福知山の山城U 荒河置山城・愛宕山城・奥野部城・新庄城・半田城・山崎城・拝師城
福知山市 (地図=福知山)
前田愛宕城(愛宕山・手白山)〜荒河置山城 2003年05月05日
奥野部城(岩ヶ端城・旭山 ) Ca45m  2003年08月02日

近畿の山城 :前田愛宕城(手白山城)荒河置山城  奥野部城
 奥野部段城 新庄城半田城今安城  山崎城 拝師城
  天照玉命神社(武神社)

荒河置山城から和久城

丹波市青垣町から福知山市へ府県境界尾根を越えて下り、福知山市西部のランドマーク 姫髪山の「大文字」を望みながら和久川に沿う「旧丹後道」を辿り但馬や舞鶴・宮津に向かうR9号線(山陰道)に合流する付近には、街道に沿って多くの城館跡が残ります。 以前寄った奥野部城への再訪と、西方500m程には居館跡が有るので立寄ってみる。


 前田愛宕城 荒河置山城 奥野部城  奥野部段城新庄城 半田城
今安城山崎城 拝師城

前田愛宕城(手白山城・愛宕山城) 愛宕山(手白山・手城山)Ca 55m 福知山市土師小字手白山1番地

2003年5月頃の訪城レポートの前田愛宕城(手白山城)は市教委の文化財目録に愛宕山城・山名も愛宕山で記載されているので2017年再訪の際:愛宕山城の名称を追記した。ただ愛宕社が祀られるのは藩政時代の慶長17年。お城通り(府道55)福知山城の東方約1.4km、土師川・由良川合流点を挟んで呼応・対峙?する愛宕山城!?は土師(はぜ)と 前田境に位置する標高55mの独立丘陵で
城域南端部か?:参道右手上(東)に竪堀・帯曲輪・土塁残欠を観る

山上部に愛宕社が鎮座する手白山(通称!!愛宕山)頂にあって、戦国時代の室町幕府管領・細川高国(法名道永)から塩見神三郎に宛て戦功<永正年中の事か?・手白山合戦> の感状を受けている(丹波志)記録が残される。城主は芦田甲斐守と云うが築城目的や時代は不明・手白山での没落で子孫は土民となったとの記録もあるが、芦田氏がこの戦いに参戦していたか?、 天正期まで続いていたのかは不詳。
前田愛宕山城主郭部

慶長5年(1600)田辺城の細川中興の田辺城攻め主将:小野木重勝(清次郎重次)の家臣土師墨丸が細川勢迎撃の為に籠もったという記録もあるようだが、田辺城方は護りで精一杯!!北丹波域に細川方勢力があったか不詳だが出撃の余力はなかった筈!!?。土師墨丸・夜久主計進・谷衛友ら丹波勢は重勝に従い田辺城を攻めている。前田愛宕城南方はお城通り「松縄手」で土師川を渡る府道8号が「土師」交差点から綾部市(何鹿郡)に向かう。約600m程南にはR9号 (山陰道)が明智光秀本城の亀山城(亀岡城)を結ぶ長田野を越える。
本殿背後(北面)に空堀との高低差約1.5m程の土塁線が東面へと廻る

一方:北方は音無瀬橋を渡り大江町・宮津街道に繋ぐ府道55号に出る猪崎城下で由良川沿いの府道74号が綾部市に向う。途中・大江町へ抜ける府道492号や 犀川沿い、 綾部市から舞鶴市へR27号が通じる。此等要衝の街道筋は軍道ともなり、横山城(福知山城)東面を守備する最後の防衛基地ともなるが、横山城(福知山城)攻略の最前線基地ともなる重要な軍事拠点でもある。
城域北面の低土塁と空堀(右)

丹波勢の戦国期の砦跡か?:愛宕社の背後 ・由良川を望む北面に折れを伴う空堀土塁の遺構からは、手白山砦を攻略した光秀方により陣城として全面改修したものとも推察できる…!!?が愛宕神社の創祀(案内説明板)は慶長14年( 1609)頃、 前田一ノ宮「明天神社」の杜の大桧が夜毎燐光を放つのを見た村人が京都愛宕神社の分霊を勧請し、此処に祠を建て祀ったのが起源だが、関ヶ原合戦の功績により福知山6万石で入封し初代福知山藩主となった 有馬豊氏が慶長17(1612)祠を現在地に遷座させ創建した。
切れ目ない空堀土塁線の一角が折れを伴い北に突出す枡形状・土塁虎口か!?

藩主松平忠房により明暦3年(1657)社殿を再建・鳥居を寄進し、寛文7年(1667)には愛宕神社を近郷五社の一に選定。 元禄5年(1692)朽木稙昌による拝殿造営 ・鳥居修復、宝永2年(1705)には火伏せの大釣鐘を鋳造。以後朽木家代々の庇護厚く、祭礼には藩侯の代参…等歴代藩主の崇敬も篤かった。前田愛宕城(手白山城)へは府道8号土師郵便局の先でJR山陰本線を渡った所・
城域東面にも低土塁、下方に長い帯曲輪が延びる

福知山自動車学校の北 ・明天神社から狭い前田地区内の車道を西へ詰めると愛宕神社前の駐車場で行止まり。府道74号猪崎交差点で由良川を渡り綾部市に向かう広域農道最初のカーブ地点からも運動公園!?側を抜けて愛宕神社参道前駐車場に入れる。 2003-5年頃2度ばかり訪城したが、愛宕社本殿が建つ広い主郭部を除く周囲は桧・杉林の中は雑木や羊歯類に覆われ、社殿背後(北面)は城域の北西端から約40m程を高低差約1.5mの空堀沿い。中程は鋭角に折れを伴う低土塁が下草藪に隠れ延びている。 下方にも広い削平段もあり折れは枡口土塁虎口と横矢掛りを意識した構造のよう?。
東面南端に竪堀・竪堀側から北へ延びる帯曲輪

社殿東面にも急斜面で空堀は無さそう?だが途切れる低土塁残欠が目視確認できても画像には収められなかった。此の東面土塁下方には帯曲輪(犬走りか?)と其の南端 ・石段参道上部の東側に竪堀が残る。石段参道の西側へも繋がれば堀切であったかも?、愛宕社造成による大改修で遺構消滅も考えられるが、奥丹波を攻めた明智方が横山城配下にあった土豪の砦を陣城として改修したものと
(現地:愛宕神社由来案内板を参考に)


荒河城(荒河置山城)  置山・大木山(3等三角点) 102m 福知山市荒河

由良川に架かる新音無瀬橋を西に渡ると山裾を R176号線が大江町・宮津市方面に向かっています。 R176号線へ合流して直ぐ和久川を渡ると、由良川左岸とJR山陰線に挟まれた丘稜の上部に墓地が見えるが、墓地の奥は既に城域の一部で、 削平地は北の杉林の中に続き武神社からの参道に出ます。参道と並行する西南の谷は竪堀の様な細く深い溝になっているが城遺構かどうかは判りません。
荒河置山城の武神社

