丹生山系に悲話を伝える山と古道へ 柏尾谷〜金剛童子山〜花折山〜稚児ヶ墓山・志久峠
山域 :兵庫 阪神(五万図=神戸)
柏尾谷〜金剛童子山565m〜花折山586m〜稚児ヶ墓596m H14年09月23日
近畿の山城 : 柏尾城・柏尾南城・柏尾東砦(金屋経氏の城)
        金剛童子山砦・花折山砦・稚児ヶ墓山城
阪神間の伝説    伝説の稚児ヶ墓山と花折れ山

六甲山地の北西部に東西15キロにわたって連なる標高僅か500m前後の山々を、若い頃は帝釈山脈と呼んでいたが…歳がばれてしまいますね。 国道428号線を挟んで西方に帝釈山〜丹生山〜シビレ山、東方へは稚児ヶ墓山〜金剛童子山〜ナダレ尾山へ続く山並は、何時の頃からか歴史と悲話を伝える風土記の山【丹生神社が建つ丹生山(516m)は全国・丹生の地名ルーツといわれます】 を主体に丹生山系と呼ばれるようになってハイキングコースも整備され「丹生山系縦走コース」の標示が目立ちます。この縦走コース阪神間のMTBファンには以前から、
柏尾谷

ちょっとは知られたスポットだと 以前丹生〜帝釈を歩いたとき「山であそぼっ」の島田さんから聞いたところですが今は谷上〜金剛童子山と、 神戸では一番美しいといわれる志久ノ峠は花折山付近にまでオフロードバイクで荒らされ深い轍となって無残な姿を見せているところがあります。ハイキングコースは丹生山〜金剛童子山間を縦走するのが普通のようだが最近は 疲れているのか!!短絡コースばかりです。今日も以前訪ねた柏尾谷から稚児ヶ墓山と秋深まればベストの志久ノ峠へ寄り道してみます。スタート地点から尾根のピークことごとくが城址だったのですが、遺構も歴史的背景の情報も殆んどありません。 柏尾谷の南側に、大きな露岩を見せて聳え立っているのが城山(516m)でした。柏尾池付近から登路があるのかもしれないが…



三木合戦悲話の山と歴史の古道/柏尾谷-金剛童子山-花折山-稚児ヶ墓山・志久ノ峠 2002年09月23日

箕谷から山田川に沿って呑吐ダムへ向う国道R428号は直ぐ大滝口で分かれて「六甲柏尾台」に向う車道に入ります。陸橋手前で「リバーパーク」の標示が無ければ見落としやすいかも!!知れませんが右下へ降って陸橋下のスペースに駐車させてもらいます。なお先の車道を進むと田園風景が拡がって点在する原野の民家の間を抜け志久道を辿るのも良いが今日は谷筋です。柏尾谷への入り口は原野八王子神社のあるり小公園(ここからの道も合流する)を右下にみてリバーパークへの「北区縦走ハイキングコース」の道標を見て細い疎水沿いの遊歩道を進みます(AM10:00)。遊歩林道をそのまま歩いていては面白く有りません。 少し行ったところで右下の沢へ降りる踏み跡が有るので適当なところから降ってみます。
柏尾谷

遊歩道に出会うまでの暫らくでも一寸した谷歩きと滝のヘツリは楽しみたいところですが生憎と今は水量が有りません(AM10:20)。この谷の不思議さはリバーパークの施設付近からテント村まで長いナメの床が続く気持の良い "せせらぎ"ハイキング道ですが、その前後に2〜5mの滝が続き淵やナメ以外の滝の殆んどに壷が有るのには驚きです。広い谷筋だが緑深い樹林の中では谷暗く写真も写せません(~~;
谷への進入禁止のロープが続きますが テント村の先で谷に下りると直ぐ3〜4mの滝に出会いますが、いずれも左右を捲けます。滝芯に沿って快適に登れる滝だと楽しいのですが、滝は水量乏しく迫力に欠けるし、岩は剥がれ落ちそうな厭らしさです。落ち口でハイキング道と合流する滝もスッキリ登れる自信が無くて右手の木の根伝いに駆け上がってしまいます。流れも緩やかになって来てくると 左俣との出合いです(AM10:30)。右俣との間から尾根伝いに続くのが柏尾谷ハイキング道で丹生山系縦走路のゴルフ場へ通じています。
柏尾谷池

左俣は、この尾根出会いから見てもナメ床の傾斜を持った小滝が二つ程見えますが其処から先は水量の少ない平凡な谷の様子なので未だ入ったことは有りません。其れより右俣の谷を詰めた先には 気持ちの良い柏尾池(溜め池)があり、しばし休憩に最適です。右俣に入って暫らくは小滝も有って楽しめます。六甲の谷では贅沢を言えません。藪で腕を引っ掻いたり、泥だらけで登れる滝が有るだけでも「良し」としてください。階段状の滝や幾つかの小さなナメ滝をこなすと谷道は左山腹を捲くようになり柏尾谷池(AM11:05〜AM11:20)に出て終了です。 此処で休憩しながら人生訓のような牛柱の伝説を思い起こすのもいいのでは!!?堤防を渡るとハイキング道は谷上から鰻ノ手池を通り兵庫カントリーへ続く県道73号車道に出ます。 ゴルフ場のグリーンが見える境界に板柵があって、その先に山道が続いています。
金剛童子山

