烏ヶ岳〜鬼ヶ城と猪崎城・福知山城・報恩寺城・中村城・池部城
福知山市(五万図=福知山・大江山)
三段池公園〜猪鼻城/烏ヶ岳〜鬼ヶ城〜庵我神社 2002.10.06
近畿の山城 : 福知山城(横山城・臥竜城・八幡城)
   猪崎城と将監城 中村城 鬼ヶ城 報恩寺城 池部城 庵我城(仮称)
福知山城

校歌・故郷の山 :天津小学校♪xx…鬼城の峰を仰ぎつゝ…♪ 鬼ヶ城544m
      惇明小学校行進曲 
♪高く聳える鬼ヶ城 清く流れる由良の川…♪
      福知山音頭  
♪鬼城の岳の霧晴れてxxx…♪
      福知山中学校 
♪鬼城の岳に秋来ればxxx…♪

      福知山高校  
♪曙 来たれり鬼城の頂xx…♪
福知山市のお話 茨城童子

♪福知山出て長田野の越えて駒を速めて亀山へドッコイセ…々…♪の福知山音頭に謳われ福知山と亀山(亀岡市)を丹波攻めの 拠点にした!!明智光秀の城下町で築城に駆り出された民衆の工事に関わる「ドッコイ セ・・ドッコイドッコイセ・・」の掛け声も消え、福知山城の美しい姿が印象的に残ります。城公園の昇龍橋から福知山市街地を通して 北東に目を向けると
福知山城

無線施設の建つ烏ヶ岳・鬼ヶ城 二つの峰の美しい山容が見えます。この山々も市民のシンボルとして愛され校歌等に謳われています。そして福知山市民にとって唯一!!?のレジャーと総合運動施設のあるスポット段池公園が今日の山行基点で醍醐寺から烏ヶ岳へ向い西方の庵我へ下ります。福知山市と大江町の市郡境界にある 二つの山は綾部市側から眺めても三岳山・大江山を背にしながら際立って目立つ山です。 鬼ヶ城茨木童子が住んでいた伝説の山でも知られます。
三段池側の墓地から猪崎城への登城口

展望の良い二つの山から他の山々を丹波の霧海を通して展望を楽しみたいと出掛けたが、まだ時期尚早のようです。この山へは西麓の庵我神社・庵我小学校の横から 無線中継施設のある烏ヶ岳山頂まで 続く舗装林道を辿る登山コースか北麓・大江町側の室生(尾)谷山観音寺から鞍部へ谷沿いに詰め登るコースがよく利用されているようです。



T大江山伝説を地でゆく鬼ヶ城も鬼退治の砦醍醐寺〜烏ヶ岳 〜鬼ヶ城〜庵我 H14.10.06

R175号線を竹田川に沿って走っていると川霧が視界をさえぎる。山上から丹波霧が楽しめそうな予感だが 時期は早かった様です。塩津峠を越えると正面にいつもは見える烏ヶ岳と鬼ヶ城が由良川(土師川)の霧に閉ざされてはいるが!!?。 R9号線と分かれて福知山市内へ直進すると左手に福知山城を見て右折・音無瀬橋を渡り三段池公園入口の駐車場から出発(AM7:00)して登山口の醍醐寺に向かう。
大塔山・醍醐寺

車道に沿ってしばらく歩くと阿字観道場(四国88ヶ所・小豆島88ヶ所霊場)と書かれた標柱が建つ墓地入口を左手に見て、 車道は大きく右にカーブしながら科学館・植物園・総合体育館前を経て醍醐寺への直線道路に入る。烏ヶ岳と鬼ヶ城登山口として選んだ醍醐寺 (AM7:20)は烏ヶ岳山麓にあって南北朝時代の興国2年(1341)足利尊氏が 後醍醐天皇の菩提を弔う為、三光国師を開山として創建された寺で 室町幕府六代将軍・足利義教が烏祈願所として定めた額下書きや 桃山時代屈指の仏師の手になる木像薬師如来坐像 (元亀2年・1571)等福知山市指定文化財になっています。寺の駐車スペース手前を左に廻り込むように一般車進入禁止の林道「城ヶ谷線」に入ります。
烏ヶ岳山頂

林道の轍も雑草に覆われて消える頃、烏ヶ岳のアンテナ頂をしばらく眺めながら枝尾根末端の 林道城ヶ谷線の終点に着く(AM7:45)。此処からヒノキの植林に続く山道が消えると・途端に前方に数等の鹿が現れ慌てて逃げてゆく。此の先で何度も警戒の鳴き声を聞く。急登の中で棘の混じる藪を避けながら ジグザグを繰り返すうちに踏み跡さえ消えてしまう。…が程なく尾根上に電柱を見て其処に辿り着くと尾根筋に踏み跡があらわれ 庵我小学校・農協から続く細い舗装林道「カラスガタケ No.116」鉄柱のある車道に出て来た。鬼ヶ城との鞍部と烏ヶ岳山頂の中間点付近で山頂へは5分程のところです(AM8:10)。
烏ヶ岳山頂から鬼ヶ城

「建設省・池部無線中継所」等の施設先の高見にある草地が烏ケ岳(1等三角点 537m AM8:15)の 山頂の傍らには火産霊神(ホムスビノカミ)を祀る鉄製の赤い祠があり、なんとこんな所に石の手水鉢(寛政57年3月銘)が無造作に置かれています。北面を振り返れば中継塔の向こうに鬼ヶ城が見えており巡視用の舗装林道を下って 観音寺への分岐鞍部に向かいます。鞍部(AM8:35)には高いアンテナ塔が建つDDI中継施設が有って、西側へは車が1台やっと通れる幅の 簡易舗装林道をとって庵我小学校前へ下ります。反対側には大江町の観音寺からの谷通しに登ってくる道が合流します。鞍部の中継施設脇から続く広くて緩やかな山道には「メモリアルの森までXX0m 鬼ケ城」の案内標が設置されています。

猪崎城主曲輪西:矢倉台下の荒廃した神社も曲輪・高く急斜な壁の上が主曲輪

所々に紅葉を織り交ぜる樹林に落葉を踏みしめながらの遊歩道も、やがて前方を塞ぐような木戸・城門を思わせる数段の石垣も残る抜戸に来る。いよいよ山頂も近く周囲の様相が俄かに変わってきます。左上方にも曲輪を補強した石積みが藪の中に認められ、城門!!?を潜り抜けた途端広い曲輪跡に出ます。山頂に向って最期の急坂も曲輪が三段ばかり 連なります。鬼伝説で有名な大江山と向き合っているので鬼ヶ城山とも呼ばれ鉱山跡の洞が鬼(茨木童子)の住処として同じ様な鬼退治!!伝説(史実)を持っている鬼ヶ城山頂(544m AM8:55)は東西に細長い削平地。 刈り込まれてベンチや方位盤も設置されています。
烏ヶ岳・鬼ヶ城への登山口・庵我神社

南面の雑木が兵庫丹波の親不知や烏帽子山の展望を邪魔しているようですが360度の展望を思う存分楽しめるところです。鬼ケ城は北方に見える大江山の酒呑童子の子分・茨木童子が住んだ伝説を地で行くような無頼の徒 ・内藤某を頭に徒党を組んでの狼藉に地元の豪族・塩見氏等が参戦して此れを殲滅した話。天正期に赤井幸家(黒井城主 ・赤井悪右衛門直正の弟)が此処に城塞を築いて北丹波進出を図ったこと。その後天正6年(1578)には 此処に拠っていた赤井氏や仁木氏が鬼となり、明智光秀が源頼光役で鬼を退散させた歴史を持っています。方位盤の中央に室尾谷山の名が 銘記されていますが 大江町の観音寺の山号なので、鬼ヶ城は観音寺の寺領だったのかも知れない??。帰路は観音寺の鞍部に戻って(AM9:25)巡視用の舗装林道を枳穀谷に沿って庵我へ戻ります。

