園部城 藁無城 蜷川城(蟠根寺城) 片山城 佐切城 越方城 大村城 小山城・小山館
南丹市(五万図=園部)
林松寺〜藁無城/高屋〜蜷川城/生身天満宮〜園部城 2004年01月02日
近畿の山城 :藁無城  蜷川城(蟠根寺城・高屋城) 園部城
  大村城と小山城(五合山城)・小山館 片山城  佐切城と越方城

校歌・故郷の山  園部高校 ♪小向山 淇水に映えてしづかなる…♪
府道から公民館(中央)と藁無城遠望

山と城の事始・今年は京都丹波(口丹波)の園部町から…全国最古の天満宮「生身天満宮」への初詣。 篠山城は築城400年を迎える2009年に向けて、 ほぼ完全復元(内堀の修復は今年中・東の馬出し含む?馬場や武家屋敷も再建)構想が進められているという。その内堀沿いにR372号に出て八上城の山裾を 通る京街道を通って 天引峠を越えれば園部町に入る分岐で園部川に沿う
藁無城:城域中程の空掘!!??

府道54号は濃い朝霧の中で周囲の状況が見えない車道の白線をキープしながら日吉町を目指します。園部町内の天満宮と園部城は帰路に寄ることにして先ずは園部川源流の藁無城(点名:松尾 4等三角点270m)とJR船岡駅を挟んで 桂川に沿って南下したところに蜷川城(点名:朝倉 3等三角点320m)があるので、近場の二つの城に寄ってから園部城に向かいます。


藁無城 蜷川城(蟠根寺城・高屋城) 園部城 大村城と小山城(五合山城)・小山館
片山城  佐切城と越方城


藁無城(藁無高山城)   高山!!? 270m 南丹市園部町船岡小サバ・河谷

府道25号線からJR船岡駅の北・府道19号線を南下する船岡集落の北西に露岩累々の荒々しい山容の、いかにも城山を思わせる山が 立ちはだかります。府道19号線を挟んで南のJR船岡駅との間に諏訪山城(未訪)が、北西方に向かう藁無城が在るが二つの山城よりも標高有る此の丘陵が ・諏訪山城からは北西訪の府道19号沿い桂川流域上流を、藁無城からは東面の展望が遮断される。
藁無城と林松寺

両城の死角を補い桂川(大堰川)で分断される船岡から山陰道の要衝(R9号)を園部城や南丹市役所の在る園部町中心地に向かう東玄関口を諏訪山城とは府道19号と向かい合い呼応する位置にある。反対に園部からは府道19号・桂川沿いに遡ると日吉町殿田へ直進すれば美山町 ・此処で交差する府道50号をJR山陰線沿いに北上すれば日吉町胡麻方面へと通じる 要衝の街道監視と、
居館跡(林松寺)の石垣(内藤氏居館!!)

更に時代は下がると思われますが、 船岡は桂川の水運でも栄えていた様で、水利や市場の権益の監理行使した諏訪山城と北に高山城(万躰山城?)と推測する城砦が在ったとの可能性も 推測しますが丘陵部推定頂部は山容も広過ぎ、山も高過ぎる様で未調査未訪です。此の山に比して、谷間を挟んで西方に冨士型の優しい山容の山(点名:松尾4等三角点 270m)が晴れかかった霧の先に見え山頂部に
藁無城主曲輪と櫓台跡?

藁無城が在りました。八木城を本拠とする丹波守護代 ・内藤氏一族が室町時代には大きな勢力を持って此処に拠り八木城の一支城としたもので、南東山麓には家臣団の屋敷が連なっていたことでしょう。藁無集落の屋敷跡と思える畑地?の段差をもった平坦地の最奥・重厚な石積みされた高台の林松寺(曹洞宗)は館跡とも云われます。寺の背後の墓地!!からも踏み跡薄く・途中で曖昧となり消えるが、
南端の腰曲輪南面の石積

急斜面を直上し露岩が目立ち始めると山頂も近く、南端の主郭一段下の腰曲輪に登り着く。再訪時には此の腰曲輪左端 (南西側)寄りに3段程の石積跡をみるが、主郭南面一帯が露岩・散存する自然石が豊富。斜面は差程も傾斜が急でも・高くもない。 露岩を切岸に取込んではいる様だが、崩壊石材は多くないようで・石垣というほど高くもなく、
帯曲輪と土塁道

主曲輪や土塁・土塁道も掘り残しで石積・石列を観ないので、石積みは腰曲輪面積内確保の土留め石程度と思われます。初めての訪城では城跡への登路が分からず寺の東正面谷筋に沿ってNHK船岡無線中継所への専用林道を辿り、関電の送電線(丹波線No.37)鉄塔の建つ藁無城の城域北端の 堀切を越えた先の尾根上を目指します。 南北に細長くほぼ1直線に続く尾根上を、

城域中央付近曲輪群

鉄塔から南側の主郭へと 尾根筋に5-6段の曲輪が連郭式に直線的に配置された城域を向かうと、先ずは尾根を断ち切る堀切に着き城域に入ります。 最南端:主曲輪の最高所に本丸を置くが本郭部の僅かな高みは櫓台跡でしょうか? 南側に1段下がった所に点名:松尾(4等三角点 270m)の標石柱があり此れより先は露岩の多い藪の急斜面が要害となっているが 城を防備する遺構は見い出せません。
藁無城域中央付近の窪地は蔵跡?・天水井戸 ?・自然崩壊か!!

林松寺からの大手道が此処へ通じていれば途中に竪堀や削平地が残っているかも分からないが往路を林松寺に引き返します。主郭から城域北端まで 延びる帯曲輪の北端曲輪の土塁下部に堀切がある。城域中程の曲輪西側には空掘か竪堀か?それとも地滑りによる自然崩壊なのか、 湾曲して稜上部から削り取られた様な円形の大きな窪地状をみる。大穴なら例は少ないが
城域北端の堀切(外側土塁から)

福知山市経ヶ端城や播磨神崎郡 春日山城に見掛けた地下・半地下式の貯蔵庫か?、石材の散存する決壊した帯曲輪端からは切岸下部の土留石か ?天水受け井戸跡なのか?、窪地の残土状況からは自然崩壊跡と思われますが…?。専用林道を下って寺の東北側の鳥居を潜ると、藁無城の鎮守・治宮神社が祀られています。大手道は此処から本丸に通じているようです。
藁無城:居館跡(林松寺)の石垣

