山家城(甲ヶ峯)・野田城(井根山)〜白髪城(須知山・白髪城山)
山家陣屋〜甲ヶ峯城〜甲ヶ峰〜!  H15.04.06
井根山公園(野田城)から須知山(白髪城) H15.05.05

近畿の山城: 山家陣屋と甲ヶ峯城(山家城) 野田城 白髪城
    和藤合戦(三郡山陣・尾州ヶ尾・鑓場・白波瀬館)
R27から井根山(右)と須知山(左)

山家陣屋〜甲ヶ峯城〜!! H15.04.06
府道8号沿いに高津城鴻ヶ嶽城を過ぎ綾部市街地から丹波大橋を渡りR27号線を右折し京都方面に進み直ぐ正暦寺から新綾部大橋を篠山方面の R173号をとり由良川に沿って5km走れば鷹栖町。上林川が合流する地点で上林川を渡った広瀬の集落で左折する車道終点が山家陣屋跡の山家城址公園。
登山口にある伊也神社

一帯の台地に陣屋の御殿や武家屋敷等が建ち並んでいた様子が窺える。山家陣屋には模擬復元された城門が建てられ谷家の定紋:揚羽蝶が掲げられている。西に上林川を見下ろす台地の上に築かれ西・北側に高い切岸を落す。城門前の駐車場から甲ヶ峯城への登城口となる伊也神社を経て甲ヶ峰までは道標もある山道が続き山頂に築かれた甲ヶ峰城(和久氏の後一時期谷氏の山家城)まで行く。広い曲輪は佐衛門屋敷跡と呼ばれる和久氏の城で曲輪・堀切などの遺構が残る。堀切を経て続く 尾根筋は急斜な山頂を捲きながら北へ延びていく。藪の急斜な尾根を登りきり広い平坦な山頂に出ると三つばかり大きな丸い穴が
綾部安国寺の開山堂山道門:谷家の移築門

あるが井戸跡か?不自然で何の跡か不明?甲ヶ峯山頂には室町時代の経塚があるという(未確認)建設省福知山工事事務所の一級基準点標が埋まる。先に続く長々と感じる雑木の尾根が巡視路となり下り一方の尾根の先に送電線鉄塔を見て引返す。山家城への登山者はいるが城址から先へ向かう人は先ずいない…急に山道は踏み跡も薄くなり、荒れて尾根も
不動公園から上林川対岸の山家陣屋は天然の要害

急斜で山腹を捲く道さえ傾斜急なので当然かも。庭園で有名な照福寺は麓の鷹栖町にあるが案内標にあった照福寺跡が何処か気付かなかった。山家陣屋を北へは1-2段曲輪と空堀を経て上林川へ落ち込む尾根筋太鼓淵や不動公園へ散策道が続く。伊也神社は宗神天皇の世丹波道主命がこの地に降臨され甲ヶ峯の
土橋付空堀曲輪・手前は竪堀が上林川に落ちる

麓に宮を築き祀られたのが初め、伊也神社を勧進し何鹿郡延喜式12座の一に数えられる。天正年中(1573-92)火災(和久氏の甲ヶ峯城を攻めた明智光秀軍の兵火!?)により焼失、文化7年(1810)10月従2位清原宣光公願成就により現在盤座のある清地に 本社殿を移転新築されたが明治3年(1870)陣屋の火災で類焼し翌年再建され昭和55年に修復された。
(綾部市観光協会・案内板参照)
山家陣屋の谷霊神社近く:絶壁の足下を上林川が流れる

現在山家陣屋跡に「山家城址」石碑があり模擬復元された城門を抜けると鳥居があり巨石を配し石積みと盛土の上に城主谷氏を祀る谷霊神社がある。甲ヶ峯の和久氏の甲ヶ峯城を谷氏が山家城として一時期使用し後今の地に陣屋を築いたもので 山家陣屋と山家城が同一視されるような"山家城址"碑は注意ですね。




山家陣屋/甲ヶ峯城野田城と白髪城
 和藤合戦(三郡山陣・尾州ヶ尾・鑓場・白波瀬館)