この登山口右手にある薬師堂

庵我小学校前(AM10:05)から府道55号線に出たところに「鬼ヶ城・烏ヶ岳登山口」の大きな案内看板があり、 秋祭りを控えて幟の立つ庵我神社中薬師堂等に寄ってから三段池公園に戻ります。
式内庵我神社の創建は 不明だが奈良時代:宝亀4年(773)社殿に 泥棒が入った記録があると云う。木造扁額は、後醍醐天皇の親任も厚く・歌人でもあった朝廷の要人:藤原行房が書いた「正二位聖大明神」を三角掘りにした鎌倉時代の格式の高いもの。この種の文化財は極めて稀で、此の社と中央を 結びつける重要な文化財として府指定文化財となっています。庵我神社とは烏ヶ岳登山口・庵我小学校正門前への 車道を挟んだ田圃の 一段高みの民家側に中の薬師堂が建ち、堂内には12世紀末頃の制作と考えられる寄木造りで像高178.5mの木造薬師如来座像(福知山市指定文化財)が安置されています。
庵我小学校前登山口から庵我城(仮称)への丘陵

肉身部は 黒ずんでいるが衣部に朱彩が残り、様式から見ると仏師・定朝の様式を伝える鎌倉時代前期の作と思われ、胎内仏を収める点には 古い七仏薬師信仰の伝統が窺がわれ、当地方の興味深い歴史を物語る文化財です。墨書に弘法大師作とあり 市内にも残る弘法伝説の一つとしてはご愛嬌…!!。由良川堤防の向こうには「丹波大文字」姫髪山が見えるが の字が確認出来ないほど靄(もや)っています。帰り道を上中から猪崎城へ北側の田園地帯の中を抜けていて 気になる二つの小山を見つけて間道を通って 峠へ出ると鳥居があって 直ぐに小さな社のある頂に着いた。山名も神社名も分からなかったが、それほど広くないが平坦な社の入口は数段の段差をもって 社の前に着きますが、此処以外の周囲は4〜5mの 環濠になっていて社の裏側は空堀・単郭の城。
この小山が後日判明した中村城:小山の影で猪崎城は見えない

猪崎城を固める砦址の一つだったのでしょうか??【後日福知山市史で判明:中村城でした】。間道から向かいに連なる藪山を抜けると貯水池に出て、明るい上部へ出ると三段池公園の運動公園前の 大駐車場入口、此処からは朝のコースを戻るだけ。猪崎城へより観光モードに切り替えて三段池を周回してから福知山城公園にも寄って行きます。今回は心残りのコースの一部を歩きました。暦応2年(1339)足利尊氏が烏ヶ岳の南 !!小杖峠を越えて庵我へ下っています。
(福知山市教育委員会 案内説明板 等を参照)
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U伝説の鬼ヶ城は大江町側からも登ってみようか!!観音寺〜鬼ヶ城往復   H19.10.06

上記T:醍醐寺から登山した同じ月日での登山記録となりました。福知山市民のランドマークとして親しまれる烏ヶ岳と 鬼ヶ城の二つの峰は市内からも印象に残る山容です。この二つの山を繋ぐ登山口として利用されるのが三段池公園から醍醐寺〜林道 「城ヶ谷線」を烏ヶ岳、または庵我からの林道を烏ヶ岳〜鬼ヶ城への縦走ですが、鬼ヶ城なら大江山の鬼伝説が有名な大江山町 (旧加佐郡・2006年1月に福知山市に編入された)から鬼ヶ城を目指してみます。
下報恩寺付近から烏ヶ岳 (左端)〜鬼ヶ城(最高所)を望む

由良川沿いに府道 74号線(舞鶴綾部福知山線)を東に走り、高龍寺山の南山麓を抜けたところで、 私市丸山古墳公園に向う府道74号と分かれ「観音寺へ」の案内標識を見て、 報恩寺集落を抜け旧加佐郡大江町境界のトンネルを下り始めて直ぐ、 谷が拡がってくると左手に宝尾谷山観音寺 (高野山真言宗 近畿楽寿三十三観音 第20番霊場)の石標と燈籠が建つ。向う山門(仁王門)背後に見える稜線の鞍部が烏ヶ岳〜鬼ヶ城間の中程に登り着く。
大江町側登山口の観音寺から 烏ヶ岳〜鬼ヶ城

本堂脇から谷筋沿いに直ぐ上部の配水施設に出るが、 最上部の墓地から続く林道が配水施設の先へ延びている。 左手へカーブして延びる林道と分かれて右手へ水平の杣道を入り、三本の丸太を小谷に架した朽ちかけた丸太橋を渡った所から、大江町が設置した鬼ヶ城へのハイキングコース案内板があらわれる。観音寺から約2.5km・メモリアルの森林(鬼ヶ城頂上)へのコースほぼ半分は、小さな谷筋沿いに鞍部を目指す展望も無く急な登り一辺倒の道。鞍部で烏ヶ岳からの道が大きくカーブを描きながら合流するため、 観音寺へ下る細い踏み跡が明確になってくると此処にも行き先案内板が必要となりそうです。
鬼ヶ城山頂

烏ヶ岳側へ少し進むと庵我からの簡易舗装林道が稜線上で合流する。此処からは上記のレポートと同じなので割愛しますが、庭園の様な広い南曲輪に入る虎口を固める石垣遺構が此処だけに残ります。山頂直下では3〜4m程の段差で階段状に 4段程の曲輪が連なります。其の様子を収めるべくカメラを向けても今は、最下段の曲輪の休憩所が建てられ、其の全容は目で確認するだけになっています。此の鬼ヶ城には鬼洞という岩窟もあり、伝説では大江山千丈ヶ嶽の凶賊・酒呑童子の出城で、 族の茨木童子が出っぱっていたと云われ、其の後の口碑・伝承にも・鬼退治さながらの話があって面白い。

茨木童子(現・茨木市の他にも出生地については諸説有り)

むかし摂津の国・ある農家に男の子が生まれたが、 歯は既に生え揃い・生まれてすぐに ヨチヨチと歩き出す。眼光鋭く後を向いて母の顔を見てニタッと笑ったいいます。胎内に十六ヵ月もいた為、難産であったことや鬼子の恐ろしさで母親はショックで亡くなり、父親が童子を背に、 もらい乳をするため 赤子のある家を探して村中を廻ります。童子の飲みっぷりはすさまじく、乳房に吸いつくと忽ちお乳が上ってしまう。 噂はすぐに広まり、誰も気味悪がって相手にしなくなってしまいます。ある夜父は童子を篭に入れ、縄をかけて背負い、茨木村の・ある髪結床屋の前に捨ててしまった。翌朝・床屋の親方が、大きな赤子が篭の中で寝ているのを見つけ、 自分達に子がないため神が授けてくれたものだと思い育てます。5〜6歳ともなれば大人をも凌ぐ体格となり、近所の餓鬼大将となったが、床屋夫婦は童子をほとほともてあましていました。そこで床屋の仕事を教え込むことにしましたが、 ある日、童子が剃刀で客の額を剃っていて誤って客を傷つけてしまいました。あわてた童子は吹き出した客の血を指で取りペロリと舐めた。一度血の味を知った童子は、その後わざと客に傷をつけては舐めるようになり薄気味悪がって この床屋に誰も来なくなり、店は寂れてしまった。床屋の親方は童子を自分の部屋に呼び、店が寂れたのはお前の精だと厳しく小言をいった。翌朝、童子は顔を洗うため近くを流れる小川に行き、昨夜は親方にひどく叱られたことを思いうかべつつ 土橋の上からしげしげと川面を見ると、 水鏡に映った自分の顔はなんと鬼の相を呈していた。童子は驚き、そのまま店には戻らず丹波の山奥に入ってしまった。その橋は以来、茨木童子貌見橋と名づけられた。今・茨木市役所前の高橋に立つ ユーモラスな茨木童子に伝説の鬼のイメージを結びつける人はいないでしょう!!。丹波の山奥に入った童子が、大江山に住む山賊の頭・酒呑童子のもとに行き、茨木童子と名乗って副将格になったこと。手下を従えて夜の都を荒らしまわったこと。 そして大江山の鬼退治伝説へと皆さんご存知のお話になってきます。茨木童子については40数年前、大阪「上方」という雑誌にも、この話が載せてあったのを思い出しました。
(福知山市教育委員会説明板参照)




鬼ヶ城 猪崎城と将監城 中村城  福知山城 報恩寺城 池部城 庵我城(仮称)

