京都・綾部の山城.U  位田城・栗城/小西城〜空山・小畑城・六反城・館城
京都:綾部市(五万図=福知山・大江山)
校歌・故郷の山 豊里西小学校廃校 ♪…綾部の西に雲過ぎる 空山のもと…♪
近畿の山城: 位田城(高城・低城・宮ノ越城)一尾城(栗城)
    
小西城 小畑城  館(たて)城と館砦
     私市丸山古墳公園(リンク先を変えました)
綾部の民話 「ぽいの餅」
バス停:井堰前から低城を望む

府道8号線(福知山綾部線)を綾部市街地へ向かう。前回寄った高津城 や東隣の甲ヶ岳(鴻ヶ嶽城)が迫りますが、今回は並行して北側に流れる由良川を渡ります。
鍛冶屋集落から 空山を望む

小さな山塊が続く峰々が、ことごとく山城と思える程の密集地ですが城名・城主・所在地・歴史と、悉くが内容希薄な所ではあります。 以前・福知山の報恩寺城から空山へ行くつもりで報恩寺城の所在不明で行けずに、綾部側の城探しがてら小西城址の点名:小西から尾根続きの空山へ向かいます。



位田の高城〜低城・栗城・小西城〜空山/ 点名:鍛冶屋〜「里山ねっと あやべ」 H15.03.23

綾部から大江町へ向かう府道9号で由良川に掛かる以久田橋を渡ると、 右手には一目で城山の展望公園と判る容の良さと 眺望が期待出来そうな高城山(位田城)と正面には一尾城(栗城)が直ぐ其処に見えます。以久田橋の東にある位田(いでん)橋の北詰めには、正面に「高城212m・低城150m絵付き案内板」がありますよ。 正面が浄泉寺で西隣にある秋葉大権現のお祭りが近いのか 氏子の方たちが参道への周辺に赤い幟を立てて準備中です。
以久田橋から位田城を遠望

府道74号線の位田橋東200m程の所に高城への ハイキングコース案内標が建てられています。寺から直接・低城(位田古城)へ登るつもりの道?が秋葉大権現への道なのですが 「高城は向こうだ・・府道へ出なくても寺の前の道を行けるよ」と教えられ、民家裏から高い段差で山裾の小さな畑地を縫う畦状の道を抜けて、正規の??登山道に合流して高城山に向かいます(AM7.45)。
秋葉神社の祭礼は4月中頃ではなかったのかな ァ?…左程急でもない山道が続き、 途中で二箇所の竪堀を過ぎると少し急斜となって尾根に出た所が陣屋跡の小広い削平地(AM8:00)。
位田橋北詰めから望む高城山

明るく開けた尾根道からは展望が期待できるが、天気が良いだけに朝から霧深く周辺は近くの樹々さえ、 白い舞台に溶け込むように僅かにその立ち姿を見せているだけです。位田城最高所(3等三角点 点名:高城212m AM8:05)は二つの曲輪を並べ「詰の丸」の上に本郭があって360度の展望です。展望が効けば綾部市のランドマークとして親しまれ、 校歌にも 謳われている四ッ尾山や甲ヶ岳・福知山城の先には粟鹿山三岳山・間近の城山(一尾城(栗城)の先には 私市丸山古墳公園それに此れから向かう空山の尾根の先には 鬼ヶ城大江山、 方向を転じては頭巾山・弥仙山とズラリ、綾部と福知山の名山が揃い踏みの眺望だが…山頂主郭南側の詰ノ丸跡に【地侍が謀反に敗れし日も遥か  高城山に今日も春の雨(綾部百人一首 塩見静子)の位田高越会による標示板が立ててある。
高城山(位田城)主郭から望む由良川と四っ尾山

位田の城山周辺では戦国期に「位田の乱」があって地侍の荻野氏 ・大槻氏が守護代・上原元秀等に抗して 攻められ1年近く持ち堪えたが落城した歴史がある。高城からの急斜面の下降で、城域は出たと思ったが、低城との途中にある平坦地形を抜けて、比高約80m程)の尾根上鞍部の堀切までにも遺構は残ります。低城(150m 西峰・西の丸 AM8:22)は西尾根に踏み跡を辿れば幾段もの曲輪を連ねているようですが2〜3段の確認して南へ明瞭な山道を下ると、最初の取り付きに選んだ浄泉寺横の秋葉大権現へ降りてきて (AM8:30)次の一尾城(栗城)へ向かいます。
低城から高城を望む

府道74号の栗附近、集落内の道は狭く駐車場所も無さそうなので JA豊里のバス停から学校グラウンドとの間を抜けて栗の明鏡山高薹(台)寺参道に出る(AM8:45)。「明鏡山」の山号は「私市(きさいち)円山古墳」に程近い場所なので古墳の銅鏡に関系するのかと思ったが栗城(一尾城)を攻めた逸見氏が 若狭高浜城主で城山公園に名所・奇勝の「明鏡洞」がある事と、その逸見氏が此処で討死していることに関連有るのではと思えます。寺駐車場から左手に山へ向かう道があり此れを辿ったが踏み跡は直ぐに切れてしまう。 登山の場合?の正解!!は集落内の道を寺から右に60m程先に進み カーブミラーのあるコーナーから未舗装林道が曲輪跡の貯水槽へ ・楽に曲輪遺構を観察しながら主郭の最高地点「点名上村4等三角点 134m」の広い削平地の雑木藪を突いて土塁で囲われた曲輪にある尾根に出てきます(AM8:57)。
低城の広い数段の曲輪から望む四つ尾山

