神戸山手の観光登山
市章山・錨山〜滝山城〜再度山〜修法ヶ原〜布引滝 |
阪神 (五万図=神戸) T北野坂〜城山(滝山城)〜市ヶ原〜再度山 2002年11月09日
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二本松道〜市章山・錨山〜再度山〜修法ヶ原 2002年11月23日
ふるさと富士
再度山(神戸富士)
神戸の伝説:
再度山大龍寺 布引の滝(竜宮城伝説)
近畿の山城:
滝山城 多々部城(再度城)
山路城(諏訪城) 花隈城
風見鶏の館と堂徳山
三ノ宮から北野坂・元町からトアロードを山手に向う若い女性グループの大部分が行き着く所は「風見鶏の館」「うろこの家
」を主に異人館巡りが昔からの神戸観光スポットの代表コースでした。風見鶏の館前にあったラブホテルも撤去され明るい公園になったのが嬉しいですネ。ハイカラさんと観光客に混じって
薄汚れた恰好でザックを背負い、瀟洒な店や洋館前を素知らぬ顔で足早に通りすぎる私を、 周囲の人は奇異に感じたことでしょう。それも此れも此処「風見鶏の館」までの辛抱です。
此処から先、私のコースを歩く人は道に迷ったか!!ハイカーだけでしょう。新幹線・新神戸駅へ通じる道ですが、 山手観光の人気スポット布引の滝を経て市ヶ原へと続きます。
私はその途中「うろこの家」のすぐ先で城山へのコースを辿ります。最期は神戸の夜にライトアップされた神戸市の市章や錨のマークと帆掛け舟が印象的な市章山・錨山・堂徳山
(城山の隣の山)を通って元町へ降りてきます。
T神戸山手の観光ハイキングコースを御案内
城山(滝山城)〜布引〜再度山〜市章山・錨山 H14.11.09 三ノ宮から北野坂を登る異人館観光巡りの列を抜いて、殆んどの観光ツアー客が集う北野町円形広場に着くと、
其処に周囲を圧倒する風格の異人館があり、 尖塔の上の風見鶏と色鮮やかな赤レンガの外壁は既に
「北野のシンボル」ともなった旧トーマス邸 (ドイツ人貿易商)の
風見鶏の館(国指定重要文化財)です。背後の杜が城山や堂徳山に延びているが此処から取付くわけには行かず…
隣の北野天満宮脇からの急坂を登り始めます。
みなと見晴らし台から「うろこの家」 直ぐ突き当たり右へ遊歩道が続きますが此処まで来て不安で引き返す人もいる様ですが、も少し先へ進めばベンチのある休憩展望台・堂徳山「みなと見晴らし台」です。
目前に
うろこの家を前景に神戸市街地と神戸港を見下ろして180度の展望が拡がります(AM11:35)。 魚の鱗を思わせる外壁とドームの塔が特徴の人気異人館「うろこの家」も今は美術館、
もと外国人向け高級
借家だったそうです。散策道は少し先で二本松・城山方面への急な 階段が続く山道と分かれます。勿論、新神戸駅・布引滝へは向わず、人も喧騒さえも消えた山道は稜線近くになってくると山城らしい雰囲気になってきます。調査されれば主郭と北野谷を挟んだ
此の西尾根にも曲輪跡が見つかるのかも知れません。西南端の稜線に出ると展望が開け足元の山裾の影に「風見鶏の館」が見えます。
布引ハーブ園とゴンドラ 露岩の狭いが平坦な展望地で須磨から摂津への
山陽道の物見台に恰好の場所です。緩やかな明るい尾根に紅葉が眩しく照り映えています。道幅が急に広くなると二本松
(諏訪山や再度山に向う
ドライブウェーに出たところ)方面と城山への分岐(AM11:55)。南の北野谷側に沿って帯郭か!!犬走りにしては幅がある!!山道??が西郭〜本郭に向かい高く削られた崖に沿って
続いているようですが、此れから先にも寄り道箇所が多く時間が無くなりそうなので藪の道を引き返し本丸へ向います。此処西の曲輪群からは全山に30以上はあるといわれる曲輪群ですから、
次々と大小 ・形様々な削平地・堀切や竪堀らしいもの、曲輪端には土塁の残るもの・僅かに残された石積みや石垣の残石も点在してしています。
瀧山城址石碑のある本丸からは 此れから向う再度山は滝山城と運命を共にした多々部城(再度城)があったところです。一段下の広い曲輪(二の丸)へ降りると城の縄張り絵図付き案内板がある。曲輪や土塁・石垣の残石や
一部には石積みの残る遺構を確認しながら新神戸駅へと下るが、右