鬼ヶ城(鬼ヶ洞) 544m  福知山市大江町

福知山市民のランドマーク烏ヶ岳と鬼ヶ城の二つの峰は 市街地からも印象に残る山容です。 其の鬼ヶ城には鬼洞という岩窟もあり、伝説では大江山千丈ヶ嶽の凶賊・酒呑童子の出城で一族の茨城童子が出張って住んだという伝説に相応しく、山頂に現存する洞窟(鬼ヶ洞)があって内部に向うほど 天井は低くなり果てしなく続くように見えるが、昔の鉱抗の跡といわれ 近世まで金属鉱物を掘出していたといわれます。 大正年間にも室尾谷方面で採掘されたようですが、その後鉱脈が続かず間もなく廃抗になったようだが丹後(旧加佐郡〈福知山市〉大江町を短絡する峠越えの道。
鬼ヶ城山頂の本丸に続く数段の曲輪

永禄3年(1560)4月、無頼の徒・内藤駿河守なる人物【志史等に内藤尾張守・内藤備前・内藤尾州等々の 名がみえる!!】を頭に徒党の族(12〜3人)が、近在に出没して掠奪・狼藉を働くので丹波の国人が攻略した時には地元の豪族・横山(塩見)氏一門の地侍も 参戦して此れを殲滅しています。築城城は定かでないが天正年間(1573〜92)黒井城主 ・赤井直正(丹波市)・幸家(同:三尾山城)が、中国の毛利氏と結んで織田信長を迎え討つ計画を立てていた。福知山市史では直正の甥 ・忠家)等が毛利氏の臣:吉川元春の本陣とする為、此処に城塞を築いて北丹波一円に号令したと伝わるが?元春は上月城(播磨)攻略時の問題で毛利輝元より勧告を受け丹波侵攻を取り止め鬼ヶ城へは来ていない。
鬼ヶ城・南曲輪虎口の石垣(木戸跡か!!)

永禄8年(1565)赤井氏が横山城を攻めたが塩見氏 ・横山氏に撃退されており塩見一族の勢力が最も大きかったことを 裏付けてもいます。しかし天正3年(1575)明智光秀の”丹波攻め”の頃は黒井城主・赤井直正配下の支城として釈迦牟尼仏靭負佐(みくるべゆきえすけ)が居り、久下七郎左衛門・長沢越後守・宇津氏・仁木氏・和田氏等、 丹波諸城の一部の侍が退いて鬼ヶ城や高見城(丹波市)に拠って抵抗しています。天正6年(1578)秋、丹後の一色氏を滅ぼして福知山へ帰着した明智光秀は仁木氏・和田氏等が拠って近在に出没して狼藉するとの訴えに、鬼ヶ城を四方より攻めて 二百余名を討ち取り党を解散させています。数々の口碑・伝承が残る城ですが、旧加佐郡大江町との境界尾根にある城砦の立地条件からみても、 見張り・連絡の繋ぎの砦か、南麓一帯を押さえていた国人の最期に逃げ込む「詰の更に詰め城」として利用されたものとも考えられます。
下記の報恩寺城小社参道下に山城守!!?の墓碑

猪崎城の 「逃げの城」が 妥当なところと思えるが、明智勢は鬼ヶ城を落とした後に 伊崎城を攻めた様なので、史実?の鬼ヶ城とは他の城 ・例えば高蓮寺城(観音寺へ向う府道74号から大江町へ越える道から私市への分岐西方にある高龍寺山に在ったと云う!!)が、横山城(福知山城)と位田城の中間にあり、兵庫丹波からも 黒井城赤井氏領地だった天田・何鹿(いかるが)へと六人部(むとべ)〜石原(いさ)経由で入れる位置にあり、現:鬼ヶ城とするよりは高蓮寺城の方が史実に符合する解釈に無理が無さそうだが、根拠の無い空論で聞き流しください…(^_-)-☆
(庵我登山口の鬼ヶ城 案内板参照)


報恩寺城     城山(城ノ段) Ca60m   福知山市報恩寺

福知山市街地から猪崎・三段池公園への案内標識を左手に見ながら 由良川沿いに府道74号線 (舞鶴綾部福知山線)を東に走り、私市の丸山古墳を トンネルで抜ける舞鶴自動車道の高架橋が見えてくる頃。「観音寺へ」の案内標識を見て府道74号と分かれ、 山越えで大江町に抜ける車道に入る。此の付近には高蓮寺城が在るが府道側からの取付点が判らず、其のまま観音寺への車道をとって報恩寺(ほおじ)集落に入り報恩寺城を訪ねます。
報恩寺城:帯曲輪北端部の土塁(矢倉台跡か!!)


由良川の流れ出る相長川の右岸に有って、報恩寺公民館から少し南へ戻って宮川橋(相長川の枝流・宮川)を渡り 西南方向の低丘陵を探して進むのですが、最初は所在がわからず一番北端の丘陵がそれ(城跡)らしく見えたが、公民館から報恩寺の谷の奥を目指して直進していった。途中出合った農作業中の中年婦人に尋ねると・も少し南下方だという。 実は「市場」とか「城の内」等の小字で位置を確認したくても、大抵は地元の人でもご存知無いのが普通ですが、つい最近・報恩寺地区で道路等の 拡幅工事計画があるとの事で、字名等が記載された文書が配布されているらしく御蔭で位置は直ぐに確認出来た。
報恩寺城:主郭に祀られる城主片岡近江守の墓所と土塁

報恩寺谷の東側では無く西側には、東南から北西に延びた標高約 60m・比高およそ30m程の独立した小丘陵が見える。地元で「城の段」と呼ばれている中世城郭 :報恩寺城跡で主曲輪と帯曲輪の西北端部には矢倉台・見張台跡と思える幅広い土塁の遺構が残っています。田畑の続く坂を登り始めたが、元来た地区内の道へと引き返して字「城の内」へと南に向う道。カトリック教会・「小さな花幼稚園 」と地区道を挟んで丘陵側に寺の屋根が見える。丘陵側は一段高く田圃や民家が建つが一際目立つ方形の高地に建つ民家は、報恩寺城の城主居館跡を想わせる。其の民家横から丘陵に向う道が有り・其の先には石段が見え、急斜面横の平坦地に五輪塔群と「山城守」と彫られた碑が建っている。
報恩寺城:正面中央部上の帯曲輪から 副郭・主郭への虎口がある

山城守が此の城と何時の時代に関わった人物か ?城史からは未調査!ですが、福知山藩となってからのxxx山城守xxxに所縁のものと 思えますが? この道が大手筋で、碑の立つ此処は番小屋だったのか?背後は高い切岸で上部に小祠(大歳神社か愛宕・秋葉社か?御霊神社かは不明だが?)が見えています。祠裏手にある2m程の段差で幅広い帯曲輪が、主郭部の東に続く副郭の「二ノ曲輪 !?」側を除く東南から西南にかけ廻っており、此の帯曲輪の西北端にも高さ1.5m程の土塁の盛上がりがある。東側が主郭・帯曲輪から5m程の切岸上は矢倉台か見張り台跡か!!幅広い土塁で10u規模の主郭に祀られる城主:片岡近江守の墓碑背後からも2m高く築かれている。主郭に並ぶ「二ノ曲輪か!?」東南へは2mの段差で南北10m・東西20m程の曲輪が有り其の下段に帯曲輪が捲いている。
報恩寺城:同上 主郭側へ延びる帯曲輪

縄張り図では主郭を捲く帯曲輪とは虎口で繋がっていて、副郭の帯曲輪側から主郭側帯曲輪に入る虎口が設けられています。帯曲輪は南西側を除き幅広(8〜15m程)で副郭東切岸から東端までは30m程・主郭西の土塁を持つ切岸から西端土塁までの帯曲輪の幅は50m程?ある。帯曲輪というより三の曲輪・四の曲輪なのかも…!!?…其の主郭側帯曲輪に入ったところから副郭側と主郭側へ各々・虎口が開いている。南西部から西北部にかけて、帯曲輪下方の一帯は「福知山特産として :えぐみが少なく柔らかいのが特徴で、毎年の様に春の到来を告げるニュースとしても新聞・TVで報道される報恩寺のタケノコ」で知られる竹林なので、荒れ放題で竹材が倒れ枯れた竹林も絶望的だが、整地された竹林も平坦地・段差・土塁の盛り上り ・空堀状と、どれをとっても城遺構かどうかの確認は困難の様です(^^ゞ
報恩寺城:副郭2m程の段差で東南の帯曲輪へ降りる

