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天正6年(1578)明智光秀の丹波攻略では滝川一益・丹羽長秀等と共に荒木氏綱が守る
薗部城を攻め・水の手を切って落としたと云う?。【注:細工所城主の荒木氏綱は 天文年間末期(1532-55)頃に園部城に拠ったと記される「籾井家日記」以外に記述資料も無く信憑性からも、小向山の築城については
疑問視されているが、細工所城落城後に明智光秀に下りた氏綱を園部城主として置いたのなら・・!!?】小出氏は関が原合戦に際し小出家存続の為
:初代小出秀政(出石城主)は長兄・吉親とともに西軍に、二男秀家を東軍に属させ秀家の活躍により秀政・吉親は許され本領を安堵されています。
園部城遺構の櫓門・番所・巽櫓が並ぶ高校正門・郷土館
元和5年(1619)但馬出石より2万9700石で国替えにより
入封した初代園部城主小出伊勢守吉親は2年を費やして小向山(小麦山174m)東山麓の台地に新城を築き、完成までを豪族小畠太郎兵衛の宍人城に逗留し此処を拠点としています。以後:小出氏は江戸時代を通じて園部から動くことなく最後の10代目城主英尚まで250余年に渡り在封し、その間一度の国替えもなく明治を迎えます。小出英尚は新政府側に付き幕末の 激動期に薩摩・
城域内に建つ園部国際交流会館
長州連合等の旧幕府軍と 明治政府の鳥羽
・伏見の戦い(戌辰戦争)の最中、明治新政府より園部陣屋は・更に堅固な城として「大政奉還」の翌年、諸藩の廃城に逆行して
再整備するよう許可を受け慶応4年(明治元年 1868)から明治2年(1869)にかけて櫓門、巽櫓や小麦山山頂を詰の丸として篭城戦に備え、天守に相応する小向三層櫓を築く大改修を行ない、東山麓に陣屋造りの園部城を築きます。
明治以降に例を見ない国内最後の築城歴史を持つ園部城は京都に近く山陰や摂津・阪神間への要衝でもあった。
園部高校正門の本丸櫓門と番所に並ぶ郷土館の巽櫓
有事の際:明治天皇を迎える行在(あんざい)所の候補地とする為か山陰道より安芸・備後へと遷す計画に沿ったものだったのでしょうか。しかし御所が攻められる事もなく・天皇が行幸することはなく、維新は平穏の内に移行して廃藩置県(明治4年)により翌:明治5年(1872)に発布された
廃城令の対象となり役目を終え、
高校正門の本丸櫓門
官公署や民間への
払い下げで遺構・建物類の大部分は取り壊され太鼓櫓(八木町の安楽寺)等一部?は城外に移築され、園部県庁が置かれ僅かに残っていた内堀等遺構も、園部高校・園部町役場・小向山公園・国際交流会館施設の造成整備工事により
取り壊され埋め立てられます。
園部町現地案内板 及び 日本城郭大系 ・新人物往来社 を参照)
大村城と小山城(五合山城)/小山館
大村城(大村田中城) xxx 204m 南丹市園部町城南町(大村)・城南町大門
R372号(デカンショ街道・京街道)を篠山市から府県境の天引トンネルを越えると
南丹市園部町。亀岡市へと直進するR372号から左折して園部川沿いの府道54号(園部能勢線)に入る。
国境警備監視の京都・園部側の砦:天引城<未訪>が在った所。 府道54号園部川流域の
黒田城付近までは今後にレポートしたい。黒田城下の南・園部川に架かる新黒田橋を渡り、R477号線に合流する
大村城と北尾根末端民家の長屋門
岸ノ上・横田で右折し南下する。半田川沿いに園部町半田から埴生付近(
埴生城が在った)に出て R372号線合流するR477号は園部城からは亀岡市本梅や湯の花温泉 ・豊能郡の能勢妙見に至る。また西に園部川沿い府道54号・東に半田川沿い R477号の中央部には本梅川沿い府道453号がはしり、宍人(ししうど)には園部藩主:小出吉親が元和5年(1619)に入封するが、
大村城:主尾根・東尾根の空堀状は堀底道か山道か?