上部に連郭が続くと思われる 主郭東南尾根の横を捲いているので、途中から横道の踏み後伝いに尾根通しに戻ってみるが削平地の他には目だって特徴もなく竪堀の上部、石積み跡の残る曲輪近くに戻り先程の道を下り
布引滝・新神戸駅への分岐を市ヶ原に向います。
滝山城二の丸(樹々の高みが本郭) このコースは生田川に出て「猿の掛け橋」を渡ると300mほど下手に布引の滝が懸かり、布引貯水池を経て市ヶ原・森林植物園・徳川道を経て穂高池や
摩耶山天上寺へと通じます。右正面の尾根コースが新神戸駅へと続く大手道は、東曲輪群から東へ下る尾根道を布引ハーブ園を結ぶ新神戸ロープウェーの下を通りゴンドラの乗客と挨拶できる程です。
「猿掛け橋」から布引滝へは直ぐなのですが、寄らず布 引貯水池から市ヶ原へハイキング道を辿り
桜茶屋の前(PM1:00)で河原へ出て再度山大龍寺への道に入ります。
此処から大龍寺へ新ハイキング道の付替え工事がされています。布引貯水池へ再度山ドライブウェーから車では入れるようトンネル工事中です。再度山ドライブウェイに出てくると
正面に朱色の
大龍寺山門(PM1:20)が再度山への登山口です。ドライブウェーを北へ進むと 修法ヶ原から神戸市立森林植物園・六甲牧場へと六甲山観光のスポットへ通じます。
山門を潜っての参道は
毎日登山発祥の地善助茶屋跡から、 二本松を経て諏訪山へ下るコースと合流して本堂に向います。 再度山は古刹大龍寺で知られていますが 六甲全山縦走路の通過ポイントでもあり、また
神戸富士とも呼ばれていて何時も多くの登山者や観光・参拝の人々で賑わっているのに、 登山者の多くは本尊前を通過するか此処で引き返しているようです。 再度山山頂まで 其れほど遠い訳でも厳しい登りでもないのに不思議な現象に思います!!。本堂脇から四国
88ヶ所霊場巡りコースを辿って奥の院へ向かい、さらに奥の院の脇から山道に入ると 急に周囲に露岩が目立ち始めます。急な岩場伝いですが参道です。一際スッキリと目立つ大岩に着くと「大杉大天狗」XXX大神が祀ってあり、直ぐ上1〜2分の所が
再度山山頂です (470m PM1:30)。
大龍寺山門
山並みのハジッコにあって展望良さそうで神戸富士らしく見える場所はあるが台形の山頂は仕方ないのかも!!。滝山城と同じ南北朝期の城山で、山頂と隣の小ピークを繋ぐ 稜線に連郭式の
再度城(多々部城)があって、建武年間(1334〜48)に赤松則村らが大龍寺を城郭として修築して建武3年
(1336)の湊川の合戦後は、赤松信濃守範資が攝津守護となり、此処に居たが次いでその子・光範が城主となっていたところです。稜上の二つの曲輪の間には本丸側に浅い堀切があり、
写真を撮っておこうとしたが其れらしく写せないどころか「カードが一杯」アレコレ操作しているうちに今度はバッテリ切れ。此の先記録しておきたいスナップも撮れず次回再訪が必要の様です。
展望のない山頂から西北の修法ヶ原池へ山道が下って行きますが、先ほどから雨が断続的に降ってきます。なんだか段々強くなってきますので早々に引き上げて
善助茶屋跡 (PM2:05)から山道を下ります(雨は激しさを増して降り注ぎますが 通り雨のようです。二本松の車道に出る
頃には修まりました)この道は
毎日登山のコースの一つで、途中には「塚本道」の説明板もあり六甲登山歴史を振り返ります。
二本松バス停
(PM2:15)から5分程で城山への尾根を分けてからは紅葉に染まる城山を眺めながら堂徳山(帆掛け舟の電飾がある)に向います。
市章山山頂
切岸で囲った曲輪を思わせる堂床山展望台からは再度山が見える休憩芝生ですが三角点は此の先、
鞍部からドライブウエーに出る道を見送り数秒で登り付いた所に
堂徳山山頂(3等三角点 2:25)があり、その先に山道とが続いていますが道標には「行止まり」と書いてあります。
帆掛け舟の電飾装置への巡回コースなのでしょう。引き返しこの後は何度もドライブウェイと交差する道となり、早速・車道を渡って尾根筋をくだり再度車道を渡り終えると
南の神戸市街地と海の展望を楽しみながら8本ばかりの赤松に囲まれた高台には、ゆっくり休めるベンチも用意された
市章山(PM2:40)に着きます。
風力発電装置の施設が目立つ
錨山は直ぐ隣。此処から
