綾部の山城Ⅳ 藤懸陣屋・上林城(置山)/綾部城(陣屋)/田野城/赤坂坪砦
藤懸陣屋と上林城 (生貫山城・八津合城 古城山・置山) H15.08.02
近畿の山城 上林城(生貫山城) 綾部城(陣屋) 田野城 赤坂坪城 安場砦
生貫山城遠望

R173号を綾部市に入ってくると野田城のある井根山を右に見て市街地へ左折すると綾部陣屋も近く、新綾部大橋を渡りR27号線に出て由良川沿いに東走して山家陣屋と山家城のある山家交差点で府道1号に入り上林川に沿って綾部温泉:二王の湯や其処から光明寺を経て君尾山コースもあるが今回は城巡り。途中に十倉陣屋・上林城・位田城/栗城を攻めた高田豊後守の山内城もある。所在知らず素通りで「城山とホタルの里」上林町石橋にある上林城へ向かう。
田野城:一石五輪塔祠の土塁を挟み二重堀切が敷設される

城の名より休養村「上林山荘(閉館)」を目指す。府道1号の綾部観光センタに駐車し正面に見える丸く盛り上がった独立丘陵に向かい上林川に架かる大手橋を渡ると生貫山城城上林氏(宇治に茶園を経営し豊臣秀吉から宇治茶頭取として宇治茶の総支配を命じられ、徳川家光の代には宇治茶師を務めた一族)で平等院の近くにある「宇治・上林記念館」で宇治茶と上林氏について:幕府の茶師を務めた上林春松家の長屋門を潜った記念館でお調べください。



生貫山城と藤懸陣屋 綾部城(綾部陣屋) 田野城赤坂坪城 安場砦

藤懸陣屋と上林城
上林城 (生貫山城・八津合城・蝸虫ヶ城・小雲城) 置山220m  綾部市八津合町石橋・古城山

大手橋を渡ると小さな流れに架かる大手小橋を渡る。川から急激に盛り上がる独立小丘陵の北面は断崖状天然の切岸。山頂部に数段の幅広い平坦地を見る。中腹の大きな建築物が自然休養村施設の上林山荘と研修棟(閉館)。
上林城(大手橋から)

この山荘建設の為(昭和53‐55年)用地から古城山山頂周辺を全面発掘調査された生貫山城がある。上林山荘が上林城西の曲輪(二の郭?)・研修棟のある西下付近が藤懸陣屋跡か?遺構を残す面影もない。一段低い北西部へ延びだす尾根先にかけても高い切岸を持つ北西曲輪が大手橋を正面にして城下城域に近づく往来監視・警護に任ってきたようだが 雑草と雑木に荒れ埋もれてあった。上林山荘の入口手前から草生した階段の続く散策道が延びて上林川の流れと府道1号に沿う八津合町の集落や
北西の曲輪(大手橋からは上林城右端丘陵)と中上林地区

蓮ヶ峯から君尾山への山稜を眺望する本丸の展望所に延びている。弥仙山が望まれれば最高のロケーションなのだが。研修棟東向かいの駐車場からは荒れた林道が山頂本丸内まで延びている。発掘や公園工事用に使用された車道かと思われたが真新しいタイヤ痕も残る。南曲輪の東裾沿いに主郭(本丸櫓台)南下の鞍部へ廻り込み主郭西へ捲き上がり、北側の虎口上部に出て東屋・神社が祀られている展望広場まで通じているが…。上林山荘前の登山道入り口に上林城案内板があり
上林城(上部)と藤懸陣屋(民家の直ぐ上部)

階段道が続き真新しい「井戸跡」石碑前に出る。目前に広い北の曲輪があり、そこから主郭の高い切岸上に建つ東屋を望み、虎口を詰め上ると下方からの林道と合流し主郭展望広場に入る。石積井戸は金網フエンスに囲まれ雑木と雑草に覆われてはいるが随分大きく深い井戸の様だ。上林川の川原位置は低いが此の井戸の水線は直ぐそこにあるよう?。その先に山荘施設用の貯水槽と一段上が北の曲輪だが井戸跡・貯水施設?から北東側へは6~70m程も続く長く広い腰曲輪(馬掛郭)が東端の曲輪下へ延びています。
大手虎口から展望広場と主郭の石積み櫓台

