山家城(甲ヶ峯)・野田城(井根山)〜白髪城(須知山・白髪城山)
京都綾部 (五万図=福知山・綾部)
山家陣屋〜甲ヶ峯城〜甲ヶ峰〜!!      H15.04.06
井根山公園(野田城)から須知山(白髪城) H15.05.05

近畿の山城: 山家陣屋と甲ヶ峯城(山家城)  野田城 白髪城
R27から井根山(右)と須知山(左)

府道8号(福知山綾部線)を東走して高津城 鴻ヶ嶽城を過ぎると綾部市街地に入る。 小さな山塊が続く峰々が悉く山城かと思える程に城址密集地ですが城名・城主・所在地・歴史と、これまた悉く内容希薄な所も多い。丹波大橋を渡ってR27号線を右折、京都方面に進んで直ぐ正暦寺から 新綾部大橋を篠山方面へのR173号を採ると左手の山が井根山(野田城)です。R27号線を由良川に沿って5km程走れば鷹栖町に入り前回 「さくらまつり」で撮れなかった山家陣屋内のスナップを撮りに寄ってから 井根山公園へ戻ります。


山家陣屋〜甲ヶ峯城〜!! H15.04.06

R27号線を由良川沿いに進み上林川が合流する地点で上林川を渡った広瀬の集落で左折すると車道の終点が 山家陣屋跡のある山家城址公園です。公園に至る車道を挟む一帯の台地に、陣屋の御殿や武家屋敷等が建ち並んでいた様子がうかがえます。山家陣屋には模擬復元された城門建てられ。谷家の定紋(揚羽蝶)が 掲げられています。
登山口にある伊也神社

西に上林川を見下ろす台地の上に 築かれ西・北側に高い切岸を落す。城門前の駐車場から甲ヶ峯城への登城口となる伊也神社を経て甲ヶ峰までは道標もある山道が続いており、山頂!!?にある中世・和久氏が築いた 甲ヶ峰城(和久氏の後一時期谷氏の山家城)まで行けます。広い曲輪は「佐衛門屋敷跡」と呼ばれる和久氏の城址で曲輪・堀切などの遺構が残っています。 堀切を経て続く尾根筋は急斜な山頂を捲きながら北へ延びて行きます。藪の急斜な尾根を登りきって広い平坦な山頂に出ると 三つばかり大きな丸い穴があって山頂部に井戸跡は不自然ですが何の跡かは不明です!!??
綾部安国寺の開山堂山道門:谷家の移築門

甲ヶ峯山頂には室町時代の経塚があるという(未確認)が!!建設省福知山工事事務所の 一級基準点標が埋まる。 先に続く長々と感じる雑木の尾根が巡視路となり、下り一方の尾根の先に送電線鉄塔を見て引き返します。 この日は城跡公園で"サクラ祭り "が行われており 山家城への登山者にも逢うが城址から先へ向かう人は先ずいない。…というより急に山道は踏み跡程度に薄くなり、荒れて尾根も急斜で山腹を捲く道さえ 傾斜急なので当然かも。
不動公園から上林川対岸の山家陣屋は天然の要害

庭園で有名な照福寺は麓の鷹栖町にあるが、このような道で案内標にあった照福寺跡とは何処なのか気が付かなかった。 山家陣屋を北へは1〜2段の曲輪と空堀を経て、上林川へ落ち込む尾根筋に 不動公園への散策道が続いています。清流ではないが太鼓淵や不動公園では桜・ツツジに囲まれての休憩もいいでしょう。伊也神社 (何鹿郡<現:綾部市>延喜式内社十二座の一)は宗神天皇の御世・丹波道主命がこの地に降臨され甲ヶ峯の麓に宮を築き 祀られたのが初めで後、伊也神社を勧進し何鹿 (いかるが)郡延喜式 12座の一に数えられています。天正年中(1573-92)火災により【和久氏の甲ヶ峯城を攻めた明智光秀軍の兵火!!?】
山家陣屋:土橋付き北空堀の外にも曲輪・手前は竪堀となり上林川に落ちる

により焼失、文化7年(1810)10月従二位清原宣光公願成就により 現在・盤座のある清地に本社殿を移転新築されたが明治3年(1870)山家陣屋の火災で類焼したが翌年再建され昭和55年には修復されています。
(綾部市観光協会・案内板参照)
山家陣屋の谷霊神社近く:絶壁の足下を上林川が流れる