古書「佐賀村社寺旧跡史考(明治42年:古来の伝承 ・資料をまとめたもの)」等によると永享年間(1429-41)城主は在地土豪片岡近江守と云い、4代目片岡近江守は物部城主:上原周防守(衛門大輔の父)の娘を妻に迎えていた。周防守が弘治3年(1557)病死すると永禄2年(1559)物部城主となった上原衛門大輔は、血縁・親戚の情もなく地領を横領しょうと謀計をもって、片岡近江守を物部城に招き入れて殺害し、此れを聞いた夫人も一子を残して故郷の物部城に帰ろうとしたが、三坂峠において上原氏の手勢に殺されたという。
(福知山市史 を参照)

猪崎城と将監城
猪崎城(八幡山城・監物山城・橘城) 城山(今城山 )3等 65m  福知山市猪崎城山
将監城(将監遺跡)           福知山市猪崎

福知山市制施工 60周年記念事業として整備された”猪崎の城山”猪崎城跡は、此れほどの遺構を残す山城なのに福知山市のHP・歴史や観光スポットにも紹介されない不思議さと風致 ・史跡保存のPRの意味も含めて紹介しておきます。福知山城下から府道56号線を北方に向かい由良川に架かる音無瀬橋を渡る。 大江町方面に向かう府道55号線を分けて、綾部市方面に向う府道74号線へ右折して直ぐに三段池公園への大きな案内標識を見て左折して第一!!公園駐車場に入る。
三段池の西に車道を挟んで見える将監城

駐車場の北側の急な斜面に続く階段道の上が三段池の堤防道。右へは小さいながら北近畿・山陰方面には唯一の三段池福知山市動物園や 植物園・体育館へ向かう遊歩道。左へは直ぐ車道が坂道を北に延び、体育館から醍醐寺へ、また大駐車場が点在している交差点を左折すれは、 府道55号線や、直進して新音無瀬橋を渡ると厚中問屋を抜けR9号線に出る。
将監城:祠の建つ曲輪の切岸と下段の広い平坦地形


三段池堤防道の西正面・体育館側へ進む車道に沿って、荒れた空地や宅地も見える南北に150m程の短い低丘陵部が北へ延びて、車道と合流する地点に阿字観道場(四国88ヶ所 ・小豆島88ヶ所霊場 )と書かれた標柱を見る。一帯には墓地が点在する。此処を左へ進む狭い地区道は、30m程進めば、墓地入口には「猪崎の城山」と呼ばれる城山<猪崎城址 >の石碑と「縄張り絵図付」の詳細案内説明板が立つ。
将監城:丘陵部南端から3〜4段目曲輪に小社が祀られる

将監城 (将監遺跡<福知山市遺跡地図>は、墓地入口・猪崎城址碑前を通る地区道を挟んで、空堀道状の通用路が下る集落内の道と、府道74号から三段池の側を 公園内に入ってくる車道に挟まれた極小な丘陵位置にあったが、耕地・祠・宅地や車道等の拡張整備 ・造成工事で相当に改変している様子。 猪崎城とセットの居館遺構と思われ、丘陵頂は平成8年(1996)頃に測量調査され、本丸・.土塁・.空堀・.郭櫓台等が検出されている様ですが城・館ではなく遺跡の名称からも発掘調査以前に相当な改変が有った事が想定できます!!?。
将監城:祠への参道入口部は土塁虎口の様?

土塁や櫓台は南側民家上部の広く削平された空地(畑地跡?)となっている 最高位置に築かれていたのでしょう?。切岸を持った広い削平段や、曲輪中ほどの段に祀られる小社への参道は集落内通路より一段と高い位置に続き、 入口左右の土塁で囲った虎口形状も城遺構かと思われる!!?。また集落内通路の最奥・行き止まりかと思えたが下草混じりの踏み跡が空堀(堀底道)状に斜上して”城山:猪崎城址”石碑の前に出てくる。.
将監城館跡?集落内の通路は空堀道を抜け猪崎城登城口の石碑前に出る

猪崎城” 兵ものどもが夢のあと”…公園整備されたとはいえ雑木・雑草に埋もれ、遺構を何も確認出来ないほどの曲輪・空堀・土塁が、落城時の姿をそのままに残されている感がする。この城址は桜の名所としても整備され公園化して、眼下に由良川や土師川 ・福知山市街地を望む。南面の曲輪跡にはベンチ等もあって見学やピクニックには最適です。烏ヶ岳から派生する尾根が 醍醐寺付近からは扇状地となって長く延び出して裾野を拡げる、ほぼ円形の城域中央部南側の最高地点には矢倉台跡、主郭周囲に空堀を廻す猪崎城があります。天田郡を支配していた塩見氏の本拠城だったとも…後に横山城<現:福知山城>に本拠を移したものか?。 塩見一族の祖は清和源氏で武田義清から出た信濃・小笠原長清の後裔。
北郭部:遊歩道から:主曲輪から東へ数段の曲輪(左)、右に急斜面が谷に落ちる

「塩見系図」によると源太信氏が、足利尊氏から丹波七ケ庄を賜わって天田郡に来住した小笠原(塩見大膳大夫)頼勝が塩見氏を名乗ったのが文亀から永正年間 (1501〜08)の頃と思われます。 横山の地(現・福知山城)に砦を築き、天文年間(1532-55) 長男頼氏が横山姓を名のって横山城に、三男塩見監物(筑前守)利勝が此処 :今城山の丘陵頂部に広大な主郭・此の主郭を取巻く様に土塁や横堀を巡らした猪崎城を築いて居城とします。 塩見氏は丹波守護細川高国 ・晴国兄弟に従い度々の合戦に出陣し天文7年(1538)黒井城主赤井氏と戦い管領:細川氏から利勝等は感状を得てもいますが後 :三郡(氷上・天田・何鹿)を領した赤井氏の傘下に組み入れられます。
矢倉台の北から東 〜南側にかけて 深く大きな空堀が廻る

城域は東西150m・南北 160m余りに腰曲輪を数段置いた”くの字”形の楕円状をしており、東西45m×南北50mと広く削平された主郭部一段下には、西面を除く三方を土塁(高さ0.5〜3m程)で固められた空堀 (深さ・幅共に5〜7m)【主郭との間に幅15m程の空堀が北〜東を深く取り囲んでいる様は圧巻です。この空掘りは通路も兼ね、 武者溜りにも利用出来るもので、新庄城と共に福知山地方でも最大の規模を誇っている】が取巻き・外側には主郭を取り囲むように、周辺には10〜12ヶ所程の曲輪・腰曲輪、東に向って 突き出す斜面にも3段程の段曲輪が付属する。
猪崎城主郭;西北部に三角点標のある矢倉台

矢倉台の西側下方の急斜面には荒廃した神社(崩れかけた神殿・鳥居等が残る)の屋根や鳥居が見えています。北を回って曲輪跡にはいってみると、境内から南側を斜上して主郭に向う通路があり、其処以外は自然地形?の切岸が高く・仰ぐばかりの激傾斜。 境内が井戸曲輪だった様だが今も枯れない井戸跡にも気付かなかった。境内北側端の斜面も真下が見えない程の 断崖状だが、住宅地最奥の稲荷神社から 此の曲輪に至る南からが大手筋にあたります。三段池公園側からの遊歩道から主郭に入る虎口の横・主郭北東隅には矢倉台らしい盛り土が残っていて、
猪崎城主郭から南に由良川を望む

此処に城山(三等三角点65m)の点標石柱が埋まる。空掘様式や曲輪の配置形式は天文から永禄年間 (1532〜156)に盛んに造られたことから、塩見利勝が城主の頃の築城か。この地方では最も新しいタイプの中世城郭の一つと考えられます。明智光秀は天正7年 (1579)8月氷上郡の 黒井城を落とした余勢で京都丹波へ入り 鬼ケ城 【一般には上記の鬼ヶ城を指すと思われますが、永禄年間に内藤氏等が籠もり塩見氏等が攻めて撃退し、天正期には赤井氏が籠城した鬼ヶ城が此処を指すのかどうか疑問に思えてきた。牢人達が籠もる砦として使用されたのかもしれないが、
猪崎城南面の腰曲輪から:空堀が切れ主曲輪に入る虎口!!