馬掛郭の西端附近には砦櫓のような遊戯器具が残っていた(撤去されたか?)。馬掛曲輪と北郭(一ノ曲輪)の切岸は10m程と高いが北郭(一ノ曲輪)からも7-8m程の綺麗な切岸や、此の曲輪の南上部・休憩東屋や城山稲荷社が祀られている主郭への虎口に形成されている。大手小橋付近から眺めても此の二つの高い切岸が確認出来る。主郭部外周の北東端からを降り立つが写真で見るように
上林城井戸跡から貯水施設?上の一ノ曲輪と主郭切岸

馬掛郭内部は鬱蒼として入り込む余地もない程の雑木藪・シダ類も密集し遺構が目視判別できないうえ時期的に。蛇・ダニ類には要注意なので引返す。城山稲荷社と休憩用東屋の南側に拡がる広い本丸も雑草が繁茂してコンクリート製のベンチや荒れるがままに朽ちるのを待つトイレ等が雑木と雑草の中に残る。時期的に蛇・ダニ類には要注意なので引返します。城山稲荷社と休憩用東屋の南側に拡がる広い本丸も雑草が繁茂してコンクリート製のベンチや荒れるがままに
主郭切岸・一ノ曲輪(北郭) ・さらに高い切岸で馬掛郭が!!

朽ちるのを待つトイレ等が雑木と雑草の中に残されています。曲輪の外周をフエンス代わりに植えられたツツジも雑草のなかに隠れ側に寄らないと雑木と判別出来ない。埋め戻された遺構以外に土塁や石積み・櫓台等が此処に残っているのか失われてしまったか?。位根山公園の野田城のように遊戯施設を設置し公園化スペースのために削平されたり、数年後には利用されることもなく遺構が再現・復元されることもないまま忘れられてしまう残念な結果の公園化は避けたいものです。
南の曲輪から 主郭石積み櫓台

気付かれずに壊され消滅する遺構も惜しまれるが上林城は戦国時代・天文年間(1532-55)土豪上林下総守晴国が築城して居城した。上林氏は清和源氏の流れをくむ 中世丹波の豪族で赤井氏流(荻野・芦田・大槻氏…とは同族と云う?)で南北朝期・為家の曾孫赤井(上林)秀家が足利尊氏に従って功をたて室町幕府の被官として何鹿(いかるが)郡上林庄に地頭として入部し上林姓を名乗ります。源頼信四代の孫家光を祖とし其の子:道家以来数代にわたり上林庄【R27号山家から
東の曲輪から本丸に入る虎口?

府道1号(小浜綾部線)の上林川に沿った長い流域の谷合いに三上林があり口上林地区から上林城のある中央部に中上林地区・奥上林地区(綾部温泉・光明寺がある)から 三国峠で若狭高浜への県境まで続く広大過ぎる荘園内に平安時代には石清水八幡宮領?、鎌倉時代初期には京都の神護寺領?時代を経て享禄4年(1531)には現:南丹市の島城・今宮城の川勝氏が侵攻して一時期:一部を領有し天文年間(1532‐55)には相国寺領や仁木氏領(丹波仁木荘?にいて仁木氏を名乗った土豪:伊勢氏一族らしい?)が混在していたのでしょう。中央部の上林庄には上林氏が庄園官吏代官として入封され在地土豪として勢力をもってきたものか?。
主郭の石積み櫓台

しかし其の以前:永正年間(1504~20)or元亀年間(1570-1573)とも?上林秀家九世の孫・氏忠のとき山城国宇治に移って大規模な茶園を営み・茶業師となり宇治茶の元祖となっている。山城国宇治に移った要因や当地方や宇治においていて茶業に携わることになった事由等は不明、その子久重も宇治に没した様です。桃山時代には豊臣秀吉に重用されて宇治郷代官に任ぜられ江戸時代には幕府の御物茶師の頭取ともなり 久重の子・更に孫の代へと続いている様。上林庄は「大永の乱」大永6年(1526)細川高国方についた赤井氏の侵攻に光明寺をはじめ多くの寺院が焼亡した。上林庄を出たとされる元亀年間ならともかく永正年間だと?だが。
主郭の石積み櫓台

