丹州街道の山城を訪ねてV 上杉城・片山城(塩山)/野間城〜高岳山/野間の大欅 他
北攝大阪(五万図=広根)
点名:上杉・片山城(塩山)/野間氏居館〜野間城〜高岳山 2003年04月13日
篠山福住〜天王峠〜天王吉良居館 〜はらがたわ峠〜能勢の里 2006年06月17日

近畿の山城 :吉良居館 上杉城(槻並城) 片山城
       野間屋敷・野間居館・野間城
野間中城
上杉から三草山と竜王山・下方は神山集落へ

篠山市から福住でR173号線(綾部舞鶴街道)に合流しR372号(京街道)を見送ってR173号(能勢街道 )を栗栖・森上へと降りて来ます。既に森上周辺の山城巡りのレポートは3回目ですが、此れまでに漏れた山城が有り追加していきます。R173号線の汐の湯温泉附近、 山田川を挟んで対峙する上杉城と片山城、 帰路に能勢の妙見山を目指せば以前・地黄陣屋や丸山城に寄った際に素通りした野間氏発祥の地に野間城を訪ねます。


上杉城・片山城・野間居館〜野間城〜高岳山(点名:野間)  2003.04.13

休日の一庫ダム(知明湖 )周辺の喧騒を避けてR173号線の民田トンネルを出て、上阿古谷経由で上杉へ向う。 谷間に静かな山村の風景が拡がり、上杉集落の出口!!?はヘアピンカーブで峠を越え森上へ抜けますが、このカーブに"猪肉有り・・XX牧場"の看板があり谷の奥・正面に立派に城址風情の!!小山が見えます。
上杉城と間違えた!!・ゼフィルスの森

集落奥から林道に入るところには 五輪塔が並ぶ古い墓地が有り、確信を持って山に向かったが山頂の様子が違う?。 しかし山頂附近は植林も伐採されていて展望よく大きな露岩を隔てて見える尾根続きの点名上杉(4等三角点419m)へも行ってみます。 山城址と思って登った山頂からは僅か100m程西北へ下った所が神山集落や、 上杉・上阿古谷集落から三草山へ続く分岐点になっていて「三草山ゼフィルスの森」の看板・道標が目立つハイキングコースがあった。
上杉城と思った山頂から南側の三角点峰・上杉を望む

三草山ゼフィルスの森 大阪府自然環境保全条例により、野生動植物保護地区に指定されており「財団法人大阪みどりのトラスト協会」の管理でゼフィルス(ミドリシジミ類の蝶)を保護する森づくりが行われており、昭和40年代にシジミ蝶の生息が発見されその保護育成の為、立木の買取やボランティアによる植樹・
てっきり上杉の城山かと思ったが…!!?

下草狩・ツル切りや巡視による山火事防止 ・ゴミの持ち帰り ・植物採集等に注意を呼びかけ、お互いに山のモラルを高め合い森の妖精 「ゼフィルス」の舞う 秀麗な森を目指していきたいというのが主旨です。上杉から引き返し北端の峰へも寄ったが 城址探しは 此処までで再度出直しです。此の北端の峰の鞍部は上杉と神山の集落を結ぶ峠道です。
上杉からは三つの街道が交錯した交通の要衝・森上へ下ります。森上はこの山城巡りの中心地・PARTTでレポートしていますので、この折見残した片山城 から妙見山方面に向かいます。上杉城主郭北の大堀切

R477号線の妙見山ケーブル前は今年最後の絶好の花見日和・多くの観光客や登山者と、車道に並ぶ駐車列を脇目に北上し、大土峠にさしかかると西側の谷側には無名の366m峰の山肌を一面桜のピンク色に染まる絶景が拡がり連れでも居たら歓喜の絶叫に素通りは出来ないでしょう!!。
片山城の在る塩山の尾根南裾に現れた大空堀・土塁は?後世の山道か?

昨年は此の峠を野間稲地側へ 下りかけるところから東側へ斜上する荒れた山道を取って高岳山(点名:野間3等三角点450m)まで行った事がある。 山頂に続く藪の踏み跡も途切れがち、狭く藪草で標石も測量ポールが無ければ判らなかった。この山頂から北へだいぶ尾根を下った所が城址だった。今日はその稲地へ下り野間川橋を渡って圓珠寺から 野間屋敷・野間居館・野間城へと山手へ向かってみた。
野間城:主郭北尾根の段曲輪

野間屋敷・野間氏居館・野間城を廻った後、野間城から尾根を辿れば高岳山だが、展望のない藪のピークは以前に訪問済なので此処で引き返します。 早く帰らないと一庫・山下を過ぎて、川西市に入る頃に待構えている、恐怖の停滞地獄が毎度疲れた身体には恐怖さえ感じてしまいます…・(^^;



.上杉城 片山城  野間屋敷・野間居館・野間城 野間中城  吉良居館

上杉城(槻並城)   Ca300m 大阪府豊能郡能勢町上杉

上阿古谷から上杉集落に入りヘアピンカーブを描いて平野から森上へと通じる府道603号線に"猪肉・・三浦牧場"看板のある所から谷沿いの奥に、いかにも城山の風情がある山は近づくほどにその感が強くなってきます。上杉集落の外れに古い墓所があり墓石ではなく ズラリと五輪塔が並んでいて 曰く因縁がありそうです。
上杉城主郭部南面の段曲輪・竪土塁状や空掘状 ?

