東播磨の山城  谷城 /川辺城 /鶴居城 /飯盛山城(屋形城) /屋形陣屋
播磨(山崎・龍野・生野)
大歳神社〜古城山(谷城)〜横倉山観音堂往復 2005年10月15日
岡部神社〜殿所(川辺城) 往復 2006年01月29日
飯盛山(屋形城)・屋形陣屋・点名:鶴居〜鶴居城 2008年04月19日

谷城:主郭から市川市街地を望む

近畿の山城:谷城(永良城) 川辺城 鶴居城 屋形陣屋 飯盛山城
神崎郡の市川町は外れたが・大河内町と神崎町の合併が進められていた頃・福本藩陣屋を訪れた際に出会った地元ボランティアガイドの方が、陣屋や僅かに残される武家屋敷の改修・「銀の馬車道」を 町興しの記念のイベントに考えておられる様だった事を思い出した。生野銀山からは丹波街道:高坂峠を越え多可郡中区から丹波へ入る銀山街道とは別に、 後世・但馬街道を飾磨港へと「銀の馬車道」が通じて”銀の馬車道”PRは地元外への効果も大きかった様です。
鶴居城の石積

兵庫丹波(青垣町)境を但馬(生野町)に越えた黒川ダム〜銀山湖から生野峠を南下する市川の流れに沿って、JR播但線と生野街道が通じて但馬生野町から播磨神埼・市川・福崎・姫路を結ぶ交通の要衝で、 要所で宿場町として栄え、但馬山名氏と播磨赤松氏が覇権を競った軍道にもなり、生野鉱山からの鉱石を馬車で運搬した銀の馬車道ともなっています。



谷大歳神社〜古城山(谷城)206m〜xxx〜横倉山観音堂 往復  H17.10.15

中町から八千代町に入り県道34号線で楊柳寺〜船坂峠の郡境を越えて市川町に入ると笠形山への登山口や笠形温泉を右に見て岡部川に沿って市川出合いのR312出合橋へ降りてくる。最初の予定はJR甘地駅から奥城に向かうつもりで倉谷古墳公園を左手に見ながら県道を其のまま小峠に向かった。峠付近の山側・土採場の上辺り城跡らしいと思いながらも道なりに 県立福祉大学前を過ぎると桜地区へは下って行くだけの様子!。
振古川から谷城(中央)と大中山〜鶴居城稜線(左端)遠望

城の位置がよく判らず(^^ゞも少し調べてからの再訪!と、退き返して倉谷古墳公園に寄ってからR312に沿って北上する市川沿いの西側集落内の細い道を走って谷地区に向かった。七種山から東面を市川に流れ出る枝流・振古川を渡ると正面に椀を伏せた山容の独立丘陵の様な山端が見える。この山頂に谷城(永良城)があり主郭から更に約1.2kmの横倉山観音堂へは稜線西腹を捲く様にハイキング道が整備されている。登山ルートなら此れよりハイキング道を目前の観音堂へ下らず、尾根沿いに横倉山(283m 岩記号も有って面白そう)さらに松尾山 (662m)へ足を延ばして見たいものです。 岩記号の有る付近が地蔵堂なのか?横倉山山頂からの複雑な尾根上は藪だと鞍部まで難渋しそうです。
谷城:主郭の切岸(南の曲輪から)

後で詳細に地図を見ていて、今回行きそびれた鶴居の鶴居城(稲荷山城)へトレースしてみるのも良さそうです。登山の予定計画にない、訪城のみの立ち寄りでしたが松尾山の遠望、谷城からは七種山や本郭から数段の曲輪越に眺望する市川沿い・但馬道を中にして拡がる東播磨平野の眺望を一人静かに楽しめます。谷城(永良城)はシダや雑木藪に隠れているが、丁寧な削平や高い切岸加工の曲輪・石積・土塁・倒木に埋もれてはいるが北に続く尾根を断つ深い堀切等遺構も残っているので下記 「近畿の山城」にレポートします。


