丹州街道の山城U 山田城/チンジンさん〜竜王山〜三草山
大阪 北攝 (五万図=広根)
丑ノ子林道〜チンジンさん〜宮峠〜竜王山〜才ノ神〜三草山〜神山 H14.06.23

下所の豊能自然歩道から三草山

干支の山 :竜王山  敏馬山(三草山の古名)       
近畿の山城 山田城(亀ノ屋城) 垂水城


北攝の名山 ・剣尾山と同じ能勢町にあって兵庫県との県境に位置する三草山(564m)へは長谷の美濃谷か上所から「才ノ神峠」経由で登ります。 最近は!!?神山から「ゼフィルスの森」経由の快適登山道も出来ています。何処からも見つけやすいドーム型の山容の三草山は古名を美奴売(みぬめ)山と読み、
才ノ神峠は三草山の登山口

敏馬山とも書かれており、 三草山におられた敏馬神をお奉まつりした敏馬神社が、神戸市灘区岩屋にあって、 境内には能勢郡美奴売山より遷ってきたことが書き記された「摂津風土記」の逸文の碑があります。そんな此処、 今西・森上・宿野界隈は能勢から丹波篠山(福住)へ抜ける 丹州街道や池田を結ぶ能勢街道が通じ池田へは亀岡からの池田街道や有馬街道が通じていて古来から歴史ある交通の要衝です
山田城の曲輪を囲む土塁壁(手前は西面の虎口)

三草山の登山口になっている 能勢町長谷と猪名川町仁部へ越す才ノ神峠は6辻?になっていて 道中の安全祈願の地蔵尊や庚申塔などが建っており、 寛文11年(1671)8月桐谷銘の道標には「谷道は有馬道 左は池田道・・」とあります。 灘区の敏馬神社を思えば有馬温泉の有馬とも結ぶ付けたくなりますが、当時の有馬郡は現在の三田市も含まれますので、宝塚〜三田への主要な街道だったようです。 平清盛に捕らえられ兵庫港築港の人柱になろうとしていた父の命を救うために 「名月姫」が兵庫に向った話や、灘区〜有馬(六甲・魚屋道)越え〜三田〜猪名川町〜此処・才ノ神峠へと結びつければ敏馬神社の話も面白くまとまりそうですね。


丑ノ子林道〜チンジンさん〜宮峠〜竜王山〜才ノ神〜三草山〜神山(こやま) 2002.06.23

能勢の森上周辺の山城剣尾山登山の際にも 2〜3寄って見たのですが、未だ残された幾つかに寄るつもりです。先ず三草山に向う前に山田城への登路探で、何とか山田川の下所付近から城址を往復します。 城址からは、このまま尾根通しに牛ノ子〜宮峠〜竜王山へ二つの干支の山を辿ってみようと思いましたが・・・どうも山容が ハッキリつかめないので先へ行くのをあきらめ戻ります。下所からは豊能 (大阪環状)自然歩道を日本の棚田100選に選ばれている長谷(ながたに)に向います。
長谷の棚田

田園の拡がる集落の南一面にはドームのような三草山の姿が、 そして山裾にかけて棚田風景が開けてきます。長谷の上所から右手に鋭角に曲がって狭い集落内の道が三草山登山口となる才ノ神を経て猪名川町の仁部へ続きます。長谷の棚田の展望も楽しめるコースですが、ズッと手前の北所から 「林道丑ノ子線」に入って八坂神社(牛頭大王)を過ぎて林道分岐に出る。左への「金井道場跡」の石標が建っていて宮峠や牛ノ子山へダイレクトに続いているようですが右手上へ延びる林道が気になり辿ります。実は山田城址と点名:向所 (チンジンさん)の間の谷が垂水集落から延びているので、此処から牛ノ子山を目指すつもりでしたので軌道修正のつもりです。 明確な山道が続き途中黒い水面を光らせる貯水池側を通り2〜3分で峠に着く。垂水集落へ降る道のようですが良く利用されているようです。
チンジンさん(点名:向所)山頂


