源平の三草合戦を見てい数曽寺山塊の山 上三草〜大坂山〜最高峰 〜馬瀬/ 金城山〜大坂山〜山口上
播磨 (五万図=三田)
T 数曽寺谷〜上三草(4等)〜大坂山(3等)〜最高峰〜馬瀬(4等) H17年05月15日
U 鹿野〜金城山〜上三草〜大坂山〜山口上〜数曽寺谷   H17年5月28日
上三草より三草山2(大坂山)〜数曽寺山塊最高峰を望む

社から三草山の北側山麓を通って今田・古市と篠山市街地を抜け園部・亀岡方面へとR372号線(デカンショ街道)が走る。この道は源平の騒乱期に源義経が此処・三草山山麓で陣を敷き待ち構えていた平資盛軍を不意の夜襲で敗走させ三草合戦、其の足で須磨 ・一の谷へと駆け抜けていった歴史の”義経道”です。三草山は山頂にも中世山城がありますが、源平の合戦は 其の西から南山麓一帯ですので三草山合戦ではなく三草合戦としますが山上は播州小富士とも呼ばれ、整備された 登山ルートも三ヶ所あってR372号からは「三草山登山道」の標識を見て右折して昭和池からの三草ルートが 登山利用者も多い人気コースです。
上三草側から数曽寺谷を隔て大坂山を望む

ところがほぼ同じ所で左折して北側の三草山【点名:上三草と点名:三草山 2(大坂山)】を目指す登山者は少ない様です? 昭和池から登る三草コースでは、岩盤から雑木の尾根道に変わる辺りで北方を望むと、低山ながら尖峰と岩稜が連なる白い稜線を見せるアルプス的な山容に 登行意欲と興味を持たれる人も多いのではないでしょうか!数曾寺谷の奥に鎮座する大坂山を数曽寺山とも呼ぶ山岳グループも有るようですが、今回は此の数曽寺山塊を周回してみます。


T数曽寺谷〜上三草〜大坂山〜数曽寺山塊最高峰〜点名:馬瀬
 2005年5月14日


社からR372号(デカンショ街道)を東に走り”子午線135度”の標識を見る、西脇・黒田庄町からの車道と合流する上三草には 三草陣屋が在り、土日には公開されているので帰りには時 間が有れば寄ってみるのも良いでしょう。更に少し東へ走り山口地区へ入ると「三草山登山道」の標識があります。三草山へは此処・三草コースの他、鹿野コースや朝光寺に至るコースも有って三草山にレポートしています。今回はR372号を挟んで西北にあるミニ・アルプス風情の点名:上三草〜点名:三草山2(大坂山)に向います。
数曽寺池畔から三草山2(大坂山)への稜線を望む

此のコースは H11.3月にも登っている。今日のルートは岩稜歩きや展望が楽しめるが、これらを短時間で満喫出来るルートではなく藪道も有るが 概して踏み跡は有るのでトレース出来るでしょう。最高峰にも山名の無い山域なので、これ等のピークに至る主たる登山口の数曽寺谷の名を冠して数曽寺山塊としますが、数曽寺谷を詰上がったピーク・点名:三草山2 (3等三角点 450m 大坂山)を以前は数曽山・現在は数曽寺山と名付けた 山名プレートを掲げている山友会も有るようです。
点名:上三草山頂から南尾根Ca320m峰

山口と西脇市比延を結んで利 用された峠越えの”大きな坂or逢う坂”が大坂山の稜線西にあり此の峠から点名 :上三草を往復して大坂山〜最高峰〜点名:馬瀬を馬蹄形に周回するのが今日の予定です。R372からは超宇宙空間を意味する言葉か? カントリーキッチン「宇宙のたね」の案内看板を目印に進めば山口地区公民館前を通って数曽寺池畔に点在する別荘地の入口に到達します。しかし以前は「宇宙のたね」から先も通れた狭い車道は、許可無き車の進入禁止になっており、
深く決壊した数曽寺谷