後は一尾城(栗城)を参照してください。 次は福知山市と綾部市境界尾根の空山に向かいます。烏ヶ岳からも優美なその山容を見せていたが、その名前も良いですね。とりわけ鍛冶屋町側から裾野を広げて 山頂を空に突き出す姿は印象的です。またこの周辺に山城が集中するのも丹後を結ぶ大江町への街道筋だからでしょう。空山へは舞鶴自動車道を越えて小西城から尾根伝いに空山に向かうことにします。 奥小西バス停から西の集落を詰めると大永寺(AM10:10)「郡20番十一面観音」の札が掛かる綾部西国霊場札所のようですが、無住の寺となってからは空き番になっているのかな?。お堂横から一本の細い道が延びているように思えたが、 この道も直ぐに消え踏み跡とも獣道ともつかない藪になった。栗城と同様に北端の堀切と土塁のある曲輪に着いた。土塁の崖下から空山へ向かう前に少し周辺を見て廻ります。此処小西城(4等三角点 点名:小西184m AM10:30)の峰附近から 三坂峠へも堀切 ・曲輪等の連郭遺構を確認出来るほどの成果無く、此処へも再訪しなければ…(^^; 小西城を参照してください。(注)小西城は三角点峰184mから東へ延びる尾根上の東西に連郭式縄張りの城域をもち、185m峰に主郭を置く山城ですが、 主郭部を含み周辺の遺構調査は進んでいないようです。
奥小西の集落から望む小西城

綾部市史にもこの北方に有る小畑城については波々伯部氏について・少し触れられていますが、城史に付いては詳細不明です。 土塁の4m程の崖下を空山に向かうと、御用済みの共同TVアンテナ側を通って福知山側の報恩寺集落への峠越えの道(三坂峠 AM10:50)に出る。福知山側の報恩寺にも城址があるが、 この峠道を下った所ではないかと検討をつけており、 寄りたいが今日は綾部の山;空山ついでの城廻…!!??峠からの尾根筋、特に西(報恩寺集落側)は殆んど自然林なので明るく歩いていても心地良い。遠目にも急な斜面が続くが尾根も緩やかになると、もう山頂でピーク手前の秋葉社のお堂が見える。祭神・迦具土神を祀る裏手が空山山頂 (3等三角点 352m AM11:20)で 「頂上」標示標示の広場の隅に三角点標が建っています。 秋葉神社の卵型の小さな石の手水鉢の先に鳥居と参道…迷うことなくこの道を下る…(~ё~)
小西城主郭(185m)の東:土塁虎口

参道側からは南側が少し開けて四ッ尾山(287m)・甲ヶ岳(290m山城)が見えている。 道なりに下るが2合目の標示で尾根筋直進の細い道と谷へ向かう道の分岐となり3分程で、オレンジ色の屋根が見える慈雲山普門院(高野山真言宗・綾部西国観音霊場第16番)への車道に出た(AM11:30)。土砂流出防止保安林標識のある山道は 集落最奥の土蔵のある民家の先、普門寺手前から左手への道は此処だけの様なので取り付きは判るでしょう。鍛冶屋町へ降りてくると正面の小山が山城らしい様相なので取付点を捜て豊里西小学校【廃校となり校舎の一部は「里山ねっと あやべ」の里山交流センタとなっています】前から府道を南下して村の鎮守の 一宮神社(AM11:50)裏から入って行くと数段の平坦地や殆んど水の無い池のようなところも有る。屋敷跡だったかと手応えを感じたが直ぐに藪の激急斜面、枯れ枝さえ頼りに攀じ登り、山塊の南端の最高所に行ってみたが取り立てて何もない。
空山山頂

城山(じょうやま)は此処では無かったかと引き返し、此処にもかつては活躍のテレビ共同受信施設を過ぎ、今度は東端のピークに立つと其処が点名:鍛冶屋(4等三角点 165m)、 どうやら此処も同様のようなので再度引き返し気味に北への尾根を下り廃校の豊里西小学校裏手から消防倉庫(豊里分団第5部2班)と防火水槽の脇を車道に下りてきた(PM12:45)。鍛冶屋のT字交差点側です。素朴な民話の石碑が建っている。 民話の主は先に訪ねた小西城近く、三坂峠を越えて帰ってきたのか単純なお話ですが、場所設定も近在で符合するので綾部の民話 「ぽいの餅」を下記に紹介して・・・・一路・兵庫丹波へと帰ります。城山(ジョウヤマ)【点名:鍛冶屋165m】= 六反城アップ



位田城  一尾城(栗城)小西城 小畑城  館(たて)城と館砦


位田城   高城山 212m  綾部市位田町  高城 212m  低城 150m  古城(宮ノ越城 ) Ca80m

(注)位田城は高城・低城・古城(宮ノ越城・奥城!!)を統括して位田城と呼ばれ、一般には高城山頂部が位田城とされ ・城史も低城・古城は総括されている様?。位田橋の絵図にある低城と宮ノ越城も位置が違う様です。再訪して確認出来た古城(宮ノ越城)は 高城山からの尾根続きではなく、府道74号線の井堰バス停前東側から府立農大や大畠町側へ、谷間を抜けていく車道を挟んだ西側の丘陵上に在りました。
位田城主郭(高城山)

高城の西尾根直ぐのCa160mが低城かと思うが、尾根上に低い堀切や自然地形に近い幅狭い平坦地が数段続く。鞍部の堀切付近も土橋状や藪覆われた左右の谷には 竪堀が潜んでいるようです。高城・低城の主郭はわかっても、時代を一にする両城域を区分することは難しい様です。位田の奥城(高城の北尾根先!!)は未確認ですが、位田橋の北・浄泉寺を挟んで北に高城、バス停中位田と〜堰前間の北側丘陵を低城、バス停井堰前〜下位田北の丘陵部を位田古城(宮ノ越城)として紹介します】福知山市から綾部市に向かう府道8号線で市街地に入る頃には東北前方に高城山(位田城)の姿が望まれ自然と其の方向に進む事になる。綾部高校の手前?(西 )で大江町方面へ府道9号をとって 由良川を渡り右岸沿いの府道74号線を東に向かうと位田城麓の浄泉寺参道前です。
位田橋北詰から望む位田の城砦
<宮ノ越古城は此処からは見えず?古城が低城の事!らしい?>