永禄2年(1559)藁無城主内藤季有は杉崎大和守と組んで 氷上郡(丹波市)の赤井氏を味方にして南桑田郡小川村(現:亀岡市千代川?)で、八木城主松永(内藤)宗勝と戦ったが赤井氏が宗勝に寝返って 季有は敗れ波々伯部光好の仲介により宗勝と和合している。永禄7年(1564)藁無高山城主・内藤安芸守季行の時、謀叛を企てているとの策謀に八木城主・内藤和泉守が藁無高山城を
藁無城側から諏訪山城 ・右端に太鼓山城

攻めているが落城は5代目城主の頃、天正7年(1579)明智光秀の和平作戦に協力しなかったようで丹波攻めにより日吉町の 大戸城(塩貝城)らと共に攻め落とされたと思われます。

(日本城郭大系(新人物往来社) を参考に)

諏訪山城 xxx山 Ca195m    南丹市園部町船岡諏訪
蟠根寺城の北尾根端:太鼓山城、同西尾根麓の千妻城 を掲載の為
 
諏訪山城 http://kirinosato.fc2web.com/KYOTO-TANNANSI-rekisi3.html#suwayama は収容変えしました


蜷川城(蟠根寺城・高屋城)   蟠根寺山 !!? 320m   船井郡園部町高屋

藁無城を後に日吉町への19号線から25号線(亀岡園部線)をとり JR船岡駅近くのガードを潜って、桂川の西岸に沿い八木・亀岡方面に向かい高屋集落の春日神社【平安時代初期・大同2年(807) 蟠根寺の守護神として春日大明神が建立され仁平2年 (1152)桐の庄18カ村の総社として 再建されたと伝えられています。現在の社殿は形式等から室町時代初期の建立と考えられています。
蟠根寺城(蜷川城)遠望・中央奥

本殿は大正10年(1921)重要文化財に指定】から北東方になだらかな 雑木の小さな峰がJR船岡駅辺りを北端として延びています。西の山裾に見える蟠根寺背後の尾根の最高所に主郭を置き三方の尾根に曲輪を備えた戦国時代の大規模な山城が、園部城の完成を見るまで此処にありました。城址への登路が分からないので 少し遠いが、峠を越えて曽我谷へ抜ける未舗装の林道を辿り峠から尾根通しに蜷川氏の城(蟠根寺城址)を目指します。峠からの取り付きは 僅かの間ですが 急斜な痩せ尾根で、立ち木が無ければ危険な程のところですが尾根筋は踏み跡は明瞭です。南側の城域で一番広い曲輪は低い土塁が囲み上部曲輪に通じる土塁道が西面にある。
蜷川城天守台


高い切岸だが小さな曲輪を越すと本郭ですが東側に廻って見ると、此処も藁無城と同じく天守台跡らしい低い高みが有り点名:朝倉 (3等三角点 320m)の 標石柱が埋まる。雑木藪に囲まれた山頂だが雑木の背は低く周囲は明るい、樹間を通しての展望も先ず先ずで京都市境の千歳山・三頭山・愛宕山辺りが見える。見通しが利けば眼下に園部城も見渡せる位置にあります。 東の高屋集落側に張り出す 尾根筋にも6〜7段の連郭を見るが削平地と土塁道らしい高まりの他には堀切・竪堀・曲輪の切岸等防備が施された遺構が見当たらない。城域を抜けると 急斜面を下り墓地に出るが、 なを山道が暫く続いて春日神社へ30m程の府道R25号ムラタ瓦塾の看板の所へ出てきた。園部では一番規模の大きな山城で戦国期(室町時代)に改築されていったようだが 藁無城同様、山頂付近に岩石が多いのに 石積遺構は見られなかった。
蟠根寺城(蜷川城)主郭

蜷川氏は 物部氏の末裔と伝えられ南北朝期蜷川親心(右衛門尉孫三郎)は征夷大将軍宗尊親王に仕え三男親朝は兄の親行と共に足利尊氏に仕えて蜷川城初代城主となったとされます。応仁の乱(1467-77)では丹波の多くの領主が西軍(足利義尚 :山名宗全)に付くなか、蜷川氏は東軍(足利義政:細川勝元)側に付いたと云う!!。蜷川親朝には四人の兄弟があり長男・親俊が二代目城主となるが永禄8年(1565)主君の13代将軍足利義輝が三好氏・松永久秀に討ち取られる事件が起こると 親朝は京都東福寺(臨済宗)の曇翁(どんのう)に帰依し、蟠根寺を創建し曇翁を開山にしていますが山形・金谷原(寒河江市)に逃れ永禄11年(1568)には亡くなります。親長は長宗我部元親を頼って土佐国に逃れ同地に居住し元親に仕えます。親俊の長男 ・親告が越中の蜷川氏の本家に男子が無かった為、跡を継ぎ新川郡布西保の領地に居城して越中入道と号したので次男貞繁が3代目城主を継いでいます。蜷川親当(ちかまさ)以来・代々足利将軍に仕えて室町幕府(1392-1573)の政所代としの要職を務め、親世に至るまでその職を世襲しています。蜷川氏はTVアニメでお馴染みの「一休さん」に登場する3代将軍・足利義満の家来で蜷川新右衛門のモデルが 蜷川親当といわれます。
蜷川城南端の1番広い曲輪と低い土塁

(親当は6代将軍足利義教に仕え・一休禅師とは実際に 親交があったといわれます)室町時代末期の戦乱期には園部城を取り囲む多くの山城で熾烈な攻防戦が展開され天正年間(1573-92)次々と開城していく城が多いなかで蜷川城(蟠根寺城)だけが安泰を保っていたのは、蜷川氏が安国寺(綾部市)で足利尊氏を養育する等、 室町幕府の重要な目付役として丹波一円に睨みを利かせる地位に置かれていた事と、大堰川(保津川上流)の水運が都と城を直結していて中央の情勢に通じていた事によるものと推察されます。後年・その事で明智光秀に協力し「本能寺の変」後の天正10年 (1582)6月の「山崎の合戦」にも従うこととなり全員戦死の悲運な最後を迎えます。天和5年(1619)小出吉親が園部城を築く際、その背後に蜷川城が有ったのでは好ましくない、一国一城令にも反すると寛永13年(1636)取り壊されました。 しかし当の園部城は幕末の激動期にあって戌辰戦争の最中、明治新政府より陣屋をより堅固な城として「大政奉還」の翌年、再整備するよう許可を受け明治元年(1868)から2年(1869)にかけて我国唯一・最後の城が築城されています。
(日本城郭大系 新人物往来社 を参照)