てっきり此の山が本命かと思ったが、山頂は平坦だが曲輪や土塁等の遺構は無さそうです。ただ一箇所L字型の石列があって、周辺の様子から見ても人工的な造成に思えます。 上杉城の出曲輪か烽火場だったか??多田氏の御家人小塩氏の居城は此処ではなかったか…向式部丞の居城ともいわれます。
南段曲輪から主郭に入る土塁虎口の残石?

城山に辿り着けず場違いな周辺を歩いていた様で、 直ぐ目の前には尾根続きに三草山が見える。間違いついでに南への尾根をトレースしてみます。上杉(4等三角点 419m)への尾根続きにも 三草山へ通じる「三草山ゼフィルスの森」のハイキングコースがあり案内導標もある。此処は前回・竜王山〜三草山を縦走し 北側の神山側へと下った谷通しで、 その分岐点が間違った城山?上杉のすぐ側で上杉集落や上阿古谷の林道終点からの分岐点でもあった。
主計坂(稲荷坂)の稲荷社

…今度は残されたポイント!!ヘアピンカーブの北東尾根を上杉か平野集落から再度出直して訊ねてみます。此処にも遺構が無ければ上杉城探しは諦めます・・要害でもなく要衝の地(三つの街道が集まる森上)に近いだけでは場所の確定は難しいですね。 三草山を望み片山城と対峙する位置は !?
稲荷社背後の長い平坦地形の先にある堀切

・・大手は南側で曲輪や空掘、 北に堀切や土塁を持つ曲輪が南西に有るといいます!!。雪辱の再登城七年ぶりに再トライは城域の尾根南端・北方の平野から上杉に越える主計坂の稲荷社から取付く。主計坂のお稲荷さんR173号線栗栖を過ぎ、汐の湯温泉の看板を見て道の駅”栗の郷能勢”に着く。 案内所で上杉区への道順を聞いて直ぐ先から戻り気味に府道603号に出ると上杉区。
堀切側の開口部は土塁虎口か?(左側中〜手前)

上杉城は此の平野と上杉区を結ぶ街道を押さえ・通行監視の任を負って築かれた城の様です。向かう小峠が主計(かずえ)坂;現・稲荷坂で、 真新しい案内板の立つ峠・主計坂に稲荷社が建つ。2〜300m程下れば以前に立寄った上杉の集落を南下して阿古峠を越えると 兵庫県川辺郡猪名川町の阿古谷に向う。猪名川町にも別名の槻並城が在り、小塩民部の居城を伝えており、
南曲輪虎口上部の荒れた曲輪段主部

城主も上杉一族の小塩氏らしいが 郡史等を未調査で未確認・不詳。現状の特異な縄張りは室町時代末期:天文年間(1532-55)東北方の森本城等 ・能勢氏や森本氏と争っていた頃、多田氏・塩川氏の勢力が能勢郷へ侵攻する為の前線基地として 改修したものと思えるのですが!!?。 ”主計”は財政処理や諸儀式等を司どっていた官位の呼び名です。
南郭 ・主郭間の土橋付き堀堀

上杉城にも関連するかは城主名や 城史不明で判らないが、以前:訪城に失敗しているので、 今回は確実な上杉の稲荷社から尾根続きに進むつもり。 稲荷社自体が上杉城の出曲輪に思えるが、早速:猛烈な篠竹混じりの猛烈な藪漕ぎから始まった。
南郭・主郭間の土橋から見た堀堀

平坦地形の薮漕ぎは鬱陶しいが 2〜30m程で抜けると下草もない尾根上の踏み跡が西方から上がってきている。 稲荷峠を少し上杉側に下ったところに侵入口が有りそうです。長い平坦地形(150m程か?)の先の鞍部に浅い堀切を見る。 堀切は堀底道の登城ルートか?、堀から北への尾根側に土塁虎口状の開口部があり、尾根筋北直ぐに、
主郭北の大堀切

数段の平坦面も崩れ荒れ荒れた曲輪があり、最上段には尾根続き三方を囲う南郭部の主要曲輪を置く。峠に建つ南端稲荷社と背後の薮中の平坦地形は、平野・上杉間の通行監視を兼ねた出曲輪と思えます。南郭部からの平坦地形の東角に大岩を抱く先は堀切で、 東端に土橋が付き、
主郭東斜面下の塹壕兼空堀?と帯曲輪?(土塁か!!?)

