北摂 明ヶ田尾山〜鉢伏山・戸知山・光明山 余野本城 ・塩山城・止々呂美城
大阪北攝(五万図=広根)
T明ヶ田尾山〜高山城!〜鉢伏山/戸知山〜高山マリヤの墓2002年10月6日
U余野〜余野本城(水牢城)〜光明山〜余野      同日

余野本城:主郭東面の空堀土塁

校歌・故郷の山 止々呂美中学校♪朝日に映ゆる明田尾の・・♪明ヶ田尾山
      城山高等学校(閉校) ♪・・・城山の坂道・・・♪城山(余野城)
近畿の山城: 塩山城と止々呂美城 高山城と高山向山城
   
余野城と余野本城 城の腰城 水牢城 鳥坂城




T高山-明ヶ田尾山-高山城-鉢伏山/高山-戸知山-マリヤの墓 2002.10.26

R423号線の箕面市最奥・止々呂美にある 塩山城によった後キリシタン大名・高山右近生誕の地に向う。土豪・高山氏の城址捜しメインの明ヶ田尾山〜鉢伏山縦走です。45年程前に英知大学・神学科のシスターや友人達と高山の マリヤの墓高札場を訪れた事を思い出します。豊能自然歩道や豊能の歴史・風景散策コースに高山の棚田も加え余野では 十三仏にもよってみます。
高山城:主郭から高山の里

高山公民館前の案内板に高山飛騨守・高山右近父子が沢城(奈良榛原町)から高山に帰った後に拠っており其の1-2年後には高槻城に入城しています。戦国期の城なら遺構も期待出来ると思える。公民館(AM8:30)前の信号から高札場跡へ出ます。 以前に西方寺から集落内の細い道を直進して直接明ヶ田尾山へ登ったが、今は要所に豊能町の案内板があって其れに沿って左折気味に車道を進みます。
明ヶ田尾山山頂

此処に高山右近生誕之地の石碑がある。 三高造園資材置場の看板の所で右折するが上方で分岐が判り辛いと思うので車道10m程先にある登山標識に沿ったほうが良いでしょう。杉の植林帯だが石がゴロゴロしている水の無い沢筋に沿っての山道は緩やかなコースが 稜線まで導いてくれます。稜線手前から左手の谷通しに高山城へ通じる枝尾根に乗ってみようとも思ったが 先ずは鉢伏山への稜線に出て明ヶ田尾山頂(3等三角点 620m)へ往復します。この時期赤松の目立つコースは気になりますが「止山」や「立入り禁止」標識を見かけないのでホッとします。
鉢伏山山頂(行止り!)

展望こそ望めないが落葉を踏みしめて 心地よいプロムナードです。山頂から高山への稜線分岐へ戻り、鉢伏山側へ直ぐの枝尾根や、引き返し登り直して次の一寸長い枝尾根にも入ってみるが山城の明確な位置が確認出来ず同じ尾根筋・ピークより低い南側の平坦地を何回か行き来する。此の平坦地形が高山城の様だが周囲に堀切・土塁等の施設らしいものが判然とはしない。単郭?の城で此れほど防備手薄の遺構!!?(崩れ埋もれたか後世の植林・造成等のよるものか判断出来ない。
豊能自然歩道(鉢伏山)手前の自然林

縦走路の高山分岐から鉢伏山へ暫くは高低差の少ない自然林の尾根筋だが、段々傾斜を増して薄暗い杉林の谷筋へ下降が始まる。このまま梅ヶ谷を下ってしまおうと思ったが 鉢伏山は直ぐ其処。道も緩やかになってくると明るい自然林が拡がってきます。笹を分け始めると其処はもう鉢伏山近くの豊能自然歩道に飛び出してきます。広く切り開かれた送電線(南・茨木能勢線)に沿って南下へは 府道高山線へ直進は箕面・明治の森へとコースが延びているが、わたしの辿ってきた明ヶ田尾山への行先案内は無い。
豊能町の戸知山導標

笹藪に隠れていますが道は明確です。送電線巡視路に沿って西へ進めば鉄塔手前から 笹藪の右手へ山道を分け鉢伏山山頂(604m)までは 30m程の切り開かれた山頂は山名プレートが無ければ気付かないかも。関電切り開きの道を南に採って送電線鉄塔からの 展望を最期に 雑木林の中に延びる豊能自然歩道を 府道高山線に下ります。もう少し日が経てば 素晴らしい紅葉が楽しめる筈です。案外短時間で府道に降り立ちますが此処から高山までの車道歩きは長く感じます。 しかし今までにも懲りず3〜4度は歩いています。
高山の棚田(秋)

再び高山で唯一の信号 機へ戻るが朝423号線の高山口から高山に入って来て見つけた"マリアの墓"道標に下げられた戸知山登山口の文字が気になり北へ向かいます。
途中・住吉神社から 高山棚田に延びる農道は戸知山から戻ってきてから辿ってみるつもりです。 車道脇の民家の石垣横に豊能町観光協会の案内板と同じく豊能町が設置の 戸知山への導標があります。地元でも知名度が低く不人気な外れ峰ですが"マリアの墓"を訪れるついでの散歩登山。
高山バス停から冬の棚田

表示に従って細い坂道を登って行くと「マリアの墓」分岐で民家と 畑の間の道を辿り?知山から枝尾根端近くの高山マリアの墓へ 下りて来るので農道を直進。以前なら迷って到底行き着くこともままならない(地形が複雑で明瞭な尾根筋もない )コースが今は荒れた谷筋や作業林道が通じ ”マリアの墓”からの道と合流。茨木高原ゴルフ場の私有地なのか ?コンクリート排水構に沿って続く湿気た藪道もあり、それらを縫うようにコース設定されています。導標は有るが山頂に近づくにつれて道と藪が交錯すると杉の植林が拡がって神社の参道を思わせるような場所もある。
戸知山山頂から茨木高原ゴルフ場方面

倒木を乗り越え 軽く藪を抜けると 切り開かれた戸知山山頂(602m)に着きます。Docomo無線中継施設が山頂近くにあるが此処への巡回路は423号線の高山口や平野辺りからのようで 私の辿った南側から此処に至るルートでは無さそう。此処から先は無線中継施設から巡回路を採るか同じ道を引き返すだけです。戸知山登山口分岐まで戻りマリヤの墓へ、広い林道も途中からはコースも荒れ倒木を 除けながら降り民家上部の畑に出てきます。
高山高札場跡(堂内にキリシタン禁令の高札が架かる)

此処が分岐で20m程先の木陰に高山マリアの墓案内立て札が見えます。寄り添うように三基と少し離れた木の根の間に一基の墓石がある。高山で最期まで信仰を守って 残った二組の切支丹夫婦の墓と伝えられてもいるが、離れて祀られる1基には何があったのか!!妙に気になる?が車道に戻り、次は住吉神社前を通り舗装農道を辿ってみる。山間の斜面に多くの段差をもって連なる田園風景は高山の棚田。 高山から余野に向かい予定ラストは 余野城と余野本城です。


