高嶽-時ノ子谷上-天尖 田野城・大内城・観音寺城と居館 他
福知山市(五万図=福知山)
T:多保市〜高嶽〜時ノ子谷上〜平石2002年04月14日
U:医王寺〜天尖〜大内2002年04月14日

V秋葉山〜時ノ子谷上〜高嶽〜観音寺城 2002年6月16日
観音寺城:主郭の大土塁櫓台

近畿の山城 :田野城 大内城 後正寺城 多保市城  観音寺城と居館
段山城・将監城 ・高岳城は高津城・鴻ヶ嶽城の支城群!?の移転しました


T多保市〜高嶽〜時ノ子谷上〜平石  H14.04.14

由良川源流の竹田川沿いに春日町から福知山市六人部(むとべ)に入ってくると田園風景の拡がる前方に高嶽や南方に天尖が姿を見せる筈だが前日午後からの雨・昨夜半から今朝にかけて 冷込みもあって周辺に発生している霧に隠れて何も見えない。六人部からR9号線の多保市(とおのいち)に出て府道8号線を繋いで走ります。六人部からは予定コースの後半で天尖(あまんづく)へも登ります。さて何気なく読み飛ばされてき難解な地名にはフリガナは必要ですね。 先ずは舞鶴自動車道を潜って集落内を多保市公民館に向かいます。
高嶽山頂から空山と春の霧海

高嶽への登路は高津駅(綾部の一駅手前)南の細い集落内の道から林道を辿るのが正攻方らしく、山頂には綾部側のJR高津駅ルートから登ってくるらしいテープや登頂板がある。またこの先のピーク時ノ子谷上(反射板設置)にも綾部市側の山名?になっており、綾部側への尾根を辿れば秋葉山(秋葉神社)に通じており、往復してでも寄っていれば福知山の周辺に多い山岳信仰の山を続けて2座走破したことになるが、知らず気付かずに急斜面を下ってしまい、元の舞鶴自動車道下(AM7:00)に戻り此処から土師川に架かる多保市大橋を渡った国道9号線から岩崎集落に入り町道を平石の田園の拡がる山間部への道を採ります。9号線からの 分岐直ぐに大きな貯水池を廻り込むように 多保市公民館前を通ります(AM7:10)。貯水池を隔てて今日予定の二つの山が見えるのですが霧のため高嶽は見えず、天尖も流れる霧の中に黒っぽい山影を見せています。
多保市公民館の善光寺池から高嶽

貯水池側の丹波善光寺を過ぎると山際の道には春の小さな草花が足下を飾り、山側はツツジが蕾を膨らませ一気に花を咲かせる時期を 待ち構えている様子です。舞鶴自動車道のガードを潜って武田製品農場の門の先からは平石にかけて、いたる所に山名や谷名を記した山林所有境界を示す表示板は松茸山の止め山表示なのだろうか?。50m程先で左手へ 未舗装の農道!!が延びています。正面に一瞬、高嶽の姿を認めて詰めてみます。最奥の棚田からも道は続いているが谷沿いの道は雑木と倒木で藪漕ぎ以上に厄介そうなので植林と潅木の中に踏み跡を見つけて左側の尾根沿いに進む。途中にケーブルや碍子が足下に転がっているのは猪除けの電線が張ってあったのだろうか!!途中では時期早々かと思われるが二本だけ並んで白い顔をうな垂れているギンリョウソウを見る。時々消える踏み跡を辿り 稜線に出たところが高嶽山頂 (3等三角点 416m AM8:00)でした。三角点標石には「観音寺体育振興会」等の登頂記念板が置かれています。北方に向かう境界尾根には明確な道が綾部・高津町へ 続いています。やはりJR高津駅から荒倉谷沿いの林道から登るのが正統!!のようです。丹波霧を見たくて急いで登ってきたが此処まで展望なし。 山頂の北方向に僅かに樹間越から空山〜弥仙山〜烏ヶ岳間がひらけ由良川に拡がる白い雲海に浮んで見えます。
多保市公民館の善光寺池から天尖

東に向う稜線は登ってきた道とは打って変わった快適なうえ、親切の押売りテープも続き、直ぐ右手からの山道と合流します。多保市からの取付きで林道を素直に詰めていれば、無理せずともこの山道を辿って山頂に着いた筈です。MTBでも楽しめそうな境界尾根は遠所:時ノ子谷上(371m am8;35)の反射板のあるピークまで 緩やかな雑木の明るい尾根が続きます。その「時ノ子谷上」の少し手前から 北寄りに綾部市側への踏み跡!!があり辿り始めたが降り一辺倒の尾根のようで途中で登り返します。秋葉山(秋葉神社)への尾根かと思ったが間違い。反射板下からは東南に開かれているが霞んで遠望が効かず先日登った三峠山や五条山辺りが望めます。 時ノ子谷上への登り途中で見かけたテープ類も、いつしか消え山上の反射板を後にして「三俣へ」の表示を信じて!!下降の連続となる境界尾根の降りでは、途中・秋葉山への尾根筋など気にも留めず最後は崖を飛び降り 車道に下り立っていた。車道の先にも境界切開きが続いているようですが、此処で山菜採りモードに切り替え「わらび」を摘みます。
高嶽山頂

安場町と三俣を結ぶ峠越えの車道と思っていたが平石へ出て出発地点の多保市へ戻ってきた。おかけで公民館から高嶽とこれから向う天尖の姿が望める。 後日地図を見かえしたが此の車道は見当たらない。今度アジサイの頃には観音寺(真言宗・福知山市)コースで登ってみたいものです。1万株を超えるアジサイ寺・観音寺はご住職が発起人の「関西花の寺25ヶ所」一番札所。 二番の綾部市・楞厳寺はミツバツツジが今見頃を迎えているはずです!!。


U 京街道・国道9号線から天尖へ  医王寺〜天尖〜六人部・夏雲荘   H14.04.14

高嶽から東への尾根を縦走し 三俣へ出てくるつもりが多保市へ戻ってしまい、またしても国道9号線の 多保市大橋から再出発です。土師川沿いに 9号線を京都方面に歩き出します。500m程で池田から坂室へ土師川を渡る分岐地点には通称「かごの木 」と呼ばれ地点があってかごの木むくの木の巨木が寄り添う様に並び立っています。
「かごの木」