片山城(片山古塁・大戸城)  xxx山 180m   南丹市園部町大戸利貫谷 /園部町高屋片山

園部町黒田の黒田城が片山城とも呼ばれ黒田片山城として よく知られる存在ですが、園部町大戸と高屋に挟まれた武尾神社の南背後丘陵上に位置する片山城を知る人は少なく、訪城しようとする奇特者は更に少ない 超マイナーな山城の様です。山陰本線八木駅前を東へ・大堰橋を渡り府道25号を北上していくと、
武尾神社から一気に 聳え立つ片山城址

八木町から園部町入る頃・車道は再び大堰川(桂川)沿い走る。川辺大橋で大堰川を渡る付近には佐切城や越方城が在るが今回は登城を見合わせて府道25号から府道19号経由で園部町から府道54号で篠山市に戻る 迂回ルートの途中。川辺大橋を渡り高屋公民館前を南に直進。正面に聳え起立する丘陵麓の武尾神社の車を置いて頭上の片山城に寄ってみた。 園部町高屋には片山城の本拠城蟠根寺城(蜷川城)が在る。
大戸側の取付き点は居館跡!!?

武尾神社(祭神:武甕槌<たけみかづち>命)の創建は室町時代末期の元亀2年(1571)とされ、建物の様式からも創建時の遺構と考えられています。所在地:高屋地区に鎮座するが 大戸地区の鎮守神。地形図からも判るが 大堰川(桂川)は武尾神社の東で大きく屈曲している。治水が万全でなければ?洪水時は逆流による氾濫で、水害が絶えなかったと思われ、 その為:
片山城:尾根側南端の主郭側土塁と堀切

氏神を大戸地区西方の丘陵裾の高屋地区に遷移し祀られた様です。 本殿は一間社流造・柿葺(コケラブキ)で享保19年 (1753)と安永6年(1777)の改修されているが全体に室町時代末期建立時の 古材が良く遺されている遺構として 京都府登録文化財指定 (昭和56年)されています。特徴としては:あまり類例のない形の木鼻や、
片山城主郭と低土塁(仕切り土塁か?)

初原的形態を示すとみられる極めて緩やかな曲線の海老虹梁(柱間に架け渡した梁の一種で母屋<身舎>と向拝を繋ぐ部材が湾曲している形を虹に見立てて 虹梁とも呼ばれる)が挙げられています。武尾神社裏山には高屋の蟠根寺城主(蜷川城)蜷川氏の支城とされ現地代官片山氏の大戸城(片山城)が在る。 片山城へは武尾神社背後から直登しょうと思ったが
片山城主郭から堀切と副郭(北郭)の大土塁

高屋側の車道に廻っても・猪鹿除フエンスにグルリと囲まれ、 おまけに崖状の激急斜面。東側車道沿い民家の先の開閉フエンス上に果樹か畑地跡らしい台地と 小屋が建つが厳重過ぎて?フエンス扉の開閉に手間取りそうなので一つ先の扉へ移動。台状に石仏と一基墓碑がある。泥濘む畑地を小屋側に戻り背後の3m程の急過ぎる段差を木の根や下草を掴んでズリ上がる。
土橋付き堀切と副郭(北郭)大土塁

此処は片山城の東斜面下・谷間の出口付近で堀状の深い溝谷向いにも高い段差・広く削平も綺麗な平坦地が有る。広い平坦段は城主の館跡か?。 旧園部町域の大部分が船井荘として北野社領地に属していたが、川辺地区(岡田・高屋・船岡・大戸・越方・佐切等)は桐野河内郷
<京都北野社領・三条西家領等の他領もあった>に属し
片山城副郭の三段曲輪

室町幕府直轄領として足利氏譜代の家臣:伊勢氏が知行し戦国時代も将軍の供御料所としての守護不入地だった。伊勢氏の家臣が蜷川氏。管領細川家の内紛に文明 9年(1477)守護代:内藤元貞(八木城)の被官人が違乱、天文3年(1534)には波多野秀忠(八上城)の被官人:荒木清長が天文15年(1546)旧桑田郡の宇津次郎左衛門尉が違乱しているが
片山城:再下段曲輪から 二段目曲輪南面切岸

将軍足利義昭を奉じて永禄12年(1569)上洛した織田信長は伊勢氏に安堵しており最後まで伊勢氏領として続きます。佐切城と片山城が大堰川を 挟んで東西に位置しているが保津川 ・桂川へと京の都に直結する水運と山陰道の要衝・監視には重要な要地ですが 大戸城(片山城)の築城時期や城主 :片山氏についての城史は
佐切城(B)南先端の物見台!?

不詳急峻な南北に延びる尾根上の先端部約 100m程の城域には主郭前後を遮断する堀切・大土塁・曲輪等遺構の残存状態は良く、尾根上は雑木や下草に覆われる事もなく、城郭遺構が観察出来るのは嬉しい。谷筋を詰めると城址と平行に南方の尾根に向かうので早めに 右手斜面に取付くと、城域の南端堀切(高低差4-5m)外側の土塁?(土檀)に着く。堀切を越え大土塁を主郭 (幅約20mX長さ40-50m程と長く、
越方城(送電線鉄塔)から桂川流域と中央右に片山城

北方には低土塁(仕切土塁か?)をみる。主郭北端の堀切(高低差5m程の土橋付き )の先にも状態の良い大土塁を敷設する副郭(北郭)が曲輪3段を連ねる。先端曲輪からも急斜面なので副郭側へ、少し引返して急斜面をトラバース気味に屋敷跡下方の取付き点小屋の後方に降り立った。
(現地武尾神社案内板 丹波の荘園 等を参照)

佐切城と越方城

佐切城 xxx山 180m   南丹市園部町佐切殿田・坊ヶ谷
越方城  xxx山 ca230m 南丹市園部町越方水口

南丹市八木町室橋周辺に新庄・野条・畑中 等各城址を廻った後、船井神社から府道25号に出て桂川(大堰川)沿いに北上する。八木町船枝から園部町佐切に入ると、桂川は府道沿いを離れ大きく屈曲し500m程先で再び並走する。桂川を挟んで西には高屋の蜷川氏の蟠根寺城支城とされる片山城が在る。 以前に片山城を訪れた帰路に高屋公民館から川辺大橋を渡り府道25号に出たが、八木町側から佐切に入って此の川辺大橋迄の中央付近から北方の丘陵上に佐切城(B支群)が在りました。
佐切城 :南曲輪の土橋付き空堀?地形