太子の森へ出て、下り続けると追谷墓地への入口でもある神戸・箕谷線「深道閣トンネル」東側に降り立ちます。異人館通り(山本通)西へ、
城ヶ口交番角が再度山ドライブウエー入口で、次回は諏訪山からのコースを予定です。
U再度(ふたたび)山は二度行く山!!二本松道(塚本道)〜市章山・錨山〜堂徳山・再度山〜修法ヶ原〜布引滝
H14.11.23 紅葉散歩にと再度・再度山への再訪には妻を連れ出して、元町駅の改札を出ると大勢のハイカーが待ち合わせしているようでしたが、
この駅からハイカーが向う登山口の殆どは諏訪山と思われるが素直に山に向わない捻くれ者ですのでモトコー(元町高架下)商店街を西に向って歩き出します。
元町駅とJR花隈駅の中間付近で高架下を山側へ抜けると昔のホテル街!!?石垣の目立つ一角が花隈公園です。公園??何処が!!という感じで総石垣で囲まれた高台に向うように
階段を上って行くが階段途中の重厚そうな扉には神戸市営駐車場の文字度が・・此処は神戸市営駐車場です。石段を登ると長い石畳のスロープが続きますが石積みやスロープ
先の櫓・門跡らしい縄張りは近世の城郭そのものです。スロープを曲がりこんだ所に
記念石碑が埋め込まれた広い平坦地が
花隈城址公園となっていますが緑の少ない公園に人の姿は有りません。
相楽園
東の奥に天守台や隅櫓跡を思わせる入組んだ石積みが施されているが公園の下は駐車場。天守台も通風口・ビルに囲まれた不思議な一角から神戸の街を見下ろすが此れから向う山手には市章山と錨山が見えています。 昭和40年代に城址が崩され駐車場に変わってしまいましたが歴史遺産を残そうと石積みや天守台まで造られているが元の縄張りに沿っての再現かどうかは疑問です。市内地に在って消滅してしまう運命がイメージとしてだけでも残されたことが嬉しいですネ。山手に向っての坂道はツツジや菊の名所で回遊庭園のある相楽園横を通ります。高塀が取り囲む壮大な敷地は第11代神戸市長 ・小寺謙吉氏(昭和22〜24年在職・初代公選市長)の小寺邸でした。
相楽園の表門へ廻ってから「こうべ小学校」との間の 車道を北に向かい突き当たッた所が登山口です。ミス神戸の発
表セレモニーが行なわれた際に入園した。
旧ハッサム邸
(インド系イギリス人貿易商)が移築された頃で池畔に御座船の
船屋形があった事は覚えていないが
旧小寺家厩舎が残っており、いずれも国の重要文化財に指定されている。菊花展の時期はライトアップされているので異人館巡りの夜の隠れスポット!!。
諏訪山緑の相談所の超ミニ植物園にて!!
相楽園前からは
ビーナスブリッジが見えてきます。
突き当りの三叉路(公園下交差点)から諏訪山公園への散策歩道が続き左側に諏訪山稲荷への急な坂道が延びています。その三叉路に9月末頃OPENした
杏杏(シンシン)という 中国廣東省家庭料理の店があります。元町にお父さんの店があって、以前から豚マン一筋!!の若主人が手造りの鶏飽・叉焼飽を主に此処に開店されたのですが、
珍しく朝7時から昼2時までの営業です。此処は毎日登山の再度山へのスタート地点です。出発前の朝粥や下山後の昼粥!!も良いのでは…私の存知よりの方の若夫婦のお店です。諏訪山稲荷へ向う前に西隣に諏訪山公園緑の相談所の超ミニ植物園を覗いて見ます。隣にグラウンドが在ってフエンスには桜色の花が咲いているのですが良く見るとアサガオ!!。
フユアサガオと呼んでいるがホントの名は知らない。種からの育成は難しい、花の色は此の一種類だけだと聞いた。これほど多くの花を咲かせているのも珍しいと聞いた。
後で調べたら秋も遅くまで咲き続けるという、宿根アサガオの
オーシャンブルーで朝のうち鮮やかなブルーで夕方には濃いピンク色になるそうですが写真のように 昼にピンクの花を開いているのは何か条件が有るようです。諏訪山稲荷・諏訪山神社
への 急坂を登り手前で諏訪山公園の金星台石碑横へ出てみます。 公園の中央広場には多くのハイカーや犬の散歩・子供との散策に訪れた人達で賑わいます。山裾へと平坦地が随所にあって コンクリート階段が残骸のように残っているところがあります。此処は市立動物園が有った所で 1928年開園していますが1951年に現・王子動物園に移転しています。
錨山のシンボルマーク
