北神戸の山 北区淡河町 石峰寺城〜萩原城〜天正寺城〜有野城(岡場城)
阪神 (五万図=神戸・三田)
石峰寺〜石峰寺山/萩原城/淡河城 〜天正寺城/八多神社/岡場城 H15.06,29
石峰寺山門(仁王門・北区淡河町)

近畿の山城: 天正寺城 萩原城 石峰寺城
 有野城(岡場城・西尾城・切畑城 二郎砦


丹生山系花折山や雉子ヶ墓山・志久峠を北に下って神戸青少年公園・中山大杣池を経て県道38号線の志染から北へ太陽と緑の道 「山陽自然歩道」が延びて石峰寺へ続くハイキングコース。淡河町野瀬の信号三叉路から北の神影に向かうと石峰寺の仁王門が迎えてくれます。 石峰寺山門を潜ると真っ直ぐ延びる車道の正面に本堂・三重塔、その背後から東側に突き出す丘陵上に石峰寺城がありました。
布袋寺(北区有野町)背後の藪が二郎砦


石峰寺(真言宗高野派)は白雉2年(651)法道仙人開を伝える古刹で丹生山系の自然林の中に鎮まっている。 孝徳天皇(白凰時代)の勅願寺として栄え中世には一里四方を寺領にもち、堂宇数十坊を抱え多数の僧兵や学侶(がくろ)を養っていたが南朝方に与して僧兵が北朝方の赤松氏や、その与党に攻められて幾度となく僧兵が石峰寺背後の山上の城に籠って戦っているが南北朝期以降に兵火に遭う事も無かったのか?重文の薬師堂や三重の塔等の 堂宇伽藍が歴史の重みを感じさせ整然と境内に建ち並ぶ。
石峰寺参道の十輪院は庭園が有名

大日如来が祀られる本堂東の三重塔は 室町時代の建築で嵯峨天皇の勅願によるものといわれ、この時代に建立された三重塔の中では最も大きなものの一つという。 中堂の薬師堂は聖武天皇の勅願で行基が開眼した薬師仏・十二神将・日光月光菩薩が祀られており、三重の塔と中堂はともに大正4年(1915)に国重要文化財に指定されています。十輪院の庭園は江戸時代前期の池泉鑑賞式庭園で知られ神戸市指定 (平成9年10月23日)の名勝となっています。 その前の緩やか道が石峰寺で、
石峰寺にある三重の塔

左にゴルフ場への道と分かれて右手へと太陽と緑の道「山陽自然歩道」は六甲の連山を望みながら光山寺・天狗岩へと続くハイキング道。今日は城探索なので石峰寺境内から三重の塔横に出る。弘法大師と2体一組の八十八ヵ所石仏が祀られ、 なかには崖の露岩部を穿ち祀ってあるものもある。ハイキング道の手前から尾根に向う細い道から山頂部の石峰寺城を目指す。其の前に薬師堂の左手にある "徳川将軍尊霊碑"と書かれた立札が見えるので10数段の木の階段を登って立寄ってみます。此処には明石城主・小笠原公はじめ 有馬公・淡河公の尊霊碑が並び、正面右角には淡河城主の碑が建つ。
石峰寺

石峰寺城から戻って県道を道の駅・淡河の向かって走り、前回未確認だった萩原城主郭の四方を囲む高土塁や東西の切岸・南から東へ回り込む空堀と土塁等を確認した後、淡河城に寄りその後天正寺城を捜し、
帰路は八多神社に立ち寄り (城は近場にいくつか在るが所在知らず)神戸電鉄・岡場駅東の有野城(岡場城・西尾城)を訪ねた。
有馬氏・淡河氏等の霊碑が建ち並ぶ

八多神社
創建年月は不詳だが天照大神を主祭神として物部連守屋が社殿を建てたのがはじめとされ延喜(902-922)の頃・稲荷大神をも配祀し、 その後十三社を合祀し惣社とも十五社とも称したといわれます。明治42年5月に近隣の九神社をも合祀しています。刀工として有名な三条小鍛冶宗近や国久は当社を厚く崇敬し、神恩に報いる為に宝剣を奉納したと伝えられています。 本殿は平成9年10月・神戸市有形文化財に指定されました。
(現地 石峰寺と十輪院現地案内板等参照案内板による)