南北朝期・延元元年(1336〜)頃には存在していた城のようで、 城主に荒河伊達右衛門が拠ったとされますが詳細不詳…荒河城はJRと北近畿タンゴ鉄道の”荒河かしの木台”駅近くに在るが一つ南手前:和久川を挟んだ”厚中問屋 ”駅が有る。 北近畿タンゴ鉄道・福知山駅の次の駅で、ホームに迫る崖状の急斜面を落とす独立丘陵部を城域とする茶臼山城が在りました。崖上に保育所が建ち・其処から私設公園跡?・車道が山頂部のホテルへと続き、 桜と展望の良い山頂部は開発・造成で遺構は壊滅状態だが市遺跡地図には字名から安尾城とされる山城は、鎌倉期 :塩見政信が幕府より和久庄を賜り、此処に城を築き子の利長が和久氏を称したことから和久城とも呼ばれる城。
 荒河城南郭の帯曲輪!!?から主曲輪

天文年中には村上某が居たが、荒河城の伊達右衛門により安尾城を攻め落としています。 姫髪山城の城主は、此の地の豪族で荒河置山の城主でもあった田村将監春梨とも云われ、後に山吹姓を称したとされています。 荒河城主山吹将監高信は山麓の常照寺(古跡)に居していた荒河伊達右衛門(左ヱ門?)によって殺害され、 其の余勢を以って茶臼山城(安尾城・和久城)の村上氏を攻めたものと云われます!!?。
荒河置山城・武神社参道沿いの大空掘

東山麓の墓地参道下に大師堂か薬師堂?や公民館の在る一角が常照寺廃寺跡で荒河氏の居館跡なのか?。急斜面の車道参道から 集合墓地内最奥に向う。 墓地から先へは鬱蒼とした下草藪に囲まれ踏込むに一瞬躊躇するが直ぐ藪は消え南曲輪に乗る。低土塁囲みの帯曲輪か浅い空掘が南曲輪下段を捲くが、その先の尾根筋に自然地形か 3っばかり段曲輪が続いて見慣れた場所に出る。武神社から時廣稲荷神社への参道で武神社側参道境の竹林 ・畑地に沿って深く大きな空掘が延びる。
荒河置山城:中郭部の切岸と上り土塁

尾根筋は北に向かって尾根幅一杯に広く削平された屋敷跡?か、段差をもつ平坦地形が続く。空掘上の尾根筋から水平道が稲荷社への参道ですが武神社上部間での南郭部分を出曲輪として城主:山吹将監家臣?の荒河氏が 守将として入っていたのでしょうか?。武神社【参考の安尾城(和久城・茶臼山城)にも南麓の厚に武神社が在る】へはR176号線から和久川沿いに西へ出て、上荒河集落内の中程に参道入り口の鳥居・駐車場(4台程)があるので此処から武神社本殿(祭神・祇園牛頭天王=素盞嗚尊 (スサノオノミコト)を経て、 城域内の曲輪 (居住空間か!!)とも思える時広神社(正一位時廣稲荷五社大明神)への簡易舗装の参道を辿ります。
荒河置山城・主郭北の堀切に続く曲輪!!

参道は目前の鳥居を潜って[時広神社]まで30m程の水平道だが、主郭部へは鳥居の手前から曲輪遺構の残る北東へ 緩やかな稜線に沿って進みます。 明確な段差をもった3段の曲輪を越えると傾斜も増し藪も深くなってきます。山腹の西側を捲きながら北へ抜け、斜面の下方を見ると堀切があり小さな曲輪が先に続いているようです。堀切から引き返して主郭北側を東へ移動し始めると竪堀・土橋付堀切・段曲輪等の遺構が確認出来るが藪の中には北面から東面を
荒河置山城主曲輪と北側の帯曲輪

ぐるり取り囲む雑木藪に難渋しながら、 低い段差を越えて置山山頂に出てしまった。城山山頂(点名:置山<古名:大木山>3等三角点102m)です。個人所有地で伐採等禁止と城址である旨の札が立てられていますが城址説明板まではありません。 城には素人の上、山上一帯は雑木藪なので足元の様子さえ判らないので、特異な縄張りの様子(当初は主郭を軸の輪郭式の城とばかり思っていた置山城はV字状)を窺がい知る(見る)ことは出来ませんでした。
(天田郡志 を参照)


奥野部城(岩ヶ端城)と奥野部居館
奥野部城(岩ヶ端城)  旭山 Ca55m  福知山市奥野部

和久川沿いの北側に位置し由良川との合流地点に 上記の荒河置山城が有りますが、その西方を走るJR山陰線と国道9号線を挟んで奥野部城(岩ヶ端城)が対峙しています。 その歴史も城主も不明(福知山市史等には記載・報告がされているのかも知れませんが!!)なので荒河置山城との関連等も不明です。福知山市街地を抜けてR9号線を北に進めば、 新庄で丹波市青垣町へのR429号分岐を左に見送って和久川に架かる橋を渡った北詰め。
奥野部城西郭尾根末端部:屋敷き跡?

左前方に送電線鉄塔を乗せる 小さな丘陵(比高30m程)が目指す奥野部城(岩ヶ端城)です。家具のリサイクルショップやラーメン店の建つR9号線の西側に沿って南北に延びる半独立低丘陵上の頂部 ・尾根筋に連郭式に曲輪を連ね、頂部の鬼子母神の祠が建つ丘陵尾根南端ピークに主郭を置く曲輪群は、 主郭南端から東に深い竪堀をみる。東切岸下の広い帯曲輪は 主郭北端の堀切から竪堀とは別に・横掘状の溝が帯曲輪に延びており主郭上部からも窺える。
奥野部城(岩ヶ端城)南郭部

此の堀切付近は特に北尾根側が 藪だがホンの一部分だけ。堀切西側に送電線鉄塔が建ち、巡視路ではないが踏み跡も有り、 小規模な段曲輪を4〜5段降ると大堀切(幅広いだけに深さを感じない!?)をみる。此の付近から西方に延びる丘陵へも 広い緩斜な尾根だが鞍部は自然地形の大堀切状の先の山道を辿ると 比高25m程で藪っぽい尾根筋に出ると、送電線”岩井連絡線No10”鉄塔の建つ平坦地形。北へ2〜3段の曲輪。 最北部?の小さな曲輪にも鉄塔”新綾部岩井線No15”が建つ。
奥野部城南郭(最上に主曲輪の祠が見える)の切岸:鬼子母神参道から

平坦な削平段だけだが、 荒河城や福知山城、和久城(山腹の保育所や私設公園・・山頂にはホテルが建ち、遺構は壊滅状態だが一部に土塁等が残ると云う?)も望まれる。此の尾根筋は山頂南下にも広い削平段があり、山麓の民家近く ・南末端部の植林帯と畑地の段差は居館・屋敷跡とも思え、奥野部古城とも呼べそうな一角です。この居館・屋敷跡?風情の田畑と民家の間からも奥野部城へ行ける。 此のルートから果樹農園か・畑地を抜けて進む道が大手道 か?。
奥野部城南郭:主郭の切岸:下方にも広い帯曲輪が…