U 余野城〜余野山城 (水牢城)〜光明山〜余野 2002.10.26

余野本城に向かう前に切畑口交差点から 余野城に寄ってみます。遺構は殆んど府立城山高校敷地内にあって確認も望み薄。高校の東隣にある遊仙寺へも寄って 周回してから余野本城に向かいますが取付きが見当つきません。切畑口からは目的地と反対方向に行くようなので引返したが此処から光明山・妙見山への登山口へ向うのが正解だったか?。
光明山・妙見山登山口から望む左手ピークが余野本城(水牢城)

余野本城から光明山へ縦走し余野の 登山口に戻り国道を北に廻って低鞍部を狙います。その鞍部に出るらしい道を 見つけて田圃・余野川を渡る簡易橋・墓地横を経て植林帯の道を入っていきます。コース採りは正解!!途中堀切や 削平地も無く 不安に思っていたら前方に山城が姿を見せます。最期に今日一番の収穫です。斜めスロープ状の踏み跡から山頂部の広い削平地に出てきます。 薄暗い林の中の平坦地ですが北端にから西へ土塁が廻らされています。
寺田川(切畑川)から余野本城(中央左)と余野城(右の校舎)

さらに北面は深い段差7〜8mがあって空掘でしょうか溝状が腰曲輪に沿っています。その先は見るべきものも無く、本郭を西側に沿って尾根続きの稜上に出て石組みの井戸跡を発見。 その直ぐ近くには岩で囲まれた長方形(1.5X2m位)の井戸状の凹角もある緩やから平地になっていますが防禦・堡塁の遺構は見られず 山城見物も此処まで。稜線上に山道が続き歩きやすそうなので何処に続くのか?と歩き始めたが 何処までも長い登りが続きます。左右に展望無かったが光明山(639m) に向かっているようなので兎に角行ってみようと。 余野本城:主郭の櫓台<左>

能勢の妙見山から天台山への尾根続き ハイキングコースの途中に有って展望も無く 案内プレートがなければ通り過ぎる、忘れられた存在の光明山を目指す登山者も珍しいでしょうね。山城ついでに光明山経由で余野へ下る。余野山城へはR423号線妙見口付近からも古い山道が そのまま残っているようです。山城から光明山への尾根道は明確に続いています。何処からだったか忘れたが 急に立派な!!能勢町の道標が現れて光明山中腹を捲くように妙見山へ向うコース案内板があらわれ、続いてまたも妙見山と光明山と余野への下降点分岐が有リます。
光明山山頂 (天台山・妙見山・余野への分岐点)

ヤレヤレ帰りは此処から下ることにして山頂を目指します。やがて見覚えの分岐に立ちます。 この分岐点が光明山で北へ少し下れば余野石仏群(余野13仏等)のある川尻・北の谷と妙見山を結ぶ旧林道(今は!!号線かになったのかな)に出ます。笹薮で先が良く見えないような稜線を辿って先ほどの車道に一旦出て天台山へも行けます。 山頂の道標は天台山へも一旦・妙見山へ向うコースで車道へ下る標示になっています。先に明ヶ田尾〜鉢伏山間でも愚図ついていた雨が音立てて降り出したが、雨具を取り出すほどのことも無く直ぐ小止みになったが、 この後何度も小降りを繰返す。余野への下降ルートを採ると余野の切畑口交差点へ出てきます(PM2:30)。



塩山城と止々呂美城 高山城と高山向山城 余野城と余野本城 城の腰城 鳥坂城 水牢城

塩山城(止々呂見下城)・止々呂美城(止々呂見中城)
塩山城(止々呂美下城)   宮山220m  箕面市下止々呂美
止々呂美城(止々呂美中城) 260m 箕面市下止々呂美-中止々呂美

豊能郡能勢町の片山城は南北朝期の応安年間(1368-75)塩山備前守義道により築城されたといい応仁の 乱(1467-69)頃塩山肥前守景信が居り塩山城の城主でもあったと云う。城名からは片山備前守(摂津史から )が拠ったとも伝えられるが定かではない。馬場氏(源経基の二男:多田源氏の祖:満政の子孫)の居城ともされる馬場城が此の山城なのかは不明。
JA下止々呂美支店から宮山(塩山城・止々呂美下城)

止々呂美地区内には青龍寺の北と南に二つの(馬場城が余野川を挟んで 北西の上止々呂美にあれば三つ!!?)城郭が在る。南側の城山が現在(平成23-24年)第二名神自動車道・箕面IC工事により事前に 塩山城の東郭部?・・・と思えた発掘調査は中世墓地だった様!!、平成25年2月立寄りでは調査を終え自動車道工事で消滅)していたが。止々呂美下城とされる塩山氏の居城は 片山城(能勢町)の城史に偏るのかも?。
宮山(塩山城)二ノ丸から正面主郭(日枝神社跡)

青龍寺の北方・簡易郵便局東丘陵上の城遺構の正式名称は不明だが、塩山氏の主城:塩山城が岡ノ上城・止々呂見下城とも呼ばれるので、丘城(220m)塩山城の止々呂見下城とし、 支城・城砦の一つとして北方の山城(260m)を止々呂美中城(馬場城の所在が遺跡調査等で確認され、正式名称になるまで・・・馬場城を固有名とするか止々呂見上城と呼ぶかで変わるが!!?)、塩山城(止々呂見下城)に対する山上の砦を 止々呂見上城とも呼称しておきます。(再掲)ややこしくなるのは止々呂見城の更に北方?の上土々呂見に 所在等不明の?馬場城が在る様です。
止々呂美中城:堀切状の北尾根を手前の最高諸へ

詳細分布図等で位置や城史等が判明するようなら後日再訪を果たしたい。其れまでは名称を混在して 表示しているかも分からないが)ややこしい府道4号線を辿ってR477野間中に出・更に野間峠(妙見山)を越えて豊能町を抜けるR423号は池田市に入る。昔から能勢と池田を結ぶ交通の要衝 (亀岡街道 )となっていて道路に面した北東は急な崖となっています。
止々呂美中城:北山麓から鞍部堀切まで続く空堀・土塁道

妙見の尾根と箕面の山に挟まれた 余野川沿いに走ると箕面市境で高山 (高山右近の里)へ通じる林道然とした分岐(此処だけは?40数年前と変わっていない!!?懐かしい)の登り坂を見送って 中止々呂美交差点。西方に「照葉の里:箕面病院」が建ち森町?東ときわ台へと造成が進む新興住宅を抜けて川西市に至るバイパスがあり目的の訪城後は此のコースでR173(能勢街道)を篠山方面へと帰路にする予定。
止々呂美中城:最高所260mの平坦地形(主郭?)