峠から左右の稜線も明確なので先ず点名:向所の三角点へ向ってみます。山道は尾根を捲くように続きますが途中からあやしくなり始めますが、 右手の白テープが上方に向かい峠から3分程でチンジンさん(4等三角点 点名:向所341m!(334m?))に出てきます。山頂付近は平坦ですが桧の植林帯のなかでは展望も無く殺風景なところなので早々に峠の鞍部に引き返して 牛ノ子山への尾根を辿る事にします。峠からの道は、二つばかりのコブを越す辺り迄明瞭に続きますが、段々踏み跡も藪っぽくなってきます。最後まで稜線を辿れば、もう少しの所??で目的の丑ノ子山のピークでしたが、何を血迷ったか!!??そのまま直進して谷筋へ少し下ってしまいオフコース。後で地図を見直したら頂上通過していたかも知れない!!??僅かのところから 宮峠〜中山峠を結ぶ明瞭な道に出てきました。結局 をワザワザ迂回して山腹を捲いて宮峠です。仕方がないので今度、堂床山を取り込んでの牛ノ子山詣でを考えます・・・(^^; 此処から竜王山へは過去に1〜2度通っており 竜王山から先は藪で才ノ神峠を諦めていたが、今回は三草山までの縦走を実践します。
竜王山山頂の八大竜王社

尾根筋も明るくなり疎林の中に露岩が目立ち始めると竜王山も近い。5m程の切立った大岩の上方に八大竜王を祀る祠が見えます。山頂はこの岩を回り込んで寄り添う隣の岩の頭上が竜王山 (570m)山頂です。 2〜3のプレートが木に掛けてありますが 展望は西面に堂床山が望める程度、休むには手頃の岩場もありますが狭い所なので2〜3人も腰を掛ければ満席です。竜王山から才ノ神へは以前は藪の中で判り辛いルートでしたが案に反して最近はトレースする人も多くて良くなってます!!。 露岩の間に道を拾いながら、檜や杉の植林帯の広い尾根の下降では尾根筋を違えてしまいそうです、 テープと踏み跡の御蔭で難なくクリア「林道裏山線」の栗林に出てきます。
才の神峠

才ノ神峠から竜王山を南から巻くようにして堂床山の東鞍部に向かう ダートな地道は以前からオフロードバイクやMTBツァーの人気コースのようで、ぬかるんだ道に深い轍を残しタイヤ痕が続いています。 この林道を西に辿って堂床山に登った事もあるが何処をどう辿ったかは思い出せないが宮峠と堂床山の間の林道を 中山峠に抜けた事を確かです!!「林道裏山線」を東に採って、数多くの歴史を秘めて石仏の佇む才の神峠に着きます。 「谷道は有馬道・・・・」が印象に残る道標に神戸に向った「名月姫」や神功皇后「三韓遠征」の故事が、また南北朝期や天正期の合戦等、 交通の主要街道であった事が説明板からも再認識出来ます。多くの道が交差する才ノ神峠ですがバイク侵入禁止ゲートと木の階段が続く道が三草山へ続きます。疎林が山頂を取り巻く広く平坦な芝生の中の三角点が、変わらぬ姿で迎えてくれます。
点名:向所(4等 335m)近くには才ノ神峠を監視の 垂水城が在る
だいぶあか抜けた姿になったかも。三草山 (3等三角点 564m 古名:美奴売山)からの展望は東面に拡がって、 名月峠の竜王山の奥に歌垣山〜妙見奥の院〜妙見山 ・鴻応山や同定出来ないが箕面〜五月山や六甲の山塊へと青垣の山々の展望が拡がります。山頂の周辺案内図を見ていたら、寄って見たい所が出てきたので稜線伝いに「三草山ゼフィルスの森」経由で神山(こやま)へ降る事にした。 このコースは大阪環状自然歩道に沿ってのハイキングコースが神山へと辿ります。神山から駐車地点の上所へは「長谷の棚田」の中央部を裂く様に集落内を通る車道が通っています。今は水を張った水田の棚田が、最高に美しい時期ですので、 長谷の棚田を見ながらの周回も楽しみのコースです。 秋の狩入れの頃もまた違った景観が楽しめます。上所から次の目的地に向って移動を始めた頃、ポツリときた。取り付き予定地点に近くなった頃大降りとなったので今日の予定は未だ早いが諦めて 上阿古谷を一庫ダムへ抜けて帰途に着いた。雨は直ぐ止んだけれど。


