池田市内歴史散策   池田城址公園〜猪名川沿い・・・
阪神(五万図=大坂西北部・広根)
猪名川〜池田城址公園〜歴史民俗資料館〜☆伝説の星の宮  H15年07月27日・8月7日

近畿の山城: 池田城
池田城址公園の模擬櫓は絶好の展望台

前回までの 尼崎西宮 伊丹 宝塚とは酒造りと城関連で何かと関連の深い池田市に向かい伊丹市からは猪名川沿いに進みます。伊丹市・豊中市を分けて南北に流れる猪名川を囲むように 拡がる台地の北に、緑の五月山を背に南に大坂国際空港を望み、自然と歴史と文化の街・池田市が控えています。猪名川から箕面川沿いに 池田市に入ると中国自動車道手前・R171と合流する手前で「弁慶の泉」を見ます。箕面川と猪名川に挟まれた池田市の地形からは 伊丹の有岡城宝塚の小浜城 同様に台地の端に位置する"惣構え"の城塞のイメージを感じさせるほど下河原や豊島南附近の箕面川は大きく、深く池田の町を囲み城山付近も近づくにつれて高い丘の上にあることが実感できます!!。民俗資料館で池田城と歴史散歩の情報を仕入れた後は、 いよいよ発掘調査を終え平成12年に復元公開された池田城に向います。
擬似櫓から城内の庭園や漆喰塀と城門

池田城の縄張りを勤労者センタ内にあるジオラマで観察してから 空掘に架かる橋を渡って大手門から池田城址公園(勿論無料)に入ると中世 ・戦国時代の城は、一部復元されてはいますが、近世城郭の垢抜けて整いすぎた装いで迎えてくれます。 公園として素晴らしい庭園・漆喰白壁に甍を連る城門が建ち、二層の模擬の櫓(展望休憩所)があって忠実な復興とは異にしているが、一つ一つを見ると妙にリアリティを感じます。 ただ本郭部に残る一部の土塁跡は、広すぎる池を巡る回遊庭園の借景のようです!!。


下河原緑地〜星の宮〜池田城址公園〜綾羽町内"呉春"酒蔵〜 2003年07月19日・8月7日

ネオ・フロント下河原緑地 兵庫県伊丹市下河原
爆音轟く空を見上げれば大阪国際空港 (関西国際空港とは違うよ!!羽田空港と成田空港の関係と似ていますね!!)を離陸した飛行機が五月山に向って 高度を上げながら飛立ち、西方の六甲山脈の東端へ旋回しながら南へ・東へと 思い思い!!の方向に飛び去って行きます。飛行機は空港の南側から侵入路に入ってきますので、 阪急服部や岡町辺りからは爆音の大きさと機体の大きさにビックリしながら 目で追った記憶を持つ人も多いことでしょう。
ネオフロント下河原緑地にて

反対に
北側は離陸コースにあたりますが少し高台になっており、此処にはネオ・フロント下河原緑地公園があって 空港の全景が見渡せる絶好のビューポイントです。南側での迫力は感じられませんが、綺麗に整備された公園には家族連れや、飛行機を見るギャラリーで賑わっており、 飛行機の離着陸する様子を全て目で追うことができます。

弁慶の泉(北今在家の清水)   豊島南二丁目 (旧豊島郡今在家村)
猪名川の河川公園沿いに大坂国際空港の旅客機の発着を望むネオ・フロント下河原緑地に寄った後、今度は箕面川に出ます。 この辺りはその昔・赤松円心が尼崎から上陸してきた阿波国(徳島)の六波羅軍の小笠原軍と戦った激戦地です。西国街道と海路を阿波へ向う尼崎への道筋は軍用としても良く利用され此の後々の歴史にも登場してきます。中国自動車道中国池田インターチェンジの入口で、 国道171号線が交差する豊島南1丁目の西にあって、京都から西宮へ続く西国街道の側に「弁慶の泉」があります。
弁慶の泉(北今在家の清水)