近在領主の城にしては余りに高く ・領地からは遠く奥深い位置に有り過ぎて立地条件としては不自然。現:鬼ヶ城ではなく 醍醐寺付近や烏ヶ岳南麓に有る諸城で 尾根続きに鬼ヶ城に通じる:例えば何鹿郡(私市近くの)高蓮寺城や、天田郡の中村城 (猪崎城から至近距離に有り、空堀 ・土塁を廻した曲輪・主郭を別ける堀切遺構も顕著に残る)ではなかったかとも考えられるのですが】
を攻略の後、猪崎城・横山城(福知山城)を共に攻め落しています。この時の猪崎城主・塩見播磨守家利は城に火をかけ落ちたが、敵将 ・林半四郎に追い詰められ 大石を背に奮戦したが討たれた。今は無名墓があり「猪崎殿」と呼ばれるそうです。
南から猪崎城主郭を望む

また横山城(最期の城主・塩見大膳信房と弟・信勝は切腹)の地を福知山と命名して城を改築したのが福知山城。築城の際、付近の寺社などから墓石や五輪塔等を多数供出させている為、 今も石垣に積まれ目立つ五輪塔の礎石や墓石等が 特徴の一つになっていますね。猪崎城本郭に「天地(アメツチ)を わがものと思ひ勢(きお)はなむ再生がたし 愉しき現世(うつしよ)」悦夫 の歌碑が建てられています。この地・猪崎の旧家に生まれた塩見悦夫氏の歌碑建立には芦田均・前尾繁三郎・蜷川虎三氏等の名がありました。
(福知山市史 現地福知山城内案内板 H10.3 を参照)

中村城    xxxxx 55m  福知山市上中

猪崎城の西北へ約800m程 ・由良川の右岸(東岸)中集落がある。三段池公園からは下中集落で府道55号(舞鶴福知山線)と交差して新音無瀬橋・R9号線へ合流する車道がある。車でなら数分の位置に有り、音無瀬橋からは「丹波の萩寺」と呼ばれる名刹:明光山 養泉禅寺(臨済宗南禅寺派)を目指し、
中村城:主郭と薬王神社曲輪を遮断する堀切

此処から上記のバイパスへ抜ける車道が丘陵を裂き、峠から半独立丘陵状になっている西の末端部にかけての尾根上に(南北に約140m・東西約50m程を城域として)中村城がありました。以前に猪崎城を訪ねた際 ・峠に鳥居が有り参道の山道を辿って覗き込んだ小さな社が其れでした。養泉寺の開山は暦応2年(1339)といい弧峯覚明(特賜三光国師)によって 創建された事により始まり、今では萩の寺として親しまれ、9月中旬頃には白萩を中心に200株の萩が境内に咲き乱れコンサート等が催されてもいます。
空掘・土橋を渡って二ノ曲輪:薬王神社へ

南北朝期:貞治4年(1365)地頭大中臣宗泰が自らの氏寺として愚中周及を忠興開山に招き、将軍足利義持の帰依を祈願所となっています。 観音堂は中地区の山中に大仙寺(真言宗)という、七堂伽藍を有する寺があったが室町時代に廃寺となり、観音堂のみが残ったという。 元禄4年(1691)領主の下知(福知山藩主:朽木氏)によって養泉寺に移建されたといわれますので、廃寺跡が中村城の城域となり、観音堂は城の守護神を祀る社として 残ったものか?それとも現在の養泉寺背後の丘陵部に在ったものか? 
薬王神社に入る土橋付近の空掘

この観音堂の天井画「花と鳥絵図」は福知山城の舞殿に使用されていたものと伝えられ、八十一枚の板には百花百鳥が色鮮やかに 描かれており(長い間使用した事の無い言葉は違和感がある!!・・・もう死語の近い(^^ゞ
カラー写真付の案内板が山門横に立つ)萩のシーズン中には観音堂が一般公開されるらしい!?中村城は横山城主:塩見頼氏の子もしくは、赤松満義(祐?)の遺児:播磨守義近が、嘉吉の乱後に此の地に来て栗城(一尾城:綾部市栗町)の大槻佐渡守の女を娶り、塩見姓を名乗って居城したとも伝えられますが、 天正期:明智光秀の丹波攻めの際・横山城・猪崎城と共に落城していった支城の一つ。
井戸跡(手前):主郭西堀切下の帯曲輪

城主等の城史については未詳です。鬼ヶ城・烏ヶ岳から南西の由良川岸へ延び出した尾根先は末端部の中地区から三段池公園付近で複雑に入り組んだ小さな谷や丘陵部を見せています。猪崎城か横山城か塩見氏の本拠城の支城として天正期には共に塩見監物(筑前守)利勝の持ち城だった中村城も比高僅かに15m程の小丘ですが、 北面から西〜南側への三方は 田に囲まれていますが10m程の崖状で北側裾を谷川が流れています。
主郭下段ノ帯曲輪(空掘?)と土塁

猪崎城に比べれば スケールこそ違え丘陵尾根に4っの曲輪を並べ、帯曲輪状が城域をつつみ込む様に廻り、主郭の西側と東側を此の辺りでは比較的大きな二つの堀切(堀底約2m・深さは 3m程だが上辺部で約5mと切岸も急)で区切っている。 幅広い空堀・空堀外側を土塁で固め、社に裏手には堀切が主曲輪を遮断し、その主曲輪も四方を土塁で囲む遺構が残ります。
主郭西側の堀切を挟む西曲輪は堀切 (東)側を高さ約4m・上辺2m(底部で6m程)の土塁があり、主郭からは木橋が渡されていたと考えられ、其の土壇上には由良川を望み猪崎城・横山城への連絡用の物見台が在ったと推察されています。
主郭西に堀切を挟んで見張台の土塁

物見台西下方の腰曲輪が、物見台南 ・帯曲輪の一段下の曲輪と接する付近には井戸跡の凹部があった。主郭から堀切を隔て・二の丸(二の曲輪)とも云えるのが、薬王神社の祠が建つ16m×25m規模の曲輪で南側中央部から土橋虎口を入る。土橋左右から薬王神社を祀る曲輪 (二の曲輪)・主郭・西の物見台を周濠の様につつみ込む帯曲輪・通路兼用の空堀がまわる。土橋部分の堀切がそのまま横掘を残した帯曲輪となっている様!!。
(福知山市史 日本城郭体系 現地養泉寺 (丹波萩寺)案内板を参照)

池部城     xxx 53m   福知山市池部

池部城(観音寺北郭と観音寺南郭)
池部城(観音寺北郭)福知山城の北方・由良川に架かる音無瀬橋を渡ると正面に 猪崎の城山が見え、先に紹介の猪崎城(橘城)があります。橋北詰を右折すると三段池公園・綾部市に向う府道74号線を左折して府道55号(舞鶴福知山線)に入ります。程なく見える養泉寺への案内板は中村城への目印だが其の存在も位置も知らず、新音無瀬橋から三段池公園・醍醐寺へのバイパス交差点下中の東側丘陵が、
府道55号からの池部城

民家の裏手に低いながら断崖の地層を見せて・いかにも城砦の感じがして、何も知らないまま 此れが中村城かと近付いたことがあった。しかし此処は中世墓地跡や古墳が発見された場所でした。細い尾根を伝った先端部分が円墳跡か?不整地ながら眼下に由良川と舞鶴・宮津への街道筋を監視し、正面には和久郷の奥野部城・牧城を望める位置にあり、中村城からは見通せない西方の監視用として付属の見張り所があったのかも知れないと思えた。
林道脇から空堀沿いの土塁道は土橋付堀切を渡り東曲輪に入る


