五条山と細野峠・ 砥石山(丹波富士)〜三峠山 /雲石嶽
京都三和町 (五万図=綾部・福知山 )
猪鼻峠〜五条山/菟原〜(細野峠)〜大身 /三春峠  2001年11月17日
T:
知野辺〜砥石山〜三峠山  2002年03月30日

U: 瑞穂トンネル〜雲石嶽   2002年03月30日
V三つの峠を繋ぐ大簾峠〜七谷峠〜草尾峠〜三峠山
 2003年04月06日
近畿の山城 :出野(いでの)城
ふるさと富士:砥石山(丹波富士・質美富士)
和知町音頭♪みとけ山から風吹き出して 心溶け込む和知の川xxx…♪
五条山山頂から長老ガ岳方面

小倉百人一首「大江山生野の道…」五条山と細野峠

173号線を池田から篠山に抜けそのまま京都府・瑞穂町から氷上郡へ抜ける三春峠を越えて帰ります。三春峠の紅葉のトンネルを峠からは丹波の女流詩人 深尾須磨子の里と丹波の名峰?!・三尾山の特異な山容や鋸山の山並を見るのも楽しみです。丹波比叡「妙高山」 も指呼の間です。三和町と春日町を結ぶこの峠を越して郷里へ帰るのが今日の主目的です。先週(11/11)の第13回三春峠マラソンがあり、細い車道には峠まで中央に白いチョークの線が残っています。三春峠までの173号線アプローチ途中の瑞穂町に五条山、三和町に抜けた菟原には歴史の道「細野峠」が有ります。短い距離なので往復するが、 大身・三軒家付近には駐車場所が無さそうなので、菟原から往復します。
瑞穂町下村・スズランスイセンの奥には砥石山(H14.3.30)

B 丹波富士から三ッの峠の山へは遠かった
京都府・瑞穂町から国道9号線を横切り173号から井脇を右折して府道26号(丹波・三和線 )に入ります。前回五条山に向ったおなじ府道ですが今回は東に向います。北方(左手)には三峠山(和知町ベスト5の高峰)へ連なる尾根が見えてくると、 続いて直ぐ目の前に砥石山(丹波富士・質美富士)の姿が稜線の東端に浮かび上がってきます。
 

五条山 猪鼻峠〜五条山〜巡視路〜猪鼻峠(すぎじぞう)   H13.11.17

173号線で兵庫と京都県境の板坂峠を越した途端、 薄い霧が風に流されている中に突入します。時間が早過ぎて未だ付近は薄暗く「道の駅・瑞穂の里」に寄って暫らく休みます。休んでいる間に霧が晴れ、付近も明るくなってきたので(AM6:20)出発します。国道9号線を横切り173号から 三ノ宮で府道26号(丹波・三和線)に入ると正面に五条山が見えます。途中岩屋不動尊があって此処からも登れそうで、山頂に向う送電線の巡視路を探すほうが賢明の様です。猪鼻峠の露岩の前に小さな石仏杉地蔵が祀られています。 車道を挟んで巡視路の「火の用心」標識が有り、車道を10m程離れた場所に資材置き場のフェンスが見えます。後で分かった事ですが(此処へ帰りつきましたので)この金網横の藪を少し分ければ五条山山頂の鉄塔下に直接登りつく快適・明瞭な巡視路が有ったのです。反対側に峠を越すところに、京都府産業廃棄物最終処分場の施設があり山を崩した埋め立て用地が拡がっています。 尾根続きの先に送電線が見えていますのでその最頂部が五条山のようです。車道脇が広くなった処があり車を寄せて駐車。猪鼻峠に引き返します(AM6:40)。
五条山から丹波町や多紀アルプス方面

巡視路から杉の植林尾根に取り付き直上気味に最初の鉄塔へは3〜4分で到達しますが、此の先から尾根を捲いて降っていきます。しばらく道を辿るが 谷に沿って逆にドンドン下っていきますので途中から杉林の中を尾根稜線目指して急登です。獣道だろうと何だろと尾根に出れば何とかコースが読めるので!!!!尾根筋に出ると反対側は処分場です。コンクリ境に沿って歩き藪を抜けると、 尾根に沿って細い山道が続いています。露岩が現われてきますが岩上の踏み後も苔に覆われていますので余程、人の通ることも稀な尾根のようです。送電線は辿っている尾根の先にもう一つ枝尾根がありその先の谷から山上に延びています。