伝承では文治元年(1185)11月・兄の源頼朝によって 義経追討が発せられ、京都より西国街道を逃れて尼崎の大物浦へ向かった。しかし畿内においても頼朝に従う者があり、義経主従を狙う多田蔵人行綱や豊島冠者(池田衆)等の武士団に 襲われますが義経や家来の武蔵坊弁慶もよく奮戦します。戦いで渇いた咽をこの泉で喉を潤したと伝えられています。義経伝説と共に「弁慶の泉」と伝える伝説地は何箇所か有るが此処 ・北在家の泉にまつわる伝説を後世に伝える為、弁慶の泉保存会等地元の熱心な活動によって小公園として整備され、昭和53年(1978)10月に池田市史蹟名勝天然記念物・第三号に指定され、 生まれ変わりました。箕面川の伏流水が此処で湧き出ているとされていて近年まで、今在家一帯の農家の灌漑用水としても利用されてきました。泉は今も湧水があり毎年5月3日には 「弁慶祭り」も行われており、ふるさと池田の財産として此れからも大切に守っていこうと結ばれています。(池田市教育委員会・石碑の由来記や案内文参照)

池田市立歴史民俗資料館    池田市五月丘1-10-12
市立図書館と狭い駐車場の奥に 池田市立歴史民俗資料館があります。 五月ヶ丘古墳の側にあって、小高い古墳の陵頂部へは図書館側のほか3〜4方から小道が通じていて公園化されているので登ってみたが、 遺構や説明板も無く期待の展望も 図書館前からの方が良さそうなので降りる。民俗資料館は1980年(昭和55)に開設されて、池田市域の古墳等から出土した資料の他にも池田酒に関する用具、 商家の屋根付き大看板や伏尾の久安寺(西国薬師49霊場)山門梁等建築仔細が観察出来る模型や、 祭りの獅子頭などが展示されています。鎌倉時代頃には存在していたと思われる池田城関係の出土品も展示されていると期待したが、 特別展の為か見られなかった!!?が、 有名な地酒の銘柄と思っていた"呉春"は彼もまた、池田を代表する江戸時代に活躍した画家だったことを知りました。作品の展示は無かったけど・・・!!?
織姫伝説・星の宮


星の宮 池田市建石1-9
民俗資料館から池田中学校前の坂道を下って由緒有りげな薬師堂前から、 旧能勢街道沿いに西へ進むと建石町会館の前です。"古い石の道標の側に鳥居が建ち扁額には「明星大神宮」と書かれています。星の御門と呼ばれる七夕には 一ヶ月遅れになってしまったが、ロマンチックな天空の星に由来する織姫伝説をもつ「星の宮」史跡があります。穴織姫・呉織姫夜遅くまで明かりも灯さず一生懸命機織りをしていると、 天から7つの星が降ってきて真昼のように照らしたので 作業がはかどったということです。その機織りをしていた場所だといわれ、七つの星が妙見信仰の北斗七星と考えけば、此処を通る妙見街道が北辰信仰とも深く関わってくる出来過ぎた!!符号ですね。
城より城らしい山門 T・法園寺

小さなお社ですが村民の信仰厚く兵火による再三の焼失にも都度に再建されています。もう直ぐ行なわれる池田の夏の夜の祭典(毎年8月24日) 「がんがら火」まつりは、此処で享けたご神火により五月山の大文字に点火され、点火後の松明を持つ子供達が鐘を打ち鳴らしながら練り歩き「星の宮」へ納める行事です。 穴織(あやはとり)姫は宮居伊太神社のある綾羽町に、呉織(くれは)姫は呉羽町に街道の面影や歴史を感じさせる町並みが残ります。「星の宮」からさらな西へ進むと逸翁美術館への分岐交差点です。 南への坂道途中には法園寺の立派な山門が見えます。交差点西角には池田文庫で宝塚ファミリパークから移設された歴史燈籠が並んでいます。江戸時代の珍しい!!三角灯篭等があるのですが側で見られず垣根越しです。

逸翁美術館  建石町7-17 回生病院前東隣
法園寺から登ってくる坂道の交差点を北へ向うと池田文庫前から回生病院前を通って 逸翁美術館へ通じます。 阪急電鉄/宝塚歌劇/東宝などの阪急東宝グループを起こした 小林一三翁(明治6年1873.1.3山梨県韮崎市に生まれ)誕生日をとって「一三」と名づけられました。
逸翁美術館

