多田神社・舎羅林山/大谷山・丸山・一本松山・六石山/今井岳〜三蔵山
北摂 (五万図=広根)
T(川西市) 能勢電鉄平野駅〜舎羅林山〜多田神社   2004年02月14日
U(猪名川町)大谷山〜丸山〜東光寺〜屏風岩〜一本松山 2001年03月24日
V( 宝塚市) 上佐曾利〜今井岳(382m)〜三蔵山(411m) 2001年03月24日
W(川西市)  石道温泉〜六石山(199m) 2002年02月24日
近畿の山城 :新田城(多田館) 三蔵山城 今井岳城


T多田源氏発祥の地・多田院と微妙に紙一重で自然を残す舎羅林山  平成16年02月14日

能勢電鉄・鶯の森駅付近を並走する県道12号 (川西篠山線)から銀橋を渡って能勢妙見や篠山へ通じるR173号に出ると、銀橋三叉路の東方に緩やかな独立低丘陵が南北に長く延びているのが見える。稜線に送電線が走り、 ピークも特徴が無さそうで登山・ハイキング対象としても魅力に欠ける様です。道路地図にも長尾山(333m)と共に此の周辺では 舎羅林山な名が載っているが、 奇妙な山名に不思議な魅力を感じ、何時もは寄る事も無かった多田神社へも立ち寄ってみます。
猪名川を渡ると多田神社

多田神社は城ではないが多田源氏発祥の地で其の祖は弓の名人・源満仲、その子が "大江山の鬼退治"で知らない人はいない??源頼光ですよね。素直に車で山へ向かって入って行けそうな道を、狭く入り組んだ住宅街の中で探し出すのは難しいですね…。南山裾は宅地が迫り、 東にゴルフ場と北には真近に宅地造成地が迫る尾根筋に、 奇跡のように僅かに残された雑木の山道が四季折々の息吹を感じさせ 貴重な自然を何時までも見させてくれるよう願いたいものです。余り知られない山の様ですが稜線には良く踏まれたコースが幾本もあるようで、地元では愛されている??山のようです。何よりもゴミの無い清清しさだけでも救われます。
多田神社前付近から舎羅林山(中央)遠望

能勢電鉄平野駅手前に真っ直ぐ延びていく道が有ったので右折したが、直ぐ狭い宅地内の曲りくねった坂道となり、最奥の住宅地内で行き止まりになってしまった。途中で気になる分岐道が「東多田・上の芝霊園」に延びている。霊園の駐車場から墓地を抜けて墓地の端を廻ったが道は無い。大して傾斜もなく藪でも無いので斜面に取り付いたが程なく明確な山道に出た。何のことはない…駐車場前に建つ六地蔵の横からフエンス沿いに MTBでも乗車率の高い道がありました。明るく緩やかな松の木の目立つ雑木林の快適道ですが僅かの間・赤土混じりの泥濘の急斜面となり、靴底にコビリ付く土が団子となって滑りやすくなる。結構MTBかバイク?のタイヤ痕も残っており、山歩きではなく・その筋でのお楽しみコースのようです。此処を抜け出た途端、少し幅広の道が延びてきている。
猪名川(多田院御社橋上流)

直ぐ先には、無傷で真新しい??TTS(旧電電公社)マークの標柱が埋まっており中継施設があったようです。その先には関電の送電線No.52(山下線)が達つ。二つの巡視用の作業林道だったのかも知れません。水平に延びる巡視路を見送って道なりに進む道が水平道になると露岩が多く見受けられ、尾根筋を外れると北側斜面は急で7〜8mの岩場もあった。平坦な道の行き着くところに石が積み上げられた、切り開かれた場所があって北側に展望が拡がります。とはいっても宅地造成工事中で削り取られ荒涼さと、成らされて剥き出しの台地に一本 ??の車道が直ぐ北面の山腹を取り巻いているようです。西方に望む中山連山も山肌と住宅地が拡がっており山としての風貌は消え失せています。此処が舎羅林山(3等三角点 点名:舎刺利山 265m)西面から北側にかけては高代寺山(尾根伝いに長棚城がある)や天台山〜妙見山 (為楽山城がある)まで遠望出来る展望台です。雑木の影で東方や南側は無理だが少し移動すれば樹間から明ヶ田尾山の稜線も近くに見える。山頂からはさらに北へ山道が延びるが、西下へ下る道を辿って見たい誘惑もあったが START地点に戻るのに時間をとられるのが惜しいので、三角点からは庭園のような露岩の水平地を送電線鉄塔へと往復1時間足らず。同じ道を東多田・上の芝霊園に戻ります。
舎羅林山山頂

