高嶽-時ノ子谷上-天尖 田野城・大内城・観音寺城と居館 他 |
JR山陰本線沿いの府道8号線を綾部市との境に向う福知山市東部
・舞鶴若狭自動車道の高架を潜ると直ぐに「花の寺・観音寺⇒」の案内看板を見て観音寺の山門前に着くが、東へも少し先にある案内標識に従った方が
道も広くて?寺院の駐車場へは判り易いかも知れません。関西花の寺(25ヶ寺の内)第一番札所で養老4年(720年)法道仙人の創建を伝える名刹:補陀洛山観音寺(高野山真言宗)は100種1万株もある紫陽花が咲き乱れる
丹波のアジサイ寺として有名です。
将監城へのスタート地点に在る観音寺
観音寺の
東南方の背山から高嶽へ続く稜線の北端 (ゴルフ場の南裏山)Ca120m付近は、上部が平坦な所があって城山とよばれていますが、
さらに南の尾根伝いに段々に高く平坦地があって(連郭式)南北朝期の山城跡ではないかと思われています。
観音寺城:副郭から主郭に入る上り土塁虎口(副郭北西面から)
今年(H14)4月に多保市から高嶽に登った時も気になっているのは、山城跡がさらに高嶽を越え時ノ子谷上ピークまで続いていたのではないかと・・・時ノ子谷上は雑木が無ければ随分展望の効く位置にあり、綾部市安場と福知山市三俣を結ぶ要所の側にある。物見櫓・狼煙台等施設が設置されていたと考えても不自然ではありません。
観音寺城山麓の観音寺居館:大手口?の一曲輪
時ノ子谷上ピーク(反射板)北側の直ぐ下部にある
広い平坦地、高嶽との1.5km程の間には堀切や土塁跡と思われる箇所かあります。「丹波志」による観音寺城の城主大槻将監や家老
:大槻勢之丞についての人物像や戦があった事等の城史は不明ですが、旧何鹿(いかるが)郡の高津(高津城<八幡山城>)は勿論、
観音寺居館:切岸下東端から堀堀が西にく延びる
此処:観音寺城や石原の洞玄寺城・長田野を越えて多保市
(多保市城)、由良川北沿いには八田城・栗城(一尾城)
・丸山城・高槻城やテデカ城(高槻城)
辺り迄を勢力範囲としていた国人 :大槻氏一族が支配した何鹿郡(綾部市と旧福知山市の一部)の山城であった事は推察出来ます。
高嶽には登山対象としてH12年に二度も訪れ、一度は高嶽から観音寺へトレースして下っているが、山城への無関心さから尾根上の遺構等については殆ど記憶に無く改めて観音寺城を再訪した。
観音寺居館:西端の曲輪(櫓台?)から段曲輪
【高嶽山頂から北へ降る尾根筋に片堀切・土橋状(土塁道状
?)遺構のある高嶽城や、観音寺城への尾根分岐付近には綾部市側に本福寺谷城<仮称>・近畿圏でも稀な畝状竪堀群が潜む将監城・段上城<段上城は高嶽北主尾根筋で分岐する西に段上稲荷砦<仮>・東南の将監城間に段上別城<仮>の三城を段上城の三郭としての捉え方もできそうですが!!?>・積場城<仮称>が
高津八幡山城の西面・街道筋から少し
観音寺居館:主曲輪(西端)櫓台側の低土塁?
奥まった位置に集中して点在し、いずれも何鹿郡の大槻氏勢力下の城塞群・街道筋からの位置や高津八幡山城・鴻ヶ嶽(甲ヶ岳)城の
城史からも八木城主内藤氏(三好氏)関連や管領:細川氏との繋がり深い城塞群でもある。将監城・段上城からも尾根続きの観音寺城が、
大槻氏の城塞群の一つとして西方を堅め・監視する任に当たった城であったと推察します】アジサイ寺で有名な観音寺ですが、其の背山に続く尾根上に遺構を残す
観音寺居館の曲輪切岸と下部の空掘?