 谷城 川辺城 鶴居城 屋形陣屋 飯盛山城

谷城(永良城) 古城山 206m  神崎郡市川町谷字古城山

JR播但線甘地駅前の 市川町案内絵図に奥城は載っていなかったが倉谷古墳公園の上(北)に谷城跡と稲荷山城の記載が有った。絵地図では詳細な位置関係は判らないが、 谷城なら5万図に城址マークも有るので、倉谷古墳に寄った後・播但線沿い西側の車道を走って振古川を渡り谷城に向かった。
谷城〜観音堂への登山口・大歳神社

R312号からは市川町役場交差点を西へとってJR甘地駅近くの播但線を渡り道なりに進めばいいのかな? 振古川を渡ると正面には独立丘陵の様に半円を描く古城山(谷城址)が見えています。緩やかに延びる尾根筋を辿れば横倉山へ・更には松尾山から亀ヶ壷や七種山へのトレースが楽しめそうで、 秀麗な山容の松尾山?の姿が望めます。 七種山から北方へ飾磨郡夢前町との郡境尾根が延び、其の松尾山(662m)から南東へ派生する尾根筋が、鶴居の 鶴居城(稲荷山城)へ末端を落としています。其の丘陵の途中から南へ枝尾根を延ばし細い尾根筋を 南端の谷集落に落としています。
谷城本郭南側曲輪の”石積み”

東に但馬街道・市川を見下ろし、西から南への山裾の振古川が市川に流れ出る狭間に突き出してきた此の丘陵の先端の峰・古城山山頂(206m)に本郭部を乗せる谷城 (永良城)がありました。谷城(古城山)〜観音堂へは登山口となる大歳神社からハイキングコースが整備されています。南北朝期・元弘の乱で足利尊氏に付いて以後、播磨守護として勢力を奮った赤松氏も100年後・嘉吉の乱で一時は滅亡しますが、 谷城の大手を護る様に石段と石垣に囲まれた大歳神社には鎌倉時代から南北朝期の”宇治川の合戦や、牛若と弁慶五条橋の図ほか”多くの 武者絵馬ばかりが掲げてある。石段下には”二ッ引両(足利尊氏家の紋)”を付けた馬像が燐とした態度で起っている。?
谷城本郭南側曲輪の石積み

しかし赤松八十八家・赤松一族の城主・永良氏の紋は二ッ引両ですが”丸に横”ではなく”縦の二ッ引両”の筈 ?なので赤松氏別流の末裔の方による 寄進の像なのでしょう。社殿の背後に続く歩道は稲荷社と八幡社。 此処より整備された山道だが、急登のうえ夏場はシダ類の下草が繁茂し、遺構確認が難しいかも知れないがハイキング道が谷城址展望所〜観音堂へと続き 問題なく歩けます。傾斜が緩くなる辺りに幅3〜4m程(崩れて浅く緩やかに見える)の堀切が有り、 直ぐ上部に2段の曲輪を経て主郭に着きますが歩道からも藪の間を透かせば ”石積み”遺構を何箇所か確認出来ます。石積みは南先端の曲輪の南と 西側に集中している様です。東西約18m・南北 20m程の主郭を中心に南北に連なる主郭部は丁寧に削平されている。石積が残るのは主郭部南端部の曲輪だけの様です。
谷城本郭部南側の堀切

本郭部4m程の切岸の北側にも主郭より若干小さな曲輪があって、 北端部の曲輪とは7m程の高い切岸加工が施されて連郭する。 曲輪の西から北面をL字状に囲む幅1m程の土塁遺構が残ります。高さも往時は1m以上有った事でしょう?。更にその北側鞍部には岩盤を切崩したような幅2m程だが深く長い堀切が、 倒木に埋もれるように残っていて山側の細く続く尾根筋を断っています。 二重堀切の様な感じで中間部の高みは竪土塁状の様に細長い。城遺構は此処で終わらず・更に北側のピークへも、尾根上に数段の平坦地を持っていますが、 見張り所にしては立派?ですが堀切は無く、曲輪の段差も低いので室町時代前期・築城当時のもので、主郭を中心とした堀切・石積の残る南のピークは室町時代後期〜戦国時代の中世山城遺構を 残しているのかも知れません。
主郭部北側曲輪から見る土塁曲輪