園部城の築城完成を待って移るまでの間を過ごした
小出氏仮館が在ったと云い宍人館や詰め城の宍人城が在ったところ。園部城とは園部川を挟んだ
西に善願寺城が、更に西方-北方のJR船岡駅付近にかけての府道25号線:園部川が流れ出る大堰川(桂川)沿いにも
新庄・刑部・西田・野条の諸城や、此処に紹介の藁無城・
蜷川城(蟠根寺城・高屋城)・諏訪山城・片山城・
佐切城や越方城等々、園部城との関連は未確認ながら多くの城砦が
小山城:主郭と北の虎口曲輪?(手前に上り土塁虎口!?)
点在しています。園部城とは最も直近の南西に大村城(大村田中城)が南東には小山城(五合山城)
が存在する。何れもが南北朝期に創築された城だが中世戦乱期を経て、室町時代時代・戦国時代末期の天正期:織田信長の天下布武の号令により
”丹波攻め”明智光秀により、丹波国が統制されていく諸城の史実を詳細に伝えるものは少ない様です。園部城さえ天文年間末期(1532〜1555)荒木氏綱の城といい、
小山城へは願正寺から
天正6年(1578)明智光秀の”丹波攻略”に滝川一益・丹羽長秀等と共に荒木氏綱が守る
?薗部城を攻め囲み、水の手を切りこれを降し自分の兵を置いて帰陣した(信長公記)という。「丹波の荒木鬼」と恐れられた
八上城波多野氏の重臣:山城守氏綱は多紀郡(現:篠山市)の細工所城(荒木城・井串城)城主で篭城戦
:八上城落城前の天正5年の激戦に落城。氏綱を知る光秀は帰順を勧めるが、代わりに子息の荒木氏清等一族が光秀に降り、
大村城主郭大土塁:南面切岸の土橋付き空堀
氏綱は隠退している。天正6年の園部城主は誰だったか?。丹波守護代:八木城の内藤氏と隣国:多紀郡(篠山市)の守護代クラス:八上城の波多野氏の二大勢力が干渉しあう位置関係にあっては、天正期:明智光秀の「丹波攻め」で一挙に第三の勢力に塗り変わってしまうが、内藤氏・波多野氏のどちらにつくのか、一族の命運を賭けて
領主苦悩の選択があったことでしょう!!?。
大村城:主郭から二ノ曲輪へ抜け出る塹壕状空堀
大村城へは園部川沿いの府道54号(園部能勢線)がR477に合流する横田交差点を(右折して)南下、半田川に架かる安岡橋を渡ると”大門交差点”で
R477号は右折して西へ向かう。東方へ左折する地区道の先に見える園部高等学校・中学校が園部城跡。交差点右手・直ぐ南前の丘陵上に大村城が在った。城址への取付きはR477号線側北西麓の尾長:清泉寺、
大村城主郭から大土塁(天守台の祖型?)
南東麓の宮ノ谷:加茂神社【創建(天文3年<1534>は大村城主:田中宗長の子孫によるもの!!?】からと思えたが、
大門交差点から地区道を直進、加茂神社に行くまでの車道傍に教傅山青松寺(曹洞宗)の専用駐車場がある。墓参や法事も無さそうで駐車車輌は無く利用させていただき、
寺背後に丘陵裾を捲くように続く広い墓地の中央付近から、幅広く緩斜な長い東枝尾根を辿る。
二ノ曲輪・三ノ曲輪南面の切岸と竪堀状?
切岸は無いが僅かな段差・深さを喪った空堀状は、南北に延びる丘陵上に削平段を遺す連郭式の大村城主郭に対する東出曲輪群か?。急に尾根幅が狭くなる城域西端には屈曲して北麓へ落ち込む竪堀状をみる。林業用の山道とは思うが位置的には”大門”が園部城ではなく大村城の大手を示す字名なら、竪堀状が大手堀底道とも思える。東出曲輪域の西斜面中央付近にも浅いが長い竪堀状を見る。
三ノ曲輪より二ノ曲輪と主郭
主尾根筋に出るが城遺構らしいものは何も見ない緩衝帯!!…が、突然目前に主郭の大土塁が現れる。
切岸は高くも無いが残存状態の良い土橋付き空堀がある。丘陵部最高地点に主郭(約10u)を置くが、南端の土橋付き空堀側の大土塁(土壇)は礎石が残っていたか?は未確認で、
定義を知らないが近世城郭の天守台祖型とも云われます。土壇・主郭の東側には武者隠しの様な塹壕・空堀が
三ノ曲輪からの北尾根沿いの長い空堀!!?