結局最初の鉄塔から降れば殆ど振り出しへ戻ってしまう程です。振り返れば猪鼻峠と対峙する雲石嶽が左右に精一杯尾根を拡げて、鮮やかに染まった紅葉の、きらびやかな晴れ着模様を見せ付けています。 雲石嶽の名は知られていなくとも山裾にの質志鍾乳洞はご存知ですネ。谷間に拡がる紅葉を愛でながらの登りですが何処までも、何時までも急登りが続き露岩の尾根には5〜6mの岩場も出てきます。岩は硬いので直接リッジ通しに越していきます(AM7:15)。 いよいよ続く急登では潅木の幹や枝や根を掴んでの梯子登りですが、やがて落葉を踏んでの少し緩やかになってくると右手からの境界尾根と合流します。合流地点には「境界線見出標」プレートが切り株に打ち付けて有ります。 此処から僅か先で左右からの山道に合流します。正面に鉄塔が見えますので五条山は間近。左からの道は巡視路か!!谷筋とこの尾根を辿る二本が有るようです。
右下への山道は北垣内・水原へ降るようです。 30m程先で突然視界が開けて 八ヶ尾や雨石・多紀アルプスの兵庫丹波の山や長老ガ岳の緩やかに尾根を拡げた姿や、対照的に三峠山が頭を尖らせて望めます。他余り知らない京都丹波の山々が霧を抱きながら頭をのぞかせています。五条山には山名プレートが「少年少女サークル草笛 2」等いくつか掛かっています。切り開かれた山頂部は平坦地になっていてプレート横には休むに手頃の露岩が有ります。しかし五条山(3等三角点 569m AM7:40)は此の先10m、鉄塔前に埋っています。鉄塔から尾根伝いに三ノ宮へ山道は伸びていますが、 谷を登ってくる送電線の先を追っていると登路の猪鼻峠の資材置き場が眼下に見えます。この送電線(丹後幹線)の巡視路を資材置き場の広場に戻ってきました。藪と雑草に埋ったフェンス横を抜けて猪鼻峠の車道に出てくると、向かいに[杉地蔵] (AM8:10)が迎えてくれました。




細野峠越  菟原中〜細野峠(ほうその嶺)〜大身(国道9号線・大身口)  H13.11.17

猪鼻峠から猪鼻集落を抜ければ国道9号線大身です。この大身から菟原への山間には 全国歴史の道百選に選ばれている細野峠があります。菟原交差点から97号(丹南三和線・草山温泉まで約3km程)へ左折しすぐ又左折して宿の集落に入ると、大きな案内板があり、細々と細野峠の説明がされています。
細野峠越について
小倉百人一首の中に「大江山 いく野の道の遠ければ まだふみもみず 天の橋立」と詠われる 大江山生野道が此処細野峠と知る人は残念ながら未だ少ないようですね !!  以前・低徘WMさんに質問された京都丹波の古道「大江山 いく野の道・・・・」の細野峠ですが 「生野の道」が迷い語となって・詠み人・小式部内はNWさんが先日登られた兵庫丹波・丹南町追入(金山登山口のある)の里で、 奇しくも一致しました。あの子別れ伝説・和泉式部の娘です。古くからの山陰街道の要衝として三和町菟原中と大身(三軒家)を結ぶ2Km程の峠は「ほうその嶺」「朴の峠」「菟原峠」「大久保峠」の呼び名があります。
細野峠