時に工事作業のダンプが出てきますが途中での退避場所もありません。池の北端から ”火の用心”マークの関電巡視路に入りますが、此処に辛うじて駐車スペースがありますが”駐禁標識”があり、谷への車幅道も分譲地への工事関連作業車が停まっていることもありますので、 公民館付近の空きスペースを断わって停めるのが無難です。その未舗装の関電巡視路が数曽寺谷に入る道・100mも進めば小石を敷きつめた様な河原のゴウロが何処までも続きます。余ほどの水量が無い限りは伏流の様です。河原に沿って進む巡視路は幾度と無く水流があれば渡渉を繰り返しながら、 登るという感覚が殆ど無い緩やかな、其れだけに長い谷歩きが強いられます。
点名:馬瀬側から大坂山(左)と最高峰(右)

谷の中間部付近で”No.166・No.167”鉄塔分岐表示を見ます。右手No.167側が大坂山の南尾根上にある送電線赤白鉄塔に向いますが、此の南尾根も岩稜歩きを楽しめる部分もある快適ルートです。 (道は明確ですが岩稜前後が藪っぽく、登山での利用者は未だ少ないようです?)数曽寺谷を詰め、道が本谷から外れてヤッと登り出したと実感?し始めると・もう大坂峠(仮!)の到着です。西脇市鹿野・比延へ通じる峠越えの道は どちらも似た様な長く緩やかな谷筋 の幅広い山道が続きます。広く平坦な峠付近に山岳寺院が有ったのでしょうか?。 峠から左へは鉄塔への巡視路で、上り始めて直ぐ露岩が続く急登ですが歩き易く展望も開け、背後の北西には金城山・数曽寺谷を隔てて東北には大坂山と最高峰の雄大な山容が浮かび、大坂山の南に延び出す尾根の 鉄塔付近には岩稜が望まれる。
点名:三草山2(大坂山 450mは数曽寺山とも !)

峠から関電の高圧鉄塔(播磨線No.165)に着く手前に 巡視路Noの消えた”火の用心”標が在り、藪の尾根道に入る金城山への尾根通し道が有り、ルートは少し入り込めば踏み跡も見えてきます。 此のコースも次回の楽しみです。展望の露岩部を過ぎ登り着く「播磨線No.165」からも展望は良い。三角点へは南下へ藪っぽい尾根道を下って直ぐ。点名:上三草(4等三角点 299m)藪に囲まれた小場にあり 展望は南に続く尾根上にCa320のピークが見えシダ類の藪が鬱陶しい様ですが更の南へは岩稜の尾根が続くミニアルプスで、蒼い数曽寺池と瀟洒な別荘地の三角屋根を背景に別世界が拡がります。此処も次回に取って置いて引き返し、大坂峠!(数曽寺谷越え)から大坂山へ潅木の中の急な登り一辺倒の道を進みます。一枚岩の岩盤登りもあり、 岩梯子状の岩場を抜ければ山頂も近いが狭い頂上は縦走の一通過点の様で展望は立木に遮られて見えない。
大坂山から馬瀬への南尾根と三草山・左手には 秋津富士

薄暗い藪の中だった周囲は切開かれ、数曽寺山の山名プレートが掛かる大坂山(3等三角点 点名:三草山2 450m)山頂を少し外れれば、 前方に数曽寺山塊の最高峰459mの尖峰や、遠く妙見山・和田寺山・西光寺山・白髪岳等丹波の山から、三草山・東条湖ランドの左手に見えるのは 秋津富士と浦山。東条町(来春H18合併では東条町の名が消えると聞いたが?)側からは富士型が 目立たない秋津富士が、此処からは綺麗に確認できる! 山頂から赤白鉄塔へ続く南尾根への道を見送って 主尾根の縦走路をドンドン下る。次の目指す峰が最高峰なので登り返しを考えれば辛いくだりと思い始めた頃尾根筋は緩やかな登りに変わり、展望は効かないが踏み跡を辿れば北に少し切開きがあり、遠く笠形山〜千ヶ峰のほか大坂山の展望と同じだが、西脇側の城山(比延山城 )や足元にゴールデンバレーゴルフ場が見える。ただ其れだけの狭い小場が”数曽寺山塊の最高峰(459m)”で遠目にはシゴク459美しく見えた山頂ですが、 山道は此処で途絶えたかの様です。
最高峰から馬瀬(4等)へ南尾根を辿る