天文2年(1533)細川高国は弟:晴国に君尾山光明寺の再建を命じ・勧進を許され上林丹波守?が此れに充たり寄進・尽力しており土豪として上林一部を領して残留した一族がいたものか?。光明寺参道・綾部温泉近くの山内城主となる高田治忠が信長に付き永禄3年(1560)生貫山城の上林氏等を攻略し、明智光秀が領していた上林庄は天正10年(1582)本能寺の変に斃れ、明智支配を離れると高田氏が山内城を築き、生貫山城を上林氏に譲ったとされます…。
(綾部市教育委員会・綾部市観光協会の現地案内板等 参項)

藤掛(藤懸)陣屋
室町幕府の被官上林氏の居城生貫城の城域に藤掛氏の陣屋がある。尾張織田氏一族の藤掛美作守永勝は浅井長政に嫁いだ信長の妹お市に随伴し長政滅亡後・信長の子秀勝が豊臣秀吉の養子となると、その補佐役として丹波に六千石の所領を受け天正13年(1585)秀勝が病死すると秀吉に仕え朝鮮出兵にも従軍しています。
藤懸陣屋(上林山荘附近)

関ヶ原合戦前は丹波何鹿郡上林・丹波多紀郡小雲1万3000石を領し西軍に付き丹後田辺城攻撃に参加したが細川幽斎とは旧知の為攻撃は形ばかりだったという。西軍に属したので所領は一旦没収されたが慶長6年(1601)六千石に減じたが藤懸永勝が旧領を安堵され転封され陣屋を興す。子永重は家康に仕えて書院番に列し子孫は徳川旗本として存続し以降・明治の廃藩に至るまで上林地域を中心に何鹿郡(綾部市)内22ヶ村を支配しました。陣屋下には小さな城下町が出来、上林川には大手橋が架けられました。
藤懸陣屋(民家附近にミニ城下町が形成された!!)

自然休養村事業の実施に伴い昭和53年~55年にかけて中世山城遺跡として綾部市教育委員会により藤懸陣屋跡も含めて発掘調査が行なわれ、建物遺構の石垣・堀等や皿・朱漆器・陶磁器・石製品・下駄・金属製品や鉛弾丸等が出土し中世山城の様子や 当時の暮らしぶりを偲ぶ事ができる。遺構の大部分は埋め戻されたが記録保存され出土品の一部は管理センターに展示されています。
(綾部市教育委員会・綾部市観光協会の現地案内板等 参項)

綾部城(上野城・陣屋後期)  本宮山  綾部市本宮町(城)上野町(城・陣屋)
綾部陣屋(前期)  綾部市川糸町丁畠…
綾部陣屋(後期)
  綾部市上野町上野(城・陣屋)

由良川沿いの山城群からは綾部市のランドマークとして目立つ山容の四尾山の北山麓:JR綾部駅を中心の市街地を通り府道8号からR27号に出る丹波大橋の南方には由良川へ延び出す台地上には本丸とされる大本教長生殿・二ノ丸の綾部小学校・綾部幼稚園・せんだん苑南保育園・周辺には宅地や農業試験場等が並び建つ。北方の綾部駅・市役所・図書館側からは府道709号の細い車道・勾配が急になる辺りで
綾部陣屋(府道709号側:保育所の石垣塀に架かる大手門跡標板

旧街道筋の趣が出てくる。三和町方面から質山峠を越え福知山方面へは綾部陣屋の西端を通り大手門前を府道8号線に出るルートが旧街道筋だったか? 旅籠か大商家だった?町家を見るが余所見も出来ない程・車の往来も多い。街道筋の府道709号沿い西福院への山門石柱と車道を挟む斜向かい「せんだん苑南保育園」石垣とコンクリート部の側壁に綾部城大手門跡標札が立つ。
綾部幼稚園北面の高い段差


石垣が陣屋築造時の転用石かは不明ですが綾部幼稚園・綾部小学校へ通じる脇道が大手道!!。此処に九鬼会綾部支部による「綾部城の縄張り絵図」付き大きな案内板があります。此処から大本教団施設にかけて学校や宅地が並び拡がる台地(上野町・上野台)一帯が初期の綾部城や家臣屋敷跡なのでしょう!!。綾部城の主体部は由良川とR27号(舞鶴~京都へ通じる街道)を見下ろす高台の東端に位置する大本教団施設の長生殿・農業研究センタと小学校敷地と思われます。
綾部幼稚園東北角から北面の切岸