雑木の紅葉が綺麗ですが展望はいま一つです。休んでいる此処は金星台と呼ばれ石碑が建っていますが、明治7年(1874)神戸外国人居留地にいたフランス海軍の
星学士G・ジャンソンらが、金星が地球と太陽面を通過する100年に1度の現象を観測した記念碑で、展望の良いこの丘を金星台と呼んで親しまれてきたということです。
金星台の裏手から延びる遊歩道を辿って大師道を大龍寺へ向う道を分けて右手の人気スポットと展望の道を採って 再度山ドライブウェイを跨ぐ緑のループを描く歩道橋がビーナスブリッジと名付けられた神戸市街を見下ろす夜景が特に見事な展望スポットですが、 何処かの名所の真似事ですが愛と美の女神・ビーナスにあやかってか南京錠がかけられ、見苦しくもありますが、堅く結ばれ永遠の愛を願ってのことなので、そっとしておいてあげましょうか。
ダリウス型風車
ビーナスブリッジを渡って展望台に出ると
広い台地に休憩ベンチ・無料開放中の双眼鏡が有る。北のレストラン側に寄ると市章山・錨山が山肌にシンボルマークをのぞかせています。レストラン(閉店?)横の階段を下り、
車道を横切って山道に入ると、錦織り成す木々に今日一日・素晴らしい紅葉のプロムナードが始まるが何度か車道を横切る箇所がある。「再度山方面⇒」指示の標示を見て階段を上る。
チョッと急な斜面を登りきると錨山の展望台は直ぐ其処。目の前に錨のマークに ウバメガシの植込みや電飾の電球が並んでいます。此処から右手方向へは先日下った『太子の森』を経て北野の異人館巡りの人ごみに混ざることとなります。錨山は明治36年 (1903)神戸港沖での明治天皇臨幸の観艦式の際に学童や市民15,000人が
神戸富士(再度山)
日章旗を持って錨を形づくり歓迎したのを記念して錨の形に松を植樹したのが始まりですが、
その後年月を経て錨の形が 不鮮明になった為昭和41年(1966)に現在のウバメガシに植え替えられています。錨山と隣接する市章山の電飾設備は昭和56年(1981)神戸ポートアイランド 博覧会の協賛事業として設置され、電飾に必要な電力は此処にある風力(ダリウス型風車 )発電施設と二つの展望台休憩施設の屋根に取り付けられたソーラパネルによる太陽電池の発電による
自然エネルギーによる電力が使用されています。錨山展望台からダリウス型風車が珍しい 風力発電施設の 横を通り、市章山のベンチで展望を楽しみながらの休憩後は引き返して車道を渡り一段と紅葉・黄葉が映える緩やかな尾根道を行きます。
(錨山の説明板を参照) 修法ヶ原
再度山が神戸富士として、また山城(多々部城)としての姿を見せてくれるのも此の辺りからですが送電線と鉄塔で風情も損なわれがちです。もう一つのシンボルマークの山堂徳山
(帆掛け舟)も、此の先で車道へ出て登り返せば直ぐのところですが三角点が山道の側にあるだけなのでコースにある展望台に出て一休みします。再度山から鍋蓋山への稜線を背景に
紅葉した山々が金襴緞子の柄帯を拡げて見せてくれます。城山(滝山城址)からの道と合流して少し下るとドライブウェーに出る。此処が二本松で猩々池から再度山への林道 ・塚本道!!?コースと分かれ尾根コースの二本松道を採って大龍寺へ向うと善助茶屋跡に着きます。
「毎日登山発祥の地」の石碑前の直ぐ先が大龍寺の山門上の駐車場兼広場!!で本堂や稲荷社に向う正面の階段道の左手からも多くの登山者が抜け出てきます。
蛇ヶ谷の紅葉
鍋蓋山からの道は六甲全山縦走の人気コースですが、同じコースの直ぐ横から尾根を辿って再度山山頂を経由して奥の院から本堂を経て大龍寺山門へトレースする人は殆どいません。急な登り下りに加えて展望も無く、敬遠されるのでしょうか。再度山へは前回レポートで触れましたので割愛しますが、山頂付近は多々部城で最高部の東下にも小さな曲輪が何段か続きます。西への山道は修法ヶ原(しおがはら)への散策歩道に出て来ます。10m程南には多くのハイカーが行き交う 縦走コースなのに山頂からの道で人に合うことは殆どありません。 修法ヶ原の池を廻って市ヶ原へ向かうが名前の由来の弘法大師修行の霊蹟地・
蛇ヶ谷の紅葉
弘法池へも寄って見ます。修法ヶ原から市ヶ原へは
蛇ヶ谷道を下ります。このコースも素晴らしい紅葉ツアーコースですよ。称徳天皇の命をうけた和気清麿が寺塔を建てる場所を探して此の谷に入り、賊に襲われるが蛇身を以って示