綾部市街に向かう直進道路が由良川に架かる位田橋を渡って南下しますが、 橋北詰めに「高城山登山道」の絵図案内標示が立つ。高城山から直ぐ西下方の峰、尾根道を辿っていると急斜面の途中にも小さな平坦地があり、尾根の東西を堀切によって遮断されています。別郭の低城と考えます。 この低城が位田の古城であったか、宮ノ越城が古城で 後に改修されたものかは資料未調査で確認していない。更に高城山の北方にも北城の遺構が残ると云われますが今回も未走査のまま。猛烈な雑木藪に阻まれて北城も優れた縄張りの大規模城郭ながら、 特に此の城の畝状竪堀群が藪に覆われ、京都丹波随一の畝状竪堀遺構が残る山城なので、決意して踏み込んではみても充分な確認が出来ないのは残念です。 ハイキングコースとして急斜面にフィックスロープ等が設置されてはいますが、広い宮ノ越城の主郭部も曲輪に端に山道が一本通っているだけ。
観流山浄泉寺(H15/3)

この主郭1段下の曲輪付近には二重堀切と竪堀が組合わされた遺構が残る様だが、此れも探して判らず?「埋もれた古城」の悲哀を感じる。位田(いでん)城は八田川が由良川に合流する位田集落の観流山 浄泉寺(曹洞宗永平寺派:綾部西国観音霊場第12番札所)がある。浄泉寺は元:真言宗だったが「位田の乱」の兵火に逢い荒廃していたのを、慶長年間(1596-1615)久昌寺(福知山市)の二世:南渓存越大和尚により、曹洞宗として開創されたという。 寺背山に二つの峰にあって東峰・高城(高城山 3等三角点 点名:高城 212m)を中心に北城・西南約300mの低城(位田古城?のある低城山 150m)が続く。さらに谷を隔てて西へ300mばかり、氏政神社の森?附近(宮ノ越城 古城山!!)にも中世の山城遺構の特色を残す位田城址 (此処が位田古城か?)がありました。 綾部駅からは由良川に掛かる位田橋の正面に浄泉寺がある。 寺から民家上の畑の畦道を辿るか、東方の民家の路地?前に案内標識が見えるので、其処から直上していきます。
高城:墓地を抜け最初に現れる土橋付き堀切

寺から続く田畑や崖状の急斜面上に 段差をもって並ぶ墓地の平地は、 そのまま大手道を守る様に建つ家臣団屋敷や大手門跡の曲輪を思わせます?墓地を抜けて山道に入って程なく土橋付きの堀切を渡る。 以前は案内板が有ったが藪で見えなかった空堀は、立て札が無くても良く判る。 其の先10m程?で今度は竪堀を見る。当地方では最大規模の山城で竪堀・特に畝状竪堀が随所に見られるようなので、先を急いで、高城への急斜面下部の尾根の肩!「陣屋跡」へ出た。「位田の乱」での細川方の陣屋は麓の浄泉寺だったと思えるので、高城主郭部直下の曲輪が本陣跡とあり京都・八木城にもあった勅使等と謁見する館でもあったものか ?ロープ伝いの尾根続き、雑木藪に覆われた竪堀を回り込むように、 詰の丸・本丸へと最高所・三角点標石の埋まる高城に着く。
小曲輪群を浅い堀切で遮断(?区分する)の高城・低城間160m峰付近

主郭には石垣の一部も残っているらしいが見逃した。西への急斜な尾根下降途中にも空堀を経て、曲輪部の東西を堀切が遮断する低城がある。 低城は絵付き案内板にあった低城山では無く、 低城山(古城山の宮ノ越城)との間にある通信用の砦。位田古城とされるのも此処ではなく宮ノ越城のある低城山なのでしょう。縄張り図がないと説明が 判り難いと思いますので、其の位田古城に向かい更に鞍部に下ります。 幅狭い尾根筋は左右が矢竹や藪の密集で確認出来ないが、畝状の竪堀が走る土橋となっています。登り返した尾根の切岸を越えると広い曲輪に出た。此処が位田古城でしょう?。 古城跡が改修に改修を重ねた宮ノ越城なのでしょう。
宮ノ越城(位田古城)の空掘・土塁虎口(氏政神社)

高城以上に防御性・居住性を高めた曲輪群、周囲を竪堀と畝状竪堀で堅めています。残念ながら藪で殆ど確認出来ず、中でも二重堀切と畝状竪堀を 組み合わせた一段下の曲輪を探したが、場所・位置を見誤ったか確認出来ず残念な結果で引き揚げ、 道なりに下れば浄泉寺横の秋葉大権現社に降りてきます・・・(^^ゞ
位田の古城(宮ノ越城)へは、位田橋北詰めで左手目前の低城と 登山道案内の有る高城への登山口とは反対に 府道74号線を西に向うと、井堰前バス停から北へ狭い舗装車道を採る。車道は府立農大や大畠町に通じており、普通は下位田のバス停の西方で旭ヶ丘を抜ける車道を利用される筈でしょうね!!?。
浄水場裏側から:古城土塁と空掘

此の下位田バス停から細い集落内の道を古城・・というより氏正(氏政)神社への参道を進めばよいのですが…。 判り難いので、直接古城へではなく、低城から古城へのルート案内とします。 低城の南端と思われる堀底状の山道を左折して下ると浄泉寺へ降りてくるが、南尾根筋を直進すると西へ延び出す尾根先が府道に近い(2〜30m程だったかな?)民家裏手に降りて、 府立農大等へ抜ける車道を気tに向うと未舗装の広い道が、 西向かいの丘陵に向う。比高30m程の丘陵上の南部分が氏正(氏政)神社ですが、 北方には広大で平坦な畑地 ・果樹園や茶畑が拡がっています。しかし燈籠の立つ境内の参道境付近の東側の雑木藪は高さ1m程の土塁状で、外側(農場)は雑草に覆われていますが土塁沿いに堀状の窪地があり、左手の林の中は、数段・数箇所に曲輪跡らしい平坦地が有る!!?。
宮ノ越城:氏政神社背山(西南)の曲輪

尾根西端部に社殿が建ち、下位田の集落から入る参道は神社境内の北から 東面を高く切岸で防備を固めている様で、 南側に空掘・社殿への入口は高土塁で堅めた虎口が形成されています。社殿裏側にも高さ1m程だが土塁の残欠らしい高まりをみる平坦地があり、南端下部にも曲輪をみる。遺構から城域を暫定する限りは、 南側曲輪・空堀・土塁・切岸で囲まれる氏政神社の社殿が建つ郭部が主体の、 古城の名からも館城の性格の強い居城だったのでしょう?。 虎口部から北側の燈籠付近までが緩やかな傾斜の上りとなるが、 林の中に家臣屋敷が有ったものか?、後は広大な平坦地が続くだけだが、開拓・圃場整備による大規模改修の結果なのかは不明? おそらく城域外と思われますが・・??
古城(氏政神社)の東北から北西へ高い切岸を廻る