全国歴史の道百選(No.50)として平成8年11月文化庁により選定された。江戸時代には 参勤交代の要路ともなって福知山藩・宮津藩・出石藩等が通行しています。元禄2年(1689)にこの地を旅した儒者・貝原益軒が、文化11年(1814)2月15日には第二次丹波測量を行った伊能忠敬測量隊の分隊一行がこの峠を越えています。 (資料 三和町教育委員会 他)
細野峠の標高220m頂付近にある石積みは、今は菟原中の龍源寺(弘化元年1844年10月)に移築されている「宝祚山(ほうそざん)百観音堂円通庵跡や茶屋跡」が残っています。 百観音堂は西国・秩父・坂東の100体の観音像が地元や飛脚中、京都の商人等の寄進により安置され通行の安全を祈願したものです。峠から少し降り始めた左手の平坦地は万延元年(1860)に起こった大身騒動の首謀者の首が晒されたという晒場跡。 この場所から道は直進ですので随分先から見通せます。その際の此処を往来した人々は気味悪かったでしょうね。降りきった車道は国道9号線で瑞穂町と三和町の境で古い「従是北京都」の石標界と「細野峠」「全国歴史の道百選・山陰道細野越 」の案内標が建てられています。
参考タイム : 菟原AM8:30〜百観音堂・円通庵跡AM8:50〜細野峠大身口AM9:05〜同コース引返す〜菟原AM9:30

小倉百人一首について
百人一首は三代集(古今集・後撰集・拾遺集)の他に新古今集等からの10000首以上の歌の中から選ばれています。「小倉百人一首」「源氏百人一首 」「後撰百人一首」「女房百人一首」等がありますが「小倉百人一首」を指すのが一般的です。選者・藤原定家が小倉山荘(京都・嵯峨の別荘)のふすま紙に書かれていたものといわれ、その山荘の名を採って小倉百人一首と呼ばれる様になりました。 六歌仙とか三十六歌仙の中でも小野小町、柿本人麻呂、紀貫之、山辺赤人、大伴家持、在原業平の名前はご存知ですネ。!! 小式部内侍「大江山 いく野の道の遠ければ まだふみもみず 天の橋立 」は金葉集から選ばれている5選の内の一つで、母(和泉式部)の居る丹後の国へ此処、いく野道を通り大江山を越して天の橋立へと旅したのでしょうか。
和泉式部は和泉守橘道貞に嫁ぎこの名があり小式部内侍はその子。 式部はその後、冷泉天皇の皇子・為尊親王と恋に落ち夫と別れ、為尊親王の死後は弟の敦道親王と親しくなった。「和泉式部日記」はそのころの生活を和歌で綴ったもの。その敦道親王とも死別し藤原保昌 (源頼光の四天王の一人)と結婚してその任地 ・丹後に下ったが、まもなく別れその後の消息はわからないといいます。



T 熊ザサ突いて藪漕いで・長かった三峠山への道  砥石山(質美富士)〜三峠山   H14.03.30

登山口探しは先ず駅前から …上手くゆけば駅に案内板でもあるのでは!!とJR下山駅に寄ってみたが得るもの無く、元来た道を引き返しながら知野辺集落から山裾へ向って行きかけたが、民家の庭先に出てUターンしそうな!!・狭い道に辟易して、元の車道に戻り北久保バス停 (AM7:40)迄来ると広い舗装道路が砥石山方向に延びている。三峠山(みとけ)への縦走周回コースを想定しているので府道26号上の何処かに駐車して ・・・と場所を探し広いスペースが有ったので車を寄せ、そこからバス停へ戻って降り気味に集落内の道を辿り此処にも有ったバス停のT字路に着く(AM7:52)。
丹波町知野辺から丹波富士・質美富士の砥石山