清和源氏多田氏発祥の地多田神社(多田院)も近く寄ってみます。源義経の祖先(河内源氏の祖・源頼信も元は同じ清和源氏 )も此処。誰でも知っているといえば!!!?社務所近くの案内板に書かれている歌詞が物語ります。「昔 丹波の大江山 鬼ども多く籠りいで・・・源氏の大将頼公は 時の帝の 勅(みことのり )・・・家来は名高き四天王 山伏姿に身をやつし・・・ 」知ってる人は知っている・・・・(^^; 大江山鬼退治で有名な唄の主人公源頼光が多田源氏の祖・源満仲の息子です。清和源氏の祖が此の満仲で、 清和天皇の6番目の皇子・貞純親王の長男で経基の長男。摂関家との結びつきを強めて源氏発展の基礎を築いた。弓の名手で、以前に三田・宝塚の山では 普明寺の龍馬神(宝塚のお話)がありますが、同じような話が此処にありました。天禄元年(970)源満仲は居館を築く土地を定めるため摂津・住吉大社に願を掛け「汝の矢で北西の方を射よ。 その矢の止まる所を汝の住まいとすべし」との神託を受けた。満仲が白い矢を放ち家来とその行方を問いながら追いかけます。そして深山に囲まれた湖・鼓ケ滝へやって来た。其処には九つの頭を持つ龍が住み、 里に下りては作物を奪うなど村人を苦しめていた。矢は龍の目に命中して死んでいた。「昔より枯れたことの無かった湖の水が 四方へ流れ出て、多くの田が出来たことから、多太と呼ばれ後・改めて多田と書いた」とされ寛政10年(1798)頃の「摂津名所図会」記され、平安時代後期・満仲一族が此の地を本拠とした多田源氏の発祥の地であり 地名の由来ともなっています。
多田神社・南大門

また鼓ヶ滝は湖水の水が流れ落ちる音が、 遠くで聞くと鼓を打っているように聞こえるので鼓ヶ滝と名付けたといいます。九頭大明神には龍の首が祀られて、目・鼻・口・耳など首から上の病気に御利益があると伝えられています。 多田院の直ぐ隣・新田に居を構え此処に城を築き、矢倉を建てた満仲「新田の城」は法泉寺か多太神社付近かと思うのですが??所在は良く分かりません。此処は地元”YORIさん”に一つ頑張ってもらって、 出来れば「多田の四十八砦」の所在、特に井戸城 (多田館の北の砦として能勢地方最古の城!!?)調査含め、多田新田城が後世・塩川氏の城としても残ったものか、長棚城の他にも付近に塩川氏の城が有るか ・・・(^^; 私の資料不足を補ってもらえればと・・助け船を出しておきます。源頼光については「羅生門」の鬼を退治した渡辺綱、「金太郎」で知らない人もいない坂田公時等の四天王と大江山の鬼退治が有名ですね。 そして源頼朝・義経の祖で自ら河内源氏の祖となったのが三男の源頼信!!です。
(多田神社のHP及び栞・現地案内板 参考)


多田神社(多田院)     兵庫県川西市多田院多田所町1-1

清和源氏発祥の地で知られる多田神社は、第56代清和天皇の曾孫の多田(源)満仲(912〜997)により天禄元年(970)創建されたもので、 寛和2年(986)多田院(現・多田神社)で出家し慧心僧都より法号・満慶を受け、長徳3年(997)没した後は廟所の造営が成され御影堂ほか多くの寺坊が建立されています。天正5年(1577)織田信澄の手によって社殿は焼失したが、
多田神社南大門

建物は寛文 7年(1667)徳川4代将軍家綱によって社領 5百石を受け再建されたもので【本殿・拝殿・随神門は国指定、南大門や東西の門は県指定重要文化財】祭神は正一位鎮守府将軍源満仲公で、源頼光・頼信・頼義・義家の5公が祀られた多田源氏一門の祖廟です。 寛文7年(1667)再建された東門と西門は木割の雄大な高麗門で、主柱の架構が鳥居様で、控え柱上の屋根妻が正面から見えるのは高麗門としては珍しい扱いの建築様です。神域一帯は昭和36年6月国史跡に指定されています。廟所ではありますが捜しても良く分からない多田新田城(居館)よりは此処・多田神社の方が城の縄張りを感じてしまいます。 猪名川が南面を遮り正面の石段を登る南大門が既に大手門のようです。
多田神社・東門(高麗門)

城と考えてみれば境内に入り社務所と東西の山門の北側神域までが外郭でしょうか!!。瓦葺きの長塀の内部がソックリ構居の感じで、その区切られた北側の神域が内郭と思ってしまいます。 社務所から東門へ向かう南側は堀(空掘)があり、東門を出れば北の坂道に沿って溝と石積の塀が伸び、神域の北端は宅地と車道で切れるが深い溝と石垣をのぞかせる高く幅広の土塁が西の雑木藪!!??に延びています。 西面は溝がなくても高い切岸で守られそうです。