山家陣屋(鷹栖陣屋)と山家城(甲ヶ峯城)
山家陣屋125m 綾部市広瀬町上ノ町・下ノ町
由良川に流れ出る上林川が合流する出合い北方の山家城址公園に谷氏の山家陣屋がある。陣屋跡から西の上林川へ急斜面下の不動公園から山家陣屋を望むと岩の堅岸と 懸崖を形成した天鎧の要害に立つ難攻不落を思わせる平山城だが禄高の制約(外様大名)からも平地に城を築くことは許されず
山家陣屋の表御門に掲げてある定紋[揚羽蝶]と五三の桐紋

いちいち許可を必要とする防護施設の弱い陣屋だが甲ヶ峰城から麓に築城を許された頃上林川上流からの侵攻に備えてか城域の北方から東方にかけ巾のある長い土塁で 空掘を囲い東面は内側切岸を石垣4-5m積上げ侵入を阻止しており柏原藩陣屋に比しても、これ程強固な構築が許されたものか?。
山家城址碑と表御門(擬似門)

単に山城から平山城への過渡期の姿を留めている…近世城郭遺構とする前に藩陣屋と谷氏について当時の事情等を考察する必要があるかも知れない?。戦国時代の丹波国何鹿郡山家は和久氏領だったが織田信長命の「丹波攻略」や城の破却命令に城郭や出曲輪・照福寺砦!?(和久氏菩提寺の照福寺跡があり寺庵と称して)従わなかったため明智光秀に
山家陣屋井戸郭東面の大土塁・空堀(内側切岸上部に石垣を見る)

滅ぼされている。光秀滅亡後の天正10年(1582)谷出羽守衛友が山家に封ぜられ初代藩主となる谷氏は宇多源氏佐々木氏の一流で近江国甲賀郡谷郷の地頭で(綾部市案内板には美濃国から)戦国時代衛友の父谷大膳亮衛好(もりとも)は斎藤道三・織田信長・秀吉に仕え播磨国平田城6000石を与えられ多くの合戦で戦功を挙げたが天正4年(1576)大阪本願寺攻めの軍功で谷氏の定紋となった
山家陣屋大土塁から空堀と切岸上部の石垣

揚羽蝶家紋を賜り天正7年(1579)三木城攻めに平田山砦(大村山上ノ付城)に陣を構え食糧補給路を断つ任につき賀伏坂の砦を守備中に別所長治方の奇襲を受け討死し三木市内の 如意山金剛寺の大膳郭に墓地がある。衛好と共に三木攻めに加わっていた子の衛友16歳が仇の室小兵衛!?を討ち取り遺体を取り返した勇戦に秀吉から感状と家紋五三の桐を受け遺領の6000石相続を許され天正10年谷出羽守衛友は山家に封ぜられ初代山家藩主となる。
山家陣屋井戸郭東

その後は賤ヶ岳・小牧・長久手、紀州や九州攻等の諸戦に従軍したが加増もなく所領はわずか1万6000石にすぎなかった。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに当初、西軍につき細川(幽斎)藤孝田辺城攻囲戦に加わるが自分の和歌の師でもある藤孝を討つ気はなく「谷の空鉄砲」で知られるように不戦を貫く。後は幽斎の取りなしや早くから本多正純を介して東軍に通じていた為本領を安堵され山頂の山家城(甲ヶ峰城)を廃し山麓に陣屋を構え、減封も国替えもなく山家藩主として存続し、
陣屋の北面から東面に廻す空堀コーナー部(二重空堀状!)

その後は徳川大名として大坂の陣にも参戦、晩年は秀忠の御夜話衆にも加えられるなど幕府の信頼を得、その地位を確立し13代衛滋(もりしげ)に至って明治維新を迎えるが明治3年(1870)山家陣屋は火事で焼失翌明治4年(1871)廃藩置県により京都府に編入されたが明治5年末に発布された廃城令の対象になっているが焼失により待たずそのまま廃城・廃藩となった様。
山家陣屋内:谷霊神社

平成4年・模擬復元された擬似陣屋門が整備された山家陣屋内。
谷家の家祖衛好・衛友父子は試刀術の達人だった。試刀術とは刀の利鈍を知るために物や人(罪人や死体)を切る高度な技を必要とした。衛好は戦場を往来する間に試刀法を研究し独自の流派を編み出し嗣子衛友にこれを伝えた。衛友は自分の息子ではなく門人の中川重好に奥義を伝え、のちにこの系統から幕府の試刀役人となる山野永久・久英父子、首切り役人山田浅右衛門(初代)らが出ている。