往時の京街道に有り、両方とも樹齢数百年を経た”かごの木”の巨木で、 近隣には珍しく学術上重要とされ”むくの木”も稀にみる巨木として、ともに福知山市の指定文化財(昭和45年3月2日)になっています。9号線から土師川を渡れる箇所が此処池田と、当初高嶽から降りてくる予定の三俣しか無いので、 車道歩きを強いられますが、対岸には 低山ながら天尖の端麗な姿を眺めながら京街道(山陰道)を南へ進みます。「かごの木」の交差点で 右折して池田橋を渡り田園の拡がる長閑な山麓の道を坂室集落に入ると、医王寺参道の標識が立っており、町道は小さな坂室橋を渡ったところが坂室公民館(AM10:30)です。
国道9号線からの天尖

橋の手前から坂室川に沿って細い林道の坂道を辿る。両岸が迫る狭い細い谷川沿いの道に民家は無く田畑が広がってきます。田畑の途切れる最奥の森の中に坂室山医王寺の朱の仁王門とお堂が見えてきます。直進する地道の林道の脇から右上の仁王門によって小休憩します(AM10:50)。医王寺の木造金剛力士像 医王寺はかって七堂伽藍を有する大寺院だったと云う。天正7年(1579)明智の丹波攻めによる兵火に、その殆どを焼失したといわれ、再建された薬師堂と仁王門のみが現存しています。金剛力士像は仁王像ともよばれ仏法を守護する目的で寺門に阿形像(右側)と吽形像(左側)が配置されます。福知山(旧 )市内の木造金剛力士像は五対ありますが此処・旧医王寺の像が最も古いものと見られています。鎌倉時代後期から南北朝期の正統派仏師の作と思われます』像高190cmと小柄で面長、彫りのしっかりした顔、躍動感あるみぞおちの造りなどが特徴の寄木造りの仁王像です。
医王寺山門の阿形像

仁王門下へ降りて進む林道(イオジ線)は直ぐ二股に分かれ天尖の方向は此処までの行程で見定めていますので左折しますが、右手は暗く荒れた奥の浅そうな林道です。 天尖は山頂に役の行者を祀るお堂があり、お参りする人もある筈なのに踏み跡さえ残らない古い林道は見送って、荒れてきた林道を進みます。狭いUターンスペースからは水量の少ない谷沿いの山道に入っていきます。 明瞭だった踏み跡は植林の中で、登るに従って薄くなるが稜線まで辿って来られた(AM11:15)。稜線は大内からの参道(登山口から 500mおきに道標もある登山ルートとして整備された)となって山頂に向かうが、山名の示す尖山ですから此処からの登りはキツイ。しかし10分程で行者堂の瓦屋根が見え天尖山頂です(Ca320m AM11:25)。

本堂へ続く脇の石仏

展望もいま一つです。お堂の奥に鎮座する石造りの行者像は既に修行を終え、 従者(前鬼・後鬼)もいない神変大菩薩の像です。「アビラウンケン ソワカ」天に飛立った最後の地・箕面の天上ヶ岳にある行者像を不図思い出してみる。行者堂正面から正後寺への下降も、すこぶる急斜面が続く様ですが次回、この道も試して見たいと思いながら元来た稜線を下ります。駐車場所の六人部の島田集落へは、北への尾根を辿ればよいが 分岐からの道が荒れ踏み跡さえ判然としない状態なのに比べ、大内集落への参道!!があまりに良すぎて遠廻りになるが此処を下る。舞鶴自動車道の車騒が聞こえてくると、程なくコンクリートの 階段に出て林道に降り立ちます。
役行者・神変大菩薩

コンクリート階段の登り口に 大内登山口(PM12:00)・「天尖行者堂まで1500m参道入り口」と書かれた表示がある。20m程先にアスファルト舗装の 広いスペースが見えています。舞鶴自動車道側道の狭い道は直ぐに「春日36」のガードを抜けて 大内集落の町道に出る。登山口へのルートが判り辛い「ガードのNo等車道から離れているので補足すると」大内ポンプ場の直ぐ先10mで左折、下地の交差点に六人部郵便局(PM12:15)があり集落内の車道を通らず直進すると、 朝通ってきた広域農道のような道に出て来ます。東方には田園風景が拡がる中に「芦田均先生生誕地」の大看板と、その先には高嶽が望まれます。車道のバス停から西北へ50m程真っ直ぐ進んだところが政治屋ではなく 真に政治家だった芦田均(第47代内閣総理大臣)生誕地の夏雲荘があり寄ってみます。


V秋葉山〜時ノ子谷上(371m)〜高嶽〜観音寺城 H14.06.16

今年(H14)4月に多保市(とおのいち )から高嶽に登ったときに寄って見たかった秋葉山への道が判らず、高嶽反射板のある時ノ子谷上からコースを僅かに違えて右下への山道を辿って平石へ降ってしまった。今回は綾部側から逆に登り直して高嶽反射板の鉄塔下へ登り着き、 前回探したが藪に隠れて見い出せ無かったコースがこの鉄塔の先、藪の中に延びているのが判った。しかし此処へ登ってくるのにも何度か尾根を見誤りワザワザ遠い枝尾根を迂回するトンでもなく長いルートに入ってしまった。もともと秋葉山へは参道がある筈だが、 取り付きが判らず1時間とかからないコースに3時間以上かかってしまいました。
高津城址(八幡山城)

府道8号(福知山綾部線)のJR高津駅交差点を右折して 荒倉谷に沿って狭い集落の道に入っていきます。交差点には高津八幡宮の大きな絵入り説明案内板が立ち、金鳩伝説により元慶5年(881)八幡宮が勧進されたという高津八幡宮の鳥居が東側の森に見えています。 此処も又明智光秀に滅ぼされた大槻氏の高津城(八幡山城)のあったところです。今回コースの後で散策を予定している周辺の山城の一つですので、此処は続編の甲ヶ岳登山の(鴻ヶ嶽城)で説明したいと思います。
荒倉谷に沿っての集落内の道は狭く 林道に入るまで駐車スペースは無さそうです。集落奥の荒谷川に掛かる谷口橋(倶利伽羅不動尊を祀る 祠が左手にある)まで入ってみたが、 いずれ周回してアジサイ寺で有名な関西花の寺第一番・観音寺側へ戻ってくるつもりなので引き返し高津公民館側のスペースに車を寄せます(AM7:10)。
深谷林道への 分岐から将監城(手前右)と高嶽(中央奥)遠望