石峰寺城 萩原城  天正寺城 有野城(岡場城・西尾城・切畑城)二郎砦

石峰寺城 貝吹山  神戸市北区淡河町神影字聖岡

白雉2年(651)法道仙人の開基を伝える石峰寺の背後丘陵の峰続きの東端にある山城で本丸と二の丸からなる小城で、 二の丸の西は自然地形を利用した深い堀切で防備され、さらに二の丸と本丸の間にも深い堀切がある。本丸の東に空掘りと土塁が二重に築造された要害、城の北面は急峻な自然の斜面が吉川の谷へ長く裾を引き、南面には高さ4.5mの屏風岩が連なる要害です。
尾根東端の池・○○ロイヤルゴルフ場正面のピークが気になる

北側や南面に昨年も訪れてはるが屏風岩!!深い堀切を見出せない。石峰寺から集落内を抜けて志久峠へ通じる「近畿自然歩道 (旧太陽と緑の道・山陽自然歩道)」からは要害となる屏風岩等の様子が判るかもしれない。此処は南北朝時代・石峰寺が南朝方に与していたので北朝方の播磨守護・赤松氏やその与党に再三攻め込まれており、
石峰寺城・本丸部東側の空堀

その都度・臨戦時に僧兵が籠った城といわれています。暦応2年(1339)赤松円心の三男・則祐を総大将として丹生寺を攻めて淡河・石峰寺・三津田で合戦し 淡河城は落城して円心の東播磨の拠点となっており、此の時に落城したのかもしれまない?。臨戦時に使用された城ですので建物もなかったよう。三重の塔側からミニ霊場の石仏が立ち並ぶ崖下の岩場を左に見送り 一気に崖沿いの急な坂道を進み最高地点に出ると山道は東に向きを変えて尾根筋に延びていきます。
石峰寺城・最高所の高みは櫓台跡のよう!!?

此処が本丸!!?北側に土塁のような高まりを見せる部分の頂部は2m程の平坦地が櫓台跡か?。その北側下に狭いが 数段の削平地が残る。東に続く山道には低い土塁(5-60cm程度)が切岸をつくる曲輪、さらに空掘を抜けると後は何らの防護施設や曲輪等を見ないまま緩い道が続き、道なりに進むと水を湛えた池に出た。此処は有馬ロイヤルゴルフのゴルフコース場最高所グリーンの一番端っこです。

本丸部東側の曲輪と低土塁


途切れた尾根筋ですがグリーンを横断して行くわけにもいかず、しかし正面にピークが見せる山容は城址の様相ですが、既に城域を外れ何も無い筈だと自分に言い訳して・今回も気になりながら諦めます。ゴルフ場や遊園地 !!の為三角点を踏めない山や訪城出来ない所は以前・加西市の満久城と同じ感じだが満久城はグリーンの先のピークが城址なので石峰寺城の探訪はその点では救われます。

(日本城郭大系 新人物往来社版 参照)

萩原城(木津城)
   神戸市北区淡河町萩原

箕谷と吉川を結ぶR428号の淡河本町交差点「道の駅淡河」より名物饅頭屋の大看板の方が判り易いかも?。此処から県道38号線を東へ約 1km程に 萩原バス停があり淡河川に架かる橋を渡って南へと坂道を登って行きます。当初:淡河川南岸の河成段丘上にあって淡河川の支流城谷川と 湯舟川に囲まれた丘陵上に萩原城と思える地形があり間違えたが、其の台地の東方約 200m程・荻原バス停の東に「淡河連絡所(北区役所出張所)」信号の西 (手前)50m程から南側へ下る細い坂道が有ります。
残置トラックの南曲輪から堀切を挟んだ藪が主郭