南北朝期の延元元年 (建武31336)南朝方にあった位田次郎(伊賀守)晴長が拠り、 戦国室町時代後期の延徳元年(1489)11月位田五郎兵衛晴定や荻野次郎左衛門尉父子等を首謀者として位田の城に拠った「位田の乱」が起きる。6000の軍勢に対して、わずか200人で1年を籠城して戦ったが、 明応2年(1493)3月か11月?に落城したという。4年間も続いた大規模な丹波国一揆です。乱は時の管領細川政元の家臣:丹波守護代上原豊前守元秀と父:左衛門太夫(紀伊守?)賢家【上原(物部)豊後守賢家で嫡男?の元秀が死去 :賢家は丹後守護代になっている】によって、地頭職や代官職を奪われそうになった丹波の国人衆:須知城(船井郡)須知源三・荻野氏(低城には 荻野彦六が居たという!、低城と呼ばれているが同じ位田城内の宮ノ越城の事か?)や大槻氏等が守護細川氏:守護代上原氏に対して激しく抵抗して位田城に拠ったところです。
宮ノ越城:北側は緩斜面の先に広大な農耕地が拡がる!!(正面右手に燈籠)

延徳元年(1489)11月6日守護方は、丹波国人衆の反乱鎮圧の為丹波・但馬 ・丹後・摂津等十三ヶ国の大軍をもって攻め立て、翌年には須知源三兄弟が討たれる。翌年には一揆が再発して一揆方は、七つの城に籠城して守りを固め4年もの長い間続いた戦いも、明応2年(1493)11月10日遂に荻野氏等は自ら城に火を放ち、 荻野次郎左衛門尉父子が自刃して「位田の乱」は終結したといいます。落城後は時の守護代・上原元秀が拠ったが、元秀は細川政元の傘下での 驕慢な振る舞いが多く、延徳3年(1491)?か明応2年(1493)には長塩弥六との喧嘩の傷が元で死んだという。
宮ノ越城:北側に拡がる広大な農耕地

また父:賢家は丹後 守護代になったといわれるが ?明応4年(1495)政元の馬廻り:今井某と賢家の被告人の喧嘩により両人とも死んだが、細川政元の成敗を怖れて丹波から近江に逃れ同年の大晦日に死亡したとも云われ ます。さらに永禄4年(1561)荻野肥前守が拠ったといわれ、元亀3年(1572)には明智光秀による落城を伝えます。 此れ等のことは文亀3年 (1503)楞厳寺(通称カラス寺:真言宗高野山派)再建縁起に記されていますが、守護方の陣所となった楞厳寺は、その際に破壊されたようです。
神社と農耕地の境にある土塁と空掘らしい跡!!?


延町の東光院の記録にも岡町・木租殿神社が位田の乱の兵火によって焼けた事が記されており高城一円の広い地域での 戦いで有ったことが窺がわれます。なを楞厳寺は奈良朝期・聖武天皇の天平4年(732)林聖上人の開基を伝える古刹ですが、その後の時代変遷と度重なる兵火によって、寺坊は焼失して古文書等の多くも散逸しています。本堂は元禄15年 (1703)〜宝永5年(1708)盛長法印を中興開山として建立され、宝歴8年(1758)現在の庫裏を建築して伽藍が整えられています。
(現地:位田高城会の平成2年3月案内板 楞厳寺由来を参項)

一尾城(栗城)   城山(点名:上村4等三角点 134m)  綾部市栗町上村

位田城から府道74号線を西方へ約2km、 栗町の明鏡山高薹(台)寺(曹洞宗)の裏山にあった一尾城(別名:栗城の名の方が知られている様です)は大槻佐渡守時春によって永禄元年 (1558)頃築城されたと云われています。永禄3年(1560)若狭の高浜城主 ・逸見駿河守宗近と高田豊後守等に攻められたが、客将・村上蜂之助義近が奮戦して逸見宗近を討死させています。
明鏡山>高台寺
手背後の丘陵に広がる広大な屋敷


若狭・高浜の城山公園には「八穴の奇勝」と呼ばれる「明鏡洞」があり、高台寺り山号に符号するので 此処を攻めて討死した逸見氏との関連が気になるところです。翌年・永禄4年(1561)3月:逸見昌経が同じ 武田氏被官で国吉城主・粟屋勝久と組んで「位田の乱」同様、守護武田氏に謀反し逆に落城しています。落城4年後、 昌経が新たに築いたのが現在地の高浜城ですね(余談でした・・!!)。
大手土塁虎口と横掘(一尾城家臣屋敷群)

天正年間(1573〜92)には佐渡守嫡男で、城主・大槻民部大輔が上京した留守中に赤井氏に攻められたといいます。 高台寺への参道石段の左手前から寺駐車場側への車道をとり、湿気た谷筋の道に取付きます。谷筋右手 (寺背後)の尾根筋が比較的平坦な様です。山道の3交差する地点に来てオヤッ・・・。交差部に突き出してきている尾根先は土塁!!。
大手土塁虎口部へ落ち込む大竪堀

左手から広く真直ぐ落ち込んでいる大きな谷筋は竪堀(後で気付いたが一尾城の西郭群主部の南尾根筋末端部辺りから続く長く大きな竪堀)・正面の 谷筋は此の土塁を廻り込むようにして進むが、右手(東側)の尾根筋へ入ると 削平された長い曲輪(東や南側の1〜2方に土塁を積む曲輪もある)が、高い段差で下方に幾段の拡がっているのが見える。
一尾城主郭

此の曲輪群は先の3交差地点の東:山道かと思えたのは空掘りで、 下へも数段の曲輪が有り、一帯は家臣団の屋敷跡だった様です。東西に長く延びる曲輪の中程には屋敷跡の段曲輪を二分するかの様な竪堀が南北に一本走る。 家臣団屋敷から正面の空掘状を進んでゆくと、東端の曲輪に入るが其の切岸上部が主郭となっている。
主郭北側の高い崖状の切岸(10m)