此れより先・山腹を捲くように続くハイキング道からは、 尾根筋に高さ1m程の赤土の切岸が続き、曲輪が続いているように見えるのですが下草が繁茂し、雑木と蜘蛛の巣の中・露岩が多くなる痩せ尾根がのびているだけです。谷城は室町時代中期・明徳年間(1390-94)赤松(円心)則村の孫にあたり、 則村の子・範資の子孫三郎則綱が、永良庄を支配して永良三郎(民部少輔)則綱を名乗って此処に築城して居城としたのが最初とされます。 その後赤松氏の北方(宿敵・但馬の山名氏)に対する守りの要地とされ「残要の城」とも呼ばれたが、長水城主(宍粟市)の子孫で鶴居地区の稲荷山城(鶴居城・永良山城)を兼有していた。
本郭部北側の高い切岸と土塁の曲輪と下段の帯曲輪!

永禄年間(1558-70)永良遠江守(近江守?)雅親【広瀬孫四郎親茂の子とも、 「播城志」には遠江守師範の子で永禄3年(1560)10月に死去】別所氏との戦いに落城焼失し廃城となっています。執拗なまでに山名軍が尾根通しに北の山側からの侵入に備えて鞍部や但馬街道側の東斜面に堀切を設け・石積みの残る切岸も高く ・顕著に残る土塁等の縄張りからも北から宿敵・山名氏の攻撃に備えた前線主要基地だったのかもしれません。
(神崎郡誌 現地・大歳神社の谷区・市川町教育委員会 の谷城址案内板を参照)


川辺城(瀬加山城)
    城山(点名:殿所 ) 324m    神崎郡市川町東川辺

播磨富士とも呼ばれる笠形山へは神河町(旧神崎町側 )のグリーンエコー笠形から扁妙の滝を見ながら登るのですが、京阪神方面からは笠形温泉も有って市川町瀬加の笠形神社や仙人滝のコースが 良く利用されているようです。多可郡八千代町には在田赤松氏の本城野間山城等が有って、県道34号が舟坂峠を越えて市川町の牛尾や瀬加に通じます。
上田中付近から川辺城遠望

県道に沿って岡部川が市川に流れ出る 川筋に沿っても、赤松満祐による”嘉吉の乱”で衰退した 赤松家再興成った時の当主 :政則の置塩城を本城として幾つかの城砦が築かれています。此れ等の城の一つ一つを知りたいのですが位置も城史も、 城郭専門誌や調査報告資料 ・郷土史誌を目にする事がなくて未調査のままです。県道34号沿いの岡部川が市川に合流する所、R312号”出合”からは北東方に、目立つ美しい山容の峰が車窓に映り込んできます。
川辺城主郭・点名:殿所


前回も岡部川沿いの県道から R312号を北上して谷城や鶴居 ・神河町の城砦をカメラ故障の為ロケハンのみで終えた時も、此の山は気掛りでしたが、福崎町の日光寺山系の訪城ついでに向かいます。地図で見る点名殿所(3等三角点324m)に思わず「当たり…」其の名川辺城についても何も分からないままです。 此の北西1.5km地点には点名:下所の峰が有り所在地が大字小畑字北源次郎となっている。山頂部を残してゴルフ場になっているようですが城館跡のような気がします ?川辺城は別名:瀬加山城と呼ばれますが、 岡部川沿い近くの上瀬加に城主:大田道祖で「夫婦岩」の落城伝説が残る瀬加山城が在る。
本丸(頂部に三角点標)東側の切岸

川辺城には建武年間(1334-37)〜文和年間(1352-56)【後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した】建武の中興に赤松氏の幕下として軍功のあった大野弾正忠氏の築城と思われます。 文和4年(1355)足利義詮 (尊氏の嫡男)が山名軍を打ち破った神南合戦(高槻市)にも赤松一族と共に戦い軍功を立てます。 天正5年 (1577)織田信長の命で中国攻めが開始されると、羽柴秀吉軍により先ず播磨攻略が始まり短期間で完了し、殆どは戦わずして秀吉の軍門に下ります。
西端の堀切