財団法人・逸翁美術館は、 雅号「逸翁」を冠して館名とし、旧邸「雅俗山荘」をそのまま展示場として1957年10月に開館され、小林一三氏の蒐集された陶磁器、書画、絵巻物、絵画などが展示されており重要文化財なども数多く所蔵され、 与謝蕪村と呉春のコレクションでは日本一と云われる。古風な長屋門の正面入口を入ると 日本庭園を隔てた奥にモダンな洋館(美術館本館)が建っているが、庭園で距離を措く「和と洋」には違和感を余り感じません。
逸翁美術館(長屋門風!!の正面入口)

池田文庫前のT字辻へ戻り山手に向うと池田城ジオラマのある勤労者センターなので寄って行きます。 その直ぐ西には大空掘に掛かる池田城への大手橋が見えます。城内見物の後は櫓台下を西に下リ初めて、ヤッとこれぞ戦国・中世の池田城、 要害に建つ遺構の片鱗を見てホッとします。山麓の綾羽町へ向いますが、城下に繁栄した池田商人の町の佇まいも見て歩きます。R176号線で能勢や亀岡へ向う時、猪名川を渡り頭上を走る阪神高速のビッグハープ(阪神高速橋)を見て通過する呉羽橋界隈も、一寸気になる"うどん屋!!"なんかが在るが 車を寄せる場所も無いので通り過ぎるだけ。

呉春

旧市街地・綾羽町
次回は織姫伝説のもう一方の旗頭 (機頭)呉羽町や呉羽神社・池田城主の菩提寺大広寺から五月山への軽ハイキングを考えてみましたが、池田駅からは「ラーメン記念館」も加えたいところ。
池田の地は能勢妙見を結ぶ妙見街道・亀岡へも池田街道が、能勢から宿野を経て丹波篠山へ通じる丹州街道等々、多くの街道が市内で交差する要衝でもあって交易が盛んで古くより栄えていたところ ですが、 此処に池田氏が城を築き城下町を形成させ 商工業者の誘致策がとられます。 池田は元禄時代、伊丹や灘と共に江戸にも聞こえた全国有数の酒造地として発展して行き酒造業者も 最盛期の元禄時代には38軒もあったといわれます。宝塚の山本にも近い為か植木・園芸や、 能勢方面から切り出す池田炭等の諸産業にも支えられ北摂地域の政治 ・経済や文化の中心地ともなっていきます。豊かな経済基盤を持ってくると伊丹市の郷町同様に、 多くの文人墨客の集まるところとなり独自の文化圏を築いていったようです。
城より城らしい山門 U・ 弘誓寺

商店街アーケードの北端からは 古い町並みの風情が残る綾羽町内に町家や酒蔵をぶらりと見て廻っていると下戸の私でも知っている北摂池田の有名な地酒呉春の看板の掛かる蔵元があった。 呉春は名酒というよりは幻の米(赤磐雄町)による特別吟醸の"幻の酒"的な要素が強い手造り銘酒なんですね。呉春が池田を代表する酒の銘柄と思っていたが、 もう一つ・池田を代表する!!江戸時代の画家の名前であった事を、今回は歴史民俗資料館を訪れて初めて知りました。逸翁美術館が与謝蕪村と呉春のコレクションでは 日本一だということも・・・狭い別の路地をウロウロ歩いていると、広い土間をもつ町家に杉玉が掛かっているのを見かけた。販売商品の酒瓶や樽を見かけ無いのですが、 直問屋への大卸店だったのかな・・少し戻って東正面に池田城の姿が見える車道の手前には、物見櫓か砦の城門を思わせる弘誓寺の山門を見る。
(池田市観光協会観光ミニマップ 池田市立歴史民俗資料館資料 等参照)