三叉路に鋭角で突き出す尾根先部は大手道の大規模?な土塁虎口を呈しています。大手道は東方へ斜上して東端曲輪に乗り、其の上部の公園の様な 平坦地が拡がる広い主郭に入る。 下草藪に覆われて遺構らしいものは何も判らない!。…が再訪した今回も3月終わり・ヤマザクラが少しほころびかけ、ワラビを見つけて、ついワラビ狩り。
一尾城:主郭〜西郭鞍部の堀切

主郭から北側へは虎ロープで降りる山道があり、下部にも腰曲輪等が有るようですが藪がひどく、 曲輪段以外の遺構は無さそう?。主郭切岸は10m程ですが激斜面の為・フィックスした虎ロープ無しでの登り返しは至難の業!!。 主郭から西尾根に続く曲輪群を見るための第一歩は 最後の藪漕ぎ!!・・・と覚悟したが、
一尾城:西郭の切岸(1.5m程)、北側には低土塁が残る

案じたほどの事も無く、それよりも次々現れる個々の曲輪は広く・切岸も高い(5〜7m)。堀切を越えると北側に低土塁が残る曲輪がある。 正面に低い段差(1m程 )の切岸を越えると、主郭に次ぐ削平段の西郭で、南下へ2段ばかり腰曲輪が並ぶ。
一尾城西郭:土橋付き堀切

下段の曲輪は小さいが西端に上り土塁が有るので、下方へ落ちる長大な竪堀は大手土塁虎口へ通じる様なので 西郭への堀底道でも有ったものか!!?。西尾根へは土橋付き堀切を渡るが、竪堀となって落ちる直ぐ先(15m程)で、西郭側からの横掘りと合流し更に竪堀となり下方へ落ちていくのが見える。
土橋から見る堀切先は横掘と合流して竪堀となる・・

前回は此処より:なおも尾根を下り続けて見ようと思ったが直ぐに集落近くへ降りてしまいそう ・そのうえスタート地点に引き返すにも遠くなりそう。尾根筋に城の遺構は無さそうだと土塁の曲輪へ引き返したが今回はとことん尾根筋を辿ってみる。 途中に数段の曲輪らしい平坦地形を抜ける。内一つは円状の曲輪の一部を低土塁が囲う。
一尾城西端の曲輪 !!稲荷神社がゴール地点

赤い鳥居と赤い小さな屋根を乗せる稲荷社の祠に出た。出曲輪跡だろうか?。下方に学校のグラウンドがあるようで、球技に興じている声が飛び交っているのが聞こえる。急な階段道を下って、 大畠町へ抜ける地区道前に下り立つ。 西向かいは愛宕神社・南側の豊里幼稚園・JAの倉庫か!!?前を通って府道74号線に出て、・・・次の目的地も有るのでスタート地点へと一目散に戻った。


小西城
   (点名:小西 4等三角点 185m)  綾部市小西町

小西城へは由良川右岸(北側 )沿いに走る府道 74号線で私市丸山古墳公園の東方で左折して鍛冶屋町へ向かう府道489号線に入り、丸山古墳下を通る私市トンネルを抜け出た所 ・489号線が自動車道高架下を抜けると、正面には六反城のある点名:鍛冶屋(165m)の南麓に建つ寺の屋根が見える。
茶畑から小西城(中央荘園)と空山(右奥)

左手の丘に墓地が見え墓地を抜ける丘陵上部から 奥小西集落へと一面の茶畠が拡がる。六反城側からなら奥小西バス停から 西の集落を詰めて、無住の大永寺(郡20番 十一面観音を祀る )裏手の急坂を登りつめた頂上から、福知山側の報恩寺へ抜ける三坂峠への東西500m程の尾根上を削平して築造されている小西城は地元でも余り知られていない様ですが、
居館跡を思わせる主郭から 南へ派生する尾根先の林中

高い切岸を持つ曲輪・堀切・土塁 ・虎口等の残存状態も良好な規模の大きな城砦です。ただ綾部市史 ・何鹿郡誌や教育委員会等による調査・詳細な情報や報告書を知らず城域・縄張りや歴史背景を調べていないが、 福知山市側の報恩寺や私市の城との関わりからは更に西南や領地支配の守備・監視の為に東(小西や鍛冶屋)側への尾根筋にも城遺構を残しているのかも知れません。
主郭西尾根に続く段曲輪:中程の曲輪の北側に残る低土塁

物部氏の本拠地物部城から南の約4kmしか離れていない此の地の領主:波々伯部氏の勢力が不明なので、 そこまで規模の大きな城域が維持可能な兵力を擁していたがが疑問ですが?!!。この城も位田城のように東西二つの峰に郭があって堀切や竪堀 ・腰曲輪を伴う本丸もあります。私が立寄ったのは空山に向かうつもりだったので、尾根上に長く広い削平地が延びる西郭部でした。
 上図の低土塁道が中央土壇の続く

主郭群の東峰へは連郭式城郭が続くようですが、またも此処へは再度訪れる結果になってしまった様です。大永年間(1521〜28)頃には京都丹波の天田郡 や何鹿郡の近在土豪等は丹波守護代:八木城の内藤氏と共に細川高国方を固めていた様で、内藤氏の勢力が此の地に及び高国の丹波侵出に伴って 内藤氏の重臣:波々伯部一族を小畑城や小西城、鍛冶屋・今田に 六反城を置き小西城・小畑城は波々伯部(源内左衛門)義信が築城したとされます。
小西城・主郭大堀切側の幅広い櫓台土塁

大永の乱【管領:高国の下にあった大永6年 (1526)丹波守護細川尹賢(ただかた)が高国の重臣:香西元盛を謀殺し 《尹賢の讒訴を信じた高国に自害させられた》、元盛の兄(八上城主波多野稙道(たねみち)と弟( 神尾山城主柳本賢治)が、細川澄元の子:阿波国守護:晴元を通じて三好元長(三好長慶の父 )等が反高国・尹賢の兵を挙げ黒井城主赤井五郎(伊賀守忠家!!)等の援軍を受けた連語軍は、神尾山城包囲の高国方の包囲網を打ち破り、 翌7年京の桂川原の戦いにも勝利し、
小西城・西側の土塁と大堀切の向かいが主郭