さらに此処から北方約2kmには 今から向う池部城があり、中村城へは交差点から三段池公園へのバイパスを戻れば約800m程の距離。二つの城を繋ぎ・猪崎の本拠城への連絡網の役割を持った見張り台があったら有効に機能したとも思えた。推察はさておき、由良川左岸(東岸)の沿って府道55号を北に向かうと池部城が在る。此の城も道路地図・地理院の5万図では所在がよく判らなかった。地図上では安井地区?なので間違った場所を探して 退却した事があったが、やっと福知山市史を頼りに訪城出来た。
西曲輪から主郭の切岸は高い(約5m程)

牧川が由良川に流れ出る地点で、鬼ヶ城・烏ヶ岳から西南に張り出した枝尾根の末端部にあり、姫髪山から東に延びる尾根が複雑な地形で由良川末端に裾を落として、福知山盆地が由良川流域で最も狭まる位置にある。福知山内には観音寺が多く・しかも綾部市等の観音寺と違い?宗派も禅宗(禅宗と記されていても曹洞宗か臨済宗 ・黄檗宗の三宗が日本での禅宗で、修行等に禅を取り入れている判り易い説明の為の呼び名の様です。
南端腰曲輪から帯曲輪・主郭へ3段曲輪が続く

長安寺で代表される?臨済宗南禅寺派だけでも10ヶ寺あると聞いた!!?…とは云え池部城も「研珠山観音寺(禅宗)」からの案内があれば迷う事もなかった!!?。観音寺バス停から細い車道を登り観音寺の前から左手の林道を辿る。比高僅かに17m・林道と粗西方の水平位置にある高低差の少ない丘陵尾根上に東西約150m・南北約28mを城域とした池部城があり、谷を隔てた観音寺の背山にも池部観音寺城が在ったという。未だ池部観音寺城についての資料・報告書等は知らず市史にも記載無く不明です。
東曲輪から主郭の矢倉台

池部城を訪ねた後で探して見たが下草と藪、城址の雰囲気も平坦地形も無い?。寺の屋根が見える近辺まで寄ってみたが、位置は見当違いだったか見当たらなかった。旧加佐郡大江町(現:福知山市に編入)との境界に近く、此処からは緩やかな峠を越えて鬼ヶ城からの尾根を捲いて直ぐ北方の筈巻地区へ下っていくが、国境警備なら筈巻地区に見張の城が在る筈 !!。 池部城からは由良川に流れ込む牧川を西方(和久郷の奥野部城 ・牧城等の諸城)の眺望には優れ河川や宮津・舞鶴へ通じる街道監視の要地では有ります。
主郭の矢倉台(大土塁)

観音寺手前からの林道終点?手前で、左手・西南下方に延び出す丘陵尾根に移ろうと林道を外れると 、其処が池部城域の東曲輪の東先端部。尾根西側は谷・細くなった尾根筋は2m程の土橋となって、手前の北東からカギ状に東下方に堀切が走り、背後の尾根を遮断しています。東曲輪は尾根幅一杯に南北20m・東西には約50m程の緩衝地の様な平坦地ですが、 突然・堀切と向いに高い切岸に突き当る!!。主郭は東西約40m・南北 24mで尾根続きの東端部を、深さ約7m・上辺部の幅6m程の大堀切(市内でも最大級と云われる)が遮断する。主郭側からは高さ2m・幅約4mの土塁を積んで矢倉台か 物見台としている様です。
大堀切を越え土塁(櫓台)から広い主郭に降りる

堀切からは主郭北〜西南側へと帯曲輪が廻り西南には更に 2〜3段の小曲輪・腰曲輪が付属し、主郭北から東側を廻る帯曲輪が曲輪郡に繋がっています。比高10数mの大手口は此の曲輪群に至る南側の府道55号側からの浅い谷間に有ったと推察されます。 城史についての口碑・伝承は無く「丹波志」にも記載がないが「塩見家文書 」で細川高国から 池部三郎次郎への感状があって、此の地の土豪池部氏が城主で有ったと推定され、塩見氏勢力の台頭の中・やがては猪崎城主:塩見氏の配下に組み入れられていったものと思われます。
空掘・土塁道から土橋付堀切を渡り東曲輪に入る

「塩見系図」には塩見筑後守利勝の四男 ・利一を池部三郎次郎に充てる様ですが、其の資料には乏しく疑問視されている様です。ただ塩見氏が最も活躍していた大永5年〜亨禄年間(1525-1532)より100数十年以前より【康安元年 (1361)の氏衛注進状案(松尾大社文書)に地下人として池部四郎兵衛尉父子…の名が出てくる】由良川東岸の此の地に土豪池部氏が存在した事だけは確実視されています。永禄8年(1565)黒井城主赤井氏の横山城(福知山城の全身)を攻めた際、赤井氏に付き戦功があったという。

大堀切から主郭櫓台への切岸(約7m)

南北朝期:丹波氷上郡(天田郡夜久野の龍ヶ城等?を居城としていた荻野氏か !!)の荻野三河入道父子が、京都松尾社の雀部荘に乱入し、荘園官吏:池部氏等の地下人(じげにん)が荻野氏に対抗したものか?。池部氏は後:地下人から荘園を領して土豪となっていったものか? 京都丹波の荘園・城郭史を調べて 情報が得られれば、氷上(丹波市)と天田・雀部(福知山市)・何鹿(一部が福知山市)の時代ごと種々の事情・相関関係等が判ってくるのかも知れませんが!!?。
(福知山市史を参照)
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池部城(観音寺南郭)「福知山市史」の城郭情報を参考に出かけた池部城は観音寺の北方から延び出す丘陵部の先端が、 西側の谷を隔てて府道55号(舞鶴福知山線)に落ち込む丘陵部だけではなく、観音寺境内駐車場付近から南側にかけて、いま府道55号から登ってきた右手の急斜面上にも城砦遺構を残す広範囲の城だと福知山市教育委員会の遺跡分布Web地図を見ていて知り、一城別郭の池部城を再訪した。池部城は府道55号線から観音寺へ向う急な坂道の民家を挟んで迫る稜部と、 バス停からも見上げるばかりに迫り出す急な断崖状の丘陵末端部にも遺構を残していました。
観音寺外側 (府道側に迫出す)尾根筋?の堀切


321mピークから西へ延び出した枝尾根の一つが、観音寺の直前で先端部を西南方に変え、府道55号線で流れを止める僅か数100m程・扇状に拡がる丘陵部端は浅く・また深い谷を刻んで 複雑に拡がっている様です。観音寺本堂を正面にして左手の藪中に細い林道が通じて、池部城(観音寺北郭 )に向うが観音寺本堂に向い直進して駐車場に着く。此処は池部城(観音寺北郭)の要的位置になっていて、此処から墓地域だが右手の谷に沿って東方の321m峰に向う山道に入っていくと湿気た谷底部には幾段もの広い削塀段が並ぶ。
観音寺側(寺駐車場近く)尾根筋?の堀切と櫓台土塁(手前)!!

古い石垣棚さえ残るので古墓跡か?、 観音寺の盛衰を語る嘗ての伽藍・堂宇の跡なのかは分らないにが、曲輪群が切れる最奥部からは尾根上321mピークに向うだけなので、南東へ降っていく尾根に乗る為に短絡のトラバース。この南東へと府道55号線に突き出す尾根先と、 小谷を一つ隔てた西南側の尾根筋(観音寺側に入った民家の上部)へと、二つの丘陵に堀切・櫓台を伴う土塁・曲輪が並ぶ。観音寺南の外側 (府道に迫出す)は尾根側を堀切で遮断して櫓台付き ?土塁曲輪から 3〜5段の曲輪を並べその先端を断崖上に迫出す曲輪で終える街道監視を重視したもの。
観音寺側(寺駐車場近く)尾根筋民家上部の土塁虎口部?(広い2〜3段曲輪在)


小谷を挟んだ観音寺南の内側(寺駐車場側)の尾根も深く抉り込んだ堀切で、 土橋は無いが東斜面側に方形の小さな曲輪(櫓台か?)に沿って枡形の通路が斜上する。此処も尾根上に小曲輪があるが民家上に至る先端部の 3段程は居住空間か!!?広く切岸も高い。その広い曲輪の南端部にはS字状に斜上する土塁虎口らしい通路もある。由良川沿いに拡がる郷内に、領民を匿う「逃げの城」ではなく?、
観音寺外側(府道に迫出す)尾根筋の段曲輪