 池田城

池田城
    池田市城山町140-3

池田城は五月山の南山麓にあって標高40〜50メートル程の丘陵地に、室町時代から戦国時代にかけて、旧豊島郡(現池田、豊中、箕面市周辺)一帯を支配していた在地豪族・池田氏の本拠で、初代城主・池田教依(のりより)が築きました。 初期は館城程度だったが戦国時代にかけて段々拡張され、北を流れる杉ケ谷川を取込み、南と西側の急な崖や谷の自然地形を巧みに利用し、東側には空掘と土塁を廻らせ城域は南北約550メートル、 東西約350メートルに及ぶ広大なものとなっていました。
池田城・空掘南側から南門

15世紀の中頃から勢力を拡大し応仁の乱(1467〜77)が始まった頃は、摂津守護・細川氏の家臣として活躍し有力な位置を占めており、 この地に居館を構えていたことが推察出来ますが、いつ頃城が築かれたかは明確になっていないが建武3年(1336)の「平国茂軍忠状」に池田城の名が見えることから、その頃には存在したといわれますが 定かではない。嘉吉年間(1441〜4)池田充政(みつまさ)が城の拡張を行い、 城下町もこの頃から形成 されていったようです。池田城の西側には水路として、また天然の要害ともなる猪名川が流れ、南には京都を結ぶ西国街道が通っていました。
池田城・本郭庭園から擬似櫓

西国街道の他にも妙見山と大坂を結ぶ能勢街道とさらに北へは丹波篠山へ抜ける 丹州街道や亀岡への街道等、複数の街道が交差していて古くから交通の要衝として栄えてきた地域ですので、池田氏も応仁の乱から戦国時代にかけては幾度も戦乱に巻き込まれ、応仁の乱後・文明元年 (応仁31469)細川氏と争った山名氏方の大内軍に攻められて落城したが、この時は大内軍がすぐ去った為、充政は城を取り戻したが、細川一族の後目相続による内紛では細川澄元に味方した池田城主 ・池田貞正が永正5年(1508)細川高国との戦いでは池田正盛が高国方へ寝返った為に落城(尼崎・富松城等参照) 貞正は切腹し正盛が城主となったが永正16年(1519)貞正の嫡子・池田久宗が有馬で挙兵して城を奪回する等、 度々落城再建を繰り返します。戦国時代末期の永禄11年(1568)城主・池田筑後守勝正の時、将軍足利義昭を奉じて上洛した織田信長の摂津侵攻では、家臣の荒木村重や中川清秀と抵抗しますが 信長軍の猛攻に落城します。
池田城の大規模な空掘と大手門

しかし池田氏は取潰しにならず(安堵され)その後加増され、高槻城・和田惟雅、伊丹城・伊丹親興と共に勝正も摂津三守護に任命され 信長の家臣として各地を転戦します。 その後、池田知正が内紛による失脚に乗じて、旧家臣の荒木村重 や中川清秀が摂津守護・池田勝正を高野山へ追放し 和田惟雅を倒します。信長の有力武将となり摂津支配の実権を握った 荒木摂津守村重は天正元年(1573)伊丹親興を攻め伊丹城を落します。天正2年(1574)村重は伊丹に有岡城を築き移り居城とした為、 池田城は廃城となりました。その村重が天正6年(1578) 信長に背い時、池田重成は荒木氏に従い 運命を共にしています。村重討伐の為の有岡城の向城として、既に廃城になっていた池田城が使用されますが翌、天正8年(1580)信長の破城命により廃城となりました。
空掘と南東部角の虎口門


池田城跡は平成元年から4ヵ年をかけ発掘調査が行なわれ、 確認された枯山水、井戸、虎口などの遺構が復元されましたが、漆喰塀や櫓風の展望休憩舎、管理棟などは城跡のイメージを演出する模擬建造物です。日本庭園は、深山の景、野の景、 海の景の3つから形成され、自然の姿を水の流れで表現しています。歴史の保全!!??と活用から「城跡の歴史を感じられる憩いの場」として整備を進め、平成12年(2000)4月に完成し一般公開されています。 櫓風の展望所からは池田市街地を眼下に猪名川を隔てて西宮方面へと眺望が拡がります。北には五月山塊の西端に、池田市の新名所!!??となった阪神高速道路の新猪名川大橋(ビッグハープ)も見えています。
(池田市教育委員会城址説明文・市史編纂事務室 池田氏ってだれ? 等資料 参照)
本誌丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system