主郭の東下部を北へ延びる通路は帯曲輪?と呼ぶには狭いが犬走り ?。しかし主郭側斜面底部は埋もれ浅くなっているようだが 横堀状の窪地は塹壕を兼ねた空堀か?。 南郭から主郭への尾根筋の城道は・堀切の西端から竪土塁間を抜け?、枡形状の虎口を経て主郭に入るものか。
主郭西端の低土塁

主郭の西南側には空堀?・竪堀とも思える大きな溝の先に数段の曲輪を積み私などとても縄張図からは読み取れそうにない?、 複雑な様相の縄張りで残石の少ない曲輪内ですが ・此の南段曲輪最上部から主郭に入る 土塁虎口部に土留らしい石積・石列を見る。 石列といえば主郭北の大堀切を越えた 先の広い平坦地形にも有ったが、祭祀の礎石後の様子。
主郭北・堀切側の土塁線

主郭内は西南曲輪群側に低土塁・北の大堀切側にも高さm程の土塁があり、東面下には犬走りか?、横堀と土塁道が土橋付き堀切に通じる。上杉は嘗て平家村との伝承があり寺社の建立は (神社仏閣由来記)に平安時代後期:長承3年(1134)三浦兵部建立とみえ、村の鎮守は【現:稲荷社・室町時代中期より 祭祀されている】延徳4年(1492)向式部尉康元により創建され、あわせて主計坂に白髮明神(豊受比売神か!?)を祀った(霊雲寺文書)とある。
主郭大堀切北の広い平坦地形に遺る石列は祠跡?

稲荷社は水田耕作にかかる”稲の神・食物の神”だが、霊験あらたかと世評され戦時中は武運長久、 戦後は復興繁栄を願って商家のお参りも多かった。明治の神仏分離政策によって明治43年(1910)白髮大明神は、岐尼神社に合祀され此れにより三浦氏は三河国(愛知県)豊川稲荷より茶枳尼天(だきにてん)を単独で勧進した後に 村人の同意を得、此の頃より峠の名も主計坂から稲荷坂と変わっていったものと推察されます。
(現地:主計坂の上杉稲荷社案内板 能勢町教育委員会 平成22年3月を参照)


片山城(塩山城)  最高所Ca317m 塩山(4等三角点 314m)    豊能郡能勢町片山

R173号線・汐の湯温泉と 道の駅”栗の郷能勢”東側の小山ですが取付きを探して東森上から山辺川沿いに片山集落に入ります。武家屋敷のような立派な長屋門の構えの 民家を数軒見かけます。片山城は西に山田川に沿って走る丹州街道を、北西へ約1.5kmの地点にある 森上城と今西城と対峙して山田城を望み、東側には大路次川と山辺川が合流し、西側を山田川が流れる地点にあり 三方を川に挟まれた独立丘陵上に位置する。
無線中継塔が片山城のある塩山

北東へ約 1.5kmには栗栖城とさらに北には 山辺城(鷹爪城)にも対峙する塩山{4等三角点 314m)に片山城が在って、 山陵にはNTT DoCoMo能勢無線中継所の鉄塔が建つ。背後の尾根末端の見張り台かと思える小曲輪に三角点石標が埋まる。 片山城へは此の無線中継所の塔に向かって急斜面に長く真っ直ぐ延びる巡視のプラ階段が設けられているので、取付きが判り易い。以前の訪城ではNo.14電柱のある車道脇から向かったが、地区内の狭い車道は路肩に余裕もなく、
片山城主郭北端の切岸

駐車場所を見つけるのに難渋したので、 今回は片山区に入る細い一本東側からの車道をとり、東光山永看院(本尊:木造阿弥陀如来立像 <鎌倉時代前期>)は永録7年(1564)光誉上人の開創・開基による浄土宗鎮西派:知恩院末寺です。山門前駐車場を利用させていただき此処から中継塔を見定めながら西側の地区道に廻り、山裾に見える八幡神社の鳥居に進み、 境内に入らず鳥居前の道を進むと、民家背後の山裾に「松巖翁」と彫られた文久3年 (1863)建立の石碑を見て、
主郭東側の平入り土塁虎口部

横を過ぎると ・真っ直ぐの階段巡視路へと広い山道が続き、中継施設のフエンス前に着き、草生したフェンス沿いに鉄塔裏手に回り込む。 左手上に片山城の曲輪切岸をみるが、先ず東側・中継施設背後の低い位置、尾根先端部に進むと塩山{4等三角点 314m)の三角点石標がある。遠くに鉄塔が邪魔するが東に竜王山(名月峠の)、 南に藪の竜宮山や妙見山が望めます。当然此処は北端の物見台曲輪跡なんでしょう!!.。 南へ続く尾根側は直ぐに帯曲輪となり、フエンスを回り込んで出た稜上から見えていた2〜3m程の切岸を立て、 周囲に土塁を廻す主郭で、雑木や下草も少ないので曲輪内からでも此れ等が確認出来ます。
片山城主郭南端の土塁と切岸下の空堀?