北へ一段下部の二ノ曲輪(約20u)に抜け出て、三ノ曲輪(北へ突き出す部分もあり歪だが更に大きく約20X30m程)へと約5-6m程の切岸で並ぶ。三ノ曲輪北斜面は10m以上の急斜面下から
北へ延びる緩斜面に沿って竪堀(空堀道か?)が真っ直ぐ下り、途中から屈曲して谷間麓まで大空堀が落ちる。北尾根先端部を集落に降り立った民家が長屋門を残す田中邸。大村城主:田中氏一族とは縁の方なのかも?。
北尾根の長い空堀から屈曲する大空堀(竪堀)が麓に落ちる
大空堀はR477号側の清泉寺と此の田中邸中間付近に落ちている様子で搦手の堀底道とも思えた。
大村城は室町前期【南北朝時代】の観応2年(正平6 1351)軍功により観応の攪乱後の恩賞として賜った?ものか、足利尊氏から木崎荘大村と新荘の地頭職を任じられた田中河内守宗長が築いた山城。以後の大村城の城史は、波多野氏の臣
:荒木氏綱が園部城主だった?天文年間頃を含めて不詳ですが、明智光秀の”丹波侵攻”が開始されると一挙形勢は明智方に傾き、田中氏一族も光秀に従ったと云う。「本能寺の変」の誘いに乗り「山崎の合戦」へと進んだものか?その後の動向も不明。
小山城(五合山城)と小山館
小山城(五合山城)
五合山248m 南丹市園部町小山東町・小山西町鍛冶屋谷
小山館(荘林館) xxxm 南丹市園部町小山東町谷ノ下
大村城(大村田中城)から大門交差点に出て青松寺の駐車場へ戻る。大門交差点を右折すれば目前の園部中学・高校所在地が
園部城だが、青松寺前の車道を南へ走ると京都美術工芸大学の手前:打越交差点を右折し直ぐ先の分岐を左折し、其のまま小山西町地区内の幅狭い坂道を斜上していくと小山城(五合山城)南山麓に清水山願正寺
(浄土真宗本願寺派)が在る。
小山城帯曲輪東北角:麓に小山館・園部駅も近い
車幅の車道に路駐出来そうな余裕は無いが願正寺の西北傍に
「小山西町老人会館」側に5-8台?程の駐車スペースが有り、集会等のイベントが無ければ唯一・利用出来そうだ。会館と願正寺裏手から続く山道が其のまま・小さな二つの峰を
東西に並べる独立低丘陵の鞍部に延びる。左右どちらの峰頂部へも緩斜面の尾根筋だが、西峰は雑木藪中に自然地形の平坦地が残るだけ?。東峰頂部(標高248m)には土塁囲みの主曲輪と其の外側を空堀・帯曲輪が捲く。小規模な単郭の城だが、
同上:空堀状?帯曲輪から上り土塁虎口状を主郭に
帯曲輪北東角には主郭に入る上り土塁虎口。東北に一段・更に藪に埋もれた8-10mほどの急斜面下方にも
2-3段程の腰曲輪が続いている様子。密生する雑木藪中に此れ以上の遺構確認も出来なかったが、東北下方には小山館(荘林館)が在り荘林氏の居館と”詰め城”の関連が考えられ、また大手道も東北から通じていたのかも?。只:現状の土塁囲み単郭からは此の小山城(五合山城)も城館!!?。主郭に至る願正寺からの山道も、南尾根を末端から辿っても要害とは程遠い緩斜面?、土塁上部までの切岸も高くない(精々2m程
)土塁囲みの主郭内も 曲輪段差は高さ1mもなく防備面の弱さを感じる。
小山城主郭:低段差の最上壇マウンドが主曲輪?