観音寺城を訪れる人は少ない様です。観音寺城へは観音寺裏山の霊園駐車場からが良さそうですが、
此処は多保市城共に居館と山城のセットで遺構を確認出来る城です。多保市城では山城域が舞鶴若狭自動車道工事で分断されており消滅したか?、
山頂部の遺構が道路を挟んだ向い側の丘陵部に 残るのか?は未確認ですが・・・!!観音寺霊園に向う車道左側の谷沿いの山道を辿れば、
観音寺城副郭の切岸と土塁虎口
程なく段曲輪を重ねる観音寺構居(標高Ca40mで山城とセットで残る居館ですが、市の遺跡分布図に居館部の記載は無く仮称とします。尾根に沿って丁寧に削平された4ー5段程の曲輪が有り、
東端部の切岸下に水を湛える堀跡?が有り、横方向にも延びる此の曲輪は低い段差で区画されている様ですが、西端部に低土塁跡?や櫓台跡らしい土壇がある。
此れより尾根伝いに・高嶽から北西へ延び出す尾根末端の峰に主郭を置く観音寺城の副郭北東角の腰曲輪を経て上り着きます。
観音寺城主郭南端の櫓台大土塁
福知山市史には 詰め城の観音寺城として、此の主郭部の副郭・主郭・主郭の南端三方を高さ約1.5m・上辺長約2mの厚幅土塁で 囲まれた広い曲輪(主郭から約2.5m高く東西約10m・南北6〜7m程の楕円形)が一段高い位置に在る。立派過ぎる櫓台!!ですが縄張り図は此処まで!!?。普通:櫓台の下方には堀切や
更に山城遺構が続くものです。
主郭南端:高土塁で囲われた櫓台曲輪
主郭の櫓台土塁を降り、
高嶽へと延びる尾根続きは、土橋付堀切を越えると下方(観音寺構居<仮>)から続く空堀道状の山道が、 土塁道・土橋状となり、空掘道は益々広く深くなり、自然地形とはいえ大空掘や竪堀状を見る。尾根筋があまりのも狭く
・郭らしい平坦地形が少なく、在っても狭く細長い。更に其の先には、尾根筋下に空堀・おまけにその空堀状の外側斜面には短いが
6ー7条の畝状竪堀群まで見る。遺構としての判断は私には無理だが、高嶽に至る間の城郭遺構は確認され「繋ぎ・見張り」等の任を持った南北朝期の臨時の砦跡と推察されている様です。
観音寺城主郭へ入る上り土塁虎口(副郭北東面から)
此の遺構?を指しているのかは不明ですが、
余りにも荒れ過ぎた自然地形を見誤っているのかも?。畝状竪堀と観た数状の空堀状の溝が北東の府道8号・由良川沿い要衝側には敷設がなく、南面の山間部斜面に有る。畝状竪堀を多用した将監城の側に在る観音寺城ではあっても、尾根筋に敷設するにしても不自然だ!!?。高岳への市境界尾根筋・本福寺谷城までの尾根筋をトレースしていないので不確かですが、
城塞遺構でも在れば・其の前衛の防備施設と見えなくもないのですが・・・・。
上り土塁虎口:主郭の虎口受け枡形曲輪
観音寺霊園の駐車スペース奥から踏み跡伝い・尾根に乗る鞍部で少し藪っぽいところは有るが、後は傾斜を増す主郭に向う尾根を詰め上がるだけ。副郭西側の堀底状の土塁虎口から副郭(東西約30m・南北約25m程
)に着くと3m程高い主郭に入る上り土塁虎口が目の前に有る。上り土塁虎口からは方形の狭く仕切られた主郭(東西約30m・南北約40m程)内北端の空間
(4mX7m程?・高さも70cm程だが)に入る。
副郭から主郭北東面の切岸
虎口受け曲輪は
小さいながら枡形で形成されており、直接主郭には入れない構造です。中世後期の織豊系縄張の影響は受けていない筈?ですが、其の祖形は全国各地?の城郭に見られるのかも知れない<関西以外の城は良く知らないが・・・>。主郭の東西角から土塁で繋がる高さ2.5〜3m程の段差で約10mX7m程の曲輪が南端に在って、三方を高さ約1.5m程の土塁で囲まれています。上辺は2m程の立派な土壇は櫓台か!。
副郭北東角の虎口を降ると居館へ・・
櫓台の土塁を越え、斜面を下って高嶽を目指し尾根筋を辿ることになります。
下った鞍部は土橋付?と小曲輪(土塁)を挟んで二重の堀切(外側は山道か?)で、曲輪跡らしい小広い平坦地形の細長い尾根(緩衝帯?)に出るが其れも束の間で
【此れより先は城遺構とも思えたが痩せ尾根によく見る自然地形なのかも・・・】
主郭大土塁南背後の土橋付
?追切
削平段の南末端部で右手(西方)には細長い土塁の側壁沿いに続く 空掘道が延びていくが、此の土塁伝いの堀底道は尾根沿いにL字状に屈曲して更に延びる。此のクランク部で土塁は一端切れるが、外側の土塁は傾斜の
緩い竪土塁状!!?、「横矢掛かり」攻撃を意識した土塁曲輪かも?削平段の南末端部で左手(東寄り)の尾根筋を採ると空掘道とは距離を隔てて直上して行く様ですが、
直ぐに自然地形とも思えない大空掘を見る。空掘上部で東側に移ってみて此れが土塁壁で堅めた空掘である事が判る。
長い土塁の空堀道:ただの山道か?
此の空掘もカーブしながら延びる。二つの空掘に挟まれた容の中間尾根だが、段差も削平も曖昧な?自然地形の幅狭い緩斜面の平坦地!ですが、 西側の堀底道・土塁道からから続く細い山道の右手斜面に、浅く短いが5〜6条の畝状竪堀群が見られます。竪堀の20m程?下方には山側に空掘状の溝がある。こんな山稜部に突然現れる山道が空掘の谷側に延びていく?。
5-6条の畝状竪堀群も荒廃する自然地形の崩壊か?