主郭の北面を半周する帯曲輪は ・北西直ぐ側に竪堀を一条落とす。東側から南に進む帯曲輪の末端には主郭に入る平入りの土塁虎口が開く。緩い傾斜で続く主郭南側の土塁付き切岸下に、埋もれ浅くなった堀切先に南郭(副郭)の平坦地形がある。 曲輪の南側にのみ1.5mほどの切岸を見る。此処に土橋付き堀切があるが此れも浅くて腰曲輪状?。 土橋で区切られてはいるが城域の南端か?、これより南へ長い緩斜面の平凡な自然地形が続き、平凡な緩衝帯として曲輪を区分する段差や、堀とも感じられるものは思い過ごしか、 城遺構らしいものも無さそう?。
南郭(副郭)南の土橋付き空堀跡!!

尾根末端部が集落最奥の民家側から入ってくる山道の落ち込むところは、尾根側から見ると、大空堀と思える長く深い溝があり、おまけに外側も大土塁の見えなくもない箇所があるが、 堀底道の様な山道は高みで直ぐ消え 土塁の外側も平凡な薮!!?中に古い墓地があったのかもしれないが曲輪が続いており屋敷跡とも思えなかった。片山城は室町時代前期の 南北朝期:北朝の応安年間(1368-75)城主塩山備前守義道により築かれたものと云う。山田川を挟んで周辺の栗栖城・山上城と連携し、能勢氏方?の森上城・今西城とは対峙して、摂丹街道を押さえる役目を担っていたと 考えられています。
片山城主郭南側切岸と堀切

応仁の乱により戦国時代が 始まった応仁年間(1467-69)頃は塩山肥前守景信が居り塩山城(箕面市下止々呂美)の城主でもあったと云う。城名からは 片山備前守 (摂津史から)の名があり片山氏の居城とも伝えられるようですが定かではない。天正年中(1573-92)摂津北部の 国人領主の諸城は、伊丹城主荒木村重に従っていた。村重が天正7年4月(1579)三木城:別所氏に同調して織田信長に背いて伊丹城に籠ると、村重に同調している摂津北部の諸城を掃討するため、信長は嫡子信忠・弟信澄を総大将に、
土橋付き空堀(手前)を渡り、南郭(副郭)に入る

止々呂美城 (箕面市)や片山城・鷹取城・山口城 (能勢町)、佐曽利城(宝塚市)へと侵攻を開始。先鋒となった中川清秀軍は、最も手近な位置に在った止々呂美城を先ず攻撃目標にする。 中川軍の田近新次郎長祐が、止々呂美城主:塩山平右衛門とは昵懇(じっこん)で、 説得して降伏させ和議が調うと次に同族の片山城主:塩山肥前守に働きかけ、止々呂美城の開城を知ると塩山氏も和議に応じて開城します。


野間屋敷・野間氏居館・野間城(塩山城)
野間屋敷   豊能郡能勢町野間中 「野間氏発祥の地」碑がある
野間氏居館   Ca270m    豊能郡能勢町野間中
野間城(塩山城)   城山 353m  豊能郡能勢町野間中
野間屋敷「野間家発祥の地」碑

篠山市・川辺郡猪名川町方面からは猪ノ子峠を越え、 野間川沿いに府道4号線を降ってくると”野間の大けやき”の案内板を見て、野間中交差点でR477号に合流する。直進する府道4号線は野間中城を左手丘陵上に見て、野間峠から能勢妙見や峠を越えて箕面市・茨木市へ向かう。 野間中交差点を国道沿い南の野間稲地へ進むと、大原川に架かる大原川橋を渡り、 直ぐ先の野間川に架かる野間川橋を渡る手前(北詰め )から川沿い東側に進むと圓珠寺が建つ。 R477号は大槌峠を越えて能勢電:妙見口を川西市へ。
野間屋敷(樹木の背後は大原川)

”野間中”は猪ノ子峠・大槌峠・野間峠を越えてくる街道が集まり、北へ進めば京都園部・亀岡市へ抜ける要衝の地。 此処に能勢三城の一つ野間が在る。山麓・野間稲地の交差点から大原川と野間川に挟まれた中洲状の平野部に建つ 圓珠寺(日蓮宗)の東にDoCoMo能勢・野間無線中継所の鉄塔があり、桜の目立つ小公園なのか・栗や柿の果樹園跡なのか?スペースがあります。
野間屋敷から野間居館(林の中)を望む

普段中に入ったらだめなのか門は閉ざされていますが、寄って行くと多田満仲八代の孫で野間氏の始祖源 (野間)高頼没後750年を記念する「野間氏発祥の地」野間氏末裔により建立の顕彰碑 (昭和16年3月)が建てられており 野間屋敷と呼ばれています。野間中に伊賀殿屋敷と呼ばれた野間中城とは此処の事か?、更に其の詰め城が未完の城となった野間中城で、既に下地が出来ていたのかは不詳ですが。
野間氏居館・西面空堀と土塁(向い)の先に館跡・泉水池庭?有り

北側は大原川を背にし濠と生し、 西側は石積み段差上に宅地・畑地があり、堀切と石積みで区画されている様に見える、一帯西端部の高台に位置する。 東側から大原川を渡り北へ直進する狭い地区道路を府道4号線に出た所が野間中石房の辻で”阿弥陀・六地蔵磨崖仏”の脇を成就院に向かう右手正面丘陵に野間中城がある。
野間居館・南面(山側)の空掘と土塁