穏やかな流れを見せる余野川は下止々呂美の 箕面グリーンロードバイパス出口近くで大きく蛇行する為、洪水で一挙に暴れ川となり轟々と本性を見せる「轟く水」が地名の由来という ”止々呂美”ですが川沿いの亀岡を結ぶ摂丹街道の要衝:止々呂美地区の塩山氏の城(塩山城とも止々呂美城とも呼ばれる )の城址位置説明・標高・比高からは下止々呂美の箕面グリーンロード:
止々呂美中城(砦):南尾根下方に唯一の堀切(土塁から尾根北側)

箕面バイパス北口 ICの料金所付近高架下と東北方の蔵雲山青龍寺 (曹洞宗)間の丘陵部が城址と説明案内されている様です。簡易郵便局から中止々呂美に至る車道東側丘陵上にも城址遺構が有るが認識は低い様です。名称が混在するので220m(比高約50m)の平山城を止々呂美下城・260mの山頂部や南尾根下方Ca190m付近の砦遺構を止々呂美中城としておきます。広大な丘城側の下城には曲輪間等に堀切は無く竪堀も見ないが山城側は砦規模の小郭だが 顕著な堀切を遺す。
止々呂美中城(砦)尾根側から堀切と土塁曲輪

止々呂美城(止々呂美中城)・・・止々呂美城下城 (塩川城)の東北方・標高Ca260m峰 (城山!?)の山上部には広大な自然地形が拡がるだけだが、南西方へ急斜な細い尾根が 突出すCa180m付近には、 山側に顕著な堀切と尾根筋約10mx50m程を城域とした出曲輪には段差低い3-4段の曲輪を並べる遺構がある。止々呂美簡易郵便局・学校前バス停付近からR423号分岐の止々呂美交差点、更に箕面病院・森町への分岐・中止々呂美交差点(バス停)迄は、余野川沿い東側丘陵へは崖状で、やっと丘陵上への取付き点となる 急な坂道の宅地内の幅狭い車道を詰める。 小谷に架かる仮橋を渡ると 急斜面に幾段もの平坦段(栗林)が続く端を土塁・空堀状の道が鞍部まで続く。
止々呂美中城(砦)低い段差で三曲輪程が並ぶ

急斜面の栗林(広い曲輪段 )は武家屋敷群跡とも思えるが、広いだけに切岸面に見る石積みや土塁状の盛土に多くの石片を見ると後世の農園耕地確保・土砂留めだろうか?。主郭とも思える最高所付近に城址と思える遺構を見ないので屋敷群や山頂部を城址とするには疑問も残る。鞍部を越える空掘道状は此処では片堀切。 果樹園作業の軽トラが南谷筋からの簡易舗装道を上がってくる。
止々呂美城下城(塩山城)二ノ丸北面の石垣

尾根筋は緩斜面で長い平坦地を過ぎ最高所の山上広場?に着く。南方からの取付きは判り難いが、谷奥に通じる民家脇を止々呂美特産物センター近くに降りてきた。共に塩山城・止々呂美城で止々呂美下城の名も紛らわしいので、 正式な城名を知らず判るまで止々呂美城(止々呂美中城)としておきます。
===========================================
止々呂美城(塩山城・岡ノ上城・止々呂美下城) 宮山 220m  箕面市下止々呂美

止々呂美城は 平安時代:承安年間(1171-75)【多くの記事の承安1299-1302は鎌倉時代の正安”しょうあん”では?・・・・】多田源氏:源満仲を祖とする塩山肥前守景信が築き拠ったと伝承されています。
止々呂美下城:主郭の土塁と日枝神社跡の石碑

取付き点を知らず ・いつも通り最低鞍部を目指すが北側からの攻略は大成功。止々呂美のY字交差点でR423から左手(東)の集落内の車道に入り簡易郵便局の先・ JAと止々呂美特産物センターから城址の小山に向かう。急斜な丘陵裾を縫う溝谷沿いに青龍寺に向かう参詣専用駐車場の下方【急斜面だが境界ポールのある山道伝いに高い段曲輪を越えて
塩山城:二ノ丸(主郭寄り)の石垣

二ノ丸に向かう】か、奥から仮橋を渡って取り付けば【空堀道状を詰め虎口状を上がれば 二ノ丸下部の曲輪に入る搦手道?】直ぐ上方の広い段曲輪(石積みが見られる)に着く。畑地か果樹園として利用する為の造成かは不明ですが傾斜の無い崖状 ・高い切岸を持つ4-5段の曲輪・その基部に覗く古い石垣は後世に積み直されたかもしれないが?二ノ丸に直接通じる搦手側の曲輪遺構と思えます。
止々呂美城(塩山城)二ノ丸北面の石垣

二ノ丸への東端通路や広大な二ノ丸の中央部には一石五輪塔・五輪塔の残片や石仏が祀られている。二ノ丸北面切岸には石垣や小石を3‐ 4段積んで土留とした長い石列を見る。北方への眺望は良く明ヶ田尾山や 青貝山が望まれる。 二ノ丸を西北に捲き上がる一段高い(直立する4-5mの切岸)主郭への北側の石鳥居正面に石垣が見られ、参道の土塁虎口状から主郭に入ると旧日枝神社跡地の石碑が立つ。
止々呂美城(塩山城)二ノ丸東北面の土留め石積

広い主郭内は土砂崩壊によるものか荒れているが石碑背後にも高さ1m程の土塁曲輪 ・参道とは思えない?。南側からは空掘状から入る土塁虎口形状も見受けられます。曲輪の段差は崩れ不明確ながら西北側にも幾段かの曲輪・腰曲輪が主曲輪を囲む。 天正6年(1578)織田信長の 播磨攻めに三木城 :別所氏に同調して荒木村重が突如離叛し伊丹城に籠城すると豊能郡の能勢ョ道は高山右近・中川清秀ら摂津の国人領主の諸城は村重に同調した。
止々呂美城(塩山城)主郭の土塁曲輪!!

高山右近・中川清秀らは後に 信長に転じたが態度の曖昧な能勢ョ道らの能勢衆の諸城は天正7年:織田の掃討軍による攻撃を受ける。信長の嫡子:信忠・弟の信澄を大将に中川清秀・丹羽長秀・塩川国満(川辺郡山下城)等の連合軍の侵攻が始まると、先ずは手近かな 止々呂美の止々呂美城(止々呂美下城)や馬場城(止々呂美中城の事か?)を中川の先鋒軍に落とされる。止々呂美城には塩山平右衛門正秀・馬場城には 馬場常陸介ョ方が、能勢町の片山城には塩山肥前守信景が拠っていたと云う。
止々呂美下城 (塩山城・止々呂美城)二ノ丸北東角から北面切岸下の段曲輪

止々呂美城の攻略には、中川軍の田近新次郎長祐が塩山平右衛門正秀とは昵懇なので、平右衛門と遠縁の摂津の国人:三宅四郎左衛門を使者として 降伏を説得させ馬場城馬場常陸介ョ方も開城。和議が調うと同族の片山城塩山肥前守信景に働きかけ、止々呂美城の開城を知った塩山氏も 和議に応じて開城します。


高山城と 高山向山城

高山城
         Ca475m  豊能郡豊能町高山
高山向山城  向城山 499m  豊能郡豊能町高山

地理的に妙見山塊を境として能勢町・豊能町と二つの自治体(行政区)を分ける豊能郡ですが、 篠山市に隣接する能勢町に比べ、箕面市や茨木市に隣接する豊能町側へは特別距離を遠く感じてしまう。豊能町の東南部の高山は余野 ・切畑口から茨木市の千頂寺や忍頂寺へも遠くない。
高山右近生誕之地碑