観音寺が当時も一向宗等ではなく禅宗!!なら直接攻められることも無かったのでは?、寺域自体が土豪:池部氏の城郭と思えます。 バス停前の大手道を通って観音寺を居館に、墓地傍の段曲輪周辺には武家屋敷群・南郭を監視と一時防備の城砦に、北郭を「詰め城」とした城砦群は、城史には不明ですが「京都丹波攻め」明智光秀の侵攻に抵抗し、横山城主:塩見氏に従った (同族の?)池部氏が籠城したが敗れ、寺も兵火に消失したものでしょう。其の後の寺の消息も知らないのですが…。


庵我城(仮称)  xxx(4等三角点)点名:?144m  福知山市庵我・池部

福知山城の北方・由良川に架かる 音無瀬橋を渡ると正面に猪崎の城山が見え、先に紹介の猪崎城(橘城)があります。橋北詰を右折すると三段池公園・綾部市に向う府道74号線ですが、左折して府道55号 (舞鶴福知山線)に入ります。猪崎城を北の丘陵端に見て、新音無瀬橋から三段池公園・醍醐寺へ向うバイパス道の交差点を直進する。三段池公園側へ右折して走れば、程なく右手前方・東側丘陵へは其の丘陵中央部を抜ける林道の様な車道があり峠からは中村城も近い。
庵我小学校からの庵我城(仮称)


峠を抜け出た所には「丹波の萩寺」と呼ばれる名刹:明光山養泉禅寺(臨済宗南禅寺派)があります。元の新音無瀬橋方面・府道55号線の戻って北上すると「鬼ヶ城・烏ヶ岳登山口」の白い大きな案内板を見ます。此の登山口を入る車道の左手には式内社の庵我神社・右手に中薬師堂が建つ。以前にも福知山のランドマーク:烏ヶ岳から林道を此処に降りてきたレポート【三段池公園〜猪鼻城/烏ヶ岳〜鬼ヶ城〜庵我神社】が上記に有りますので参照してください。登山口からの車道は庵我小学校正門前で右折、谷沿いに烏ヶ岳山上まで関電巡視の車道が通じています。丹波史懇話会会員でもある高橋氏の山城の調査に随行されているM・M氏からメールで 頂戴する城情報の中には、中村城と物部城の間に福知山市史にも・市教育委員会の遺跡分布地図等にも無い山城を発見された事を聞き、庵我小学校の背後に迫る低丘陵に取付き点を探して 出掛けて見ます。
長い平坦尾根・最初の小祠前に空掘〜竪堀状の窪み?

丘陵の山裾伝いには、辛うじて車で進めそうな 狭いダートの山道がある…が、烏ヶ岳へ向う巡視専用?道を進みながら、丘陵尾根の鞍部に向かう取付けそうな谷筋や派生する尾根筋を探しながら進む。ただ其の間に田圃が有り・谷川が流れているので、どこからでも…とはいかず、川を対岸に行けそうな取り水用?堰提を渡り、田の畦道を抜けて丘陵裾の山道を伝うが、大きな貯水池で林道は行き止り。おまけに丘陵への取り付きは池を廻りこんだ向こう側の様です。湿地と藪、山側も藪でしかも崖状、諦めて引き返しながら、尾根上に向う獣道を見つけて追っていく。尾根に出ると直ぐ下に墓地が見える。初めから学校側の丘陵裾の道をとれば簡単に到達出来たのかも知れない!!。府道55線池部のバス停西方から眺めれば、船の長く突き出した平坦なデッキの先にドーム状の山頂部が見える。
主郭下から延びる竪堀は参道傍を長く落ち込んでゆく

此の山頂部に城郭遺構が残るという。墓地上からの長く続く平坦な尾根筋の西斜面に一本の竪堀を見ていよいよ…と期待するが、広い平坦地形の中央に 詣る人もいない様な小祠がポツンと祀られている。両尾根端の斜面も・向う先も藪だが平坦な尾根筋。傾斜を増してくる先にも城遺構を感じさせるものが無いまま、4等三角点の石標柱が埋まる山頂に着いた。先程よりは格段?に大きな社が建ち一部が欠けるが狛犬が護る。城跡で愛宕・秋葉でなければ八幡社だろうか…?。 此処も広い平坦地だが円状…南からの尾根伝いには何もなかった?が、社の背後に廻ってみて驚いた。幅狭いが円状に主郭の沿って一段腰曲輪が有り、其処から深く長い竪堀が走る。
主郭背後の尾根筋に備える竪堀と土橋

此の竪堀は池部へ降る参道道の傍を抜けて更に下方に一直線に降っている(山頂の祠まで参道が通じていたのです!!)。此の参道を下り始めにも竪堀がある。北の尾根続きの急斜面下には堀切(土橋付というより埋まってか尾根幅が広いので西に二本・東に一本の竪堀の感じ!!)と、続いて細くなる土橋の先にも竪堀が有る。参道からも祠からも遺構が確認されるのですが 、しかし未だ無印の山城です。南の尾根側の無防備状態に比して・北の尾根側に集中する防護の備えは何を示しているのでしょう?なぜ此処に城が?…庵我城(仮称)は鬼ヶ城 (544m 福知山市に編入した旧加佐郡大江町との境界)から西南に派生する尾根先が、府道55号線池部の庵我小学校付近に其の先端を落としています。鬼伝説で知られる♪昔:丹波の大江山には御存知・酒呑(顛)童子が住み、 此の鬼ヶ城には一の子分の茨城童子が住んでいたと伝えられ天慶3年(940)の将門の乱に討死した平将門の子が 遁れ此処に居たのではとの説もある。永禄3年(1560)4月、無頼の徒・内藤駿河守(尾張守とも?)を頭に徒党の族(12〜3人)が近在に出没して掠奪 ・狼藉を働くので丹波の国人が攻略した時には、地元の豪族 ・横山氏・塩見氏等の地侍が此れを殲滅しています。
主郭に祀られる祠は八幡社か?

天正3年(1575)明智光秀の丹波攻めでは黒井城主・赤井直正配下の支城として釈迦牟尼仏靭負佐(みくるべゆきえすけ)が居り、久下七郎左衛門・長沢(中沢)越後守・河田氏等の諸侍が退いて此処に拠り抵抗したという。その後天正6年(1578)秋、仁木氏・和田氏等が鬼ヶ城に拠っていて、近在に出没して狼藉するとの訴えに今度は光秀が源頼光役で鬼退治!!。四方より攻めて二百余名を討ち取り党を解散させています。鬼の役が兵庫丹波の仁木氏や 和田氏とは…!!城史に多くの伝承を残しながら鬼ヶ城の築城・城主について定かでは有りません。まして庵我城 (仮称)の城が街道筋と思われる由良川を背にして鬼ヶ城を睨む北からの備えの城とは・・??由良川右岸に福知山から丹後へ入る道が無く、猪崎辺りからは牛馬も不通の嶮しい鬼ヶ城の峠を越える山道が利用されており幕府の巡検使一行(山陰鎮無隊?)も此の峠を越えて丹後に入ったという。
参道を降りた最後の出口は大手虎口の様な切通し道

南に猪崎城・北に池部城・庵我城(仮称)近くには中村城と塩見氏一党の城砦が固めていますので、一つくらいは厳しいながらも利用者が多かった間道!!?(街道??)と北方尾根筋をを重視して警戒する砦も在ったかと…?参道を下ってきた大師堂 ?と再奥の民家の間の段差ある平坦地は屋敷跡や木戸跡?しかも切通し道は大手虎口には最適!!。市史・近年の遺跡文化財分布地図にも記載の無い城砦としてのレポートです。誤記や城跡の情報を御存知でしたら・お知らせ願えれば幸いです。


福知山城(横山城・臥竜城・八幡城・竜頭城)
    福知山内記

福知山盆地へは何処を通って入ってきても市街地の小高い丘(朝暉さん…と呼んでいた)の上に建ち小天守を伴った三層の天守が 真っ先に目に入り、昭和59年(1984)より3年をかけて復元された天守が街のどこからでもよく目立ちます。福知山市のシンボル・城址公園となり産業館(続櫓)や郷土資料館(天守閣)として市民にも親しまれています。天守台を含む各郭の石垣は野面積みで明智光秀の築城当時の姿を留めているが、もともと此処は清和源氏信濃小笠原長清の後裔小笠原(塩見)頼勝が築いた横山城猪崎城共に土豪塩見氏一族が支配していたところでした。
福知山城の高石垣(市内西南部より)