U大谷山 (228m)〜丸山(217m)〜東光寺〜屏風岩〜一本松山(301m)   H13.03.24

多田神社から石道温泉前を通り猪名川沿いの紫合交差点を直進すれば北田原に入ります。 東光寺と屏風岩はこの北田原にあり先に紹介してしまい山情報が後になってしまい申し訳有りません。マス釣り場や屏風岩を望みながらの岩屋温泉も露天風呂と薬草温泉を備えていますので周辺散策の予備知識としてください。 北田原の大谷山の西裾に駐車スペースが有りますので此処から(AM9:30)出発です。集落奥のT字辻には兵庫県自然歩道の標識があり 下阿古谷方面へ右折して20M程で右手に枯葉に埋もれた細い道から辿ります。
屏風岩

この道は何年か前に西側の山田橋から紫合への中間点から栗林を尾根に取り付き大谷山から此処へ下ってきました。今日はその逆コースですので道は判ります。小ピークから少し下って登り直せば大谷山 (228M 3等三角点 AM9:50)山頂にJH3JFF山ランのプレートが一枚。 北への尾根道がハッキリしているので少し辿ってみますが 倒木で歩きづらく猪名川国際カントリー倶楽部へ下ります。これから辿る丸山へも遠くなりそうです。 何よりも急に藪道に突入してしまいますので同じ道を引き返して自然歩道に戻ります。戻ってきた取り付きから反対側の小道から民家手前の小さな貯水池から丸山東鞍部に向って 山道が延びているようです。 鞍部の直ぐ下手の池に出ます。鴨がびっくりして飛び立ちますが池の右手を巻いて 鞍部に着くと今度は此方がビックリする番です。 直ぐ上に建物が見え其処から先はズ〜ット東側一面ゴルフ場(猪名川国際カントリー)の芝です。先ほどの兵庫県自然歩道もこのゴルフ場の中を横切るところが有り六甲のようなフェンス等がないのでプレーヤーに注意する必要が有りました。 丸山に向っては藪でロストボールが随分と落ちています。やっと辿り着いても展望は殆どないノッペリした丸山山頂(217M AM10:30)はシダ類が密生し、捲きながら畑の前へ出てきます。
山頂からは明瞭な道が西を東光寺・木喰上人微笑仏(椎の大木の生木に彫られた子安観音像)

一本松山は北田原からは 何処から眺めても御覧のような富士形を見せてくれます。畑の先から参道のような坂を下って神社に出ます。火の見櫓のある車道に出ると隣に高皇産(たかみむすび)神社と彫った石標が建っています(AM10:50)。此処から5分で大井山東光寺。行基上人開基を伝える古刹で、多田源氏発祥の地だけに、源満仲の祈願所で、大江山鬼退治で知られる嫡子:頼光も戦勝祈願したと伝えます。境内の山門をはいって左の堂内には大木の椎の立木にノミを揮い丹精こめて刻んだ立木観音像?木喰上人の「大井の乳薬師」は是非訪ねてみてください。明治10年代に落雷をうけて枯死したが、 内に納まる観音像の慈愛を湛える母性愛の姿は満身に溢れ、一度拝めば安産の守り本尊として、二度拝めば母乳は欲しいままに、三度拝めば愛児の育ちは、あたかも観音像の如く育つと訪れる者も多く、霊験あらたかなる観音像と次第に伝わり祈願成就の観音様となっています。円空 (1632‐95)も一刀彫で粗削りの簡素化された野性味溢れる仏達も、やはりふしぎな微笑を湛えていますが、TV・写真による荒々しい円空仏イメージは、おなじ微笑仏ながら対比される木喰上人(1718-1810)の仏像は、全国に千躰程の木喰仏が遺されると云われ,此処・山辺郡猪名川町には文化4年(1807)4月から6月まで90歳の晩年に立ち寄った処で、天乳寺・東光寺・阿古谷の毘沙門堂等に26体が遺されているという。
木喰上人(明満仙人)の立木子安観音像