本宮山を主郭?とした綾部城は失火により焼失すると西隣の綾部小学校から「せんだん苑南保育所」にかけての一帯に後期:綾部城(現在の後期綾部陣屋跡)を再建して移ります。九鬼氏の移封により綾部藩が成立した初期綾部藩陣屋は綾部高校東分校・綾部市民センター・熊野新宮神社附近に在った様で堀ノ内・番取・古屋敷・下市場…等の字名が残る。
大本教綾部本部(旧綾部城跡)

初期綾部藩陣屋も火災消失により、元和年間:別所吉治が入部していた綾部城跡の上野台に再築して移り後期綾部藩陣屋として明治の廃藩置県まで九鬼氏代々に継がれてきた。三田藩九鬼氏の家紋は九曜紋が定紋と思っているが七曜紋もある。本部を綾部市と亀岡市に置く大本教の神紋(宗紋)も九曜紋に似た10曜紋(当初は九曜紋だったとも ・ただ使用され始めたのは明治期になってから?。夫々に意味合があるようだが九鬼会綾部支部による”大手門跡”碑を見る限るでは綾部藩では 左三つ巴が使用されている様ですね。長生殿前を約150m程南へ進むと車では急な降り?斜面となり、
前期綾部陣屋:熊野神宮神社:左手に綾高東分校

大手門跡の縄張り絵図からは上野町-本宮町の大本教長生殿東の教団本部敷地で南北朝期~室町時代にかけ築城時期は不明だが新田氏一族:江田氏が本宮山に築いた綾部城がある。永禄8年(1565)頃多紀郡八上城主波多野氏の四天王とも・旗頭七人衆の一人ともされる江田兵庫頭行範が居城したが八上城軍記の七頭に赤井景遠?・久下重氏等がおり真意不明…天正7年(1579)明智光秀の援軍:羽柴秀長軍により開城させられ

小学校正門?(北門)右に公園・駐車場の二段曲輪跡。駐車場下左に幼稚園

丹波守護:明智光秀が支配するが信長を本能寺に討ち小栗栖に死すと豊臣秀吉が治めるところとなり…其の後大阪の役に軍功があったとして元和元年(1615):丹波氷上郡由良の別所豊後守吉治(但馬八木城主となった重棟の子)が2万石で入部するが寛永5年(1628)参勤交代を怠り遊猟が過ぎるとして除封される。藩陣屋としては:寛永9年(1632)志摩国鳥羽藩の九鬼守隆(5万6千石)死後の家督相続争いにより翌寛永10年(1633)久隆3万6千石で摂津国三田藩隆季(たかすえ)は2万石で綾部に移封され陣屋を造営し綾部藩が成立したが陣屋は慶安3年(1650)焼失した為、
綾部小学校北・正門右手の方形曲輪(校内の公園!?)と切岸

幕府の許可を得て上野台に城地を移し再興され最後の藩主隆備(たかとも)まで続いたが明治5年(1872)の廃城令の対象となった。北方は大本長生殿前の車道がカーブしながら坂道を下る両サイド・緑寿館と小学校が曲輪に見えてくるが綾部小学校~綾部幼稚園~さらに大手門跡標札と縄張り絵図のある北西端の「せんだん苑南保育園」北側にかけて高い崖状が切岸を呈し小学校の東北部から正門前にかけては近世平城の方形曲輪然として切岸も3~7m程・上部に石垣跡か土塁線等遺構も遺っているかも?。大手門跡碑を見て709号を南へ抜けていくと江田氏の綾部城支城の田野城や赤坂坪砦がある。
綾部小学校北西角:正門右手の方形曲輪?

正門前から真直ぐ坂道を下る西側に幼稚園・その北面は垂直に近い7-8mの高い切岸を呈して完璧に防備・進入を拒みます。現地の綾部城略図は西福院から眺めた様に見えるが?北の城下一帯が陣屋主曲輪部として描かれている様で判り分かり難いが陣屋は小学校位置・大手門~幼稚園等周辺は家臣団屋敷跡か!?。
(現地:案内板・Wikipedia・綾部市史等 参項) (綾部市教育委員会・綾部市観光協会の現地案内板等 参項)