どちらへ行こうか ? 先ず正攻法で左手を辿ったが奥に見える集落内は山裾を府道と平行に走っているようだったので、 元に戻って右手の(此方の方がバス道で通行量も多いようだった)道を進んでみると、山へ向うと見えた道は直ぐ民家で行き止まり。JRの遮断機が見える辺りは砥石山前衛のピークへ稜線伝いの取り付き末端のようだったが、 鉱山跡があるとのコメントを思い起こして最初に行きかけたバス停左の道を、も一度辿ってみると此方が正解でした。ほんの数軒の民家を抜けると直ぐ林道「日照線」となり、しばらく進むと分岐となり舗装路が降って行くので、右手の未舗装 「北久保」林道に入ってホッとします。何故って!!何度も取り付き探してウロウロした後ですから間違いのない確証を得たようなものです。足元の小石は白地に黄色っぽい、又は灰色がかった自然砥石の破片です。「瑞穂町北久保飲料水供給施設 (浄水場)」(AM8:05)を過ぎ、砥石の破片を敷き詰めたと思える程、小石の散乱が目に付いてくると小広い林道終点(AM8:15)となり、杉の植林の中に続く明瞭な山道を谷沿いに登ります。登り始めに杖が数本立てかけられているので、 登山者も結構居るのかな!!と思ったがそんな気配は直ぐ消えてしまいます。

途中に左に山道を分けるが、良く踏まれた道を直進するが索道(ドラムカン半割にして砥石原石を運んだものだろうか)があり、散乱する砥石原石や、 上方に見える採掘場からのケーブルを潜った先からは突然道が消えてしまいます。左右に通れそうな所は見つかりませんが、急峻な谷筋に沿って詰めて行けそうです。先の分岐へ引き返すのが正解だったが、此ものルートも面白そうです!!。 露岩混じりの傾斜の急な斜面は 段々と直上が難しくなってきますので東面よりにブッシュを突いて立木に援けられながら稜線(AM8:45)に這い出てきます。 細いが踏み跡が続きます。藪っぽいが露岩混じりの尾根は快適で長老ヶ岳を筆頭に和知富士等の展望も開けてきます。・・が今日は風が強いようです。向う砥石山も丹波富士・質美富士と呼ばれる秀峰で和知町と境界を分けています。
瑞穂町・下村から砥石山(丹波富士)

余談になってしまいますが砥石山はこの和知町五山の一つで長老ヶ岳、 和知富士に次いで第三番目の高峰となっています。四番目が恐入道ですよね?隠れ里さん(京都の藪山を歩かれています)。東尾根を10分程辿れば南尾根の正規の!!?鉱山跡からのルートと合流します。此処にNo.6のコンクリート標柱が有り10数m先が No.7のある砥石山山頂(3等三角点 536m AM8:57)です。此処にもあった「山想同人 峰」のプレートは登山グループ名だったんですネ。今まで氏のものかと思っていたのですが。雑木に囲まれた狭い山頂ですが東北面に僅かに 潅木を通して長老ヶ岳や、JR下山駅から眺めて、どちらが丹波富士かと見紛うばかりだった空山も、この山頂からはピークが判然としない姿が望まれます。これから向う三峠山方面は展望皆無。御蔭でこの後何度も、枝尾根に迷い込んでしまいます…

砥石山は明治以降、頂上付近から良質の青砥が採掘されたところから「砥石山」と名付けられたが秀麗・端整な山容から質美富士・丹波富士と呼ばれていますが日照山とも呼び寛文10年(1670年)の古絵図によると「ひでりが嶽 」とあり雨乞いの山だったようです。寛政11年(1800年)の古絵図には「金打山」の名もあります。丹波・氷上の石戸山も山争いが絶えませんでしたが 石戸山〜高見城山に添付の「日本一の石の大碁盤」のエピソードやカブト鉢〜岩屋山の「佐治の十三塚」の悲話も興味があれば 参考にしてみてください。この山も和知三ヶ村(和知町)と質美庄(現在:瑞穂町)の山論で境界となっています。山頂から西に向う稜線は直ぐに採掘跡!!の段差に阻まれ、回り込みながら乗った尾根を直進していくと周辺の小ピークを抜いて、 そそり立つ三峠山が見えてきますが辿る先の尾根はドンドン下がっていくばかり、雑木を透かしてみると西方に此処より高みに尾根が見えるので引き返します。 間近に見えた三峠山が、 この後も枝尾根を取り違えたり、藪とクマザサが覆い被さるようななかを、消えかかる細い踏み跡と獣道!!を利用して突き進んで見ます。最初に見かけた三峠山はその後なかなか姿を現わしてくれません。 標柱も殆ど見かけません。やっと見つけたプラ標柱に沿って新しく切り開かれた尾根も急な斜面を林道に降りてしまう。
三峠山山頂