現された「聖如意輪観音菩薩」によって難を免れ、観世音がご出現になった場所を「
蛇ヶ谷」と称し、龍に救われたことにより大龍寺と称されたことは
再度山と大龍寺由来を参照ください。蛇ヶ谷コースを抜けると大龍寺から市ヶ原への登山道と合流します。今日は六甲全山縦走イベントの日だったようで、
参加者のワッペンがザックに揺れています。此処から
市ヶ原の河原へ出て桜茶屋側へ渡って布引水源地を通って滝山城への水の手
猿の掛け橋までは先日の逆コースです。
雄滝【布引の滝】雌滝
猿の掛け橋からの遊歩道沿いに滝山城址を見上げると逆光で銀色に光る「
神戸夢風船」のゴンドラ
(新神戸駅とハーブ園を結ぶ)が
山肌を横切って風船のように横切っていきます。登山者と布引観光に訪れる人達で散策道は賑わってきます。周辺に歌碑が目立ってくる分岐を右折すれば茶屋へ出れば
布引の滝・雄滝の荘厳な姿が見え
ます。
落差43mで滝壷へ滑り落ちる水流こそ少ないが、なかなか見応えのある滝は
日本三大神滝です。布引の滝には雄滝と雌滝が有ることはご存知ですよネ。雄滝は
市ヶ原へのハイキングコース途中にあり茶屋も有り立ち寄る人は多いのですが、
雄滝【布引の滝】雌滝 雄滝から雌滝の間の深い峡谷に
夫婦滝と鼓ヶ滝が懸かり、鼓ヶ滝の展望台もあって、 この谷に迫り出した展望台はチョッとスリルも味わえますよ。此れら四つの滝の総称が布引の滝なので・深く短い峡谷の最期の出口が雌滝です。下方から滝の前の広場へ降りてくると紅葉に映えてる奥まった所に懸かる雌滝(約20m)は雄滝の派手な勇壮さとは対象的に奥床しい昔の!!日本女性の風情があって良いですよ。
滝壷には竜宮があったという伝説を添えて本日の
龍尽くしのコースを終えて新幹線新神戸駅へと下ります。滝山城址への分岐の先から新神戸駅へ降りず
階段を登り返すように城山の山裾を捲きながら続く山道は「神戸夢風船」ゴンドラが行き交う間近を通って風見鶏の館へと通じています。
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毎日登山 毎日登山は神戸に居留
する外国人が早朝に、山に登り清く涼しい空気を吸って、心身ともに爽快になることで、その日を元気に過ごすことが目的ですが、
やがて神戸市民にも登山文化として広がってきます。明治時代に登山した外国人が
善助茶屋にサインブックを置いて、登るたびに署名しているのを真似て六甲山に
登り始めたのが毎日登山へと発展してきたのだといわれます。
善助茶屋跡の記念碑・本堂参道の階段の壱萬回塔 再度山大龍寺の善助茶屋跡に
「毎日登山発祥の地
」の石碑があり、六甲連山を背にする神戸市民の習慣となってきた 早朝毎日登山の多くのコ
ース(高取山・菊水山・摩耶山・保久良神社等)の中でも、最初の団体とコースが明治43年(1910)塚本永堯氏を会長に創立された
神戸草鞋会(後の神戸徒歩会)で、
登山コースの開設や補修が行われてきました。
善助茶屋跡の記念碑・本堂参道の階段の壱萬回塔 塚本氏が毎日登山コースとして整備してこられた
塚本道のひとつが諏訪山(二本松から猩々池を経ての
大師道)
〜再度山へのコースですが再度山ドライブウェーと並行するように
二本松道が今は多くの市民に利用されるコースのひとつとなっています。 明治43年の神戸徒歩会以降、大正3年の日本アルコウ会、神戸野歩路会、大正11年の神戸ヒヨコ登山会など、次々と登山会が設立されていき毎日登山が定着普及していきました。再度山登山連合会!!による「塚本道が今の二本松道コースとは違う」旨の説明札がありますが、いずれもハイキングには良いコースです。
布引貯水池神戸市の水道は明治33年(1900)4月・全国で7番目に近代水道として
布引貯水池により給水を始めました。布引貯水池ダム(五本松堰堤・高さ33.3m、長さ110.30m)は水道専用・重量式コンクリートハイダムは日本最古のものとして知られており、コンクリートの重量で貯水池の水を支えています。ダムの表面は綺麗に石張りが施されていて当時の人々が一つ一つ積み上げていったものです。
(布引貯水池説明板から)
滝山城 多々部城
山路城 花隈城
滝山城(多芸山城・多喜山城・布引城) 城山 317m 神戸市中央区城山