東光寺には14体が現存し全てが県文化財指定を受けているそうです。 木食とは五穀(米・麦・粟・ヒエ・黍)または此れに豆類や蕎麦等を含めた十穀の穀断ちを行い、肉食を断ち・火食をせず、山菜や生の木の実しか口にしない「木食戒」の修行で真言宗の戒律の一つ。 木食行者の木喰上人は甲斐国(山梨県)西八代郡下部町の人で14歳で出家し、45歳の時:真言宗羅漢寺(水戸市)の木食観海から木食戒を受け、木喰行道を称し、安永2年(1773)56歳の時・十の行願【供養・廻国 ・仏心・病見・説法・戒律・真言・念仏・奉経・作仏】を背負って全国廻国の修行に出る。遊行僧となった木喰は76歳で木喰五行菩薩ー89歳で神通光明・木喰明満仙人と、三度改名しています。 木喰上人の微笑仏とされていたものには弟子:木食白道の作も有った様です。「木食戒」の行者「木食上人」と、微笑仏作造の「木喰上人」を区別するため・蛇足ながら書き添えておきます。
 木喰も 悟りてみれば なまざとり にゑたもあれば にへぬのもあり
 念仏に 声をからせど おともなし 弥陀と釈迦とは 昼寝なりけり
 わが心 にごせばにごる すめばすむ すむもにごるも 心なりけり

多くの仏像と歌を残して93才で入定したともいわれているが諸国遍歴の途上で終焉の地は明らかではないとらわれない・こだわらない・飾らない」が木食上人の生き方だったと。東光寺のほど近く県道12号線沿い北にすすむと屏風岩橋。此処から望める
屏風岩は北攝第一の名勝といわれ、寛政9年(1797)秋里湘丸の著した「摂津名所図会」に紹介されます。
屏風岩

俳人・大伴大江丸を始め多くの歌人が訪れたといい、絵巻物等が近くの東光寺に保存されています。永祚年(989)花山法皇(西国霊場巡拝を復興された)も此処に遊ばれたと伝えられ、猪名川渓谷自然公園の清流に高さ約30m・幅約90mの岩壁が屏風のように・そそり立ち見事な景観をつくりだし、川面に姿を映しています。折角の景勝地に無粋なダム・・がと思えたが、左岸の岩場を刳り貫いて潅漑用水路が通され、その為の貯水ダムだった。屏風岩を見ながら北に進むと三草山・篠山方面への車道は千刈ダム・三田方面へ左折して川床川沿いに進み新興住宅地への緑橋を渡り (AM11:25)宅地のカーブ先で谷沿いの山道に入ります。

屏風岩

谷分岐は左の細い石の多い急坂を採りましたが、 古墳らしい岩室が有りますが半ば埋まり荒れ放題の感じです。古墳なら未調査とも思えないが…炭焼窯跡の残る尾根から主尾根に乗ると明確な山道に出た。宅地からの道は直進していれば此処に通じていたのかも知れない?。しかし山道は目指す一本松山には向わず下降し始めますので軽い藪漕ぎで高見を目指して一本松山山頂(4等三角点 301m AM11:55)に着きます。展望は余り良くないが小広い山頂ですので少し移動すれば、今登ってきた丸山〜大谷山、これから行く予定の三蔵山とその先に堂床や高岳辺り迄は見えます。
一本松山

一本松山の左右に在る二つの無名ピークが気になりますが、とりあえず帰りの駄賃に 232ピークを踏んで南田原へ降りようと、下草やシダ類で足元の見えない踏み跡ですが、倒れ具合を覗いながらコースを選んで進みますが良く踏まれたコースで足の感覚でも方向がわかります。梅花の香る畑中の道には土筆が顔を出しています。 東光寺側に戻りマス釣り場の仮板橋を渡って北田原東端の駐車位置へ帰り着きます(PM12:45)。
(木喰上人は現地案内板・Wikipedia等 屏風岩は現地案内板を参照)


V上佐曾利〜木津峠〜今井岳(382m)〜三蔵山(411m)   H13.03.24/H18.07.02

以前に大船山や羽束山への行き帰りで素通りしていた今井岳と三蔵山でしたが、今日はゆっくり登ってみるつもりです。 宝塚市最北部地区の上佐曽利や下佐曾利辺りからは、今井岳の肩から盛り上がるような山容を見せる三蔵山ですが、 二つの山の山頂には嘗て佐曾利氏の居城・三蔵山城(佐曾利城)と今井岳城のあったところで、三蔵山城には金の鳥が翔び立ち・山中鹿之助の埋蔵伝説や、なんと明智光秀の娘と八上城:波多野秀治の息子との悲恋物語まで残りまる)。
下佐曾利バス停付近から正面の今井岳と先鋒の三蔵山

上佐曾利から篠山方面に進み直進する細い林道?に入り3ッつの貯水池を経て峠に出ます(PM1:00)。此処から右へ山道が有りますので、これにのって進みますが又貯水池にぶつかります。池の堤防を廻って右手の谷筋道に入ります。 水が浮き出てぬかるんだ道は今井岳と三蔵山の鞍部に向かっています。この谷も鞍部付近でゴルフボールの白い花が咲いています。 登り詰めるとフェンスも無いゴルフ場の真っ只中。先ず今井岳へと藪と芝の境を歩き始めますとキャディさんから「大丈夫でしたか…?」と声がかかります。どうやら私の通ってきた方にボールが飛んできたようです。「大丈夫ですよ!」と手で合図して彼らの下方を捲いて藪に突入します。 登路は有りませんが右手(北寄り)に細い踏み跡が現れ稜線に出ると明瞭なトレースが出来ています。
上佐曽利会館付近より今井岳(手前)と三蔵山遠望