奥野部城南郭部主曲輪に祀られる鬼子母神への参道ともなっている。(前回までは南末端部山裾の側溝を渡る コンクリート橋から、数基の石碑・供養塔裏へと露岩沿いの踏み跡を辿る急登で、直接主曲輪に立った)また参道とは別に 東の鞍部付近の送電線鉄塔が建ち、巡視路を経由しても 良さそうです。後になったが奥野部城の城域は祠の祀られる南郭部、 送電線鉄塔の建つ西郭部を併せて、大堀切?から北方にも数段の小曲輪の上に帯曲輪を廻し、切岸上の北郭主曲輪は東面を除きを三方を1m程の土塁で 囲む遺構が残る。
奥野部城南郭 :主郭から東面への大きく深い竪堀

この辺りは藪の中でも曲輪跡は明確で、土塁線が延びる北側角は下段曲輪からの虎口が開く。 R9号線が走る東下方へ幅狭く緩斜な尾根が降っている。竪土塁状に見えるが途中に曲輪や竪堀を見ず、比高20m程で主郭に到達できるが堀切や切岸を立てる曲輪等は無さそうで防備が手薄?…。R429号(佐治街道)から推定すれば 由良川河口に近い和久川の位置からは東玄関口を守備する城砦の為、R9号線沿い北側の山裾付近に居館・屋敷群が在れば 登城ルートの土塁道とすれば守備の問題はありそうだが北面に虎口!!?も在り一応納得!?、
奥野部城南郭:主郭北の堀切は竪堀・東下の帯曲輪の横掘に繋がる!!?

R9号線家具ショップから和久川沿い西に約100m程・南末端部山裾の側溝を渡るコンクリート橋から、 数基の石碑・供養塔裏へと露岩沿いの踏み跡を辿る急登で西・南側は断崖状になってるが、山裾の側溝を渡るコンクリート橋の先には 露岩を背にして数基の石碑・供養塔が建っています。その左端から背後のザラついた露岩混じりのリッジ沿いには、藪の薄い部分があって人一人通過出来そうな隙間!!があるので攀じ登っていきます。
奥野部城南郭:北郭を分ける大堀切!!??

ミツバチの巣箱が何個か置かれている様ですが、 あの岩場沿いに箱を抱えて登ってきたとは思えず何処かに道が有るのかも!!知れない。無理に登ってきた南面の特に東よりは 岩混じりの断崖で地名の通り「岩ヶ鼻(岩ヶ端)」で台地に祀られているのは、稲荷社でも愛宕社や秋葉権現でも無く珍しく??鬼子母神でした。此処へは広い参道があり参道の祠下には小さな石碑に「旭山鬼子母神」と彫られています。
奥野部城北郭の帯曲輪と土塁囲みの主曲輪

ただ西方から通じる参道入口は一面広がる田圃の畦を抜けるか、 鹿避けネット添いに有るかないか判らない丘陵裾の溝?と田圃境を通る事になるのかな?。【曲輪群が続く尾根途中の2ヶ所の堀切は峠道になっていて、一つは送電線巡視路として"火の用心No10,No11"の標識が立っているが丘陵西側の奥野部集落・白壁石積塀のある民家の北から鉄塔へ向う道は途中猪除けフエンスを潜る旭山鬼子母神への参道でした。
奥野部城北郭:主曲輪北角の土塁線コーナの虎口と下段が虎口受け曲輪!!?

畑地の奥からは目前の鉄塔へ直進せず、 右斜上する道が祠のある南郭部に登り詰めます】少し平坦な棚へ出ると右手に急斜面を真直ぐに駆け下る竪堀を見て鬼子母神の祠のある広い平坦地に出た。標高約40mに有って奥野部城(岩ヶ端城)の南郭部に辺り、30mX40m程の平坦地で、 祠の正面(南側)下に二段程曲輪があり、其の曲輪側を真直ぐに一本の竪堀が走る。樹木が無ければ南面に遮るものがないので展望は良いが藪がひどいので、 削平地は判るが周囲の遺構状態を確認出来ません。今は荒れ放題みたいですが一帯は公園化されていたのでしょうか?。
奥野部城北郭:土塁囲みの主曲輪

西面からの参道途中にある、広い平坦地(曲輪跡!!)には円形の木製ベンチが置かれている。展望が効いたであろう祠の有る南郭部の主曲輪は東端部に、僅かばかりの高まりが有って櫓台の土壇跡らしい。福知山市街地からR9号の山陰街道を眼下にし、丹波市青垣町へ R429号の和久川沿いに通じる丹後道が合流する奥野部城 (岩ヶ端城)は要衝の地点を監視出来る重要な位置を占めています。
奥野部城北郭:土塁囲みの主曲輪

城の西方約500mには奥野部段城があり、和久川を遡った丹波市境界には 烏帽子山城(小牧城)があり、丹波三郡を支配した黒井城赤井氏方の支城・烏帽子山城の前衛として、 天田郡側からの入口を固めた城砦群の一つとして 「丹波志」に云う芦田氏が拠って守備・監視に就いた城だったのでしょう。北の尾根に向っては 雑木藪の先で深い(5〜6m)の堀切になっており一段下の腰曲輪から鉄塔側へ降りて藪を分けて尾根筋に登り直します。此の堀切からは南郭東側下部の横掘(空堀)を経て南側の二段曲輪へ廻り竪堀へと繋がっています。
奥野部城北郭:土塁が開く虎口

横堀(幅1.5m・深さ1m程だろうか?)は南郭上部からも確認出来るが、 曲輪末端部の藪で写真は撮れなかった。南郭部と北郭部を繋ぐ尾根を遮断する堀切からは、最高所の旭山(Ca50m)にある北郭の土塁曲輪 (主郭15mX30m程)へ続く尾根筋には、段差を持った小さな曲輪群が二箇所ばかりの堀切を設けて鞍部に向って雛壇状に並んでいます。
奥野部城西郭:主曲輪南の曲輪段!!

北郭部の曲輪東面を除く三方を囲む土塁(上部幅と高さ共に約1m)遺構は良く残っており、北端部の土塁の切れ目から一段北下の曲輪に降りるが、尾根筋は東端に移り下方に延びるようで、此処は虎口受け曲輪・土塁の切れ目が虎口。下降は北の尾根筋をとらず北郭主曲輪の急斜な東面を降ったが、 更に東下方の藪中にも数箇所の削平段を見る。
奥野部城西郭:東斜面下から主曲輪付近


曲輪・竪堀等遺構の潜在を充分感じながら、急斜面を雑木藪から竹薮へ降りR9号線脇のコンクリート壁の上に出た。和久川沿いの城郭には奥野部城の様な尾根続きの一城別郭・支尾根や枝尾根上の遺構を残す 山崎城や、谷を挟んだ向かいの尾根にも遺構を残す今安城等、広範囲な城郭遺構が和久川沿いに見る。 城域を改修・拡張しながら長期にわたり使用されてきた城ではないか!!?と思え、これ等の城は再調査されれば・新たな発見が期待出来るのかも知れませんね。



奥野部段城(奥野部居館) xxxm 福知山市奥野部

小丘陵上に南郭と 北郭を置く奥野部城(岩ヶ端城)は其の尾根西北側の谷筋と、谷を挟んだ向かいの山上にも土塁や井戸跡も遺るといい、 一帯が往時の居住空間ではなかったかと推察されています。居館といえば奥野部城の西方500m地点・奥野部集落の公民館北背後に見える比高20m程の小丘稜の南突端部には奥野部居館(奥野部段城)がありました。
奥野部段城・左端に姫髪山(丹波大文字)