新幹線・新神戸駅の山手から布引の滝に向う ハイキングコース途中に「史蹟 滝山城址」の石標と縄張り図
付き案内板があって、急な尾根伝いの山道が滝山城に通じる大手道。殆んどのハイカーは布引の滝・市ヶ原に向かって行きます。此の先・布引滝を見てから
「猿の架け橋 」を渡って滝山城址へ登るコースもある。築城主や年代は不明ですが南北朝期の正慶2年(元弘3年 1333)
本丸の櫓台に建つ滝山城址碑 赤松(円心)則村が
護良親王の令旨を受けて播磨の苔縄城(赤穂郡上郡町)に鎌倉幕府討伐の兵を挙げ、摩耶城に立て篭もり河内の千早城に立て篭もった楠木正成を囲む北条勢を牽制しています。
同年・鎌倉幕府は滅亡し後醍醐天皇の「建武の新政」(1334〜37)が始まった頃
赤松(円心)則村の築城と考えられ則村(円心)の京都侵攻は滝山城が拠点になっています。 建武の新政崩壊後は足利尊氏の挙兵に、いち早く呼応して播磨の白旗城に挙兵した則村の長子・
摂津守護となった赤松範資とその子・光範は滝山城と
多々部城(再度山)に拠っています。
建武3年(1336)足利尊氏の追討に向った新田義貞が脇屋義助に滝山城を攻撃させ、 迎えた赤松範資は苦戦し城を放棄して
白旗城に逃げ帰ってしまいます。
滝山城の曲輪・堀切 その後多々部城にいた範資の子 ・光範が摂津守護として滝山城に入って城の守りにつきます。文明年間(1469〜87)に赤松政則は管領
・細川勝元の後援を得て赤松家を再興しその際、滝山城は一族の井上四郎左衛門成蔭に守らせています。享禄元年(1528)赤松氏の一族上月伊予守が滝山城に拠り細川高国に属した為、
細川春元の家臣柳本賢治に攻められ落城。以後
松永(弾正)久秀の居城となり弘治
2年(1556)7月、主君の
三好長慶を招いて猿楽や能・連歌の会を催した時に 荒廃していた城を修復したと思われます。永禄6年(1563)松永久秀は長慶の子を殺した下克上の武将ですが
永禄9年(1566)には三好方の篠原長房に滝山城を落されています。
滝山城:石積・土留め石の残石?
長房が城主となったが永禄11年(1568)に織田信長の摂津攻撃に攻し切れず逃亡し、滝山城は荒木村重が領有し伊丹に本城を構え
花隈城(中央区花隈町)の付城として家臣の池田泰長に守らせます。天正6年(1578)荒木村重の信長に対する謀反の為、
翌7年には信長により花隈城と共に滝山城も攻められ池田泰長は戦死し落城します。市街地近くにありながら、1〜2段の土止め石積みの残石や空堀・堀切・竪堀
・30を越すといわれる郭跡や土塁・井戸跡等、南北朝期から中世にかけての山城の遺構が比較的良く残されています。
(兵庫の城紀行 朽木史郎
・橘川真一 編著 神戸新聞出版センター 等参考)
多々部城(再度城・多田部城) 468m 神戸市中央区再度山 再度山
大龍寺(真言宗)にあった多々部城は建武年間(1334〜48)に赤松則村らが大龍寺を城郭として修築して建武3年(延元元年1336)の湊川の合戦後は
赤松信濃守範資
(のりすけ)が攝津守護となり、此処に居たが次いでその子・光範が城主となる。 寺は建武の兵乱で焼失したが観応2年(1351)範資により再建されたといわれます。観応年間
(1350〜)に赤松信濃守則実兄弟が此処に拠って楠氏と応戦。貞治元年(1362)楠木正儀(まさのり)・和田正武らが滝山城・多々部城を攻めたが守り堅くて落せず河内に引き返しています。
永享年
間(1429〜41)に赤松満祐が支配し文明年間 (1469〜87)に赤松政則は大坪越前に守らせています。
享禄元年(1528)の滝山城落城のころ同じ運命を辿ったと思われます。山城とは尾根続きの北西約1.5km地点に多々部城があり滝山城の搦め手を押さえていました。
大龍寺境内から再度山(多々部城)
滝山城への取り付きは、再度山大龍寺奥の院の脇からさらに急な露岩を伝う山道が山頂を経て修法ヶ原へと降りて行きます。此の山頂から西へは小さく低い堀切の先にも
削平地が有り土塁や曲輪が残っています。奥の院から「大杉大天狗」を祀る付近には露岩が散在しており、直ぐ上方が山頂本丸。これらの石材が城の浅い堀切りや虎口部分を堅固する
石積みに使用されていたことは想像できるのですが…?