この山も山頂はなだらかな尾根道が最高地点のある南に続いていくが、今井岳は何処が山頂か判らないほど平坦で、 長い尾根が南北に延びており山頂を示すポイントは何も有りません。近接する今井岳〜三蔵山の尾根沿い南面は、ゴルフ場で分断されておりフエンスの無いグリーンを横目に、恨めしく思いながら尾根筋の雑木藪の中を漕いで進みます。 低山ですが”名うて”の藪山なので「こんな山へは物好きでも来ないだろう?」とゴルフ場境界線にはフエンスもネットもありません。再訪したH18年には其のゴルフ場も荒れ放題で自然のグリーン色に染まっていました。
ゴルフ場跡地?から望む三蔵山


今井岳(382m PM1:45)は雑木林の中で展望はなく、三蔵山だけが木々の間から一際大きく見えるのは朝日国際宝塚カントリー倶楽部の 芝の青さからかも知れません。元の芝生の鞍部に戻って三蔵山への登りはガラリと様子が変り、瓦礫のような小石や露岩が目立つ雑木の奥に細い踏み跡が続きます。 岩がゴロゴロ点在する箇所を越していくと、ここは山城の跡。その気で周囲を見回しながら登っていきますと山頂手前では小さな堀切跡らしき場所を越すと曲輪らしい平坦地があり堀切から回り込むような下方にも藪の中の平坦地が見える。そして今居る此の場所の上が三蔵山山頂 (3等三角点411m PM2:25)の少し切り開かれた平坦地。 雑木で余り展望の利かない北側には至近距離に大船山や羽束山が見えるはずなのですが。
荒れて草原状のゴルフ場内から今井岳(今井岳城址)

三角点から東に下る踏み跡があり南のゴルフ場へ下っていきますが 途中から木津方向に藪漕ぎになっても・・と辿ってみます。直下に急下降は大岩が多く左右にも数mの露岩があります。 余りゴルフ場側に降り過ぎるとゴルフ場を抜け出るのが厄介だな〜・・と思いながら進んでいくと無名ピーク?鞍部に出て、 在るか無きかの踏み跡を辿って谷筋に下りますが、やがてハッキリした道となってきます。 とはいっても倒木と雑木で歩き辛い。途中何箇所か石積み跡を見かける。治山や山仕事用では無さそうですなので搦め手 (裏の登城道)を防護した遺構かと思いたいが?岩場の多い山頂の城さえ石垣遺構が無いので根小屋だったのかな?。 谷のような凹角の道を辿り広い山道を横切れば土木工事現場?横を通って木津〜佐曾利を結ぶ車道(林道)に出て (PM2:50)駐車場所の峠へは20分程で帰り着いた。
三蔵山山頂

上佐曽利会館(公民館)に”ダリア顕彰碑”が建てられている。「何だろう?」今井岳を望む山麓の田圃に数台の軽トラックが停まっている。この宝塚の山里が日本有数のダリアの球根生産地で、昭和初期より副業として生産が始められたという。 花の名所として花期を迎える夏から秋には、大船山登山の後にでも立寄ってみたいものです。


