綾部市の山城ハイキング 高津城(八幡山城 )・甲ヶ岳(鴻ヶ嶽城)
綾部市 (五万図=福知山・綾部)
高津八幡宮〜八幡山城 (高津城)/大島〜甲ヶ岳(鴻ヶ嶽城)  2002.06.16
近畿の山城: 高津城 甲ヶ岳城
古路谷城(積場城<共に仮称>/野山砦/茶薄山城/諏訪城)】は高津城・鴻ヶ嶽城の支城群に移転
八幡山城跡案内図

府道8号線(福知山綾部線)のJR高津駅交差点右・高津公民館側への集落入口には高津八幡宮の大きな絵入り説明案内板があって眼を惹きます(2003年以後?撤去されてか見ない)。高津町には高岳城(福知山市六人部境界で周辺では高峰の416m峰)・将監堂(将監城の事か?)、荒倉谷を挟んで東面に八幡山城の三山城が知られている様ですが、瑞龍寺には段山城もあり、さらに段山城・将監城からの尾根続にも、さらに将監城とは荒倉谷を挟んで直近の東側(高津城から甲ヶ岳城へ続く主尾根からの枝尾根斜面)にも、多くの削平段や尾根筋に堀切を遺す・綾部市の遺跡分布地図には無い城遺構がある(後述)。さて金鳩伝説により元慶5年(881)八幡宮が勧進されたという高津八幡宮の鳥居が東側の森に見えています。此処に、この地域【綾部市と福知山市の一部:何鹿(いかるが)郡】に勢力を持っていた大槻氏の高津城(八幡山城)があります。
八幡山城(城山)

天正期には明智光秀に滅ぼされた丹波の城の一つですが、先ほど秋葉山〜高嶽〜観音寺山城!!を周回して戻ってまだ時間に余裕もあり、直ぐ目の前の高津城(八幡山城)・東隣にある甲ヶ岳へも登って鴻ヶ嶽城(甲ヶ岳城)に寄ってみます。 ともに大槻氏の城ですが甲ヶ岳城は丹波守護代:内藤氏により落城・高津城や栗城等の大槻氏の持城攻城の前線基地としての役割を果たす皮肉な結果ともなった城。さらに其の内藤氏一族の運命も…!!。



高津八幡宮〜八幡山城〜甲ヶ岳(鴻ヶ嶽城)レポートは近畿の山城に含め記載します  H14.06.16

高津八幡宮は岩清水八幡宮の別院で如意別宮といい高津荘の総社です。高津八幡宮縁起によると、もと法道仙人の開いた密教練行の道場だったが、元慶5年(881)山城国の男山から金鳩が飛来したのを瑞祥として
高津八幡宮

八幡宮が勧進されたと伝えられます。明応9年(1500)災禍に遇って社殿を焼失したが翌・文亀元年には再建されています。別当寺は御所坊・極楽寺等と称え、後に究意院と改め醍醐三宝院派に属しています。福知山藩主:有馬豊氏、綾部藩主:九鬼隆季(寛永10年(1633)が鳥羽より入封してこの地を治めた。(九鬼氏はかつて水軍で名を馳せた)など歴代領主の尊崇を得て社領の寄進を受け、
西郭部中程西側の登山道・展望台から

現在の社殿は九鬼隆都により天保10年(1839)起工され嘉永5年(1852)に完成しており、宮大工は地元の桑原正右衛門。京都府下でも有数の代表的社寺建築です。なを麓の鳥居から八幡宮まで続く長い参道の石段は、天明4年(1784)から文化13年(1816)までの32年にわたり村民の寄進により築造されてきました…

(高津八幡宮:綾部の文化財を守る会案内板を参照)


 高津城 甲ヶ岳城

高津城(八幡山城)  八幡山 151m  綾部市高津町本福寺谷(宮ノ段)

秋葉山〜高嶽〜観音寺山城コースで通った高津町公民館南のT字辻の、 荒谷川寄りに在る瑞亀山隠龍寺(曹洞宗・綾部西国第11番)には大槻氏の先祖大槻安芸守長高が祀られています。寺の東北方の低い山塊には高津八幡宮が有り府道8号線のJR高津駅交差点信号の一つ東先を、 右折すると見える鳥居から続く石段を登り切れば八幡宮から八幡山城(高津城)へ登る山道に出ます。
高津城「城の壇(西郭)」の土塁曲輪