良く見ると南尾根に乗る踏み跡が、 雑木とシダに隠れて斜面を下っていく。前方が開けてくると道も明確になってきたが中腰で雑木のトンネルを潜る長い行程が続く。シダ類が足元を覆ってくると尾根は緩やかになって益々進む方向を取り違えてしまう。 送電線鉄塔が見えてきて順当に尾根を辿ってこれたと自己満足(^^ゞ。鉄塔からは別世界のプラ階段道となり、50m程下った末端の巡視路横に馬瀬(4等3角点 299m)があった。更に続くプラ階段道を下りデカンショ街道 R372の車騒が聞こえてきたので、鞍部からは巡視路をそのまま 利用して降りても良かったが、急斜面上に尖峰を見せる 234m峰が魅力的、先は藪だろうとの覚悟で進んで見ます。露岩混じりの急登ですが山頂での印象は薄く、予想通りの藪に馬瀬地区背後の尾根末端ピークまでトレースしてみる気力も萎えて、点名:馬瀬からは適当に西南へと 藪の斜面を駆け下り、 R372号線の馬瀬公民館前の三叉路に出てきた。
巡視路横の点名:馬瀬

馬瀬地区からデカンショ街道を山口地区へ戻る丁度中間付近には、車道の東側(三草山側)の歩道に紅白のツツジ花壇があり、白いコンクリート壁が建っています。小公園でもなく壁は防護・防音柵でも無さそうですが 壁には武者や飛び交う矢の様子が刳り貫かれています。上部には赤旗か白旗がなびき、源義経が駆け抜けていった三草合戦の様子を表したモニュメントです。 今放映中(H17年度)の大河ドラマ義経には此の三草合戦の勝利はカットされ、此の後に展開される”鵯越の逆落とし”がピックアップされるんでしょうね・・・きっと?。篠山大原野の民家を焼き払い、 その明かりと大軍で夜襲をかけ少数の平家を破った”三草合戦”より、少数で奇襲を掛けた”鵯越”がヒーロー賛歌のドラマでは欠かす事が出来ないでしょうから。史実を深く掘り下げ分析した”その時歴史はxxx”のような 感動や感慨を此のドラマに求めるのは無理なんでしょうね・・(^_-)-☆


U 鹿野町〜金城山〜上三草〜大坂山〜山口北〜数曽寺谷〜鹿野町 2005年5月28日

金城山へ登るにはR175号で西脇トンネルを抜け高松町の長明寺・金城池をBASEに幾つかの山行報告があります。 しかし鹿野町から金城山へ登った報告は無さそうですが、此方からも緩やかな谷通しの道が”金城山・スソオジ ハイキングコース”として西脇市教育委員会により設置されていました。
此処・金城山から以前縦走したアンテナ塔(宮前山)

金城山へは社町側の数曽寺谷や点名:上三草と 大坂山への鞍部”大坂峠 (仮)”から、少し西へ下っていく金城池〜長明寺へ通じるコースから金城山への尾根に取り付く(此処にも案内標識が残っている・但し新しい標識は”鹿野⇔金城池”)よく踏まれた山道ですが、 整備は随分以前(昭和50〜60年代)の事のようで谷筋や尾根筋・金城山山頂には、朽ちた標識の残骸を見かけます。 西脇市が設置したハイキングコースが鹿野〜スソオジ〜金城山〜金城池への 道標なら鹿野町から大坂峠(仮)から社町山口へ、
金城山(3等三角点)

数曽寺谷と同名のスソオジ谷を越えて通じます。此のコースは道標石仏も残る古い分岐道は、左手に塚口町の新池へ出る裏山コースを分けますが、新池も今は ”ゴールデンバレーゴルフ場”の中・下草が生え雑木藪となった広い道が、地元の学生や社会人も自然をフィールドに活動する事が殆ど無くなった?現状を知らせてくれているようです。隣の多可郡中町・八千代町での里山を見直し種々の活動拠点を作り推進されている素晴らしい実例もあるのですが・・・日本へそ公園から県道294号で比延町の城山 (比延山城)の南山麓の
金城山山頂にある三尊種子碑