将軍足利儀晴や高国は京から近江国へ逃れます。八上城を包囲していた瓦林修理亮・池田弾正等も包囲を解いて退却します。乱は高国・晴元の同族間の宗家・将軍家の家督争いは丹波と京都を舞台として、地方豪族の激闘が繰り返されるようになった。幕府の中心にいた高国方に付いていた天田・何鹿等の豪族達も、享禄4年(1531)尼崎の戦い《大物崩れ》には 圧倒的に有利だった浦上村宗・高国軍も、
小西城・主郭の切岸と一段下の帯曲輪(南側)

離反した置塩城主赤松(政裕!?)晴政軍《晴政の父義村は浦上村宗の殺されている》が西宮から・三好元長軍も天王寺から攻める挟撃戦に、戦況は大きく崩れ、高国は逃れるが捕らえられて自害させられる】
〜享禄年間(1528〜32)高国方に付いていたと思われる 波々伯部氏等の天田・何鹿郡の土豪達もまた、
小西城主郭東側の虎口(土塁道)

高国が敗死し晴元が天文1年 (1532)丹波守護になり、高国側にいた内藤氏は丹波守護代を自ら辞していた頃ですが、 翌天文2年には将軍足利義晴に許され、晴元も被官として丹波守護代?に復職していますので、土豪達も既に領地を回復していたのでしょう!!。永禄8年(1565)には天田郡(福知山市)を押さえようと横山城(福知山城の前身)を攻めた黒井城主:赤井直正に対抗して、横山大膳亮を援けて、
小西城主郭・奥に櫓台付?大土塁が見える

横山城主一族とは姻戚関係にあった 波々伯部源内義信が加勢して、一度は赤井氏を追い返していますが、其の後:赤井氏の勢力下になっていた様で、 同永禄8年?横山氏と今度は、何鹿郡に大きな勢力を持ち丹波守護代内藤氏に従っていた土豪大槻氏を討っています。天田・何鹿に侵攻してきた黒井城主:荻野直正軍を阻止する為出陣した 八木城主:内藤備前守宗勝(松永長頼)は敗死し鬼ヶ城 に脱出した内藤軍も赤井氏に降していた横山・塩見・和久・牧 ・桐村氏等が攻めています。
主郭群東の土塁虎口(全景の枝で見辛い中央部)

《内藤宗勝の最後は戦死であったとされますが、 その合戦の場所等は不明だと云い、諸説ある様ですので、其の一説として推察してみてください》綾部市側では直近の 一尾城(栗城)や綾部市・福知山市境の 石原城や観音寺城・高津城(八幡山城)・鴻ヶ嶽城等大槻一族の城が ターゲットだったのでしょう?。大槻氏の城について知り得る情報は無さそうですが小畑城の前衛に位置した六反城・小西城等の波々伯部一族の支城は、上原氏の 物部城や大江町(旧加佐郡)や丹後の舞鶴市・宮津市へ通じ、
小畑城主郭:西の虎口と南下の稲荷社を祀る曲輪

また南方は福知山市・綾部市方面に通じる要衝監視の任にあたっていた城砦の一つだったのでしょう?。 天正7年(1579)8月福知山の 猪崎城主・塩見利勝(?家利)が明智光秀に降りたとき、 妻子等は実家の小西城に逃れたが城を目前にして三坂峠(報恩寺から小西に越える峠!!)で追手に討たれてしまいます。綾部民話 ぽいの餅も此の三坂峠が舞台になっているのかも?…!!
(綾部市史 フリー百科Wikipediaを参照)

小畑城(中村城・辰ヶ城?)
   xxxx Ca100m  綾部市小畑町字中

小西城から私市丸山古墳下を通る 私市トンネルを抜け出た所・車をデポした489号線と交差する自動車道高架下から正面に見える 六反城のある点名:鍛冶屋(165m)の西麓を通って郵便局のある鍛冶屋町の交差点に向う。ぽいの餅伝説石碑が立つ。 館城や物部城へ向う府道9号(綾部大江宮津線)への分岐を右に送って、
高源寺と小畑城全景(寺左の低丘陵)

曲がりクネリながら進む細くなる489号線は、小畑町の集落を抜けて伊路屋川に架かる小さな橋(六條橋)を渡る。左手には寛永5年 (1628)に再建されたという萬年山高源寺(曹洞宗・本尊聖観世音菩薩)が建ち、寺に迫る半独立した低丘陵上に中村の城(小畑城)が在りました。
祠背後5〜6m切岸上に主郭を置く小畑城(居館?)

小畑城の城史は先に小西城(上記)レポートの中程:大永の乱以降に触れているように、管領・丹波守護細川高国の丹波守護代 :内藤宗勝は (先の細川稙国の時に守護代を辞して離脱していたが稙国が死に、高国に代わる《大永5年〜享禄 4年 1525-1531》と高国側に戻り、天田郡(福知山市)への進出する拠点として、何鹿郡(綾部市)鴻ヶ嶽城を甲ヶ岳山頂に築いて一族の内藤日向守正綱を入れ、小畑城には重臣の波々伯部弾正(築城主:源内左衛門義信の事か?)xx?を置き、永禄年間のはじめには福知山の押さえとして、 鬼ヶ城にも内藤氏の一族を派遣していた様です。
祠の東から斜上する幅広の土塁虎口を主郭に入る

大江町の抜ける街道筋・南入口部の東側に六反城、西側には小西城が其の前衛を護り、其の奥地に単郭の城館・小畑城が控える波々伯部氏の三城が在る。小畑城からは西方の峰を越えれば観音寺を経て 鬼ヶ城も近い。福知山の押さえとして天田・何鹿郡界に位置して主要館城(居館)の小畑城・街道監視の砦が六反城 ・詰め城には少し遠いが、西尾根に緩衝帯?・居住空間の広い平坦地を持ち、東尾根に防御性を備えた支城として小西城を築いたものか?。
主郭北端の幅広(2〜3m)土塁を置く小畑城(居館?)