園部町史等の地誌に名称程度は記載されているかも知れないが未確認。築城年代や城主等城史は一切不明ですが、 京都府の埋蔵文化財包蔵地に”佐切城跡B支群”として載せてある。片山城訪城の後で佐切城の存在が判り、前回:西田城・刑部城・新庄城の後に訪城を予定していたが、 登城口の府道側駐車スペースは運悪く・車道沿いの送電線工事らしくガードマンも出て通行規制・工事車で一杯で諦めて通過した。
片山城:長い北曲輪先の竪堀・片堀切?地形

今回未訪となったが佐切城A支群が佐切城ヶ谷と八木町船枝の 町境の山頂部を城域としている様なので機会が在ればトライしてみたい。佐切城への取付き点は集落内・府道25号脇に広い駐車スペースが有り、北端の民家側(うるさく吠えまくる飼い犬が鎖いっぱいで道まで飛び出してきて吃驚する)からの道を入ると、向の建物<木工等?のxx手造り工房>との間から 激急斜面に踏み跡を辿れば、
主郭東下段の帯曲輪

直ぐ上部の出曲輪?に着く。一段だが20mx5m程と広く削平も丁寧。足下に府道 25号と大きく蛇行する桂川(大堰川)を望むが、樹木の間からは対岸の片山城も確認出来る物見台。佐切城の北方・約700mには越方城 が桂川を挟んだ西には蜷川氏本拠?の高屋城(蟠根寺城・蜷川城)が在る。南に片山城 ・西に千妻城・北方のJR船岡駅周辺には諏訪山城・太鼓山城藁無城 其の東谷向いには高山城・二つの城の奥には河谷城(林道工事等によるものか京都府遺跡には消滅とあるが未確認)
主郭北切岸下部の上り土塁状と空堀状?

…等の高屋城城砦群が点在しているが築城時期や築城目的・城主等の城史に関しては殆どの城址が詳細不明です。急斜面上に土橋付き空掘状のある南郭と南北約50m程の主曲輪切岸下部を北から東面・西面にも帯曲輪を廻し、尾根続きの北面には片側に空掘状のある土橋というより?上り土塁状や曲輪周囲には自然地形とも見えるが竪堀もある。 ただ西斜面下部にみる平坦部や竪掘状は自然地形か?。
東帯曲輪北尾根筋側からの主郭切岸

主郭北の尾根続きにも長い緩斜面先端が細くなり片堀切状地形を観るが、北郭とするには城域が広くなり過ぎる様?で、自然地形の成せる技なのか?。桂川の通船や川沿いに日吉方面から八木町や亀岡方面への要衝監視を任として築かれた7-80m(南郭・主郭で 北郭の片堀切は山道かも?)を城域とした中小規模の城塞と思えた。未訪の佐切城A支群が284mピークからB支群にかけて尾根筋(府道25号線と桂川沿い)に”支群?”として直下の街道筋監視・警護の曲輪群を点在させているのかも知れない?

越方城 xxx山 ca230m 南丹市園部町越方水口

新庄城北麓から桂川(大堰川)沿いに府道25号を園部町に向かって北上する。以前に訪れた 片山城からは高屋公民館の先で右折して桂川に架かる川辺大橋を渡り府道25号に出ると、右折し約300m程南下すると 佐切城(B支群)、左折して約250m・佐切城の在る丘陵裾を廻り込んだ所で、
越方城山麓曲輪跡?にある古い石碑・石仏群

北西丘陵裾を越方集落へと府道25号と並走する田圃の中を走る狭い地区道に入る。集落への分岐点から集落を通ってまた府道25号に合流するまでの車道に駐車スペースは無く、府道を越え桂川に向かう田圃の中に鎮まる若宮八幡宮(御祭神は応神天皇)と隣接する公民館が利用出来るのではと、側まで寄ってはみたが駐車余地は無さそうで… 其のまゝバックで府道まで引き返す羽目になった。
主郭北面:尾根続きの土橋付き堀切

麓から丘陵上に向けて延びる送電線の鉄塔が見える。稜線上の送電線鉄塔(新綾部園部線No.26)の南側30m程に位置するピークに越方(おちかた)城が主郭を置く。…とは云っても主郭の南斜面上に2‐3段の帯曲輪・腰曲輪を並べるだけの 残存遺構の状況は別として・こじんまりとした城域およそ南北に100mはある中規模の城址です。鉄塔から尾根筋北へ城域を拡大して延びているとは思えないが、 佐切城・越方城ともに築城時期や城主等の城史は不明で、浅い堀切と土橋・切岸も余り高くはない主郭から尾根続きの防禦不足に砦規模のものと推測するが鉄塔位置が物見台としては適所だ。
越方城:送電線鉄塔そばの土橋付き堀切?

眼下正面に府道25号と 桂川に架かる川辺大橋と 片山城(大戸城)が望まれる。主曲輪背後の尾根続きを土橋付き堀切で遮断、其の南続きには自然地形のままで不整備な曲輪や土塁と観れば 鉄塔との間に土橋付堀切を観る。鉄塔建設の造成に因るものとも思われますが、鉄塔位置は設備建設以上に広いスペースが確保されており 削平の為の造成による掘り残しの残土はあっても、資材置場確保の為の土採りにより尾根両サイドを 掘り切ったとは思えない?。城址へは府道 25号線から分岐する地区道から望む尾根上の
主郭南側の帯曲輪と上り土塁虎口(右端)?

送電線鉄塔に向かって山麓の鉄塔横から、鹿猪除けフエンスを越えて入山する巡視路が山上まで続くので此れを利用する。入山して直ぐに2‐3段の曲輪状平坦地形がある。相当数の石佛や五輪塔の残欠・一石五輪塔等の石塔群が集められている箇所を通過。石塔群はキッチリ並べられているが大方は土砂や落葉に覆われており、 相当古くに集められ・また放置されてきた様子。巡視路階段道が終わり緩斜面に移ると、上方に高くはないが曲輪切岸を観る。
越方城:主郭北東面の土塁線?