田野城・赤坂坪砦・安場砦

田野城(岡倉山城)  岡倉山? 105m 綾部市田野町山王・岡倉山

福知山市方面から府道8号を東へ走りJR綾部駅・市役所や図書館側から府道709号線の細く勾配も急な旧街道筋 ?を通って綾部陣屋や綾部城古城の在った大本教長生殿・綾部小学校付近綾部城・綾部陣屋を見て廻った。今回は南方から綾部城支城の一つ田野城を訪ねる。
愛宕社参道から田野城北正面

府道709は田野町から福知山市三和町長宮から川合でR173に合流する。途中行止り?の稲葉へ向かう分岐点で谷川を渡るが 川裾に尾根先を落とす丘陵尾根上の三角点峰が浅木山城なので藪を潜り急峻な斜面に取り付いてみた。植林?の樹木の間隔が空き過ぎ悪戦苦闘 ・尾根筋は比較的歩き易いが主尾根筋へは幾度か枝尾根を踏み変えるので帰路のルート誤りに注意して進む。城跡かと思えるような地形はあるが方向を誤り
田野城主曲輪背後の大土塁

進んだようで三角点も未確認で引返した。現状では余りに辺境の地・集落からは遠く比高もあり山深いが周辺の山城では唯一合戦記録が残る城だけに再トライしたい。 東山裾を抜ける府道709は長宮集落入口からはヘアピンカーブのうえ一気に道幅も一車幅で細くなり急斜。濡れて苔生す林道然に小型車なら …田野町へ下りてくるがR173へ引返し新綾部大橋
堀切道状秋葉社参道:主郭南西下部曲輪?から田野集落

(渡ればR27に出る)手前・井根山城がある野田町交差点を左折し綾部城訪城時に通った大本教長生殿前から綾部小学校前を抜けR709号に出て田野町へ向かう。府道483分岐点から田野城へと府道409に入って直ぐ天王平”奥津城”登り口の大きな石標があり、”一ノ瀬奥城”とも標記があったり長い土塁状に囲まれる部分もあるが本宮山(大本教聖地)を正面に望む天王平の奥津城(おくつき)で
田野城:秋葉社背後に在る土橋付き二重堀切

大本教開祖から4代・聖師・尊師の塚が祀られる神域です。幅狭いR709号の左手に低丘陵の先端部が段々畑と民家側に落ち燈篭と愛宕山参道の石標柱が立ち、左右に狭い道が延びているが右手をとって民家側から丘陵へ向かう道が 秋葉社への参道で左右の丘陵尾根を分ける様な堀切道状から西面の秋葉社の祠前に出る。尾根続きの東側へも三段程の曲輪が並ぶ。
田野城:北進入口の空堀状を挟む曲輪?

南面集落側には切岸段差も高い畑地が数段ある。堀切道状を鞍部からの北側には左(主郭側)に犬走り状の短く細い通路となり、祠背後から 主郭の大土塁(幅広く櫓台も在ったか)間に敷設された二重堀切の末端が此処に落ちる。手前堀切の末端と土橋状ともなっている犬走り通路側には井戸状の円形窪地(自然地形か・落し穴?)がある。北へは急斜面下に空堀状・幅広い谷状になっているが東面は北に延び出す丘陵先端(愛宕山参道ルートから50m程。
田野城主曲輪大土塁より中土塁(一石五輪塔の祠を祀る)を挟む二重堀切

農機具小屋?先から斜上する進入口がある)にも曲輪がある。低位置ながら主郭切岸の高さ・手強さが実感できるかも。中央堀切道から北の斜面下(谷間?)迄の西側主郭部以外は東面殆どが雑木・竹薮と朽ち枯れた倒竹材の中で縄張り・遺構状況が掴めない。田野城は福知山市三和町川合へ抜ける府道709号線の間道を監視して直ぐ北方の綾部城に対する 南西の玄関口にあたる。
主曲輪大土塁から二重堀切(再下段中央は秋葉社と並ぶ石廟!?)