赤松氏の本城:置塩城は天正4年(1576)に義祐が死去し5代目則房が最後の城主となっています。其の置塩城を落とした秀吉軍は天正5年2月、 香寺町の田野城(堀和泉守)・恒屋城(つねや恒屋伊賀守)577)を落とし春日山城を攻めますが、護りの反撃に一時攻撃を見送って瀬加山城に迫ります。 神埼郡に北には高峰城(伊豆藤四郎)、此処・川辺城には大野七郎左衛門と岩村(岩崎?)六郎左衛門が居城していたという。瀬加山城(上瀬加 )も大軍を前に籠城出来ない小城だったので、討って出たのでしょうか?城主:道祖は自刃したといいます。寄せ手の将は共に小松帯刀(たてわき)。 川辺城なら北方の山裾 ・川辺の市川高校の付近から登路を探すのが妥当なのかも知れません。山頂へのルートが明確でない場合、最短距離での直登を考え岡部川沿いに瀬加方面に辿ってみる事にしました。
北面に一段、南面には2〜3段の帯曲輪が延びている

山裾に神社や寺記号が有るので其処から取り付こうと思いながら進み、 県道から直接鳥居をくぐって真っ直ぐに急な石段が続く岡部神社から取り付いてみます。拝殿には絵馬が架かるが大部分が武者絵で源平合戦・一の谷や那須余市の扇の的、見慣れないが地元の勇者だろうか ?岩尾望太郎狒々退治等の絵馬があった。 南面の丘陵(日光寺山系)を越えた加治谷の岩尾神社と何か関連有るのかな?。神社の裏側から有るか無しかの踏み跡を辿ってTV共同アンテナでは無さそうな一基の無線塔側に登り着いた。 其の後ろ2m程の切岸を上ると城山山頂で点名:殿所(3等三角点324m)の石標が埋まるり南方には、 先に寄った深山〜日光寺山の尾根と 無線送受信施設が見えます。
北面に一段、南面には2〜3段の帯曲輪が延びている

此処を本丸に段差の殆ど無い平坦地が 西へ幅約12mX約50m程延びていて、 其の先端は堀切となっています。この尾根上の平坦地に沿って北側に一段、南側には2〜3段の帯曲輪が長く並走して堀切迄延びて主郭を囲んでいます。赤松氏幕下に有って山名氏と戦ったにしては、 但馬街道を見下ろす北面に狭い帯曲輪が1段だけ、天正期まで残ったにしては南に比較的広い2段程の帯曲輪は土塁や竪堀等での防備体制は弱く、日光寺山系の高峰城等に対する向城の様な感じさえした。 城史や遺構調査の縄張り図でも手に入れて再訪すれば、 また違った見方・考え方が出来るのかも!


鶴居城(稲荷山城・永良山城)      鶴居山・稲荷山 433m    神崎郡市川町鶴居字城山

鶴居城を目指すのに市川沿いを走り、JR播但線鶴居駅前に出て西に抜ければ 簡単に行き着けると思ったが、駅前はロータリー!!先への行き場無く ・元の県道に戻ったが西方へ折れる道は狭く細くてく、 心も細くなる。以前・同じ永良氏の築いた谷城に拠った際にも鶴居城への道を探したが、狭い道に辟易して、在らぬ北方の林道へ入り、谷筋を徒歩で詰めて見ようとしたが、 鶴居城への稜線を追ってみると遠過ぎるので諦めた。

鶴居城:主郭西面に見る石垣


今回は取付き場所を変えて稲荷山 (鶴居城)の南山裾を同定しながら民家の点在する鶴居駅西側の地区道を南へ逆走しながら走ってみた。鶴居城のある稲荷山から南へ延び出す緩やかな尾根筋が落ち込む山裾を目指して西に向うと、○○工業のフエンス沿い・貯水池(皿池調整池)に向う草生した林道になる。 (訪城後は県道に戻るのに来た道を引き返さずに鶴居中学校正門前?を通った。
土塁と堀切の先に石積が見える

細い道ばかりが気になり、 道順はわからないが方向の目安にはなるでしょう・・?)貯水池付近にも工場が有り、先の工場側から車道が続いていて、林道は貯水池点検巡視に使用される程度か?工場フエンス側に車を寄せて、鶴居駅からは約1.5km地点 ・皿池のフエンス隙間を抜けて、調整池の堰提 伝いに南尾根の端に取付いて踏み跡を辿る。池畔から望む低い峰が点標名鶴居 (4等三角点 286m)だが、石標柱は羊歯類の下草や枯葉に隠れがち・側に咲いていたタチツボスミレに気を獲られなければ、気付かず通り過ぎてしまう。
主郭北面の石積