屋敷の南側を流れる野間川を渡り南山麓に向かうと野間氏の居館から 山上の野間城に祀られる白髭稲生稲荷神社へは参道が通じています。 南に高岳山から延びる尾根の山裾に野間氏居館が在るが、鬱蒼とした下草と笹薮のおおわれ、泉池庭跡らしい一角を除いて広い平坦地形の林の中は、曲輪内の様子は侵入さえ拒まれ窺い知ることも出来ないが、 山裾から貯水池を廻って取付く古墓跡か祠跡?から
野間居館・北西角は居館の土塁虎口?

山道が野間城主郭に建つ白髭稲生稲荷社への参道なので城址へは楽に行き着く。此の山道沿い左手薮中に、空掘りと土塁を廻す数段の削平地がある。北西部には石積みで補強された凹角が有り、 凹角突き当りの土塁の先は3m程低くなって土塁で囲まれた平坦地形内の南西端には石組みの池状や飛び石状の置き石があり、 池跡には数mの高さに石が積まれてあり庭園内に滝が作られていた様ですが飲料用の水場でもあったのでしょう?。
野間城北尾根の延びるT郭(帯曲輪)と主郭側切岸

元に戻ってトタン板塀が続く猪垣沿いに山道を進むと右手に赤い鳥居が有ったが、新しく黒っぽく太い管の塩化ビニール製に 替えられているが鳥居に”稲生稲荷”の扁額が懸けてある。山上に祠は無く 「祠跡」の真新しい石標と棲み家を追い出されたままの 狐像が残されているだけなのですが!!?。最高所に社を祀る野間城までは九十九折れの参道が延びています。
野間城主郭の土塁(櫓台?)上の稲荷社

途中:石灯篭手前付近の山道側に 落葉で覆い隠されているが、水を湛える小さな井戸跡?らしいものを見る。 重要な水源が平坦地でもないところに、ポツンとあり、しかも岩盤である事に井戸としては疑問を覚える。主郭から東北へ延び出す尾根上の段曲輪群と、主郭から北へ延び出すニ方向の尾根上曲輪群に挟まれた谷間の中洲?状の位置に一基:天保13年(1842)建立の石燈籠が立てられており、 二の木戸/三の木戸跡らしい。左右に高い切岸(5〜8m程 )を見せて並び連なる曲輪群を見ながら、
野間城・櫓台から大堀切

左右の尾根上曲輪が一つになって、主郭北面を帯状に廻すニノ曲輪から一ノ曲輪を経て、正面・土塁東端部に開く平入虎口から入ると、北面を除いて三方をコの字に囲う土塁を見る。 正面の城山最高所土塁上に 稲生稲荷を祀るが、 再訪では(2010年)基壇上に瓦片や壁板・屋根部が朽ちたまま放置され、 真新しい御社跡石碑と赤い前掛けを着けた狐像が置かれているだけ。祠跡の土塁背後の尾根続きを大きく切り崩した堀切が城域を完全遮断しています。
一ノ曲輪から主郭に入る平入り土塁虎口

尾根続きの薮のピークへは以前、大槌峠からトレースした点名:野間の高岳山(3等三角点 450m)で、高岳山の尾根の中腹に突起した 353m峰が城山で、西方に大槌峠や野間峠・猪子峠を越えて能勢街道・丹州街道・池田街道が交わる要衝を俯瞰し 妙見奥の院から地黄陣屋・丸山城、歌垣山方面も望める位置にありますが植林帯の中で眺望は期待出来ません。 野間城の最奥部は土塁を廻らす本丸と、さらに南端には2m程の高さに平坦地がある最高所には社があり狐の置物が鎮座している。
野間城の南端を遮断する大空掘(8m程)

祠には白髪大神・安良彦・平良姫の霊が祀られています。祠の 裏側は6〜7mもの深い堀切となって、高岳山へ続く尾根筋と城域を遮断しています。 野間城は多田源氏の租・源満仲の後裔・野間摂津守頼盛の子:高頼によって仁安3年(1168)此の地を本拠として築城したのに始まり、 天正年間(1573〜92)には高頼の末裔で第17代野間豊後守資持(すけもち)が在城したと云われ,
主郭の北から南の櫓台(祠)を囲む土塁

丸山城主:能勢頼次、余野城主:余野高綱ともに能勢三惣領の一つとされ、同族の能勢氏と行動を共にしていたと考えられています。天正8年(1580)織田信長配下にあった塩川長満によって能勢頼道と共に、 山下城(川辺郡)に誘殺されたと云う「能勢物語」・・が同天正8年:大槌峠に能勢頼次が塩川勢を破って、翌:天正9年には妙見山山頂に為楽山城を築いたとも云われるのですが?。


野間中城    小倉山 Ca300m  大阪府豊能郡能勢町野間中

野間の大けやきを見物して駐車場の車をデポして 野間区内の野間氏の城巡りは行程中に出合う石造遺跡の歴史散歩を兼ねての ハイキングとなった(野間の大けやき以降参照)。野間中城への訪城ルートは”野間の大けやき”を起点にすると分かり易い。大ケヤキ公園前の府道4号線 (茨木能勢線)が中野間交差点でR477号と交差する。
丘陵東末端に取り付いて直ぐの竪土塁 ・空堀は未完の城遺構か?