現在城跡(山家陣屋跡)に「山家城址」石碑があり、模擬復元された城門を抜けると鳥居があり巨石を配し、 石積みと盛土の上には城主谷氏を祀る谷霊神社の祠があります。甲ヶ峯の和久氏の甲ヶ峯城を谷氏が山家城として一時期使用し後今の地に陣屋を築いたもので、山家陣屋と山家城が同一視されるような石碑{山家城址}は注意ですね。



 山家陣屋と山家城(甲ヶ峯城)  野田城と白髪城(精ヶ城)


山家陣屋(鷹栖陣屋)と山家城(甲ヶ峯城)
山家陣屋 山家陣屋 Ca125m 綾部市広瀬町上ノ町・下ノ町
 

R27号線沿いの由良川に流れ出る上林川が合流する出合い北方の山家城址公園に谷氏の山家陣屋がある。陣屋跡から西の上林川へ急斜面を下った不動公園から山家陣屋を望むと、岩の堅岸と懸崖を形成した天鎧の要害に立つ 難攻不落を思わせる平山城。禄高による制約(外様大名)からは平地に城を築くことは許されず、いちいち許可を必要とする防護施設の弱い陣屋だが、
山家陣屋の表御門に掲げてある定紋[揚羽蝶]と五三の桐紋

山上の甲ヶ峰城から麓に築城を許された頃?、上林川上流側からの侵攻に備えてか 城域の北方から東方にかけて、巾のある長い土塁で空掘を囲い、特に東面は高い内側の切岸上部には4-5mの石垣を積み上げて侵入を阻止しており、 つい丹波織田家の柏原藩陣屋とを比較してしまう。これ程強固な構築が許されていたものか?。
山家城址碑と表御門(擬似門)

単に山城から平山城への過渡期の姿を留めている…近世城郭遺構とする前に、 藩陣屋と谷氏について、当時の事情等をも少し考察する必要があるのかも知れない…?。戦国時代の丹波国何鹿(いかるが)郡山家は和久の領地でしたが織田信長命の天下布武「丹波攻略」時:城の破却命令に、城郭や出曲輪・照福寺砦!?(和久氏菩提寺の照福寺跡があり、寺庵と称して)従わなかった為、明智光秀に滅ぼされている。
山家陣屋井戸郭東面の大土塁・空堀(内側切岸上部に石垣を見る)

その光秀滅亡後の天正10年(1582)谷出羽守衛友が山家に封ぜられ初代山家藩主となります。谷氏は宇多源氏佐々木氏の一流で近江国甲賀郡谷郷の地頭で(綾部市の案内板には美濃国から)戦国時代衛友の父:谷大膳亮衛好(もりとも)は斎藤道三・織田信長・豊臣秀吉に仕え、播磨国平田城で6000石を与えられ、 多くの合戦で戦功を挙げたが天正4年 (1576)大阪本願寺攻めの軍功で
山家陣屋大土塁から空堀と切岸上部の石垣

谷氏の定紋となった 「揚羽蝶」家紋を賜り、天正7年(1579)の播州三木城攻めでは平田山砦(大村山上ノ付城)に陣を構えて 食糧補給路を断つ任にあたっていた。賀伏坂の砦を守備中に別所長治方の奇襲を受けて討死しており、三木市内の如意山金剛寺の大膳郭に墓地があります。 この時・父衛好と共に 三木攻めに加わっていた子・衛友は16歳だったが仇の室小兵衛!?を討ち取り、遺体を取り返した勇戦に、秀吉から感状と家紋「五三の桐」を受け、本領(遺領)6000石の相続を許され天正10年 (1582)谷出羽守衛友は山家に封ぜられ
山家陣屋井戸郭東

初代山家藩主となります。 その後は賤ヶ岳や小牧・長久手、紀州や九州攻め等の諸戦に従軍したが加増はされず、所領はわずか1万6000石にすぎなかった。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは当初、地理的な関係から多くの領主と同様・西軍の石田方について細川(幽斎)藤孝 の護る丹後田辺城攻囲戦に加わりますが、自分の和歌の師でもある細川藤孝を討つ気はなく、 その様子は「谷の空鉄砲」で知られるように不戦を貫きました。戦後 は幽斎の取りなしや、早くから本多正純を介して東軍に通じていた為、本領を安堵され山頂の 山家城(甲ヶ峰城)を廃し山麓に陣屋を構え、
陣屋の北面から東面に廻す空堀コーナー部(二重空堀状!!)