この山道は広く緩やかな黒甲越えに続く道で金剛童子山の東腹を捲くように南側を尾根!!通しに降って行くようです。山頂へは金剛童子山を半周する随分遠回りコースです。この分岐直ぐ下方に赤土広場があって此処までは オフロードバイクに占領されたと思える程の荒れた道が黒甲越えに向かいます。鰻ノ手池池側へは4輪駆動が入ってこれそうな道ですねがMTBファンの方なら御存知ですネ。間違えやすいので遠回り道を先に紹介したが、実はゴルフ場端の車道からの 取付点10m程??進んだ右手に小さな木札が「←金剛童子山」を示していますよ。藪っぽいが明確な道を辿れば土砂が積まれた様な金剛童子山(3等三角点566m AM11:30)です。展望はないが雑木の中は平坦な場所のようです。時代も人物もわかりませんが砦跡です。この後縦走で通過する花折山や稚児ヶ墓山も砦や城が有ったようです。 南北朝期・丹生山の明要寺が僧兵を擁していた頃、南朝方の拠点となっていた丹生山城の連城として塞城・塞塁が各峰に設営されたのかも知れません。
花折山から明石海峡を展望

車道に戻ってゴルフ場に沿って進み車道が鹿見山・中継施設に向ってヘアピンカーブを描く所で谷へ下って行くように見えるのが花折山を捲いて北側を志久峠へ向う縦走路(PM12:00)で!!左手の尾根に続く道が花折山への道です。縦走コースがワザワザ花折山を避けて通る理由がよく判りません。わりと平坦な尾根ですが次第に急斜になってくるが程なく花折山(4等三角点 574m PM12:08 )山頂に飛び出します。樹林の中の平坦な小場に三角点はあります。南方に少し開けていて西神のベッドタウンの先に瀬戸内の海が青さが清々しく映ります。明石海峡・淡路島へと今日やっと目にする展望に暫し時を忘れるほどです。元に戻って斜面を降ります。縦走路とは何処で合流したのか判らないまま広い道になり、志久道の梨木峠(PM12:20)に出てきます。道標の示す「志久峠」への道は後回し。先ずは、かつて石畳の峠道だったと思えるような溝状に石がゴロゴロ続くような歩き辛い道を下って行くと谷の出会いに「原野」へ向う志久道の分岐で 「稚児ヶ墓山」の道標と「この沢を登ると・・・・」で書き出される稚児ヶ墓山の由緒説明板がありますが、説明文の途中部分が抜けて地面に落ちている。
稚児ヶ墓山

此処は肘曲がりと呼ばれています(PM12:27)。殆んど水さえ切れた沢筋を登り尾根へ捲きあがり急斜面を抜けると緩やかな尾根道となり、窓のように南面に周辺で唯一展望が拡がる 露岩の広場に出ます。露岩の上に石片を高く積んだ塚に「稚児墓山伝説遺跡山田文化保存会 白い標柱が墓標のように立っています(PM12:48)。小塚に植えられた「伝説のツバキ」には、花の形を崩さず散った椿のように、倒されて逝った侍童等哀れな稚児への追悼の想いが込められているのでしょう!!稚児ヶ墓山 (3等三角点596m PM12:50)は2分程先の薄暗い雑木の中で展望は無く幾つかの山名プレートが掛かり「肘曲がり」と同じ内容「この沢を登りつめた!!…」の説明板が建てられています。丹生山系縦走コースは、双坂池へ降り続けて淡河へ通じる 428号線を岩谷峠〜帝釈山へと、そう遠くはない距離ですが、元来た道を肘曲がりへ戻って(PM1:20)此処から志久ノ峠(1.3km)へ向かいます。1分も歩けば大杣池へ降る志久道への梨木峠です。 遊歩道のような緑のトンネルの先へと、近畿自然歩道「志久道」の導標もある旧街道の峠道の趣は、街道や峠歩きファンには堪らない良いコースですが、此処にもオフロードバイクの轍が深い爪痕を残す所が有って残念です。志久道を強く規制して自然歩道部門!!?の史跡として今のままで残していってもらいたい区域ですね。 志久道は北区の淡河町中山から梨木峠・肘曲がりで山田町原野へと降る、神戸に出る最短コースとして利用されてきた古道は今も石畳や茶屋跡、石仏等が残り往時を偲ばせます。志久道には立派!!な近畿自然歩道の標柱が随所にあるのに 志久ノ峠を標示しているところが有りません。
中ン峠