むかう淡河川が河川段丘の深い谷底を見せる自然の要害となっており、対岸の深い藪の丘陵上にホント?の萩原城が有りました。1993年頃より以降にも 幾度か県教育委員会による発掘調査が実施されており調査報告書や 縄張り図もある様だが資料閲覧は未で不詳。萩原城へは淡河川に架かる状ヶ市橋を渡って登る坂道(峠部分東側の空地:以前は トラック等の廃車置場の様な所から取り付いたが、今はフエンスが張られた背高い雑木に覆われた藪で入れないが空堀を挟んだ南郭。
主郭南西に堀底から向かう土塁虎口

西方には数段の高低差をもつ田圃が拡がり民家も点在している辺りは家臣団屋敷跡だったよう。登ってきた坂道を 戻り気味の北西側からガードレールを越え主郭(本丸)と南郭(南丸)を遮断する深い堀底に降り立ちます。南丸の南から東・北面にかけては急斜面で、本丸北側に一段下ったところが「二の丸跡」で水田と 宅地となっているが東面と川沿いの北は崖になっています。
四方を高土塁に囲まれた主郭内の供養碑

南丸側から巨大なコンクリート塊などが落下していて何とも見苦しい。本丸へは高い土塁(高さ2m程・土塁上部の幅は西側が3m程と広く要所の西北端部には櫓台だったのでしょう)の残欠部?(北側にも二ノ丸の田圃から入れる残欠部?がある。共に虎口だったか?其れとも庭園や居館に 使用されていた石組や礎石が大正期には建材や田畑の石垣として!!全て持ち出されたといい、

二の丸東南角(主郭切岸下)の一石五輪塔群


その搬送路として壊されたものか?、 堀底から6m程の切岸上には東西約30m・南北には少し長く 4〜50m程の主郭四方をグルリと廻らさる土塁に圧倒される (松原城(蒲公英城)の縮小版だが!!?)。主郭中央には石碑が立ち朽ちかけ割れた「荻原城の沿革 」と書かれた淡河の自然と文化財を護る会の案内説明版が”無縁三界万霊”の石碑に立て掛けてある。
萩原城南東面の高土塁と空堀

「状ヶ市」の名からは城下に市が開かれていたからでしょう。淡河町淡河の歳田神社で羽柴秀吉が発給した制札が最近:2枚発見されており、 秀吉が淡河での市場を「楽市 」と規定して(月に六の市日を定め )商売上の課役が免除されている。三木合戦中・温泉好きの秀吉が有馬温泉へ 何度も通った湯山街道の一つが城の北・淡河川沿いに通じる。 萩原城は淡河荘を領した淡河氏の支城の一つだったといわれ築城時期は不明だが(説明版には鎌倉時代末期とある)
萩原城本郭西面に一段武者走り?と北へ二ノ丸曲輪が続く


淡河城の出城として天文20年(1552)頃には築かれていたのでしょう。 天文23年(1554)赤松有馬氏の庶流!三津田(満田)城で生まれた有馬法印則頼(1533-1602)が三好長慶に従って三木城を攻めたとき 淡河城や荻原城も 攻められて落城します。その後:有馬重則の持ち城となり 永禄〜天正初期には有馬氏も 天正寺城から萩原城に移っていたようで、遺構の大部分は有馬氏の改修によるものでしょう。僅か1km程を隔てての淡河城とは終始小規模の争い事はあった様です。
主郭南の土塁虎口

天正6年(1578)有馬則頼は別所重棟・小寺官兵衛 (黒田孝高)等と羽柴秀吉軍の中国毛利攻めに従い、別所長治が信長に反抗した為・三木城攻めに加わります。翌・天正7年(1579)5月には羽柴秀長に従って浅野弾正少弼長政【石田三成・前田玄以等と共に豊臣政権の五奉行の一人】・杉原(七郎左衛門)家次 【秀吉の正室・寧々の叔父・山崎での合戦後に福知山城主となる】等と共に淡河弾正忠定範【別所長治の義理の伯父】 の籠もる淡河城を囲んだ際、その向城として有馬則頼が萩原城に入ります。
家臣屋敷跡の西の丸から:ガードレール奥に主郭