減封も国替えもなく山家藩主として存続し、その後は徳川大名として大坂の陣にも参戦、 晩年は秀忠の御夜話衆にも加えられるなど幕府の信頼を得、その地位を確立し13代衛滋(もりしげ)に至って明治維新を迎えるが、 明治3年(1870)山家陣屋は火事で焼失、翌・明治4年(1871)廃藩置県により京都府に編入されたが、明治5年末に発布された 廃城令の対象になっているが、焼失により待たずそのまま廃城・廃藩となった様。平成4年・模擬復元された擬似陣屋門が整備された山家陣屋内。
山家陣屋内:谷霊神社

谷家の家祖、衛好・衛友父子が試刀術の達人だったことである。試刀術とは刀の利鈍を知るために物や人間 (普通は罪人か死体)を切る高度な技を必要とした。衛好は戦場を往来する間に試刀の法を研究して独自の流派を編み出し、嗣子衛友にこれを伝えます。衛友は自分の息子ではなく門人の中川重好に奥義を伝え、 のちにこの系統から幕府の試刀役人となる山野永久・久英父子、首切り役人山田浅右衛門(初代)らが出ています。


山家城(甲ヶ峯城)   甲ヶ峯 236m 綾部市山家広瀬町城山

山家陣屋の模擬城門の脇に「山家城址」の石碑が建つ。谷氏の山家陣屋も、此の石碑側の登山口から伊也 神社への階段道から続く甲ヶ峰山上にも 和久氏の甲ヶ峰城があり、共に山家城とも呼称される。谷氏も山麓に陣屋を築くまでは山上の甲ヶ峰城に入っています。
土橋を挟みハの字状空掘を落とす


後:山麓に陣屋の築造は許されても、外様大名に築城は許されたか…?と、つい丹波織田家の 柏原藩陣屋の築造経緯を比較して考えてしまい、陣屋の山家城と呼称するのは紛らわしくまた煩わしく感じてしまう。さて:小さな鳥居を潜って石段の続く伊也神社への参道を辿ります。 左上方の大岩(盤座 )を背に建てられる伊也神社何鹿郡<現:綾部市>延喜式内社十二座の一で天正年中(1573-92)和久氏の甲ヶ峯城を攻めた明智光秀軍の兵火で焼失!・明治3年にも山家陣屋の火災に類焼している)】から、
堀切上部の腰曲輪から主郭2の丸虎口(左手奥)へ向かう

さらに「⇒左衛門屋敷跡・照福寺跡 ・岩ほこら」の導標に誘われて登って行くと、2〜3mの露岩が現われます。何処にも岩屋らしい所はなさそうですが「岩ほこら」の表示があり、此処を過ぎると緩やかな尾根道となる。程なく 浅い堀切に設けられた土橋を渡ると井戸跡があるという削平地(腰曲輪)に出て目前には主曲輪の切岸が現われます。
空掘標識を挟んで二条の竪堀が落ちる。奥の竪堀延長上に二の丸への虎口が開く

西面に廻り込むと畝状に並行に走る二条の縦堀があり、 一方は主郭に入る虎口正面:延長線に落ちる。展望の効かない暗い植林の中の台地が主郭で高低差の少ない二の丸と本丸・東面の帯曲輪が北端の土塁・大堀切まで延びる「左衛門屋敷跡」と呼ばれる元 ・和久氏の甲ヶ峯城(山家城 236m)で、天正期には四方を堀で囲い馬場や掘り抜き井戸もあったと云われます。
虎口を二の丸に入ると段差をもった本丸曲輪が拡がる

「塩見系図」によると源太信氏が 足利尊氏から丹波七ケ庄を賜わって天田郡に来住した小笠原(塩見大膳大夫)頼勝が塩見氏を名乗ったのが文亀から永正年間 (1501〜08)の頃で、横山の地(現・福知山城)に砦を築き天文年間(1532-55)長男頼氏が横山姓を名のって横山城(現: 福知山城)に、三男塩見監物(筑前守)利勝猪崎城、 四男和久左衛門太夫長利を和久城(茶臼山城)に配した。
甲ヶ峯城本丸(左衛門屋敷)