奥野部城と同様に其の歴史も 城主も不明 「丹波志」に芦田氏来住と云う以外記録伝承の類もないが、新庄城を訪城したついでに探して寄ってみた。 奥野部居館の位置は新庄城と奥野部城(岩ヶ端城)の中央付近に在るが、どちらかの城との関連が有るかも判らない。「丹波志」に云う芦田氏なら南北朝期・丹波南朝方として奥野部城(岩ヶ端城)を砦として利用したものか?。
奥野部段城へ北からの登城口は堀切道

中世には黒井(丹波市春日町)城主 :赤井氏が三郡を領しており、其の傘下にいた芦田氏が三郡の一つ天田郡 (福知山市)に代官として入っていたものか?。 奥野部谷川沿いに集落へ向う北へ入る車道が、新庄からの地区道と合流すると 位置に「御路神社(天一御土路大明神)」が在る。合流地点の奥野部川?に架かる”五郎の木橋”…何か伝承が有りそうですが、 其のまま奥野部地区の公民館に進む。
池跡のグラウンド上に延び出す段城南郭部

低丘陵上の居館は公民館北の丘陵西裾に有る村中池を濠として利用したものか!!【此の池は埋立てられ空地・グランドゴルフ等、地区の運動場になっている様子!!】。田圃や宅地に周囲を囲まれた 僅か比高15m足らずの城館遺構は改変著しいと思えるうえに、小さな居館を護る為の、 往時の沼田堀や池を水濠とした遺構状況さえも、 埋め立て等により失われつゝある。
低土塁(手前)から上り土塁道と下段曲輪・元は池だった白っぽいグラウンド

充分な調査がされたか不明だが藪に埋もれて目視で認識できるのがやっとの堀切・極小規模の曲輪!のあった番守寺城も以前から土取りが進んでいたが、 河川改修の需要で一気に山頂遺構部が削崩されて消えた。此の段城がどうなるのかは知らないが、地元民の意識の中にだけでも、天一xxx神社や”五郎の木橋”の伝承とともに 残してもらいたいものです。
奥野部段城:民家裏手に延びる南郭部

民家の上には、 尾根幅一杯に東西20m程・南北には約80mの城域に3〜4段の曲輪を持ち、北端には堀切(北側の車道から逸れて民家の物置小屋側からは左右に1〜2mの段差があって溝状の、背の高い下草で隠されながらも上部へと空掘道が延びるが、 そのまま平坦な丘陵部の横を巻くように東南の集落側へ降りていく。極小の丘陵部全体を占める居館の中央部付近に防備というより区画の為か低土塁(50cm程)らしい遺構が有って南下に2段の曲輪を見る。


新庄城   城山 47m  福知山市新庄

奥野部城(岩ヶ端城)の西南方約1km程・奥野部居館から 南西方約600m地点に位置して新庄城とは尾根通しに繋がる南400m程の位置に在る半田城とは規模の大小こそ違え、河川段丘の和久川に面した 急斜な崖を濠と切岸にした天然の要害・良く似た地形と立地条件にあるようです。
和久川沿い粟島神社の建つ新庄城

由良川支流の和久川に架かる新庄橋を渡ると左岸(西側北)に粟島大明神の扁額を掲げる石鳥居が有り、急な石段を登りつめると新庄城の東末端部の曲輪跡:粟島神社の境内に着く。新庄城と半田城の前に其の中間地点には 旧市史に半田城として略図に記載されている宮前橋を渡って阿光照神社に行ったが、
新庄城・半田城中間地点:阿光照神社背後の藪中に見る曲輪切岸?

此の付近も立地条件・付近の地形までも、半田城略図によく似た状況で 、田畑跡らしい藪中に堀切状・低いが(約2.5m程 ?)美しい!!切岸を見せる曲輪もある。範囲内と思える中程には和久川縁から堀底道状の通路、 曲輪を分ける空掘状が広い平坦地(此れも畑地・果樹園跡?)に繋がり、
新庄城・半田城中間地点:阿光照神社背後の藪中に見る曲輪・空掘?道

西端は工場敷地間の4m程の段差で行き止るが排水用だけではない空掘状溝がある。 弥生時代〜中世の掘立柱跡等が 検出されている地帯。市史と市の遺跡情報地図で 城名や位置が異なる城跡がいくつか有るようです。 堀越城の様に遺跡情報地図等で的所に更新されているものも有るようですが!!?。
新庄城:東郭・西郭を分ける大堀切は切岸高く傾斜も急

両城と共に200m程の距離なので関連の屋敷 ・居館跡で在っても不思議は 無い。神社背後から西へと延びる尾根続きには、東郭と西郭を分ける大堀切は切岸高く・深い堀切への傾斜は急で、西郭の西端にも深さ約5m程の大空掘が横たわる。中世城郭の新庄城遺構が顕著にあらわれてきます。帯曲輪や切岸を藪や下草が繁茂し覆い隠しているが幅広い櫓台土塁付きの主曲輪 ・大堀切で遮断されるが、
粟島神社(東郭)


西方への尾根にも同様の櫓台土塁を持つ西曲輪と大堀切(空掘!?)、 堀切外側にも土塁・曲輪跡の平坦地形が拡がるが、密生する雑木藪に枯れて倒れる竹藪内では侵入も地形確認も覚束ない。 京都丹波には丹南市八木町の新庄城が知られますが此の新庄城は城主・城史が不明なうえに、知名度も低くWeb検索でもヒットしないマイナーな城で、訪れる人も稀の様です。
新庄城:東郭を囲む大土塁


しかし城域(東西約140m・南北約70m)の中央部には東曲輪群と西曲輪群を二分する大きく深い堀切や、 これまた深さ4〜5mの横掘・空堀に囲まれた西郭部が主郭のようです。此の西郭部の西南側には巨大な土塁状(幅4m程・高さ約3m・長さ約15m)の土壇があって、和久川沿いのR429号(佐治街道・丹後街道を望む見張台か矢倉台の遺構でしょうか!!。 城域が広大なうえに築城が古い時期のものだけに、縄張りに精彩を欠くのは仕方ないにしても、 其れなりに古城の見所は有りそうです。
東郭部主曲輪と櫓台付!?大土塁

和久川の瀬音を足下に聞きながら、下草に覆われ踏み跡もない粟島神社境内の南端に沿って入り込む。右手に2.5m程の切岸を見て斜面を登ると広い曲輪に出て、下草に覆われ足下も見えず 蜘蛛糸の鬱陶しい藪の前進からは開放された。尾根続きの前方に3.5m程の切岸をもつ曲輪があり更に梯郭式に2段程続く曲輪に沿って帯曲輪が延びています。 北面を土塁で囲む曲輪の先には3m程の切岸を見るが、
新庄城:東郭北面下方の腰曲輪

北の土塁から上に登ってみると大きな土塁だった。土塁の上部幅は約4m程、西郭に続く尾根筋には5m程の深い堀切が現れる。大きく深い堀切だが敵の侵攻を防ぐ為というよりは、東西に城域を区分している様で、 堀切を北側に抜けると広い曲輪に出る。主郭切岸下の虎口から2m程の段差で虎口受け曲輪に入り、曲輪の北端の土塁線に沿った 虎口から主郭へと、其々直角に二折れして西郭の主郭に至る構造になっています。東郭末端の粟島神社側は、此の曲輪から南側に出ると帯曲輪で連絡しており武者溜まりの様です?。
東郭の高土塁から堀切