此の曲輪も広いが次の帯曲輪も広く正面先に見る上り土塁?虎口状を主曲輪に入る。どの曲輪内も地表面は荒れており低い段差が土塁や 一曲輪の区画を示すものか判断は出来ないが、主曲輪から見る下段の曲輪や主曲輪からの尾根続き北東側の土塁檀(櫓台?)や僅かな低土塁線や土橋付き堀切が城遺構として確認出来た。



園部城(園部陣屋・薗部城)  小向山(小麦山) 174m   南丹市園部町小桜  京都府文化財指定

JR園部駅から天神山(236m)の山裾を回り込むように園部公園へ向かうと平成4年にオープンした白亜の天守閣も眩い園部城が見えてきます …園部を始めて訪れる人は園部城だと誰しも信じることでしょうね!!。この城は天守の櫓を持たず、城門は枡形では無く御殿玄関に直結されているので 園部陣屋とも呼ばれています。城跡の背後にある小麦山(小向山174m)の東山麓には明治維新後もなお櫓門・巽櫓や三層の櫓が築かれ日本で最後の築城となったのが園部城。
生身天満宮

城址に建つ園部国際交流会館を園部城と間違う人も多いかも?。主要部は府立園部高校の敷地内で遺構の櫓門と巽櫓(郷土館になっている)残され往時を偲ばせていますが、 殆んど論議の話題にもされないが中世の園部城は小麦山山頂部に在ったとも云われる。園部城の南方200m程にある生身天満宮の祭神は 死後に太政大臣正一位を贈られた菅原朝臣道真公で元・小麦山(小向山)にあって天神社・天神宮と呼ばれていましたが 園部城 築城後の承応2年(1653)現在地に遷座されたと伝えられます。
園部高校の正門になっている 表門と郷土館の巽櫓

延喜元年(901)宇多天皇と親密だった右大臣・菅原道真は左大臣・藤原時平等は宇多天皇(31歳)を上皇として隠居させ、 醍醐天皇を即位させ策謀をもって京を追われ、大宰権師として九州大宰府に左遷させられます。道真の領地園部の代官武部源蔵 (当社宮司家の初祖)が道真の八男慶能君の養育を頼まれ、当時園部小麦山にあった邸内に密かに道真公の木造を刻み、生祠として奉斎したのを創祠としたことから生身(いきみ)天満宮と称された日本最古・全国唯一菅公生前の天満宮です。
園部国際交流会館

室町時代に北野社領で有ったところから生まれた話とも思われます。 以後:将軍足利義政の命により細川武蔵守は社領等を寄進。永正13年(1516)菅領細川高国等は社頭に禁制高札(京都府指定文化財)を立て天正3年 (1575)柴田勝家も禁制高札を立てる等・手厚く守護されてきました。後に園部藩初代藩主小出吉親が但馬国・出石より園部に入封し承応2年 (1653)小麦山に築城の際、現在の地に遷座されました。
こむぎ山公園から天神山を望む

江戸時代には園部藩主の尊敬も厚く宝暦元年(1751)には5代藩主小出英持の命で生身天満宮の祭礼に華を添えようと神幸行列が再興されています。 なを武部源蔵は歌舞伎・文楽の三大名作に数えられる「菅原伝授手習鑑」の登場人物として名高く、天満宮の回廊はその手習鑑の遺業の建物と伝えられ、学問能筆の神様として崇められる菅公に学業成就、受験合格等の神徳授与を願って参拝者は回廊を廻り祈願します。
(現地案内 天満宮由緒書等を参照)
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天満宮から「国際交流会館 」の紛らわしい!!櫓風の建物目指して北方 ・高台の住宅地に向かう一本道は公園正面のシンボル(かわせみ)像の前に出る。右手に立派な石垣造りの会館、正面には庭園風の小道を登って「こむぎ山 (小向山)公園」左手に駐車場を囲むように高い切岸を見せているのが園部城の遺構が僅かに遺るのが本丸跡の府立園部高校敷地内で正門が本丸の櫓門と郷土館となっている二層の巽櫓です。
小向(こむぎ)山公園から園部国際交流会館

園部城は R9号線沿いの園部川を大きく北へ迂回させる外堀は・小向山を囲む普請によって2kmに渉る外堀とし ・陣屋と城下を内部に取り込み防禦機能・体制を整えた「惣構え」構造の城だっただけに、学校施設側の櫓門から交流会館の模擬天守側へ廻り込む高い切岸に加え、 車道を挟んだ向かいの高い石垣積みに続く宅地側も・車道を空堀とした城内?か城下を取込んだ 「惣構え」の一部と思えます。
園部高校体育館側(西)の石積残欠!?

園部城の往時の姿を求めて主要部の本丸周辺を歩いてみると校舎西グラウンド側切岸の中段部分に石積み跡が所々に見られます。家臣団の屋敷跡や堀跡は高校の西側に1直線の道路や駐車場、段差のある空地がそれとイメージ出来るが空想の世界!!??。中世園部城は 丹波八上城主波多野氏家臣荒木山城守氏綱 (篠山市の荒木城<細工所城・井串城>)が拠った?とされ小向山(小麦山173m)山頂部に三層の小麦山櫓が築かれていたと推定されています。
正門の櫓門:庇に仕える程の縦長格子と両端の方形窓?は矢狭間・鉄砲狭間か?

天正6年(1578)明智光秀の丹波攻略では滝川一益・丹羽長秀等と共に荒木氏綱が守る 薗部城を攻め・水の手を切って落としたと云う?。【注:細工所城主の荒木氏綱は 天文年間末期(1532-55)頃に園部城に拠ったと記される「籾井家日記」以外に記述資料も無く信憑性からも、小向山の築城については 疑問視されているが、細工所城落城後に明智光秀に下りた氏綱を園部城主として置いたのなら・・!!?】小出氏は関が原合戦に際し小出家存続の為 :初代小出秀政(出石城主)は長兄・吉親とともに西軍に、二男秀家を東軍に属させ秀家の活躍により秀政・吉親は許され本領を安堵されています。
園部城遺構の櫓門・番所・巽櫓が並ぶ高校正門・郷土館

元和5年(1619)但馬出石より2万9700石で国替えにより 入封した初代園部城主小出伊勢守吉親は2年を費やして小向山(小麦山174m)東山麓の台地に新城を築き、完成までを豪族小畠太郎兵衛の宍人城に逗留し此処を拠点としています。以後:小出氏は江戸時代を通じて園部から動くことなく最後の10代目城主英尚まで250余年に渡り在封し、その間一度の国替えもなく明治を迎えます。小出英尚は新政府側に付き幕末の 激動期に薩摩・
城域内に建つ園部国際交流会館