明ヶ田尾山へは 過去数回登っていたが、高山公民館前の豊能町教育委員会の案内板”高山右近の里”によって少し判ってきました。あのノッペリした枝屋根に 城があったとは!!明ヶ田尾山に登り鉢伏山への縦走途中、高山の北西の枝尾根を辿り城址を探したが、細長く広い平坦地はあるが曲輪の切岸も然程高くもなく、急傾斜でもない。
七宝山西方寺

とても郭とは思えず周辺に堀切や土塁も見当たらないので、 隣の尾根に移ったり再度、高山への下降地点下から谷沿いに登ったが何度か同じ 平坦地に出てしまう。どうやらこの山上の平坦地が単郭の山城らしい。単郭でも周囲に1〜2段の腰曲輪等があれば気付いたかも知れないが 「守り難く攻め易い?城ってあるのかな??」縦走路からは藪だが特に藪漕ぎに難渋する事もなく辿り着ける。
緩斜面で切岸の無い?高山城主郭(最高所に本丸壇?)

城址には未熟(いまだに・・・ですが)だった12年程前登山ついでの立寄り感想ですが今回再訪(2014年)。西方寺で分岐する道路左手に”高山右近生誕之地”石碑が立つ。 直進する右手前方の丘陵頂部に高山城主郭が在るが作業林道が主郭に至り帯曲輪状に主郭を廻り込んでいる。主郭内に本丸土壇と思える盛り上がり部もあるが、主郭南側の堀切は尾根部分を林道により均され旧状は推し図るのみ。七宝山西方寺(浄土真宗大谷派東本願寺末)由緒によると応永20年(1413)高山太夫正澄が浄土真宗に帰依し俗道場を開いたのが始まりという。
高山城主郭南端の堀切!?と作業林道

長禄2年(1458)高山入道が勝尾寺 (高野山真言宗:箕面市)の代官であったという。平安時代末期総持寺(浄土寺末)領だったが鎌倉時代末には浄土寺と勝尾寺の現地支配による地領・寺領の領有権をめぐる確執があった様だが不詳。西方寺と右近生誕碑を挟むように 南側比高50m程の独立丘陵上に(高山)向山城、高山集落北背後の丘陵上に高山城が在って、二城は高山庄の土豪高山氏は 地頭代官職を得て次第に在地支配を強化していくなか、二城は共に長禄年間(1457-60)頃より築かれ・改修しながら使用されてきたものか。
高山城:本丸壇近くの窪地は井戸跡か塹壕?

天文21年(1552)頃高山飛騨守厨書(友照)が居り、この年高山彦五郎(右近)【友祥<ともなが>・重友・右近太夫・右近允とも 】が此の地に生誕。”高山右近生誕之地”石碑の立つ小高い丘や・西方寺周辺の小字:殿所(トノンジョ)と呼ばれた垣内が飛騨守・右近の居館跡だったか?。 また高山公民館・高札場跡付近は木戸口と云われ、其の垣内が居住区で武家屋敷群が存在していたのかも。ただ高山彦五郎(右近)の祖については異なる系図・幾つかの諸説があるようです。
高山向山城:南端空堀・土塁から東面帯曲輪

本来の所領:摂津は池田氏や伊丹氏が台頭してくるなかで、 高山庄を離れている期間が長かった高山氏についての城 ・居館・一族郎党の動向一切が不詳。永禄3年(1560)から永禄10年(1567)まで高山飛騨守が松永久秀の配下として沢城に移って以後は キリシタン大名・高山右近の項を参照願います。
===============================================
高山城と高山向山城:遺構の現状
高山城・高山向山城共に高山氏の 勢力下にあった城砦と考えられますが築城時期・城主・目的等の城史は一切不明ですが、旧街道筋は府道4号から高山向山城西麓を通り明ヶ田尾山登山口 ・右近誕生碑・西方寺の側から 高山城東麓を抜けて府道4号の能勢町境界に抜けていた様子なので両城が”詰め城”兼・街道監視の砦でもあったか。
高山向山城北端の空堀からは平坦尾根が神社跡へ

縄張りは何れも単郭構造で高山城(およそ南北60mX東西20m規模)は主曲輪に帯曲輪を廻し、南端に堀切状、主曲輪土壇?近くに幅 1m程の窪地を見るがまさか!!井戸跡か?。林道の敷設で城遺構の旧状は大きく損なわれている様子です。高山向山城(およそ南北50mX東西30m規模 )も単郭・方形の城だが、主郭部北の堀切から北方尾根先に延びる平坦地形は凡そ100mと長い。
高山向山城 :主郭部外郭?の長い平坦尾根先に「大川神社跡碑」が立つ

尾根端近くに立つ大川大明神社跡地へと延びる極小の独立丘陵尾根。大川神社は昭和初期まで此の向城山山頂部に祠を建て祀られていたという。 北尾根端山麓に右近生誕地碑が立つ。高山飛騨守・右近父子の居館跡であれば”詰め城”への大手登城ルート。曲輪が在ったとも思えるが神社設営に掛かる整備・改修により遺構が改変されているかも・・・。主郭からは狙い撃ちし易い緩衝帯としてそのまま残されているのかも?。筋南端部に主郭を置き、南北両端部を堀切で遮断して城域を確保している。南側は土塁から堀切土橋で主郭を繋ぎ堀底部左右から 主曲輪に帯曲輪を廻している。
高山向山城南端の土塁・土橋付き空堀

土塁から府道へ先端を落とす南側にも 2つばかり小曲輪の削平段がある。二城を比較して土塁・高い段差と切岸を落とす曲輪・空堀・帯曲輪・土橋をからみても、天文21年(1552)頃の高山飛騨守が拠りその後:大和の沢城や芥川山城・高槻城に移った後も・本領地安堵を受け ・右近父子は高山向山城の方に拠った事は推察できるが天正初期頃には利用価値を失い使用されることもなく其の侭廃城となったのでしょう。
=========================================================================
キリシタン大名・高山右近
高山右近(1552〜1615)は天文21年 (1552)高山飛騨守厨書(友照)の嫡男(幼名:彦五郎)として此処:摂津国三島郡高山庄(豊能郡豊能町高山)で生まれた。永禄3年(1560)から永禄10年(1567)まで高山飛騨守は松永久秀の配下として沢城(奈良・宇陀市)を与えられ城主となり高山右近も 幼い頃は此処で過ごしました。天文18年(1549)ザビエルが来日し山口で宣教。
高山の棚田  H14.10.26