和久氏は八木城主内藤氏(丹波守護代)に従い 何鹿郡(綾部市)に入部して甲ヶ峰山頂部に永禄6年(1563)和久左衛門佐義国が山家城を築いて陣を敷き和知の領主となった。戦国時代の丹波国何鹿(いかるが)郡山家和久氏の領地だったが、内藤氏の滅亡・黒井城主荻野氏が三郡(氷上・天田・何鹿)を制すると其の指揮下にあったが、 織田信長命の天下布武「丹波攻略」時には其の麾下にあり、織田軍明智光秀の傘下にあったが、城の破却命令に従わなかった為・明智光秀に滅ぼされ帰農したと云われます。
本丸北端の土塁から大堀切

甲ヶ峰城は鞍部ではなく上り尾に突然?現れる土橋付き空堀(堀切)から始まる。左へ廻り込みながら腰曲輪に入り、 左端通路を進むと竪堀が畝状並行に二本落ちる。 其の一本の竪堀落口の延長線沿い虎口を二の丸に入ると低い段差で頂部の本丸に…。本丸北端に土塁の高まりを見て大堀切に降りる。本丸の東に帯曲輪が付随しており、土塁の東延長線からも堀切に土橋が付いている。
主郭部東面の帯曲輪が大堀切まで延びる

粗:二の丸と本丸の主郭部を左衛門屋敷・空堀(大堀切)から北への尾根続きの 城域北先端部にも虎口・土塁を廻した出曲輪・単郭の砦:照福(文安2年<1445>創建とされるので和久氏が山家に入部の際、和久郷(現:福知山市の和久川沿い(R429号)にあった菩提寺を遷したものか?。R429号がR9号線に合流する地点:新庄に和久氏の茶臼山城(和久城)があった。 丹波へ侵攻を繰り返した三好氏を後ろ盾に?・同族の八木城主内藤宗勝が、黒井城主荻野(赤井)直正と合戦に及んだ
照福寺跡(出曲輪)北端下にも曲輪段がある

永禄8年(1565)の[和久郷の戦いに 内藤宗勝が戦死した伝承地の一つが此の和久城。敗走の内藤勢が脱出して籠もった 鬼ヶ城へは領地安堵の天田・何鹿郡の国人領主等が荻野直正の傘下に参入して横山氏・牧氏等と共に鬼ヶ城を攻撃した。氷上(丹波市)・天田(福知山市)・何鹿(綾部市)三郡を支配した 荻野直正も、足利将軍義昭を奉じて上洛した織田信長に帰順するが、 義昭が信長と対立・やがて京都を追われると丹波の国人衆の多くが信長から離反していく。天下布武の丹波攻略(明智光秀)時には明智傘下にあったが、信長に対するわだかまりがあったのあも…?。
照福寺跡(出曲輪)東面に敷設された土塁線

和久氏没落により山家藩3代藩主衛広の寄進により寛文2年(1662)現在地のR27号[山家交差点]付近 (綾部市鷹栖町小丸山)に造営された)
がある。いずれも[屋敷であり・祖霊を祀る菩提寺であり城ではない…]と城破却令に叛いて討伐を受ける原因ともなった。照福寺は主郭側からみて山家城出曲輪か付随の砦。東西40X南北60m規模の城域には、南中央寄りと土塁の北端に虎口 ・北端からは下方にも数曲輪段があり、主郭に一条の土塁を遺す単郭ながら砦としての機能をもっている。
照福寺跡(出曲輪)に入る虎口

その後天正10年(1582)谷氏が山家に移封され甲ヶ峰城(山家城)に入ったが、群雄割拠し領地争奪を繰り返したり、要衝監視の必要性も薄くなった山城の改修・補強は不要!!?とは云え、 外様大名として…禄高からも築城許可もでないので、谷氏の山家入封時に山上の城改修や麓の陣屋以前。既に居館として空堀・土塁・石垣等施設補強し設営が進められていたものか?。3〜4m程の切岸を左手 (北側)から斜上すると本丸で 低い段差を持たせた数ブロック(5ッ程??)の細長い平坦地となり、尾根続きの東北部は 深い堀切によって本丸と遮断しています。本丸の南側には腰曲輪の遺構が残ります。

  