綾部の名木100選第一号のケヤキの大木の側には「是より丹波国何鹿(いかるが)郡・・ 」の古い石標が建っています。公民館前からの道は直ぐT字路となり谷よりの道へ左折すると瑞亀山隠龍寺(曹洞宗)の山門前を通り、 先ほど引き返した谷口橋に着き、 高嶽の方向だけはマークしながら荒谷川の沿って林道を進みます。 途中・高嶽方面に向うと思える荒谷林道を右に分けるが、直進するとトーテムポールの建つ広場が有る。蔓草に隠れるようにぶら下がっている 板には 「道心門」と書かれている。 宗教的な雰囲気なぞ全然感じられない場所です。小屋があって入り口にポーイスカウト章が掛かっていた。「そなえよ つねに 」が今回も耳に痛い言葉として帰ってきた(AM7:35)。 この広場の直ぐ先で草に覆われた林道分岐となるが直進は、 歩くのも大儀そうなコースのようです。右手の小広い道も直ぐ行き止まりとなるが踏み跡は明確に続いている。段々斜面も急になり足幅にステップの切られた登りとなって、 やっとドウもおかしいぞと感じ始めます。稜線に出て二つばかりのピーク (AM7:55)を越して尾根を下り始め登り返して樹間越に望む、谷を挟んで対峙する尾根が本物の秋葉山〜高嶽稜線尾根だと判る。正規の尾根を辿ろうと 最初のピーク付近まで 戻って取り付き直すつもりで 選んだ尾根は下降するだけ。 なんと・・・トーテムポールのある林道広場へ降りてきた(AM8:40)。秋葉山を諦めて高嶽へ向う林道まで戻ろうかとも思ったが再度同じコースでリベンジします。 [そなえよつねに ]地理院等の地図があれば、既にこの地点で秋葉山への登路の谷筋道 (参道)を過ぎているのが判るのですが仕方ないので、 兎に角一度はこのコースをトレース・・・のつもりで秋葉山への大迂回ルート開始です。赤白ポール(岡生森)路肩注意のポールの建つ林道に出て来た(AM10:00)。
高嶽山頂(2010/01/23)

この道が安場町と 国道9号線の三俣を結ぶ峠へ通じる道で15分程で時ノ子谷上(高嶽反射板のあるピーク)への登山コースに出て、 途中に秋葉山への分岐となる(AM10:20)。登ってくるべき秋葉山へは、この分岐から15分程下って真新しいお堂に秋葉権現を祀る秋葉山(AM10:35)。分岐から秋葉権現までは不明瞭な林の中の道ですが、高津集落へは立派 !!な広い参道が続いているようだ。分岐へは10分で戻り15分程で高嶽反射板のある「遠所時ノ子谷上」の鉄塔下に出て来た(AM11:00)。 多保市への分岐ピーク「荒谷」を過ぎれば4〜5分で高嶽山頂だ(416m AM11:25)。此処から北へ境界尾根を辿れば観音寺へ出られると思ったが、そう容易なコースでは無さそうです。途中に右下へ「高津菅谷・本福寺谷」の山道が続き (AM12:10)良く利用されている登山ルートの様です。

尾根を直進する左「石原」へのルートを採るが、このコースは段々あやしくなってきます。石原へ出ず観音寺への予定なので、西へ向う踏み跡を外れて北への尾根を直進する。 西への尾根を外したまでは良かったが枝尾根を降ってしまい石原からの林道終点付近に降り、また登り直す失態です。元の尾根に戻っても明瞭な踏み跡も無いまゝ北を目指します。この付近平坦な尾根が続きますが下降に移ると 急斜面となってきます。いつしか観音寺城への尾根筋と観音寺への境界尾根間の谷筋を下って、?集落内の車道に出る。高津公民館へ戻るべく東側へ進むと山側にゴルフ場のある前に出て、そのまま公会堂まで戻ってきてしまいます(PM01:10)。 行きッ戻りッの山行で少し疲れたので近在の山城を訪ねてみようと府道8号線に戻って、これより目前の高津城とその隣の甲ヶ岳(三角点289m)へ向う。甲ヶ岳の鴻ヶ嶽城は綾部三大山城の一つです。



 田野城 大内城  後正寺城 多保市城 観音寺城と居館

田野城(福岡城・イノギ野城)  xxx 42m   福知山市田野

丹波市市島町から竹田川に沿いR9号線の六人部(むとべ)に向う車道の右手に前木戸城の丘陵を見て直線道路を約1km石原の低い峠状を越えて福知山市口田野集落に入る。此の府県境に沿って北方の竹田川に向かい、西面に高い段差(約10m程か!!)を見せる河川段丘が粗直線的に延びて最北端で 崖状に激急斜面を竹田川右岸(南岸)に一挙に落としています。
土塁東北端部虎口の土塁(矢倉台跡か?)

西方からの竹田川が土師川に流れ出て丘陵部に突き当たり北へカギ状に大きく流れを変える。西・北・東の三方は川が天然の要害を形成する河川段丘の急斜面で10m程(途中からは田圃が延び東南部には 民家も有って6m程の段差がある。東西に走る府道より数10m北側(市島町と六人部・多保市を結ぶ旧街道筋だったか)には田と宅地に挟まれた狭い車道が 深さ約2‐4m程の空掘の底を通る様に城域を完全に遮断して集落を廻り元の府道に出てきます。
旧府道?沿い南東角の矢倉台と空掘?(の車道

城域東西幅約40mの車道脇は櫓台?。空掘底を通る旧府道(街道筋?)を見下ろして其の東北の一角にある。此処から竹田川岸の北端まで約150mの田圃となっている台地の上に田野城は在りました。井上佐渡が居り浅田氏に攻め滅ばされたと云うが年代・史実は不明!!。室町時代:小野木氏の居館で「丹波志 」に城主兎ノ木(小野木)縫殿介黒井城赤井悪右衛門直正に攻め討たれたとあり、
主郭東面を土塁で防備する田野城

荻野(赤井)氏が永禄年間(1558-69)中六人部に侵入してきた頃と思われます。 菩提所は大内後青寺にあり法名:覚照院(殿)寛山道空大居士という。田野城の別名:ウノギ城・イノギ城のイノギ野・宇野木・兎ノ木は全て 「小野木」の転訛といわれます。はじめ波多野氏の被官だったが光秀に内応し、初代福知山城主明智光秀滅亡後は秀吉政権下の福知山城主:杉原家次の代官となった後に頭角を現し、
東端の矢倉台より田野城主郭部:西縁の段差が見えなくて残念です!!