則頼の長男四郎次郎則氏も此れに参戦していたようです。 翌6月に起きた淡河合戦では淡河城内の兵が出撃し、その夜のうちに定範が城兵を率いて 三木城へ入ったので、もぬけの空となった淡河城は落ちます!!。有馬則頼は秀吉から淡河に15000石の所領と淡河城を与えられ萩原城から移り、 城は廃され外堀は埋められ全て耕地化してしまいます。
(日本城郭大系 新人物往来社版 参照)


天正寺城(天正寺山城) 城山・天正寺山 Ca235m  神戸市北区淡河町本町

道の駅淡河からは護岸と土砂崩壊の為か、藪の竹や雑木が伐採され・裏川からそそり立つ絶壁上の淡河が 姿を見せており壮観です。此処から県道38号線(三木三田線)淡河本町交差点から、県道428号に入って真北に進む。淡河町本町の北方・天正寺山の山頂にあって淡河盆地が眼下に望む単郭の小城だが
祠を祀る主郭北の曲輪内に有る天水受け井戸?

遺構は完全に残っているといわれるが、その天正寺山がどれなのか分からない。山陽自動車道と平行に、正面に低い山並みが東西に拡がっています。この一角に天正寺山があるのですがその場所さえ判らず何時ものように山の姿で判断してしまいます。 右端にNHKアンテナ塔のあるピークがあって山頂が城山らしく台形に見え、
中央のピーク付近にあった井戸跡??

吉川へ抜ける国道沿いでもあり、この山だとばかり思っていたが、よく考えれば西端の三木市に向かう県道!!沿いの方が 三木城と淡河城の関連からも濃厚だったが低く丸い山容から見誤ったかも。お蔭で東の端・NHKアンテナ塔のあるピークから途中藪尾根をついて西端の天正寺山まで小縦走した。R428号で山陽自動車道を抜けて神戸カントリークラブ・ロータリーコースへの
愛宕社を祀る主郭北背後:露岩混じりの高い切岸(7m程)と二重堀切

入口少し手前の道脇にスペースにがあって車を寄せて、少し戻って棚田の続く谷間の道を詰上がりアンテナ塔を目指してみます。しかし此処は何の遺構も無いどころか近くに人の声が聞こえます。此の後・天正寺山へ続く尾根の北側一帯は 少し距離はあっても、神戸カントリークラブのゴルフコースです。 人跡稀な!!藪を這っている者がいるなんて、小石も無いグリーンでプレイしている人には想像出来るかな?。
天正寺城東尾根の露岩を覗かせる堀切


NHKアンテナ塔のあるピークに着くが場違い。平坦地だが造成によるものか!!?。さらに藪尾根をついて西に見えるピークに向かいます。山が低く稜上は明るく藪も大したことが無いので先に進んでみることにします。中央ピークは西に一段低い平坦地があって、楕円形の大きな窪んだ井戸跡らしいところがあった。東南方向に展望が拡がり 「見張り台」が有っても良さそうなところだが、 本峰の天正寺城は直ぐ其処・目の前に在る。
無名の中央ピーク付近からの天正寺山

この城は単郭の小城とのことなので先に進むと鞍部には急斜面の登りとなる天正寺山側に露岩を自然の石積として抱きこんで明確に残る堀切がある。 登りきって小藪を抜けると愛宕神社が祀られた天正寺城本丸の広い削平地に出た。南に展望が拡がり左右二基の燈籠の先、 急な参道の石段を下った曲輪からは正面の眼下に淡河城と淡河の町を望み、南北朝期・南朝方が籠り北朝方の赤松氏が攻め、
天正寺城から丹生山〜帝釈山(正面)を望む