野田城と白髪城(精ヶ城)
野田城(井根山城)   井根山 160m     綾部市野田町
白髪城(精ヶ城・白ヶ城) 須知山・白髪城山253m  綾部市野田町

R173号線(綾部街道)から質山峠の須知山トンネルを抜けて、右手に白髪城山から北の井根山(井根山公園)へと 高度を落して延びる丘陵を望みながら下ってくる。由良川に架かる新綾部大橋を渡る手前の南西詰めで左折すると、 大本教本部前・綾部小学校前を通り抜けて綾部市街地に入る。R173号から綾部市街地への車道に入って直ぐ”井根山公園”への案内看板を見て右折・R173号線高架を潜って公園入口の駐車スペースに入る。
伊根山(野田城)の鞍部から須知山(白髪城山)を望む

直進する幅狭く林道然とした 車道はR173号沿いの谷間を進み 質山峠へ向かう林道(旧府道?)。路駐スペースは少ないが、途中には大師道(案内標示)もある登山道がある。 正暦寺八十八ヶ所ミニ霊場巡りの巡拝道で、伊根山公園入口ゲートからスタートするが、此の幅広い林道からも井根山公園側へ周回する白髪城山との鞍部へ通じていますが、
白髪城・野田城鞍部の遊歩道(秋葉神社南尾根側)

此処では井根山公園入口ゲートから秋葉神社(明治期に移設された )の建つ野田城を経て井根山側を周回する遊歩道の尾根に出る。白髪城山(須地山)への取付き鞍部でもあり、 白髪城山側への尾根を少し入った所に ミニ霊場の一つが祀られ ・其処から広い山道(大師道)が降っていく。西側旧斜面下方に林道(旧府道?)とR173号線を望む。
野田城南尾根側の二重堀切<外側>

鞍部から野田城側への巡礼コースは遊歩林道?を分けて尾根筋を辿っていきます。 九十九折の急斜面に霊場数ヶ所の石祠が点在しますが、急斜面で順拝道は左(西)に捲いて祠が続くが、尾根筋には土塁を挟んで二重掘切が現れる。 二重堀切を越えた上部にコンクリート偽木のフエンス(手摺り付き)歩道を越えて主郭 (秋葉神社社殿が建つ)南側の曲輪に出る
野田城:二重堀切 <内側>切岸上は主曲輪一段南下(二ノ曲輪?)

主郭側切岸下部の 左右に竪堀が落ちる。 ただ南曲輪や秋葉社の建つ主曲輪から北端へかけては土塁遺構は無く、 曲輪段や切岸加工されていたと思われる遺構には 神社移設や記念公園化のよる造成・改変跡が感じられる。 城の遺構を残し歴史を伝えることで”ふるさと綾部”を市民レベルで支え交流の場として深めてゆける筈なのに…何にもまして此処が山城であった事で、
野田城主郭南曲輪(二ノ曲輪?)から主郭 :秋葉社西面切岸と竪掘<左>

平和を考え・平和を実感出来る場所として絶好のところなのに・・平和を発信する「まゆピー」が立つ位置は主曲輪北端切岸の上・土塁遺構が削平され ている可能性が高いが?上り土塁虎口と思える場所もコンクリート階段となり消滅か?・・戦国の山城を覆い隠して、 平和をアピール出来るのだろうかと疑問を感じた。そして・その感は東の曲輪(二の丸)を見て憤りさえ覚えた。
野田城主郭(秋葉社)から西面帯曲輪への下降点と切岸

曲輪には子供の遊技機が設置されているだけ (再訪時は撤去されていたが?)。此処まで登ってきて自然と草花を愛でるよりも 一般公園と同じ施設が何故必要なのか?利用者は居るのか「まゆピー」は現状を嘆いてはいないのだろうか。 数多くの歌碑や句碑も、普通の山や丘なら差ほどの問題もないところだが、林道沿いに並び建てられたオムニバスな歌碑の羅列には、
井根山公園展望台(主郭記念モニュメント北下部)から

自然を詠う内容との矛盾さえ感じて苦笑。山を眺められる広い河川敷き等に草花・芝生の歌碑公園でも作って 設置するほうがズット良いのにと思ったりもするが、氾濫する由良川域では無理か・・?。
【井根山公園と秋葉神社】
綾部市は世界人類愛善を呼びかけた宗教都市で昭和25年8月1日市制を施工され、同10月には全国に先駆けた世界連邦都市宣言40周年を記念して、人類共通の願い”いま・一つの世界を”テーマとした 平和へのメッセージを全世界へ発信するための記念碑 <平成2年(1990)11月>として、
野田城址本郭・正面最奥に秋葉社を祀る