杉原家次の後・天正13年〜慶長5年(1585-1600)3万石で第4代福知山城主になった 部将小野木縫殿介重勝(別名:公知・公郷・吉澄とも )は永禄6年 (1563)の生誕なので重勝を田野城主と考えるには無理があるが近江長浜城主:羽柴秀吉に付き天正13年(1585)縫殿介を任官した小野木重勝の一族と想定されます。天正12年(1584)秀吉と家康が争った小牧・長久手の合戦の際、前田玄以(京都奉行)の代理として京都の一揆を防止した 京都伏見の淀城主:小野木重次も縫殿介重勝の別名という。関ヶ原合戦の際・舞鶴田辺城を攻めるが細川氏の反撃に福知山城を開城して自刃したと云われます。
土塁南西端部虎口と主郭部腰曲輪側の土塁

旧府道(車道)から東北角の矢倉台へ上がると 西方へ二つの曲輪(広い田圃が二〜三枚続く)、其の奥に1.5m〜2m程の土塁が幅一杯に延びている。土塁の西面が主郭(お居間屋敷)だが雑木・竹薮が森のように茂っている。北東角に幅のあるL字状に残る土塁 (高さ 2m・上辺部2m以上の幅をもち矢倉台とも想定されます。その外側には、傾斜の急な曲輪縁の幅の狭い通路が主郭内側に入り込む虎口遺構らしい!!。 また土塁の西南角の土塁には主郭側に一段低く腰曲輪があり崩壊した小屋が塞いでいるが、土塁が切れて虎口を形成している様です。一段下の 腰曲輪と主郭部堺に浅い空掘遺構らしい凹部が有り、西端の竹田川沿いの曲輪外縁に残る土塁 ・空掘に繋がっているようです!!。
竹田川に面した曲輪外縁を土塁と空掘が廻る

現状:此処が主郭と思える場所ですが !!天文年間(1532-55)の「古城址見取図絵巻」や「天田郡志」によると、更に最西部の一郭?に40uで南側で約2m低く腰曲輪が(現在通路となっている)付属し、その外側を更に2m低く三日月形の小曲輪が付いており、其の中心部が「御居間屋敷 」と伝えられる主郭だとされます。
(天田郡志 福知山市史 を参照)


大内城(大内館・ひらい城)  xx 77m  福知山市中六人部字大内小字平城

竹田川に面した 田野城を左手 (北方田圃の奥に見て、緩やかな下りカーブを左に・続いて右に曲がるコーナ部から鋭角に大内地区内に入る道が有る。 此処から約1.5km先で六人部 ・土師川に架かる土師橋を渡った東詰めでR9号(山陰道)と合流する。竹田川が土師川(由良川支流)に合流する地点の真南約800m程・交通の要衝に立地しています。
:大内集落の観音堂:城域西南端に建つ

丘陵上部付近からは車騒が聞こえてくるが篠山〜春日・福知山から綾部を経て舞鶴自動車道が通じ、 断崖状の低丘陵北面裾を流れる奥谷川沿いの城域北東部外れが六人部PAになっています。先程の鋭角に大内地区に入る道を直進するか 芦田均記念館とは反対側に右折して郵便局の四つ角を南へ細い地区道を進む左手の東から西方へ延びる低丘陵部に大内城が在った。
城域北裾を流れる奥谷川:丘陵上左手を舞鶴自動車道が走る


此の近畿自動車道(舞鶴自動車道)建設工事に伴い 主要部分が道路敷地になる為 ・昭和56年(1981〜)発掘調査が行われました。大内城は北と南を深い谷に区画された丘陵の上にあって、 東西約230m・南北約120mを城域とし、北面は10m程の崖状となり奥谷川と畑、南側も急崖で約10m下方の谷川跡に道が通じています。狭まった尾根筋の東面は二条の空掘と三条の土塁で防備が固められ、
土塁囲みの方形曲輪:土塁上辺と同じ約2m幅の空掘りが外面を捲く

空掘は共に深さ約2m・上辺部の幅約3m程。 西面は緩やかな傾斜をもつ畑地で破壊され約50m程(比高約0m)で民家・車道に接する。畑地最奥部の台地に、昨 年秋・訪城出来なかったが ・此処に建設されていると聞いていた真新しい中地の観音堂<2008年は建設中だった>が建つ。曲輪の一部と思われ堂の並び藪の中にも曲輪跡らしい削平段、堂背後には長い土塁に囲まれた曲輪が在り、
観音堂裏手の西曲輪土塁虎口?:幅広大土塁は屈曲し空堀沿いに北へ延びる

空掘を挟んで更に一段高い削平段がある。六人部PA付近の自動車道(大内城域北 )奥谷川北東側一帯、大規模な土木工事がされている様で立ち入らず未確認です。発掘調査では平安〜鎌倉期の館城としての主郭部とされる東曲輪跡のみを 対象とされた様で土塁と空掘約100m四方を範囲として、発掘された遺構からは平安時代末期から鎌倉時代にかけて柵に囲まれて広場が設けられた大きな屋形の跡が残ります。
北へ延びる空堀沿いの土塁端は堀切で東の曲輪を分ける