W 石道温泉〜六石山(199m)〜広根    H14.02.24

昨日(2月23日)宝塚北部・ 布見ヶ岳〜竜王山〜天狗松縦走予定で天狗松へ行けなかった為、どうにも寝覚めが悪くてのリベンジ山行です。昨日の山行報告に添付した宝塚の 龍馬神伝説の主人公・源満仲の多田源氏発祥の地多田神社前を北上して猪名川沿いの道は石道温泉に通じます。県道12号線・猪名川渓谷ラインを通り石道口で野尻川沿いに六石山の山裾を西に捲きながら 平地に抜け出た所が広根《国土地理院地形図(5万図・広根)》です。気にも留らない南北に僅か1km程の小さな山塊のほぼ中央部に位置する六石山 (3等三角点)ですが私的に気になる地点にある山です。 猪名川と野尻川で左右を挟まれ中に一本の間道(12号線)が走っています。登り口を石道温泉や石道口バス停付近と思い、此処を通るたび注意していても、なかなか見い出せないものですが、低山徘徊MLで北攝の山に詳しい Y氏のアドバイスもあり石道温泉の向かい、オービックスポーツセンタ入り口(AM8:35)から センタ入り口へ向う車道を登っていくことにします。スポーツセンタ正門!!から先へも車道は続きますが、山に向って広い道が延びていますので此処から取り付きます。小さな山域にしては立派な道が続いていると思ったら案の定、貯水池に出る。 フェンスに沿って細い道が続きそうだが此処からは谷筋になり先で難渋するだろう予感がする。 少し戻って左の稜線に取り付くと藪っぽい荒れた雑木の中に薄いが踏み跡が続いている。展望もない細い尾根筋の前方が 少し明るく広い尾根に変わってくると左前方に祠が見えてきて右下からも山道が延びてきている。(AM8:55)には愛宕神社の札が納めてあった。 石道集落の鳥居マークから此処に続く参道のようです。 この道は尾根続きに主尾根に続き北方へ明確な山道となって降っていく。南へ僅か20m程進むと狭いが切り開きの中央に綺麗な三角点と赤白ポールが建っています。山名プレートなど無い静かな六石山(3等三角点 199m AM9:03)です。 南側の石道側への尾根筋に細い踏み跡が続いてはいますが明確な山道は今辿ってきた北側に延びている一本だけ。広根のガソリンスタンド付近からも取り付き点有との情報を確かめてみたいと北への下降道を辿って見ます。 途中荒れていて倒木等で道を避けたところも在ったが林道まで山道が途切れることは有りません。林道は簡易舗装となり12号・川西篠山線から日生ニュータウンに繋がる車道に出てきます。林道入り口はチェーンゲート (AM9:15)になっていて作業車以外は入れません。このゲートと少し林道の奥に石仏を見かけましたが、此れは上野側から峠越えで猪名川沿いに石道側への道があったようです。北の上野側から六石山を登るならこの林道を使って 取り付くことになりそうですが枝道が多いので間違いなく辿るのは大変ですよ。車道に出ると、ひたすら12号の川西篠山線・広根に向かいます。

12号線と日生ニュータウン方面への交差点(AM9:23)からは車道に出ず、 山沿いに集落内の細い車道を辿って再び12号線に出てきたところに出光のスタンドがあり集落入り口は大きな木がある、広場か資材置き場のようで休みの日なら駐車も出来そうです(AM9:30)。 消防ホース収納の赤いボックスを目印にすれば、其処から木の階段が有り尾根に出ても快適な広い山道が続きますので内心嬉しく感じながら辿りますが・・あぁヤッパリ・・・・には向わず六石山北側の谷に沿うように降っていきます。 結果は降り続けて谷沿いにでも明確な道を探して辿ったほうが正解かもしれません?。踵を返して尾根筋への高みを目指して藪漕ぎです。やっと登り切ったところは六石山の手前ピークです。下った鞍部へは北側からの踏み跡が有りますので、 先程のコースで降り谷沿いに登り直すのが正解かと思う。藪の中の薄い踏み跡を辿って西側から六石山三角点のポール前に飛び出してきます(AM9:45)。三角点の西に2〜3本の松の枯れ木が有りますが、其処へ登りつめました。 さて下山は南への尾根筋ですが足下はシダ類に覆われ分からなくなる所も在りますが概ねは境界標が目印です。下方に車騒が激しく聞こえてくると肝川橋の上部辺りだろうか。踏み跡は見失ってしまっていたが 真南に降って行くと溝状に露岩の続く所(雨が降れば当然谷になるところだが水流が無ければ格好の登山道)を伝い降って石道口バス停の西方100m程の県道12号線に飛び出してきました(AM10:00)。 六石山へは山頂踏んで北へ下り西から再訪して南へ下るЯ形の山行です。
期待していたものは何も発見できません。展望も無く、収穫は誰も登山対照にしない山へ登った奇特さだけでしょうか・・・・



新田城(多田館)  三蔵山城 今井岳城

新田城(多田舘)  xxm   川西市新田   場所不明??未訪

多田源氏の発祥の地として有名な多田神社の東側から、能勢電鉄多田駅の西・R176号を越えて北側一帯が新田地区。この辺りの小高い台地に新田城(にったじょう・多田館)があって、 平安中期に多田源氏の祖多田(源)満仲が康保5年(968)〜天禄元年(970)頃に朝廷の守護と藤原氏の荘園を警護の為、此処・多田の地に居館を構えて開発の拠点とし、摂津や有馬郡(現・三田市辺りまで!!)へと勢力を拡大していった重要な処です。 多田氏の勢力拡大により、一族や御家人達によって周辺には多くの城や砦「多田の四十八砦」が築かれいきます。やがては同族の多田院御家人衆の筆頭として多田や能勢に勢力を張っていた山下城主(一蔵城)塩川氏と隣の能勢地方を支配した丸山城主・能勢氏の台頭で、北摂の御家人達は両氏いずれかに従って争う事になります。
参考:丸山城にある「源満仲碑」