明確でもない
尾根筋から主曲輪内に入った東端部は 伐採された間伐材?を組んだ簡易ベンチが数箇所に設置されている。園部城下を望む展望地にあり城址公園化が推められているのでしょうか?。園部城を攻めた際の明智方の陣城か?とも思ったが山麓には城主:荘林氏の居館跡が在る!!。
小山城は南北朝期荘林采女介により創築されたという。荘林氏は平安時代の公卿で摂政関白:藤原道兼の子・兼信を祖とし、篠村八幡宮で挙兵した足利尊氏に
久下氏等と共に駆けつけ、其の後の軍功により荘林の姓と家紋を賜ったと云う。
主郭西端部を囲う土塁
明智光秀の”丹波攻略”に際に落城したというが、小山城主に大山城の中澤(中沢)氏とは一族と思われる長澤義臣の名もある。永禄年中(1558-70)八木城の内藤宗勝
(松永長頼)勢力は氷上郡(丹波市)黒井城主:赤井 (荻野)直正の反撃に大敗を喫しているが、園部町一帯に八上城:波多野氏勢力が台頭し
「籾井家日記」にいう 波多野氏七頭の旗頭衆の一として園部城の荒木氏綱の他大山城の長沢(中澤)治部大輔義遠がいる。ただ「籾井家日記」の家臣組織には三人衆に
能勢の能勢久基、七頭・七組には綾部
山家の谷大膳・
福知山城の小野木氏・丹波市玉巻の久下氏・朝日城?の荻野氏・
穂壷の赤井氏等の名があり、軍記として面白い!!が統治した時代との実在性からは疑わしいと思えます。
主郭西端部を囲い込む土塁
(内側は高さ約1.5m)
荘林氏は八木城の内藤方に助力したと思えますが、明智軍による落城時は波多野氏方に付いていたか?。落城後は帰農して蟄居していたか明智軍に降り従ったか?。
本能寺の後・山崎合戦には秀吉方に参軍し光秀に一矢を報いたのかも知れません?。蟠根寺城(高屋城)の蜷川氏の様に本能寺・山崎の合戦にも明智方に付いて
一族滅亡の道を辿ったか小山城落城後の城史・史実は不詳です。
小山館(荘林館) xxxm 南丹市園部町小山東町谷ノ下
小山城(五合山城)を訪ねた際に小山館の存在を知って古豪:荘林氏が開基の徳雲寺を訪れた後・戻って春日神社背後の小山館に向かうが神社前車道・歩道も通学路として広いが路駐スペースは無さそうです。JR園部駅西口前を車道に出た通り西の切り立つ丘陵部入口に春日神社の鳥居をみる。
平安時代:口丹波の荘園は摂関家の領有地で小山東町の位置する荘園の官吏・国司の藤原兼重
小山館跡?〈最高所>から
美術工芸大学・小山城遠望(山麓を車道が抜ける)
(摂政関白:藤原道兼の子・兼信?とも=当地豪族)が荘林氏の祖とされる)により天喜2年(1054)創建されたのが春日神社という。荘林氏は
足利尊氏の篠村八幡宮での挙兵(正慶2 1333)に馳せ参じ、其の軍功により荘林の姓と家紋
を賜ったと云う。春日神社は江戸時代:天和3年(1683)現在の地に遷移されています。中世期には春日神社背後:通りを南へは見上げる急崖上部に掘と大土塁囲みの方形居館:
小山館(荘林館)が在ったと云う。
春日神社と神宮寺?背後丘陵が小山館(荘林館)だが?
同様の?土塁囲み小規模単郭の
小山城(五合山城)を詰め城とした居館セットの小山館の木戸門・番所ともなる春日神社境内が小山館の二ノ丸的存在だったか、五合山城(小山城)へは尾根続きの先端部を出曲輪(出屋敷?)とし
て二ノ丸跡の名があるのか知らないが、参道の北斜面崖上(京都医療短期大学への幅狭い車道側)に通じる道の行止りに巌穴があり、水天宮が祀られてか?こんな所に
!!と思える場所に湧き出る清水を溜める岩池は貴重な水場。
小山館跡の主曲輪部は通学用石段道上か?
春日神社境内自体が園部川と街道監視を兼ねた井戸曲輪か?。しかし肝心の小山館(荘林館)主郭部遺構が壊滅状態の現状から推測するだけ!!?。大村城の東麓 :青松寺前の車道を
東へ走ると小峠を越える北側丘陵部一帯に京都建築大学・京都伝統工芸大学・京都美術工芸大学のキャンパス。南側丘陵上が五合山城。坂を東に下りきった交差点を北へ左折すれば
約100m程にJR園部駅から此れ等キャンパス内への通用大手門が幅広く長い階段道を丘陵上に延ばす。
春日神社参道:神宮寺?との段差が崖状の高い切岸に見て館城の二ノ丸跡存在!?