そこで入信したイルマン(修道士)に目と足の不自由な琵琶法師・ロレンソがいた。松永久秀は熱心な法華信徒で、配下にあった高山飛騨守厨書もキリシタン反対派の 急先鋒だったが、キリシタンに好意を持つようになり永禄6年(1563)飛騨守も洗礼を受け(洗礼名ダリヨ)パーデレを招いて一族 ・家臣らに説教を聞かせ翌・永禄7年には飛騨守の勧め(!!・・・というより命)によるものか余野城内で妻子・家臣など150名程が受洗。右近(当時12才)もそのとき受洗(洗礼名ジュスト)、母はマリア・祖母も仏教に深く帰依していたが 改宗してジョアンと呼ばれた余野十三仏を参照
高札場跡から明ヶ田尾山登山口に向えば生誕碑

永禄10年(1567)三好三人衆と松永久秀との争いに巻き込まれて落城し飛騨守・右近親子は再び高山に帰り高山城を拠点とするが翌・永禄11年(1568)9月には 和田惟政の家臣となり、惟政の芥川山城を高山飛騨守が預かるが元亀2年(1571)惟政・高山と池田勝正・荒木村重が白井河原で合戦となり 惟政は敗死、惟政の嫡男惟長が継いだが元亀4年(天正元年 1573)高山右近により城を追放。翌天正2年(1574)信長の上洛に従って父飛騨守が 高槻城主となるが飛騨守の隠居により右近が高槻城主となると芥川山城は廃城となった。高槻城近くには教会堂が建てられ、
高山向山城南端:大土塁から空堀土橋を主郭に向かう

領内のキリシタン宗門は 盛況を呈し数多くの領民が入信・洗礼を受けたと云われ、戦国大名としても活躍しています。高山右近「ジュスト」は其の長女「ジェスタ(ユスタ)」を妻に迎えます。止々呂美(箕面市)でもダミアン修道士より6〜70名が洗礼を受けたといわれます。 高山右近は元亀4年(1573)から天正13年 (1585)明石に転封されるまでの12年間、戦国期にキリシタン大名として摂津・高槻城主でした。 天正6年 (1578)摂津国伊丹有岡城主:荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、村重に仕えていた右近は忠誠を示すため子や妹を人質にだしていたが、 信長からはオルガンティーノ司祭を使いとして
高山向山城北端の空堀からの北尾根は長い平坦地形が続くだけ!!

(キリシタン皆殺しを示唆して)降伏を勧め、右近は苦悩するも結果的に高槻城を無血開城して信長に降り、人質も解放され再び高槻城主として仕えるよう命じられています。以降・・・本能寺の変に信長が斃れると秀吉に仕え、 山崎の合戦に戦功をあげるが明石船上城への転封後:天正15年(1587)秀吉のバテレン追放令により追放、慶長17年(1612)徳川家康のキリシタン禁教令の後 、右近は慶長19年(1614)国外追放となり62歳のときフィリピンのマニラに行き翌・元和元年(1615)2月5日熱病で倒れ63歳の生涯を閉じています。
=========================================================================
高山マリアの墓  (豊能町教育委員会案内板等参照)

4基からなる墓碑には江戸時代中期の元文・延享・寛延(1730〜51)の年号が刻まれています。 当地はキリシタン大名高山右近生誕の地でありキリシタンとは関係の深い土地柄です。「マリア」の墓の所伝は不明ですが 高山右近の母(余野城(弊の木城)主:クロン殿と呼ばれた余野氏か黒田氏?の娘<マリア>)の墓とも伝わる様です。 領主:高山飛騨守の代の勢力隆盛に・数多くのキリスト教入信者がいた事は否めず、江戸幕府のキリシタン禁教令に高槻藩の厳しい取締は想定できる。後キリスト教徒は殆んど姿を消したが、村には2軒が残りやがて転宗したと云われ、 この2組の夫婦の墓と伝えられています。
高山「マリアの墓」

高山高札場跡 (豊能町教育委員会案内板等参照)
中世末期以後、領主が法度(法律)・掟書などを書き、一般民衆に法令を徹底させる為に掲示した板札(高札)場の跡。
一:切支丹宗門之儀ハ是迄御禁制之通固く可相守事
一:邪宗門之儀ハ固く禁止候事
 
と記された木札に慶応4年3月(1868)太政官 右之通被 仰出候門堅可相守者也 日向。キリシタン禁制を定めた最期の高札が残されています。高札は明治3年(1870)廃止になり姿を消したので現在に残る数少ない遺構を伝えています。昭和52年に当時の構造のまま 改築されたもので五輪塔・石仏・地蔵尊が一緒に祀られるようになった。
高札場”キリシタン禁令”の木札が架かる

中央の地蔵尊の蓮華坐下部にはキリシタンを表す変形クルス紋の一部の図柄があると伝えられています。傍らに並べられたように数個の石 (50kg位か!!)が置かれていますが力石で、成人を迎えた(16才)男子が これを持ち上げると一人前と認められる・・・と以前の案内板には説明書きがあったような!!


余野城(幣ノ木城)と余野本城(水牢城)
余野城(幣ノ木城)
 365m  豊能郡豊能町余野中所

余野のR423(摂丹街道)切畑口交差点に立つと国道左手奥には余野本城から延びる尾根の末端が余野川に落込みます。右手には小高い丘に建つ 府立城山高校(2008年閉校となった)が余野城(幣<しで>ノ木城で、池田から余野へ抜けるR423号沿いの余野街道、高槻・茨木方面から余野を経て亀岡に向かう亀岡街道の要衝【摂丹街道】を見下ろし西の山上に余野本城が在る。
摂丹街道を見下ろす幣の木城<余野城> (城山高校<閉校>)

在地豪族(清和源氏 )能勢氏の庶流の能勢(某?)が文治年間(1185〜89)に余野山城【余野本城(水牢城)】を築き、余野氏を名乗り居城していた様だが、応仁の乱に戦死(陣没)した後は廃城になったと云います。・・が遺構の縄張りからは室町時代中庸期の 余野城が築かれた以降にも「詰め城」として使用されていたと思えます。豊能町誌の遺跡分布位置に幣の木城 (城山高校跡)と余野城(ただ現:余野本城<水牢城>の位置は空白?で東尾根末端部付近が余野城とされる)を分けて記されている。
余野城:屈曲する大手道を表門へ

平山の余野城を古名:幣の木城としても山城の余野本城水牢城の別名はなんだろう?。余野本城(水牢城)は既成化されている様なので、 このままにしておきますが妙見山の東・野間口の三角点峰527mが水牢城に比定されています。”応仁の乱”の敗戦に廃城となったのは野間口の 水牢城の事なのでしょうか?。また府道605号(茨木能勢線)を挟む北の丘陵上が鳥坂城に比定されます。余野城(幣の木城)・遊仙寺の北の尾根に馬場があったと云い、余野城:裏門(残念坂)搦手の曲輪段と土塁?

遊仙寺の東・谷を挟んだ字「大平(おおなる)」に余野大平城(大平居館)が、余野本城へは 畑口交差点を左折し「城の腰橋」を渡り民家側の「妙見山・光明山・天台山」道標を右折し山手に向かうが、直進(左手)するとJAの背後の丘陵上に 橋名にある城の腰城が在ったとされます。余野城(幣の木城)や余野本城の支城・城砦群等の関連は不明ですが所在・取付点・城史等が判明すれば改めて再訪したいところです。

豊能町遺跡図の余野城<余野本城南尾根鞍部の片堀切(堀切道?)