塩川氏と能勢氏の合戦は丸山城(能勢氏)・山下城 (塩川氏)に少し触れていますので参照してください。猪名川が西から南へ湾曲して流れ、川沿いは崖となって天然の要害を形成している多田神社の位置が城・館としても適地と思われるのですが ・・・・(^^ヾ目前の猪名川の流れはそのまま攝津池田から尼崎へと川路が通じ、難波への海路も開けます。東の現・R176号線は能勢・妙見山へ、摂津・池田へ、丹波・亀岡や篠山へ陸路が通じる交通の要衝です。 それに周辺には銀や銅の鉱山もあり殊に多田銀銅山は天平年間(729-48)の東大寺大仏建立の為多く使用され、天正期・秀吉の直轄ともなった大鉱山もあり、経済的にも有利な処です。 野間城と共に能勢三城の一つとさえいわれるのに場所さえ分からず今回退散の新田城でした。多田院に近い塩川氏側ではなく、ズッと北にある妙見山の西裾・能勢氏の野間・丸山城の南側に、多田源氏の祖源満仲の碑があって 九重塔や五輪塔が祀られます。能勢氏は長元年間(1028〜37)源頼光の子源頼国が入部して能勢氏を名乗って丸山城を築城し、以来能勢支配の中心となっていました。源頼光は言わずと知れた大江山鬼退治のヒーローです。
●新田城についてはYORIさんのレポートがあります。


三蔵山城(佐曾利城・三蔵城・林田城)   三蔵山 411m   宝塚市下佐曾利

此処にも有った金の鳥伝説・埋蔵金伝説・竹の皮作戦で落城した話

JR新三田駅から R176号を越えて有馬富士公園前を過ぎ、県道68号を東へ走ります。羽束山裾から千刈貯水池を通り、三田市から宝塚市最北部の上佐曽利に向います。県道319号と県道323号が交差する上佐曽利会館からは、これから向う今井岳と三蔵山の二つの山(今回は城巡りの為、二つの山城)を望みながら、木津峠を目指します。峠といっても此処から約150m程か西へは来た道を三田へ、南へは宝塚市と西宮市境のJR武田尾方面。北へは向う木津峠への手前から篠山市へ通じ、 林道然とした木津峠道は猪名川町木津へ下る。辺鄙な北辺の地ながら、攝津・丹波・能勢・さらには京・大阪へ通じる要衝に接して、街道警護・監視・守備にあたった城砦の一つです。
三蔵山城西尾根筋:堀切20m程下方の石積
(岩の多い山城なのに石垣遺構は此処だけ?)


三蔵山麓には千本鉱山 (銀山)があり山中氏が支配していた頃の話が埋蔵伝説と結びついているようなので、根拠の無い話ではなさそうですよ!!金の鳥が翔び立つ山の話も埋蔵金伝説と関連があると思いますが、多田源氏と銀山と金の鶏伝説が山下城 (一庫ダムの南)にも残っている事は興味深い。今度・妙見山や剣尾山への途中に山下城に寄ってみようと思っています。豊臣秀吉の多田銀山開発で此処にあった三蔵寺や金山彦神社も銀山へ移転したということです。
露岩を切岸とした堀切から帯曲輪への入口部

三蔵山(411m)とその南東部(373m)の山頂に郭が配置され両城(三蔵山城は一城二郭の城かも ?!!)は尾根続きではあるがその間は深く落ち込み尾根筋も幅僅かに3m程しかなく、両城が連携して防備機能を果たすことが出来るようになっていた。築城時期は尼子氏が千本銀山(宝塚市)を領有していた時、家臣の山中氏が築城したとされています。千本銀山の争奪戦で山中鹿之助幸盛の弟(?)が三蔵城主の時、立て篭もっていましたが丹波八上城主波多野氏の攻撃に、 竹の皮を集めて山に敷きましたので攻め上がろうとしても足をとられて滑り落ちます。しかし竹の皮だとわかると其れに火をかけた為、火の手は城をめがけて燃え上がり、
三蔵山城:西の堀切道から帯曲輪へ(本郭から)

あっけなく落城の憂き目をみるお決まりのお話です。また、山中氏が滅びた後は新興の波多野氏 (篠山・八上城主)が治めています。猪名川町に民話が伝わります。悲恋物語!! 明智光秀の娘・佐保姫は後添いの母と 折り合いが悪く八上城主・波多野秀治の好意で三蔵山城に分かれて住んでいましたが、いつしか秀治の息子・貞行とは許婚(いいなづけ)の仲になっていました。しかし織田信長の丹波侵攻を明智光秀に命じ八上城攻略にかかります。なかなか落城しない為、光秀が母を人質に和睦し波多野秀治を誘き出した話は既にご存知ですネ。この戦いによって泣く泣く別れた佐保姫は猪名川に身を投げたという。
三蔵山城址南東側の自然の石垣 (上部は曲輪か?)