もっとも高津八幡宮までは車一台通れる舗装林道が八幡社前の広場まで通じています。此処から八幡社の向いへ延びる・幅の広い山道が高津城への登城道。右手に「御神木…」の案内板のある山道が下方に延びていきます。高津城への搦め手道だったか?陰龍寺道で、途中には中筋地区の 「古木・名木第6号ひのき」が有る。
西郭・主郭を遮断する堀切

幹周3m・樹高35m・樹齢300年とあり、 幹の途中で分れている為・別名「泣桧 」と呼ばれた様ですが、今は其の名も伝承を遺すのみ。其の片方も・分岐する元から枯れ朽ちてしまって無いが?…もう片一方は上方で枝を延ばし葉を付け・未だ樹勢盛んな様です。 「泣桧」の横(4m)には「綾部の古木・名木100選」桧がある。 此の桧も途中で分れているが、 直ぐ上方で枝が一つに合さって抱擁している様に見え?、また上方に真直ぐに伸び立つ。城址に向う広い遊歩道の 左下に見える広い空地?は射撃練習場!!(鳥獣慰霊碑が建っている)。左側が遊歩道拡張工事で切り崩されたかは不明ですが?
八幡山城(高津城)主郭へは堀切を越えて・・

高い切岸状(5m程)の尾根沿いに進むと、 登山道は西に福知山市方面に展望が拡がる展望台を経て、八幡山城の城跡案内板が立つ登山口 ・大堀切に架けられた遊歩道の板橋の前に着く。調査に関わってこられた城郭研究家・福島克彦氏によるものか、解説付き縄張り案内図です。登山道から直接切岸状の尾根筋を進むと、短いが鬱陶しい藪を抜けると、高さ1.5m程の土塁が広い曲輪の端を捲く城の壇と呼ばれるところに着く。名の通り!!東方の主郭側堀切のある登山道との合流点へと、 尾根上に七段!!?程の曲輪が並ぶ。
高津城:主郭西の曲輪低土塁から大堀切上の曲輪を見る

曲輪は始め(西 )三段程には削り残したものか・積上げたものか ?外側に土塁を盛った空掘を廻すものや、曲輪切岸上に低土塁の残欠も…遊歩道側を窺うかの様な横掘も有り、其の後も段差を持った曲輪が3〜4段続いて、遊歩道に合流して大堀切前に着く。 此れ等の空掘・横掘を進む敵兵に対しては、曲輪の側面から横矢を掛けての攻撃が出来る構造 「横矢掛かり」の工夫も凝らされています。 城跡案内の縄張り図では、遊歩道がL字状に屈曲する部分に「横矢掛り」と記されていた様に記憶しているが?
八幡山城(高津城)主郭を囲む帯曲輪T

登山道が往時の登城道であったとすれば、崖状で高い曲輪の切岸・空掘・横掘を塹壕として、敵からは動きが見えずに尾根筋以上に効果が有りそうです。 高津城を訪れる人も城域西端 (もっとも現状では八幡社や周囲の広い平坦地は屋敷跡だったのかも知れませんが?!!) 此の西郭部「城の壇」や、 南郭部(高い切岸を持った中間部の曲輪で隔てられる主郭の直ぐ南側にも、帯曲輪を廻す曲輪群がある)へ高い切岸を上下して行くが、下草・藪や整備されていた遊歩道も荒れてくると、訪れる人も急激に少なくなる様。
八幡山城(高津城)主郭を囲む帯曲輪U

主郭の東北側の急斜面は雑木藪で様子が窺えないが、 南郭の東面から北の主郭側にかけては疎林の間に、侵食による自然地形なのかも知れないが横掘状 ?・竪堀状の細い溝谷が幾本も見られる。 城郭に対する専門知識が無いのでよくは判らないが土塁付曲輪も存在している様に思えます。斜面を下ってまで確認していないが、高津城から甲ヶ嶽城に至る尾根の間に、
高津城:主郭から南郭への高い切岸(中間の曲輪から・・)