質美からこのピークと三峠山の間に入り込む谷沿いの林道のようですが、この林道の終点からも普通なら稜線に延びる踏み跡なく山腹を水平に横断しているだけ!!。登り返せば元のプラ標柱の処へ戻ってしまいます(AM10:00)。 多くの小ピークも雑木林の中、背丈程のクマザサを突いて進むだけで展望無く緩やかな尾根歩きだけが救いです。砥石山と三峠山の中間辺りの552mピーク(AM10:25)付近からは境界尾根に踏み跡も消えてしまいます。ピークを過ぎた辺りからは 特にクマザサが覆い尽くす稜線上の方向に検討をつけて進みます。稜線のクマザサ尾根は狭まってきますが尾根上に踏み跡を見出せません。遠かった三峠山までの行程もヤット終盤を迎え目前に山頂の影を見ます。 しかし此処に至っても踏み跡さえ現われません。右手に林道が登ってきているのを見てヤッと現在地を目視で同定出来ました(AM11:15)。こんな山へ登ってくるダートな林道はオフロードバイクには格好のツーリングロードに思えるが推薦したくはない。 山裾を北に捲くように林道を辿り少し行き過ぎた辺りで山頂に向う踏み跡を見つけて暗い杉木立!!の中を進みます。ケヤキの植林に囲まれた陰気な山頂では展望など、まったく望めません。

三峠山山頂
(2等三角点 668m AM11:30)は 山名プレートが2〜3枚掛かっているだけ。 この山を目指すなら、やはり山名が示す三っの峠(大廉<おおみず>峠・七谷峠・草尾峠)を経て山頂への縦走コースに次回は挑戦です。山頂からはプレートを横目に真南への尾根を辿って下ります。 明瞭ではないが西へ向う尾根を辿ってみたかったのですが、此処まで何度か無駄な時間を浪費して気分的に疲れてしまったので 早々に下りたくなって楽な南尾根を採りました。…がこの道は直ぐ谷通しの杣道となり「福田公団造林地」の黄色い看板の 建つ(AM11:55)林道の途中に降りてきました。三峠山へは、この林道終点からが最短ルートですネ。 福田川に沿っての集落内の野辺には沢山の 小花が色とりどりの装いで春の日差しを受けて咲き誇っています。
福田集落からの三峠山

探せば珍しい花も有ったかも?。 砥石山付近から眺めた雄々しい姿、福田の集落からは優しい姿の三峠山は、山頂の陰気な暗さとは裏腹の姿で見送ってくれます。水呑の車道(府道26号線 PM12:18)をひたすら出発地点の北久保へと質美川に沿って東へ向います。 殆ど車も人も通らない静かな田園の広がる中の車道脇には刈り取れるほどにツクシが頭を揃えて並んでいます。447号線桧山方面への分岐(上野橋)質美小学校を過ぎ下村へ入ってくると質美富士・丹波富士(砥石山)の懐かしい姿が 春の花々の奥に優美な姿を再び現わしてくれます。山頂直下に露岩が見えます。あそこが自然砥石の採石場だったのかと、正規ルート!!とは左右逆の尾根を登ったことを今、目視で確認しながら北久保バス停に帰り着きます(PM1:40)。 時間が有れば空山へ向いたい所ですが、帰路途中の173号線・質志(しずし)鍾乳洞近くの瑞穂トンネル上にある雲石嶽に寄ってみる事にします。