長州連合等の旧幕府軍と 明治政府の鳥羽 ・伏見の戦い(戌辰戦争)の最中、明治新政府より園部陣屋は・更に堅固な城として「大政奉還」の翌年、諸藩の廃城に逆行して 再整備するよう許可を受け慶応4年(明治元年 1868)から明治2年(1869)にかけて櫓門、巽櫓や小麦山山頂を詰の丸として篭城戦に備え、天守に相応する小向三層櫓を築く大改修を行ない、東山麓に陣屋造りの園部城を築きます。 明治以降に例を見ない国内最後の築城歴史を持つ園部城は京都に近く山陰や摂津・阪神間への要衝でもあった。
園部高校正門の本丸櫓門と番所に並ぶ郷土館の巽櫓

有事の際:明治天皇を迎える行在(あんざい)所の候補地とする為か山陰道より安芸・備後へと遷す計画に沿ったものだったのでしょうか。しかし御所が攻められる事もなく・天皇が行幸することはなく、維新は平穏の内に移行して廃藩置県(明治4年)により翌:明治5年(1872)に発布された 廃城令の対象となり役目を終え、
高校正門の本丸櫓門

官公署や民間への 払い下げで遺構・建物類の大部分は取り壊され太鼓櫓(八木町の安楽寺)等一部?は城外に移築され、園部県庁が置かれ僅かに残っていた内堀等遺構も、園部高校・園部町役場・小向山公園・国際交流会館施設の造成整備工事により 取り壊され埋め立てられます。
園部町現地案内板 及び 日本城郭大系 ・新人物往来社 を参照)


大村城と小山城(五合山城)/小山館
大村城(大村田中城)  xxx 204m   南丹市園部町城南町(大村)・城南町大門

R372号(デカンショ街道・京街道)を篠山市から府県境の天引トンネルを越えると 南丹市園部町。亀岡市へと直進するR372号から左折して園部川沿いの府道54号(園部能勢線)に入る。 国境警備監視の京都・園部側の砦:天引城<未訪>が在った所。 府道54号園部川流域の 黒田城付近までは今後にレポートしたい。黒田城下の南・園部川に架かる新黒田橋を渡り、R477号線に合流する
大村城と北尾根末端民家の長屋門

岸ノ上・横田で右折し南下する。半田川沿いに園部町半田から埴生付近( 埴生城が在った)に出て R372号線合流するR477号は園部城からは亀岡市本梅や湯の花温泉 ・豊能郡の能勢妙見に至る。また西に園部川沿い府道54号・東に半田川沿い R477号の中央部には本梅川沿い府道453号がはしり、宍人(ししうど)には園部藩主:小出吉親が元和5年(1619)に入封するが、
大村城:主尾根・東尾根の空堀状は堀底道か山道か?

園部城の築城完成を待って移るまでの間を過ごした 小出氏仮館が在ったと云い宍人館や詰め城の宍人城が在ったところ。園部城とは園部川を挟んだ 西に善願寺城が、更に西方-北方のJR船岡駅付近にかけての府道25号線:園部川が流れ出る大堰川(桂川)沿いにも 新庄・刑部・西田・野条の諸城や、此処に紹介の藁無城・ 蜷川城(蟠根寺城・高屋城)・諏訪山城・片山城・ 佐切城や越方城等々、園部城との関連は未確認ながら多くの城砦が
小山城:主郭と北の虎口曲輪?(手前に上り土塁虎口!?)

点在しています。園部城とは最も直近の南西に大村城(大村田中城)が南東には小山城(五合山城) が存在する。何れもが南北朝期に創築された城だが中世戦乱期を経て、室町時代時代・戦国時代末期の天正期:織田信長の天下布武の号令により ”丹波攻め”明智光秀により、丹波国が統制されていく諸城の史実を詳細に伝えるものは少ない様です。園部城さえ天文年間末期(1532〜1555)荒木氏綱の城といい、
小山城へは願正寺から

天正6年(1578)明智光秀の”丹波攻略”に滝川一益・丹羽長秀等と共に荒木氏綱が守る ?薗部城を攻め囲み、水の手を切りこれを降し自分の兵を置いて帰陣した(信長公記)という。「丹波の荒木鬼」と恐れられた 八上城波多野氏の重臣:山城守氏綱は多紀郡(現:篠山市)の細工所城(荒木城・井串城)城主で篭城戦 :八上城落城前の天正5年の激戦に落城。氏綱を知る光秀は帰順を勧めるが、代わりに子息の荒木氏清等一族が光秀に降り、
大村城主郭大土塁:南面切岸の土橋付き空堀

氏綱は隠退している。天正6年の園部城主は誰だったか?。丹波守護代:八木城の内藤氏と隣国:多紀郡(篠山市)の守護代クラス:八上城の波多野氏の二大勢力が干渉しあう位置関係にあっては、天正期:明智光秀の「丹波攻め」で一挙に第三の勢力に塗り変わってしまうが、内藤氏・波多野氏のどちらにつくのか、一族の命運を賭けて 領主苦悩の選択があったことでしょう!!?。
大村城:主郭から二ノ曲輪へ抜け出る塹壕状空堀
   
大村城へは園部川沿いの府道54号(園部能勢線)がR477に合流する横田交差点を(右折して)南下、半田川に架かる安岡橋を渡ると”大門交差点”で R477号は右折して西へ向かう。東方へ左折する地区道の先に見える園部高等学校・中学校が園部城跡。交差点右手・直ぐ南前の丘陵上に大村城が在った。城址への取付きはR477号線側北西麓の尾長:清泉寺、
大村城主郭から大土塁(天守台の祖型?)

南東麓の宮ノ谷:加茂神社【創建(天文3年<1534>は大村城主:田中宗長の子孫によるもの!!?】からと思えたが、 大門交差点から地区道を直進、加茂神社に行くまでの車道傍に教傅山青松寺(曹洞宗)の専用駐車場がある。墓参や法事も無さそうで駐車車輌は無く利用させていただき、 寺背後に丘陵裾を捲くように続く広い墓地の中央付近から、幅広く緩斜な長い東枝尾根を辿る。
二ノ曲輪・三ノ曲輪南面の切岸と竪堀状?

切岸は無いが僅かな段差・深さを喪った空堀状は、南北に延びる丘陵上に削平段を遺す連郭式の大村城主郭に対する東出曲輪群か?。急に尾根幅が狭くなる城域西端には屈曲して北麓へ落ち込む竪堀状をみる。林業用の山道とは思うが位置的には”大門”が園部城ではなく大村城の大手を示す字名なら、竪堀状が大手堀底道とも思える。東出曲輪域の西斜面中央付近にも浅いが長い竪堀状を見る。
三ノ曲輪より二ノ曲輪と主郭

主尾根筋に出るが城遺構らしいものは何も見ない緩衝帯!!…が、突然目前に主郭の大土塁が現れる。 切岸は高くも無いが残存状態の良い土橋付き空堀がある。丘陵部最高地点に主郭(約10u)を置くが、南端の土橋付き空堀側の大土塁(土壇)は礎石が残っていたか?は未確認で、 定義を知らないが近世城郭の天守台祖型とも云われます。土壇・主郭の東側には武者隠しの様な塹壕・空堀が
三ノ曲輪からの北尾根沿いの長い空堀!!?