整然として広大な館跡の主屋や 倉庫等八棟の掘立柱建物・井戸・溝や柵の構造や大量の土器 ・中国製の青磁や白磁等の陶磁器類を中心とした豊富な出土品 <1981年発掘調査>からは其の経済力・特に当時貴重な輸入品の中国製陶磁器を 生活に使用する事の出来る人物が一地方豪族の筈も無く都(平氏政権)との深いつながりをもっていた何鹿(いかるが)郡の六人部荘を領有する
三方を土塁が囲む東曲輪の土塁から空堀と西曲輪側

有力荘官クラス!!?の人物と思われる5〜6棟の館跡で、 当時の不安定な日本の情勢が反映された遺跡として、全国的にも平安末期の城館遺構の調査例は少なく、 重要な資料との評価を受けているようです。其の後:南北朝期?戦国時代にかけては居住機能を廃して高い土塁・腰曲輪・堀を廻して防備設備を強固した 城館へと変貌していきます。其れが城域の最西端部東西約40m・南北110m余りにあって、破壊された古墳を含む40u範囲に土塁と空掘を廻らす方形居館がある。
西曲輪と空堀で分ける東曲輪の<北面へ回り込む>土塁線

館はさらに丘陵麓へ移り、館の「詰め城」として、また集落内民衆の「逃げの城」として機能したとも 推察される大内城で平安時代末期〜鎌倉時代の福知山市でも代表的な城館遺跡です。 周辺に案内板や標識は無く、観音堂建設に先立つ 教育委員会の発掘調査実施されたが、近くの民家の方からは出土品は特に!!?無かった様子。 昨年秋の訪ねた際と同様に「行っても何も無いよ」と・・・しかし空掘 高い切岸・大土塁と土塁残欠の通路は土塁虎口の様!!?。
東曲輪の切岸と空堀:西曲輪北土塁より

過去の調査や地区の墓地整地等で出てきた五輪塔等(居館関連の中世墓地でも在ったか ?)は”舞鶴自動車道の東側?”に集められ供養されているとも聞いた。保元の乱(1156)・平治の乱 (1159)に隆盛した平家は平清盛が治承の乱 (1179)の後白河法皇を幽閉し、神戸福原に遷都し平家一門が権力を握っていた全盛期:山陰方面からは京の都に境する丹波地域は、
観音堂裏手:西曲輪の南面も土塁を積む切岸(3‐4m)が長く延びる

その守備するにも重要な位置に在って、六人部荘は平清盛の異母兄弟平(池大納言)頼盛(1131-86)の荘園で、 其の後も代々有力領主に伝承されました。平治の乱の際に平頼盛の母親【平忠盛の正妻池禅尼:白川法皇の近臣となった藤原宗兼の娘・宗子、 平清盛の継母にあたる】が、平治の乱(平治元年1159)に敗れて捕らえられたが、まだ少年であった源頼朝の命乞いを清盛に頼み救ったことから
東曲輪北面には折れを伴う土塁は東端の墓地背後まで延びる

寿永3年(1184)平家が領有の荘園は官領となったが、源頼朝が命の恩人である故:池禅尼の恩に報いるため平頼盛に返付した34か所の荘園の1つに 六人部荘がある<吾妻鏡(東鑑)>翌:元暦2年(1185)屋島・壇ノ浦の戦いに平氏は滅亡し、追討で平家の関係者が抹殺されていくなか建久3年 (1192)源頼朝が征夷代将軍となって鎌倉幕府が成立した後も、この平頼盛だけは許され地位や領有地は安堵され残されたものでしょう。
後正寺古墓跡は城館跡!!<溝谷背後の低丘陵部>

広大な大内城の城域東半分以上を二重・3重の土塁で囲まれた平安・鎌倉期のものとされる一郭と、西方に40uを土塁と空掘りで囲む 中世城館の遺構を残す一郭は、北側にも東側曲輪との間を土塁・堀切で区画するような古墳を取り込んだ曲輪?を残す。東郭と此の西郭の間を分断しているような?段差が曲輪を区分しているだけの様な一郭が あるが、これら三つの曲輪部は、 其々の曲輪を結びつける関連性・統一性を欠き、時代の流れの中で縄張りが拡張・補強されてきたものでは無さそうです。
(福知山市史 参照)


後正寺城(後青寺城・後青寺城館)  xx xxm  福知山市中六人部字大内小字後正寺

舞鶴若狭自動車道建設工事の事前発掘調査なのでしょう?。計画路線沿いに六人部PA付近だけでも大内城の在る低丘陵を 南へ僅か尾根続きを移動すると、福知山市遺跡情報には後正寺古墓と後青寺城館1981‐82年に発掘調査されています。此の計画路線上の北に 400m程に仁田城・さらに北400m程には城ノ尾城館が、其処から北方約1km・土師川を渡る多保市地区に多保市城が在るが、城域主要部の丘陵部を大きく崩された 切通し道路となっている。
後正寺古墓跡?は城館跡!!<折れを伴い曲輪を分ける土塁線>

いずれの城館遺構も 調査報告書等を目にする機会も無く詳細は不明です。開発・造成により調査後は消滅・壊滅したり、埋め戻され遺跡調査報告書や現地案内説明板でしか 知り得ない遺跡は多い。また地元でも知られることなく睡っている遺跡は、開発や建築造成を期に新発見される事が多く、大部分は調査後に消滅するか、何事もなかったように捨置かれる運命に有るようです?。
後正寺古墓跡は城館跡!!<折れを伴う土塁と段曲輪

中世・南北朝期以前(平安時代 ‐鎌倉時代)の城は勿論・歴史に関心を寄せる人が少ないのは仕方が無いこと?なのかも知れない。福知山市にも貴重な大内城が地元にも 余り知られていないだけに、大内城から南への低丘陵<丘陵上を縦断して舞鶴若狭自動車道が走る六人部PAの下部>尾根続きに、発見された?二ヶ所の城館遺構
【大内城の東隣りの小規模遺構は 市の遺跡分布図には
後正寺城館跡!!南西端の薬師堂

後正寺古墓
とされ、後正寺城館 (1981年調査)に続いて1982年発掘調査され、集石遺溝・土壙・塚・掘立柱建物に土師器・陶磁器・瓦器・古銭等が出土している。塚は古墳(方墳 ?)らしいが、立地位置が丘陵端で調査後は消滅とある?ので、発掘調査された古墓は測溝西から集落へ向かう幅広い棚田部分だったか?】
小字「後青寺」が残ることから寺跡と推定されてきたが調査結果からは
後正寺城館:薬師堂の傍らに五輪塔