長谷(ながたに)の棚田
ドーム状の三草山の姿に合わせた様に長谷の棚田は美しい曲線美を見せて四季折々の景観を裾野に広げて、美しい日本の農村の原風景を眼前に 展開してその景観を堪能させてくれます。日本の棚田100選には全国の棚田(千枚田)から優れた棚田が認定され、大阪では下赤阪棚田(千早赤阪村 )の2件が有ります。
長谷・土井所付近からの棚田

下赤坂棚田は山頂に楠木正成所縁の「下赤阪城跡」が有り、 ここからの眺めは歴史を感じさせますが、いずこも同じで過疎化や高齢化等の原因によって耕作が放棄され危機的な状況から、棚田の保全・都市住民との交流のために、 ボランテイアや棚田オーナー制度により、米作り体験を呼びかけ、集落の農家からの農作業の指導、田植え後の維持管理などの協力で美しい原風景と伝統・文化の継承等が図られているのが現状です。
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三草山ゼフィルスの森は大阪府自然環境保全条例により、野生動植物保護地区に指定されており 「財団法人大阪みどりのトラスト協会」の管理でゼフィルス(ミドリシジミ類の蝶)を保護する森づくりをおこなっている。 昭和40年代にシジミ蝶の生息が発見されその保護育成の為、 立木の買取やボランティアによる植樹・下草狩・ツル切りや巡視による山火事防止・ゴミの持ち帰り・植物採集等に注意を呼びかけ、お互いに山のモラルを高め合い森の妖精「ゼフィルス 」の舞う秀麗な森を目指して
三草山山頂

いきたいというのが主旨です。 ゼフィルスはラテン語の"そよ風"西風の精ゼフュロス"が語源のシジミチョウは我国に24〜5種類いて、夫々に美しく豪華な輝きは「空飛ぶ宝石」「森の妖精」と呼ばれます。丁度今・梅雨の後先が孵化する頃だそうですので、 夕日を受けて輝きながら樹木の間を飛ぶ姿を見てみたいものです。

三草山と清山寺跡
推古朝の頃、白髪の老翁が三草を手に現れたが、たちまち三草は千手観音・不動明王 ・毘沙門天に化身したので 堂舎を建て勧進したといいます。日羅上人の開創と伝えられる清山寺ですが元亀2年(1571)に織田信長の川辺・能勢・有馬郡下の諸寺の焼き払いの命を受けた織田信澄の侵入の兵火で焼失し、 跡地は頂上近くに見ることが出来ます。三草山清山寺には四十九院の堂宇があったといい、その一坊に自雲庵という宿坊がありそれが現在の慈眼寺で、山頂に残された観音堂、大大宝篋印塔は山麓の能勢町神山(こやま)の曹洞宗 ・放光山慈眼寺に移され、御本尊(千手観音)は観音堂として、今でも地元の人々に手厚く奉られています。


三草山清山寺が舞台の北攝のお話

昔、三草山に清山寺があった頃の話です。能勢の庄屋さんが自分の持ち山の木が、よく盜み採られるので見回っていると、 奥から人影が近づいてくるので岩影に隠れよく見ると"医者の道越"なので驚きます。まさか道越様ともあろうお方が ・・と思っていたのですが翌日、山番が駆け込んできて「庄屋様、また杉の林が一山ごっそり採られてしまいました」・・・しかもその山は昨日、道越が歩いていた山なので庄屋はテッキリ道越に違いないと決めて、直ぐに道越を訴えました。
長谷の棚田