再度山と大龍寺 古くは摩尼山と 呼ばれていた再度山は延暦23年(804)弘法大師が唐(中国)に留学の際、
海路安全祈願にお詣りされ、無事日本へ帰国後に再び山に登りお礼参りされたことに由来します。そのおり、お努めを修められたのが修法ヶ原(しおがはら)です。
大龍寺は神護景雲2年(768)に48代・稱徳天皇は深く仏法を信仰され、日本の発展の基を仏教に求め和気清麻呂に勅して寺塔建立の為、阪神方面にこられた。
清麻呂公がこの山に登る途中、賊に襲われ九死に一生の危機に際し、当山本尊 蛇身を以って示現(神仏がその姿をこの世に現し示す)され難を免れたことにより、
此処に堂を建立し龍に救われたことにより大龍寺と称された。ご本尊の如意輪観音像は昭和4年に国の重要文化財に指定された、一木彫で天平時代の作で神戸市内最古の仏像です。
優美な曲線の女体で昔より安産、老人には忠風除けご祈祷に霊験があるそうです。
(再度山大龍寺 及び神戸市教育委員会・案内板等より)
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再度山大竜寺
(神戸の伝説から!!) 延暦23年(804)今からおよそ1200年前に弘法大師が仏教を学ぶため唐(中国)に留学の際、大輪田の泊(兵庫の港)から船出しようとしていました。「そうだ、この港の北の摩尼山の山中に、観音様が祀られているそうだから、旅の安全と学問の成功をお祈りしよう」と山に入られお参りと修行をされた後、大師は唐の国へと船出して行きました。航海の途中いろいろな魔物が現れて大波を起こし、船を転覆させようとしますが、その度に大きな竜が現れて魔物を追い払い船を守ってくれました。
修法ヶ原・弘法大師霊蹟(弘法池にて)
唐の国での学問を終えて大師が日本に帰ろうとした時も、やはり魔物が大波を起こして船を沈めようとしました。この時も、また大きな竜が現れて大師の船を守ってくれます。
船の近くを泳いでいた竜も、船が大輪田の泊(兵庫の港 )が近くなると急に海から飛び出して、北の摩尼山の方角に飛んで行ってしまいました。「あれはきっと摩尼山の観音様のお守りに違いない。
修法ヶ原・弘法池への道
もう一度、山に登って航海の無事を感謝する為、お礼参りに行こう」大師は山中の観音様に、
もう一度お参りされました。すると山中の谷間に、あの竜が寝そべっていたということです。そこで大師はその谷に立派な寺を建て
大竜寺と名付けられ、
この時から摩尼山は弘法大師が再び登られたので、再度山と呼ばれるようになり、大師が登っていった山道は大師道と呼ばれ始めたということです。
また大師が修行した場所に修法ヶ原(しおがはら)の地名がついたとも伝えられます。
山路城(諏訪城・諏訪山陣所) 諏訪山161m 神戸市中央区諏訪山
花隈城址・相楽園の北方(ビーナスブリッジのと言ったほうが解かり易い
)今は付近一帯が公園となっている諏訪山に南北朝期・観応年間(1350〜52)多々部城の範資の弟
赤松信濃判官彦五郎則実によって築かれた山路城があり滝山城・多々部城共に、
赤松一族によって楠木氏に対する守りを固めていた。
諏訪山のビーナスブリッジ 天正8年(1580)8月の花熊合戦の時には、池田恒興(つねおき)等が花熊(隈)城を攻めるための陣所を此処に設けています。
六甲から丹生(神戸市北区・裏六甲)へ抜ける交通要路として重要な地点でした。諏訪山稲荷社があり、以前は動物園が有り公園化されてドライブウェーが走り、
諏訪山山頂にはレストランが出来たりして遺構は残っていません。
花隈城(花熊城・鼻熊城) XXXm 神戸市中央区花隅(近畿の山城!!・番外の平山城)
花隈城は永禄10年(1567)
織田信長が、中国へ勢力を延ばす前進基地として、摂津(伊丹有岡城主)
荒木摂津守村重に命じて築かせた城で天正3年(1575)石山本願寺に対する海上交通の遮断等、西国の信徒である毛利氏が兵庫の津から本願寺への兵糧輸送等の連繋・援助を断つための監視拠点として大改築されたと
いわれています。天正6年(1578)三木城の別所長治に続いて
荒木村重が信長に叛いた為、天正7年 11月には村重の本城・伊丹の有岡城を落し、天正8年(1580)8月2日、一族の荒木志摩守!!が守っていた鼻(花)熊城も池田恒興(つねおき)、
輝政父子らに攻められ落城しました。
花隈城址公園・天守台は県庁他ビルに囲まれて
その後、この地を与えられた信長の部将・池田信輝は、花隈城を廃して兵庫城を築き材石等は転用されたらしい。
当時・海に面して突き出た鼻・端で名の通りのハナクマの台地にあって海陸の要害地だったようです。その規模は大きく、東は県庁、西は善福寺(モダン寺)、
南はJR高架から北は2号線(山手通り)まで東西約350m、南北約200m程の区域だったと思われ、本丸の西北隅に天守、東南隅に櫓を設け二の丸・三の丸と北に続きその東に
侍町と足軽町があり近世城郭の形態を完備した威容を示していたと伝えられます。今も花隈城址の石碑が有り、高石垣に囲まれてはいますが、石垣の内部は神戸市営駐車場、
その屋上が花隈公園となっています。
城址説明版及び「兵庫の城紀行」 神戸新聞出版センター 等参考
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布引滝の竜宮城伝説
(神戸の伝説から!!)