最も目立って峠らしい中ン峠 (大杣池寄りの峠 PM1:40)にも標柱はありますが「志久道⇔」を示しているだけ。此処が志久峠とされていて「とうげ」の記!!の文書の一部を抜き出したような説明の末尾には、多田繁次とマジック書きされた標板や 「ここが志久峠」と書いたプレートがありますが、やはり此処は中ン峠(中の峠)です。目立たず通り過ぎてしまいそうな所に、両側に石積みが残り再度さんを祀る石碑の所が宿ノ嶺(志久ノ峠)だといわれているんですが!!。 元来たコースをゴルフ場へ戻ってハイキングコースの柏尾谷を降ります。柏尾谷の両俣出合いへ出る尾根道の途中からは城山(東の峰)が峻険な岩肌を北面の柏尾谷にのぞかせて聳え立っています。金屋経氏の城だったという山の峰々は、 どのような歴史を秘めているのか!! 直ぐ其処が市街地だと感じさせない深い緑の中に毅立する山ですが錦秋の鎧を纏う頃には訪ねて見たいところです。中ン峠には多田繁次の著書の一節と思われる説明文の案内板が建っています。 (全文)
"とうげ"という言葉は、山にあこがれ、旅を慕う人の心に親しみと、郷愁と、 希望とがいりまじったひびきを持っています。昔、自然の山に向って人間がひらいた峠そのものの由来を考えると、山の両側に住む人と人との交わり、物と物とのやりとり、文化の交流、そんな目的のために作られた峠には多分人間的なよろこびとかなしみ、 その他さまざまな感情がみなぎっていたことと思われます。稚児墓山(西側)と、花折山(東山)との鞍部を越す志久峠、この峠も私たちを歓ばす美しさと、静けさをもっており限りなき愛慕の情をよせるようです。 こんな峠が思いがけなく見ることができる神戸をいつまでも大切にしたいものです』
中ン峠より帰路の参考タイム⇒花折山(PM2:20)⇒柏尾谷下降点(PM2:40)⇒二股出合(PM2:55)⇒原野八王子神社(PM3:15)



【伝説の稚児ヶ墓山と花折山】
「肘曲がり」の分岐には 朽ちて一部剥がれ落ちた説明板に「この沢を登りつめたところにある稚子ヶ墓山・・」の由来が書かれている。
織田信長の播磨平定では天正6年(1578)毛利方についた三木城の別所小三郎長治を攻めるべく羽柴秀吉に命じた三木城攻めでは、秀吉軍に包囲され1年10ヶ月にもわたる「三木の干殺し」といわれる悲惨な兵糧攻めの史実はご存知の方も多いと思います。
稚児ヶ墓山「伝説の椿」の小塚

明要寺は三木・別所氏の信仰も厚く年々寄進を受けていて、 その恩顧に報いる為にと僧侶達もが秀吉方の監視の目を潜って城内へと兵糧を搬入していたが見つかり、兵糧輸送に当たっていた彼等は捕らえられ一人残らず殺戮されてしまいます。この時 丹生山の明要寺も攻められ焼き討ちにあいます。武装した僧侶達の多くは逃げ場を失って谷に落ちて死んでいった。寺には多くの幼い侍童・稚児も居て、 戦闘が始まると一団となって明要寺から北東の尾根伝いに落ち延びて行ったが遂に(帝釈山の東方)稚児ヶ墓山の山上で秀吉軍に発見されてしまいます。此々においても大勢の稚児達がことごとく切り殺されました。 ときに天正7年(1579)5月22日の雨の降る夜だったといいます。その後、それを哀れに思った村人等によって稚児らの亡骸をこの山頂に葬って墓に供える花を手折った東の峰を花折山と呼び、 この山を稚子ヶ墓山と呼ぶようになったといわれます。

『柏尾谷池の牛柱』  神戸新聞社??「神戸の伝説」から
池は山襞深く、 その水を全て受入れる位置にあって大雨の度に堤が切れ、度重なる被害に困って寄り合った相談の席で、或る男が「立派な牛を水神さまに捧げれば堤は切れない」と言ったのですが、村には痩せた牛しかいないので結局、 言い出した男の牛が池の底につながれ捧げられたということです。堤防は切れなくなったが大雨の夜など哀しそうな牛の声が聞こえるようになり、男はいい提案でも自分から言いださなければよかったと後悔したという。


 柏尾城・柏尾南城・柏尾東砦(金屋経氏の城)
  神戸市北区山田
 金剛童子山砦・花折山砦・稚児ヶ墓山城

今回のコースはスタートから尾根歩きの各ピーク全てが山城址という、 城廻りとしては此れほど能率的!!?な城攻めは無かったのに、どの城についても情報無し。柏尾谷の南側の516m峰が城山(東の峰)と呼ばれるのですが今回未登!! 
残る三城共に遺構等見当たらず・・・(^^:
柏尾谷道(二俣出合付近)から城山(東の峰516m)

柏尾城(山田原野城・原野城) (金屋経氏の城)北区山田町原野 延元年間(1336-40)
柏尾南砦  (金屋経氏の城)北区山田町原野字大滝山  延元年間(1336-40)
柏尾東砦  (金屋経氏の城)北区山田町下谷上字北山 延元年間(1336-40)
金剛童子山砦   
北区山田町下谷上字北山 永禄年間(1558-70)
花折山砦(金屋経氏の城) 
北区山田町原野字大塚 延元年間(1336-40)
稚児ヶ墓山城  
北区山田町福地字桜谷

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