北へ一段下部の二ノ曲輪(約20u)に抜け出て、三ノ曲輪(北へ突き出す部分もあり歪だが更に大きく約20X30m程)へと約5-6m程の切岸で並ぶ。三ノ曲輪北斜面は10m以上の急斜面下から 北へ延びる緩斜面に沿って竪堀(空堀道か?)が真っ直ぐ下り、途中から屈曲して谷間麓まで大空堀が落ちる。北尾根先端部を集落に降り立った民家が長屋門を残す田中邸。大村城主:田中氏一族とは縁の方なのかも?。
北尾根の長い空堀から屈曲する大空堀(竪堀)が麓に落ちる

大空堀はR477号側の清泉寺と此の田中邸中間付近に落ちている様子で搦手の堀底道とも思えた。 大村城は室町前期【南北朝時代】の観応2年(正平6 1351)軍功により観応の攪乱後の恩賞として賜った?ものか、足利尊氏から木崎荘大村と新荘の地頭職を任じられた田中河内守宗長が築いた山城。以後の大村城の城史は、波多野氏の臣 :荒木氏綱が園部城主だった?天文年間頃を含めて不詳ですが、明智光秀の”丹波侵攻”が開始されると一挙形勢は明智方に傾き、田中氏一族も光秀に従ったと云う。「本能寺の変」の誘いに乗り「山崎の合戦」へと進んだものか?その後の動向も不明。



小山城(五合山城)と小山館
小山城(五合山城)  五合山248m 南丹市園部町小山東町・小山西町鍛冶屋谷
小山館(荘林館)
    xxxm  南丹市園部町小山東町谷ノ下

大村城(大村田中城)から大門交差点に出て青松寺の駐車場へ戻る。大門交差点を右折すれば目前の園部中学・高校所在地が 園部城だが、青松寺前の車道を南へ走ると京都美術工芸大学の手前:打越交差点を右折し直ぐ先の分岐を左折し、其のまま小山西町地区内の幅狭い坂道を斜上していくと小山城(五合山城)南山麓に清水山願正寺 (浄土真宗本願寺派)が在る。
小山城帯曲輪東北角:麓に小山館・園部駅も近い

車幅の車道に路駐出来そうな余裕は無いが願正寺の西北傍に 「小山西町老人会館」側に5-8台?程の駐車スペースが有り、集会等のイベントが無ければ唯一・利用出来そうだ。会館と願正寺裏手から続く山道が其のまま・小さな二つの峰を 東西に並べる独立低丘陵の鞍部に延びる。左右どちらの峰頂部へも緩斜面の尾根筋だが、西峰は雑木藪中に自然地形の平坦地が残るだけ?。東峰頂部(標高248m)には土塁囲みの主曲輪と其の外側を空堀・帯曲輪が捲く。小規模な単郭の城だが、
同上:空堀状?帯曲輪から上り土塁虎口状を主郭に

帯曲輪北東角には主郭に入る上り土塁虎口。東北に一段・更に藪に埋もれた8-10mほどの急斜面下方にも 2-3段程の腰曲輪が続いている様子。密生する雑木藪中に此れ以上の遺構確認も出来なかったが、東北下方には小山館(荘林館)が在り荘林氏の居館と”詰め城”の関連が考えられ、また大手道も東北から通じていたのかも?。只:現状の土塁囲み単郭からは此の小山城(五合山城)も城館!!?。主郭に至る願正寺からの山道も、南尾根を末端から辿っても要害とは程遠い緩斜面?、土塁上部までの切岸も高くない(精々2m程 )土塁囲みの主郭内も 曲輪段差は高さ1mもなく防備面の弱さを感じる。
小山城主郭:低段差の最上壇マウンドが主曲輪?

明確でもない 尾根筋から主曲輪内に入った東端部は 伐採された間伐材?を組んだ簡易ベンチが数箇所に設置されている。園部城下を望む展望地にあり城址公園化が推められているのでしょうか?。園部城を攻めた際の明智方の陣城か?とも思ったが山麓には城主:荘林氏の居館跡が在る!!。 小山城は南北朝期荘林采女介より創築されたという。荘林氏は平安時代の公卿で摂政関白:藤原道兼の子・兼信を祖とし、篠村八幡宮で挙兵した足利尊氏に 久下氏等と共に駆けつけ、其の後の軍功により荘林の姓と家紋を賜ったと云う。
主郭西端部を囲う土塁

明智光秀の”丹波攻略”に際に落城したというが、小山城主に大山城の中澤(中沢)氏とは一族と思われる長澤義臣の名もある。永禄年中(1558-70)八木城の内藤宗勝 (松永長頼)勢力は氷上郡(丹波市)黒井城主:赤井 (荻野)直正の反撃に大敗を喫しているが、園部町一帯に八上城:波多野氏勢力が台頭し 「籾井家日記」にいう 波多野氏七頭の旗頭衆の一として園部城の荒木氏綱の他大山城の長沢(中澤)治部大輔義遠がいる。ただ「籾井家日記」の家臣組織には三人衆に 能勢の能勢久基、七頭・七組には綾部 山家の谷大膳・ 福知山城の小野木氏・丹波市玉巻の久下氏・朝日城?の荻野氏・ 穂壷の赤井氏等の名があり、軍記として面白い!!が統治した時代との実在性からは疑わしいと思えます。
主郭西端部を囲い込む土塁 (内側は高さ約1.5m)

荘林氏は八木城の内藤方に助力したと思えますが、明智軍による落城時は波多野氏方に付いていたか?。落城後は帰農して蟄居していたか明智軍に降り従ったか?。 本能寺の後・山崎合戦には秀吉方に参軍し光秀に一矢を報いたのかも知れません?。蟠根寺城(高屋城)の蜷川氏の様に本能寺・山崎の合戦にも明智方に付いて 一族滅亡の道を辿ったか小山城落城後の城史・史実は不詳です。