両郭に挟まれていながら隔離された様な空間は、堀切側に築かれた土塁下の木戸門から、 和久川の縁へ討ち出る「馬出し」の様な機能をも備えていたのでしょうか ? 東郭部の北側には二段の腰曲輪が付いています。城域西側の最高位置に主郭部を置く西郭は、中央の堀切部を囲むような形で3ッばかりの曲輪があり、西端の主郭は西面から南面にかけての大きな土壇は、見張り台か矢倉台(櫓台)跡と推察されることは先述しています。
空堀に沿った主郭北側に土塁(同上)線が延びてゆく

城域中央部の堀切を分けて東郭は梯郭式に曲輪を連ね、 西郭部に入る虎口が設けられ、南側に横掘り・主曲輪を取巻く様に南側から西側を廻る深い空堀(福知山市史データによると上辺部で約6m・底辺部で2m・主郭側の深さは約5mの規模をもつ空堀とある)が、更に北側へと廻り込んで其の端を竪堀となって落ち込んでいる等、一城別郭の様相です。 曲輪の周辺を囲む空堀構造の城が兵庫丹波では珍しいが、京都丹波側の城では幾つか見られるようで、
西曲輪と櫓台土塁

福知山市内では三段池公園近くの猪崎城にも スケールの大きな空堀が有ります。
曲輪の周囲を廻る空堀を設ける手法が畿内で出現するのは天文年間末から永禄年間(1550-70)にかけてであり、 この様な縄張りの特徴等からも、堀切より西の曲輪一帯は改修され、主郭を東郭から移されたものと考えられている様ですが、 其の時期等の記録や伝承等はなく城史は不明です。「丹波志」に云う奥野部居館に芦田氏が来住していることから、
新庄城西郭側:高離約5m程の大空掘

荻野(赤井)氏が 豊富谷から夜久野方面へと侵攻を繰り返していた頃から天田郡を 制覇時期とも符合するようですが…?。和久川沿いの城砦群の殆どは、赤井(荻野)氏が天田郡 (福知山市)支配していた永禄8年(1565)以後の事と推察すれば、其の支配下にあって、天田郡側から山越えで兵庫丹波 (丹波市)に侵攻する敵に対する見張りと防衛の前線だったのでしょう?。
西郭大空掘外側にも 土塁と平坦地形が残る様だが・・!?

和久川の北側に位置して、西側尾根筋からの攻撃を意識して空掘り・堀切・土塁・櫓も西側にある事からは、細川側に付いて、北西の夜久野方面から侵攻してくる 但馬山名氏に備えた縄張りとも、天文頃?から天田郡に侵攻を繰り返していた氷上郡(丹波市)の赤井氏の攻撃に対する防衛として強化されてきた縄張りなのかも知れません・・・?。

(福知山市史のデータと市HPに紹介の新庄城縄張り図を参照)


半田城   xxxx Ca55?m  福知山市半田

芦田氏の本拠城吼子尾(くずお)山の小室城(東芦田城) 東山裾を通り、府県境の穴裏峠を越えて福知山市側へ降り、和久川沿いに走るR429号(佐治街道・丹後街道)を、 東に向うとR9号(山陰街道)に合流する。其の南北の低丘陵に城砦群が点在しているようです。R429号線は西方に榎峠を越えると丹波市側には全国足立姓の祖:足立遠政の居城 山垣城があります。
半田橋から半田城(中央の稲荷社から取付)

和久郷一帯は南北朝期の正平17年 (貞治元年・1362)〜康暦2年(1380)頃には仁木頼章の子:兵部大輔義尹が父子で丹波守護職に就いており、荒木城(義尹が謀殺された伝承から丹波市境の荒木山城かと思っていた )が福知山市荒木のもみじヶ丘病院の背山・荒木山城の事と思えてきた。郷土市史等資料確認は出来ていない!が義尹は荒木 ・堀付近に居館が在った様だ。
半田城:東曲輪と三ノ丸間の横掘

和久郷の城砦群は但馬方面からの山名氏方侵攻を警戒する為の仁木氏警護のものであり、中世期においても、永禄期頃には丹波三郡を領した荻野(赤井)氏が居り「丹波志」には 奥野部居館には芦田氏が居住したとあり氷上郡(丹波市)への北方から侵攻口となる天田郡(福知山市)の和久川沿い城砦群は、見張りや警備・守備に当たらせたものでしょう?。 R9号線の新庄交差点からR429号線に入り、約500m程で新庄郵便局前を北へ500m程で 新庄城奥野部居館からもほぼ同距離にある。目的の半田城へはR429号を新庄郵便局前から 約西500m程で右折して和久寺集落方面へ北に入ると事約500m。半田橋を渡り・福本稲荷社を祀る小社への山道参道を辿る
半田城:三ノ丸・ニノ丸を仕切る土塁

【注:古い?市史の半田城跡略図には宮前橋・阿光照神社とあり、現:阿光照神社のある東200m程の位置の居館跡らしい地形や、 縄張りプラン等は新庄城とも極似している様です】比高20m程の低丘陵上に在る半田城は、 新庄城同様に和久川を天然の濠に取り込む丘城で、新庄城からも半田城へは和久川沿いに直線距離で500m。半田橋付近に駐車スペースは見当たらないが、南150m程手前に半田公民館、 宮前橋側には阿光照神社への参詣や祭礼時用なのか?広い駐車スペースが車道脇に有る。
半田城 :主郭切岸から三ノ丸側に突出す土塁(上り土塁!?)

丹波市側からは穴裏峠越えでR429号に出て東走するので、山崎城や今安城を訪ねた後なら天照玉命(あまてるたまのみこと )神社の東から半田地区に入る和久川側の「二本木河川公園に数台の駐車スペースが有る。ただ・この先集落内は極狭い地区道なので、徒歩で半田公民館前に出る。和久川が”コの字状”に大きく蛇行する内側の 台状丘陵上に建つ阿光照神社付近は西北部を除く 三方を川に囲まれ、比高10m足らずだが・その東西を新庄城と半田城が守備する位置にある。 半田橋北詰めから福本稲荷社への山道参道を進むと稲荷社の祠の建つ東末端曲輪から、
半田城(:主郭南側の大堀切

祠裏手へ廻って5〜6m切岸上部の曲輪に上ると、西方への丘陵続きを連郭式に尾根幅南北に約0m・東西約60mを主郭群として 曲輪を連ねており、其主郭の西端を 大堀切で切断している。此処まで:曲輪の切岸・土塁、特に主郭の北へ突き出す幅広の竪土塁・此の竪土塁から二ノ丸下段を 低土塁が空掘状に囲む。高離は無いが(10m程か?)急斜面下方に曲輪等は無く、 空掘状か低土塁曲輪は塹壕か?、「武者隠し 」とも推定されている曲輪が 附随していると郷土史にあるのか此処の事か?。
半田城:西郭域の最西端堀切