道越は「私は決して人の木など採りません。 山を歩いていたのは薬にする草や木を探しに歩いていたのです。」と説明しても、役人は「そんなことを言って逃げるつもりやろ。どうしてもそうやと言うのなら本当の盗人を捕えるまで牢屋に入っとれ。もし誰も捕えられなかったら、 やっぱりお前さんに違いないからな」と言って道越を牢屋へ入れてしまいます。道越の家には一人娘がいましたが、お父さんのことを思うと悲しくてなりません。ちょうど夏でしたが、 娘は自分だけが蚊帳の中で寝ていては父に悪い気がして 蚊帳も吊らないで寝ます。そのうちに夏は過ぎ秋になり、 冬になってもお父さんは帰ってきません。こうなったうえは、 観音様におすがりするより仕方がないと神山 (こやま)という山にある千手観音様へ三七(21日間)日の願を掛けることにしました。
山田城垂水側から望む三草山(右端)

能勢の冬は寒くて体がそのまま土に凍り付いてしまいそうです。娘はその凍り付くような冬の夜更けを毎晩、高い石段を昇り願を掛けました。そして満願の二十一日の最後の晩になります。 「今日で満願・どうか、お父様の罪が晴れますように」一心に心の中で祈りながら、石段の下まで行って、ふと見上げると石段の途中に、 大きなオオカミが目を光らせて娘を見下ろしています。娘は腰を抜かすほど驚きましたが、今日のお願いをせねば今まで二十日間の、お願いしたことが無駄になります。決心した娘は、目をつむり観音経を唱えながら一段一段と石段を登っていったのです。 すると無事に観音堂の前に辿り着いたので目を開くとオオカミはもういません。
土塁が四方を囲こう山田城の曲輪

娘は夢かと喜んで「どうか、お父様が無実であります様に」と、観音様にお願い致しました。その頃、獄中の道越の足を縛っていた鎖が手も触れないのにプッリと切れたので驚き 「これはきっとわしが無実であることが、天に届いたのに違いない」とそう思ったのです。そして間もなく本当の盗人が捕まって、道越は許され家に帰されます。こうして道越の家には再び、 一家揃って楽しい月日を送ることができるようになったのです。


 :山田城 垂水城


山田城(亀ノ屋城)   xxx 370m  豊能郡能勢町山田

R173号(能勢街道)の「栗栖交差点」で西の府道602号に入り岐尼神社を過ぎる。 栗栖は能勢の山城群の真っ只中に立っている事が実感出来る位置。東北に北摂最大規模の 山辺城、東に栗栖城・片山城。西は直ぐ側に森上・今西 ・浮ノ城・山田城 ・垂水城、南には上杉・上杉下所・三草山の諸城が控えており能勢と丹波・摂津を繋ぐ丹州街道
下所からの山田城(亀ノ屋城)

(池田街道・能勢街道)の国境に近い要衝の地。岐尼神社は背後には天文18年 (1549)森上城主:能勢小重郎が此の地の郷士「西郷衆」等と篭り、侵攻してきた多田城・山下城の塩川氏と対峙した 枳根(岐尼)ノ宮合戦に西郷衆として山田城主山田帯刀が参戦しています。また「能勢騒動」の舞台ともなった処。 浮峠からの豊能(大阪環状)自然歩道が交差する垂水(浮ノ城が在る)を過ぎると山田の集落で
山田城副郭(西郭東北角)の枡形虎口

南西方向の田畑や集落に囲まれた形の良い小山が山田氏の亀ノ屋城(山田城)です。山田城は府道602号沿いに流れる山田川の南側丘陵上に在って、能勢町山田と垂水集落の境界を西から東へ延び出す尾根先端が 神宮神社の北背後へ落ち込む付近の丘陵上に在る。南方には”枳根(岐尼)ノ宮合戦”に塩川氏が布陣し合戦場 (かせんば)ともなった?と思える長谷川が流れる。
垂水側の取付点付近の高い段差 ・広い平坦地形の3段程は居館跡?