山家城(甲ヶ峯城)  甲ヶ峯 236m 綾部市山家広瀬町城山

山家陣屋模擬城門脇に山家城址の石碑が建つ。谷氏の山家陣屋も此の石碑側の登山口から伊也神社へ の階段道から続く甲ヶ峰山上にも和久氏の甲ヶ峰城があり共に山家城とも呼称される。谷氏も山麓に陣屋を築くまでは山上の甲ヶ峰城に入り後:山麓に陣屋の築造を許された。
土橋を挟みハの字状空掘を落とす


陣屋を山家城と呼称するのは紛らわしい。さて小さな鳥居を潜って石段の続く伊也神社への参道を辿ります。左上方の大岩(盤座)を背に建てられる伊也神社「何鹿郡(綾部市)延喜式内社十二座の一:天正年中(1573-92) 和久氏の甲ヶ峯城を攻めた明智光秀軍の兵火で焼失!・明治3年にも山家陣屋の火災に類焼している)」から、さらに「⇒左衛門屋敷跡・
堀切上部の腰曲輪から主郭2の丸虎口(左手奥)へ向かう

照福寺跡・岩ほこら」の導標に誘われ登ると2-3mの露岩が現われるが何処にも岩屋らしい所はなさそうだが「岩ほこら」の表示があり此処を過ぎると緩やかな尾根道となる。程なく 浅い堀切に設けられた土橋を渡ると井戸跡があるという腰曲輪に出て前には主曲輪の切岸が現われる。西面に廻り込むと
空掘標識を挟んで二条の竪堀が落ちる。奥の竪堀延長上に二の丸への虎口が開く

畝状に並行に走る二条の縦堀があり、一方は主郭に入る虎口正面:延長線に落ちる。展望の効かない暗い植林の中の台地が主郭で高低差の少ない二の丸と本丸・東面の帯曲輪が北端の土塁・大堀切まで延びる左衛門屋敷跡と呼ばれる元・和久氏の甲ヶ峯城(山家城)で天正期には四方を堀で囲い馬場や掘り抜き井戸もあったと云われます。
虎口を二の丸に入ると段差をもった本丸曲輪が拡がる

和久氏は塩見系図によると源太信氏が足利尊氏から丹波七ケ庄を賜わり天田郡に来住した小笠原(塩見大膳大夫)頼勝が塩見氏を名乗ったのが文亀-永正年間(1501〜08)頃で横山の地(福知山城)に砦を築き天文年間(1532-55)長男頼氏が横山姓を名のり横山城(福知山城)に三男塩見監物利勝猪崎城、四男和久長利を和久城(茶臼山城)に配した。和久氏は八木城主内藤氏に従い何鹿郡に
甲ヶ峯城本丸(左衛門屋敷)

入部して甲ヶ峰山頂部に永禄6年(1563)和久左衛門佐義国が山家城を築き陣を敷き和久領主となった。戦国時代の丹波国何鹿(いかるが)郡山家は和久氏領だったが内藤氏の滅亡・黒井城主荻野氏が三郡(氷上・天田・何鹿)を制すると其の指揮下にあって織田信長命の丹波攻略には明智光秀の麾下にあったが城の破却命令に従わなかった為・明智光秀に滅ぼされ帰農したと云われます。
本丸北端の土塁から大堀切

甲ヶ峰城は鞍部ではなく上り尾に突然現れる土橋付堀切から始まり左へ廻り込み腰曲輪に入り左端通路を進むと竪堀が畝状並行に二本落ちる。其の一本の竪堀落口の延長線沿い虎口を二の丸に入ると低い段差で頂部の本丸に…。本丸北端に土塁の高まりを見て大堀切に降りる。本丸の東に帯曲輪が付随し土塁の東延長線からも堀切に土橋が付いている。 二ノ丸と本丸の主郭部を左衛門屋敷空堀(大堀切)
主郭部東面の帯曲輪が大堀切まで延びる

から北へ尾根続きの城域北先端部にも 虎口・土塁を廻した出曲輪・単郭の砦:照福文安2年創建とされるので和久氏が山家に入部の際、和久郷の和久川沿いにあった菩提寺を遷したものか?。R429号がR9号線に合流する地点:新庄に和久氏の茶臼山城(和久城)があった。 丹波侵攻を繰り返した三好氏を後ろ盾に同族の八木城内藤備前守宗勝(松永長頼)が 黒井城荻野直正とが和久城(福知山市)付近で合戦した和久郷の戦い永禄8年(1565)
照福寺跡(出曲輪)北端下にも曲輪段がある