点名:鶴居付近前後の尾根からは、 西方に七草山塊の稜線がモチツツジ・ミツバツツジの花を全景に浮かび上がってくる。左手奥には七草薬師の頂か?、 中央に七草槍・右手に七草山の七草三山が望まれる。此の丸い鶴居の頂部から続く稜線先に突き上げる美しい三角形の山が稲荷山(鶴居城433m)です。 急斜面から短い折れを越える箇所には、石積の残石らしい石材が散在していて虎口と思える最初の曲輪だ。細長く 自然地形か段差も低い2〜3 ?の曲輪を過ぎると、2〜5m程の段差の曲輪群が続き、中に削り出しの露岩を切り岸としたものもある。
帯曲輪の石積

越えるとまた広い曲輪に出た。前方に土塁が見える。 その向こうには切岸の高い曲輪があり 上部外縁に当城では初めて石積の遺構を見る。 石積切岸の曲輪間には空掘があり、切岸と堀を深く土塁を高くして防御性を高める一挙両得の施行技法ですね。切岸下部を東側へ帯曲輪が廻る。其の上部曲輪に入る石積み横には 登城道に石段跡と思える置き石も3段程が残っている。 この曲輪も長く段差の低い曲輪が主郭に向って続く。 尾根筋の主郭南正面に石積は無く帯曲輪が捲いているが、 この帯曲輪の外縁西の切岸には高い石塁が残り、主郭北・東には霞ヶ城(森本城 中町)でも見かけたが、長く少しずらせた2段の土留め石列が並ぶ。

主郭南曲輪に入る石階段 !!と石積


最高所433mの主郭は低い段差で 2〜3区に分けられているのかも知れないが、広い台地(東西約 17mX南北25m程)は雑木で展望は無く、主郭周囲を石列・石積補強されているのに比して、中枢の主郭内部には櫓台等施設の盛土部もなかった。鶴居城は 「播磨鑑」によると赤松氏の幕下で永良則縄が【山崎町の長水城主:広瀬(赤松)遠江守師範の子で本貫の地:永良庄の名を姓として永良氏を名乗り南方の谷城と共に】築城したとされ、永禄3年(1560)10月に死去し ・この頃戦火により消失したものか?、城主の死後は後嗣無く廃城となったのでしょう?。
主郭東面の2段土留め石列 

「神埼郡誌」「播城志」「日本城郭全集」等を参照すると、永禄年間(1558-70)此の地に移封された広瀬遠江守師範の子?孫四郎親茂の子ともされるが 永良遠江守(近江守?)雅親 (谷城主でも有り、二つの城を兼有していた)が跡を継いだとされ、いずれも永禄3年(1560)10月に城主則縄か雅親の死によって絶えたという。

(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)

屋形構北岡構と屋形陣屋

北岡構(屋形構) xxx 神崎郡市川町屋形字北岡  ==未訪==

黒川ダム〜銀山湖から生野峠を南下する市川の流れに沿っては但馬から播磨神埼 ・市川・福崎 ・姫路を結ぶ要衝 ・生野街道が通じて、此処屋形地区も宿場町として栄えていた様です!!。市川町屋形地区城館遺構をWeb上の 「兵庫県埋蔵文化財保護の手引きの行政地区マップ」で探してみると、飯盛山城(屋形城)の北麓に「屋形陣屋」と「屋形散布地」が僅か300m程を隔て隣接して記されています。
伝 :福本藩屋形知行所跡から望む市川大橋と鶴居城(稲荷山)

図書館で借り出してきた「兵庫県の中世城館 ・荘園遺跡県教育委員会」に屋形構として載せてある”現状”の位置からは「屋形分散地」を指しているようです。此の屋形の中世豪族の平地居館遺構散布地が「屋形構」で別名:北岡構とも呼ばれて遺構はほぼ完存して保存状態も良い。 赤松氏の館跡だったとの伝承があり、今後詳しい調査が待たれるところだと云う。屋形構(北岡構)の城史説明項には「赤松氏の支族屋形の 居館だったが、其の後・旗本領在陣屋敷…」とあり、其の後近世初期に池田新五郎が付近数ヶ村1000石を領して此処に居を構えたとされる旗本の陣屋敷で、其の後3000石となり池田創三郎のとき廃藩をむかえた…とある。
鶴居城主郭南西尾根からの七種三山(七草薬師・七種槍・七種山)を望む