由良川沿いの綾部・福知山を繋ぐ街道側から突き上げる谷筋なので、 尾根筋共に防塞設備の充実が必要となるところ。西方約2km福知山市に入った所に有る観音寺城にも5〜6本の畝状竪堀が有ったが、 此処も主郭〜副郭(南郭)を畝状竪堀や、中郭の主郭側切岸下部に有る片堀切等を併せ補強完備していたものでしょうか?。案内の縄張り図を写してくればよかった・・が!!。
高津城南郭 ・南端から帯曲輪と南郭

(副郭(南郭)から更に尾根筋を降ると鞍部からは土橋状通路らしいものが3箇所程・土塁虎口状や、 堀底道状に見えるところも有る。只此の先で:尾根筋は緩斜面が続いて甲ヶ岳<鴻ヶ嶽城 (甲ヶ岳城)>
に向うだけ!!。甲ヶ岳城を「詰め城」としての連絡道や脱出ルートだったか?)此の南郭西の帯曲輪に「下山コース」の道標も有るが、殆ど主郭で引き返される様で其々の足を伸ばす人は少ないようです。
高津城南郭から甲ヶ岳側城域外の?土塁道!!?

反対側の右端は少し盛り上がる土塁状。 此の堀の屈曲に合わせて続く切岸上部には、数段の段曲輪が、城址案内板が立てられ主郭への大堀切(板橋が架けられ、 向う切岸上の曲輪の虎口部に八幡山城址の案内標柱が立つ)前に合流する。
高津城南郭から甲ヶ岳へ:土塁道の先には土塁虎口状?更に堀底道も・・?

登山道からは窺う事も出来ない切岸上には、曲輪の切岸下には堀切・土塁を廻した空掘りが捲き、曲輪の一端にも低土塁を設けた曲輪が連なっていて城の檀の石碑も立つ。登山道は「横矢がかり」から・大堀切手前の城址案内標識・城の檀からの尾根通し合流地点の手前になるが、由良川に沿って福知山市方面に拡がる盆地を見下ろす 展望所に着きます。
高津城西郭「城の壇」の土塁曲輪から段曲輪

展望所にはベンチもあって 独立峰の高龍寺山・烏ヶ岳〜鬼ヶ城大江山姫髪山(丹波大文字)が由良川に沿って拡がる盆地の奥に並んで望めます。勿論指呼の間にある私市(きさいち )丸山古墳も…。八幡山城は高津八幡宮南東の標高151mの山頂に位置して戦国時代・丹波国何鹿郡の在地領主・大槻氏の居城と伝えられます。 南北朝期:四条畷の合戦に楠木正行が敗れた翌年:貞和5年(正平4年1349)高城城(綾部市七百石町高城)城主大槻清政の子大槻左京進清三の築城とされ、天正2年(1574)大槻大学の時、 明智光秀に攻められ落城するまで存続しています。
高津城西郭「城の壇」・土塁付空掘を見下ろす

城は南へ連なる支尾根と、 西の緩斜面への二方向へ広がり東西300mを城域とする大規模なもので、中間部に自然の地形を挟んで東西の二区画に分かれ、最高所の本丸は 15m四方に削平され低い土塁で囲われて一段低い所に腰曲輪を伴っており、 先端は大きな堀切で遮断されています。…各々に曲輪・土塁・竪堀等の遺構が良く残されています。東区画は主郭から西へ階段状に各曲輪を配し、其の先端を大堀切で遮断しています。
高津城西郭「城の壇」の土塁付空掘と上段曲輪の切岸

西区画は ・各曲輪間の段差が東曲輪に比し緩やかで堀切も浅いが先端部には堀の屈曲に合わて土塁を設け敵を側面から攻撃出来る「横矢掛り」の構造が見られます。これらは同時期に造られたものではなく主郭のある東区画から順次拡張されていったものと考えられ、 戦国時代末期にかけては西区画も造られ補強されてきたものと推察されています。
(高津町山城案内板 平成5年4月等 参項)