分岐を東条湖や篠山市へ通じる県道566号に入って直ぐ、南の谷間に入っていく狭い車道は山土・採石場横をスソオジ谷に沿って延々と続く 殆ど登りを感じない 緩やかな山道は、社町山口側の数曽寺谷と良く似ていて、西脇市の鹿野・塚口・金城池を経て高松町や加東郡の滝野や社町の山口へ通じる峠越えの生活道だったのでしょう。谷と山道の間に広い平坦地が有り林間休養地かと思っていたら直ぐ廃材置場の跡地の様になり、其の先50m程で金城山の頂部を望む分岐点に着いた。 本道は河原に架かるコンクリート橋を渡って進むようです。
金城山東南尾根から三草山(右)・上三草・大坂山・数曽寺山塊最高峰(左)


分岐から枝谷に沿って 金城山山頂までWeb地図では破線表示があり楽勝かと思えたが、谷筋の傾斜が増し始めると踏み跡も途絶え、いつしか其の踏み跡も消えて激登りとなった。 山頂近くなると急斜の上にガレた岩場も現れ、露岩帯を捲き上がり三角点から30m程手前の東南尾根(旧ハイキングコース)に出てきた。金城山(古松山 3等三角点 399m)山頂は相変わらず展望の無い雑木の中、
上三草北西尾根P320m付近から金城山東南尾根と城山(比延山城)

変わった事といえば立っていた山頂標柱が朽ちて倒れている事くらいか ・・!ほんの少し西端に立てば目前にはテレビアンテナ塔の見える 宮前山・城山(比延山城)・比延山・遠くに笠形山・妙見山〜白山や 西脇市の鳴尾山・角尾山遠くに鎌倉山と、いずれも山城の有った山々が見えます。 三角点に戻る時(三角点の西約10m)小さな長方形の種子碑が残されていて、石板に三尊を表わした梵字が刻まれているのが見えます。 中央に彫られたキリーク(阿弥陀如来)からは、丹波立石山麓にも有って・勢至(サク)と観音(サ)を両脇侍とした阿弥陀三尊種子碑かと思われたのですが、脇侍にカーン(不動明王)かバン(阿弥陀より上位?
大坂山からNo.167鉄塔と山口上(右先端)へ

にある大日如来)と、べイ?(薬師如来か毘沙門天)です。 梵字がキャなら十一面観音なので両脇侍が不動明王・毘沙門天に疑問も無いところですが ・・・!キリークは千手観世音菩薩をも表しているので、両脇侍の場合は日光・月光が組み合わせ!。種子の意味はともかく碑の大きさや形状からは近年まで山頂に有った祠に納められていたものと思われます。 山頂近くなって藪で悩まされる金城山に、 こんな素晴らしい素敵なコースが有ったのかと思える東南尾根(旧ハイキングコース)は、道も展望も良い尾根筋を大坂山・数曽寺谷・金城池を結ぶ峠近くのハイキング道に降り、 そのまま上三草へと藪尾根を辿って鉄塔(播磨線)No.165に向います。斜面は急だが潅木の尾根からは、直ぐ正面に数曽寺山塊最高峰 〜大坂山〜上三草と三草山を望み、さらに展望は拡がります。文字も消えかかった導標類は 降りきった山道にも残っていたが新しい導標は「鹿野⇔金城池」を表示しているだけ。標柱の側から上三草への尾根に取付いたが 倒木を越えての藪漕ぎも直ぐ終え、
324mピーク付近から大坂山・鉄塔No.167を振り返る

急登の藪中に踏み跡が現れた。シダ類や雑木に阻まれるが順当に辿っていき傾斜も弱まると、金城山から辿ってきた大きな山容を見せてきます。320mピークを過ぎ巡視路に飛び出して鉄塔No.165に向かって直ぐ 展望岩に着き、やっと先日の(T)を歩いている事に気付いた。再度・大坂山までは同じコースを進んで、大坂山からの南尾根を点名:山口上へトレースし、ミニアルプスを楽しみながら上三草経由で鹿野に戻るのが 今回の目的です。しかし最後の計画部分は天気が良いのが災いで!藪漕ぎと岩尾根歩きの連続には水分補給に不安が有って 数曽寺谷からスソオジへ谷通しに戻ります。もう水筒も800ml程度では持たない(^_-)-☆ 大坂峠(仮)からは又も大岩盤部や岩梯子状を経て大坂山(点名:三草山2)に着く。
鉄塔 No.167付近からは西隣の岩尾根の方が良く見えてくる