福本藩は寛文5年(1665)池田政直が没し、跡を継いだ政直の弟:政武が7000石で旗本交代寄合となり屋形池田家は弟政済(まさなり)が3000石を分知して旗本となり、分家を果たし明治に至っている。 「神埼郡誌」等により、分家の屋形池田(勝左衛門)政済の系図等の詳細を調べてないので判らないが「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」には慶長6年(1601)池田新五郎が此処に居し・池田創三郎のとき廃藩をむかえたとする記述になっていて、福本藩立藩の62年前の池田某氏については 館主の名さえ確認できず、鳥取藩池田氏が立藩したのさえ関ヶ原の戦い以後の慶長5年(1600)。
屋形城西麓の伝:福本藩屋形知行所跡

飯盛山山頂の屋形城(飯盛山城)・西北山麓の旧福本藩の 「屋形知行所」・北岡構からは南西に300m程しか離れていない飯盛山の北山裾の池と竹藪の中にある屋形陣屋には相互関連の有無や各所の詳細な調査報告が待たれます。既に教育委員会等で報告書が出されているのかもしてませんが・・・!!。 いずれにしても北岡構については中世のおいて赤松氏某一族の居館、其の後:近世のおいても 池田新五郎とされる人物が居たのでしょう。初代福本藩主:池田政直は嗣子なく没した為、政直の弟政武が7千石で交代寄合の旗本に、其の弟政済(まさなり)が3千石で鶴居・谷・千原・屋形等を領して旗本・屋形池田家として分家しますが、政済が北岡構に入ったのか?、 直ぐ近くに屋形陣屋を築き居したものか・・・・?。
屋形城西麓の伝:福本藩屋形知行所跡

池田創三郎のとき廃藩をむかえたとする 記述も北岡構か?この陣屋なのか、更には陣屋自体が飯盛山城西麓の伝承地「旧福本藩・屋形知行所 」なのか?。北岡構(屋形構)未訪による未練の為か!!疑問ばかりの羅列になり申し訳ありません。
(参考) 交代寄合=参勤交代を行う寄合の意:禄高が1万石以下でありながら“大身旗本”として大名と同様に参勤交代することを許されていた。旗本寄合が若年寄支配であるのに対し、 旗本交代寄合は老中支配となる。また、伺候席が帝鑑間詰であっても役職に就くことはなかった。寄合御役金は100石に付き金2両の割合で8月と2月の分納であった。特別の由緒がある地方の豪族や大名家の分家、 改易された大名家の名跡を継ぐもの等が列せられた。


屋形陣屋(屋形構)
 xxxx 神崎郡市川町屋形

市川町に谷城を訪城の際に探したが未訪となっていた鶴居城と国土地理院に地図上に城跡記号のある飯盛山城を今回訪ねた。R312号線の屋形地区・JR鶴居駅方面からは市川に架かる市川大橋を渡った東詰めにはR312号線に覆い被さる様に市川に迫り出した独立丘陵・飯盛山の山頂に屋形城が在り、 国道の上部に公園が見えるので・城への取付き点と思い登ってみた。
屋形陣屋を望む

其処に「旧福本藩 」屋形知行所の標柱を見る。市川町屋形地区周辺に城館遺構を探してみるとWeb上の 「兵庫県埋蔵文化財保護の手引きの行政地区マップ」には、飯盛山城(屋形城)の北麓に「屋形陣屋」と「屋形散布地」が僅か300m程を隔て 隣接して記されています。屋形散布地が屋形陣屋以上に見所多い貴重な屋形構(北岡構)だったとは後で分って残念でした。「兵庫県の中世城館 ・荘園遺跡県教育委員会」には「JR鶴居駅からは屋形橋を渡って・・・ 」屋形構として載せてある”現状”の位置からは「屋形分散地」を指しているようです?。
屋形陣屋西方から屋形城(右裾丘陵部が伝:福本藩・屋形知行所