小山館(荘林館)  xxxm  南丹市園部町小山東町谷ノ下

小山城(五合山城)を訪ねた際に小山館の存在を知って古豪:荘林氏が開基の徳雲寺を訪れた後・戻って春日神社背後の小山館に向かうが神社前車道・歩道も通学路として広いが路駐スペースは無さそうです。JR園部駅西口前を車道に出た通り西の切り立つ丘陵部入口に春日神社の鳥居をみる。 平安時代:口丹波の荘園は摂関家の領有地で小山東町の位置する荘園の官吏・国司の藤原兼重
小山館跡?〈最高所>から 美術工芸大学・小山城遠望(山麓を車道が抜ける)

(摂政関白:藤原道兼の子・兼信?とも=当地豪族)が荘林氏の祖とされる)により天喜2年(1054)創建されたのが春日神社という。荘林氏は 足利尊氏の篠村八幡宮での挙兵(正慶2 1333)に馳せ参じ、其の軍功により荘林の姓と家紋 を賜ったと云う。春日神社は江戸時代:天和3年(1683)現在の地に遷移されています。中世期には春日神社背後:通りを南へは見上げる急崖上部に掘と大土塁囲みの方形居館: 小山館(荘林館)が在ったと云う。
春日神社と神宮寺?背後丘陵が小山館(荘林館)だが?

同様の?土塁囲み小規模単郭の 小山城(五合山城)を詰め城とした居館セットの小山館の木戸門・番所ともなる春日神社境内が小山館の二ノ丸的存在だったか、五合山城(小山城)へは尾根続きの先端部を出曲輪(出屋敷?)とし て二ノ丸跡の名があるのか知らないが、参道の北斜面崖上(京都医療短期大学への幅狭い車道側)に通じる道の行止りに巌穴があり、水天宮が祀られてか?こんな所に !!と思える場所に湧き出る清水を溜める岩池は貴重な水場。
小山館跡の主曲輪部は通学用石段道上か?

春日神社境内自体が園部川と街道監視を兼ねた井戸曲輪か?。しかし肝心の小山館(荘林館)主郭部遺構が壊滅状態の現状から推測するだけ!!?。大村城の東麓 :青松寺前の車道を 東へ走ると小峠を越える北側丘陵部一帯に京都建築大学・京都伝統工芸大学・京都美術工芸大学のキャンパス。南側丘陵上が五合山城。坂を東に下りきった交差点を北へ左折すれば 約100m程にJR園部駅から此れ等キャンパス内への通用大手門が幅広く長い階段道を丘陵上に延ばす。
春日神社参道:神宮寺?との段差が崖状の高い切岸に見て館城の二ノ丸跡存在!?

其の階段北側の崖状急斜面上部に小山館城域跡の一部?を覗かせる。鞍部状の石階段道に大空堀が、階段東北側付近から丘陵部を残す一帯に高く幅のある土塁をコの字に囲む長方形(曲輪内部:南北38mX東西 12m)の単郭:小山館主郭部が在ったのでしょう。土塁は幅約9m・館内部からの高さ約3.5mの大土塁、南北70mX東西30m規模の 府下でも他に例のない?壮大な曲輪。其処は美術工芸大学内で石柱を複数立てたモニュメントが有る。
春日神社:下方に神宮寺? ・石段上の社務所(無人)向かいに本殿

土塁遺構を土造モニュメントに生かして 残す事は出来なかったか?。何処が主郭だったか土塁囲みの外郭らしい切岸部や 平坦地形が現最高地点にあったがキャンパス造成により城館調査後の遺構は 壊滅してしまった様です?。園部駅西・春日神社前鳥居から南へは小山城(五合山城)東山麓を直進して新興住宅街:平和台園部第二小学校北西角に「徳雲寺」の案内標識(石標)を見て左折(東入る)する幅狭い参道終点が塩田徳雲寺(曹洞宗)。南北朝期:至徳2年(南朝末期:元中2 1385)当時:此の地に勢力を張り居館:小山館と詰め城の小山城を築いて拠った当地豪族の荘林氏の開基・宗祖道元禅師九世の法孫 希曇(きどん)和尚を開山として創建したと伝えられる。
現:最高所付近境界の平坦地形

末寺34ヶ寺 (嘗ては42−48ヶ寺)を擁して寺格も高く園部藩内の曹洞宗の本山として栄え、京丹波町市森滝見の玉雲寺 須知城主須知出羽守慶吉が梵清禅師を開山に創建した)・園部町仁江甲溝畑の龍穏寺と共に「船井の三うん寺」<南丹市八木や園部は旧船井郡内>と称される口丹波地方の名刹です。またJR吉富北・R9号線八木町室河原から園部町大山東町の 徳雲寺の東へ越える腹切峠は八木城主内藤備前守宗勝(松永久秀の弟:松永長頼)が落城により北方へ敗走し 徳雲寺谷まで逃れて来たが追討の手が此処までまわっており、命運尽きた宗勝が此処で切腹して果てたととの伝承があり、それを不憫に思った土豪 :荘林氏が五輪塔?を立て菩提を弔ったと云う宝篋印塔が徳雲寺にもある。
現:最高所の土塁残欠?より北・西は造成による崖状

宗勝の敗死には諸説ある様ですが、永禄8年(1565)天田郡和久郷(福知山市)に侵攻するが 黒井城主:赤井(荻野)直正の反撃により壊滅的な大敗えお喫した 和久合戦により和久川に討死したともされます。徳雲寺山門(唐門)前の案内板に荘林氏の菩提寺でもあったが創建者”荘林氏”についての記述は・其の名さえ一切無く?、江戸時代(近世)初期:元和5年(1619)入封により園部藩の立藩により、 初代藩主小出伊勢守吉親はじめ歴代
園部藩主:小出氏の菩提寺 となっていること・狩野探幽の筆になる初代藩主:吉親夫婦像の事、石造り大手洗鉢には四隅に梟が彫られ・石造りの名品として珍重されている事等が羅列され、中世丹波を物語る歴史資料が数多くあって…とあり!?、
荘林氏が開基の徳雲寺だが!!園部藩主歴代菩提寺として知られる古刹

平安?中世の国人領主:荘林氏について得るものは無さそう。 小出氏菩提寺となってから?でも寛永?文化年間にかけ何度も火災に遭い現在の本堂も天保3年(1832)の再建という。藩公の菩提寺ならでは…庇護があった様。しかし現状:藩主の御廟所は佛教大学園部キャンパス内に在って徳雲寺墓所(塩田山)の中腹には 小出藩主の姫御廟所があり・室や家族の墓碑が立つのみ。

(徳雲寺の案内板 京都府埋蔵文化財調査研究センターNo121−373資料(南丹市内の城館跡…)等 参照)

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