領主として此の地を守備する為なら城域の規模から見ても小西城が本城の様に思えるのですが、福知山進出の為の前線基地なら活動拠点の陣城は此処 :小畑城を居城としたもののと思えます…? 本堂南の尾根端を廻り込んで、背後の丘陵上に有る稲荷社への参詣道が延びており、右の尾根筋に削平地を見る。朽ちかけて残る鳥居をいくつかくぐり、社殿が残る主郭南下の削平段に着く。登ってきた尾根南下方にも小曲輪が2段ばかりある。祠の背後は5m程の切岸となり西側の曲輪途中からと・東端から北へ斜上する幅広い上り虎口を経て主郭に入る。
主郭北端:土塁の外に落ち込む堀切と其の北側の幅広土塁

東側の上り虎口横にも小広い腰曲輪が 二段ほど付いています。広い主郭に入ると藪と化した畑地の跡の様に、僅かに砂地をみせる荒れた平坦地に、小さな段差や土塁の高まりを確認は出来ませんが最北端には高さ1m・幅1〜2mの土塁が横たわる。その北側には高低差7〜8m程の堀切があり 幅3m程の分厚い土塁となる。其の北方への斜面下にも堀切状があるが、半独立部を形成している最低鞍部で、幅広すぎて堀底も深くないところからは自然地形で、地元で畑や墓地への通路として東西へ渡る生活通路として利用されているだけの様に思えます。

館城と館砦
館城
(栗城)   城山(石根山? 80m)    綾部市館町石根山小字城の段

今日向かった館城とは一般的に云う?豪族が住居とした居館と城砦機能を兼ね備えた「館城」ではなく綾部市館町の館(たち)城の事です。 R9号線から府道8号または府道74号線経由で府道9号(綾部大江宮津線)に入る。舞鶴若狭自動車道高架を抜ければ館町。府道に花の寺・カラス寺で知られ た”楞厳寺へ”の看板を目印に狭い集落内を進むと「赤国神社」に着く・鳥居横のお堂前に集まっておられた地区役員さんらしい?人達に尋ね「城の段」字名だが「行っても何もないだろう」との返事。
館城を取り巻く空堀に(数箇所に敵の動きを遮る仕切土塁もある

街道監視の城との思惑は誤りだったのか?。城史に関する情報は殆どなにも得ていないが丹波市の岩倉城と並べて館城の縄張り図が雑誌「丹波史 」(丹波史談会だったか丹波懇話会」の発行だったか?)に載せてあったのを思い出した。城域を包みこむ様に空堀が取り巻く、その空堀内には敵兵の連続した動きを遮るために数箇所の仕切りがあるという。まだ見たことが無いが其の発展形が障子濠なのでしょうか?。気になる遺構をこの目で是非確認したいと福知山市と綾部市境の石原城に寄ったついでに、由良川を挟んだ北側の館城へ再び向かった。府道9号線(綾部・大江・宮津線)で舞鶴自動車道の高架を潜ると館町です。
空堀東の仕切り土塁(中央)

赤国神社は猿田彦命・天鈿(宇須)女命(あまのうずめのみこと)・天津彦彦火?? 杵尊【瓊々杵命(ににぎのみこと)】の三神を祭神に祀る何鹿郡(現:福知山市の一部と綾部市 )延喜式内社十二座の一社で、神社は当初:稲葉山の宮の段に奉祀されていたが関ヶ原合戦の余波か?慶長5年 (1600)兵火にかかり類焼し現在地に移ったという。 先日:丹後の安良城を訪城したばかりだったので、細川藤孝が徳川家康に付いて宮津城を焼き田辺城に籠もり西軍を迎えた事と関連有りそうです。
赤国神社本殿

館城の城主が石川氏である事も丹波より丹後の、もと一色氏配下にいた石川氏と関連深そうだと特異な縄張りからも思ったが …空堀を仕切って移動を抑える縄張り遺構が、周辺の城や丹後方面の平城等にあるのかどうかは、丹後方面は山城の安良城が初めてなので 未だ他の城を調べてもいないのでわからないが(^^ゞ。社宝に神輿に附する銅製の鳳凰「文の鳥」があり正和3年(1314)xxx源光高の銘が有るといい市指定文化財となっています。境内(元の宮ノ段の事か?)から発見された八稜鏡は藤原期の作だとある。
空堀の仕切り土塁は高い切岸に阻まれ土橋ではない!!

探していた館(たち)城は地道を隔て目と鼻の先 50m程の藪山に有った。先日聞いた「城ノ段」は稲葉神社の祠が建つ「宮ノ段」の事だったのか。大正年間、当社近隣での石斧、鉄滓、土器の発見が当地方考古学研究の先駆になっといいます。府道9号線(綾部 ・大江・宮津線 )から赤国神社前を通り、花の寺:楞厳寺へ向かう車道に沿って見残した丘陵南端部を目指します。民家の切れた先の地区道横の畑地を隔てた藪山が見える。
西郭(U郭)西下部の帯曲輪端:外殻の土塁と空堀

雑木藪で見えなかったが池沼跡?の様な処を越えた先・比高30mもない丘陵上に 館城がありました。斜面を少し登ると西面から南面にかけて空堀が切れる部分だったが、北方に延びる見事な空堀が構築されているのが目に入る。丘陵部の南端から西・北 ・東の部分を掘り込んで主郭(T郭)と副郭(U郭)・其の下段に 空堀の外側を囲い込む土塁を繋ぐ帯曲輪が城域を包み込む、三段構成になっている様。城域の周囲を廻る空堀(横堀)・と土塁。特に北から東面の高い切岸と 深い堀切で防備し、城域を遮断し曲輪を確保しています。空堀内には侵入してきた兵の移動を阻止する目的で堀底内には仕切り土塁や高い(深い)段差を設けた部分が4箇所程ある。南側へ廻るほど堀底は深くなるように思えた。
主郭北東面の大土塁を積む高い切岸下の空堀と外殻の堀残し土塁