市川大橋は 7〜8年前の地図にさえ記されていないので、鶴居から屋形へは 屋形橋しかないので山裾が飯盛山を示すのか、点名:屋形355mの西山麓を指すのか明確では有りませんが、現状の遺構説明からは此処:屋形陣屋ではなさそうです。同じ屋形地区にある屋形構ですが、屋形陣屋はR312号から 飯盛山北側裾をxxx工業に入る専用道 !?が会社の敷地と境する、池側の竹林内に残る土塁・建物遺構の礎石や石材が散存しています。屋形構(北岡構 )の説明が屋形陣屋跡と混在されて、「播磨鑑」に云う:赤松氏の支族の屋形跡で、 屋形池田家の陣屋敷とされているのが北岡構の様です。 わたしも今回・この屋形陣屋跡を北岡構(屋形構)と思い込み、 遺構 を探して土塁・堀・石垣を探しながら、遺構状況から此処が屋形構(北岡構)ではないことが分った。
屋形陣屋:土塁と南曲輪

車道(南)側に池と池跡と思える空地、 其の向こうに高さ1m程の土塁が続いている様に見える。 西端にある板戸のフエンスを開閉して中に入った所に 礎石らしい石が散在している。内部は東方の拡がっているようで幅6〜7m程で北端部。北側は2m程の段差で民家・田圃となる台地上は竹藪の中。 段差や堀 ・土塁を設けてまで曲輪を区分する程の広さもない。屋形構(北岡構)は慶長6年(1601)池田新五郎が1000石で此処を領して移った旗本の陣屋敷で〜池田創三郎のとき廃藩をむかえた…と有る。
屋形陣屋:藪の曲輪内に散在する石類は!!?

福崎町に福本藩が立藩した年代より62年も遡る池田氏について不明? 寛文2年 (1662)福本藩主:池田輝政の4男輝澄の子・池田能登守政直の弟政武が7千石で交代寄合の旗本に、其の弟政済(まさなり )が3千石で鶴居・谷・千原・屋形等を領して旗本・屋形池田家として分家し、明治3年(1870)の廃藩置県令が 発布されるまで続いたのが、主要部分が工業団地内と思える屋形陣屋の事か? 陣屋を「屋形散布地」の北岡構とした場合、この時代に禄高からみても、未だ写真でしか見ていないが、堀や土塁の築造が許されたのかな…?、 旧街道筋からも随分離れた奥まった処の様でまたまた北岡構の疑問が増えた!!?
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会  フリー百科「ウィキペディア」 を参照)


飯盛山城(屋形城)   飯盛山216m     神崎郡市川町屋形

「赤松家播備作城記」に飯盛山城赤松兵部少輔晴政が初め居城したが、大永年間(1521-28)置塩山城に移ったとされます。播磨守護:赤松義村の子・政村は天文年間 (1532-55)足利将軍義晴から一字を賜り晴政と改名した。政村は8歳まで屋形城におり、置塩山城の移った後も但馬山名氏や山陰の尼子氏に対する備えともなったものか?。一時播磨を領した山名氏の掌中にあった城も退陣後は赤松氏の城砦として 復興した様で天正6年(1578)高橋備後守政親が守将として拠っていた時に落城したと云う。城跡へは飯盛山東麓にある 稲荷神社への参道を登る…とあるが西麓のR312号線脇に駐車スペースが有り、且つ・少し戻ったところから丘陵上部が公園になっているらしい登り口が有る。此の登り口に未だ布を捲いたままの門柱が立ててある。
屋形城 (飯盛山城)主郭部の露岩

終わりかかった桜祭りイベント用の筈はないが…と思いつつ飯盛山丘陵の広い高台に登ってみた。足下正面にR312号から市川を JR鶴居駅方面に向う市川大橋が架かる。 桜公園となっている広場には中央に石碑が建てられている。標柱を見ると【伝承文化財・旧福本藩の「屋形知行所」で池田氏懐徳碑】とある。福本藩池田氏は:寛文3年 (1663)池田能登守政直が因幡国鹿野より 播州粟鹿 (現在の神河町や市川町の鶴居・谷・千原・屋形及び高砂市曽根町)に領地1万石で転封され、現:福本大歳神社の地に福本藩陣屋を設けて発足したが、政直が寛文5年に若くして没し・跡継ぎもなく断絶となるところ、 外様大名ではあっても徳川家とは姻戚【祖母は家康の娘督姫、祖父は姫路藩主池田三左衛門輝政で 松平能登守を名乗る】にあり、翌:寛文6年には政直の弟政武が7千石で交代寄合の旗本に、其の弟政済(まさなり)が3千石で鶴居・谷 ・千原・屋形等を領して旗本、屋形池田家として分家し、 明治3年(1870)の廃藩置県令が発布されるまで続いています。
屋形城:南から主郭と東端部の露岩