明応年間(1492〜1501<地史年表に明応2年>)余野山城守頼幸 (能勢ョ弘の五男)が創築した幣(しで)の木城が始めで地黄の能勢氏・野間の野間氏と共に能勢の三惣領と称されていました。大和国・沢城主(奈良県榛原町)だった右近の父、高山飛騨守のすすめで永禄7年(1564)黒田氏一族はロレンソ修道士からキリスト教の洗礼を受けた。黒田氏は高山右近の父:飛騨守(ダリオ)とは遠縁にあたり友人でもあったという。
余野本城:南の大手土塁虎口から横堀を主郭に入る

黒田氏の名前をあげている文献がなく、 城主の洗礼名クロード(クローン!)=クロダ=黒田氏か?・九郎殿か?・余野蔵人!!・余野殿と呼ばれていた能勢光則(能勢物語)の名も挙げられますが その関係は定かではありませんが、クロン殿の夫人は池田城主の娘(マリア?)。クロン殿【余野城主が余野山城守か黒田某?は不詳ですが!!】の長女「ジェスタ(ユスタ!!?)」が天正2年:高山右近に嫁ぎます。
余野本城主郭南から櫓台土塁

天正年間(1573〜92)余野山城守高綱は後にキリシタン大名となった 高山右近重友と親交があったが後、不和となり天正12年(1584)3月右近と戦って破れ城中で自刃し城も焼亡したと伝えられています。余野城の遺構は城山高校の敷地となって往時の姿は見られませんが南側の府道から正門への屈曲する通路は大手道から切岸高い段曲輪を縫って表門の虎口へ・東の遊仙寺参道 (最後坂)から遊仙寺山門手前で学校体育館?北から裏門に続く石垣に沿って歩けば、 山林・竹薮の中にも
余野本城:主郭西土塁虎口(正面西側から北を土塁が囲む下方を横堀が廻る)

段曲輪跡と思われる広い平坦地形・本城曲輪を高い切岸上(7-10m・切岸上部は土塁を・内側に空堀を 廻していたらしい)に見ながら西北側をR423へ出る残念坂。城山高校跡北面の山林も伐採後の倒木の陰に土塁曲輪 ・側から城山を見上げれば裏門(搦手)道と思える竪土塁状?・通路?、西面下には居館か?代官所でも在ったか字名に”屋敷”とある。余野十三仏にも立寄りますが、余野本城(水牢城) へ向かう切畑・余野からの登城口には下記城の腰城の傍を抜けて行きますので、余野本城の前に城の腰城をレポートとします。
===================================================================
余野十三仏  (豊能町教育委員会案内板等参照)

城山高等学校 (閉校)とは府道109号を挟んでグラウンドの南、寺田川(切畑川)沿いに石仏が立つ。室町時代末期・永禄7年(1564)造立で表裏二面に各20体もの仏像が刻まれ、表面上半部には錫杖を持つ主尊に両脇侍は合掌した地蔵菩薩立像の三尊像が刻まれる。下半部には下段に8体、上段に9体の地蔵立像が並んでいます。裏面にも同じく地蔵菩薩立像の脇侍が合掌していますが、主尊は宝冠を付けているが 磨耗して何仏か定かでは有りません。
遊仙寺参道 (最後坂):学校通用門?は空堀の外曲輪?

表面と同じく二段に17体の地蔵菩薩立像が刻まれ刻銘には「本願道清 永禄7年2月時将日」とある。前年に洗礼を受けた高山飛騨守の 勧めによるものか、余野城内に於いて余野の城主クロン殿(黒田氏か?・・余野山城守?)一族とともに妻子・兄弟・息子の高山右近(当時12才)を始め家臣達一族53名がロレンソ修道士により、キリシタンの集団洗礼が行われた年でもある。
余野十三仏は殉教の証か!!

同行多数の後生安楽を願って建立されたものと思われますが、 仏道を捨てキリストを「本願とする新しい道」に生きることへの、一族の証として建立されたものではなかったかと思われます。ひょっとして石材の何処かにクロスが刻まれてはいないかとも思うのですが 勘ぐり過ぎでしょうか。 羅漢像と異なり13仏と呼ばれる像に多像が刻まれていること、当初からこの場所に祀ってあったとすれば墓所からも外れている事、一族の居城・余野城を目前に望む位置にあります。
(現地:余野十三仏 ・余野城 豊能町教育委員会・高山右近研究会の案内板等を参照)

城の腰城   363m  豊能郡豊能町余野

余野のR423号線(摂丹街道)切畑口交差点の北東方間近には余野城、南西間近には光明山から東へ派生した枝尾根の一つが、高低差の殆んど無い比高20m程の低丘陵尾根先端部を :此処余野川に落とす。此の先端部【切畑口交差点からは余野川に架かる”城の腰橋”を渡ってすぐJA大阪北部豊能の北背後】に城の腰城が在ったと云う。
切畑口近く:余野川を挟んで城の腰城を望む

築城時期や城主等の城史一切は不明ですが、此の城址丘陵裾を北側へと捲き気味に西への谷筋を詰めると余野本城(水牢城)に通じます。城の腰城の所在位置から推察すれば余野城・余野本城の南口監視・守備する前衛の城。 麓の切畑口から”城の腰橋”を渡ると「妙見山・光明山・天台山」への道標がある。
城の腰城:東曲輪から 東尾根筋段曲輪群

往時のルートは不詳ですが現在川尻から天台山・光明山山塊を抜け妙見山へ通じる林道は、嘗て妙見街道の一つだったのでしょうか?。 余野城(幣ノ木城)跡に建つ旧府立城山高校 <閉校>とは、能勢町から野間峠(妙見山<能勢妙見宮>への林道を分ける)を越え、亀岡市西別院町へ通じるR423号線(摂丹街道)と余野川を挟んで北方に約200m程の距離で呼応する。
城の 腰城主曲輪東端のを望む

能勢氏の勢力下のあったと思われる余野城の東:遊仙寺の東方には余野大平城(大平居館)!!?があったと云い南麓 (府道109号線)は切畑口から下音羽を経て茨木市に通じる街道が、また南約250m程の余野交差点からは府道110号線が希望ヶ丘東を通って直ぐ茨木市側の 上音羽に入る高槻・茨木方面からの街道、亀岡市からの幹線R423号は池田方面から・途中で高山から道を分ける府道
城の腰城:主曲輪からニノ曲輪(西先端に櫓台状土壇?)