単郭小規模城郭で間道を正面に見る主郭(30X20m程・曲輪内は下草で覆われた笹藪で平坦地形以外の状況把握は不可)の南背後に櫓台大土塁・其の南に中土塁(土塁上には石造祠内に一石五輪塔三基が納められる)を挟んで土橋付き二重堀(南一段下部・秋葉神社祠の背後)が敷設されている。秋葉斜祠も土塁上にあり削平状態は荒れているが低い段差で二曲輪・堀切道側切岸下
赤坂坪砦側?から田野城全景

南西側にも広い曲輪(畑地?)を持つ。永禄8年(1565)頃篠山市の八上城主波多野氏の被官江田兵庫頭行範が居城した綾部城(上野城)の支城か出城として守将福山氏が居城したと伝えられる。築城時期・城史詳細は不明だが「丹波攻略]の明智光秀軍や羽柴秀長の援軍に攻略され天正7年(1579)開城させられた綾部城の江田氏と共に田野城の福山氏も運命を共にしたものか?。
二重堀切と主曲輪東面とは鞍部から分ける谷側切岸

田野城から府道709号を三和町川合へ抜ける市境の浅木山城は 内藤氏前線基地とした出城で八木尾張守が拠り永禄年間(1558-70)山家城の和久氏を攻めていたという。合戦記録が残る数少ない山城で其の子:助之丞が築いた上安場城もあった。山家城なら府道59号とR173沿い警備が主?だが城域が余りに遠くて高い。八上城配下の田野城は内藤氏とは敵対していた筈。しかも田野城の北西一帯に鴻ヶ岳城・高津八幡城はじめ内藤氏在地土豪・大槻氏の城砦群がある。
田野城:堀切道状な南参道・左へ斜上して帯曲輪?・上部は秋葉社

綾部城の支城群には田野城の西向いに赤坂坪砦(守将:西岡丈助)や丘陵尾根上には安場砦(守将:平尾某)が在ったとされます。どちらも探してみたが赤坂坪砦は位置を間違えた様?、安場砦も山頂部付近の平坦地形や堀切にしては浅く幅もない、防備共に貧相で遺構とも思えず此処も手応えなく引返したが江田氏が天正期”明智丹波攻め”まで城が維持されていた事は 大槻氏等と内藤氏に付いていたものか?。


赤坂坪砦   Ca100m  綾部市田野町田野山・赤坂

田野城とは709号線を挟んだ西に比高20m程の低丘陵部が拡がり、綾部市遺跡分布地図には丘陵西南方 奥の峰上には土塁・空掘が検出されているらしい福山某氏の安場城(砦)が記されている。以前に田野城を訪ねた後に向かったが緩斜な尾根上に 城遺構を発見出来ず?引き返した。
田野川沿いの綾部道と正面:福知山方面を示す道標石

安場城への取付きとしたコート?(ゲートボール場か?)背後の藪中と其の東・民家背後には西に2段程の曲輪状!、東に土橋・片堀切(短い竪堀状)を見て正面奥の主曲輪?に曰く有りげな廣田大公神の祠がたつ。綾部市遺跡分布地図の赤坂坪砦とは 僅かに位置を異にしており、田野城麓から今回は少し709号を(100m程)下がって田野川?に架かる橋を渡り改めて丘陵部西北方に位置表示されている赤坂坪砦に向かう。橋の東詰め石標は「右:あやべ・まいづる左:大しま・ふくち山」。京丹波町・福知山市三和方面からは川合を経由し浅木山城【永禄年間(1558-70)山家城の和久氏を攻めた守護代:内藤氏の
赤坂坪砦(墓所への入口)

前線基地として八木尾張守が拠った合戦記録が残る数少ない山城で子の助之丞が築いた上安場城がR9号 (山陰道)由良川に流れ出る竹田川<丹波市>とは六人部で合流する土師川沿いにある】の麓を通る府道709号が田野城麓を抜け綾部城(綾部陣屋)・大本教本部前を綾部市街地に下り府道8号を東へはR27号を舞鶴方面へ。橋を渡り数軒の民家が建つ正面低丘陵の赤坂坪砦を抜ければ四尾山南麓(府道483号)から西麓(R9号の上六人部から三俣城(城ではないと?)の南東を通る府道522号)に廻り込み甲ヶ岳(内藤正綱が自刃した甲ヶ岳城)東山麓を府道8号(JR山陰本線沿い・
城主:西岡氏関連の碑か?