U 置き忘れられた旧国道(榎峠)から雲石嶽567mへ  H14.03.30

昨年秋にも田舎への帰り道に近くの五条山に登ってみましたが、今回も同様に猪鼻峠と対峙する近場の雲石嶽に寄ってから帰ることにしました。 雲石嶽の名は知られていなくとも山裾の173号線・瑞穂トンネル手前にある質志(しずし)鍾乳洞はご存知ですネ。京都府下では唯一の鍾乳洞で、昭和2年に発見されていてキャンプ場も併設されています。 鍾乳洞が何処まで続いているか調べてみようと鶏を中に入れたところ約3キロ程離れた大原神社の下のほら穴から出てきたという話もあるんですがその後、調査されたかどうか?は判りません。この鍾乳洞は全長52メートル、高低差25メートルとあり、入り口からはほぼ垂直に設置された梯子を伝って進みます。 15年ほど前に寄った時の記憶です。当時、 夏休みで預かっていた親戚の子を息子を伴って綾部へ送りついでに此処に寄った事を思い出して、一寸センチな気分で瑞穂トンネルを潜ります。
戸津川集落旧173号線から雲石嶽

トンネル手前付近は鍾乳洞観光駐車場はありますが無料!!駐車場所は見当たりません。取り付き点の榎峠へ向う旧国道の脇道も見過ごしたらしく、 気付かないまま瑞穂トンネル戸津川集落側へ抜けて、旧173号線に入ります。集落入り口の古岩神社前付近(PM2:00)から歩き始めましたが、行き帰り共に人にも車にも合わない、静かな山村の田園風景の拡がる道で「林道戸津川長谷線」との分岐に、 たった一つ此処が国道であったことを示す173号・京都池田方面の標識板が残っています。瑞穂トンネル上部の榎峠にアンテナ塔が有り其処からは短いが自然林が続く稜線が見えています。 稜線に白く光るマイクロはKBS京都榎峠中継所です。峠の車道から中継所までは 施設管理の山道が続いています。最高ピークが雲石嶽ですが遠目で見る感じと異なり、此処も展望のないピークでした。旧国道も峠に近付くにつれ車の騒音が耳につきますが人気のない谷間には藪椿やタムシバが、山側にもピンク、紫、 黄色の可憐な小花を多く見かけます。峠には「榎峠北通信所」があり25m程の通信塔が建っています(PM2:30)。

質志・三ノ宮方面へ降る車道は通行止めの標識が有りました。土砂崩れ発生等の為らしいが、いつの頃なのか、 今も通行止めなのかは判りません。タイヤ痕もあるので問題は無さそうです。通信施設の先に林道が延びているので(車幅一杯に土塁が詰まれて侵入出来ない)此処から取り付き、直ぐ林道から分かれて稜線上に見かけたパラボラアンテナのある 「KBS京都榎峠中継所」までの山道を進みます(PM2:40)。通信施設の側からは藪っぽい潅木の中に消え入りそうな踏み跡を見つけて山頂へ続く稜線を辿ります。先ほど登ってきた三峠山が見えています。 今度は此方方面から三つの峠を経て登って見たいものだと考えています。戸津川集落から見た通りの自然林と笹に覆われた稜上は快適です。同じコースを戻るので、周辺の状況を観察しながら登ります。 緩やかな稜が南へ方向を変え始めると其処が雲石嶽山頂 (3等三角点 567m PM2:50)で雑木藪の中の三角点上には測量用の柱(三方に白い羽板を頭に載せた)がワイヤーで固定され建てられています。帰りは同じ道、自分の靴跡辿って榎峠(PM3:12)〜旧国道を戸津川集落の古岩神社へ戻ってきます(PM3:35)。



V三つの峠は何処にあるの? 大簾峠!〜七谷峠!〜草尾峠!〜三峠山  H15.04.06

昨年は瑞穂町の最高峰三峠山(みとけやま) 砥石山(質美富士)から縦走したが、今回・同じ時節に和知町側から辿ってみたくなった。 三峠山の名に由来する大簾(おおみず)峠・七谷峠・草尾峠の三つの峠を経て三峠山に至る縦走ですが、長い尾根のピークに名のある山はありません。和知町と瑞穂町を繋いだ古い三つの峠の姿も今は昔、峠の姿はその所在も踏みならされた山道さえも、長い尾根筋を削り伸びる林道に消されてしまい、峠に至る山道を訪ねる人も居ないでしょう。国道173号を「みずほトンネル」側へ少し走ったところで 府道59号に入り大原神社前を通って、峠を越えると天田郡三和町と船井郡和知町の郡境で此処から尾根通しに三峠山に向かうのが今日の予定です(AM7:00)。
三峠山遠望・連日の雨に濡れた笹が朝陽に光る