城館遺構と推察されてきた様で、 細長い丘陵上の尾根幅約30mX35m程に造成され、西隅を直角とする台形の平坦地形。市の遺跡分布図内リンク付けサイトの実測図からは土塁 ・空堀が西と南面にあり、西面中央部には土塁が途切れる開口部が虎口とも推定されます。大内城の東:舞鶴若狭自動車道沿いの低丘陵部続きは、東西にガードレールが残る廃道と小谷で一端丘陵が途切れるが、
後正寺城館!:堀株先祖碑(右端)裏の大土塁虎口

此の東面に福知山市遺跡分布図に 後正寺古墓とされる平坦地形が残る。字名が後青寺(現:後正寺区)なので廃寺跡?とも古墓跡ともされている。・・が数段の曲輪・その曲輪は 一部折れながら高さ1m程の低土塁。棚田が拡がる集落側西面は深い溝谷が城域を区分している様で中世墓跡とも思えない。城館跡の可能性が高いものと推定されているようです。此の続きが後青寺城館で(比高20m程)丘陵部は広く、 数段の平坦地南下には傍らに五輪塔(形態は五輪塔だが最上部だけが宝珠でなく何故か?九輪塔!!)を祀る薬師堂が建つ。
堀株先祖碑裏の大土塁虎口の土塁と空堀(右手)

寺跡なら此処か?。堀株の先祖碑が丘陵部北端に有るが、一段上の背後に大土塁虎口があり、空堀の東寄りの土橋から左右に大土塁(高さ2‐3m)が開口する、円状に土塁が囲む虎口受曲輪に入る。城遺構は此れより北側は舞鶴若狭自動車道の為、平坦地?は削られ主郭部が続くと思える丘陵上は突然途絶えて自動車専用道路となる。
六人部荘の本家は皇室で、院が管領されていたが平安末期の領家は池大納言(平ョ盛)<上記大内城を参照してください>。承久の乱(1221)に幕府に没収され後:後高倉院に返進されて以降:大内城の城史は不明ですが、旧天田郡の六人部一帯を支配していた豪族に堀氏がいた。
堀株先祖碑裏の大土塁(手前)と土塁に囲まれる虎口受け小曲輪(北面は自動車道)

中六人部の大内から興ったもので 先祖を堀左京亮貞政と云い!!??、室町時代中期頃:文安年間(1444-497)守護:細川勝元や政元の奉行<天田郡郡司>として 堀孫次郎が仕えており、大内城東南へ延びる低丘陵上側の二ヶ所の曲輪部【下記の後正寺城<市遺跡分布図に後正寺古墓と後青寺城館と記される>】に孫次郎が拠ったと推察されます。大永年間(1521-28)には堀上総進貞次が居城。

堀株先祖碑裏の大土塁

丹波志・古城の部:大内村には矢ノ倉 ・的場の地名が残る。大内城も折れを伴う高い切岸と大土塁・空堀を廻らし、中世(南北朝期)以降の在地領主により改修・使用され続けられている様子!?。天文23年(1554)荻野(赤井)直正が伯父の黒井城主荻野秋清を殺害して、城主となった頃から 隣接の天田郡へ侵略してくる。何鹿郡の諸城主と同様、内藤氏側に付くか微妙な苦肉の選択のうちに、近在の城と共に元亀3年(1572)堀広正の時、黒井城主赤井氏に攻め落とされ大内城も赤井氏傘下に組み入れられたと思えます。
(福知山市遺跡分布図 を参照)


観音寺構居(仮称 Ca40m)と観音寺城(Ca120m)
観音寺城(将監城)    xxxxCa120m   福知山市観音寺

JR山陰本線沿いの府道8号線を綾部市との境に向う福知山市東部 ・舞鶴若狭自動車道の高架を潜ると直ぐに「花の寺・観音寺⇒」の案内看板を見て観音寺の山門前に着くが、東へも少し先にある案内標識に従った方が 道も広くて?寺院の駐車場へは判り易いかも知れません。関西花の寺(25ヶ寺の内)第一番札所で養老4年(720年)法道仙人の創建を伝える名刹:補陀洛山観音寺(高野山真言宗)は100種1万株もある紫陽花が咲き乱れる 丹波のアジサイ寺として有名です。
将監城へのスタート地点に在る観音寺

観音寺の 東南方の背山から高嶽へ続く稜線の北端 (ゴルフ場の南裏山)
Ca120m付近は、上部が平坦な所があって城山とよばれていますが、 さらに南の尾根伝いに段々に高く平坦地があって(連郭式)南北朝期の山城跡ではないかと思われています。
観音寺城:副郭から主郭に入る上り土塁虎口(副郭北西面から)

今年(H14)4月に多保市から高嶽に登った時も気になっているのは、山城跡がさらに高嶽を越え時ノ子谷上ピークまで続いていたのではないかと・・・時ノ子谷上は雑木が無ければ随分展望の効く位置にあり、綾部市安場と福知山市三俣を結ぶ要所の側にある。物見櫓・狼煙台等施設が設置されていたと考えても不自然ではありません。
観音寺城山麓の観音寺居館:大手口?の一曲輪


時ノ子谷上ピーク(反射板)北側の直ぐ下部にある 広い平坦地、高嶽との1.5km程の間には堀切や土塁跡と思われる箇所かあります。「丹波志」による観音寺城の城主大槻将監や家老 :大槻勢之丞についての人物像や戦があった事等の城史は不明ですが、旧何鹿(いかるが)郡の高津(高津城<八幡山城>)は勿論、
観音寺居館:切岸下東端から堀堀が西にく延びる

此処:観音寺城や石原の洞玄寺城・長田野を越えて多保市 (多保市城)、由良川北沿いには八田城・栗城(一尾城)丸山城・高槻城やテデカ城(高槻城) 辺り迄を勢力範囲としていた国人 :大槻氏一族が支配した何鹿郡(綾部市と旧福知山市の一部)の山城であった事は推察出来ます。 高嶽には登山対象としてH12年に二度も訪れ、一度は高嶽から観音寺へトレースして下っているが、山城への無関心さから尾根上の遺構等については殆ど記憶に無く改めて観音寺城を再訪した。
観音寺居館:西端の曲輪(櫓台?)から段曲輪


【高嶽山頂から北へ降る尾根筋に片堀切・土橋状(土塁道状 ?)遺構のある高嶽城や、観音寺城への尾根分岐付近には綾部市側に本福寺谷城<仮称>・近畿圏でも稀な畝状竪堀群が潜む将監城・段上城<段上城は高嶽北主尾根筋で分岐する西に段上稲荷砦<仮>・東南の将監城間に段上別城<仮>の三城を段上城の三郭としての捉え方もできそうですが!!?>・積場城<仮称>が 高津八幡山城の西面・街道筋から少し
観音寺居館:主曲輪(西端)櫓台側の低土塁?