直進する府道4号線は野間峠に向い、此処から”能勢の妙見さん”や豊能町・箕面市や茨木市へ通じる妙見街道。交差点から府道を300m程進むと野間中石房の地区内の辻(交差点)で右手角に野間の力石(能勢妙見への町石もある)を見て、狭い集落内の車道が大原川を渡る所に「野間氏発祥の地」野間屋敷が在り、 左手角に阿弥陀・六地蔵磨崖仏がある。
東郭と主郭を分ける中央部の大堀切

目前の低丘陵上に野間中城があり、丘陵西山麓の高みに見える成就院に向かう道は田圃に挟まれ農道然とした地道。 右手の民家側に向かい湿気た細い道が車道から見えなかった貯水池脇を抜ける。 民家西に隣接する山に入る階段道を利用するのが良さそうですが、初訪城なので東南へ突出す尾根先を目指し集落内民家の外れまで進んで、 丘陵東を北に向かう山裾沿い道端から薮っぽい踏み跡を見つけて取付いた。
主郭西南面の段曲輪(腰曲輪から)

斜面に取り付いて直ぐ、外側を竪土塁が囲む短い大空堀状を見る。尾根沿いを末端から辿る登城口か?。最高所の主郭まで比高僅か (50m程)の東尾根上には、 自然に近い?平坦地形があり、 未完成の曲輪群に繋ぐ未完の通路?・城遺構かは断定出来ない!!。 荒れた削平も粗い東郭部は大堀切で、 尾根続き北側の主郭群を分けているが、
大堀切の鞍部曲輪から主郭西南面の段曲輪と空堀状(手前)

堀切から主郭への鞍部に一郭分の幅があり、大きな空堀状窪地がある。堀切と空堀間の細い通路を抜け土塁を廻す主郭の櫓台 ?真下に向かう虎口への導入部か?。主郭へは切岸下を一折れして南側の段曲輪(3〜4段の腰曲輪 ・北郭へ延びる帯曲輪等が在る)に入るか、東面の切岸下を北郭側の土塁と主郭切岸間に虎口部の切れ目があって此処へ廻る通路とも思えます。 主郭は櫓台を囲む形で南から東面を、北郭は北角の櫓台があったと思える幅広い土塁が其のまま東側を南へと・共にL字鉤括弧状に、ニ方を囲い込んでいます。
土塁曲輪の主郭と北郭幅広土塁との開口部(主郭東から捲き上がってくる虎口部か?)

野間中城は天正8年(1580)野間城主:野間豊後守資持により、 野間城に代わる新城?・・と云うより、完成していても城域・規模からは支城として、小倉山に築城を急いだが・完成途上で中止されたと伝えられます。 丸山城主:能勢頼次、余野城主:余野高綱ともに能勢三惣領の一つとされ、能勢氏と行動を共にしていたと考えられています。
から主郭西南面の段曲輪と空堀状(手前)

野間新城と呼びたい野間中城ですが、織田信長配下にあった塩川長満によって能勢頼道と共に、 山下城(川辺郡)に誘殺されたと云う 「能勢物語」からは、 城主を喪い廃城となった”未完の城”に新城の名は当たらない!!が、 野間領内を一望し川西市方面からの大槌峠 ・能勢町からの猪子峠を越える街道筋の要衝が野間中で交差する。唯一・野間峠を越えてくる妙見街道を押さえる位置には、大原川・野間川に挟まれた狭範囲の平地に野間屋敷(野間氏発祥の地)の他・城塞が無い。
北郭の北末端部の櫓台から幅広い土塁が主郭切岸下まで延びる

敵対する塩川氏が箕面市止々呂美から野間峠に至る妙見街道を監視し、 領内への侵攻を抑える拠点として、警護守備する重要な位置だけに、反信長方にあって、伊丹城の荒木村重・三木城の別所氏・丹波八上城の波多野氏も倒された天正8年・遅過ぎる戦国末期の築城ではあっても、目的の必要性は解りますね。 ただ同天正8年は大槌峠に能勢頼次が塩川勢を破って、翌天正9年に妙見山山頂に為楽山城を築いたとも云われますが、同族の野間氏の動向が不明です!!??。