内藤宗勝が戦死した伝承地の一つで敗走の内藤勢が脱出して籠もった鬼ヶ城へは領地安堵の天田・何鹿郡の国人領主等が荻野直正の傘下に参入し横山氏・牧氏等と共にを攻撃した。
内藤備前守宗勝の戦死は永禄8年(1565)八木城の内藤氏が和久城から本拠を移した山家城に侵攻し、由良川を挟んで山家城に正対する下原一帯に展開された下原合戦(和籐合戦)に内藤氏が陣していた尾州ヶ尾の「鑓場成」で和久氏方地侍:白波瀬忠次に討たれたという 伝承地には白波瀬家により八木城を遙拝する方向に供養碑が建てられた。氷上/天田・何鹿(綾部市)三郡を支配した荻野直正も 足利将軍義昭を奉じて上洛した織田信長に帰順するが義昭が信長と対立・やがて京都を追われると丹波の国人衆の多くが信長から離反していく。明智光秀の丹波攻略では明智傘下にいたが
照福寺跡(出曲輪)東面に敷設された土塁線

信長に対するわだかまりもあったか?。和久氏没落により山家藩3代藩主衛広の寄進により寛文2年(1662)R27号山家交差点付近(鷹栖町小丸山)に造営された)
がある。いずれも”屋敷であり祖霊を祀る菩提寺で城ではない”と城破却令に叛き討伐を受ける原因ともなった。照福寺は主郭側からみて山家城出曲輪か砦。東西40X南北60m規模の城域には南中央寄りと土塁の北端に虎口北端からは下方にも数曲輪段があり主郭に一条の土塁を遺す単郭ながら砦としての機能をもっている。
照福寺跡(出曲輪)に入る虎口

その後天正10年(1582)谷氏が山家に移封され甲ヶ峰城(山家城)に入るが群雄割拠し領地争奪を繰り返したり要衝監視の必要性も薄くなった山城の改修・補強は不要!!?とは云え外様大名として…禄高からも築城許可もでないので谷氏の山家入封時に山上の城改修や麓の陣屋は既に居館として空堀・土塁・石垣等施設は補強し設営が進められていたものか?。3-4m程の切岸を北側から斜上すると本丸で低い段差を持たせた5ブロック程?の細長い平坦地となり尾根続きの東北部は深い堀切で本丸を遮断・本丸の南側には腰曲輪の遺構が残る。


和藤合戦(三郡山陣・尾州ヶ尾・鑓場・白波瀬館)  三郡山 498m 綾部・福知山・京丹波市

綾部市街地からR24号「新綾部大橋」交差点を右折して由良川に架かる新綾部大橋を渡り、井根山公園麓から由良川左岸添いにJR山家駅方面に向かい府道450号線を東走していると下原町公民館の側に立つ「和籐合戦古戦場 旧跡」案内板を見るが冒頭の天正4年?…は明智光秀による
下原公民館前の「和籐合戦」説明板

和久左衛門太夫上介追討令…により和久城落城後に和久氏・白波瀬氏を捕えるべく山家・下原一帯を探索した年だが 和藤合戦は 和久氏・内藤氏の合戦に内藤宗勝が討死したのは永禄8年のこと?。綾部市山家・下原・上原一帯で合戦があり丹波国守護代八木城主(松永長頼)内藤備前守宗勝(そうしょう)が討たれた。
白波瀬館付近から下原合戦場(禅定庵・寺ヶ成・槍場成・三郡山)

永禄6年は山家領主和久左衛門佐長利(義国)が和久氏を称し内藤備前守宗勝(松永長頼)に従い何鹿郡(綾部市)に入部し山家・和知・口上林一帯を領し甲ヶ峯山頂に山家城を築き陣を敷いた年。また同:永禄6年8月?には福知山市新庄(和久郷のほぼ中心地)の和久城で氷上郡(丹波市) の新興勢力黒井城:荻野直正と内藤宗勝が合戦に及ぶ和久郷の戦いに宗勝は和久川に討死したとの伝承もある?のだが翌永禄7年にも
上原・下原・大原峠分岐辻の道標石仏