空堀に囲まれた植林の中の城域内の主郭は 北端から南東端へは高い切岸と深い空堀が廻り分厚い土塁で堅める。 櫓台も有ったかも!!。南西下段の副郭の間・切岸約3m程の段差の裾を空堀が走る。主郭南端部も切岸上は櫓台か守衛の門跡か?。 一折れして主郭に入る土塁虎口状。副郭も高さ1mも無い低土塁だが西面から北面にかけてコーナー部をカバーして土塁を廻し、 南端で土塁が切れるところが下段帯曲輪との平入り虎口。外部から入れる通路は此処だけの様。 城主は石川氏が丹後:一色氏配下の石川氏と縁故なら、
南郭(副郭)南東の虎口土塁と下段の帯曲輪

織田方についた細川藤孝には丹後攻めで滅ぼされたと思えるので、関ヶ原合戦が起こった際には、西軍についた 福知山城主 :小野木縫殿介重勝(別名:重次で妻は島左近の娘なので当然・ 石田三成の西軍!!)が織田上野介信包(柏原藩主)・別所豊後守吉治(綾部城主)・谷出羽守衛友 山家城主・小出出羽守吉政出石城主藤掛美作守永勝(上林城) ・川勝右衛門尉秀氏(美山町の島・中村等の城にいたか?関ヶ原合戦翌年には黒井城 にも入っている)・山崎左馬介宗盛?(三田城)等と共に、
副郭:主郭切岸下に空堀

田辺城に籠もった細川藤孝攻撃に参戦した領主に石川備後守貞通?の名が見える。同じ備後守だが京都山城国に領地を持つというので直接、 館城に関係する人物では無さそう?。永禄年間(1558-70)既に”石川備後守”の城だったとされる館城ですが、豊臣秀吉より天正年間 (1573-92)天田郡(現:福知山市 )2000余石を領して知行したが、関ヶ原合戦(慶長5年<1600>)で小野木重晴?に滅ぼされたとする石川氏とは?。
主郭・副郭間の空堀:副郭の西〜南面を囲う低土塁

宮津への街道筋を睨むには位置が余り適所とも思えず、 城域の北と東側からの攻防を意識している様子からは、位田や栗城方面からの侵攻に対処していたのでしょうか ?しかし位田の乱以後のこの時期にどの様な勢力があったのかは不詳?石川氏は横山城の塩見大膳配下に居り、 明智光秀以降の福知山城では其の傘下に入って杉原氏 ・青山氏そして小野木重勝へと仕えていたものか? 田辺城攻めの際、
主郭北端から東へ延びる大土塁

圧倒的有利の中で侵攻した西軍に対抗して、此処に陣城を置いたとも思えず・・また:城域東側に送電線鉄塔の建つ所には 鉄塔工事にしては広すぎる平坦地。北方にも巡視路?先の竹薮を抜けた丘陵部も樹木の無い広い平坦地形。郷土史・城史・年表等を念入りに 調べる必要があるのでしょうが…此処は城郭の専門家や郷土史研究家にお任せです。


石川備後守城(仮称:館砦)
小野木重勝について田辺城を攻撃した丹波の谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏等は、重勝が関ヶ原合戦に西軍敗北に田辺城から撤退し福知山城に戻った後、 細川中興が福知山城を攻めた際には細川方に加わって小野木重勝を攻め開城させますが、石川氏については不詳のままの館城ですが…赤国神社に戻ってきた時、 地元に人との立ち話で聞き込んだ小さな砦が在るというので探しに向かった。 
古墳の墳頂部の様な館砦上の祠は石川備後守を祀る祠だろうか?

この城の出城とも街道監視・物見の砦だったと思える遺構が其のまま府道 9号線を挟んで西側に建ち並ぶ民家の中を抜けて行く。一段と低くなった西方一帯は、空山から南に延びる尾根先にある私市丸山古墳へと福知山市境界まで平野が拡がります。県道に沿うように南北に平行に住宅地が並び、その西は10m近い段差となっています。其の中程に古墳の様に盛り上がる小丘が民家と田圃が拡がる段差の境に有る。民家西に堀を隔てて四方形の田と此の丘が物見の小さな砦、田の方も土塁囲いの 曲輪の残欠が西側にだけ残っているように思えた。
館砦の南側の田も曲輪跡か?西面は土塁か?

余り広くない物見台状の頂部には祠が祀られ 「石川備後守城跡」の白い標柱が立てられていた。城遺構に比して・人物像がいま一つ良く分からないまま引き揚げたが、館城主:石川備後守:石川氏一族をお祀りした祠なのでしょう。府道9号線筋と変わらない標高なのに段丘から西に眺望が拡がる。 関ヶ原合戦に石川氏を滅ぼしたという敵将:小野木重晴の福知山城?へ通じる街道は、西陽(にしび)で光り白んだ見えないが、其の先を…祠の主は遠く見据えているのでしょうか?
(現地 赤国神社案内板・フリー百科 「ウィキペディア」・綾部史誌等を参照)

「ポイの餅」   綾部の民話

六反城を捜して場違いな山域を歩いていたようですが、豊里西小学校【廃校となり今は「里山ねっと綾部 」の研修センタ】近くのT辻へ降りてくると「ポィの餅」綾部の民話の碑がありました。福知山側の報恩寺町から 小西城のある 三坂峠を越えて鍛冶屋町へ帰り着いた時の話でしょうか??
或る日報恩寺の嫁の里へ行った時、牡丹餅をご馳走になった 六左衛門はあまりに美味しかったので、家でも作ってもらおうと思って「この食べ物は何か」と尋ねると「ぼたもちヤ」と教えてもろうた。
点名:鍛冶屋(中央4等三角点)・普門寺参道側から

忘れんように帰ろうと思って「ぼたもち、ぼたもち」と唱えながら帰ったそうな。途中で川があったので「ぽい」と跳んで渡ったら、 その拍子に忘れてしもうた六左衛門さん『はあてな?…あゝそうそう…ポイの餅だったわい』と思い出し「ポイのもち・ポイのもち」と家に帰りつきます。家に帰り着く早々嫁さんに「ポイの餅を作れ」と大声で言った。嫁さんは何の事かサッパリわかりません。 仕方なく「ポイのもちは作れんが牡丹餅なら出来る」と牡丹餅を差し出すと六左衛門は「そうだ、この餅だ」といって大きな口をあけてパクパク食ったそうな
(小畑六左衛門翁之碑 鍛冶屋バス停前の碑文より…)   
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