 五峰山〜角尾山(?左)・上三草(中央)・金城山(右端)

三角点から南尾根へ廻り込むように道が有る が雑木を掻い潜り、足元のシダ類を掻き分けて進む。直ぐに展望が開け快適な岩尾根かと思っていたが予想外・・?しかし大きな露岩を捲くと 赤白鉄塔No.167へと岩尾根が続くのが見えた。岩場の二ヶ所には鎖場もあるが鉄塔から大坂山までの道をおもえば巡視作業路用なのでしょう。展望は・・西隣の鎌尾根状岩尾根の方が魅力的に思える・・・・ (^^ゞ 辿ってきた金城山〜上三草の稜線が鎌尾根と数曽寺谷の西北に姿を見せています。快適な尾根道ですが324mの分岐峰に注意です。巡視路は南西下へ下っていきますが、尾根筋は左手に有り尾根末端の点名:山口上が見えるので直ぐ気付くでしょう。巡視路コースさえ登山利用者は余り無いかもしれません。 まして此の分岐尾根は少し先の小ピークからは 踏み跡も薄く、シダとイバラの多い藪尾根(尾根筋も分かりにくいかも!)です。
点名 :山口上の対空標識と三角点石標

此処を抜けた人だけが仏谷に向かって落ち込む大スラブの岩場を見、その頭部を通過して立木クライムの急斜を登って最後の点名:山口上(4等三角点 233m)に 辿り着けるんですよね。 間近に迫る324mピークからの西尾根もまた大阪山からの西尾根同様に面白そうですが、此処同様に尾根に立てば下部は見えず平凡な藪尾根なのかもしれません。点名:山口上の三角点から先は踏み跡も有りません。 東側の仏谷へ下っていけそうですが遠回り・西へも急で谷筋は岩場、標高の高い山や岩山での谷下りは非常に危険なので セオリーに従えば避けるべきですが・・・(-_-;)崩れそうな岩もなく硬いので、 谷よりの潅木帯を下る事にした。○柿氏と”やまあそ”さんは仏谷へ降られています。水音も聞こえない広いゴウロに降り立って数曽寺谷と判るが谷幅が広すぎる。堰提に出ても 背高い雑木藪に囲まれ、踏み跡も抜け出せそうな隙間も無い。
山口上 ・山頂西肩から数曽寺池と上三草への稜線


この堰提の西数10mで正規?の数曽寺谷道だったが、次(最後)の堰提横の溝にズリ下りて車道に出たら数曽寺最北部・堰提下部の橋の横・数曽寺谷道入口へ僅か10m程の地点。 道が有ると無いとでは時間も疲労も格段の差、其の上暑さも手伝って「宇宙の種」から上三草への尾根を辿るべく別荘地への車道を登り始めたが、時間の余裕と疲労に加え・命の水が欠乏してきたので、 諦めて先日の峠越え谷道を鹿野町へ抜けて戻る事にした。鉄板の上で弾けるポップコーン状態の上三草へのトレース計画は今期は無理(-_-;)でお流れにするかも?


三草合戦(モニュメント)  兵庫県加東郡社町上三草

R372号線(デカンショ街道 )は社から三草山の北側山麓を通って篠山市の今田・古市から篠山市街地に入り園部・亀岡へとに入る京街道が通じます。 西国街道に比して京への裏街道となるのかもしれませんが但馬・丹波・播磨・摂津を結ぶ要衝に変わりはありません。平家物語では「源平の合戦」では寿永3年(1184)宇治川の戦いに木曽義仲を討ち2月5日 ・源(九郎)義経が率いる軍勢一万余騎は丹波を下り、三草山の西方の麓に陣取っていた平(小松中将)資盛の三千騎の軍に夜襲をかけ、 攻撃は明日であろうと油断していた平家方に対し、数の上でも勝る源氏方は小野原(篠山市今田)から丹波路を、一挙に駆け抜けて三草の陣を打ち破り(三草合戦)、面目を失ってか資盛等は”一の谷”へ向かわず ? 播磨の高砂から讃岐国屋島へと敗走。義経は・その足で一気に須磨に向かい、7日には”一の谷”背後からの奇襲「鵯越の逆落とし」での活躍はよく知られているところです。
(兵庫の城紀行 現地三草藩武家屋敷 案内板 参照)
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