宗勝が天田郡(福知山市)・何鹿郡(綾部市)への侵攻拠点として大槻氏の高津城や栗城を攻め甲ヶ岳山頂に 鴻ヶ嶽城(綾部市大島町)を築く。永禄7年の三好長慶死去により内藤氏勢力は衰退化…丹波守護代内藤氏が荻野直正に敗れ天田・何鹿を領していた内藤方和久氏も直正に降りたことで内藤氏が再度旧領地奪還を狙っての侵攻か和久氏の山家城を攻めた。内藤宗勝の死は永禄6年(和久郷の戦い)ではなく綾部市山家史誌等”和籐合戦記”によると
尾州ヶ尾に立つ内藤宗勝墓碑

永禄8年(1565)8月4日!(旧暦では6月末頃)で合戦場となったのが綾部市下原地区一帯に展開されたのが和籐合戦「下原の戦い」なのだが殆ど知られていない!。和久城(福知山市)から山家城(綾部市の甲ヶ峯城)に本拠を移した和久??政に対し八木城:内藤備前守宗勝が丹後攻略途上?の将兵を山家城主和久左衛門佐吉政を攻めるべく (1800とも3000余騎とも?)の軍勢で大原神社から大原峠を越え、和木から
岩根山登山道から:山家城・照福寺砦の尾根

由良川を挟んで山家城側の鷹栖と対峙する下原へ侵攻し構えたものか!?。此れを察知して待構えていた下原の和久一族?:白波瀬肥前守忠次と、由良川を鷹栖から渡ってきた和久方の武将達や加勢に駆けつけた郷民ら約200で対抗する。多勢に無勢の劣勢ではあったが白波瀬館・尾州ヶ尾や其の南尾根の先端付近にあった禅定庵(寺院)・下原山々一帯に繰り広げられた熾烈な戦いは梅雨時の夜戦…激しく吹き荒れる風雨のなか・しかも夜の急襲には地の利にあかるい
三郡山陣:曲輪南下は激急斜面(堀切なし)

地元の白波瀬氏・和久氏等にとって優勢に展開した。内藤氏が陣していた三郡山(みこおり)の北尾根上(備州ヶ尾)の「鑓場成」で和久氏方地侍白波瀬忠次に討たれたと云い白波瀬家後裔の人々により八木城を遙拝する方向に宗勝供養碑(自然石で無名の“内藤宗勝の墓”)が本拠の八木城(南丹市)の在る方向を向いて建てられている。
槍場成(露岩石が散存する広い平坦陣:!) 下原地区一帯眺望良

三郡山の山頂部から備州ヶ尾の鑓場成等に布陣し、下原の麓へ押出していた?内藤勢は再び逃げ場を山上の備州ヶ尾に押し戻されたか?。 内藤宗勝の首を挙げて白波瀬方が大勝したとある…が数においても抗戦不可能を知り・和談すると誘った禅定庵(下原)には折しも激しい夜間の風雨を利用し・闇に紛れての夜襲「禅定庵の戦い」を受け、地の利にあかるい白波瀬方・地理不案内の内藤勢は三郡山の陣!?へと攻立てられ槍場成・備州が尾へと押し戻され此処に内藤宗勝が白波瀬肥前守忠次に討たれたのが真相かも?。下原公民館前の”和籐合戦”案内説明板には 今も存在している
白波瀬氏方形居館跡:

内藤氏の陣跡で戦場となった尾州ヶ尾・鑓場成付近の”内藤宗勝墓碑”へは岩根山行者堂へと歩道整備された”やまが歴史古道”があり最高所の三郡(みこおり)山498mへはJR山家駅に集合:高橋成計氏のお誘いと 「山家歴史の会」会員数名の案内で訪れた。禅定庵は踏み込めない程の藪地とのことで公民館付近から遠望・白波瀬館(案内説明板から南東約2ー300m)へは三郡山を下山し解散後に廻ってきた。
白波瀬館:東の土塁と濠跡

尚:天正4年8月4日:明智光秀による和久左衛門太夫上介追討令…は和久城落城後に和久氏・白波瀬氏を捕えるべく山家・下原一帯を探索した年…?。また天正8年(1580)の光秀下知状(福知山市・御霊神社文書)に”和久左衛門太夫上介…白波瀬肥前守(和籐合戦で宗勝を討つ)を取り逃がしたが…”とあり和籐合戦以後の和久氏・白波瀬氏らに対するもの】