府道602号から山田川を西に渡り取付きを探して先ず車道を半周しますが 藪と壁!!で侵攻出来そうなところが見つからず、自然歩道を三草山に向い山田の下所(しもんじょ)山裾を進むと、一本の山道を見つけてそれを辿りますが10数mと進まないうちに小さな古い墓地に行き当たります。 此処から藪漕ぎて進むつもりです。
主郭(東郭)の帯曲輪沿いに折れを伴う高土塁を廻す

墓石を抱くようにして 裏手の藪に入り込むと稜線通しにはアッサリ出られ細い踏み跡も山頂まで続いている。右方には剣尾山 ・左には三草山と長谷の棚田が其処に有り、展望さえ良ければ申し分ない低山なのですが・・鞍部には二本の塔婆が残る墓地跡が残されていますが、天正期の戦闘での供養塔でしょうか!!。
主郭・副郭を分ける大堀切底から主郭北東角の土塁虎口を望む

再訪では地区内の車道を直進した新宮神社 ・垂水公民館に駐車スペースも有り、神社に看板標識もある右手の古民家料理の店からも入っては行けそうですが、 神社西から直進する車道が大日堂前を通り、貯水池の下で左へ曲がり林道となる坂道下に2-3体の石仏を置く祠が有り、幅狭い林道の直線上りになる右手に栗林や山林作業用の細い道を採る。
主曲輪(東郭)南西角の土塁側に石積井戸が遺る

取付き点は林道先の貯水池先の右手・休作田か段々畑か・緩斜面を山田城の在る丘陵に向かう道もある。 なを直進する林道の先には垂水城も在ります。林道への入口となる大きく屈曲する貯水池手前のコーナー前から直ぐ右手への踏み跡は切岸も高く・平坦地形は広いが栗林でもない3段程の曲輪?状は、南山麓にあって居館跡とすれば此処に在って不自然ではない絶好の位置に思えてきます。
主郭(東郭)堀切側の大土塁

しばらく急斜面を登り、丘陵上部が見えてくる。 以前は東先端からトレースし山頂近くになって3〜4m程の切岸を落とす曲輪に着くまで 城址の遺構は何も無く一寸不安になりかけ、 墓地の取付きから10分程度で登ってきたようです。堀切を介して西にも同様の郭が有るが此の東郭が主郭で、曲輪切岸下を南西へと帯曲輪が捲く。
副郭(西郭)東北角・屈曲する土塁の枡形虎口

主郭(西郭)は三方を高さ1m程・幅1-2m程の土塁と西北の副郭間の堀切側には分厚く高い大土塁を築いて四方を囲む。 広い曲輪内に段差を付けて高くなる二段程の曲輪と、大土塁を背にする最奥の低段差だが主曲輪部の遺構も顕著に残る。 主曲輪南西端の大土塁コーナー部付近には石組み井戸跡が、北東角部には土塁虎口が開いて、東西郭を仕切る大堀切底を経て西郭に入る。西郭へは曲輪北端の切岸沿いに直上する通路が
副郭(西郭):北西端の堀切と並走する竪堀

そのまま平入りかと思えた登城道は、 土塁沿いの道は曲輪の内角へと屈曲しながら延びる枡形虎口を形成して、侵入者に対する”横矢掛り”を可能にしています!!?。 尾根側の最高所にある西郭は副郭の様ですが、主郭同様に周囲は土塁で廻らされ一段下の曲輪の南西隅には此処だけ石組みの遺構が残る井戸跡がありました。
副郭(西郭)の西面:食違い虎口形状!?

平安時代:治安2年頃(1022)山田御亀屋の城主・多田(源)出羽守満政の五男山田刑部大輔(源)忠国が築城して居城し、 北ノ丸には兄忠重が在住したと云う。時代的には現状と大きく異なると思うが、 主要郭は中央の大堀切を挟んで向合う側と 南面にも土塁虎口が設けられ・其々が広い単郭(東面には折れを伴う土塁)を廻らした東西二郭で構成されます。「大阪府全志」に三田三之丞景明が居城し
主郭(東郭)東端の折れを伴う(横矢掛け)土塁が下段の帯曲輪を狙う!!