天正期の三木合戦では秀吉軍が攻め周囲の山に悲劇の伝説が残る丹生山城のあった丹生山〜帝釈花折山〜金剛童子山の峰や六甲連山の姿が眺望できます。秀吉が淡河城攻めの際・付城として築いたとされます。裸同然の淡河城の様子を、その内情まで此処にあって見透かされたかもしれません。此処から南側は真下に山陽自動車道が走り、其処に向かって急斜面を階段伝いに山麓の高速道路の側、 道路公団専用工事用?の駐車スペースに降りてきて、
愛宕社裏に続く尾根に土橋と空掘がある

神戸北No21の隧道を南に抜け元の県道を駐車位置に戻ります。この城には石垣が有るとの事だがわからなかった。あるとすれば愛宕神社の急斜な南面の参道となっている登り石段に隠されているのかも知れない?。天正寺山城は永禄4年(1561)信長に抗した三木城の別所氏に与した淡河氏を秀吉方が攻め、その衰退につけ込んだ有馬則頼三津田(満田)城から侵入して築城したもので城主の居館跡は天正寺山南西麓(後の天正寺の場所)とされるが遺構は残されていない様です。
愛宕社:天正寺城主郭

天正寺山城が秀吉による淡河城攻めの付城として築かれたにしては竪堀状や堀切 ・土橋状・天水受け井戸や、急な山上近くに土塁囲いの溜め池も主郭下部に有る。愛宕社を祀る主郭周辺だけの向城として急遽築かれた小規模な単郭ともいいきれず、北尾根先の無線施設の有るピークの先?東尾根筋には岩場を削る堀切も 以前のトレースで見た(所在不確か)。堀切で城址と確認されるが付城には堀切や横堀 ・織豊系で代表されそうな?枡形虎口…等もなさそう(未確認)。有馬氏は城の麓にあった梅林寺を興して菩提寺としますが、数年後には萩原城に移り天正6年(1578)の三木合戦を迎えることになります。
愛宕社(主郭)北西下の溜池と堰堤土塁

天正7年(1579)羽柴秀吉が淡河城(淡河弾正忠定範)を攻めた時には、天正寺城が秀吉側の北の付城となり杉原七郎左衛門家次が陣しています。付城は東の無動寺付近か?有馬法印則範・西付城に淡河城三ノ丸付近か?  浅野弾正長政・南付城(西付城の南東?に有馬則頼の長男:四郎次郎則氏が其々の守将として配置されています。そして慶長5年(1600)まで有馬則頼が淡河城に在城し、天正寺城を守っていたが攝津の三田城に移封後は廃城となり、 城址には愛宕神社が祀られました。
(日本城郭大系 新人物往来社版 参照)



岡場城(有野城・西尾城・切畑城) xxxm   神戸市北区有野町西尾!

神戸市北区には誰もが楽しめる城 (フルーツフラワーパークの神戸ルネサンス城 !!)もあるが、入城料の要る城より、所在も遺構跡も定かでなく、 城が有ったことさえ忘れ去られようとしている在地土豪達の一族がその盛衰をかけて戦い滅んでいった歴史さえも明確でない摂津や丹波な里山の小城を巡っていると、三田市の"○西さん"から岡場城も良いですよ…とのメールを頂き、
岡場城(有野川北東端の土塁・曲輪跡??

丸山城のある金仙寺湖 (丸山ダム)から神戸市北区との境を走る神戸電鉄・岡場駅へ向かうが平城なのでつい見逃していた淡河町の城を訪ねての帰り 道に立ち寄ってみました。岡場の交差点を東へ 直進する道は坂を登って山口町(西宮市)阪神流通センタを抜ける坂を登りきった辺りから 北へハイキング道が神戸電鉄・二郎(にろ)駅に延びています。
有野川と高丸川に挟まれた西の丸跡の曲輪跡??

この"二郎"が岡場城を攻めた丸山城の山口二郎佐ヱ門と関係あるかは岡場城西北の有野川の崖上に"荒堀公園"の名が有り併せて調べてみるのもよさそう。 岡場交差点の東・有野川を渡った北側が岡場城(有野城・西尾城)だが、ちょっと見ただけでは河川段丘に耕作地が広がり2〜3軒の民家が残る一帯に案内標等は無く・明確な遺構の存在も無いので城址とは気付かない。
岡場城(有野川北の土塁・曲輪跡??