奥まった位置に集中して点在し、いずれも何鹿郡の大槻氏勢力下の城塞群・街道筋からの位置や高津八幡山城・鴻ヶ嶽(甲ヶ岳)城の 城史からも八木城主内藤氏(三好氏)関連や管領:細川氏との繋がり深い城塞群でもある。将監城・段上城からも尾根続きの観音寺城が、 大槻氏の城塞群の一つとして西方を堅め・監視する任に当たった城であったと推察します】
アジサイ寺で有名な観音寺ですが、其の背山に続く尾根上に遺構を残す
観音寺居館の曲輪切岸と下部の空掘?

観音寺城を訪れる人は少ない様です。観音寺城へは観音寺裏山の霊園駐車場からが良さそうですが、 此処は多保市城共に居館と山城のセットで遺構を確認出来る城です。多保市城では山城域が舞鶴若狭自動車道工事で分断されており消滅したか?、 山頂部の遺構が道路を挟んだ向い側の丘陵部に 残るのか?は未確認ですが・・・!!観音寺霊園に向う車道左側の谷沿いの山道を辿れば、
観音寺城副郭の切岸と土塁虎口

程なく段曲輪を重ねる観音寺構居(標高Ca40mで山城とセットで残る居館ですが、市の遺跡分布図に居館部の記載は無く仮称とします。尾根に沿って丁寧に削平された4ー5段程の曲輪が有り、 東端部の切岸下に水を湛える堀跡?が有り、横方向にも延びる此の曲輪は低い段差で区画されている様ですが、西端部に低土塁跡?や櫓台跡らしい土壇がある。 此れより尾根伝いに・高嶽から北西へ延び出す尾根末端の峰に主郭を置く観音寺城の副郭北東角の腰曲輪を経て上り着きます。
観音寺城主郭南端の櫓台大土塁

福知山市史には 詰め城の観音寺城として、此の主郭部の副郭・主郭・主郭の南端三方を高さ約1.5m・上辺長約2mの厚幅土塁で 囲まれた広い曲輪(主郭から約2.5m高く東西約10m・南北6〜7m程の楕円形)が一段高い位置に在る。立派過ぎる櫓台!!ですが縄張り図は此処まで!!?。普通:櫓台の下方には堀切や 更に山城遺構が続くものです。
主郭南端:高土塁で囲われた櫓台曲輪

主郭の櫓台土塁を降り、 高嶽へと延びる尾根続きは、土橋付堀切を越えると下方(観音寺構居<仮>)から続く空堀道状の山道が、 土塁道・土橋状となり、空掘道は益々広く深くなり、自然地形とはいえ大空掘や竪堀状を見る。尾根筋があまりのも狭く ・郭らしい平坦地形が少なく、在っても狭く細長い。更に其の先には、尾根筋下に空堀・おまけにその空堀状の外側斜面には短いが 6ー7条の畝状竪堀群まで見る。遺構としての判断は私には無理だが、高嶽に至る間の城郭遺構は確認され「繋ぎ・見張り」等の任を持った南北朝期の臨時の砦跡と推察されている様です。
観音寺城主郭へ入る上り土塁虎口(副郭北東面から)

此の遺構?を指しているのかは不明ですが、 余りにも荒れ過ぎた自然地形を見誤っているのかも?。畝状竪堀と観た数状の空堀状の溝が北東の府道8号・由良川沿い要衝側には敷設がなく、南面の山間部斜面に有る。畝状竪堀を多用した将監城の側に在る観音寺城ではあっても、尾根筋に敷設するにしても不自然だ!!?。高岳への市境界尾根筋・本福寺谷城までの尾根筋をトレースしていないので不確かですが、 城塞遺構でも在れば・其の前衛の防備施設と見えなくもないのですが・・・・。
上り土塁虎口:主郭の虎口受け枡形曲輪

観音寺霊園の駐車スペース奥から踏み跡伝い・尾根に乗る鞍部で少し藪っぽいところは有るが、後は傾斜を増す主郭に向う尾根を詰め上がるだけ。副郭西側の堀底状の土塁虎口から副郭(東西約30m・南北約25m程 )に着くと3m程高い主郭に入る上り土塁虎口が目の前に有る。上り土塁虎口からは方形の狭く仕切られた主郭(東西約30m・南北約40m程)内北端の空間 (4mX7m程?・高さも70cm程だが)に入る。
副郭から主郭北東面の切岸

虎口受け曲輪は 小さいながら枡形で形成されており、直接主郭には入れない構造です。中世後期の織豊系縄張の影響は受けていない筈?ですが、其の祖形は全国各地?の城郭に見られるのかも知れない<関西以外の城は良く知らないが・・・>。主郭の東西角から土塁で繋がる高さ2.5〜3m程の段差で約10mX7m程の曲輪が南端に在って、三方を高さ約1.5m程の土塁で囲まれています。上辺は2m程の立派な土壇は櫓台か!。
副郭北東角の虎口を降ると居館へ・・

櫓台の土塁を越え、斜面を下って高嶽を目指し尾根筋を辿ることになります。 下った鞍部は土橋付?と小曲輪(土塁)を挟んで二重の堀切(外側は山道か?)で、曲輪跡らしい小広い平坦地形の細長い尾根(緩衝帯?)に出るが其れも束の間で 【此れより先は城遺構とも思えたが痩せ尾根によく見る自然地形なのかも・・・】
主郭大土塁南背後の土橋付 ?追切

削平段の南末端部で右手(西方)には細長い土塁の側壁沿いに続く 空掘道が延びていくが、此の土塁伝いの堀底道は尾根沿いにL字状に屈曲して更に延びる。此のクランク部で土塁は一端切れるが、外側の土塁は傾斜の 緩い竪土塁状!!?、「横矢掛かり」攻撃を意識した土塁曲輪かも?削平段の南末端部で左手(東寄り)の尾根筋を採ると空掘道とは距離を隔てて直上して行く様ですが、 直ぐに自然地形とも思えない大空掘を見る。空掘上部で東側に移ってみて此れが土塁壁で堅めた空掘である事が判る。
長い土塁の空堀道:ただの山道か?