その屋形陣屋が飯盛山北麓にある。県道側から上がってきた福本藩知行所跡ですが、 此処から丘陵北側を東方へ降る道が有り、○○工業敷地に入る専用車道?に出る。車道と工場敷地に境する北側に池と空地?(池が干上がっているだけの湿地帯?)があり、兵庫県遺跡分布地図で見ると其の先にある竹林内が屋形陣屋の跡。 残念なのは其のほんの少し北の集落内に、県下でも数少ない遺構保存状態の良好な居館:北岡構(屋形構)が有ったのに気付かず未訪となってしまった。次回に楽しみが増えたと解すべきなんでしょうね!!。知っていれば苦労しなくても 済んだのは飯盛山城への登城も同じ。屋形陣屋から工業所への専用道を渡った丘陵側に、扁額の神社名も読めない古い鳥居があり、此処から稲荷社を経て、其の少し上部で配水所(地図には丘陵南からの山道が記されています)に出てくる山道と合流する。其処から急登ですが山頂近くには陰陽石として祀られる露岩を見て、岩門を擦り抜けて・狭いが露岩の明るくて好展望の飯盛山城の最高所(主郭)に直接辿り着く。登山道のある事を知らず、公 園内の 旧福本藩の「屋形知行所」背後から藪の斜面に取付いた。最後の急檄な斜面を覆う様に捨て置かれた伐採材に埋もれて悪戦苦闘、廃材に乗って崩れれば・何処まで落ちるやら・・!!の急場に難渋しながら主郭に登り着いた。
屋形城主郭から南一段下の曲輪と市川の西に谷城(中央右)

頂上は丁寧に 削平された主郭(約8mx14m)が有り、東端から南側へ一段高く櫓台状の岩盤に覆われている。続く南側一段下にも岩盤上に確保された綺麗な曲輪がある。 登ってきた西〜北側は断崖状で、其の西面から南方へは主郭から15m程の崖下に犬走り状のテラスがあるようで細長く南へ突き出した尾根先にも平坦地(幅約7mx長さ15m程)が見える。主郭と此の南郭以外には、南側も絶壁 ・東側も尾根通しに通過は出来ない自然の要害中の要害となっています。狭く短く・且つ急斜面と露岩の丘陵を削平して、曲輪を確保することは困難ですが、南曲輪の断崖下や稲荷社へ降る山道脇にも極小規模ながら曲輪が造成されています。 飯盛山は東西500mX南北400m・標高僅か216mの独立丘陵ですが、市川に覆い被さる様に飛出して市川流域南北を睥睨出来る。播磨(姫路)と但馬(生野・和田山)を結ぶ基幹の要衝で、重要な街道監視の位置を占めています。
屋形城主郭から西に鶴居城(中央)と大中山(中央手前丘陵の尖峰)

急斜で短い尾根筋に竪堀や堀切を設ける場所も無く?、土塁による防備も見当たりませんが、単に砦とするには 随分と土木工事に手が掛かり過ぎている様です。市川の流れに西に七草槍や七草山大獄山(柏尾山城)・綺麗な三角推を見せる 大中山と稲荷山433m(鶴居城)とチョコンと丸い頂を見せる点名:鶴居286m、古城山(谷城)も直ぐ真近。赤松永良氏の二つの城(谷城と鶴居城)の見張台・知らせの砦というより、「伝承遺跡:屋形構・飯守山城砦」が示す山麓の赤松氏の居館だったという 屋形構(北岡構)とセットの詰め城ではなかったかと…!!? 嘉吉の乱後に一時播磨を領した山名氏にとっては市川を遥か下流。福崎辺りまでを見晴かす但馬街道南の玄関口・絶好の監視所とはなった事でしょう。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)
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