城域の北から西側を流れる有野川が河原から高い断崖となって要害を成し、民家のある東にも短いが急で深い谷が堀を形成しています。城域の中程(橋を渡り田圃・民家へ向かう道 )には西の丸と本丸を此処でも 深く切り裂くように高丸川が有野川へ流れ出る天然の要害。堀切・空掘・水掘は自然地形?・土塁は田圃の畔や土手??、明確な遺構判断が出来ないが城遺構モドキ?は随所に有った。
荒堀公園側から有野川と北東端曲輪跡??の様子

丸山城の築城主・山口五郎佐ヱ門時角の祖は多田源氏の一門で岡場の北西方にある上津城(茶臼山城)主の上津兵部といわれます。 有馬義祐(よしすけ)の家臣・岡場氏が築いていた城で永正年間 (1504-21)隣領地の西尾城・西尾備前守に攻められ滅んだ。摂津伊丹城主・伊丹景観を滅ぼし 伊丹城に入った荒木摂津守村重は信長より摂津守護職に任ぜられ永禄3年(1560)有馬郡を平定する為三田地方にも勢力を拡大しようと介入してきます。
岡場城(有野川西の本丸切岸??と士卒郭跡??の様子

蒲公英城主・松原貞利や丸山城主・山口五郎九ヱ門等は村重軍に降り、その先鋒となって有馬郡内の城攻めに加わり功を成し西尾氏の岡場城も松原氏・山口氏等により落城します。丸山城主・山口五郎九ヱ門は永禄7年(1564)蒲公英城主 ・松原貞利との不仲から攻められ丸山城主は 部下の兵と共に金仙寺で自刃します。その後・丸山城主の山口二郎佐ヱ門 (五郎九ヱ門の嫡子か??)が明智光秀の軍に属して再び岡場城(この時は西尾備前守の西尾城だったか??)を攻め落とし西尾氏一族は惨殺されたということです!!。
岡場城(有野川西の本丸切岸??と士卒郭跡??の様子


岡場城(有野城)に山口氏が入ったかは知らないが、三木合戦の際には秀吉軍により摂津周辺の多くの別所方の城を攻め、蒲公英城・岡場城(有野城)・丸山城も共に落城し三木城の向城や陣城に利用されたようで、 小野三郎義晴(出自不明!!)は此の時・城を預かった武将だったのでしょうか。
(山口村史、丸山稲荷神社現地案内板、日本城郭大系・新人物往来社版 参照)

二郎砦 xxxx 神戸市北区有野町二郎

R176号線「日下部交差点」から県道38号 (三木三田線)・県道15号(神戸三田線)へ右折し布袋寺に向かうが 県道15号線から神戸電鉄三田線二郎駅を目指す方が判り易い。西方の低丘陵が県道38号線の走る北端へ延びる末端付近に月亭山布袋寺が見えています。 此処には「
松原軍記」に記される二郎(にろう)砦が在りました。
布袋寺本堂裏手の土塁線

県道15号から標識を見て細い車道に入ると行き止りかと思える様な正面に二郎駅があり 神戸電鉄三田線に沿って流れる有野川に架かる橋を渡ると布袋寺と墓地背後の高台に建つ布袋像が笑顔で迎えてくれる丘陵先端部が二郎砦跡とされるが砦と呼ぶには長い土塁線・平坦地を囲い込む土塁屈曲する空堀・段差のある曲輪等広い台地は居館跡。しかし内部は密集した竹薮と猛烈な雑木と下草で覆われ遺構は部分的に確認出来ず全体像は把握できない。城跡からは三田・道場方面から有馬温泉に通じる湯山街道を目前に 北方には八多〜三木〜加古川方面へ抜ける間道?が分岐する要衝の地でもあり古くから播磨や攝津勢力下の 監視砦が在ったと思えます。
布袋寺と二郎砦遠望