4号線は箕面方面に抜ける。これ等全ての街道筋が集まる余野・切畑口の交差点の中央部西にあって、地図上でも作業林道で囲まれた 東西約100mX南北80m程の範囲・比高僅か20m足らずの低丘陵上に在るが、重要な街道筋の要衝を監視できる位置にあるのが城の腰城です。 麓民家に接する程の尾根先から、林道を廻す西端の堀切跡迄の尾根上全域に隙間無く曲輪を並べ、主曲輪【約30X20m規模で東端に古墳頂部を削平したと思えるマウンド状?<表面観察だが
ニノ曲輪西端の切岸と堀切(林道の切通し道)

積雪により推測するのみ>で1.5-2m程】の切岸下の曲輪からは段差が曖昧ながら 3-4段の曲輪が並ぶ。西には2.5-3m段差で主曲輪と同規模のニノ曲輪(主曲輪の北端部を抱き込む様な腰曲輪)が続き、西端には櫓台と思える土塁壇 (6-7m幅)がある。土塁曲輪の西側は5m程の切岸を落として林道に降りるが、西尾根続きを遮断する堀切跡(林道用の切通し道となっている!!)で、縄張りは小規模ながら砦規模を凌ぐ丘城(または城館?)遺構。
城の腰城:堀切(林道)とニノ曲輪切岸(約5m)

なを尾根続きに西へは尾根幅狭く・途中左右からの堀切かと思える ?溝状山道を併せて尾根沿いに暫らく同規模の溝状山道が続き、北東からの枝尾根と合流する頂部に着く。広い平坦地形だが展望が効く程の場所でも城遺構も無い。 辿ってきた尾根南側の谷を隔て「JA大阪北部豊能 」の西方に見える尾根東北端部分の尾根上には岸本屋敷と呼ばれる広い平坦地形があるという。小字名称ではあっても・其処には古い時代の領内監視を兼ねた屋敷なり・
林道南出口の監視櫓台曲輪状?)

城館があったのかも!!?。谷筋からは比高40mを登りなおす事になるが 遺構が有っても積雪で覆われていては・・・と未確認で林道を辿るが、岸本屋敷?と城の腰城に挟まれた谷東出口付近の畑地に屋敷跡かと思える地形があった!!。城の腰城の堀切(切通し道)から南下への林道出口(民家側)南端に切岸?4m程の監視所 :櫓台曲輪状を見る。城址へ直接繋がる曲輪背後の裾は空堀が廻っている様に思えたが猛烈な竹藪・私有地内なので未確認。


余野本城(水牢城)  406m  豊能郡豊能町余野西谷

豊能町役場から北へ進みR423号・府道109号の切畑口交差点で左折し、城の越橋を渡り「妙見山・光明山 ・天台山」への道標を右折し民家先を車道終点の(廃品回収一時保管用か?)資材置き場まで進む。此処から山道となるが、辿れば余野本城の核心部を 外れた西の広大な城関連施設があったと思われる遺構近くに辿り付ける筈だ。
余野本城:主郭西虎口から北?東?南の虎口まで空堀・土塁を廻す

倉庫の側から丘陵斜面に取付き余野本城から南へ延びる尾根鞍部には10分程で到達。本城に向かう前に郷土誌に余野城と記される南端部に向かうと資材置き場南下の田圃付近まで延びている様な 深く長い片堀切を一条見る。緩やかな上り尾根先は広い平坦地形があるだけだが、片堀切が単に山道ではなく堀底道に利用されれば領内や要衝監視には 地なので砦か居館でも在ったか?。
主郭西虎口の空堀土橋の外側土塁虎口:土橋の先に石組井戸が二つある

其の意味では居館の余野城から詰城の余野本城へと、麓からでも比高50m程の余野本城へ北尾根続きをトレースしてみた。尾根筋を捲いて 西斜面につけられた山道が南端を分厚い土塁が開く間に通じる大手門!!。土塁内の空堀(横堀)・正面に切岸高いを越えて主郭に入る虎口になっている。土塁内は南端から東へ更に北面をも捲き込んだ大空掘が、大規模な単郭を囲む。 石組井戸

此の空堀は途中4ヶ所程に土塁が開き余野川が流れる東斜面に落ちる 竪堀が並ぶが間隔もあり 畝状とは呼べない。主郭内は南西寄りが少し高く、櫓台曲輪と北に一曲輪があり其の北端下部が西土塁虎口となり、主郭北端部に土塁を積む。 西土塁虎口を降りると西側丘陵部を土橋状で繋ぐ土塁虎口に出る。土橋を渡った西側に石組井戸が二ヶ所ある。
主郭東面に落ちる竪堀と横堀土塁

径1m幅の丸い井戸と、土塁状の陰に隠れる様な位置に1X2m程の石組み方形の井戸?。空堀・土塁と土塁虎口・櫓台・竪堀 ・高い切岸・・と防御面で優れた遺構を見せるが単郭の城域内に籠城戦の備えとしての井戸は無い。土塁虎口と土橋で分ける西域の 広大な自然地形の中に見る荒れて崩れてはいるが平坦地は屋敷群か?。
余野本城:主郭内北部を仕切る横堀(虎口?)が東面空堀に落ちる

南へ二本ばかり緩斜面を下る空堀状の溝は 登城ルートとした資材置き場からの道に通じ、牛馬での物資輸送や堀底道だったか?。近世の作業用山道だけとも思えない。広過ぎる平坦地形も尾根続き西で当然堀切(北方へ幅狭いが深い片堀切となって落ちる)。堀切外への尾根続きも、 ただの自然地形が続くだけの様だが、片堀切を越えた先の広い曲輪だけは方形土檀を観る。祠跡なのかもしれないが・・・


水牢城  水牢古城山 527m    豊能郡豊能町野間口字水牢古城山

R173号(能勢街道)の豊能郡能勢町森上・栗栖から府道4号線(妙見街道)を辿り名月峠を越えて 能勢町野間に、此れより野間峠を越え豊能郡豊能町側に入る。この境界尾根筋沿い西方には妙見大菩薩を祀る日蓮宗霊場”能勢妙見山”がある。 行基の開基を伝える大空寺跡に立地しており、三角点峰・
取付き点の妙瀧寺

本堂上の最高所には能勢地方の実権を巡っては、織田に離反して伊丹城:荒木村重に荷担したとして、秀吉軍のとりわけ宿敵山下城主 塩川氏等との闘いに丸山城を捨て築いた為楽山城(大空寺城) が在る。余野から亀岡市に向かうR423号(摂丹街道)の妙見口で府道4号線へと左折し、清滝口バス停から松籟山妙瀧寺(日蓮宗)への参道を進む。妙見山の”お滝場”として南西中腹に雄滝(新滝)・先程:野間から 野間峠に向かう府道4号線側(能勢町中野間)の妙見山北中腹に本滝が、東側中腹の此処が清滝お滝さん”と呼ばれる妙見山の行場の一つ。 野間峠を越えた府道4号(妙見街道)は林道の妙見山への山道から清滝(バス停)を過ぎた分岐から南尾根筋を光明山・天台山を経て川尻でR423号に合流する。
4等三角点の水牢古城山は主郭内

府道4号線(妙見山への境界尾根上)の清滝から清瀧寺へ通じる山道は”お滝”行場への水行等に利用された参詣道なのでしょう。 妙瀧寺背後の丘陵上には水牢古城山(4等三角点 527m)があり府道4号光明山から北へ延びる尾根上の野間口から山麓の野間口霊園南下へ降りてくる山道もある。 水牢城への登城ルートとしては城域側の尾根筋まで続くので最適で、方形単郭の城域(南北に約35m・)南端:主郭の西面には1-1.5m程の崩れ・風化によるものか余り高さを感じないが一条の幅広い土塁 (長さ約25m程)があり
水牢城主郭西面に土塁線が延びる