鴻ヶ嶽城(甲ヶ岳城)  甲ヶ岳 290m  綾部市大島町岡ノ段・高津町遠所・安場町野山

鴻ヶ嶽城は「権現さん」の愛称で呼ばれる秋葉神社 (秋葉権現)が祀られる甲ヶ岳山頂にあって中筋小学校の裏手から道標も整備された登山 (参道)コースが通じています。登路が判らないまま 大島町中公会堂の正面に見える福田神社は延喜年間(901〜923)に創立されたと伝えられ、昔この地が志麻郷と呼ばれていた頃から氏神として崇敬祭祀されてきました。
大島町中公民館付近から甲ヶ岳

祭神は埴山比売神(はにやまひめのかみ)と、甲ヶ岳山頂に在る秋葉権現神社と同じ火産霊神(ほむすびのかみ)であり、 この神社から尾根を辿って登れるのではないかと思い寄ってみます。現社殿は寛永14年(1637)3月17日:大志万勝兵衛景次によって造営されたが 平成6年8月社殿を修復覆屋で改築完成しています。大島町・志麻郷・大志万氏の名を此処でも・甲ヶ岳の秋葉神社でも見るが、町内に大島姓の家も多く見かける。
福田神社に福田大明神社


丁度社殿を清掃中の方に聞くと、学校の裏手から登山口の標示もあって登れるよ…と教えていただき、元来た道へ引き返して、なおも東へ小川に沿って地区道を進み 中筋小学校に着きます。グラウンド横から「なかよしクラブ(学校の放課後 集会所!!? )」横の溝伝いを裏手に出るとゲートボール場があって 薬師堂との間に山道が続いています。入り口には「甲ヶ岳城址・登り口」標識と甲ヶ岳城の案内説明板が建てられています。
甲ヶ岳の主郭:西側土塁

取り付き点には甲ヶ岳まで「1060m」表示板と 「火の用心No20」の巡視路分岐標示があります。ゲートボール場から山道を登り始めるところから、甲ヶ岳まで 765m表示の尾根に登り着くまで堀底道を辿っている様です。右手(東)尾根筋の末端から東方には、由良川沿いに綾部市外・舞鶴に向うR27号線面まで、遮るもの無い眺望からも、物見の出曲輪等の遺構が残っていそうですが、 地元の関連諸氏の「お楽しみエリア 」として残して置きましょうか?。
三角点を過ぎて直ぐ空掘を土橋で渡る土塁虎口

甲ヶ岳に向う標識に沿って進む尾根筋近く、 幾本も竪堀状を見ますが、この山の地勢・特質に依る自然地形なのでしょうか!!赤茶けた粘土質の急斜面には地面を覆い隠す落葉で、 ”いやがうえ”にも滑り易い。約30分程登りきると、 後「150mで山頂」を示す標識が倒れている所まで明確な山道ですが、此処で右へ折れるように 段差ある斜面を登るが、 道の左右に迫り出して曲輪の切岸か・土塁?で段差をもった通路の間を抜ける。
鴻ヶ嶽城の主郭東面を遮る大堀切

最初の虎口だったのでしょうか?。目の前から平坦な山道となり、道の端に石標が埋まる。甲ヶ岳 (4等三角点 290m)ですが、ピークの感じも展望もありませんが、低い段差ながら周囲には 山城の体裁を整えた曲輪がある。三角点から20m程進んだだろうか?。突然大きな空堀が現れる。堀を挟んで高い段差で土塁を積み、 土橋となっている尾根筋の右(北)端から土塁内側に入る。南側に数段の曲輪があり低土塁さえ備えている様です。
大堀切南端から土塁曲輪に入る(主郭内の祠が見える)

先程の空掘りは竪堀となって落ちているのでしょう(南斜面下方へは未確認)。尾根筋に甲ヶ岳城随一の大堀切が現れ、主郭側の土塁越しに主郭上部の秋葉社の祠屋根が見える。土塁の左端から入る様ですが、 直ぐ曲輪に喰い込む 竪堀(片堀切!!)の為、一折れして主郭に入る様。虎口を形成しているのでしょうか…?、いよいよ主郭の大広間に入ります。 南尾根側にコの字状の低土塁を廻す、広い主郭の中央西寄りに祭神 :火産霊神を祀る神秋葉神社が祭られています。文化3年2月(1806)火鎮祈願の為、綾部藩主の許可を得て社殿を建立ていたが、大破により天保3年(1839)に再建された。
主郭側から虎口の土塁曲輪・大堀切・東側土塁曲輪(空掘有)を見る