少し手前に送電線が走るので巡視路を辿ろうか、直接峠から尾根に取り付くか道が無いので迷うが、何れ境界ポールが現われるだろうと棘木の多い藪に分け入った。 暫らく尾根を伝い巡視路道と合流する頃には雑木と笹尾根の素晴らしい道となった。これから向かうには随分遠くに見える三峠山の黒い姿と、緩やかな大きな山容の長老に鉄塔が目立つ、弥仙山も尖りピークを突き出しています。しかし、 この快適尾根道を図に乗って尾根を行き過ぎNo.233鉄塔まで行ってしまいます(AM7:30)。明確な尾根が続いているわけではなく、少し引き返して三峠山の 東方向へは谷よりに50m程下ると林道に出てきます。此処が大簾峠のようです。R173号線みずほトンネル下へ下る山道は判ったが大簾集落から急斜面を何処に登り着くのかその地点はわからなかった。尾根は消え、その尾根上が林道となって 延々と三峠山の北側を越えて続いて行きます。
開宝林道の崩壊側壁

開宝林道と名付けられたダートな林道は平成 7〜8年頃地域の開発事業で開通したようですが、 削られた岩盤はいたる所で崩壊または崩壊寸前、岩肌は剥がれやすく、落石が道路上に散乱していますが、 路肩が崩れたり路面が雨で流され深く掘れた所は府道59号の入口から三峠山までは無い様です。 昨年はこのJR和知駅付近から山上へ延びる林道の山頂付近を少し辿ったようです。なをも続く林道は何処に続くのかと思っていたところ、今回そのスタート地点から歩いてきた事になります。オフロード・ツーリングには恰好のコースなんでしょうね。 草尾峠からは林道歩きに飽きてガレの急斜面上に続く猪垣を抜けて尾根を辿って見た。振り返ると林道の続く中、 二つの峠の間に取り残されたようなピークが二つあります。当初、七谷峠から大簾の集落に下り59号線を駐車地点に戻り、 再度・広野付近から草尾峠を経て三峠山へ登り直すつもりでしたが 草尾峠付近以外下れそうな峠道が見当たりませんので、同じコースを引き返しついでに、 此れ等のピークに登るつもりです。一つは三角点峰ですね。 暗い杉の植林帯のなかに一年ぶりに再会の三角点標石は三峠山山頂(2等三角点 668m AM9:10)です。今度は草尾峠を過ぎて開宝林道石碑(AM9:40)のある所から尾根に取り付きます。
草尾峠付近から無名峰・山頂に祠跡の石積が残る

踏み跡は続くと思ったが背丈程の笹薮の中で消えてしまう。 藪を避け樹林帯側に移動して山頂部に出ると平坦な場所が有る。形の良い山なので三角点峰かとも思ったが余り展望も効かなかったが、高さ・直径共に1m程の石積みが残っていた(AM9:55)。稲荷社か愛宕権現でも祀ってあったのだろうが木片も残っていなかった。 又も藪の急斜面をズリ落ちるように林道に戻り七谷峠(この林道中で一番広い空き地!!がある)の先で林業用作業道が尾根上にのびているので、其れを辿ると3等三角点峰(512m AM10:28)に着いた。 山名票の文字も消えた古いプレートが一枚掛かっていだけ。(いつも利用の国土地理院WEB基点地図のソフト不具合で点標名が不明の為後日追加修正します) 。取り立てるべき特徴のない山頂ですが、大簾峠を過ぎた辺りの林道からは山頂が半分鶏冠頭、 半分バーコード風に薄くなった緩やかなピークが目立ってきます。和知町では 長老ヶ岳917m・和知富士675mに次ぐ山ですが、人気の程は山頂を踏めばわかりますね。
三角点峰