其の階段北側の崖状急斜面上部に小山館城域跡の一部?を覗かせる。鞍部状の石階段道に大空堀が、階段東北側付近から丘陵部を残す一帯に高く幅のある土塁をコの字に囲む長方形(曲輪内部:南北38mX東西
12m)の単郭:小山館主郭部が在ったのでしょう。土塁は幅約9m・館内部からの高さ約3.5mの大土塁、南北70mX東西30m規模の
府下でも他に例のない?壮大な曲輪。其処は美術工芸大学内で石柱を複数立てたモニュメントが有る。
春日神社:下方に神宮寺?
・石段上の社務所(無人)向かいに本殿
土塁遺構を土造モニュメントに生かして 残す事は出来なかったか?。何処が主郭だったか土塁囲みの外郭らしい切岸部や 平坦地形が現最高地点にあったがキャンパス造成により城館調査後の遺構は
壊滅してしまった様です?。園部駅西・春日神社前鳥居から南へは小山城(五合山城)東山麓を直進して新興住宅街:平和台園部第二小学校北西角に「徳雲寺」の案内標識(石標)を見て左折(東入る)する幅狭い参道終点が塩田山徳雲寺(曹洞宗)。南北朝期:至徳2年(南朝末期:元中2 1385)当時:此の地に勢力を張り居館:小山館と詰め城の小山城を築いて拠った当地豪族の荘林氏の開基・宗祖道元禅師九世の法孫
希曇(きどん)和尚を開山として創建したと伝えられる。
現:最高所付近境界の平坦地形
末寺34ヶ寺
(嘗ては42−48ヶ寺)を擁して寺格も高く園部藩内の曹洞宗の本山として栄え、京丹波町市森滝見の玉雲寺(
須知城主須知出羽守慶吉が梵清禅師を開山に創建した)・園部町仁江甲溝畑の龍穏寺と共に「船井の三うん寺」<南丹市八木や園部は旧船井郡内>と称される口丹波地方の名刹です。またJR吉富北・R9号線八木町室河原から園部町大山東町の
徳雲寺の東へ越える腹切峠は八木城主内藤備前守宗勝(松永久秀の弟:松永長頼)が落城により北方へ敗走し
徳雲寺谷まで逃れて来たが追討の手が此処までまわっており、命運尽きた宗勝が此処で切腹して果てたととの伝承があり、それを不憫に思った土豪 :荘林氏が五輪塔?を立て菩提を弔ったと云う宝篋印塔が徳雲寺にもある。
現:最高所の土塁残欠?より北・西は造成による崖状
宗勝の敗死には諸説ある様ですが、永禄8年(1565)天田郡和久郷(福知山市)に侵攻するが
黒井城主:赤井(荻野)直正の反撃により壊滅的な大敗えお喫した
和久合戦により和久川に討死したともされます。徳雲寺山門(唐門)前の案内板に荘林氏の菩提寺でもあったが創建者”荘林氏”についての記述は・其の名さえ一切無く?、江戸時代(近世)初期:元和5年(1619)入封により園部藩の立藩により、
初代藩主小出伊勢守吉親はじめ歴代園部藩主:小出氏の菩提寺
となっていること・狩野探幽の筆になる初代藩主:吉親夫婦像の事、石造り大手洗鉢には四隅に梟が彫られ・石造りの名品として珍重されている事等が羅列され、中世丹波を物語る歴史資料が数多くあって…とあり!?、
荘林氏が開基の徳雲寺だが!!園部藩主歴代菩提寺として知られる古刹
平安?中世の国人領主:荘林氏について得るものは無さそう。
小出氏菩提寺となってから?でも寛永?文化年間にかけ何度も火災に遭い現在の本堂も天保3年(1832)の再建という。藩公の菩提寺ならでは…庇護があった様。しかし現状:藩主の御廟所は佛教大学園部キャンパス内に在って徳雲寺墓所(塩田山)の中腹には
小出藩主の姫御廟所があり・室や家族の墓碑が立つのみ。
(徳雲寺の案内板 京都府埋蔵文化財調査研究センターNo121−373資料(南丹市内の城館跡…)等 参照)