城砦の遺構かどうかは
?定かではないのですが・・・。畝状竪堀群を見て中央稜に乗ると・後は平凡で緩やかな尾根が何処までも続く感じで、雑木の先に高嶽が見えてきたが、福知山・綾部の市境の尾根筋は地形図からも城砦の遺構は期待薄。
市境界尾根から高津町側延び出す枝尾根に、 谷を分けて高津城 (八幡山城)と呼応する大槻氏一族の城砦遺構が有りそうな気もするのですが・・?引き返す。
(丹波志 福知山市史U中世の城址 を参照)
多保市城(打越城)
打越山 90m・140m(自動車道で?消滅か) 福知山市多保市
多保市公民館と丹波・善光寺側には大池と呼ばれた善光寺池がある。大池谷奥にある打越山に大永年間(1521〜1528)築城と思われる
城主大槻阿多之助秀勝の城があった・・・・と文化年間に書かれた多保市村の打越古城「古城祉見取図絵巻 」に記された多保市城を探して土師(はぜ)川を渡りR9号線岩崎から舞鶴自動車道下の地道を抜け、打越城が有ったとされる丘陵部を南から
東へ抜け北側の大池との間にある地区道?へとU字状に廻り込んで、高い崖上にある厄除神社へ立ち寄った。福知山市史には善光寺から大池を隔てた東方、
厄除神社すぐ北側の尾根の山麓に居館と詰め城がセットになった城郭遺構が有ったという。
厄除神社:愛宕社の
左下に平坦地と空堀?
土塁や城戸口(虎口)には矢倉台とも推定される 盛土の遺構が残り、主郭の西側には空堀の役目をしている谷が入り込んでいるという。厄除神社の狭い境内に建つ厄除・愛宕等三つの祠は比較的新しい。
神社から南背後へ続く尾根筋への山道には「千歳山観世音菩薩の?」ミニ霊場巡り石仏祠が有るが、是よりは蜘蛛巣と雑木藪の細い尾根筋で南側は崖で打越の「詰め城」が在ったとされる城域は完全に消滅し、東側の古墓地へと続いているだけ。
つい先程・歩いてきた車道も見えない 真下の側道と平行して、舞鶴自動車道が通じているだけ。観音ミニ霊場巡りの道も・石仏も・居館とセットで残っていた
詰め城の打越城も、山間を抜ける自動車道の空間に消えてしまったのでしょう?・・・ (^^ゞ
大池側車道側から急斜面上の階段を厄除神社へ
更に麓の厄除神社が 高速道路工事後に居館跡に移され、神社の建つ主郭部は矢倉台状の盛り土や土塁が削られ整地改修されているのでしょうか?。西に一段低く削平は粗いが広い平坦地が有り南端
(山側)に低土塁状の盛り上がりがあって1〜1.5m程の空堀状の溝がある。空堀状の溝は浅くなるが 曲輪の中央部を区分して北の大池との間の地区道へ延びているようです。そう考えれば多保市城の居館部の状況が福知山市史の説明とは非常によく似ています!!。
しかし居館部の明確な遺構の確認も出来ないまま詰め城に向かうにも、厄除神社から見える衝立みたいな背後(南側)の山の斜面は20m程先の尾根上で突然切れて
小さな曲輪を置く程のスペースも無い細く狭い尾根筋。 ほんとに此処が居館と詰め城セットの多保市城だったかと、期待していただけに信じられない!!。
東曲輪南の空堀?から本格部の厄除神社
自動車道建設で消滅した城なのか、探した城域は場違いだったのか?近況等ご存知の方のお知らせなり、
報告を待ちたいところです。同様にセットの城となる観音寺城も以前・訪れた筈ですが、登山主で城については殆ど何の知識も無く関心も薄かったので遺構等よくは観察していないので観音寺城へも再訪するつもりです・・(^^ゞ 多保市より長田野工業団地を綾部市側に向かう直線距離で約4km地点にある
石原城には大槻安芸守が高津城には天正期:阿多之助秀勝が拠っていた。
多保市城は高速道で消滅か
?城跡?の断崖上から天突(あまんずく)を望む
天正2年(1574)大槻大学が居たが明智光秀の丹波攻めに破れ落城し、
黒井城赤井直正を頼るが大槻悪七郎の代;天正7年(1579)黒井城も落城し浪人となり、小縁あって天田郡(福知山市)多保市に住んだという。子の秀遠は豊臣秀頼に従って大阪城に立て籠もるが、豊臣氏滅亡の後は天田郡に隠棲したとも云われます。
観音寺城には大槻将館監が居り、土師川沿いR9号線沿いの荻原城には大槻佐渡守が拠ったとといわれ何鹿郡(福知山市の一部と綾部市)には土豪:大槻氏一族・支続が一大勢力を張っていたようです。
(丹波志 福知山市史U中世の城 を参照)