北神戸の「源平と神戸ゆかりの地」と云えば鵯越や 衝原湖畔から義経道を丹生神社へ、裏六甲ドライブウエー入り口近くに多聞寺があり布袋寺の山門を潜った右手にも「源平ゆかりの地」のアニメの看板・左手には十三重石塔が建つ。塔身には剃髪僧衣の平清盛(の出家姿か?)が四面に彫られた供養塔。寺には清盛の自画像と伝えられる肖像画や琵琶塚碑面文字の屏風・宮崎氏分家から寄進されたものといい清盛塚(兵庫区切戸町)移転時に出土したといわれる経石2個が保存されています。鐘楼の脇にも大きな無銘の五輪塔が建つ:此方は宮崎二郎広綱の供養塔だろうか?。其の前を通って布袋像の建つ高台に立ちます。
平清盛供養塔か!布袋寺の十三重石塔

布袋寺の開基は室町時代末期:大永年間(1521-28)平教経の子孫宮崎弾正二郎広綱が教経の念持仏:聖観音像を祀るため嘗ての領地であった八多庄に戻り、此の地を開拓して”二郎”と名付け寺を建立したのが 初めと伝えられ、二郎砦も此の時築かれたとされます。また二郎駅と布袋寺間の山裾に鳥居が見えているのが二郎大歳神社で、此の地に鎮守の神社がなかった為、広綱は有野一ノ宮「有間神社」から末社を勧請することを決め大歳神社を建立して村の鎮守とされたと云う。蒲公英城や有馬郡を所領した有馬氏と関連する二郎砦の城史や広綱については不明。織田信長の石山本願寺攻めに於いては天正4年(1576)4月14日の天王寺合戦の後、天王寺や野田・住吉の浜手に10余の付城を築きます。7月15日毛利方の村上水軍等が本願寺への兵糧や弾薬を運び込むため大阪湾に現れます。信長方は九鬼水軍等が迎え撃つが大敗(第一次木津川河口海戦)の敗因から鉄甲船を造って応戦する九鬼水軍の活躍では
二郎砦:郭内の空掘?と曲輪の切岸

11月6日再び木津川河口(大阪市浪速区)に現れた毛利の水軍を追い返し本願寺は孤立します。第一次木津川河口の海戦後の海上警固の住吉浜の砦には伊知地文大夫等と共に 宮崎二郎七!の名があり番手として入れ置かれた…とある。天正6年(1578)三木城攻めでは慈眼寺山付城の守将:有馬法印則頼に属していた様です。源平ゆかりの地:布袋寺は宮崎二郎広綱の祖で平安時代末期の武将 :平清盛の弟・教盛の次男平能登守教経(のりつね)抜きでは語れません。平家一門最強の猛将で源義経最大の好敵手として知られます。寿永2年(1183)備中水島の戦い(倉敷市)では海戦に不慣れな木曽義仲軍を破るが寿永3年(元暦元年(1184)一の谷合戦 (神戸市)の大敗で平家滅亡の道に拍車がかかります。 翌元暦2年(文治元1185)屋島に逃れた平家軍を追った義経との屋島の戦いは那須与一の「扇の的」で知られるが 奥州から随行していた義経四天王の一人:佐藤継信が義経の盾となって平教経の放つ矢で戦死します。
無銘の五輪塔は平教経か?:宮崎氏の供養塔か?

そして源平最後の合戦舞台壇ノ浦の戦い(下関市)では源義経の船に乗り込んで切りかかり義経に八艘跳びをさせるほどに追い詰めたという。 その最期は敗戦を悟るや源氏方の猛者を両脇に抱え込み、海中に身を投じたという風に壮絶に描かれている。海に飛び込み自害、同じく平知盛・二位尼時子(清盛の正室)、そして安徳天皇(高倉天皇と清盛の次女・徳子との子)も海へ身を投げたのです。 平教経の子孫は宮崎県の日向に隠れ住んでいたといわれます。

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