福知山綾部線)に出ると大島から高津・福知山市境の観音寺城へ天田郡の一部や何鹿郡を支配地とした有力国人:大槻氏の城砦群がある。此れ等城砦群の中でも高津の将監城は街道から少し奥まった低丘陵に位置し100本を越える竪堀群の特異性や規模からして永正4年(1507)丹後一色義有を攻めた細川政元軍が高津に陣を布いた前線基地ともなり国人:大槻氏の手を離れ守護や守護代クラスが駐留した施設と考えられる。また三好氏・内藤氏は甲ヶ岳城を築城(大槻氏の城の改修か?)して奥丹波支配の拠点となっている。
赤坂坪砦域?は道路の向うだが!!?:北西端の低土塁曲輪?

高津周辺の将監城・段山城・本福寺谷城・積場城・高嶽城高津八幡城・甲ヶ岳城は城郭研究家T氏によると丹波守護代:内藤氏本拠の八木城から奥丹波の将監城・甲ヶ岳城へ通じる軍事道路は淺木山城から将監城・甲ヶ城に至りFINISHとなる。府道709号を田野城から綾部市街地へ向かう通行監視の砦とは思えない比高20m程の低丘陵上の赤坂坪砦は軍用道ともなった大島・高津を経て福知山市へ向かう関所城だったか。安場城は府道522号沿いに大島や安場の峠を越え直接・荒倉川沿いに将監城・段山城の側を高津に通じる街道監視の砦だっか?。
赤坂坪砦域外の道路北西端側にある曲輪と空堀状?

なを赤坂坪砦は中世末期の平山城で八上城主:波多野氏家臣の江田行範が永禄年間(1558-70)綾部城を築城しており西岡丈助が守将として拠った綾部城の支城とされており城域一帯は墓地で詣道入口に西岡大先祖之碑が立ち墓地の南端には「金光教 奥城」の一角があり主要部の北端部は放置状態の私有地・曲輪と思える東端部も不燃廃棄物の捨て場?。墓地部を分ける道路の西丘陵側の平坦地形(城域範囲外?)に土塁曲輪・空堀状を見るが?


安場砦  田野山 165m  綾部市安場町野山・田野町田野山)165m

綾部城の支城群に田野城(岡倉山城 守将:福山氏)や西向いの赤坂坪砦(守将:西岡丈助)・丘陵尾根上には安場砦(守将:平尾某)があったという。10数年前に城砦を探してみたが赤坂坪砦は位置を間違えたか?まだまだ登山主体で山城は初心者・安場砦も山頂部付近の平坦地形や堀切にしては浅く幅もない防御施設?も貧相で遺構とは思わず手応えなく引返していた。綾部城とは綾部藩陣屋(市民センター近く・綾高分校の
田野から安場砦遠景

堀ノ内か?)に元和年間(1615-)移封された別所吉治(別所重棟の子)や三田藩九鬼氏が入封し火災により 新築:移った後期綾部陣屋(上野)ではなく、大本教本部(本宮町)の地に永禄8年(1565)八上城主波多野氏の被官:江田兵庫頭行範が築城した前期:綾部城で天正7年(1579)明智光秀の丹波侵攻に落城している。永禄8年:内藤宗勝が和藤合戦(内藤氏と和久氏による下原の戦い)に”尾州ヶ尾”で討死し鑓場成に墓碑もある。
安場砦:西曲輪段

過去の安場砦探索失敗に再訪?する前に浅木山城や山頂から西に延びる尾根末端の上安場城(福知山市三俣)についても少し整理しておく必要がありそう。 上安場城は八木尾張守の子:助之丞とされ永禄年間(1558~70)に築城!?…として山陰道(R9号線)の監視に充っていたものか!。和久氏の山家城(綾部市)を八木城の内藤氏が攻めた頃の浅木山城は八木尾張守が拠っており一帯では唯一其の合戦記録が残る数少ない山城でもあり、和藤合戦(内藤氏と和久氏による下原の戦い)よりすこし前:永禄6年(1563)山家城の和久左衛門左を攻めた…
安場砦:西曲輪段

:内藤宗勝は黒井城:荻野直正との和久郷の合戦に敗れ守護代:内藤氏方の和久氏も氷上・天田・何鹿郡の三郡を領した荻野氏に降りたことから内藤氏が旧領地回復を狙って和久氏の山家城を攻めたものか!?…敗走する和久氏を天田・何鹿群境の安場方面にも追っ手を差し向け探索、
堀底鞍部?(街道)から登り返す南側丘陵上から浅木山(城・中央)を望む