主郭の北東端は二ノ丸側に突き出しており、 横矢掛を意識しているように見えるが上り土塁を兼ねたものか?。高く(4〜5m)綺麗なL字状の切岸も珍しい?が…ニノ丸と三ノ丸間には切岸上に曲輪を二分する仕切り土塁がある。三ノ丸と東側曲輪間には深さ2〜3m ・幅1.5〜2m程の横掘があり、北西側斜面へ竪堀となって延びており、横掘南端から三ノ丸へ入る。 いずれの遺構も大きく崩れたり・埋もれず目視で 充分確認出来て残存状況は良好です。夫々に規模の大きな竪土塁・仕切土塁・横掘は周辺に縄張り規模から見ても貴重な遺構と思えます。
半田城(:主郭北から延び出す幅広い竪土塁

ただ大堀切を越えて更に西にも自然地形に近い緩斜な平坦地形が延びて、 鞍部に山道かと思える細い堀切(堀切道)が城域の西端と思われ、此の先には比高10m程の緩やかな尾根の登り斜面が続くだけの様ですが、低丘陵の尾根続きは西へ約5〜600m程には今安城が在ります。和久川沿いの城は半田城も此の地の土豪が拠った城と推察されていますが、 城史については城主や伝承も残っていないと云い詳細は不明です。
半田城 :ニノ丸下段の空掘土塁から主郭下の竪土塁

民家や田畑の迫る古城址は造成 ・開発による改変著しい所が多いが、半田城の遺構残存状態は良い。曲輪跡を外れると、 地が見得ないほどに覆いつくされた下草藪の平坦地形?が、登山や散策・山菜採りの対象地でもなく、城跡と知って訪れる人も殆どいない事。 和久川の北側に位置することで造成・開発計画が無い ?等条件が幸いしているのかも知れません・・?。
(福知山市史のデータを参照)


今安城   点名:半田 4等三角点 102m及び西Ca80mの丘陵   福知山市今安

丹波市から府県境の 穴裏峠を越えて口榎原へ降って来る。いつもは親戚を訪ねて小野脇(小野小町の伝承地)への道を篠尾(さそお)へ、 そのまま走れば福知山市街へ入るR9号線に出ると道を隔てて福知山駅前も近い。・・・が今日は久し振りにブラリと、其の北方の和久郷の城砦探索に出掛けて見た。これ等の諸城は城史・伝承も残らず所在を聞いても 怪訝な顔をされるだけの・・超マイナーな城砦が多い。
天照玉命神社裏手の和久川から今安城 (東曲輪群)と姫髪山

縄張りは少し古い構造が多いが城遺構は比較的良く残されており、兵庫丹波側には少ない土塁や空堀の形状を見ると嬉くなる!!。 口榎原からR429号に出て福知山市街地を抜ける R9号線へ約5km程の行程は、由良川支流の和久川沿いに福知山市の大文字山・姫髪山を望みながら走る。 R429号線北側の集落内に元郷社延喜式内社天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の杜が見える。鳥居前と民家が並ぶ狭い車道が田圃に拡がる 東方へ真直ぐ国道に沿って延びる旧丹後街道。
102m峰主郭?側の東曲輪群南尾根端付近;緩斜面上の曲輪(削平段)

神社の北方を和久川が流れ、今安橋を渡る先方の丘陵山頂(点名:半田102m 4等三角点 比高約70m)から東方・北方の二方へ延びる尾根筋に遺構を遺す今安城がありました。三角点標柱が埋まる山頂は5u程に切り開きが有るだけで 篠竹等の藪がひどくて踏み込めない。北側に2〜3mの段差で続く二つの小曲輪が有るというのですが・・。無論・東尾根の曲輪も未確認ですが、古墳のマウンドを利用した施設と思われます。
同・・東尾根曲輪群の細い土橋付浅い堀切?

地図上の点名:半田が半田城址とばかり思っていたが半田城は東北に約800mの和久川畔にある阿光照神社が其の城域の一部だった。取り付点を東側の田圃と山裾にとって開き難い鹿避けフエンスを開閉し・藪の切れ目!?を縫う様にして斜面を登ると尾根南東末端の物見台と思える平坦地(6u程)に着く。 和久郷を一望出来る位置にあるが雑木で展望は効かない。
東尾根曲輪群:三角点峰西側鞍部曲輪の竪堀状?(今安集落からの山道?)

兵庫丹波の青垣町へ抜ける丹後道と、姫髪山の西方を夜久野町・山陰線上川口駅へ抜ける街道筋の入口監視の城だったのでしょう。此れより尾根伝いの大手道の様ですが、緩斜な尾根筋に何の防備施設もないが直ぐ二段の曲輪を見る。此の二つの曲輪の両端部には土橋付堀切と推定できる浅い窪地があり、 防備というよりは 城域内の曲輪を区別する為の施設の様で、南北朝期頃の使用された古い城の 遺構と思えます。
府道109号線)から今安城(西曲輪群)と小林某の供養塔

その後の応仁の乱(1467-77)には但馬守護山名宗全と宿敵:丹波守護細川勝元が丹波・但馬国境で交戦した夜久野合戦の頃にも機能していたのかも知れないが?。
【西方直近に在る山崎城と共に102m三角点峰から今安集落を挟みこむ様に 東西に延びだす両丘陵上に、一城別郭の曲輪群をもつ今安城は夜久野への街道を押さえ、丹後・丹波街道 (R429号線の和久川沿い)の要衝監視の砦として存在したと思えます。低丘陵ながら眺望が効く山城の三角点峰は、大戦時中は軍の管制下に置かれ立入禁止・近づく事も出来なかった山域の一つですが 室町時代初期の古い城遺構が残る。
東尾根曲輪群:三角点峰直下の曲輪群内の帯曲輪

山崎城から今安城へと東へ直進する田圃が拡がる中の農道中程一画に築壇され大きな石碑が立つ塚がある。 今安城への通りすがりに傍に見かけたが、小さな五輪塔が祀られ、大きな墓碑名には「大勇宗果居士」天文15年(1546)の文字。 ”勇”の文字から勝手に天保の「大塩の乱」等に代表される 義民の墓かと思えたが、年代をもっと調べる必要が有りました。詳細不詳ですが石塔建立は寛政2年(1790)で、天文年間(1532-55)拝師にいた武士 :小林太良太夫を先祖とする供養塔と云う。
東尾根曲輪群:三角点峰西末端部付近の土塁壇 (此れも円墳か?)