野田城と白髪城(精ヶ城)
野田城(井根山城)  井根山 160m 綾部市野田町
白髪城(精ヶ城・白ヶ城) 須知山・白髪城山253m 野田町

R173号線(綾部街道)から質山峠の須知山トンネルを抜け白髪城山から北の井根山(井根山公園)へ高度を落して延びる丘陵を望みながら下ってくる。由良川に架かる新綾部大橋を渡る手前の南西詰めで左折すると大本教本部前・綾部小学校前を通り抜け綾部市街地に入る。
伊根山(野田城)の鞍部から須知山(白髪城山)を望む

R173号から綾部市街地への車道に入って直ぐ”井根山公園”看板を見て右折・R173号線高架を潜って公園入口の駐車スペースに入る。直進する幅狭く林道然とした車道はR173号沿いの谷間を進み質山峠へ向かう林道(旧府道?)。路駐スペースは少ないが途中には大師道(案内標示) もある登山道がある。正暦寺八十八ヶ所ミニ霊場巡りの巡拝道で伊根山公園入口ゲートからスタートするが此の幅広い林道からも井根山公園側へ周回する
白髪城・野田城鞍部の遊歩道(秋葉神社南尾根側)

白髪城山との鞍部に通じているが井根山公園入口ゲートから秋葉神社(明治期に移設された)の建つ野田城を経て井根山側を周回する遊歩道の尾根に出る。白髪城山(須地山)への取付き鞍部でもあり白髪城山側への尾根を少し入った所にミニ霊場の一つが祀られ・其処から広い山道(大師道)が降っていく。西側旧斜面下方に林道(旧府道?)とR173号線を望む。
野田城南尾根側の二重堀切

鞍部から野田城側への巡礼コースは遊歩林道?を分けて尾根筋を辿っていきます。九十九折の急斜面に霊場数ヶ所の石祠が点在するが急斜面で順拝道は左に捲いて祠が続くが尾根筋には土塁を挟み二重掘切が現れる。二重堀切を越えた上部にコンクリート偽木のフエンス(手摺り付き)歩道を越えて主郭(秋葉神社社殿が建つ)南側の曲輪に出る
野田城二重堀切:切岸上は主曲輪一段南下(二ノ曲輪?)

主郭側切岸下部の左右に竪堀が落ちる。ただ南曲輪や秋葉社の建つ主曲輪から北端へかけ土塁遺構はなく 曲輪段やその切岸加工された遺構には神社移設や記念公園化のよる造成改変跡が感じられる。城遺構を残し歴史を伝えることで”ふるさと綾部”を市民レベルで支え 交流の場として深めてゆける筈なのに…何にもまして此処が山城であった事で平和を考え・平和を実感出来る場所として
野田城主郭南曲輪(二ノ曲輪?)から主郭:秋葉社西面切岸と竪掘<左>

絶好のところなのに平和を発信する「まゆピー」が立つ位置は主曲輪北端切岸上の 土塁遺構が削平されている可能性が高いが?上り土塁虎口と思える場所もコンクリート階段となり消滅か?戦国の山城を覆い隠して平和をアピール出来るのだろうかと疑問を感じた。その感は東の曲輪(二の丸)を見て憤りさえ覚える。
野田城主郭(秋葉社)から西面帯曲輪への下降点と切岸

曲輪には子供の遊技機が設置されていたが再訪時には撤去されていた。此処まで登ってきて自然と草花を愛でるよりも一般公園と同じ施設が何故ここに必要なのか?「まゆピー」は現状を嘆いてはいないのだろうか。数多くの歌碑や句碑も普通の丘なら差ほど問題もないが林道沿いに並び建てられたオムニバスな歌碑の羅列には自然を詠う内容との矛盾さえ感じて苦笑。
井根山公園展望台(主郭記念モニュメント北下部)から

山を眺められる広い河川敷き等に草花・芝生の歌碑公園でも作って設置するほうがズット良いのにと思ったりもするが氾濫する由良川域では無理か?。【井根山公園と秋葉神社】
綾部市は世界人類愛善を呼びかけた宗教都市で昭和25年8月1日市制を施工され10月には全国に先駆けた世界連邦都市宣言40周年を記念して人類共通の願い”いま一つの世界を”テーマとした平和へのメッセージを全世界へ発信するための記念碑[平成2年(1990)11月]として
野田城址本郭・正面最奥に秋葉社を祀る