京丹波町・福知山市三和方面から川合を経由して浅木山城を攻め落としたものか?落城後は内藤氏の前線基地として山家城の和久左衛門左を攻めたのが永禄6年(1563)。ところが内藤宗勝は黒井城:荻野直正との和久郷(福知山市)の戦いに討死説もある。時期は不詳だが丹波志に”何鹿郡の戦いに討死”したとあるのは浅木山城落城の際の八木尾張守のことか?、八木山城は子の助之丞が継いだ。また八木氏の子孫は大槻氏を名乗り? 石原城とは縁者ともいう。出自を失念し内容詳細についても古文書を解読出来ないが”内藤宗勝書状”には「…宮田表(所在不詳)の敵に差し向けたが…
堀底?の街道を挟む 南側丘陵上の平坦段1

敵一人も出なく…安庭(安場)に敵百余名…須智・山内衆・大槻衆らで追落とし悉く捕えた…」とある。永禄6年宗勝が山家城の和久長利を攻め(𠮷政が継ぐ)ているが 浅木山城の戦いも山家城攻めに関連するものか?…此の”浅木山城の合戦”?に敗走する将兵を内藤氏が安場周辺に残党狩り!を展開し何鹿郡(綾部市)の土豪らに探索させたものか。 内藤宗勝は永禄8年”和籐合戦”に討死。天正8年(1580)には城主:和久長利が丹波侵攻の明智光秀に
堀底?の街道を挟む南側丘陵上の(平坦段2

降伏するが「寺は菩提寺であり…屋敷だ…」と言い逃れ・山家城破却令に従わず放置しており追討され、最後は福知山城に招かれ饗応するが帰路に暗殺されている。山家城の和久氏・内藤氏関連の「和籐合戦」遺跡廻りでは城郭研究家:高橋成計氏と 綾部市「山家歴史の会」会員の案内で和籐合戦史跡を廻った後日に再訪?できた。以前は安場砦・赤坂坪砦ともに未確認撤退した其の直ぐ目前の低丘陵部にあった。田野町から入った「安場」だが”やすんば(休場)”の意味か?。京丹波町含め近在に「休場」名が何カ所かある。安場砦165mは綾部城砦群の一で守将:平尾某!?が拠っていたとされる。
堀底?の街道を挟む南側丘陵上の平坦段3

綾部城は三好氏勢力の衰退・黒井城の荻野直正が京都府の三郡(天田・何鹿・綾部)を勢力下に収めていた時期!?。上記:宗勝書状の事象内容からは綾部城支城より 以前一帯の土豪は城砦は丹波守護代:内藤氏の勢力下で抑えられていたか、各城砦や守将等について深掘りしていないので詳細は不明。田野城(岡倉山城 守将:福山氏)・西向いの赤坂坪砦(守将:西岡丈助)・丘陵尾根上の安場砦(守将:平尾某)であった…と。府道709号を三和町岼から三和町上川合-長宮峠を越え綾部市田野町に降りてくる。
安場砦尾根続き南斜面下の 街道:左上へ谷沿いに?安場町中程へ:

安場砦は長官峠で田野町側と安場町側二方に分れ、安場町側から入り込む谷が安場砦165mから南尾根続きの急斜面を下る鞍部?より 谷底!の東西を畑地跡かと思える幅広い幾段かの平坦地形が横切っている。
嘗ては田野と安場の往来と長官峠を三和町岼・茅の木峠を福知山市三俣に繋ぐ街道が通じていたよう。二方への峠越えや田野や安場へ向かう人々が暫し此処で休んだ”やすんば”でもあったか…遠く嶮しい山越えの街道だが府道沿いではなく、 丘陵裾を縫って極力渡河地点を避け山間の平坦地形を抜ける通路が街道だったか?。
安場砦尾根続き南斜面下の街道:右へは田野町中程へ出る?

安場砦から南へ延びる尾根筋?の急斜面底(鞍部)は深く幅広い空堀のよう。向かう激急斜面を登りきる尾根上158mからは浅木山城427.4mが望まれ、平坦地形の丘陵頂部に人手が入っているが切岸のない小曲輪が数段ある。態勢を整える余裕のない臨戦の地に 土塁・堀切・竪堀等遺構を探す方が無理のようですね。浅木山からの尾根筋最北端に位置する安場砦を意識した内藤氏方追討勢の付城か?。
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