其れより地名を佐保姫・入水したところを姫ヶ淵と呼ばれるようになったという。しかし又・父を謀殺された貞行は怒り光秀の母を殺して 三蔵山城をも攻めて佐保姫も殺されたと…!。城主・秀治をなくした八上城は光秀に攻め落とされ千本銀山は波多野氏から明智光秀の支配地に変ります。竹の皮落城・佐保姫伝説はともかくとしても、遺構からは尼子氏の後、三蔵山山頂部の城を天正年間(1573-92)改修して佐曾利筑前守一代が使用した山城だったようですが、三蔵山東南ピークの曲輪遺構や今井岳城が三蔵城の出城や支城であったか等は不明です?。筑前守は能勢氏と常に行動を共にしており天正7年(1579)4月、有岡城(伊丹城)の荒木村重が織田信長に叛して有岡城に立て篭もった際には、村重に同調した能勢氏等北攝諸城の領主と共に三蔵山城に立て篭もります。信長の嫡子信忠、弟信澄を総大将として、当初は村重と信長に敵対した中川清秀をはじめ、筒井順慶・丹羽秀長・蜂谷頼隆等総勢15000が北攝諸城の掃討に向います。
三蔵山城:南側に二段の曲輪

北攝では宿命のライバルとして常に対峙していた塩川氏は 当初より織田方に付いて能勢氏を攻めます。三蔵城に篭もった佐曾利筑前守も、能勢氏に付いた味方の城が次々と開城するのを見て、講和の為・子の六之丞(のち四郎兵衛)重元を名代として先鋒:中川清秀の陣に伺候させて降伏します。清秀は池田勝正(池田城)に仕え信長上洛の際:荒木村重・高山右近等と信長に従い、天正11年(1583)賤ヶ岳で高山右近等と大岩山砦を守って、柴田勝家軍と戦い討死しています。其の後の佐曾利氏は中川氏の家臣として長く仕えたといいます。三蔵城の廃城時期は不明ですが、天正13年(1585)9月・中川秀政(清秀の子)が三木に移封となっており、此れ以後・廃城となったのでしょう。


今井岳城   今井岳 373m   宝塚市下佐曾利

今井岳城の城主や築城時期等の城史全般について不明(未調査)です。 城については猪名川郡志や宝塚市史に触れられていると思われますが、市史や郡誌に目を通す機会が未だない…。三蔵山から尾根続き東西方約1kmと指呼の間に有って西は攝津三田へ、南へは宝塚市と西宮市境のJR武田尾方面。 山麓の北を篠山方面や東へは木津峠を越えて猪名川町木津へ下る。辺鄙な北辺の地に有りながら、攝津・丹波・能勢・さらには京 ・大阪へ通じる要衝に接して、二つの隣り合う山城が街道警護・監視 ・守備にあたっていたのでしょう。今井岳城が一城別郭とも三蔵城の出城とも思えます。二つの城は縄張りが異なるので、築城時期や築城者等が違っていた可能性もあるようですがどうだろう?。宝塚市と大阪・川辺郡猪名川町・県境尾根に立つ二つの城には、勢力を競う佐曽利氏の他にも在地領主がいたものか?。
今井岳山頂は主郭?堀切の横

上記の山レポートそのU今井岳〜三蔵山の添付画像でも判る様に、何処が山頂なのか緩やかな尾根上の、 自然地形の平坦地に長い曲輪を並べ、途中には尾根端まで充分に掘り切られていない低い堀切が稜上北端の曲輪部と、南側の主郭部両端に有るが城域や曲輪を区分する為の堀切の様で?とても事あるごとに争っていた塩川氏と 能勢氏の時代に城では無さそうです。その意味からすれば、国境を違える今井岳城は塩川・能勢両勢力とは領地を異にする宝塚・三田側の領主の城だったか?。多田源氏所縁の古城なのかも・・・?。山城と意識していないと、 曲輪の段差(切岸とも呼べない低いもの)や尾根を遮断しているとも思えない浅い堀切に、気付く事は無いのかも!。高くもなく・展望も無い藪山に登山対象として訪れる人も稀な今井岳城ですが、 数多い城関連Web等での城リストにも書き加えられていない超マイナーな山城です。伝説の残る向かいの三蔵山城さえ城史は良くわかっていませんので、此の今井岳城についての調査等は参考資料を目にする事もない素人には絶望的です・・・ ?
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