頼勝の子大膳大夫頼氏が横山姓と改姓し其の子大膳大夫信房の時:天正7年(1579)6月明智光秀の 攻撃を受け自害して果てた。八上城の波多野氏を討って丹波一国を平定した光秀は信長から丹波を与えられ、横山の地を福知山と命名して居城 (天正8年から2年間福知山城主となった)として城代に藤木権兵衛と・光秀の甥で女婿にあたる明智秀満をあて既存の横山城を改修させています。福知山城の石垣には自然石と割り石に混じって 転用石といい大和郡山城とともに多用されている事で引き合いに出されますが、
福知山城石垣の転用石

付近の寺社などから 墓石や五輪塔・宝筐印塔等、多数の石塔類を供出させており其の殆どが天守石垣付近に集中している。石垣に使用する大量の石材が近辺に無く築城にも時間的余裕が無かった等の理由で転用石が利用されるほか ・信長の安土城の大手の石段に石仏が有る様に旧地領主の勢力・権威の否定とも、城を守護する 呪術的な意識があったとも考えられています。石材の徴用にあたっては 寺社仏閣を破却して持ち出した信長とは違い、光秀は「丹波平定後には寺社再建を約束して石を集めたともいわれています。
福知山城(天守(中央)・小天守(左手)・続櫓(右手))

塩見氏等丹波の領主との合戦後の荒れた城下の町民達に対する税の軽減 【後に播磨三木城合戦後の秀吉も此れを行って城下の回復・活性化を促している】地子銭(税)免除の特権を与え・河川の改修等の善政をしき、民衆の高い支持を得て地元では御霊神社に祀られ、築城時の労働の様子等を謳った”福知山音頭”はよく知られるところ。横山城を「福智山城」と改名・改修したこの城は由良川と土師川の合流点に位置して東西、北の三方は断崖となり、
福知山城石垣の転用石

市街地の西南中央に位置する要害で 細長い丘陵突端部に位置するところから「臥竜城」とも呼ばれます。光秀は主に亀山城(亀岡市)を居城に、二つの城が丹波平定の拠点となっていました。そして天正10年 :羽柴秀吉の備中高松城攻めの援軍を命ぜられた明智光秀が亀山城(亀岡市)を発ち摂津へ抜ける 法貴坂【明智戻り岩の伝承で知られる】まで来た時、
福知山城(郷土資料館)

出陣に際し織田信長の閲兵を受ける為と、 信長が宿所としていた本能寺を急襲した「本能寺の変」、秀吉が中国攻めで留守中の畿内の制圧には頼みとしていた細川藤孝・忠興父子や筒井順慶等の協力が得られず 秀吉の「中国大返し」による山崎の合戦に敗死、僅か2年の城主だった光秀が、今も ”福知山音頭”に謳われ神として御霊神社に祀られるなど敬慕されている。福知山市の市花が「ききょう」であることも其れを顕したものなのでしょう!!光秀の死後は豊臣秀吉の領地となって福知山城主に秀吉の養子:秀勝が入り天正14年 (1586)羽柴秀勝配下の杉原家次 (北政所の叔父)が、家次の死後は田中吉政・小野木重勝と続き、
福知山城:豊磐井(日本一深い井戸と云われる)

関ヶ原合戦後の慶長5年 (1600)には有馬重頼(有馬玄蕃頭豊氏!?)・元和8年(1622)岡部内膳正長盛・元和10年(1624)には 稲葉淡路守紀通(菩提寺は三和町興雲寺)慶安2年(1649)三河 (愛知県)の刈谷城からは4万5000石で転封となった深溝(ふこうず)松平氏の松平主膳頭忠房へと、次々に城主の変遷を経て寛文9年(1669)朽木伊予守稙昌が32,000石で常陸土浦から入封して13代続いて明治維新を迎え、 明治5年末に発布された廃城令(廃藩置県)により廃された。

朽木公を祀る朝暉神社から福知山城天守

天守閣の石垣には未加工の自然石が用いられ 穴太積の技法も認められます。数多くの転用石(五輪塔・宝篋印塔 ・石仏・石臼・燈籠等 )を石垣として使われていて、此れ程大量の使用例は大和郡山城と福知山城しか ないそうです。昭和62年の再建工事の時にも 300以上の転用石が出土、発見され石仏等の一部が 銅門番所に並べられています。中には転用石の年号銘では最古の延文4年(1359)銘の五輪塔地輪もあります。城の建物としては唯一銅門番所が残ってます。
銅門跡:市役所東北端車道側・ニノ丸を区切る切通し道の北口

豊磐井井戸の深さは50m(城郭内湛水井としては日本一の深さ)もあります。 地表で海抜Ca43mなので井戸底は海面下7mに達している事になり、城にとって最も大切な飲料水の確保の為とはいえ、近くの由良川の川面13.5mよりも、さらに20.5mも、機械も無かった時代に硬い岩盤をこれほどまでに深く掘削した苦労が偲ばれます。
(福知山市史 日本城郭体系 現地福知山城内案内板を参照)

福知山城下・寺町界隈
城下町の町割りについて ・其の雰囲気を味わい探索しながら寺町界隈を散策してみます。”山陰街道最古の庚申塚”の 案内標識を見て寄ってみた明鏡山正眼寺(曹洞宗)は、大宝元年(701)全国に疫病が流行し病死するものが多く、病気平癒と諸魔退散を加持祈願し満願の日「青面金剛王庚申尊天」の霊像を奉祀すると、神力あって病は尽く除癒し人々は 安穏を得たという山陰街道にある最古の霊場といわれます。
福知山城の城門・銅(あかがね)門【正眼寺】

明智光秀の築城と京街道を此の地に敷く際、庚申堂も箕越(奥岡)から此処に移されたと案内板にもあって”町割り”の様相を伝えます。 庚申塚は道祖神として旅人の交通安穏や忌病退散の神として祀られますので、由良川の街道筋!を 少し外れていても納得出来ます。正眼寺の山門は信長による丹波平定の命により明智光秀が天正3年(1575)此の地を領し、
福知山城主・朽木氏菩提寺の久昌寺

福知山に竜頭城を築いて居城としたが、地割りした城郭周囲に設けた48門の内の一つが「銅(あかがね)御門」で、 現・市役所横の 検事局裏手に在ったものが明治31年(1898)移築され 山号扁額の材も城内南居間本床上の天床に使用されていたものという。銅門の脇に在った門番所が本丸曲輪の天守西正面・高石垣上に移築されている。元の寺町通りに戻れば 界隈で一番の大寺なのが福知山城最後の城主朽木氏の菩提寺久昌寺(曹洞宗)です。寛文9年(1661)朽木稙昌が入封して以降、廃藩置県で廃城となる明治に至るまで
地割りの寺町界隈を(正面を福知山城、京口へ)

朽木氏により13代続きます。朽木氏が開基で開山に威雲宗虎大和尚を迎えて桃山末期の文禄元年(1592)創建されています。久昌寺由緒・案内が本堂前の建物2階の側壁に掲げてある。鎮守の薬師如来は 小野小町の歌かけ薬師と括弧書きされ由緒が面白そうです。市内篠尾から榎原へ抜ける途中の小野脇(バス終点)が小野小町が住んでいた所として、丹波市青垣町の小室城主がモデルと云われる 東芦田の少将石の話が伝わっています。最後は此処を外す事は出来ない所が旧市街地の中心に有って平成17年に300年を迎える御霊神社
福知山で光秀を祀る御霊神社は外せません

祭神を宇賀御霊大神(穂食神)とし、宝永元年(1704)城主・朽木種昌の代に、明智日向守光秀の霊を配神として合祀されています。神社には光秀が天正7年 (1579)〜天正9年に書いた古文書が三通残されていて、いずれも市指定文化財として”郷土資料館”に展示保管されています。中でも「陣中制法」といわれる文書は部隊の戦陣に於ける心掛けを示したもの。
(現地 御霊神社・福知山市教育委員会の案内板を参照)

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