三角点峰からの北尾根筋は、集落中央部の谷筋(中程に集合墓地が有り、東西に丘陵部を分ける鞍部は切通し、沼田?溜め池側からは西尾根に続く)を挟んで、西から南へ延び出す 半独立低丘陵上をトレースして、此処にも緩斜な尾根上に曲輪を並べる遺構がある。切岸も無い曲輪(平坦地形)を連ね、埋もれた小さく浅い堀切 ?に素朴な古城の感触を覚えますが・・。東側の尾根も尾根先に古墳と 思える円墳状の切岸は無いが高さ1m程の土塁壇があり、藪の薄くなった緩斜な広い尾根上にも3〜4段の曲輪・帯曲輪状の削平段を見る。 下方の今安集落に降りる山道に利用されているのかも知れないが、広い鞍部曲輪からは自然地形の崩壊とは思えない竪堀状も有る。 さらに傾斜を増してくる102m峰山頂へも 急斜面に段曲輪が2〜3m程の切岸を立てて見える。
西曲輪群:広く緩斜な鞍部の東斜面に天水池跡?らしい窪地が二つ並ぶ

主郭と思われる最高地点(4等三角)周辺3〜4m程が切り開かれているだけで、猛烈な雑木下草藪に覆われて 遺構状況は其の様子を窺いきれない。しかし初めての訪城は此の東曲輪群の下方からで、 此処で見た平坦地・小段曲輪等が、戦時中の軍事や戦後の造林業により改修された削平遺構などでは無いと思えます。取付き点に送電線巡視路が利用出来る。城遺構が残る尾根を避けて西下部を通るので、早めに巡視路を外れて尾根筋に出ると約15X25m程の円状の物見台の平坦地形に着く。短く緩やかな尾根上では此処から少し降って上り返す ・広く緩やかな鞍部が一番高低差はあるが、せいぜい7〜8m程で、堀切が有るとすれば此処!!?だが在っても城域を区分する為のものかも?。
今安城:尾根幅一杯の広い削平段は切岸の無い古城?の曲輪群

東側斜面に径2m程の二つの井戸跡とも思える円形の窪地が有った。 幅広く緩やかな鞍部を北に向う尾根幅(5〜10m)いっぱいに曲輪が並ぶ。先ず曲輪群南端(約10x12m程・西へ降って電線巡視路に出ると、そのまま府道109号に出れば、西北400m程の丘陵先に在る山崎城へもついでに寄れますね)。 僅かの段差で繋がる曲輪ですが、次の細長い(約8x30m程)曲輪の西側に沿って先の曲輪へ帯曲輪となって附属しています。北方に小曲輪(約5x8m程)が三段続いて、相変わらずの緩斜面で尾根端となるが、西の尾根側にも平坦地 (15x18m程)があった。
(福知山市遺跡地図 及び福知山市史を参照)


山崎城  xxx 138m   福知山市拝師大字額塚小字手蔵・山崎

丹波市青垣町から東芦田城の南山裾を走り府県境の穴裏峠を越えて 福知山市榎原へ降りてきてR429号に出てくる。左折して和久川を遡ち国道を西走すると、国道とはいえ榎峠を越えると 落葉でスリップしそうな狭い古い山越えの街道筋を兵庫丹波の中佐治へ降りる。峠の北方には丹波市境界の高嶺に烏帽子山城 (小牧城)がある。
山崎城主郭!?の138m峰:遺跡地図の山崎城は 右手の東尾根先端を示す

丹波三郡を支配した黒井城主赤井氏方の支城で、赤井氏が芦田氏と同族とする説では 赤井忠家(穂壷城主)の子で葦田(赤井)時家が築いた城と云う。天田郡側からの山名氏の侵攻を警戒したものと思え、山崎城は其の前衛の城だったとも思えてきた。此処からは北へ・遠阪峠を越えて和田山方面、南は佐治から氷上を経て篠山への京街道や播磨・山陽道に通じます。 R429号に出て右折すると和久川沿いに福知山市外地。丹後・若狭に通じる街道筋でもある。
東尾根緩斜面となる鞍部付根付近の広い屋敷跡?(約30x35m程)

このR429号線「拝師交差点」から北に向う府道109号線に入ると正面北西には半独立丘陵で最高所138m峰から、一挙に高度を落として東北へ延び出す尾根の東先端部が台状となって、 府道109号に落ち込む丘陵が見えます。室町中期頃迄に廃城となったと思える古城今安城とは僅か600m程の距離で街道筋を挟んで呼応する位置に山崎城(東尾根曲輪群)がありました。 但馬和田山町に向うR9号線にも近くJR山陰線上川口駅にも抜け出ます。此処は和田山町と上川口の中程にあり但馬国境に近い 旧天田郡夜久野町(福知山市)の旧火山灰地・夜久野ヶ原は近い。応仁2年(1468)3月に起こり 戦国時代の幕開けとなった応仁の乱では、北丹波とでも丹波守護:細川勝元と但馬守護:山名持豊 (宗全)の間で合戦となります。
山崎城:堀切から3m程の切岸を上がると主郭 (30x40m程)に入る

細川方の内藤氏や夜久氏・足立氏 ・芦田氏等が丹波側から但馬への侵攻ルートには、遠坂峠と牧川沿いのR9号(山陰道)の他、 和久郷にいた芦田氏等の土豪は和久川から、 此の府道109号を夜久野に入り但馬に向ったのでしょうか?。さらに大将内藤孫四郎貞徳を失って敗走した細川軍の 逃走ルートもこの道ではなかったか・・?今安城と較べても街道筋に先端を落とす丘陵末端部に比高こそ15m程ですが、 迫り出す切岸高く、丁寧に削平された曲輪。堀切や幅広い土壇と其の延長線先は土塁(櫓台か?)。
山崎城:主郭尾根側に幅広の土塁

その土壇下(尾根側 )には近年の改変は有るかも知れないが広い屋敷跡らしい居住空間がある。其処からは勾配を増して138mピークへと急斜面が続くだけの様ですが、途中にも台地と尾根側に土塁・空掘状をみる。 崖状に急峻だが比高20m程の北斜面下方の製材所側に竪堀となって落ちている様です。 山崎城は其の後の細川氏・山名氏の勢力下で、 どのような城史の変遷があったか郷土資料等を調べられず不明:不詳ですが、おそらくは山名氏警戒の守備堅めに在地土豪:塩見氏や、
山崎城:北尾根曲輪群の土橋付き堀切

天田郡・何鹿 (いかるが)郡をも領有して但馬へも侵攻を図った黒井城主:赤井直正の傘下にあった和久郷の領主等が拠り丹波・但馬 ・丹後への要衝監視に就いた城砦だったのでしょう!!?。山崎城の138m峰付近は密生する下草藪や雑木藪で展望も城砦遺構を地形から判断できる程の見通しが効かないが、人為的と思える広大な平坦地形が 山頂主郭?から三方へ延びる尾根上に続く。東へ延びる尾根斜面上に展開される城砦については 尾根先端部の居城?山崎城を先述にレポート済みですが、
山崎城:南尾根曲輪群:土塁・土壇状は手蔵古墳群の一ッか!!?