市のランドマーク ・イメージである平和・蚕・繭を題材に制作されたシンボル・マスコット「まゆピー」が恒久平和への願いを込め 由良川の清流と市街地を一望する井根山公園に建立され市民を見守っている。秋葉神社の祭神は火之迦具土大神で宝暦6年(1756)4月綾部藩内で219戸が焼失する大火があり 藩内有志が遠州秋葉三尺坊大権現の火防の御神徳を慕い翌年白髪城山の山頂に分祠を建立して祀ったのが始めと伝えられる。
白髪城:主郭切岸と北曲輪(元秋葉神社跡!!?)

その後、社殿の修復は再三行なわれたが険しい山頂のため困難を極めた模様です。明治23年(1890)綾部町内の区長合議によって社殿の移転を決議して寄付を募り同年8月現在地に社殿を建立し今日に至る。綾部の多くの山城に秋葉権現が祀られている理由はあるのでしょうか!! 関西圏での火鎮の神なら一般的には京都・愛宕権現社とも思えるのですが…西側は切岸が高く、帯曲輪のように観音霊場めぐりの道が南へ曲輪の続く尾根筋を捲く様に続いて林道や送電線鉄塔のある鞍部に続く。
矢竹の藪の覆われた須知山(白髪城主郭)三角点

側は2mの段差の切岸で、切り崩した土砂で土塁を築くことにより強固のものとなっていたと思えるのですが…東その先は急斜面で由良川へ落ち込み途中に帯曲輪・腰曲輪もない様です。秋葉社の先にも立派な曲輪が…しかし此処も完全に公園として破壊され子供の遊技機があるだけだが(再訪時は撤去されていた)主曲輪の秋葉社南の此の曲輪(二ノ曲輪 ?)は主曲輪切岸下の東西(左右)に竪堀が落ち、南側急斜な切岸(偽木の遊歩道フエンスを超えるが)下には土塁を挟んで二重堀切が城域を遮断する。
白髪城の堀切と土塁

後は平凡?なミニ霊場札所の巡拝路を白髪城山への鞍部(歌碑が立ち並ぶ山麓公園入口からの遊歩道)の降りる。野田城から白髪城へは尾根続きだが途中に堀切等遺構もなく独立した城ではなく 野田城を本城とする出城か砦として機能したものか?。城主・歴史等不明だが永禄年間(1558-79)頃の城主は梅原刑部大夫弾正。綾部市史等を参照出来れば何か判るのかも知れません。
鞍部のカーブ地点には関西電力の高圧鉄塔が建っており白髪城山への尾根は少し下った石仏の横から。
白髪城堀切と土塁(右):主郭側切岸(左)

観音霊場めぐりの道はそのまま下っていく。鞍部からでも直ぐ其処の山なのに見上げるほどで急斜面の登りは想像するまでもないが踏み跡もあやしくなって藪の中に矢竹が目立ってきます。幾度か藪を漕いで抜け出た狭い須知山(3等三角点 白髪城山253m)山頂に着くと朽ちかけた測量棒が残っていて猪か鹿の寝床なのか!枯れたススキ等を集めた楕円形の窪みがある。展望はないが雑木藪がなければ西に綾部街道や東に山陰・若狭へ抜ける主要街道を見下ろす絶好の見張所ではある。三角点から藪を突いて下ると堀切があり堀切土塁の外にも平坦地形がある。
野田城:二重堀切(露岩を掘削した内側堀切)土塁

山頂の主郭内部も猛烈な矢竹の藪で足元も見えないが主郭部北面切岸(5-6m程)下を帯曲輪が捲いている。野田城の展望台から此処までには 唯一由良川を見下ろす展望を垣間見られる処。北曲輪こそ宝暦年間(1751−64)遠州秋葉三尺坊大権現から祭神を白髪城山の山頂に分霊され祀られた元の秋葉社のあった場所か?数片の瓦破片を見かける。現状の荒れて足下も不安定な急斜面や藪漕ぎ道と違い 山道参道があるが相当厳しい参詣道ではある。
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