此の空掘もカーブしながら延びる。二つの空掘に挟まれた容の中間尾根だが、段差も削平も曖昧な?自然地形の幅狭い緩斜面の平坦地!ですが、 西側の堀底道・土塁道からから続く細い山道の右手斜面に、浅く短いが5〜6条の畝状竪堀群が見られます。竪堀の20m程?下方には山側に空掘状の溝がある。こんな山稜部に突然現れる山道が空掘の谷側に延びていく?。
5-6条の畝状竪堀群も荒廃する自然地形の崩壊か?

城砦の遺構かどうかは ?定かではないのですが・・・。畝状竪堀群を見て中央稜に乗ると・後は平凡で緩やかな尾根が何処までも続く感じで、雑木の先に高嶽が見えてきたが、福知山・綾部の市境の尾根筋は地形図からも城砦の遺構は期待薄。 市境界尾根から高津町側延び出す枝尾根に、 谷を分けて高津城 (八幡山城)と呼応する大槻氏一族の城砦遺構が有りそうな気もするのですが・・?引き返す。
(丹波志 福知山市史U中世の城址 を参照)


多保市城(打越城)    打越山 90m・140m(自動車道で?消滅か)  福知山市多保市

多保市公民館と丹波・善光寺側には大池と呼ばれた善光寺池がある。大池谷奥にある打越山に大永年間(1521〜1528)築城と思われる 城主大槻阿多之助秀勝の城があった・・・・と文化年間に書かれた多保市村の打越古城「古城祉見取図絵巻 」に記された多保市城を探して土師(はぜ)川を渡りR9号線岩崎から舞鶴自動車道下の地道を抜け、打越城が有ったとされる丘陵部を南から 東へ抜け北側の大池との間にある地区道?へとU字状に廻り込んで、高い崖上にある厄除神社へ立ち寄った。福知山市史には善光寺から大池を隔てた東方、 厄除神社すぐ北側の尾根の山麓に居館と詰め城がセットになった城郭遺構が有ったという。
厄除神社:愛宕社の 左下に平坦地と空堀?

土塁や城戸口(虎口)には矢倉台とも推定される 盛土の遺構が残り、主郭の西側には空堀の役目をしている谷が入り込んでいるという。厄除神社の狭い境内に建つ厄除・愛宕等三つの祠は比較的新しい。 神社から南背後へ続く尾根筋への山道には「千歳山観世音菩薩の?」ミニ霊場巡り石仏祠が有るが、是よりは蜘蛛巣と雑木藪の細い尾根筋で南側は崖で打越の「詰め城」が在ったとされる城域は完全に消滅し、東側の古墓地へと続いているだけ。 つい先程・歩いてきた車道も見えない 真下の側道と平行して、舞鶴自動車道が通じているだけ。観音ミニ霊場巡りの道も・石仏も・居館とセットで残っていた 詰め城の打越城も、山間を抜ける自動車道の空間に消えてしまったのでしょう?・・・ (^^ゞ
大池側車道側から急斜面上の階段を厄除神社へ
 
更に麓の厄除神社が 高速道路工事後に居館跡に移され、神社の建つ主郭部は矢倉台状の盛り土や土塁が削られ整地改修されているのでしょうか?。西に一段低く削平は粗いが広い平坦地が有り南端 (山側)に低土塁状の盛り上がりがあって1〜1.5m程の空堀状の溝がある。空堀状の溝は浅くなるが 曲輪の中央部を区分して北の大池との間の地区道へ延びているようです。そう考えれば多保市城の居館部の状況が福知山市史の説明とは非常によく似ています!!。 しかし居館部の明確な遺構の確認も出来ないまま詰め城に向かうにも、厄除神社から見える衝立みたいな背後(南側)の山の斜面は20m程先の尾根上で突然切れて 小さな曲輪を置く程のスペースも無い細く狭い尾根筋。 ほんとに此処が居館と詰め城セットの多保市城だったかと、期待していただけに信じられない!!。
東曲輪南の空堀?から本格部の厄除神社

自動車道建設で消滅した城なのか、探した城域は場違いだったのか?近況等ご存知の方のお知らせなり、 報告を待ちたいところです。同様にセットの城となる観音寺城も以前・訪れた筈ですが、登山主で城については殆ど何の知識も無く関心も薄かったので遺構等よくは観察していないので観音寺城へも再訪するつもりです・・(^^ゞ 
多保市より長田野工業団地を綾部市側に向かう直線距離で約4km地点にある 石原城には大槻安芸守が高津城には天正期:阿多之助秀勝が拠っていた。
多保市城は高速道で消滅か ?城跡?の断崖上から天突(あまんずく)を望む

天正2年(1574)大槻大学が居たが明智光秀の丹波攻めに破れ落城し、 黒井城赤井直正を頼るが大槻悪七郎の代;天正7年(1579)黒井城も落城し浪人となり、小縁あって天田郡(福知山市)多保市に住んだという。子の秀遠は豊臣秀頼に従って大阪城に立て籠もるが、豊臣氏滅亡の後は天田郡に隠棲したとも云われます。 観音寺城には大槻将館監が居り、土師川沿いR9号線沿いの荻原城には大槻佐渡守が拠ったとといわれ何鹿郡(福知山市の一部と綾部市)には土豪:大槻氏一族・支続が一大勢力を張っていたようです。
(丹波志 福知山市史U中世の城 を参照)

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