此の山頂から北方尾根にも 2段程の小曲輪の先に土橋付空掘を越え北郭群の主曲輪に入る。此の北尾根麓には 濠跡かと思える大きな灌漑池が裾を廻り、寺院:如意宝珠院(高野山真言宗)が有る。東尾根先端部城郭と北尾根曲輪群がR9号線(山陰街道 )・JR上川口駅やJR下夜久野駅との中間点付近・猪野々に通じる間道監視 に当っていたものか!?。 また山頂から西南へ延びる尾根先は南麓の武神社を通って和久川に落ち込む。此の尾根も比較的緩斜な尾根上に曲輪の平坦地形を残すが、切岸を落とし、 土塁・堀切・竪堀等で防備する遺構は見当たらない。
山崎城南尾根(武神社と西側尾根の平坦地形)

ただ武神社直ぐ上部付近・西隣の比較的広い緩斜な平坦面に曲輪群が数段残る。7〜10m程幅の小曲輪・高さ1〜2mの土塁・土壇と思えたものも、武神社周辺に確認され完存する手蔵古墳群の円墳の様です。 しかし此の西尾根上の段曲輪は、和久川沿いR429号線に築かれる荒河・奥野部から新庄・今安・山崎・口榎原の諸城と共に、 兵庫丹波に入る佐治街道や、蘆田(芦田)氏の烏帽子山城の麓・小牧を抜けてR9号線・下夜久野へ抜ける間道でもあり、
山崎城:南尾根(武神社西側)末端の段曲輪<下方に和久川を見る>

応仁の乱以後・細川氏に付き内藤氏の下で活躍した夜久氏や、天田郡や何鹿・氷上の三郡を領した黒井城赤井氏にとっても、戦略上の重要な連絡通路、 常に確保しておく為の警護・監視は、R9号・上川口へ抜ける先の府道109号も同様です。遺構の縄張りからは東隣の今安城と同じ・古い時代のものと思えますが、東尾根末端部のものだけは中世後期まで居館として、 また陣城として使用されたものかも知れません!!?。


拝師城   xxxx Caxxxmの丘陵   福知山市拝師

丹波市から府県境の穴裏峠を越えて福知山市榎原へ降りて来る。直進すれば口榎原でR429号線に出るが、榎原で右折し親戚を訪ねるのに、小野脇(小野小町の伝承地 )〜正明寺〜笹尾でR9号線に合流する間道は、山越えの路面が凍る冬場以外は利用することが多い。 この小野脇集落手前で車幅いっぱいの狭い林道?然とした脇道に入る。何処で行き止まりになっても可笑しくない様な車道に不安を感じるが直ぐに拝師集落に降りて来る。
「拝師郷発祥の地」の板標

成和地域公民館(コミュニティセンター )近くの大師堂か薬師堂?前の小公園に「拝師郷発祥の地」の板標を見る。福知山市も旧天田郡内にあって、拝師郷も六人部郷・雀部郷・庵我郷・夜久郷等の天田郡内の郷の一つでした。 明治の町村制度以後に行われてきた市町村への分割・統廃合により、天田郡や何鹿(いかるが)郡内の町村は綾部市・福知山市への 編入等により昭和年代中頃には消滅しています。
山崎城:福聚寺境内が既に段曲輪上に館城の雰囲気を漂わせる

隣接の何鹿郡にも八田・物部・栗村・私部等の城郭探訪で馴染みとなったが、此処にも拝師郷があって一寸混乱した…!!拝師とは珍しい名と思ったのだが、福知山から大江山西麓へと 与謝峠を越えた与謝郡(宮津市)にもあった。拝師の地名は ”はやし”と呼ぶ。領主は土地の名を冠した姓を名乗ることが多い様なので、 この地に拝師氏・林氏!!姓の国人 ・領主がいたのだろうか?。市史や郡志等に拝師城の名を見かけない!!。
寺駐車場向かいの丘陵末端部の土塁曲輪

そう云えば耕地が拡がる西方ではなく拝師城を望む真南に向けて立てられており ”はやし”姓を持つ拝師 (はやし)城に関係のある人物だったのかも知れません。戦国時代のただ中にあって・鉄砲が伝来した時期とはいえ、未だ槍・弓矢が主体では有利な山城に籠もっての戦闘背景を推察しながら、近郷の諸城の遺構を重ね合わせて 探訪してみるのもいいですね。福知山市遺跡情報地図にも、拝師城は丘陵上に郭・空掘は確認されているが、城主や城史について不詳 ・郷土史等資料は未調査で不明です。拝師(はやし)城は拝師地区の福聚寺境内を含み、成和コミュニティセンターのグラウンド南側の丘陵尾根上に在りました。
山崎城 :祠背後の尾根を掘切で遮断する

拝師集落から福聚寺へ向う北側は 幾段もの段曲輪を重ねて其の上部に石垣塀を廻し、 西面は田畑上部の急斜面に切岸を立てた上に山門から続く塀が廻り、寺院境内全体が館城の趣を感じます。 駐車場への進入道を挟んだグラウンド南背後に延び出してきた 丘陵末端部は広い竹林(25x60m程)となっており、車道に面して土塁の残欠がある。
高い切岸下に広がる屋敷群跡?の平坦地

此処より然程急でもない傾斜の尾根上に向って曲輪が続く。緩やかな広い丘陵上の主曲輪に建つ祠が一つ見えてくる。 秋葉社か・愛宕社を祀る祠と思われますが、内裏は空っぽ!!。尾根の続く山側を遮断するにはポッカリ…掘り切られた感じの空掘りが横たわる。
緩やかな尾根が更に延びていくが城域は此処までの様です。 拝師郷を監視する土豪の城!でしょう。


天照玉命神社     福知山市今安961
 (末社)武神社  福知山市拝師大字額塚
 
天照玉命(あまてるたまのみこと )神社は元郷社延喜式内社・天田四座の一つ。祭神は丹波国造りの先祖:天火明命で別名を天照國照彦火明天櫛玉饒速日命といい、 第12代景行天皇の子で4世紀中期、第13代成務天皇(稚足彦尊)の時・丹波国造に任ぜられた大倉伎命が在任中に、祖神の天火明命を祀ったのが創始とされます。祭礼は10月10日で社殿境内は徳川時代神祇崇敬の念深かった 福知山藩主により社殿造営社領寄進絶えず、祈雨五穀豊穣病気平癒等の祈願所となっています。慶安2年 (1649)三河(愛知県)の刈谷城から丹波福知山藩主として4万5000石で転封となった松平主殿頭(とのものかみ)忠房も、 承応2年(1653)崇敬していた当社に対し荘厳な本殿・拝殿を修造しています。
天照玉命神社(今安)

忠房が牛頭天王神社として 勧請した天照玉命神社の末社武神社 (拝師小字鞍ノ段・明治政府による神仏習合・分離令の廃仏毀釈運動が起こり武神社と社名改変)は、31歳で入封し20年間を過した福知山藩の忠房は余り知られていない様で、其の業績も三段池公園の灌漑用貯水池工事しか知らないが、 寛文9年(1669)2万石を加増され島原城へ国替以後は良く知られている様です。忠房が福知山市より移封されたことが縁で、 島原市とは姉妹都市提携が結ばれています。忠房時代の「福知山城下絵図」が長崎市・本光寺に有り、福知山市教育委員会の発掘調査結果からも此の絵図の信憑性が証明された事が昨年(2006)の地方紙 :両丹日日新聞等で報じられてもいましたが・・。
武神社(拝師)

此処より約2 0km・大江山麓の元伊勢神宮があり、元伊勢・天照皇大神に関る伝承の多い地方なので、祭神が天照皇大神や豊受大神に変更されず天火明命の祖神名が守られてきた事も、此の地域にとって誇れる要因なのかもしれません。 現在の社殿は大正9年(1920)に再建されたもの。本殿西の校倉造りの宝庫は享保14年(1729)に再建された近在では唯一のもので、高度な文化財的価値があるとされます。本殿西側には他に八神社・東側には九神社の小宮が祀られています。 社格制度の制定により明治5年(1872)郡内(天田郡・現在の福知山市)首位として、郷社に列せられ近郷十三地区民の総氏神として崇敬されています。

(現地 天照玉命神社の案内板を 参照)
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