野間の大けやき  大阪府豊能郡能勢町野間稲地266

R477号線で野間川を渡る野間稲地の北、 府道4号線が能勢妙見に向かう野間中交差点付近に、民家の屋根越しに・小さな森かと思える程、 周囲を圧倒する存在感を示して立つ欅の巨木がある。 「野間の大けやき」は国指定(昭和23年(1948)1月14日)天然記念物で、新・日本名木100選や”大阪みどりの百選”に名を連ねますが、”欅”としては全国でも屈指(5〜6番目)で、 門真市の三島神社「大楠(薫蓋樟)」とともに、 大阪府下で一番の欅と楠ですが、欅としては西日本一といわれる巨樹です。 鎌倉時代初期の承久2年(1220)に創設されたという「蟻無宮(有無社で紀貫之を祭神とする)」神社境内に有ったといい神社の御神体ともいうべき 御神木だったと云われます。明治の神仏分離等政策によるものか?、野間神社に合祀されたという。 近くを流れる川に架かる橋に蟻無宮の名が残されます。案内板を見て立ち寄ると駐車場・トイレ・休憩ベンチ・大けやきの資料館まで完備の名所となっていますが、幹付近には樹勢回復事業により・亀裂を埋めたギブス跡や、 剪定され主幹部はバッサリ切り取った跡(主幹の一部が資料館内に現物展示されている)もあり、瀕死の様相かと見えたが樹勢益々旺盛だという。現地案内板・環境省等でのデータに差異が有るが,樹齢およそ1000年・幹周13m・樹高25〜30m ・枝張り東西約42m・南北38m。
(現地:野間の大けやき案内板を参照)


能勢町野間の歴史散歩

”野間の大けやき”に寄った後、府道4号線(茨木能勢線)をひがしに進んでR477号線 ・野間中の交差点に出る。直進する駐在所の先に此の 地蔵一尊種子自然板碑が有る。田圃が拡がる北方へは吉野古墳群の案内標示があり、東正面の低丘陵上には野間の新城 <野間中城>が在る。狭い地区内道路との交差点を北側へ左折すれば野間中城へ、南側へ右折する集落内への道が、”野間氏発祥の地”石碑の立つ
地蔵一尊種子板碑(野間のたて石)

野間屋敷跡は近い。此の交差点の北東側角に阿弥陀・六地蔵磨崖仏が、南西角には野間の”力石”が有る。 府道4号線は野間峠から能勢も妙見さんへ、 R477号線は大槌峠を越え川西市や県道68号を三田市へと通じ、古来より能勢街道・妙見街道 ・池田街道が交差して丹波と摂津を結ぶ要衝と信仰の道。”野間の建石”と俗称される野間中の”地蔵一尊種子自然板碑”(能勢町指定<平成5年2月27日>文化財・野間中区長544)が有る。 南北朝時代初期(北朝の)暦応4年(1341)、高さ170cm・幅130cmの地蔵菩薩を表す梵字一文字が刻印された石碑です。
野間の”力石”と妙見道の町石(八丁石)

銘文から:法界衆生の平等利益の為と。願主は祐尊(野間家から出た人で、此の付近にあった今川寺に住む僧侶)で、多田院(川西市)の石灯篭等に ・時代や手法が相似していることから、石工は井野行恒か其の直系の石工の可能性が大きいとされます。
(現地:地蔵一尊種子板碑案内板 ・能勢町教育委員会を参照)
阿弥陀・六地蔵磨崖仏を祀る辻から望む野間中城跡

野間の”力石”碑<と阿弥陀・六地蔵磨崖仏は野間中交差点から”たて石”地蔵種子の板碑を見て、府道4号線を野間峠に向かう先・地区内の野間中城の西山麓に建つ 成就院に向かう道の辻にあって、先ず屋根があるだけの小さな辻堂?風の祠が目に留まる。此れが阿弥陀・六地蔵磨崖仏だが、 その斜向かいに立つ高さ80cm・中幅26cmの力石は、太古より石占として存在し 時代が降るにしたがい”力試し”として、盛んに鎮守の森や村の辻で行われ、若者たちの力自慢が成されたという。
阿弥陀・六地蔵磨崖仏

村の共同体に参加出来る一人前の力量を推し量る目安か?、親から子・孫へと就けさせてきた民俗的文化遺産”力石”は、 野間峠を越えた豊能郡豊能町の高山城(高山右近の里)を訪れた際の高札場に置 かれていた。”力石”の脇に郷土力士だろうか ?小泉小右衛門・・大碇神右衛門を刻む碑と、能勢妙見山に至る野間峠まで約3km程の登り口 ・妙見道に之よる八丁を示す!?町石も立つ。
(現地:”力石”案内板・平成9年3月 能勢町教育委員会を参照)

野間中古墳

阿弥陀・六地蔵磨崖仏は像高 ・幅共に150cm・奥行約1m程の花崗岩の自然石に高さ約45・ 幅78cmの長方形の輪郭を彫り込んで・その表面に七体の仏像を半肉彫りに浮き出させた磨崖仏。墓地参道に建つ七体仏は 六地蔵に護られた新仏を加えたものですが、府道4号の妙見街道(茨木能勢線)沿い野間中石房の辻に有り西向きに立つ。
野間中古墳XX(3号墳?)