文明9年 (1477)没落したとしていると云う!!?。天正年間(1573〜92)には 城主山田清左衛門景明・景村の守備する山田城が落城したといわれます。天正6年(1578)織田信長に離叛した荒木村重に付いた丸山城主能勢ョ道や能勢氏の付いた西郷衆は翌天正7年の織田信長による摂津攻め :織田信澄・塩川伯耆守国満の連合軍により、抵抗するが大軍を前に敗れ、西郷衆の多くは討死し山辺城・森上城・山田城は悉く落城し、残った西郷衆も帰農して終焉を迎えたとされ、この時の落城なのか?。


垂水城   xxx 350m  豊能郡能勢町垂水

猪名川町に通じる山田川沿いの府道602号線で、 先日寄った浮ノ城へのルートからか、岐尼神社から上杉を経て猪名川町 (丹州街道・池田街道)に向かう府道603号に入って直ぐ 枳根ノ宮合戦に敗退した塩川氏方の慰霊塚(多田塚)のある稲地地区と垂水地区の間を流れる長谷川(上流に長谷の棚田が拡がる)沿いを進んで直ぐ、北方の垂水の集落を目指して地区道を新宮神社・垂水公民館に進む。駐車スペースも確保出来るので此処から右手丘陵上の山田城を併せて訪城するスタート地点としては便利です。
点名:向所と垂水城間の堀切状 ?

神社の西側から直進する地区道正面には 高石垣積みの大日堂が建つ。大日堂前を通り・ 貯水池の下で左へ曲がる林道(しばらくは農道)となる。山田城へは此処から直ぐ丘陵側に取り付いたが、 左方に貯水池を二つ見て此処から愈々林道・・・となる入口手前の右手方に果樹園・段々畑が拡がり、丘陵山間に向かう山道もある。 此の地点が山田城への最短訪城ルートとなっているようだ?。幅狭いが簡易舗装の林道はなをも続き、林道が左右に二分する地点がある。
竪堀状?の先の藪地を登り抜ければ垂水城

山田城から北西へ延びる丘陵の尾根続き鞍部に乗る右寄りを直進した方が良いらしい?、が左に採ると墓地に出た。 此の墓地背後を直登すれば比高約30m程で、垂水城主郭部の南東角曲輪に入る。墓地の先で林道は消え湾曲する登り坂が尾根を遮断する切通し状の山道になる。 深い堀切を思わせる鞍部を西に出ると25X40m程の平坦地形(栗林?)に出るが西端は土塁状、 その先は谷に落ち込む隔離された空間が有る。
垂水城主郭

斜面を登り南尾根伝いには広く長い緩斜面が続いて4等三角点(点名:向所335m)に着く。北への尾根筋に沿っては、先端を堀切(切通し)の上に落とす ・深い竪堀状の溝が暫く続くが 谷に面した尾根端の溝は木材搬送用としては短く、溝は突然急斜面の藪地の前で消え、踏み跡も無いので嘗て使用された山道でも無さそう。直ぐ斜面上方10m程で城域の曲輪に入る地点だが、 堀切状や竪堀状は現状の城遺構からみて無関係?。堀底を抜け出た南山麓の栗林?の現状は隠れ砦の居館跡と見ても不自然ではない絶好の位置に思えたが、 垂水城の縄張りからは単独の城とも見えず、
垂水城:浅い土橋付き堀切

山田城の南方に位置して 長谷と長谷川を見下ろせる位置にあり、川西市の山下城から猪名川町の 屏風岩を経て木津から槻並・仁部を通り三草山麓の才ノ神峠を長谷に抜けてくる間道は、 寛文11年(1671)8月桐谷銘の道標には「谷道は有馬道 左は池田道・・」とあり、監視に当たった山田城の砦城だったか?。此のルートなら古代から利用されていたようですが、丹州街道・妙見街道筋(府道603号・R173号)に能勢の諸城が控える領内を通らず、峠迄は塩川氏の領地、才の神峠を越えても長谷城以外に能勢氏勢の城はなく?、山田城・今西 ・森上城とは長谷川を挟んで対峙する。
北斜面側に切岸を見せる二段程の曲輪

塩川氏が枳根ノ宮合戦に侵攻したルートと思われます!!??。尾根沿いの竪堀が切れた先の藪斜面を直上して2段の平坦地形(段差1m足らず)を見て尾根幅20mX長さ30m程の平坦な尾根上に出る。此処が城址かと ?疑問に思いながら西へ進むと、埋もれかけているが辛うじて溝状が確認で来る堀切を見た。高低差も少なく緩衝帯の様な藪の先に延びる平坦尾根を区分する程度だが、低土塁と土橋付き堀切が遺構としては確認出来る。

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