布引の滝は日光華厳の滝、紀州那智の滝とともに三大神滝と呼ばれ、
古くから物語や詩歌に取り上げられてきました。 新幹線新神戸駅の北約100mの所に「雌滝」が、その上200mの所に「雄滝」があり、その2つにはさまれて上流から夫婦滝
・鼓ヶ滝があり、この4つを合わせて布引の滝といい雄滝は高さは43m。水は6段に折れながら滝壷に落ちて、その段ごとに水がえぐった穴が開いています。此処には乙姫様が棲んでいて・龍神となって海へ出かけ、
多くの船を守ったという言い伝えが残されています。布引の滝が白く見えるのは、乙姫様の着る衣が水にさらされているからだと考えられ、多くの和歌に詠まれています。
布引滝は平安の昔から景勝の地として知られ多くの人が訪れました。
雌滝【布引の滝の滝壷】 京都に住む貴族も旧山陽道を通って滝見物を楽しみに来ていたようで
伊勢物語にもその様子が描かれています。明治の初め花園社という市民団体が、布引の滝を詠んだ多くの和歌の中から36首を選び歌碑を建てました。これらは、
その後散逸してしまったものが多いのですが、後にいくつかが復元され、現在も滝の近辺に点在しています(雌滝前案内板他参照)
平重盛がこの滝を訪れた時、岩肌に掛けられた白布のような美しい滝に見とれていたが「誰か滝壷の底を探ってくる勇者はいないか」その時お伴の難波六郎経俊が名乗り出て
紺の下帯一本に太刀を脇にかかえて飛び込み 滝壷の底深く潜っていった。ところが水の底に大きな御殿が見えてきた。思い切って御殿の屋根の上に立つと不思議なことに
腰から上は水の中、足の方は空中にある。屋根から御殿の庭に降りると、その庭には金や銀の砂が散らばり池には瑠璃や琥珀の橋が架かり、メノウや珊瑚の木が生えている。
呆然と立ち尽くしている経俊の耳に、やがてカタカタという音が聞こえてきたので、その音を頼りに建物に入り、ある部屋を開けると身の丈2m半もの大女が機(はた)を織っていた。
「此処は布引の滝壷の底なる竜宮城じゃ、よく来たものじゃ」大女は叫び、経俊は驚き急いで庭に出て御殿の屋根に登り上空の水に飛び込んで力の限り泳ぎ始めた。
「おおっ経俊。底は如何であったか」経俊は見てきたことを話していると滝の辺りから生じた黒雲が上空
を覆い、激しい雨が降り始め、ついには雷もなり始めた。「竜宮に侵入した私を神様は打ち殺そうとしているのだ。私の近くにいては危ないぞ
」黒雲は経俊の身体に巻きつきドーンと地響きがした。 やがて空が晴れ始めると経俊の身体は裂け散ってベットリ血のついた彼の太刀が地面に落ちており
側に猫の足のようなものが落ちていたという。
雄滝【布引の滝の滝壷】 この他・布引滝伝説には平清盛が滝見物にやって来た折、平治の乱(1159)で敗れた悪源太義平の亡霊が
雷鬼となって襲って来た為、家来の難波経房が立向ったが雷鳴と共に経房の身体は砕け散り、後には刀が残っただけ。その刀は経房を弔う為に建てた寺の釘に使われた話。
滝の辺りに住んでいた娘が滝に打たれて修行を積み龍神となり、人々を苦しめる悪魔や妖怪を退治した為、大竜王と崇められ時には優しい弁財天の姿にもなり、
船の航海の安全を守り、百姓の水を守り、商売を繁盛させました。大竜王は時々この滝壷に帰ってきたが、その時はかつての、麗しい娘の姿に戻っており、
人々はこの滝壷を竜宮と呼び、娘のことを乙姫と、また滝の水の流れる様子が乙姫の着る白布の衣を岩に引っ掛けているように見えるので
布引の滝と呼ぶようになった話があります。大龍寺起源にまつわる和気清麻呂を救った蛇も、再度山の由来、弘法大師の航海を守った龍は神となった
彼女の示現だったのでしょうか!!