備された遊歩道が続くが、浅い堀や低い土塁は尾根上の明るさと展望が拡がってくる予感で、注意力も散漫になってきたのか見過ごしがちで段差程度に感じていた所は空堀が連続していたところのようで帰路に再確認します。
鴾ヶ堂城の櫓風展望台

遊歩道の西北側が小高い(7〜8m)所は土塁の高まりを見せて、曲輪の北側には数段の石垣が残っているが、この曲輪が主郭なのかとりわけ周囲に石垣補強が目立つ。この郭の西南端は土塁の高まりと、 藪の尾根の低部には西下に延びる堀があった。 粗(ほぼ)直線に100mばかり続く尾根上の階段状に設けられた削平地が続く。 連郭式山城でも梯郭式、なかでも直線梯郭式の山城は私には珍しい体験となったのですが?白旗城も直線梯郭式と知り・良く分からなくなりました・・・・(^^ヾその有るか無しかの低い二つばかりの段差の曲輪の前に 4〜5m程の岩盤を見せる高台の上には、2号線・有年付近から見えていた三層の櫓風の展望台が建てられています。
鴾ヶ堂城の石垣郭

櫓の北が尾根の最北部で
比較的平坦な大きな露岩の上は、天然自然の最高の展望所です(櫓台は不要な程です)。 南面を除く260度の眺望は素晴らしく、感状山城〜三濃山や北正面に白旗山か、少し近いので手前の山か!!??青白い千種川の流れの奥には生駒山(駒山城)や苔縄城も見えているのかも知れません。 同定できる地図等ないので分かりませんが、周辺の赤松氏の多くの城が望まれ、それらの城を繋ぐ狼煙等の通信手段をとる条件に最適の重要な要地でもあり、砦・狼煙場以上に規模の大きな山城です。
(日本城郭大系 新人物往来社 参考)

室山城(室津城)  Ca 51m  揖保郡御津町室津

相生市から姫路への帰路には海岸線を走る国道250号線(通称:浜国・播磨シーサイドロード )を南へ走り相生歴史民俗資料館(相生市内最古の鶴亀高等高等小学校の明治洋風建築をモデルに建てられたもの )網干を越えて御津町に入ります。相生歴史民俗資料館には感状山城の精巧な縄張り立体模型があり丁度・梅花の身頃なので綾部山梅林付近の海岸線を走って見る事も当初の計画に盛り込まれており、 コース中にある室山城へ向かいます。
大阪城の残念石(乗用車と比較しても相当な巨石です )
 

室津漁港の狭い集落へ入っていきます・・・が随所に見所一杯で、素通りするには惜しいところです。本陣跡の石碑を幾つも見かけて吃驚してしまいます。本陣は限られた宿場町に一つですよね・・・普通!!。 江戸時代には箱根に次ぐ大きな宿場町として栄え、舟で渡ってきた江戸参勤交代の大名行列が此処で再び隊列を組んで出発したところです。当時の繁栄と賑わいが嘘のように静かな港町風情です。 日曜日なのに"本日休み"の「御津町立・室津民俗館」は姫路藩御用達の海産物問屋の豪商「魚屋」で、 昭和40年代には建物の老朽化により再建・資料館として当時の面影を今に伝えています。"KAIさん"お任せで狭い町並を抜けていき賀茂神社の杜を望む室津港の最奥辺りだろうか!!、 角柱の巨大な二つの岩が並んで置かれている。正面に巨石の由来案内板が建てられている。
相生歴史民俗資料館

此れが大阪城の残念石で豊臣秀吉が大坂城を築いた時、石垣に使用する為・西国の大名が運ぶ途中「室の泊」で海中に落としたものといわれ、 ”灯籠の端”と呼ばれた船着場近くの海底に沈んでいたものを、昭和47年室津漁港修築工事の際に引揚げられ湊口番所跡に置かれました。此処から更に急勾配の細い車道を駆け上ると目一杯に播磨灘が拡がり、正面には白い帆船のような家島諸島が浮かんで見えています。 島の容が変わるほどに削り取られた岩肌の一部は大阪城の石垣となり、又いくつかは先ほど見た残念石のように途中で海中に没したのかも・・・・!!??播磨灘に突き出した丘陵上の中程には、 北の室津港側へ斜面を真っ直ぐに延びる舗装歩道が竪堀跡との事。云われてみればそうなのかな!!?・・・・(^^;
室山城址・本郭部西には室津港を監視する遠見番所があったようです