六地蔵立像の左端に阿弥陀座像は、舟形輪郭を彫り込み・その中に宝珠形光背を負う尊像で、六地蔵と阿弥陀のみが一対となっているものは大変珍しい。室町時代末期 :永録7年(1564)造立祈念の銘が刻まれた能勢町指定<平成5年2月27日>文化財)で、衆生を救う六地蔵菩薩により、 弥陀の浄土へ向う庶民信仰を語る民俗 (文化)遺産ですね。
(現地案内板・平成18年3月 能勢町教育委員会を参照)
野間中古墳xx(3号墳?)

野間中古墳A支群古墳データについては以前:其の位置説明が判り難いのか ・規模等解説が不明なのか?、ブログ記事に戴いたコメントがどうにも気懸かりで、古墳を単独で取り上げることは避けます。今回は周辺の歴史史跡廻りの一環・野間中交差点東入る北方の田圃の中に、1〜4号墳で構成され、 いずれも横穴式石室を持つ古墳群A支群があり、3号墳はほぼ玄室を留めています。明治中期に石材として抜き取られた時に出土した遺物や、平成3年(1991)の調査から6世紀後半の築造と考えられ、出土遺物の中でも銅鈴は希少価値が高いという。 詳細は発掘調査報告書等を参照してください。


吉良居館     520m  豊能郡能勢町天王

篠山市街地からデカンショ街道(京街道)を福住に出てR173号線(能勢街道)を南下し大阪北部最高峰の深山791mの西・天王峠 に向います。篠山市から能勢に下って最初の集落・天王を過ぎると直ぐ又長い峠(旧はらがたわ峠)への登りとなり、 トンネルを抜けるR173号(池田街道)は能勢の中心地 :森上・宿野へと降りていきます。
丘陵末端部の崖下に並ぶ石仏と五輪塔

トンネル手前を 左折する大阪府道・京都府道731号天王亀岡線に入って深山への登山口・瑠璃渓府立自然公園へ向います。天王地区中央!!付近の天王小学校や 農産物出荷場からは、東側に球状のレーダを乗せる深山山頂からの稜線が見える。南へ進む右手前方には低丘陵の突き出す先端をR173号に落としています。

主郭の土塁曲輪

取付きを探して尾根先端部から西に延びる林道?か圃場専用道に入ってみると、直ぐ山側に五輪塔があり・其の道の直ぐ先に 2m程の自然石を立てた石門が有る。石門の先は小墓地で小さな石仏が5体並んでいる。もともと7体(6地蔵+1)有ったものでしょう。 幾段かの段差ある広い墓地跡の平坦地形も曲輪跡なのでしょう。其処から植林帯の幅広く緩やかな尾根に沿い、古墓を避けて西方へトラバース気味に別尾根筋を辿ると低い段差の平坦地?が続く。
同:主郭の土塁を積む切岸

前方に段差の有る約25mx30m程のL字状の土塁で北と東面を囲った最上部の主曲輪!?に着いた。 L字状の北角コーナー部土塁が虎口(?個人所有の植林作業通路として崩されてたものか!!?)となって開く。北西側の竪土塁状を尾根側に登ってみたが緩やかで広い尾根筋が延びているだけで、 尾根筋の下方にある居館背後を防衛する為の堀切も土塁囲みの曲輪等は無い。【なを現状:北麓の地区道から墓地への参道(吉良居館域の中央へ直接入れる)を入ると、 まるで此の主曲輪部を限って立入り禁止区域のように金網のフエンスで囲われており、
短い谷上部には細い通路が下段曲輪(古い墓地)に繋がる

どこからも開閉ゲートが無く曲輪内へは入れない】比高僅か 20m程ですが山麓側にも堀切は無く、 緩やかな傾斜の曲輪が有るだけで、 高く切り落された切岸と 一部の土塁だけが防衛手段の居館。主郭部の 土塁囲い曲輪の東下にもほぼ同規模の土塁状の盛り上がりを見せる平坦地が有るが、 此処も古墓地となっている為改変されているかも知れません。
曲輪の高い切岸 (東面の墓地から)

墓地となった曲輪の更に東下には1.5m程の段差で平坦地が有る。 短い谷を挟んで其の上部が主郭側の土塁端部へと斜上して結ばれる通路となっています。 この間だけは5〜7m程の切岸となり、下方から眺めて・やっと城館らしく見えるが、何処までが城域なのか ?尾根上の境が曖昧に思えるが居館と呼ぶには其の規模が大きく、館城とするには一部の土塁と高い切岸だけの防備。 当地領主であったのか?城主と伝わる吉良氏についての情報が不明?。
下段曲輪から主郭土塁横へ出る通路

東西の曲輪を分けて山麓の地区道に出る、極く短い谷状(約50m程?)が登城ルートだったか?。通路は此処から古墓地のある下曲輪を経て主郭に続いていたものか。 谷状の”どん詰まり”には泉があり夏期にも水が枯れる事がないと云います。吉良居館と呼ばれる様ですが、城史や城主:吉良氏については未調査の為不明ですが、豊能郡史や能勢町史には載せて有るのかも判りません。

  本誌丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system