・西下方は妙見山へ続く尾根上の 府道4号線へも近い位置にある。主曲輪東面は切岸加工面をみせて落ち、幅狭いが南東側に腰曲輪状の削平棚をみる。主曲輪の南下(約20m程下方)へ登り着く山道が城域の肩(西方への尾根筋)に繋がるが、積雪で埋まるルート・未訪の藪山だけに妙瀧寺からの尾根筋を探る。【山名からも水牢古城?と呼びたいところだが余野城(別名:水牢城)の古城としての関連は無さそう。 正式名称を知らず混乱を避ける為、あえて水牢古城の名を避ける】
水牢古城:土塁上からの主郭内と西面切岸

天正10年(1582)能勢氏は明智光秀に従うが「本能寺の変」に再び秀吉軍の攻撃を受ける事になる。茨木城から出陣した中川清秀軍により鳥坂城 は落城している。鳥坂城・水牢城は共に能勢氏勢力の城砦群の一つだった様ですが、水牢城は築かれている土塁は野間口・余野方面、茨木市方面の街道筋を望む東方向ではなく西側に設けられています。丸山城から妙見山に拠った 能勢氏を攻略するため、中川氏の連合軍先鋒に加わっていたと思われる塩川氏が当地方の地理的状況を把握していた?とおもわれ、為楽山城攻めの向城として、妙見山側尾根筋からの能勢氏攻撃に対する防御施設として改修したもの ・・・?とも推察する。


鳥坂城(山口城)   鳥坂山 Ca500m    豊能郡豊能町野間口

豊能郡能勢町栗栖から府道4号線を辿りR477号野間中に出て、更に野間峠(野間トンネル)を東南へ 抜け出た所で府道4号線は妙見宮へ向かい途中光明山と天台山間を抜ける広域林道然とした国崎野間口線で、余野川沿いのR423号と交差して、高山右近の里を通り箕面市の勝尾寺付近から茨木市へ通じます。 R423号を約4km程南下すれば止々呂美だ。
浄福寺から摂丹街道を望む

上記の諸城が妙見山や地黄を本拠とした能勢氏方城砦群の位置からも軍事・通信等の統制勢力下のネットワーク図を想像出来ます!!?。 余野城の項にも豊能町誌の遺跡分布図に記載の未訪の城砦や位置を記していますが、野間峠で妙見山方面への府道 4号線を右手に見送り直進する府道605号線を下って東へ、野間口の狭い集落内の「町立ふれあい文化センター」から北方の丘陵裾を紫雲山浄福寺(真言宗)に向かう。
浄福寺脊山:東尾根の竪堀状?

寺背後の西北丘陵上のCa500m付近に位置する鳥坂城は府道605号線を挟んで西の丘陵上:527m三角点峰に在った水牢城 (余野本城の別名:水牢城との関連有無は不詳!!?)と呼応した、能勢氏勢力・野間氏勢力の南東の摂丹国境警備・守備する砦群の一か?。 応仁の乱(1467-77)で水牢城主が戦死後の文明2年(1470)鳥坂城に拠った山口左近・または其の家臣:稲葉氏が築き居城したとも・
鳥坂城南郭?(東尾根・南尾根分岐付近)

大永年間(1521-27)山口氏によるものとも伝えます(東能勢村誌・豊能町誌等)。城主:山口氏や其の家臣:稲葉氏については城史全般 ・その後の動向等不詳ですが、浄福寺の御住職は稲葉氏の子孫という。天正6年(1578)織田信長に離叛した荒木村重(伊丹城主)に付いた地黄丸山城主 能勢ョ道や西郷衆等:北摂の領主が籠る諸城を掃討するため翌:天正7年4月には織田信長の嫡子信忠・弟信澄を総大将とし、中川清秀・丹羽秀長・塩川国満等の連合軍で侵攻。
町誌遺跡分布図の 山上郭部は幅狭い尾根上の平坦地形?

茨木城から出陣した中川清秀の先鋒軍は、余野川沿いを北上して能勢氏勢力の諸城を攻撃対象としたものか。 手始めとなったのが止々呂美城(塩山平右衛門正秀の止々呂美城下城・塩山城)、此の時の鳥坂城 (山口城)には山県伊賀守国則 【山辺城<鷹爪城>城主:能勢義純の城代)】が拠っていたが、山辺城の能勢丹波守義純は大町宗清・宗治の兄弟等と栗栖に討って出て討死。
鳥坂城主郭?から南郭へ細い尾根上の曲輪段

宿野城・片山城・森上城・山田城等諸城は悉く殲滅された。主の義純討死を知った山県氏は城中の家臣等の 助命を願って自刃し鳥坂城を開城したという。野間口集落内の高台に在る浄福寺からは東正面に亀岡市に向かうR423号(摂丹街道)を望み、 寺前面で一端が一挙に競り上がってくる地形・殊に寺域や直ぐ前には高く急斜な切岸を立てる民家の佇まいを見ていると此処が居館跡!!?。
鳥坂城:南郭?からの南尾根に見る平坦地形(曲輪?)

背後の丘陵部に「詰め城の鳥坂城」の構成を考えてみたが、城址とされる比定地をトレースしたが室町時代末期の天正7年:織田軍を侵攻 に対抗して山県氏が篭った山城が此処に在ったとは!!とても信じられない?。堀切も土塁・切岸加工した曲輪・腰曲輪・帯曲輪を備える余裕もない 幅狭い尾根筋に数段の平坦地形を見るだけ?。
鳥坂城:南尾根に見る段曲輪?

主郭と思えた 枝尾根分岐の頂部から北は緩斜面数10mで東下へ緩やかな尾根筋・主尾根筋も鞍部迄は直ぐ、しかも緩斜面で此処に堀切の防備施設も無く手薄。浄福寺裏手・山裾を縫う地区道から舗装作業道を経て、砂防堰堤建設工事中!!?のダム下から東尾根に取付き、鳥坂城域?から南尾根を降って元の砂防ダム下へ周回したが、尾根?山上部よりもダムサイト左右の尾根付近 (東側の雑木藪と下方民家側にかけての栗林<多分に
鳥坂城:南尾根末端部の曲輪と竪堀状?(砂防ダムの下方)

造園の為に造成>)や、西側の竹薮・植林部の方には竪堀状や曲輪段があり 、其々に摂丹街道(R423)や府道605号(茨木能勢線の野間街道?)を野間峠に至る通行監視の任に当たったと思える砦規模で、 山上部から攻められれば防禦不可能・比高も僅か70m程の山城。鳥坂城が此処に在ったか?というより、一族郎党は圧倒的な能勢氏掃討の軍勢に対し、どのような防戦体制で城や居館?に篭ったかに興味をもつ。

  本誌丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system