更に急斜面を登って行くと「室山城跡と遠見晩所跡」の石碑を見て最高所に建つ終点!!民家の手前に立った。 北面には何とも形容し難い異様な平坦地が拡がります。田圃跡か足の踏み場も無いジャングルのような、雑草が更に雑草の上に生えているような猛烈な藪があり、此処が室山城の本丸です。海が拡がる東面 「城の越」の名がある畑地に出てみると梅林の白梅の香りと、菜の花の黄色が一帯を春の喜色で包みこんでくれます。城址碑から本丸の西側に入り込んでみると高い切岸と車道側には幅のある土塁 (道路普請工事で大きく削り取られているようなら、櫓台があってもおかしくない位置にあります)、2〜3段程の帯曲輪が藪の奥(北側)へと延びていきます。本丸から少し戻って東側からさらに北へ向かい 「室津二の丸公園 」の標柱と3〜4台分の駐車場がある展望遊園地に寄ります。 何も無いところですが北側には一段深く低いところに広い平坦地があります。結構広いので侍屋敷跡だったのでしょうか??二の丸公園を下り切れば室津の半島!!を一周して国道250号線に出で姫路へと・・・送ってもらう。
室山城址の堀切から延びる長大な竪堀跡

さて室山城は、 鎌倉時代・源頼朝が室四郎に命じて室山に砦を築かせたのが起こりで、鎌倉時代末期には一族の室小四郎が在城したといわれますが築城時期等信頼出来る資料も無く明らかにはなっていないようです。 播磨のおおかたの城は赤松氏関連の城だったようで、室山城も赤松円心則村が千種川流域を押さえ、外港を求めて室津をその支配下に収めようとしたことは考えられます。鎌倉で挙兵した足利尊氏が翌・建武3年 (延元元年 1336)京都の戦いで敗れ九州への敗走途中、尊氏追討の新田義貞軍を阻止するため円心等と協議したのがこの室津だったといわれ白旗城の防備を固める一方、円心は長男の範資を室山城の防衛に当たらせたが新田軍に攻め落とされ、範資は敗れて白旗城に合流します。九州で勢力を盛り返して東上する尊氏を円心が迎えたのも室山で、 軍を合流して湊川の合戦に臨み勝利します。白旗城での功により播磨・備前・美作三ヶ国の守護となった円心が、長男・範資の子の本郷掃部助直頼や、次男・貞範の子?赤松雅楽助頼則に室山城を守らせたといわれます。
室山城(本丸は荒れ放題の鬱葱とした雑草に隠されて・・)

嘉吉の乱(嘉吉元年1441)では、赤松播磨守満政が室津に上陸して城山城の満祐を攻めたことでもこの地が歴史に登場してくる。嘉吉の乱後、その恩賞として播磨守護となった山名持豊(宗全)が、 室山城に子の政豊を置いて守らせたが度々赤松一族に狙われることとなり、康正元年(1455)赤松彦五郎則尚(満祐の孫)は兵を集めて、鵤(太子町)の壇持山に挙兵し、室山城の山名政豊を攻めるが但馬から山名教豊(持豊の長男)が援軍を率いて姫路の書写・坂本城に入り、則尚等は戦わず備前・鹿久居島に逃れ自殺してしまいます。 応仁の乱後・赤松政則が旧領(播磨・備前・美作)を回復し備前の三石城主・浦上則宗に室山城を修築させて守らせます。
室山城本丸西端・遠見番所跡の切岸

政則が没すると浦上則宗の孫である村宗の代には政則の奥方・洞松院(細川勝元の娘)と組んで大永元年(1521)政則の子 ・赤松義村を室津の見性寺に幽閉し殺害するのです。その後赤松政村(義村の子で後の晴政 )が村宗を戦死させたが依然室山城は浦上氏が維持しています。やがて置塩城の赤松惣領家が衰退し、 龍野の赤松村秀・政秀父子が台頭してくると、政秀は晴政の女婿であったので晴政に代わって室山城の浦上政宗と対立した。 政宗は子清宗の嫁に姫路城主黒田職隆の女を迎え、 黒田氏と手を結ぼうとしたがその婚礼の隙をついた政秀政秀が永禄9年(1566)室山城を急襲して政宗父子を殺害、室山城は落城し以後は廃城となりました。 (現地 御津町観光協会案内板 日本城郭大系 新人物往来社 参考)

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