ダートな林道から舗装された府道59号線に出てきた(AM11:05)。此の林道取付きから町界尾根の峠へは直ぐだった。無理して峠〜取付いてみたが、初めっから林道をトレースするのが正解だったか、僅かでも展望と快適な笹の尾根歩きの迂回コースを選ぶかは ・・・!!峠からは和知町へ下りR27号線へと由良川を渡る手前にある出野(いでの)城へ寄って、その足で綾部市の、もう一つの山城甲ヶ峯城へも立ち寄って帰ります。 未だ桜花も咲いていない桜祭りで賑わう山家陣屋の前から山に向かいますが、残念ながら地元の関連ホームページ上を検索しても、和知の出野城・綾部の甲ヶ峯城(山家城)のレポート紹介は載っていませんね。

出野城


出野城      XX山 220m   船井郡和知町出野
 
R173号線「みずほトンネル」を三和町に入り大原神社への府道59号(市島和知線)に入り、峠を越して和知町・広野へ下ってくると妙行山 長源寺があり、道路に面して広い駐車スペースが有って車を寄せます。直進すれば稲次を経てR27号、左折すれば直ぐ由良川を渡ってR27号へ出る分岐に間・目前(東北側)の丘陵が出野(いでの)です。 長源寺は"がん封じ"で良く知られた臨済宗の古刹ですが目の前、JRのトンネル上の"お稲荷さんの山"が出野城である事は和知町関連のホームページにも紹介されていないのは残念です。曲輪・土塁・石積等遺構が残っているのに、此れを稲荷社造営のものと混在されないよう、和知の歴史史蹟として認識され残して欲しいものです。"片山文書"の紹介はありますが、 出野城についての記述内容も知りたいところです。此の城が片山氏の築城!!?のち出野氏の城ともなったようですが詳細は不明です。
出野城・参道石段横に残る石塁(古城)

直進して民家の間から車幅の細く急斜な簡易舗装の参道もあり、山頂には稲荷社があり、参道石段手前から左手へ 腰曲輪が藪の中に続き境内の西側を囲んでいますが北奥の本丸まで延びています。
参道石段上には古い時代の城の石積みを見ます。石段上のお堂(休憩・社務所!!)のある平坦地の先に境内を二分するように 約1.5m幅の石積みがあり正面中央部には七段の石段があって、其処を登ると稲荷社の社殿が奥にあり左手に低い盛土の土塁が続き、 その稲荷社の真後ろの雑木藪の中の最高所が本丸らしく、此処にも北端部に1mにも満たないが土塁と判る盛土部がありその先は3〜4m程の空掘が北東側を割っています。その北下に曲輪らしいものは見かけないが、 数軒の民家がある西下側に曲輪があるのかも知れません?。後で車道から眺めた感じだけですが。
出野城・稲荷社前の石積(近世)

鎌倉時代・承久3年(1221)後鳥羽上皇が源実朝死後の鎌倉幕府から政権を奪還しょうとした承久の乱での功によって 武蔵国片山郷より入部した地頭の片山平九郎有馬允がこの地を領し、南北朝期・元弘3年(1333 )後醍醐天皇に味方し、北条氏の討伐を掲げて丹波篠村で挙兵した足利尊氏が六波羅探題を攻めた時には 片山貞親が一族あげて尊氏のもとへ馳せ参じています。建武4年(延元2年1337)丹波守護・仁木頼章に従って丹波粟村河原や土師河原の合戦で軍功をたてています。天正期の城主は片山氏に変わって台頭してきた出野氏に代わったようです。
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妙行山 長源寺(臨済宗妙心寺派)は山門入口の標板にも掲げてあるように"ガン封じ"の祈祷で知られ惟高親王の開基を伝えています。貞観14年(874)文徳天皇の第一皇子惟高(これたか)親王が 皇位継承に敗れて29歳で出家し、梁覚と改めて諸国を行脚し此処・出野を訪れた時、庵を結んで観世音菩薩を祀ります。
"がん封じ"で知られる長源寺

そして出野を去るにあたり世話になった村人へ「がん封じ」の秘法を伝授したと伝えられます。弘長3年 (1263)この地を訪れた執権北条時頼が、この時の庵を「妙行山長源寺」と命名したといわれます。

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