<老朽化で昭和58年 (1983)改築されています>祭礼は毎年4月23日 (直近の日曜日)に行われるようです。鴻ヶ嶽城は東西約200m連郭式で、各曲輪は土塁と堀切があって三ノ丸には腰郭、 帯郭が本丸には腰郭があり遺構は良く残されています。此処にも綾部の名木100選【「ウラジロノキ」で幹廻り2m、樹高25m】がありました。主郭の一段下・西面に曲輪が廻り、南面の曲輪との間の小段差部は 主郭に入る登り土塁となっている様です。西面の腰曲輪は秋葉社の真後ろで竪堀が一本走る。
主郭に建つ秋葉神社と西側土塁

主郭から 南へ延びる尾根に沿っても切岸高い(2〜3m)段曲輪が3段程並び、結構細長く南へ突き出す最下部の曲輪端からは大きく・深く・尾根沿いにカーブしながら長い溝谷が落ち込んでいます。尾根上からも数多く見かけた自然地形の竪堀状かと思えたが、藪を少し下方へ降りていくと尾根筋のは、同等のスケールで更に二本の竪堀が並び、畝状竪堀を呈し竪堀間の畦上は竪土塁に見えます。竪堀は幅5m・高さ3m程で、 竪土塁状も同じ幅3m程ですが、これ等の堀・土塁を先端まで確認いていないが、高津城の攻城なら堀切と共に、これ等竪堀と竪土塁を直接尾根筋に設けたものか・・・?
主郭の祠背後の曲輪と曲輪を裂いて切れ落ちる竪堀

「丹波志」に大槻安芸守旧栢とあり、西へ尾根続きに築かれた高津城(八幡山城)も時代不明だが古くより当地土豪:大槻氏の持城でした。 永録7年(1564)丹波守護代で八木城主:内藤備前守宗勝(松永長頼)が天田郡・何鹿郡への侵攻拠点として内藤日向守正綱に命じ 甲ヶ岳山頂に築城して支城としました。高津や栗城(一尾城)等の大槻氏を攻めた時は鴻ヶ嶽城が前線基地として大きな役割を果たしたものと思われます。
鴻ヶ嶽城主郭の切岸と南側1段目曲輪(左端に上り土塁)


しかし内藤宗勝は翌・永録8年(1565)8月:天田郡和久郷に於いて氷上郡の黒井城主赤井(荻野)直正らの反撃に遭い、内藤勢力の壊滅的な大敗を喫し【和久合戦】此の時に 和久川で討死したとされています。…が其の年代や場所には諸説があるようです。守護職は代わっても丹波守護代は一時期除き不変の内藤氏信奉・伝説でもあるのかな…?天正3年(1575)織田信長の命<天下布武による丹波平定>で明智光秀は 八木城の内藤有勝(?)を攻め落とし城主以下討死。その時一門の内藤正勝は再起を期して八田城 (高城城 綾部市七百石町)に向うが途中将兵は散り散りになり ・鴻ヶ嶽城を目指して落ち延びたが途中、明智勢に追われ苦戦、辛うじて鴻ヶ嶽城に辿り着いたが遂に此処に没し、内藤氏は滅亡して鴻ヶ嶽城は築城15年でその歴史を閉じたとされます。
南端曲輪から尾根続きに二本・谷筋に一本;三本の竪堀・竪土塁!!が並ぶ

只「内藤盛衰記」に云う内藤有勝 ・正勝についての人物像は定かでなく、有勝は架空の人物 【正勝についてはキリシタン大名として知られた内藤忠俊(如安)を充てたいところですが、八木城主だった内藤ジョアンは足利義昭に付いており、攻められ落城したが・・当時如安が八木城に居たのかは消息不明 !!】であったと考えられてもいます。
(現地:大島SVクラブおよび山上の秋葉社説明板 フリー百科「ウィキペディア」参項)
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