市のランドマーク ・イメージである平和・蚕 ・繭を題材に制作されたシンボル・マスコット「まゆピー」が恒久平和への願いを込め、由良川の清流と市街地を一望する井根山公園に建立され、市民を見守っています。 秋葉神社の祭神は火之迦具土大神で、宝暦6年(1756)4月綾部藩内で219戸が焼失した大火があって、この事から藩内有志が遠州秋葉三尺坊大権現の 火防の御神徳を慕い、翌年白髪城山の山頂に分祠を建立して 祀ったのが始めと伝えられています。
白髪城:主郭切岸と北曲輪(元秋葉神社跡!!?)

その後、社殿の修復は再三行なわれたが険しい山頂のため困難を極めた模様です。明治23年(1890)綾部町内の区長合議によって社殿の移転を決議して寄付を募り、 同年8月・現在地に社殿を建立し今日に至っている。綾部の多くの山城に秋葉権現が祀られている理由はあるのでしょうか!!関西圏での火鎮の神なら、 一般的には京都・愛宕権現社とも思えるのですが…西側は切岸が高く、帯曲輪のように観音霊場めぐりの道が南へ曲輪の続く尾根筋を捲く様に続いて林道や送電線鉄塔のある鞍部に続いています。
矢竹の藪の覆われた須知山(白髪城主郭)三角点

側は2mの段差の切岸で、切り崩した土砂で土塁を築くことにより 強固のものとなっていたと思えるのですが…東その先は急斜面で由良川へ落ち込んでいて途中に帯曲輪・腰曲輪もない様です。秋葉社の先にも立派な曲輪が…しかし此処も完全に公園として?破壊され子供の遊技機があるだけだが(再訪時は撤去されていた)、主曲輪の秋葉社南の此の曲輪(二ノ曲輪 ?)は主曲輪切岸下の東西(左右)に竪堀が落ち、南側急斜な切岸 (偽木の遊歩道フエンスを超えるが)下には土塁を挟んで二重堀切が城域を遮断する。
白髪城の堀切と土塁

後は平凡?なミニ霊場札所の巡拝路を白髪城山への鞍部 (歌碑が立ち並ぶ山麓公園入口からの遊歩道)の降りる。野田城から白髪城へは尾根続きですが 途中に堀切等の遺構は無く独立した城ではなく、野田城を本城とする 出城か砦として機能していたのでしょうか?。城主・歴史等不明のままですが戦国期 ・永禄年間 (1558-79)頃の城主は梅原刑部大夫弾正。 綾部市史等を参照出来れば何か判るのかも知れません。
鞍部のカーブ地点には関西電力の高圧鉄塔が建っていて白髪城山への尾根は少し下った石仏の横から尾根続きです。
白髪城堀切と土塁(右):主郭側切岸(左)

観音霊場めぐりの道はそのまま下っていきます。鞍部からでも直ぐ其処の山なのに見上げるほどで 急斜面の登りは想像するまでもない事ですが、踏み跡はあやしくなって藪の中に 矢竹が目立ってきます。幾度か藪を漕いで抜け出た狭い須知山(3等三角点 白髪城山253m)山頂に着くと朽ちかけた測量棒が残っていて、猪か鹿の寝床なのか!枯れたススキ等を集めた楕円形の窪みがある。展望はないが雑木藪が無ければ西に綾部街道や東に山陰・若狭へ抜ける 主要街道を見下ろす 絶好の見張所ではあります。三角点から藪を突いて下ると堀切があり、 堀切土塁の外(南下)へも平坦地形がある。
野田城:二重堀切(露岩を掘削した内側堀切)土塁

山頂の主郭内部も猛烈な矢竹の藪で足元も見えないが、主郭部北面切岸(5-6m程)下を帯曲輪が捲いている。 野田城の展望台から此処までには唯一:由良川を見下ろす展望を垣間見られる処。此の北曲輪こそ宝暦年間(1751−64)遠州秋葉三尺坊大権現から祭神を白髪城山の山頂に分霊され祀られた元の秋葉社の在った場所の様で、 数片の瓦破片を見かける。 現状の荒れて足下も不安定な急斜面や藪漕ぎ道と違い山道・参道が有っても相当厳しい参詣道です。
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